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【小説・ヴィーナス症候群】[657]ゆっくりと

    北川イサミ

    ゆっくりと幕が上がった。

    新宿の地下ライブハウス「魅せ物小屋」。古い劇場を無理やり改装したような空間で、客席とステージの距離はやけに近い。ネオンの看板が背後で光り、天井の低い照明がステージを照らしている。

    両足を失った事故のあと、週刊誌の記事になり、世間の同情を誘った川口西高の女子高生――定平史那。(第287話)

    だが彼女が選んだ就職先は、世間が想像するような「感動の進路」ではなかった。

    地下アイドル。

    史那はもともと、川口西高サッカー部のチアガールだった。全国大会に出場したとき、応援席でひときわ目立つ姿がネットで話題になり、いつの間にか「かかし美少女」と呼ばれるようになった。支柱でまっすぐ立つ姿が、遠くから見るとかかしのように見える――そんな理由だったらしい。(第535話)

    その顔は、事故のあとも多くの人が覚えていた。

    そしてある日、その噂を聞きつけた人物がいた。
    このライブハウス「魅せ物小屋」の支配人だった。
    「君、地下アイドルやってみない?」

    史那は少し考えて、すぐに答えた。
    「いいですよ」

    それだけで決まった。

    ステージ袖から声が響く。
    「次は新人!埼玉人魚ちゃん!」

    歓声が飛び交う。
    スポットライトの中へ、車椅子がゆっくりと出ていく。
    青い鱗模様の尾びれの衣装。

    埼玉人魚。

    それが史那の芸名だった。

    マイクを握る。
    「こんばんはー!」

    客席から拍手。
    バンドのイントロが流れる。

    史那は、適当に覚えたアイドルソングを歌い始めた。
    声はまだ荒い。
    振付も少ない。
    尾びれのせいで動きもほとんどない。

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    それでも、会場の空気は悪くない。
    曲が終わると拍手が起きた。

    派手ではないが、確かな拍手だった。
    まあまあのデビューだったと言っていい。

    史那はマイクを持ったまま、客席を見渡した。
    地下アイドルとして売れるかどうかは、正直わからない。

    でも、もし売れなかったら――
    また別の何かを考えればいい。

    事故のあと、史那はそれを覚えた。
    人生は一つの道だけではない。
    いくらでも横道はある。
    だから焦る必要はない。

    ゆっくりとやっていこう。

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    #シロクマ文芸部

     
     
     
    小説を書いたり、よしなし事を書いたり。

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