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『孤毒な人たち』 【創作大賞2026】

    あらすじ

    45歳の警備員・田中は、孤独な人生を変えるため「人を救う使命」を掲げるコミュニティに心酔し、高額な学費を注ぎ込む。家族を顧みず、妻に逃げられ息子・洋太に包丁を向けられてもなお、その悲劇を「通過儀礼」として美談化する田中の姿は、独善的な「善」がどれほど人を壊すかを浮き彫りにします。 かつての同級生で公認心理師の坂本は、彼の変貌を止めようと試みますが、熱狂の渦にいる彼には届きません。一方、父への復讐を誓う洋太もまた、SNSという底なしの承認欲求の渦に飲み込まれ、ネットの冷笑に晒されて自らを追い詰めていきます。 救いを求めたはずの「つながり」が、家族を崩壊させ、取り返しのつかない悲劇へと加速していく物語です。そこに悪意はなく、ただ純粋な「善」への渇望が狂気へと変貌していく様を描き出します。


    第1章 見つけた使命

    「そいつの周りの人間を見れば、そいつがどんな人間かが分かる。」
    俺は教師という人種の話を基本的に信じていない。
    だが、かつて教師が不良に吐き捨てた「クズの周りにはクズしか集まらない」という言葉だけは、心の中にスッと入ってきたのを覚えている。

    しかし、当時の俺には、自分がどんな人間かを測る物差しになる人間が誰も周りにいなかった。 自分が一体どんな人間なのか、ずっと分からないままだった。

    そんな俺にも、使命がある。

    そのことに気づいたのは、去年の秋だった。

    深夜のオフィスビル、防災センター室の椅子に浅く座り、眠い目をこすりながらスマホを見る。
    見知らぬアカウントからDMが届いていた。
    『田中さんの投稿、ずっと読んでいました。あなたのような経験をされた方に、ぜひお話ししたいことがあります。』
    俺は誰に向けたわけでもなく、自分の心の奥底にある叫びをSNSに投稿していたが、まさか誰かが読んでくれるとは、と驚いた。

    この45年間、透明人間のように生きてきた。
    職場では挨拶しても返ってこない。
    やりがいもない。
    お金のためにただ自分の寿命を削っている。
    家に帰っても妻や子からもいないものとされる。息子は不登校。妻は最近俺の洗濯物だけ洗ってくれなくなった。

    学生時代、同級生とうまく馴染めなかった。
    周りのいい加減な言動によく腹を立てて、それを注意すると煙たがられた。
    どんなクラスになってもそういう奴らがいたし、俺は正しさを武器にして、みんなのために戦ったつもりだが、いつの間にか、俺がいつも周囲から浮いていた。
    周りからすると何気ない”いじり”のつもりだったかもしれないが多感な時期の俺の心をズタズタに引き裂いた。
    そんな経験もあって交友関係は狭く、卑屈で、何の取り柄もない人間が出来上がった。
    あの頃、学校の廊下の隅に追いやられていた俺に、声をかけてくれた人間が一人だけいた。
    坂本だ。でも坂本は今、どこで何をしているのか知らないし、こんな卑屈な人間に会いたいときっと思わないだろう。

    でも今は違う。

    DMの送り主、桐島幸一は翌日すぐに返信をくれた。『心の痛みを抱えた人たちと、共に歩むカウンセラーを育てるコミュニティです。田中さんの経験は、きっと誰かを救える。』

    救える。

    その一言が、胸の奥で何かを溶かした。

    最初の無料セミナーは、都内のレンタルスペースで開かれた。三十人ほどの参加者。壇上に立った桐島さんは、スーツでも着物でもなく、白いシャツにジーンズ姿。飾らない人だ、と思った。

    「人を救いたいと心から思ったことはありますか」

    桐島さんの目が、俺を見た。30人の中から、俺だけを見ていた。そんなわけがないと頭ではわかっていた。でも確かに、そう感じた。

    帰り道、電車の窓に自分の顔が映った。笑っていた。心臓が躍っている。周りに笑みを悟られないよう、パーカーのフードを深く被った。

    2ヶ月後、コミュニティの「認定サポーター」になっていた。入会料に30万円、月額3万円のプレミアムプランに入り、週1回のZoom勉強会や対面でのミーティングに参加しながら、追加で月1万円の個別のレッスンを受け、SNSでその学びを発信する。

    値段は高額で躊躇したが、桐島先生に「必ず結果が出るよ」と言われていたし、活動を積み重ねていくうちにフォロワーは少しずつ増えた。

    自分の投稿に対してコメントも少しずつ来るようになった。「田中さんの言葉に救われました」「また読みに来ます」

    同世代の仲間にも恵まれた。SNSの投稿に対して励ましのコメントを送り合う。自分がずっと求めていた切磋琢磨できる仲間だ。

    スマホの通知音が鳴るたび、その言葉1つ1つに胸が温かくなった。

    妻の陽子は最初、黙って見ていた。でもセミナーに通い始めて5ヶ月が過ぎた頃、食卓で口を開いた。
    「セミナーの詳細が書かれた用紙を見たんだけど、あの大金どうやって用意したの?通い続けたらすごい金額になるんじゃない?通信制の大学の学費にしたら国家資格取れるんじゃないの?」全部正論だった。

    「お金は独身の時に貯めていたお金だよ。こんな俺にも、こんな俺だからこそ、救える人たちを見つけたんだ。」

    「でもそんなお金、毎月かかるのはおかしくない?」

    「うるさい!!何も分からないお前は黙ってろよ!」
    初めて妻に声を荒げた。

    子ども部屋から固いものが壁にぶつかる音が響く。息子は俺に似て、学校に馴染めず、もうここ何年も学校に行っていない。らしい。

    家族には絶対に言えないが独身時代の貯金なんてものはない。息子の大学の学費のために長年貯めていたお金に手をつけていた。でもこのコミュニティにいれば、絶対成長して、元がとれるはず。そう俺の本能が言っている。

    シンとしたリビングで皿を洗う音だけが寂しく響く。


    陽子はそれ以来、何も言わなくなった。

    職場では相変わらず、誰も俺の名前を呼ばなかったし、必要としてくれる人もいなかった。でも、それはどうでも良くなった。ここは本当の俺の場所じゃない。SNSの中に、俺を必要としている人たちがいる。

    ある夜、一人のフォロワーからDMが届いた。アカウント名は「yuki_2207」、アイコンは初期設定のままだ。
    プロフィールには高校2年生とだけ書いてある。

    『学校に行けない自分が嫌いで、この世から消えたい、と思うことがあります。田中さんなら、わかってくれると思って連絡しました。』


    息子と同い年くらいだろうか、俺は深呼吸した。桐島先生から教わった通りにやればいい。共感する、否定しない、寄り添う。習ってきたことを頭の中で繰り返す。
    息子にしてやれなかったこと、後悔と、その子のことを一心に思って言葉を紡いだ。

