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私は、ドライバー だ! 第5章【完】

    <全体のあらすじ>
    長崎県の田舎町からコンプレックスを原動力に這い上がり、絵に描いたようなエリート人生を歩んできた和田。しかし、念願のマイホームを手に入れ、子供たちが自立を目前にした矢先、勤務先が経営破綻。起業にも失敗し、どん底に突き落とされる。
    失意の中、和田は「モビリティ革命」の波に可能性を見出し、ハイヤー・タクシー業界で再起を誓う。タクシードライバーから経験を積み上げ血の滲む努力でハイヤー会社の営業部長へと登り詰めるが、今度はコロナ禍の嵐と企業の買収劇が彼を翻弄し、再び和田を泥沼へと引きずり込んでいく。
    それでも男は諦めない。逆境を生き抜いた仲間たちと出会い、衝突しながらも確かな絆を結んでいく和田。やがて志を同じくする有志が集い、進行する自動運転化など次世代対応型サービスへの理想を掲げた新たなハイヤー会社を立ち上げる――。

    自らの実体験を通じて、コロナ禍前後に繰り広げられた、タクシー・ハイヤー業界の知られざる裏事情を描いたモデル小説。
    全ての熟年世代に捧ぐ、不屈の人間賛歌。

    私は、ドライバーだ!第4章【全5章】|唯司
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    第5章 結束

    第5章-1 ★出会い


    人生の潮目が変わる瞬間というのは、往々にして静かに、そして予期せぬ形で訪れる。
    2025年も秋が深まる頃、和田隆二は再びエンゼル交通の足立営業所で、下道社長に対する最後の恩返しをするため内務デスクの椅子に腰を戻していた。かつて営業部長として采配を振るった場所ではあったが、現在は矢口の突然の解雇に伴いその後任として執行役員として事務所の所長を担っていた。
    名ばかりの役員とはなったものの、今の彼には、かつてのエリート然としたプライド・驕りなどひとかけらも残っていない。あるのは、この激動の業界で泥臭く生き抜くという覚悟と、先立っていった無二の親友・赤川への誓いだけだった。
    「和田さん、ちょっとこの過去の運行管理簿と請求書の束、精査してもらえますか?矢口の奴が残したゴミの片付けです」
    若い内務スタッフが、面倒そうに書類の山を隆二のデスクに置いた。矢口――かつて冷遇に耐えられずWモビリティを退職し自らエンゼル交通に入り込み下道社長の側近の座を得たものの、後に自ら失脚していった男の残骸だった。
    隆二は眼鏡をかけ直し、埃っぽい書類を一枚ずつめくっていった。そこには、矢口が内務の権限を握っていた時期の、不自然な車両の動きが記録されていた。
    (……これは、通常業務の『傭車(ようしゃ)』か。だが、相手先がいつも同じだな)
    ハイヤー業界において、自社の車両やドライバーが不足した際、信頼できる同業者に運行を下請け依頼する「傭車」という仕組み自体は、ごく一般的な相互扶助の商習慣である。問題はその発注先だった。「STARリムジン」。当時、設立されたばかりの、業界内ではまだ名もなき新興ハイヤー会社である。
    さらに調べていくと、この取引が下道社長への稟議を一切通さず、矢口の独断で行われていた形跡が浮かび上がってきた。
    「なるほどな、矢口の個人的な繋がりか……」
    隆二は合点がいった。かつて矢口が在籍していた名門LK自動車。そこは業界の梁山泊とも呼ばれる厳格な一流企業であり、STARリムジンの代表である田山という男もまたLK自動車の出身だったのだ。先輩後輩のよしみで、立ち上げ間もない後輩の会社に仕事を回してやっていたのだろう。
    運行記録を見る限り、STARリムジン側の仕事ぶりは一切問題なかった。時間の遅延もなく、顧客からのクレームもゼロ。矢口の私利私欲による不正というよりは、純粋な業務補完として機能していた。しかし、これが下道社長の耳に入れば、ただでは済まない。
    案の定、この事実を嗅ぎつけた下道社長は激怒した。下道は、同じ日本人経営でありながら急速に台頭しつつあるSTAR交通を激しく敵視しており、何より自分の承諾なしに物事が進められていたことへの異常な嫌悪感を露わにした。
    「和田さん、今すぐSTARリムジンとの取引をすべて断ち切って下さい! あんな泥棒猫みたいな会社に、エンゼルの商権を渡してなるものか。今後、奴らが一歩でも敷居を跨いだら、塩を撒いて追い返して下さい!」
    しかしながら、STARリムジンは決して泥棒猫みたいな真似はしていない。下道の理不尽な言葉は、すなわち同じ日本人経営である新興ハイヤー会社への敵対心を反映していた。
    電話の向こうから聞こえてくる下道の怒声に、隆二は「承知いたしました」とだけ答えた。
    いささか理不尽ではあるが、それが現在の隆二に与えられた役割だった。
    数日後の午後、足立営業所のドアが開き、一人の男が風を巻き込むようにして入ってきた。
    「お疲れ様です! STARリムジンの田山です。先月分の傭車費用の請求書をお持ちいたしました!」
    その声の張りと爽やかさに、重苦しい事務所の空気が一瞬で変わった。
    隆二はデスクから顔を上げた。
    田山社長――年齢は50歳前後だろう。隆二より十歳ほど若い。趣味が野球だとひと目でわかるほど、肌は健康的な小麦色に焼け、仕立ての良いスーツの上からでも鍛え上げられた体躯が分かった。何より、その目が信じられないほど真っ直ぐで、澄んでいた。
    「あ、あなたが和田さんですか。いつも大変お世話になっております!」
    田山は、自分が格下の扱いを受けているはずのエンゼル交通の和田に対して、最敬礼の姿勢で名刺と請求書を差し出した。その腰の低さと、内側から溢れ出るようなバイタリティに、隆二は内心強い衝撃を受けた。この男は本物かもしれない、と直感で感じた。
    しかし、隆二の今の立場は下道の意思を忠実に反映する立場にある。
    「……ご足労、ありがとうございます」
    隆二は田山の名刺を受け取ると、自らの名刺を出すこともせず、冷淡な口調で言い放った。
    「下道社長からの指示により、御社との取引は本日限りで全面的に終了とさせていただきます。今後の傭車依頼は一切ございません。請求金は期日通りに振り込みますのでお引き取り願います」
    あまりにも冷淡で、血の通わない対応だった。居合わせた若い内務員たちも息を呑む。普通の経営者であれば、ここで顔を真っ赤にして怒り出すか、せめて理由を問い詰めるだろう。
    だが、田山は違った。一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに寂しげな、しかし全てを受け入れたような大人の微笑を浮かべた。
    「……左様でございますか。新参者の弊社をここまで使っていただき、矢口さんにも、そしてエンゼル交通さんにも、感謝の言葉しかありません。和田さん、突然の不躾な訪問、失礼いたしました。またいつか、ご縁がありましたらよろしくお願いいたします」
    田山はもう一度、深く頭を下げると潔く踵を返して去っていった。その去り際の美しさに、隆二は胸が締め付けられるようだった。
    (なんて男だ……。ドライバー上がりの経営者と聞いていたが、ここまでの器量を持った人間がまだこの業界にいたのか)
    下道社長の歪んだ執念に付き合わされ、まともな人間を傷つけてしまった。その夜、隆二は自宅の書斎で、日中に受け取った田山の名刺をじっと見つめていた。
    「このまま終わらせていいのか、和田隆二。お前の社会人人生、こんな理不尽の片棒を担いだままで幕を閉じるのか?」
    心の中で、あの赤川が「お前らしくないじゃん、隆二」と笑っているような気がした。エンゼル交通への恩返しは矢口の突然解雇の後の業務の穴埋めを行ったことでもう良いのではないか?と。
    隆二は意を決してスマートフォンを手に取り、田山の名刺に記載されている携帯電話番号へショートメールを打ち込んだ。
    『STARリムジン 田山社長。先日は弊社玄関先にて、大変失礼な対応をいたしましたこと、深くお詫び申し上げます。今度は会社の人間としてではなく、一人の個人として、もしお時間が許せば近いうちにお会いさせていただけないでしょうか。勝手なお願いとは存じますが、ご検討いただけますと幸いです。 和田隆二』
    送信ボタンを押す指が、微かに震えていた。断られて当然だ。あれだけの仕打ちをしたのだから。
    しかし、わずか三分後、画面が光った。
    『和田様。ご連絡ありがとうございます。お気になさらないでください。私の方こそ、業界の大先輩である和田様とお話しできる機会を熱望しておりました。ぜひ、弊社の事務所へお越しください。美味いコーヒーを淹れてお待ちしております』
    画面を見つめる隆二の目頭が、熱くなった。
    数日後、隆二は都内にあるSTARリムジンの事務所を訪れた。
    まだ新しく、お世辞にも広いとは言えないアパートの一室だったが、一歩足を踏み入れると、そこには活気と熱気が満ちていた。
    「よくお越しくださいました、和田さん!」
    田山はポロシャツ姿で現れ、自らコーヒーを淹れてくれた。その屈託のない笑顔に、隆二の緊張は一瞬で融解した。
    二人は、現在のハイヤー・タクシー業界の現状について時間を忘れて語り合った。田山はLK自動車時代、洗車から始まってトップドライバーに登り詰め、数々の売上記録を塗り替えた「伝説の猛者」だった。しかし、大手企業の古い体質や、現場を軽視する上層部の姿勢に疑問を抱き、「ドライバーが本当に誇りを持って働ける理想の会社を作りたい」と、彼を慕う後輩ドライバー10数名を引き連れて独立したのだという。
    「ですが、ハイヤーを立ち上げたはいいものの、私はしょせんドライバー上がりでしてね」
    田山は誠実そうに頭を掻きながら、ユーモアを交えて苦笑した。
    「走ることと、お客様を喜ばせることには絶対の自信があるんです。でも、内務の管理、大手企業との契約交渉、労務管理、そして何より『本格的なハイヤーの組織づくり』となると、お手上げ状態で……。今はUberなどのアプリ配車の仕事でなんとか食い繋いでいますが、これじゃただの『高級タクシー』です。私がやりたいのは、日本最高峰の、本物のハイヤービジネスなんです」
    田山は突然、椅子から立ち上がると、隆二の目の前で真っ直ぐに直立した。
    「和田さん。不躾で、僭越な極みであることは百も承知で申し上げます。僕たちの軍師になっていただけませんか。あなたの、明治ハイヤー時代からの素晴らしい経歴、エンゼルでの組織管理手腕、そして何より、あの日、あえて私に頭を下げてメールをくださったその『誠実さ』に、僕は賭けたいんです。一緒に、日本一のハイヤー会社を立ち上げてください!」
    隆二は、震える手でコーヒーカップを置いた。
    既に還暦を迎え、人生の酸いも甘いも噛み分け、一度は泥沼に沈んだ自分に、これほどまでの情熱をぶつけてくれる男がいる。エンゼル交通での勤務は、一度は恩を頂いた会社への最後の「義理」として、もともとあと数ヶ月で区切りをつけるつもりだった。
    「田山さん……。私は、もう若くはありませんよ。泥を被った過去もあります」
    「それがどうしたんですか! その泥の分だけ、和田さんは強いはずです!」
    田山の濁りのない眼光が、隆二の胸の奥で燻っていた残り火にドッと油を注いだ。
    「……分かりました。私の残りの社会人人生、あなたの夢に預けます。エンゼル交通での身辺整理を終えたら、すぐに参ります」
    二人は、どちらからともなく力強く握手を交わした。窓の外には、どこまでも高い秋の青空が広がっていた。
    かくして2025年3月、和田隆二は下道のもとを去り、STARリムジンへと移籍を果たすこととなった。


