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【小説・ヴィーナス症候群】(293)宮沢賢治を偲ぶ旅

    東北新幹線「やまびこ」は盛岡に向けて北上していた。
    窓の外を流れる夏の雲を見上げながら、檜皮谷奈緒は胸の奥に小さな高鳴りを感じていた。

    「次は、新花巻、新花巻でございます」――車内アナウンスが響く。

    赤坂のドレスブランド・Feliceで衣料展示支援補助者、いわゆる「トルソーさん」として働く奈緒はこの週末、高校時代の友人とともに宮沢賢治の足跡を巡る旅を計画していた。

    奈緒は徳島の生まれだ。だが中学時代、「奇形児の美少女がいる」という噂が広まり、別のクラスどころか隣の中学校からまで興味本位の見物者が押し寄せた。ヤンキーに「俺の女になれ」と言われることもあった。
    静かに本を読んでいたい奈緒にとって、それは苦痛以外の何物でもなかった。
    やがて不登校となり、進学の時期には両親の勧めもあって、東京の親戚が営むアパートから通信制高校・ユリイカ学園に通うことになった。

    そのスクーリングで、奈緒は図書室にいた一人の少女と出会う。車椅子の津久田静香。
    彼女は成績優秀で、都立の上位校に進む力も十分にあったが、志望した学校は「バリアフリー設備はありません。作る気もありません」と、官僚的な言葉で突き放した。
    静香はその壁を受け止め、通信制高校へ。
    やがてMARCHの文学部に進学し、今は都内の公立図書館で司書をしている。

    「最初はやっぱり賢治記念館だよね」――旅の計画を立てながら、静香が言った言葉を奈緒は思い出す。

    新花巻に到着すると、二人はレンタカーを借りた。運転は静香が引き受けてくれた。今では車椅子対応の福祉車両も揃っており、彼女にとって特別なことではない。

    高台に建つ記念館に入ると、詩稿や手帳が静かに展示されていた。奈緒は「雨ニモマケズ」の手帳に目を凝らす。震えるような筆跡。
    「……本当に、手で書いてあったんだね」
    静香は眼鏡越しに読み、ノートにメモをとる癖が抜けない。
    「“雨にも負けず 風にも負けず”って、あまりに有名だけど、原稿の小ささに驚くよね」
    二人は展示室を歩きながら、学生時代のように自然に文学談義を始めていた。

    次に向かったのは童話村。ファンタジックな建物が点在し、子どもたちの歓声が響いている。
    「『注文の多い料理店』の世界だね」奈緒が笑う。
    「でも、あの話って、結構怖いよね。人間が食べられちゃう寸前で」
    「賢治って、童話でも残酷さを隠さないよね。だから今でも通じるんだと思う」
    静香が車椅子を進めるたびに、童話のオブジェが現れる。二人の姿は、まるで物語の登場人物のようだった。

    昼下がり、二人は胡四王山の丘に立った。市街地が一望でき、風が頬を撫でていく。
    「ここでよく詩を書いてたんだよね」静香が空を見上げる。
    奈緒は小さくつぶやいた。
    「あめゆじゅ とてちて……けんじゃ」
    「……何言ってるかわかんないよね」
    「雨雪 取ってきて くれ… だっけ」
    「確か。でも、短命の家系で、妹も早く亡くなったからこそ出てきた言葉だと思う。賢治自身も三十八歳で亡くなったし」
    奈緒はしばらく黙ってから頷いた。文学少女同士の会話は、淡い風と共に流れていった。

    北上川の河原に下りると、露出した岩肌が夕日に照らされていた。
    「ここを“イギリス海岸”って名付けたんだよね。普通なら“河原”で終わるのに」
    「言葉の力で風景を変えてしまう。それが詩人だね」
    二人は岩場に腰を寄せ、川の流れを見つめる。
    「銀河鉄道の夜のイメージって、きっとこの辺りの夜空から生まれたんだろうな」
    静香の言葉に、奈緒は川面に映る空を見つめていた。

    夕暮れ、二人は花巻駅近くの材木町公園にやってきた。保存車両が静かにたたずんでいる。
    奈緒が目を輝かせて言った。
    「私、『シグナルとシグナレス』が一番好きなんだよね」
    「言ってたね」
    「だって、電車の信号と信号が恋するなんて、普通思いつかないよね? すごい想像力」
    「来れてよかったじゃん。賢治記念館もイギリス海岸も行かなくても、ここだけは絶対に行きたいって言ってたもんね」

    静香がスマホを取り出し、笑って聞いた。
    「写真撮る?」

    奈緒は義手を外し始める。
    「あ、義手外すんだ」
    「静香ちゃんだって、お家では眼鏡で過ごしてても、外ではコンタクトでしょ?」
    「あ、そういう感覚ね」

    「行くよ――はい、チーズ」
    保存車両と、文学少女の笑顔が、夕空の下に収められた。

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    #檜皮谷奈緒

     
     
     
    小説を書いたり、よしなし事を書いたり。

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