    『あなたの気持ち、しっかりと受け取りました。消えたいと思うほど、苦しかったんですね』と。既読の文字にドキッとする。
    返信はすぐに来た。『そうなんです、わかってくれる人に初めて出会えた』

    よし、と思った。俺はできる。俺にしかできない使命がある。

    第2章 つなぐ人


    坂本麻衣は、その夜も残業だった。 築10年のワンルーム、折りたたみのテーブルにノートパソコンを広げ、ケースレポートの続きを打つ。 大学卒業後、働きながら大学院に入り直し、公認心理師の資格をとるまでに6年かかった。
    合格した時には誰にも連絡せず一人で缶ビールを飲んだ。
    泣いたのか笑ったのか、自分でもよく覚えていない。

    今の仕事は地味だ。

    来談者の話を聞いて、整理して、必要なら医療機関につなぐ。自分が誰かを「救った」と感じることは、ほとんどない。
    むしろ毎日、自分の限界と向き合っている。
    華やかな言葉は何一つ生まれないし、SNSで発信できるような気づきもない。ただ目の前の人と、丁寧に、地道に向き合うだけだ。

    画面を閉じてスマホを手に取ると、Facebookの通知が来ていた。

    友達申請。田中浩二。

    思わず声が出た。

    中学の卒業アルバムを押し入れから引っ張り出すまでもなく、顔が浮かんだ。
    廊下の隅、体を小さくして俯いていた田中。あの日声をかけたのは、深い理由なんてなかった。
    ただ放っておけなかった。それだけだ。
    でも田中は今にも泣きそうな顔で、絞り出すように「ありがとう」と言った。
    あの声は、三十年近く経った今も忘れられない。

    プロフィールを開くと、見慣れない言葉が並んでいた。

    心理カウンセラー。人を救う使命。生きづらさを抱えるあなたへ。桐島幸一公認パートナー。

    坂本は少し首を傾けた。

    国家資格の記載はない。所属機関もない。
    でも投稿には百を超えるいいねがついていて、コメント欄には「救われました」「また読みます」という言葉が並んでいた。

    申請を承認して、短いメッセージを送った。

    「田中くん、久しぶり。元気にしてる?投稿見てたよ。少し心配で連絡してみました」

    送信してから、余計なことを言ったかもしれないと思った。でも送信は取り消さなかった。

    翌日、返信が来た。

    「坂本さん、お久しぶりです。心配って、何が?俺は今、本当にやりたいことが見つかって充実してるよ」

    坂本は少し考えてから、丁寧に言葉を選んで打った。

    「充実してるんだね、よかった。
    ただ、Facebookに載せているURLを開いたら、かなり高額な講座料が画面に並んでたから少し、心配になったんだ。知人にもそういった自己啓発系のコミュニティ?に参加して、騙されちゃった人がいたからさ、田中くんは大丈夫かなーって」

    既読がついた。

    返信は来なかった。

    一週間待っても、来なかった。

    坂本はスマホを置いて、冷めたお茶を飲んだ。余計なことを言ったのかもしれない。でも黙って見てることができなかった。

    引き出しの奥に、古い写真がある。中学の卒業式、クラス全員で撮ったやつだ。端の方に、田中が映っている。俯いて、笑っていない。

    その隣に、笑っている坂本が映っている。

    あの頃の自分には、田中がどれほど孤独だったか、本当のところはわかっていなかったと思う。


    第3章 恩師を支える


    活動を始めて一年近く経ったある日、桐島先生からリストを渡された。10名。知らない名前ばかりだった。

    桐島先生との個別レッスンの際に、「こちらのリストは最近入会したメンバーです」と桐島先生は言った。
    「新人カウンセラーには、まず安心できる環境で練習させたい。カウンセリングに失敗は許されない。こちらで架空のクライエントを用意し、相談に乗ってもらう。その中で、彼らは学び、自信をつけさせたいと思っています。」

    「本人たちには伝えないんですか」と俺は聞いた。

    「言わない方がいい」と先生はすぐに答えた。「練習だとわかったら、緊張感がなくなってしまう。あくまで困っている人がそこにいて、その悩みに真剣に向き合う。その経験が彼らには必要です。それに、田中さんも最初のカウンセリングの内容が深刻だったら対応は難しいし、自信をなくしてしまうと思いませんか?」

    俺は黙った。

    「いきなり実践で希死念慮のある方の対応はさすがにきついでしょ。でもこちらで用意した架空の人物がそれなりの難易度の悩みを相談するならどうですか?仮に失敗しても取り返しがつく。だから練習になるんです」

    取り返しがつく。

    あのプロフィール画像も設定されていないアカウントのことが、一瞬頭をよぎった。

    「この新人育成を担当してくれるのであれば、田中さんの個別のレッスン料はなくしたいと思います。
    彼らのために一肌脱いでいただけませんか?誰にでもお願いできるわけではありません。
    これまで田中さんが一生懸命にクライエントに向き合い、力をつけてきたからこそお願いしたいのです。」
    桐島先生の真剣な眼差しに多少の迷いはあったものの、
    「わかりました」と俺は言った。

    桐島先生からもらった資料の中に
    その新人カウンセラーの性格や課題の取り組み姿勢、本人の悩みが詳しく書いてあった。
    そしてその一人ひとりに合った架空のクライエントが設定してあった。

    親戚と絶縁し、社会から孤立しているシングルマザー。大学を中退し、アルバイト生活をしている28歳男性。高校入学時に、同級生からいじめられ不登校になった女子高生など本当に様々な架空人物が文字情報としてそこにあった。

    桐島先生は自分のクライエントを抱えながらもこんなに人のために懸命に考え、頑張っているんだと思った。少しでも桐島先生やこの新人たちの力になりたい。

    先日Facebookでメッセージのやりとりした坂本を思い出した。
    「こんなに人のために頑張っている人が、人を騙しているわけがないだろ」

    桐島先生やこの活動を見たら絶対そんな意見はもたない。純粋に信じていたものに唾を吐きかけられたような悲しい気持ちになりながらスマホのSNS画面を開いた。新人カウンセラーのアカウントを検索し、
    『相談があります。少しお時間をいただいても・・・』スラスラとフリック入力をし、その人に合ったDMを作成していく。





    第4章 恩師の願い


    妻が家から出て行った。

    「この生活にはもう耐えられない。」そう置き手紙に書いてあった。

    もう何年も話していない息子と2人の生活。
    日曜の朝。息子と自分用に目玉焼きを焼こうにも卵の殻がうまく割れず、スクランブルエッグになってしまった。
    息子に声をかけるも返答はない。寝ているのかもしれない。
    ご飯を食べ、カーテンと窓を開け、新鮮な空気をリビングに取り込む。
    一通りの家事を終えて身支度を済ます。