    隆二にとっての次なるステージは、新鮮な寒風とともに始まった。
    STARリムジンに入社した隆二を、田山社長は当然のようにハイヤー部の代表としての役職と、内務デスクの席を用意して迎え入れようとした。しかし、隆二はそれを頑なに固辞した。
    「田山社長、気持ちは本当に嬉しい。だが、私はまず、一人の『ドライバー』として現場に立ちたいんです」
    「えっ? どうしてですか、和田さん! 内務のプロとして来ていただけると思っていたのに……」
    田山は目を丸くして驚いた。隆二は静かに微笑み、その真意を語った。
    「これが私なりの、下道社長、そしてエンゼル交通への最後の仁義なんですよ。あそこを辞めてすぐに、ライバルとも言える新興企業の幹部に収まったとあっちゃあ、業界の噂話の格好の餌食だ。何より、今のSTARリムジンに必要なのは、まず最初に外部からの『信頼』を勝ち取るための、現場の圧倒的なクオリティですよ。」
    立ち上げたばかりのSTARリムジンは、ハイヤー業界における信用度が圧倒的に不足していた。自社で直接受注する定期契約案件などはほぼ皆無で、日々の売り上げを立てるためには、不本意ながらも大手ハイヤー会社からの傭車依頼を下請けとして受けるしかなかった。
    しかし、大手はプライドが高い。「新参のSTARに仕事を回して、うちの顧客に失礼があったらどうする」と、常に値踏みするような目で見てくる。
    「私が自らハンドルを握り、大手の傭車仕事を完璧にこなしてみせる。大手の配車担当者に『STARのドライバーに任せておけば絶対に安心だ』と思わせる。それが、我が社がのし上がるための最初の一段階なんです」
    隆二の決意は固かった。かつて大手企業の役員たちを後部座席に乗せ、数々の修羅場をくぐり抜けてきた男が、再び黒塗り高級車の運転席に身を沈めた。
    2025年春、東京の街は桜の季節を迎えていた。隆二は連日、早朝から深夜まで都内を駆け巡った。大手の傭車仕事は、往々にして面倒な案件や、急な時間変更が多い。だが、隆二は現役時代以上の集中力で、すべての運行を「芸術」と呼べるレベルで遂行していった。

    第5章ー2 ★創成期


    一口に理想のハイヤー会社立上げといっても、それを成り立たせるためには、いくつかの絶対的な「キーファクター」が揃わなければならない。


    和田隆二がSTARリムジンへの移籍後、自ら先鋒を願い出て構築しようとしている需要元から心底支持されるドライバーの質や、車両の豪華さ、快適さ、これらは確かに不可欠な要素だった。だが、それだけで商売が回るほどハイヤーの世界は甘くない。

    現場のドライバーが最高のパフォーマンスを発揮するためには、裏方として事前に一分の隙もなく予約を受け付け、手配し、効率的な配車を組む内務スタッフの存在が絶対的に必要である。さらに、旅客の命を乗せて走る漆黒の車両を、日々完璧な状態に保ち続ける安全運行の要、車両整備担当の存在も外せない。これらは、ハイヤー業を営む上で重要な要件であった。

    しかし、経営者、あるいは統括する者の目線に立ったとき、最も残酷で、かつ最も重要な現実がある。

    どれほど素晴らしいドライバーを揃え、どれほどピカピカの最高級車をガレージに並べたところで、彼らに与える「仕事」がなければ会社は短期間で干からびてしまうのだ。ハイヤー業として商売を成り立たせ、会社を維持し、売上を増大させて利益を出すためには、何よりも「十分な顧客」と「絶え間ないハイヤー案件」という圧倒的な需要がなければならなかった。

    現在のハイヤー案件において、インバウンド――すなわち訪日外国人旅行客や海外の富裕層、ビジネス要人が占める割合はすこぶる高い。ハイヤー会社によっては、総売上の実に八割から九割がこのインバウンド需要で占められているところもあるほどだった。

    だが、このインバウンド需要には、経営者を激しく悩ませる最大の弱点があった。それは「極端なシーズナリティ(季節格差)」である。

    海外からの観光客の需要は、日本の美しい四季に完全に連動する。具体的には、桜の美しさが世界中に知れ渡る春の「3月〜4月」、そして山々が見事な黄金色に染まる紅葉の秋「10月〜11月」に、ハイヤー需要は凄まじい大津波となって集中するのだ。

    ところが、その狂乱の繁忙期が過ぎ去ると嘘のように街から静寂が訪れる。1月や2月の極寒の時期、あるいは梅雨時の6月など、閑散期に入った途端、STARリムジンような自社案件の少ないハイヤー会社の予約表は真っ白になるのだ。動かないアルファードは、ただの重い鉄の塊となり、ガソリン代や人件費、駐車場の維持費だけで会社のキャッシュを容赦なく削り取っていく。

    年度を通じて、波のない安定した需要を生み出してくれるのは、やっぱり国内外を問わない『ビジネス需要』だ。外資系企業の役員送迎や、大手商社の定期チャーター。これがハイヤー運営の理想的な土台となる。

    安定したハイヤー会社運営を行うためには、可能な限りこのビジネス需要を開拓して一年を通じた売上のベースを築く。その上で、爆発的なインバウンド需要を上乗せしていく。

    そして、一年のどんな閑散期であっても、自社のドライバーと保有車両が遊ばないだけの「十分な自社案件」を常に確保しておく。逆に、繁忙期に自社のキャパシティを遥かに超えてる「溢れ需要」については、信頼のおける別のハイヤー会社に「傭車」として依頼し、手数料を得つつ顧客の要望に応える。

    これこそが、ハイヤー経営における理想形であった。

    ところが――である。

    STARリムジンのような、立ち上げたばかりの新興ハイヤー会社には、そもそも繁忙期ですら自力のドライバーに仕事をさせられるような「自社案件」という財産がほとんど存在しなかった。海外の高級ホテルや大手旅行代理店の太いパイプは、すでに何年も前からこの業界に君臨する先行の大手ハイヤー会社がガッチリと利権を握っており、名もない新興会社がそこに割り込む隙など、ほぼ無いに等しかった。

    自力で顧客からの信頼を高め、自社案件を少しずつ増やしていくまでの過渡期、これら新興のハイヤー会社が生き残るための道は、ただ一つしかなかった。

    それは、自社で捌ききれない大量の「溢れ需要」を抱えている、力のある大手や中堅のハイヤー会社から、「傭車」として仕事を回してもらうこと。頭を下げて、そのおこぼれを頂戴する以外に、創成期の飢えを凌ぐ方法は存在しなかったのである。

    隆二が、奇跡のような巡り合わせでSTARリムジンの田山社長と出会い、ハイヤーマンとして三度目の再スタートを切ったまさにその頃。かつて隆二が激動の渦中で去ったWモビリティ、そしてハイヤー業界の裏舞台では、ある驚くべきドラマが進行していた。

    隆二がWモビリティを退職する際、自らの後任として、かつて苦楽を共にした洞口をハイヤー業界へ呼び戻した経緯がある。 洞口という男は、かつて「明治ハイヤー」の敏腕営業部長として、広範囲にわたる観光業界の人脈と凄まじい営業力を誇っていた男だった。しかし、2020年春に始まったコロナ禍の直撃により、観光需要がほぼゼロへ転落。明治ハイヤーの絶対権力者であった中富会長から理不尽な責めを受け、プライドをズタズタに引き裂かれて一度は会社を去っていた。

    その後、洞口は「アリゾナフレックス」という大手ECサイトの宅配軽貨物のドライバーにまで身を落とし、毎日狭い軽自動車に山のような段ボールを詰め込んで都心のマンションの階段を息を切らせて駆け上がるという、泥まみれの過酷な生活を送っていたのだ。

    しかし、洞口という男の営業センスと牙は、宅配の泥水のなかでも決して錆びついてはいなかった。 Wモビリティで隆二の後任としてハイヤー業界への復帰を果たした洞口だったが、やはり彼もまた、隆二がそうであったように、親会社から派遣されてきた話の通じない安保木新社長に愛想を尽かした。

    洞口は、Wモビリティの門を蹴り開けて飛び出した。その際、洞口の男気と技量に惚れ込み、彼を深く慕っていた内務の神業配車スタッフ・青木麗、そして経理・財務の要として現場の数字を守り続けていた若きイケメン、橋口の二人を引き連れて会社を後にしたのである。

    彼らが向かった先は、かつて明治ハイヤー時代の経営者であり、買収劇の裏で密かに牙を研いでいた中富会長の元だった。中富会長は洞口の手腕を再び高く評価し、莫大な資本を出資。こうして、新たなハイヤー会社「ヴィクトリー交通」が立ち上げられたのである。

    洞口が持つ、コロナ禍前に明治ハイヤーで培った高級ホテルや旅行業界への広範な人脈、そして青木麗の完璧な配車事務、橋口の緻密な財務戦略がガッチリと噛み合ったヴィクトリー交通は、インバウンドの復活という追い風を捉えて爆発的な急成長を遂げた。

    隆二がSTARリムジンで四苦八苦しているその頃、ヴィクトリー交通はすでに、自社の溢れ需要を処理するための「傭車先」として数十社の中小新興ハイヤー会社を傭車先に率いるほどの巨大なネットワークを構築し、業界の寵児となっていたのである。

    隆二は、そのニュースを風の噂で聞いた時、洞口の成功を心から嬉しく思った。 かつては自分が営業部長としてコロナ禍でビギナーズラックもあり、洞口を追い詰める格好になったこともあった。しかし、洞口の実力が他に並ぶ者がいないことを隆二は十分に理解していた。
    「そうか、実力のある人間が順当にその成果を出せたんだな!」と。