    「行ってきます。」と息子に聞こえるかどうかの声量でボソッと声を出し、玄関のドアを開ける。もちろん返事はない。期待もしていない。

    最近、自分の投稿に対していいねやコメントをしてくれる人が減った気がする。

    同じ時期に入った同い年の濱崎さんは、投稿が少なかったり、コメントをあまりくれない仲間のことを「意識が低いよね。」とか「あの人、学費払えなくなって辞めたらしいよ。」なんて話をよくしていた。

    仲間のことをそんな風に言うのは正直嫌だったけど、自分はそう言われたくないなと活動にさらに力を入れるきっかけにはなっていた。
    そんな濱崎さんも最近顔を出さなくなった。

    それだけじゃない、最近の田中家の家計が火の車だ。妻が家を出ていってから、
    45歳になって自炊をするエネルギーもなく当然、外食が増えた。息子には、食費という名目で、お金は置いてある。息子の生活音はするので死んではいないが、息子がどう生活しているのか、俺には分からない。

    高額な受講料を払うために借りていた息子の大学用の貯金は使い果たし、妻の家計のやりくりの上手さを今更ながら痛感する。


    ここ最近、桐島先生が地方での出張が多くなり、個人レッスンがなかなかできなかった。寂しさを感じていたとき、突然、桐島先生から一本の電話をもらう。久しぶりの個人レッスンだ。

    駅前の喫茶店でコーヒーを飲んで待っていると、Tシャツにジーンズ姿と、いつもの格好にプラスしてジャケットを羽織る桐島先生の姿が見えた。
    「遅くなって申し訳ございません、地方講演の打ち合わせに少々お時間を取られてしまって、」

    「いえいえ!自分も今着いたばかりですから!」と桐島先生に気を使わせまいといつもより声が大きく出てしまった。

    桐島先生が注文したコーヒーと中身が空っぽのマグカップがテーブルに並ぶ。

    一口目のコーヒーを飲んだ後、桐島先生が口を開いた。
    「なかなか個人レッスンの時間を取ることができず申し訳ございません。
    田中さんのことなので、特に心配はしていませんが、後輩たちはどうですか?」

    「みんな一生懸命に頑張っています。お金が払えなくなったという理由でやめた人以外は、本当に人のために頑張ろうとしています。」

    「それは田中さんの熱心な指導のおかげですね」と嬉しい言葉をかけてくれる。頬が緩む。

    「桐島先生が自分にしてくれたように、後輩にしているだけですよ。」本心だった。

    近況報告を兼ねて世間話をした後に少しの沈黙があった。
    すると少しして桐島先生が「実は田中さんにお願いがあって、今日時間を作ってもらいました。」

    「お願いですか、なんでしょう?」と俺は桐島先生を見た。

    「実は田中さんにも我々と同じカウンセラーの講師になっていただけませんか?」

    「自分が、講師ですか・・。」正直びっくりした。人のために何か役に立てば良いくらいで考えていたからだ。

    「ただ副業としてではなく、本業としてこのカウンセラーという仕事に本腰を入れていただきたいのです。」と桐島先生が頭を深く下げた。

    正直、今の警備会社には、何回か転職した末に行き着いた人生の墓場のようなところだと思っていた。ただ給料は安定しているし、家のローンもある。
    桐島先生にこんなに素晴らしいお誘いをもらいながらも悩んでいた。

    そこへ、悩んでいることを見抜いたであろう桐島先生が口を開いた。

    「講師になれば、自分がお誘いしたメンバーの月額の料金の30%を手数料としていただくことができます。今の田中さんの本業での給料は分かりませんが、個人レッスンだと全額をいただくこともできます。そうすれば今の給料と同じ、田中さんの頑張り次第では、それ以上の給料をもらうことができます。もちろん月額の料金も講師なのでかかりません。」

    月にかかるお金に苦労していた。その負担がなくなるだけでもかなり魅力的に思えたし、何より、人助けをしてお金をもらうことができる。今の仕事では考えられないような話だ。
    「少し考えさせてください。」自分が今、頭に思いつく最大限の言葉だった。

    桐島先生と別れた後、気づけば駅前のコンビニや建物は外は夕焼けに染まっていた。

    家に帰り、コンビニで買ってきた二人分の弁当をリビングのテーブルに置いた。いつものルーティーンでリビングのカーテンを閉め、ソファに座る。
    「自分が講師・・・。」ぼそっと口からこぼれた。

    ふと、カウンセラーになりたての時に「yuki_2207」とのDMのやり取りが気になり、SNSを開いた。会話の内容を見ると、自分の当時の文章の幼稚さに恥ずかしさがありながらも、yuki_2207さんのために一生懸命言葉を送っている。この時から自分は人のために尽くしてきたんだなと過去の自分を誇らしく思った。
    ただ、yuki_2207のアカウントは削除されていた。





    第5章 再会


    今日は久しぶり残業をしないで職場を出られた。
    帰りにカフェにでも寄ってお気に入りのカフェラテでも買って帰ろうと、少しスキップ気味に帰り道を歩いていた。
    駅前のカフェの入り口付近で声をかけられた。

    「坂本さん?」

    振り返ると、田中が立っていた。スーツ姿にリュックを背負って、三十年近く経っても、あの頃の面影があった。

    「田中くん……。偶然だね」

    気まずさがあった。Facebookのメッセージに田中からの返信が来ていないことは覚えていた。なるべくその気まずさが伝わらないように努めながら言葉を探した。田中は私のそんな気まずさも特に気にならないのか、
    「少し時間あるかな?」と言った。

    駅前のチェーン系のカフェに入り、向かい合って座った。私はカフェラテを、田中はホットを頼んだ。

    「最近どう?」と田中に聞いてみた。

    「いや、充実してるよ。カウンセラーとして、かなり経験を積んできた。泣いて感謝してくれる人もいるし、本当にやりがいを感じてる」

    私はうなずきながら聞いていた。否定はしなかった。でも少し間を置いてから、静かに言った。

    「田中くんって、公認心理師か臨床心理士の資格、持ってる?」

    「……持ってないけど、それが何か?」

    「民間の資格は?」

    「桐島先生のコミュニティで、認定サポーターの資格を取った」

    私はストローをゆっくりかき混ぜた。

    「私がこういうことを言うのは、田中くんのことを批判したいわけじゃない。ただ、カウンセリングって、やりがいだけでできる仕事じゃないんだよね」

    「誠意を込めてやってきた。それは本当のことだ」田中とは目が合わない。

    「うん、それは信じてる。でも、」私は言葉を選ぶように、少し目を伏せた。「希死念慮のある人と話したことは?」

    田中は、何かを思い浮かべているような顔をした。

    「……ある」

    「そのとき、どう対応した?」

    「桐島先生に教わった通りに。共感して、否定しないで、寄り添って」

    私は静かに息を吐いた。

    「田中くん。自殺のリスクがある人と話すとき、共感だけじゃ足りないことがある。その人の安全をどう確保するのか、どのタイミングで医療機関につなぐか、家族への連絡はどうするか、そういう判断を、一瞬でしなきゃいけない。それは知識と訓練がないとできないんだ。誠意があっても、経験を積んでも、難しい場合がある。」

    「じゃあ、資格がなければ人を助けちゃいけないってことか」

    「そうじゃない。でも、自分にできることとできないことの線引きが、大切で、相談した人の命に関わることもあるんだよ。」

    「俺は何百回もカウンセリングをやってきた。仲間からの悩み相談も含めれば、もっとだ。経験で言えば、そんじょそこらの新人カウンセラーには負けない」

    私は田中をまっすぐ見た。

    「数じゃないんだよ。」

    自分の一言一言が鋭利なナイフのように、ゆっくりと田中に刺さっていくのを感じていた。

    「坂本さんは、資格があるから人を救えると思ってるんだろ」

    「そうは言ってない」

    「でも言ってることはそういうことだ。俺みたいに資格もなく現場で経験を積んできた人間を、最初から下に見てる」

    「田中くん」

    「俺はな、本当に苦しんでいる人たちと向き合ってきた。マニュアルじゃなく、自分の経験と感覚で。そっちの方が届くこともある。資格があれば正しくて、なければ間違いって、そんな単純な話じゃないだろ」

    「そうだね、資格があれば全部うまくいくわけじゃない。私も失敗してきた。でも」

    「でも、じゃないんだよ」田中は遮った。

    「坂本さんは正しいことを言ってるつもりかもしれないけど、俺には否定にしか聞こえない。俺がやってきたこと全部をひっくり返そうとしてるように聞こえる」

    田中は静かに席を立ち、自分のホットコーヒー代をそっとテーブルの上に置いて店を出た。その頬は濡れていたように見えた。

    JRに乗り込み、先ほどの田中とのやり取りを思い出してみる。
    カウンセラーとしてずっと働いてきた自分が、中学校の同級生とはいえ、相談に来た相手を傷つけてしまった。

    自分のやってきた地道な仕事と田中が行っているどこかキラキラした感じのあるカウンセリング実績に少しばかり嫉妬してしまったのかもしれない。

    実際自分がやっている仕事は誰かを救った感じはしない、自分の無力さにいつも自信を失う。解決できないことの方が多いと思う。
    ただ自分の積んできた経験は間違いないし、田中の言っていることも全部は間違っていない。と一人反省会をしているところに一つの通知がくる。

    それは昔、カウンセラーになりたての時に、自分の経験を誰かの役に立てたいと思って作ったアカウントだった。プロフィールには、カウンセラーの卵
    とだけ書いて放置していた。

    こんなアカウントに誰がDMを送るんだろうとSNSを開くと先ほど会っていた田中が笑顔で楽しそうにしているプロフィール写真のアカウントである。フォロワーもそこそこの人数がいるようだった。
    気持ち悪さを感じスマホをカバンの中に放り込んだ。


    第6章 使命感


    講師としての新生活がスタートして数ヶ月が経つ。
    まだ本業ほどの稼ぎはないので、単発のアルバイトを掛け持ちしながら桐島先生の期待に応えるべく、活動に奔走していた。自分の個別レッスンの受講者も少しずつ増えていき、新たなカウンセラーが育っていく喜びを感じながら充実した生活をしている。

    説明会に参加したカウンセラーの卵たちに、分かりやすく伝えるための資料を作成したり、後輩の悩み相談に乗ったりと、大忙しだ。

    人づてに聞いた話だが、濱崎さんはコミュニティ内でトラブルを起こして、やめさせられたらしい。口は災いの元だ。

    桐島先生にも濱崎さんの人を悪く言う行為に対して相談したことはあったが、「一流のカウンセラーに誰でもなれるわけではない。」と厳しくお話をされていたことを昨日のように思い出す。人のことを悪く言わない。これは大切なことだ。

    坂本さんとは、あれ以来連絡を取っていない。
    彼女の言うことは、自分のしてきた努力を全て否定した。
    何より、目の前に困っている人を助けることが資格以上に大切だと思っている。それに正しい知識を学び続けている俺が間違いをするわけがない。


    帰宅して、すぐにソファに座りスマホを開く。
    新しいカウンセラーの卵を見つけるためにSNSを見るところまでが自然な流れになっていた。気になるアカウントを見つけた。

    「父に殺されるンゴ」という少しふざけた名前のアカウントが目に留まる。 プロフィールを見ると、その子は父子家庭らしい。父との面白いやりとりやその年代の悩みに共感できる投稿が人気を呼び、フォロワーも5万人近くもいて、どの投稿にも相当数のいいねがついている。

    気になってそのアカウントの投稿を目で追ってみる。
    「父親が変なセミナーに通って、家の金どんどん無くなってるワロタ」
    「温厚だった父、洗脳されて性格激変」
    「母親が逃げたwww」
    「父親の絶対バレない殺し方」
    「完全犯罪 募集」
    特にバズっている投稿が目についた。
    「父親の反撃 アレルギーのワイ 弱点を見抜かれ殺されるかも」

    何やら、投稿の詳細を見ていくとその子の父親がコンビニで弁当とおやつを買ってくるらしい。おやつの内容成分を見ると定期的にナッツ入りの食べ物を選んでくるとのこと。
    投稿主はアレルギーが複数あり、特にナッツは誤って摂取すると命に関わることがあるらしい。ナッツ好きの俺としては、食べられないこの人が可哀想に思えた。

    そして、アレルギーのことを知っていてそんなことをする恐ろしい父親がいるのかと驚いた。俺にも妻だったあいつにも、アレルギーはなかった。それならきっと息子にもアレルギーなんて1つもない。

    家族から愛されない本当に可哀想な子だ。
    他人事とは思えない。

    「さぁ、今日はこの人を救おう。俺の出番だ。」
    桐島先生なら・・。頭が動くよりも先に、指先が動いていた。
    『父親に殺されるンゴさんの投稿、ずっと読んでいました。あなたのような経験をされた方に、ぜひお話ししたいことがあります。』

    息子の部屋でスマホの通知音が鳴る。

    第7章 確かなもの

    静かなリビングでキィっとドアが開く音がした。
    真っ暗闇の中にいたのに、急に入ってくる眩しい光に反応する瞳孔のように、反射的に口から声ではなく音が出た。ような気がした。