    しかし、STARリムジンの立ち上げの中で、いくら仕事が欲しくても、隆二から洞口に『仕事を回してくれ』なんて、口が裂けても頼めるものではなかった。長崎出身の男のプライドがそれを妨げた。

    しかし、世間というものは狭く、そして洞口という男は、隆二が思っている以上に「情報通」であり、何より男気のある人間だった。

    宅配ドライバー時代の地獄を知っている洞口だからこそ、同じように泥沼から這い上がろうとしている隆二の動向を放っておくはずがなかったのだ。
    洞口は、かつて敵味方として激しくぶつかり合ったものの、和田隆二という男の現場での圧倒的な仕事の質と顧客への誠実さに対して、絶対的な信頼を抱いていた。

    ある日の午後、STARリムジンの通常はほとんど音を立てない固定電話が鳴った。

    電話を受けた内務スタッフから受話器を受け取ると、耳に飛び込んできたのは聞き覚えのある涼やかな女性の声だった。

    「もしもし、和田部長? ご無沙汰しております。ヴィクトリー交通の青木です」

    「えっ……青木さん!? どうしたんだい」

    隆二が驚いて声を上げると、受話器の向こうの青木麗は、かつてWモビリティの引き継ぎで共に戦った時と同じ、クールで信頼感のある声で微笑んだ。

    「洞口社長から言伝を預かってお電話しました。『和田さんのところのアルファード、今、空きはあるか。ヴィクトリーの仕事で、どうしても信頼できるベテランの手に任せたい大切な海外VIPの案件が溢れている。和田さんのところなら安心してお願いできるから、何本か受けてくれないか』とのことです。窓口は私が担当しますので、嫌じゃなければ、お仕事、回させていただいてもいいですか?」

    隆二は、熱いものが胸の奥から突き上げてくるのを感じた。

    洞口は、隆二のプライドを傷つけないよう、自らは直接表に出ず昔馴染みの青木麗を窓口にして、さりげなく「助け舟」を出してくれたのだ。隆二の仕事内容に絶対の信頼を置いているからこそできる、男の粋な計らいだった。

    「……青木さん。洞口社長に、よろしく伝えて下さい。ありがたく、最高の仕事で応えさせて頂きます、と」

    こうして、STARリムジンはヴィクトリー交通という光源から、貴重な「傭車案件」という名の命水を時折分けてもらえることになった。窮地の中で繋がったこの縁を、隆二は絶対に無駄にはしないと心に誓った。

    傭車元であるヴィクトリー交通や、少しずつ増えてきた自社の直接のお客様からの信頼を勝ち取るためには、何よりもまず実際の運行において外部から文句なしの太鼓判を押される「優秀なドライバー」の確保が、STARリムジンにとっての急務であった。

    いくら仕事を持ってきても、現場のドライバーが遅刻をしたり、横柄な態度を取ったり、道に迷ったりすれば、その瞬間にSTARリムジンの看板は叩き割られる。

    そこで隆二は、STARリムジンに移籍した直後、すでに同社に籍を置きUber配車を中心に携わっていたドライバーたちの中で、本格的なハイヤー案件に従事したいと希望する人間を集め、一人ひとり膝を突き合わせた個人面談を敢行した。

    「ハイヤーというのは、ただ車を運転すればいいという仕事じゃない。お客様のプライベートな空間を預かり、時には企業の命運を握る要人の移動を支える影武者なんだ。君にその覚悟はあるか?」

    隆二の鋭い眼光を前に、ドライバーたちは緊張の面持ちでそれぞれの想いを語った。隆二は彼らの運転経歴、過去の接客態度、そして何よりも「ハイヤーマンとしての誇りを持てるか」という人格や内面を中心に選別していった。

    結果として、社内から選りすぐられたのは、当初わずか4〜5人という少数精鋭の部隊だった。

    初期のハイヤー案件としては、そもそも会社の自社案件自体が少なかったこともあり、ヴィクトリー交通などから受ける傭車をこなすだけであれば、この4〜5人の精鋭がいればなんとかローテーションを回すことができた。

    しかし、街に目を向ければ、インバウンドの嵐は日に日にその勢いを増し、都内は海外からの観光客で溢れかえっていた。

    その中で、STARリムジンが喉から手が出るほど欲しがり、圧倒的な不足状態に陥っていたのが、「ESD(English Speaking Driver)――英会話可能ドライバー」である。

    単に空港の到着ロビーでお客様の名前が書かれたミートボードを掲げて出迎え、荷物をスマートにトランクへ収め目的地までの送迎するだけなら出来るナンチャッテESDは多く在籍していたが、車内での臨機応変な英語対応、時にはトラブルにも英語で対応できるプロフェッショナルは実際2~3人しかいなかったのである。

    そんな貴重な人材は、大手の有名ハイヤー会社が破格の待遇で囲い込んでおり、STARリムジンのような名もない新興会社には、待てど暮らせど応募の通知すら来ないのが現実だった。隆二と田山社長は、毎日のように誰か本格的なESDはいないかと頭を悩ませ、外部の人材発掘にも必死に奔走していた。

    そんなある日、STARリムジンの事務所のドアを叩く、一人の熟年男性が現れた。

    「はじめまして。長原と申します。今年で59歳になります」

    面接の席に現れたその男は、一見すると、誰もが「素晴らしい人材が来た!」と飛びつきたくなるような見事なオーラをまとっていた。

    白髪交じりの髪を綺麗に整え、仕立ての良いスーツを隙なく着こなした紳士。履歴書を開けば、この業界には珍しい大学卒で英語もそれなりに話せそうだ。

    話を聞けば、かつてはテレビ業界の下請け制作会社を自ら経営し、一時期は青山の高級タワーマンションに自宅を構えるほどビジネスで成功を収めていた個人事業主だったという。だがご多分に漏れずコロナ禍の煽りで会社を畳み、第二の人生としてハイヤーの道を志したとのことだった。

    隆二が実際に助手席に乗って行った運転試験でも、長原はベテランらしく滑らかに高級車を操り、都内の主要なホテルへのルートもそこそこ頭に入っているようだった。

    「田山社長、これは掘り出し物ですよ。待ちに待った英会話ができる熟年紳士ドライバーです。即戦力として採用しましょう!」

    隆二の熱い推薦を受け、田山社長も「おお、それは素晴らしい。ぜひ我が社のエースになって欲しいです」と大いに期待して、長原を正式に採用した。

    ところが――。ビジネスの神様は、新興会社のスタートアップにそう簡単に甘い果実を与えてはくれなかった。

    採用後、隆二が指導教官として横に乗っている研修の時は、長原もかつての経営者らしい器用さで隆二の目を誤魔化し、丁寧に運転を取り繕っていたのだ。しかし、一人で実際の現場にデビューし隆二の監視の目が離れた途端、彼の本性が剥き出しになった。