    「洋太。」
    そこには何年も会っていない息子の姿があった。
    肌にハリはあるが脂ぎっていて、髭や髪が伸びきっている。
    言われなければ同年代だと言われても自然に受け入れられる息子の容姿に、驚くもどこか他人事に感じる自分がいる。

    「これ、親父だよな。」
    息子の脂ぎった手に握られるスマホの画面には、俺のSNSのアカウントが映っていた。
    最近カメラマンに撮ってもらい新調した自慢のトップ画だったが、そこに映る俺の笑顔はどこか胡散臭さがあった。

    「何やってんだよ・・。」消えそうな声で洋太がつぶやいた。

    「ひ、久しぶりだな、洋太。心配してたんだぞ。」息子に対して上擦った声が出る。

    「何が心配だよ、何してんだよ、家がこんなメチャクチャになって。」
    長い前髪で洋太の顔はあまり見えないが、なんとなく想像がつく。こいつの父親だから。

    「今、父さんな、カウンセラーって仕事をしてだな、人助けをしてるんだ・・。」

    「自己満だろ。」実の息子から端的で鋭利な言葉が飛んでくる。

    「そんなことないぞ、かなりのカウンセリング実績を積んでだな、講師にも、」

    「それが全部自己満だって言ってんだよ!!!」会話のキャッチボールにならない。

    「まず、話を聞いてくれ、俺はな、」
    必死に息子と会話のキャッチボールをするべく、地面に叩きつけられたボールを必死に探すも、見つからない。

    「本当にカウンセラーなら家がこんな状態なわけがないだろ。」冷たく洋太は言って辺りを見る。

    いつ洗ったかわからないフライパンや皿、台所にはカップ麺のケースの山積み。床にはいつの洗濯物かわからないものが散乱している。開けっぱなしのカーテン。窓から見える夜景からは、社会の営みを感じるがどこか遠い世界のもののようだ。

    「俺さ、母さんにお前は父親のダメなところを全部引き継いでるって泣かれたんだ。学校では馴染めないし、勉強もついていけない。運動もできない。おまけに父親であるお前は、家庭を顧みないで、訳のわからないセミナーに課金して、家をぶっ壊した。母さんが出て行ったのも、俺がこうやって引きこもってるのも全部お前のせいだ。」
    冷たい口調にも、はっきりと芯のある声で俺の自尊心が引き裂かれていく。

    「他人の相談に乗ってる場合じゃないだろ、自分の家がメチャクチャになってるのに・・・。」洋太は泣いているようだ。
    今までのカウンセリングを思い出せ。こういうときどうするのかを。

    「家のことはな、全部母さんに任せてたんだ。」自分でも驚くくらい情けない言葉しか思いつかなかった。

    ヒュッと、頭上に何かが飛んで来るのを感じた。その直後、自分の後ろでガシャンッっと何かが割れる音がした。
    スマホだ、洋太のスマホを投げられたんだ、と物音がする方を見て理解した。

    洋太の方に視線を戻すと、さっきまでいたところに姿はなく、台所へ向かっていた。こちらに戻ってくる洋太の手には包丁があった。
    「今すぐ出ていけ。」
    「ちょっと、ま、」
    「今すぐ出ていけぇぇ!!!」
    洋太の見たことない表情に腰が抜けそうになった。
    俺は反射的にスマホだけ手に取り、靴も履かずに家を飛び出した。

    洋太が追ってきているのか、後ろを確認するのも怖くてひたすら走った。
    人生でこんなに走ったことがないくらい走ったと思う。肺の毛細血管1本1本が悲鳴を上げている。心臓ってこんなに耳まで届くのかってくらい脈打ってるし、喉も流血していると思う。血の味しかしない。
    少し時間が経ってから気づいたが、靴下は破れ、足の裏は血まみれになっていた。

    息子の言葉を思い出してみる。足裏の痛みよりも心がじんわりと痛む。
    この痛みはなんだろう。治るのか。
    「家のことはな、全部母さんに任せてたんだ。」
    我ながら最低な言葉しか思いつかなかったことに、自分の無力さを感じる。

    そうだ。桐島先生に相談してみよう。無明の心に少しだけ灯火が残っていた。

    第8章 尊師桐島

    桐島先生に何度か電話をしてみたが繋がらない。折り返しもないので、留守電に、近日中に個別の面談を設定していただきたいという趣旨のメッセージを残して、今日の宿を探す。

    駅前には、カラオケやネットカフェもあるので、そこで一夜を過ごそうと思った。
    足裏の消毒のためにコンビニに寄り、必要なものを購入した。スマホでも決済ができる時代に生まれて良かった。

    大学でも友人はいなかったので、カラオケに入ったこともなく、抵抗があったためネットカフェに決めた。

    店員から簡単な説明を受け、自分に用意された個室に入る。
    桐島先生から連絡はない。地方講演などで忙しいのかもしれない。
    軽食を済ませ、足に絆創膏などを貼るなどして、必死に走ってくれた身体を最大限労った。
    突然襲ってきた眠気に身を任せ、気絶するように夢の中へ落ちていった。

    翌朝、目を覚まし、スマホを確認すると桐島先生から一本の着信があった。
    すぐに折り返すと、ワンコールで出て、「おはようございます。何かありましたか?」と桐島先生の声が聞こえた。

    「ちょっと電話ではなく、直接お話ししたいことがあったんですが、お忙しい中ではあると思うのですが、お時間を取ることは可能でしょうか?」申し訳なさそうに聞いてみた。

    「今は、北海道にいて、今日の夜の便で帰ります。もし遅い時間でも良ければ、時間をつくることはできますよ。」
    多忙な中、仲間を第一に考えてくれる桐島先生の心に感涙しながら「はい!ぜひお願いします!」と答えた。

    その日は、桐島先生と会うまで、息子との会話の反省会を何度もしていた。
    あの時、こうするべきだったのでは、こんな言葉を洋太にかけることができたのではないか。
    もう取り返しつかないやりとりを何度も頭の中でシミュレーションし、自分の無力さを呪った。
    咄嗟に桐島先生ならどうするだろう、と教わったことを実践せず、自分の頭の中で考えたことを話してしまった。これでは、今まで学んできたことが意味がなかったものになる。悔しい。そんなことをずっと考えていたらご飯を食べるのも忘れ、夕方になっていた。

    靴を買うのも忘れていた事に気づき、近くにある靴が売っているお店に入る。
    そこで、自分の服装がどんなものかも確認せず、なんとなく履きやすそうなスニーカーを手に取り、会計を済ませる。