    長原は、かつて社長としてブイブイ言わせていた時代の「傲慢さ」と「気の荒さ」を、ハンドルを握ると抑えることができない致命的な欠陥を持っていたのである。

    デビューしてわずか三日後、STARリムジンのデスクに座る隆二の元へ、一本の激しい苦情の電話が入った。

    「お宅の長原ってドライバー、一体どういう教育をしてるんだ! 前の車が少し発進が遅れただけで、激しくクラクションを鳴らすし、急ブレーキと急発進の連続で、後ろに乗っている海外の役員が車酔いして激怒しているぞ!」

    隆二は血の気が引くのを感じ、受話器を握りしめて平謝りした。

    「大変申し訳ございません! すぐに本人を確認し、厳重に指導いたします!」

    しかし、トラブルはそれだけにとどまらなかった。

    次の日には別の客から「首都高速の車線変更が強引すぎて生きた心地がしなかった。二度とあのドライバーは寄こさないでくれ」と出禁の連絡が入る。

    隆二は長原を事務所に呼び出し、語気を強めて厳しく指導した。

    「長原さん! あなたが乗せているのはテレビのADじゃない、大切なお客様だ! ハイヤーの運転というのは、コップに入った水が一滴も零れないほどの滑らかさが要求されるんだ。なぜそんなに荒い運転をするんですか!」

    長原は、プライドの高い顔を歪め、不満げに口を尖らせた。

    「和田さん、都心の渋滞の中でモタモタ走っていたら、時間通りに空港に着きませんよ。私はプロとして良かれと思って急いでいるんです」

    全く反省の色が見えない。かつて社長として他人に指示を出していたプライドが邪魔をして隆二からの指導を素直に受け入れることができないのだ。

    田山社長と隆二が「これ以上クレームが続けば、ヴィクトリー交通からの傭車も止められてしまう……どうやって首を切るべきか」と頭を抱えていた、まさにその矢先のことだった。

    会社側が手を下すまでもなく、事態は最悪の形で結末を迎えた。

    長原は、プライベートの運転も含め、移動中のスピード違反や一時不停止などの交通違反を短期間のうちに何度も執拗に繰り返していたのだ。警察からの累積点数が一気に限界を超え、長原の元に「免許停止処分」の通知が届いた。

    「……免許がないんじゃ、ハイヤーは運転できませんね。辞めさせてもらいます」

    紳士の仮面を被った暴走男は、バツが悪そうにそう言い残すと、あっけなく会社を去っていった。隆二の期待は見事なまでのカン違いと誤算に終わり、大きな苦い教訓だけが残された。

    長原の退職にうなだれる間もなく、数週間後、今度はSTARリムジンの門を叩く一風変わった外国籍の男性が入社してきた。

    彼の名前はモハメド。中東系のエキゾチックな顔立ちをした、非常に陽気で体格の良い30代の男だった。

    日本在住歴が長く、日本語も問題ない。そして何よりも、彼の話す英語はネイティブスピーカーに近く完璧だった。

    「私はそれまで、日本にやってくる海外の富裕層向けに、浅草や京都を案内するインバウンド客のプライベートガイドの仕事をやっていたことがあります! もちろん、ハイヤー利用でのガイドも何度もやったことがあり、ほぼ全ての主要ホテルへのアクセスも分かっています。日本の歴史や観光地の知識なら誰にも負けません!」

    モハメドは満面の笑みでアピールした。

    その圧倒的な語学力と、何よりも英会話が完璧にできるドライバーというだけで、喉から手が出るほどESDを欲していた隆二は、砂漠でオアシスを見つけたかのように飛び上がって喜んだ。

    「素晴らしい! モハメドさん、我が社のインバウンドの星になってくれ!」

    隆二は気を取り直し、モハメドに対して熱心な新人教育を開始した。

    その研修の最中、隆二はハイヤーマンとしての心構えを、モハメドの目をじっと見つめながら何度も執拗なまでに叩き込んだ。

    「モハメドさん、いいですか。あなたが以前やっていた『ガイド』と、これからやるハイヤードライバーの仕事は、似ているようで全くの別物、180度違うものなんです」

    「どうしてですか? どちらもお客さんを喜ばせる仕事デショ?」 モハメドは不思議そうに首を傾げた。

    「違います。ガイドは自分から積極的に喋り、知識を披露して場を盛り上げるのが仕事だ。しかし、ハイヤーの車内というのは、お客様にとっての『移動する書斎』であり、完全なプライベート空間なんだ。車内で、お客様と専属のガイドさんが会話している声は、どうしても運転席に聞こえてくる。だけど、ハイヤーのドライバーは、その内容に決して自分から口を挟んだり、言及したり、会話に参加してはいけない。バックミラー越しに目を合わせるのも最小限にし、気配を消して、安全に運転することだけに集中しなければならないんだ。それがハイヤーの鉄則だよ」

    「わかりました、和田さん! 気配を消す、忍者のようになります!」 モハメドは白い歯を見せて陽気に笑い、胸を叩いた。

    研修を終え、いざ実際の仕事に従事することになった。隆二は期待を込めて、STARリムジンが最も懇意にしている大手旅行会社から依頼されたアジア系の富裕層ファミリーの観光ハイヤー案件にモハメドを配車した。そのグループには、すでに高額な費用で雇われたプロの専属通訳ガイドが一名同行して車内に同乗することになっていた。

    ところが、運行が始まってわずか数時間後のことである。隆二のスマートフォンに、その旅行会社の担当者から怒気を含んだ緊急の電話がかかってきた。

    「STARリムジンの和田さんですか!? 明日からでいいから、今走っているドライバーのモハメドさんを別の方に入れ替えてください!」

    隆二の背中に冷たい汗が流れた。

    「えっ……一体、モハメドが何かトラブルでも起こしましたでしょうか!?」

    ワケを聞くと、あろうことかモハメドは、車内で同行のプロのガイドがお客様に観光地の歴史や日本の文化を説明している最中、バックミラー越しに会話を遮るようにして、頼まれてもいないのに自らの知識を偉そうにペラペラと喋り散らかしたというのだ。

    『おいおい、ガイドさん、その説明もいいけどね、 今のトレンドはこっちだよ! お客様、本当の日本の素晴らしいスポットはね――』

    同乗していたプロのガイドは、自らの仕事をドライバーに土足で踏みにじられ、面目を丸潰しにされて激怒。お客様も、車内の静寂が遮られドライバーが偉そうに自己主張を続ける異様な空気に、すっかり辟易して不快感を露わにしているという。

    「あれほど『会話に参加するな』ときつく指導したのに……!」

    隆二は受話器を持つ手が怒りで震えた。

    ただ、この「お喋り」の癖だけであれば、まだ会社に戻ってきたモハメドに対し厳重注意を行い、ハイヤーの規律を再度骨の髄まで教育し直すことで、改善へ繋げる余地はあったかもしれない。

    しかし、モハメドの本当の恐ろしさは、その運転スキルの壊滅的な低さにあった。

    彼は日本の狭い道路事情や、高級車の車両感覚を全く理解していなかったのだ。

    最初のクレームの翌週、モハメドはホテルの車寄せの柱にアルファードのリヤバンパーを激しく擦りつける自損事故を起こした。さらにその三日後には、狭い路地で対向車を避けようとして、左側のサイドミラーを電柱に激しく激突させ粉々に粉砕した。

    度重なる物損事故と、その度に隆二から「なぜもっと慎重に走らないんだ!」と激しく叱責される日々に、モハメドはすっかり嫌気がさしたのだろう。

    「この会社、ルールが細かすぎて私には合いません。辞めます」と、吐き捨てるように言い残し、自分からあっさりと退職届を出して去っていった。

    後から業界の横のつながりで分かったことだが、このモハメドという男は、STARリムジンに来る前にも都内の別のハイヤー会社で全く同じように何らかの原因で居場所がなくなり、わずか数ヶ月の短期間で退社を繰り返していた、業界内を転々とする「渡り鳥」の訳あり人間だったのだ。隆二の期待は、またしても脆く崩れ去った。

    長原、そしてモハメド。

    期待した国際派ドライバーたちが、次々と致命的なトラブルを起こして会社を去っていく後ろ姿を見送りながら、和田隆二は夕暮れのガレージでぽつんと佇んでいた。

    頭を冷やすように、初夏の心地よい風が通り抜けていく。

    そもそも、冷静になってこの業界の労働市場を考えてみれば、これは当然の帰結でもあった。

    一人の優秀なドライバーが、自らの生活と家族の未来をかけてハイヤー業界に飛び込もうとする時、まず真っ先に門を叩くのはどこか。それは、十分な案件をかかえ、それ故に給与水準が安定し、福利厚生も充実し、最新の車両と立派な自社ビルを構える大手有名ハイヤー会社である。それが一般的な人間の極めて正常な判断だ。

    つまり、STARリムジンのような、立ち上げたばかりで業界内の知名度もゼロ、口コミも実績もない創成期の新興会社には、こちらから特別な人脈を使って一本釣りでスカウトでもしてこない限り、向こうから自発的に門を叩いてくる人間というのは、大手の採用試験ではねられたり、前の会社で人間関係やトラブルを起こして居場所を失ったりした、「それなり」の人間が多いのが冷酷なまでの厳然たる事実であった。

    ハイヤー会社というのは、どこまでいってもドライバーが会社の売上を直接たたき出す「労働集約型」のビジネスである。

    大企業のようにシステムやブランドが金を稼いでくれるわけではない。一台の車のハンドルを握る、一人の人間の接客と運転の質こそが、すべての生命線なのだ。

    だからこそ、その生命線となる「優秀なドライバー」をゼロから雇い、一流のハイヤーマンへと育て上げ組織に定着させることは、新興会社にとって何よりも急務であり、同時に、天を仰ぎたくなるほど一筋縄ではいかない、困難を極める仕事であった。

    「……甘くねえな。だけど、だからこそ面白い」

    創成期の激しい泥濘(ぬかるみ)の中にありながらも、和田隆二の眼光は、まだ見ぬSTARリムジンの輝かしい未来の光をまっすぐに見据えていた。


    第5章-3 ★再会


    そんなある日、ハイヤー業界のネットワークに、大型の台数口案件が飛び込んできた。 来日した海外の大手投資銀行のVIP一行を、成田空港から都内の高級ホテル、そしていくつかの経済団体へ送迎するという、総勢二十台近くが動員される一大プロジェクトだった。STARリムジンにも、大手ハイヤー会社経由で傭車依頼が舞い込んだ。
    「和田さん、明日の二十台口の案件、一号車として先頭集団に入って頂くことになりました。粗相のないようにお願いしますね」
    田山社長からの電話連絡に、隆二は「了解です、お任せください!」と答えネクタイを締め直した。
    翌朝、成田空港のハイヤー待機所には各社の黒塗りの高級ミニバンやセダンがずらりと並び、壮観な景色を作り出していた。ドライバーたちは皆、一様に緊張した面持ちで顧客の到着を待っている。
    隆二は愛車のドアの傍らに立ち、静かに呼吸を整えていた。その時、すぐ隣のスペースに滑り込んできた、見覚えのあるエンゼル交通の車両から、一人の見覚えのあるドライバーが降りてきた。
    白髪の混じった短髪、鋭い眼光、しかしどこか哀愁を帯びた背中――。
    「……花山さん?」
    隆二は思わず声をかけた。 その男、花山は、声の主に気づくと、弾かれたように振り返った。
    「――っ! 和田、さん……!?」
    二人の視線が空間で激しく交錯した。次の瞬間、どちらからともなく歩み寄り、がっちりと互いの右手を握りしめていた。
    「花山さん! お久しぶりです! 元気だったかい!」
    「和田さん……本当に、本当にお元気そうで。まさか、こんな場所で再会できるなんて……!」
    花山の頑固そうな顔が、子供のようにクシャクシャに歪んだ。
    かつてエンゼル交通の営業所で、二人は激しく反目し合った仲だった。エリート崩れの隆二と、現場叩き上げの意地を持つ花山。しかし、倒産の危機やコロナ禍という荒波の中で、互いの仕事に対する「本物のプロ意識」を認め合い、次第に誰よりも信頼し合う戦友となっていた。何より、隆二にとって生涯の思い出となった、親友である赤川が病院で危篤となったあの夜、下道社長の制止を振り切って隆二を助けるため徹夜で京都までかけつけてくれたのは、この花山だったのだ。
    「あの時の恩は、一日たりとも忘れたことはないよ、花山さん」
    隆二が真摯な目で言うと、花山は照れくさそうに首を振った。
    「よしてくださいよ。俺はただ、男として当然のことをしただけです。それより和田さん、エンゼルを辞めて、今はそちらの会社に?」
    花山は隆二が乗車している車両のSTARリムジンのロゴに目をやった。
    「ああ。色々とあってね。今はここで、もう一度『理想のハイヤー』を目指して走っているんだ。花山さん、そっちはどうだい? 内務の管理職として、下道社長を支えているんだろう?」
    その問いに、花山の表情がフッと曇った。彼は自嘲気味な笑いを浮かべ、タバコを吸うジェスチャーをしながら声を潜めた。
    「相変わらずですよ、あの社長は移り気というか、風変わりというか……。半年前、新しくどこぞの数か国語が話せる40歳くらいの外国人をを幹部に登用しましてね。俺は用済みってわけで、内務からは相変わらず遠ざけられてます。ご覧の通り、イチ運転手として淡々と仕事をこなす毎日です。」
    花山の言葉に、隆二の胸の奥で怒りと、それ以上の「確信」が燃え上がった。
    下道は、花山のような「宝」をドブに捨てるような真似をしたのだ。現場を知り尽くし、誰よりも熱いハートを持ったこの男を。
    (やはり、神様がこのタイミングで俺たちを引き合わせたんだ。赤川が上から操っているに違いない)
    隆二は花山の肩を強く叩いた。
    「花山さん。今日の仕事、お互いに最高のパフォーマンスを見せよう。エンゼルの意地と、STARのプライドのぶつかり合いだ」
    「へへ、望むところです。和田さんの後ろ姿、きっちり追わせていただきますよ」
    その日の運行は、完璧の一言に尽きた。先頭を走る隆二の微細な車線変更や速度調整に、二号車の花山はまるで呼吸を合わせるかのようにピタリと追従した。二台の黒塗りの車両が、まるで一つの生き物のように首都高速を滑走する様は、同乗していた海外のVIPたちからも絶賛された。
    運行が終了し、ホテルで顧客を見送った後、隆二は花山の目を真っ直ぐに見つめて言った。
    「花山さん。近い将来、必ずまた、同じ看板を背負って仕事をしよう。その時は、あなたの力を何十倍にも活かせる場所を用意しますよ」
    「……待ってますよ、和田さん。あんたの言葉なら、俺は信じる」
    二人は二度目の熱い握手を交わし、それぞれの帰路についた。東京の夜景が、かつてないほど輝いて見えた。