    今回桐島先生との面談は、駅前のカフェではなく、都内のレンタルスペースが集合場所として指定された。

    予約が取れている広い部屋に着いたときには、すでに桐島先生は折りたたみのテーブルと椅子を部屋の真ん中に持ってきて、準備してくれていた。

    「お忙しい中、お時間を取っていただきありがとうございます。」と俺は深々と頭を下げる。桐島先生が椅子に座るよう促すので、一緒のタイミングで椅子に座った。

    「何を言ってるんですか、仲間のために時間は惜しみませんよ。」と桐島先生はいつもの笑顔で返してくれる。あぁ、この安心感が心地良い。

    「田中さんのお家から遠い場所を選んでしまい、申し訳ございませんでした。明日この会場で新たなカウンセラーを発掘するための説明会があるんです。」と二人は会場となるその部屋を見渡す。

    「桐島先生は、最近、地方での講演会が多いんですよね、そんな中、私一人のために時間をとってくれて感謝しかありません。」

    「この組織は人を大切にすることを第一としています。仲間が困っていれば手を差し伸べるのは当然じゃないですか」

    「今日は北海道と聞いていましたが、他にはどんな地域でこの活動の輪が広がっているんですか?」俺はとても興味があった。この組織の活動がどんどん広がっていくことに純粋に嬉しい気持ちがあったからだ。

    「私は、北海道や東北地方を主に担当し、他の人に、中国や九州の地域を任せています。一人で回るのには限界がありますから、そこはチームで動いています。そのうち田中さんにも重要な役を任せたいと思っています。」

    「俺・・、自分にはその役割は相応しくないと思います。」

    「田中さん、どうされましたか?」と桐島先生は心配そうに俺を見る。

    「相応しくないというか、きっとその役割を与えられても、期待に応えることができないと思います。今日、お話ししたいと思ったのは、家族のことです。」少しずつボソボソと話す。

    「桐島先生には以前、妻が家を出て行ったという話はしたことがあったと思います。昨日、息子に自分の活動をしていることが知られ、そのせいで家族がメチャクチャになったって息子に言われたんです。」桐島先生は黙って聞いている。

    「息子に何かを言うために今までカウンセラーとして実践してきたことを思い出そうと、一生懸命に言葉を探しました。でも、妻のせいで家庭が壊れたと、責任を押し付けるような発言を息子の前でしてしまったんです。」と神に罪を赦しを求める、そんなような罪の告白をした。

    「正直、カウンセラーとしてまだまだ未熟だということは分かってました。だけど、家庭が壊れているのにも気づかず、妻や息子にも軽蔑されて、こんな自分が後輩たちに何を伝えられるのでしょうか。」と涙ながらに訴えた。

    桐島先生を見ると、先生の目にも涙が浮かんでいた。
    「そうでしたか、それは大変な思いをされましたね。」
    カバンからポケットティッシュを取り出し、それを優しく俺に渡してくれた。

    俺は話を続けた「このまま、カウンセラーとしての活動を続けても、限界が見える気がします。家族も救えない、ましてや自分の言葉で救える人がいるとは思えなくなってしまいました。」これは本音だった。

    しかし突然、「それはどういうことですか!」と桐島先生が声を張った。

    びっくりしてもらったティッシュを床に落としてしまったが、拾う隙もなく、桐島先生を見た。

    「この世には、国や社会そのもののシステムが間違っているから、不幸になっている人が沢山います。貧困や飢餓、親にまともに愛情を与えられずに育った人。この競争社会で、戦えなくなり、負け犬と呼ばれている人。」どんどん桐島先生の顔が紅潮していくのがわかる。

    「そんな社会を変えるために、我々カウンセラーがいるんです。そして一人では戦えないからこそ、団結してこの目に見えない強大な敵と対峙するんです。田中さんは、家族も救えないとおっしゃられましたが、まだその過程にいるだけです。あなたがブレてしまっては救えるものも救えない。そして、あなたのその経験が、仲間に勇気を与えるんです。みんなの頑張るエネルギーになるんです。」桐島先生がこんなに熱く大きな声で語っているのを初めて見た。

    俺は鼻水か涙かもわからないくらい顔が濡れていた。

    「私は正直、少し悲しくなりました。なぜなら、ずっと信頼していた田中さんに信じてもらえなくなったからです。今日の北海道での講演会でもずっと田中さんのことが心配でした。でも目の前の泣いて困っている人たちにも時間をかけなくてはいけない。自分一人ではこの世界を救えない。この世の中を良くしていくには、心の底から信頼し合い、同じ志を持った同志が必要だと痛感していたからです。」桐島先生も泣いていた。

    「田中さんに疑われたことが、何よりも辛い。こんな痛みを経験したのは生まれて初めてだ。私は、あなたをただの受講生ではなく、共に時代を変えていく戦友だと思っていました。」桐島先生は力なく椅子に座り直し、顔を覆った。その指の隙間から漏れる声は、先ほどの大きな声よりも重く俺の鼓膜に張り付いた。

    俺はこれ以上桐島先生を苦しめたくなくて、切なくて、でも心が温かくなって、涙が止まらない。

    「田中さん、この偉大な革命には、常に犠牲が伴うものです。田中さんの家族がこの活動の本当の意味をまだ理解できないのは、この社会に騙されているからなんです。我々がこの社会を正しい方向に変革していけたのなら、家族もきっと救える。今は辛いかもしれないが、一緒に前を向いて戦いませんか?」桐島先生の白い歯が眩しく感じた。

    「少し待っていてください。」と桐島先生はスッと席を立ち、部屋を出た。

    俺は、なんで先生のことを信じられなくなっていたんだろう。
    桐島先生はずっと一人で世界と戦っているのに、俺はその背中を拳銃で撃つような真似をしたんだろう。
    俺の心には、息子に包丁を向けられた時以上の、鋭く、そして心地よいほどの”罰を受ける”感覚が残った。

    部屋に戻ってきた桐島先生の手には、自販機で買ったであろう、水滴のついたペットボトルのお茶が2本あった。
    その片方を俺に差し出しながら桐島先生は言った。
    「明日のセミナーで、田中さん、話をしてみようか。」

    さっきの会話もあり、色々とできない言い訳が頭には浮かんでは、自分で却下を繰り返す。「こんな自分にできるのでしょうか・・・。」自信はない。

    「着飾った立派な言葉はいらない。田中さんの血の通った、生きた言葉を仲間たちに伝えてほしいと思います。」

    何を話せばいいのか。家族を失ったことか。息子に殺されかけたことか。
    普通なら隠すべき恥を、ここでは”光”に変えられる。
    自分の不幸が、経験が、誰かの救いになり、社会を変革する原動力になる。

    「・・・。はい。俺の、すべてを話します」
    俺は、差し出された冷たいペットボトルを握りしめた。その冷たさが、今の自分に残された唯一の確かな体温のように感じられた。

    第9章 聖者の行進

    翌日、都内にある貸し会議室の大型ホールは、異様な熱気に包まれていた。入り口には「次世代カウンセラー養成セミナー:悩みを希望の光に変える技術」という看板が掲げられ、吸い込まれるように人々が入っていく。