    第5章-4 ★結集


    2025年7月。季節は初夏へと移り変わり、STARリムジンは大きな転換期を迎えようとしていた。
    隆二が現場で証明し続けた「圧倒的なクオリティ」により、大手ハイヤー会社からの信頼は少しずつ上昇し、傭車依頼も何とかハイヤー部のドライバーを食べさせていける状態になっていた。しかし、隆二の目指すゴールはここではない。下請けからの脱却、そして次世代のモビリティ革命に対応できる「最強の組織」の構築である。
    隆二は田山社長を呼び出し、一枚の組織改革案を提示した。
    「田山社長。我が社を真の一流ハイヤー会社にするための、新たな会社運営の中枢を担う強い力が必要です。今、私が考えている、少なくとも3人の有力な人財がいます。」
    田山に隆二の提案を拒む理由は一切なかった。
    「是非お願いします!」

    隆二はすぐに動いた。
    まずは、エンゼル交通で下道社長から冷遇され、燻っていた花山のもとへと足を運んだのである。
    新橋のガード下の居酒屋で、隆二は生ビールを花山の前に置いた。
    「花山さん、回りくどいことは言わない。STARリムジンに来てくれ。君には、我が社の『運行管理部長兼チーフドライバー』として、若いドライバーたちの教育と、現場の総指揮を執ってもらいたい。あの心無い社長の下で君の才能を腐らせておくのは、業界全体の損失だ」
    花山はジョッキを握ったまま、絶句した。
    「和田さん……しかし、俺はただの頑固な運転手ですよ? 内務を追われた身だ」
    「違う!」
    隆二は机を叩いた。
    「君は、誰よりも現場の痛みがわかり、誰よりもお客様の安全を第一に考える男だ。田山社長も、君の評判を聞いて『ぜひ、花山さんにウチの若い奴らを叩き直してほしい』と熱望している。もう一度、俺と一緒に、本物のハイヤー会社を作ろうじゃないか!」
    花山の目に涙が溢れた。彼は一気にビールを飲み干すと袖で口を拭った。
    「……分かったよ、和田さん。あんたにそこまで言われて断ったら男がすたる。エンゼルに辞表を出してくる。」
    これまで理不尽に耐え続けた花山が最後に挑戦する舞台を見つけた瞬間だった。
    二人は豪快に笑い合った。花山の合流により、隆二は、STARリムジンの「現場力」が一気にレベルを跳ね上がることが約束されたように思えた。

    さて、次なるターゲットは、「インバウンドの切り札」の獲得だった。
    かつてコロナ禍の最中、隆二が明治ハイヤーの再生に奔走していた時期に奇跡的にも親交を深めた男がいた。
    明治ハイヤー時代、デスクを隣り合わせ仕事を共にした竹村である。
    現在は、ハイヤー界のフィクサーとも呼ばれる中富会長の直轄組織で、海外の政府高官や超大物セレブ専門の専属ドライバーとして、実質的なインバウンド戦略のブレインを務めていた。
    隆二は中富会長のオフィスを訪ね、正面から直談判を行った。
    「中富会長。お久しぶりでございます。本日は、会長の懐刀である竹村さんを我がSTARリムジンへお譲りいただきたく、参上いたしました」
    中富会長は、葉巻の煙を燻らせながら、鋭い目を隆二に向けた。
    「ほう……和田くん。相変わらず命知らずなことを言うな。竹村は我がグループの国際戦略の要だぞ。新参のSTARに彼を満足させるだけの何があるというのだ?」
    隆二は怯むことなく、自らのビジョンを熱弁した。
    「中富会長。現在のインバウンドは、単なる観光客の送迎ではありません。移動中の車内を『動くオフィス』『最高機密の会議室』として機能させる、高度なモビリティサービスが求められています。中富グループの既存の枠組みでは、古い規制と組織の肥大化により、迅速なシステム投資ができません。竹村さんの持つノウハウと我が社の機動力、そしてこれから導入する最先端のITインフラが融合すれば、日本のインバウンドの景色を変えられます。これは、日本の国益のための投資です!」
    隆二の情熱に満ちた言葉に、中富会長はしばらく沈黙していたが、やがてフッと破顔した。
    「相変わらず、大それたホラを吹く男だ。だが、お前が吹くホラは、不思議と現実になる時があるからな……竹村! お前はどうなんだ?」
    室内の影から、スマートな身のこなしの竹村が現れた。彼は隆二に向かって形式的な会釈をした。
    「和田さん。正直、今のあなたのお言葉に胸を打たれています。中富会長、お許しをいただけるのであれば、私は和田さんとともに、新しい時代のモビリティを創造させて頂けないでしょうか?」
    「フン、相思相愛か。引き止めれば、老害と言われそうだな」
    中富会長は豪快に笑った。数ある修羅場を渡り歩いてきたキレものは察知も早い。余計な引き留めはしなかった。
    「いいだろう、和田くん。竹村をくれてやる。その代わり、日本のハイヤーの常識をひっくり返してみせろ!」
    「ありがとうございます、会長!」
    ほどなくして、竹村は隆二のいるSTARリムジンで国際戦略のブレインとしてスタッフに加わることになった。

    三人目の矢は、すでにSTARリムジンの内部にいた。
    田山社長の創業時からの片腕であり、当時四十歳を過ぎたばかりの、陳(チェン)という男である。陳は一見、物静かで目立たない内務スタッフだったが、実は中国のトップ大学で人工知能と交通工学を修めたITスペシャリストだった。
    隆二は陳を社長室に呼び、パソコンの画面を指差した。
    「陳さん。君の経歴を読ませてもらった。君はなぜ、これほどの才能を持ちながら、ただの配車管理に甘んじているんだ?」
    陳は微かに驚いた表情を浮かべ、流暢な日本語で答えた。
    「和田さん……。日本のタクシー・ハイヤー業界は、規制が厳しすぎます。私がいくら先進的なシステムを提案しても、大手企業は『前例がない』『労働組合が反対する』と、聞く耳を持ってくれませんでした。田山社長だけが、私をまともな戦力として雇ってくれたんです。だから、私はここで配車アプリの管理をするだけで満足していました」
    隆二は陳の両肩をがっしりと掴んだ。
    「満足するな! 陳さん、君の力が必要なんだ。君は、自動運転を推進している中国の超大手モビリティ企業の自動運転部門の幹部と今も深い繋がりがあるんだろう?」
    「……ええ。大学時代の同期が、あそこの開発責任者をやっています」
    「だったら、そのパイプを今すぐ繋いで欲しい! STARリムジンを、ただのハイヤー会社じゃない。日本で最初の『AI・自動運転ハイブリッド型ハイヤー会社』に進化させるんだ!」
    陳の目が、初めて野生の肉食獣のように鋭く輝いた。
    「和田さん……本当に、私にそこまでやらせてくれるんですか? 日本の古い法律を、ぶち破ることが出来るんですか?」
    「ああ、上等だ。法律が変わるのを待つんじゃない。俺たちが実績を作って国を動かすんだよ!」
    陳は深く頷き、不敵な笑みを浮かべた。
    「分かりました。であれば、私の本気をお見せしましょう。中国の最新自動運転アルゴリズムと我が社の配車システムを直結させます」
    花山(現場の神)、竹村(国際戦略の要)、陳(最先端ITの達人)。
    和田隆二の元に、激動の時代を生き抜いた異才の有志たちが、ついに結集した。田山社長は、その光景を見て「まるで現代の『水滸伝』ですね!」と、ユーモアも混じえて少年のように目を輝かせた。