    坂本麻衣は、深く被った帽子の下で、その光景を冷ややかに見つめていた。昨日の夜、自分が放置していた古いアカウントに、田中からこのセミナーの詳細が書かれたメッセージを送ってきた。その無邪気なまでの「勧誘」に、坂本は言葉にできない吐き気を覚えた。そのプロフィールを見ると彼はもう、自分がかつて手を差し伸べた「廊下の隅の少年」ではないと思った。

    しかし、彼女は専門家として、田中が危険な状態にあることを察知し、彼の力に少しでもなりたいと思い、重い身体を引きずってこのセミナーに参加したのだ。

    坂本は最後列の席に身を潜めた。
    会場にはアップテンポで、どこか高揚感を煽るようなピアノの旋律が流れている。照明は少し落とされ、ステージだけが眩しく照らされている。
    初めて来るところだが、どこかドラマや映画でありそうな空間だなと既視感を抱いていた。

    坂本はスマホを握りしめた。周囲の参加者たちは、隣同士で「最近の気づき」を熱心に語り合っている。その瞳は一様に潤み、何かに取り憑かれたような輝きを放っていた。それは希望というより、思考を放棄した者が抱く特有の空虚な光のようだった。

    間もなく開始のアナウンスが入り、そこにいる人たちは静けさを作る。

    「それでは、次世代カウンセラー養成セミナー:悩みを希望の光に変える技術の本日の講師、桐島幸一様のご登場です!」拍手の中、ステージに桐島が登壇した。割れんばかりの拍手。桐島は両手を広げ、まるで慈愛に満ちた神のように微笑む。
    「皆さん、今日はお集まりいただき、本当にありがとうございます。これまでの皆さんの献身的な努力が実り、ここ1年で会員数が3倍、北海道や沖縄にも支部を作ることができました!」会場は拍手喝采である。

    「さて、今この輪を広げるために、皆さんの団結と、献身的な努力がこの活動の鍵を握ります!一緒に頑張りましょう!」はい!っと会場にいる人たちは元気な挨拶というより叫んでいる。

    「今日は特別なゲストを呼んでいます。彼は、この社会の歪みに翻弄され、最も大切な家族という犠牲を払いながらも、なお”人を救う”という使命を捨てなかった男です。私たちの戦友、田中浩二さんです!」

    再び、地鳴りのような拍手が起こる。
    舞台袖から現れた田中は、恐らく何日か、同じ服を着ているのではないか、と思われるようなどこか小汚い印象を受ける姿で、その服装にはミスマッチな真っ赤な靴を履いている。桐島の清潔感と田中のその服装の対比は、会場にいる誰もが気になったであろう、だが決して口に出してはいけない雰囲気があった。

    マイクの前に立った田中の顔が、巨大なスクリーンに映し出された。
    坂本は息を呑んだ。スクリーンの田中は、泣いていた。だがそれは悲しみの涙ではない。選ばれた者だけが流す、恍惚の涙だ。

    「私は、一昨日、息子に包丁を向けられました。」
     会場が静まり返る。田中は震える声で、しかし一文字ずつ噛みしめるように話し始めた。
    「妻は出て行き、家はゴミの山です。息子には『お前のせいで人生がめちゃくちゃだ』と怒鳴られました。私は、自分の無力さに絶望し、死の淵に立たされました。」田中は一度言葉を切り、会場全体をゆっくりと見渡した。
    壇上横の桐島を見つめ、桐島は笑顔で頷いている。

    「でも桐島先生とお話をしていく中で、気づくことができました。
    この痛みこそが、私が本物のカウンセラーになるための『通過儀礼』だったのだと。私の家族が壊れたのは、私が悪いのではない。この社会の古い価値観が、私を、そして私の家族を縛り付けていたからです。私は家族を失ったのではありません。新しい世界へ行くために、過去の私を縛る鎖を断ち切ったのです!」
    会場は拍手と鼻水を啜る音など色々な音が混ざり、カオスとなる。

    「ただ、家族を私は見捨てるわけではありません。私はまだ力がなかった。そしてカウンセラーとしての本当の使命を自覚できていなかった。確固たる自信がある今、妻も息子も正しい方向に導いていけると確信しています。」

     坂本は、自分の爪が手のひらに食い込むのを感じた。
    「何を言っているの、田中くん。それはただの逃避よ。あなたは自分の罪から目を逸らしているだけ……!」
     しかし、坂本の心の叫びとは裏腹に、会場からは「そうだ!」「素晴らしい!」「応援しているよ!」という声が上がり始めた。

    「私は今、かつてないほどの幸福を感じています。桐島先生という真の理解者に出会い、そしてここにいる皆さんと繋がっている。私の経験は、もう私だけのものではありません。皆さんの勇気になるための『希望の光』なんです!」

    田中の演説は加速していく。
    彼は、息子に殺されかけた恐怖を「古い自分との決別」と言い換え、妻の離反を「魂の自立」と定義した。坂本がかつて田中に教えたカウンセラーとしてのや「倫理」や「知識」は、この熱狂の渦の中で、無意味な紙屑のように地面に捨てられる。

    坂本は耐えられなくなり、静かに席を立った。
    出口へ向かう途中、ふとステージの田中と目が合ったような気がした。
    田中は一瞬、最後列の坂本を見つめ、そして満面の笑みを浮かべた。
    「坂本さん、来てくれていたんだね。俺はついに、君の届かなかった場所にたどり着いたんだ。」と心の中で田中は呟く。
    田中の瞳には、そんな歪んだ優越感が宿っていた。

    ドアの向こうから地響きのようなスタンディングオベーションが聞こえてくる。会場の外に出ると、秋を感じさせる冷たい風が坂本の頬を打った。

    坂本は、震える手で警察へ通報しようと思った。
    だが、指が止まる。今の田中を、法や論理で救い出すことはできない。
    彼は自ら望んで、この「善意と他責思考の渦」に身を投げたのだ。

    ホールの中では、桐島が田中の肩を抱き、二人は固く握手を交わしていた。
    田中は、降り注ぐ拍手のシャワーの中で、生まれて初めて「自分は生きている」という確かな手応えを感じていた。
    足裏の傷口から、じわりと血が滲み、新しいスニーカーを汚していく。
    だが、その痛みさえも、彼にとっては至高の勲章だった。

    「俺には、使命がある」

    田中はマイクを通さず、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
    その顔は、この世の誰よりも幸せそうで、そして、誰よりも深く壊れていた。
    田中を見る桐島は愛弟子を見る目というより、自分が想像した以上の化け物が生み出してしまったという、驚きと好奇心に満ちた邪悪な笑いに見えた。

    坂本は、二度と振り返ることなく、駅へと続く階段を駆け降りた。
    あの地面が揺れるほどの拍手は、いつまでも坂本の耳に残り続けた。


    第10章 孤毒な人たち


    会場ホールの最後列、坂本が座っていた場所から数メートル離れた暗がりに、洋太はいた。しかし彼は息子としてではなく、田中浩二の人生を終わらせるための死刑執行人としてだ。


    深く被ったパーカーのフード。マスクで隠した顔。手汗でじっとりと湿ったカバンの中には、家から持ち出したあの包丁が眠っている。

    会場に流れる軽快なピアノの音色が、洋太には耳障りなノイズにしか聞こえなかった。周囲の大人たちが、期待に満ちた目でステージを見つめている。その熱気が、吐き気がするほど気持ち悪い。

    ステージに桐島が現れ、そして「戦友」として父を呼び込んだ。
    現れた父の姿を見て、俺は思わず笑ってしまった。
    2日前、靴も履かずに逃げ出した情けない男が、今は見たこともない真っ赤なスニーカーを履き、スポットライトを浴びて泣いている。
    その涙が、自分たち家族を捨てたことへの免罪符であるかのように。

    「私は、一昨日、息子に包丁を向けられました。」

    父の口からその言葉が出た瞬間、洋太の指先がピクリと跳ねた。
    会場が静まり返り、次の瞬間、父はそれを「通過儀礼」だと言った。
    洋太は、スマホのカメラを起動した。画面越しに見る父は、もはや肉親ではなく、得体の知れない化物のように見えた。

    通過儀礼? 鎖を断ち切った?
    何を言っているのかわからなかった。

    父が語る「物語」の中で、洋太の苦しみは、父を輝かせるための「小道具」に成り下がっていた。母が泣きながら家を出たことも、自分が部屋で死にたいと思いながらスマホを眺めていた夜も、すべては父が「本物のカウンセラー」になるための演出として消費されている。


    あの夜、父が靴も履かずに逃げ出した後、玄関のドアが開けっぱなしになっていた。外から入り込む冷気と、遠くで鳴る救急車のサイレン。洋太は台所に立ち尽くし、握りしめた包丁の重さを感じていた。
    「何やってんだろ、俺。」
    包丁をシンクに投げ捨てると、ガシャンと乾いた音がした。
    父は最後まで、俺の目を見なかった。俺が何に悩み、何に怯え、何のために泣いているのか、一度も聞こうとしなかった。あの男が救おうとしている「誰か」の中に、俺は最初から入っていなかったのだ。

    洋太は父に向かって投げたスマホを拾い、自室に戻った。
    SNSのアプリを立ち上げると、アカウント「父に殺されるンゴ」には、父から届いたあの定型文のDMを開いた状態のままになっていた。
    『あなたのような経験をされた方に、ぜひお話ししたいことがあります。』
    これはバズるな、そう確信して、アカウント名は隠してこのDMのスクリーンショットした画像をネットの海に放り込んだ。餌にすぐ飛びつくフォロワーたち。
    『自分の息子も救えないのにカウンセラーとか草』
    『これ、あの有名なマルチまがいの団体じゃね?』
    『特定班、会場見つけたぞ。今日ここでセミナーやってるらしい』

    俺は、フォロワーが特定した地図アプリのピンを見つめた。
    よし、俺の人生を壊した父親も、ここの教祖も全員ぶっ殺そう。


    洋太はカバンの中の包丁に手をかけた。
    今、ここで飛び出せば、この茶番は終わる。この嘘つきな男の喉元を切り裂けば、少しはスッキリするだろうか。

    だが、ステージの上で桐島と抱き合い、全肯定の拍手を浴びて恍惚の表情を浮かべる父を見たとき、洋太の手からふっと力が抜けた。

    「・・・。殺す価値もない。」なぜか、わからないが、急にそう思った。

    この男は、もう死んでいるのだ。
    自分の言葉に酔い、他人の承認という麻薬がなければ息もできない、空っぽの化け物。そんなものを殺してどうする。

    洋太は包丁から手を離し、代わりにスマホの画面を操作した。
    録画していた動画を、自分のアカウント「父に殺されるンゴ」にアップロードする。
    タイトルはシンプルに決めた。
    『【速報】家族を捨てたことを自慢して拍手をもらう自称カウンセラーの末路』

    送信ボタンを押すと同時に、動画はネットの海へと放流された。

    数万人のフォロワーが、この「答え合わせ」を待っている。明日には、この聖者のような顔をした男の正体が、無残に暴かれるだろう。桐島の組織も、この動画一つで炎上の渦に叩き落とされる。

    俺は立ち上がり、出口へと向かった。
    ちょうど、一人の女性が絶望したような顔でホールを出ていくのが見えた。
    スマホの通知音がズボンのポケットの中で鳴り響く。

    投稿に対してフォロワーたちが反応している。
    『ンゴさんの父親完全に洗脳されてるじゃん。』
    『ンゴさん急いで逃げて!!』など自分が求めていた反応だ。

    その会場と同じ階にあるトイレの個室に駆け込み、SNSのタイムラインを凝視する。

    どんどん拡散されていき、フォロワーではない人たちからの反応が増えていく。だが自分の予想していたタイムラインと様子と変わってくる。

    『父親、チー牛じゃん、ンゴも絶対チー牛確定で草』
    『俺にこんな父親がいたら、自殺してるわ。』
    と、だんだんと父親から、関心が俺に集まり、俺の容姿や生い立ちについての心無いコメントにいいねが集まっている。

    『結局さ、蛙の子は蛙なんだよな。』
    『わかる。父親は家族を消費コンテンツとして話の盛り上げる燃料にしてるけど、息子もこうやって父親の醜態を晒して承認欲求を満たそうとしてるよね。』
    『わかる。ンゴは自分が笑いを取ってると勘違いしてるよね。笑われてるだけなのに。笑』

    会場では、まだ地鳴りのような拍手が聞こえてくる。
    父はまだ、ステージの上で「使命」という名の幻想に抱かれているようだ。

    俺はスマホを思いっきり壁に叩きつけて、トイレの個室を出た。
    あぁ、蛙の子は蛙。確かにそうだ。

    あいつと同じ毒が俺の身体にも巡っている感じがする。

    結局、俺たちみたいな人間には、カルト的な共依存を目的とした場所か、
    インターネットのようなところにしか居場所はないのか。
    まぁ、俺にはもうインターネットでも仲間はいないわけだが。

    死のう。この毒が頭に回ってきて、父親のようにおかしくなる前に早く解毒しないと。俺は建物の出入り口ではなく、屋上への行き方を探した。

                      完 


    この物語はフィクションです。

     
     

    湯気

     
     
    フラッと立ち寄れる 図書館みたいなアカウントを目指してます。

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