    第5章-5 ★課題


    明治ハイヤー、エンゼル交通、STARリムジン、それぞれの過程で、隆二が得た奇跡の縁で結ばれた仲間達が集結した。
    こうした経営側の布陣が整う一方で、実際の運営の中で創業期の数々の課題を解決して行かなければならない。

    <内務の仕事>
    ハイヤー会社が傭車案件に依存せず、利益率の高い自社案件を増やしていくためには前線の営業力が必要不可欠である。しかし現実の壁は厚い。新興のハイヤー会社が乱立する中で、海外の富裕層や国賓を迎える最高級ホテル、あるいは世界的なつながりを持つ大手旅行会社といった最上流の販路は、すでに老舗の既存ハイヤー会社がガッチリと利権を握っている。名だたる高級ホテル1つでも一手に配車できる強固な繋がりを持てれば、それだけでハイヤー会社1社に溢れるほどの需要がもたらされる。だが、その生命線ともいえる重要な販売網を、先行他社が易々と手放すはずもない。最初は地道に3番手、4番手の控えとして食い込み、メインの会社が大きなトラブルを起こして優先順位が入れ替わるのを待つしかないのが、この業界の冷徹な現状だった。
    このような初期状態において、外部に対して最も強力な営業力となるのは、個々の営業マンの口八丁トークではない。その何倍も重要となるのが、バックオフィスである内務スタッフのパフォーマンスなのだ。 配車依頼に対する秒単位のクイックレスポンス。依頼元の要望に応じた適切な車両選定やエグゼクティブ対応、英語対応が可能なドライバー(ESD)などの的確な手配。
    そして、何よりも客先が安心できる早めの車両・ドライバー情報の提供が必要となる。これらが完璧に機能して初めて、顧客は「STARリムジンなら任せられる」と確信する。
    しかし、多くの新興ハイヤー会社がこの本質を見誤る。創成期の段階で、閑散期に仕事が減ることを恐れるあまり、繁忙期に限界以上の仕事を詰め込んでしまうのだ。そしてパズルのように配車効率を高めようと、一旦確定させて客先に通知した車両やドライバーを、直前になって「ESDの必要性」や別案件の「ドライバー指定」を理由に頻繁に入れ替える。この「直前変更」こそが、最も客先に嫌われ、信頼を失う行為であることを認識しなければならない。短期的な売上増に目が眩んだ行為は、長期的な大顧客を永遠に失う結果を招くということを。
    「いいか、内務のレスポンスと正確性こそが、俺たちの最大の武器なんだ」 隆二は内務スタッフたちを集め、詳細な教育を徹底した。目先の1案件をパズルのように組み替えることより、客先への約束を違えない誠実さが結果として数年後の大きな利益に繋がることをコンコンと説いた。
    そして、業務自体よりも内務には根本的な大きな問題があった。それは内務に適した人材確保である。
    そもそも、こういった業務に従事する内務人材が不足しており、かつ、その人材を探し出すことは非常に難しいのである。
    ハイヤー業界で働く人間の大半はドライバーからキャリアをスタートするため、ある程度のPCスキルやマルチタスクをこなす「事務能力の高い内務人材」を確保することは至難の業だった。
    隆二が目を向けたのは、結婚や出産を機に前線を退いた元高級ホテルのコンシェルジュや、元航空会社のグランドスタッフ、旅行代理店のオペレーターたちだった。彼女らは元々、富裕層ビジネスのプロであり、おもてなしの心と事務処理能力を兼ね備えている。ドライバー出身者とは異なる視点で配車管理ができる。隆二は、そういった人材を高く評価し、リモートワークや柔軟なシフト制を導入する方向性を打ち出していった。

    <ドライバーの労働環境改善>
    確実な仕事、すなわち「時間厳守」「安全運転」「洗練された接客」を担保するためには、優秀なドライバーの確保が絶対条件となる。そのためには、単に給与を上げるだけでなく、ドライバーの労働環境を根本から改善し、「STARリムジンで働けば間違いない」という自然な口コミが業界内に広がる組織を創り出さなければならなかった。
    ハイヤーの質を決めるのは、技量もさることながらハンドルを握る人間の心の余裕である。隆二は、ドライバーが満足して働き続けられる、快適で先進的な環境構築へと舵を切った。
    その象徴的な一例が「IT点呼」の完全活用である。 従来、ハイヤー業界では連泊案件や遠隔地案件などの特例を除き、原則として営業所での対面点呼が義務付けられていた。しかしこれでは、住んでいる地域によっては、ドライバーは毎日往復2〜3時間もの時間をかけて会社に出勤し、そこから出庫しなければならない。この通勤負担はドライバーの体力を著しく奪い、慢性的な疲労の原因となっていた。 隆二は、最新の顔認証システム、アルコール検知器と連動したクラウド型のIT点呼システムをいち早く導入。規制緩和の波を捉え、国交省の認可を得て、条件を満たしたドライバーには「自宅近くの提携サテライト駐車場からの直行直帰」を認める制度作りを始めた。これにより、毎日の無駄な移動時間が消滅し、ドライバーたちは十分な睡眠と家族との時間を確保できるようになる。
    さらに、隆二の提案による環境改善はそれだけに留まらなかった。 まずは「AI予測を活用したスマート休憩システム」の導入。ドライバーが待機中に最も困るのが、食事やトイレのタイミングである。STARリムジンでは、内務と連動したアプリが、次の配車までの時間と現在地から、最適な「仮眠・休憩スポット」や「高級車両でも駐車しやすいスペース」をリアルタイムで推奨する仕組みを構築した。これにより、路上駐車での切羽詰まった違反リスクや精神的ストレスを大幅に軽減出来るようになる筈だ。
    また、評価制度のオープン化も実施した。顧客からのチップや高評価レビューは、中抜きのマージンを最小限に抑え、ダイレクトにドライバーの給与やボーナスに反映される「透明なインセンティブ制度」を確立。さらに、長期的なキャリアアップとして、シニアドライバーが若手を育成する「メンター手当」や、語学や国際プロトコルを学ぶための「自己投資支援制度」も設けた。
    「私達は、ただの運転手じゃない。お客様の時間を預かるコンシェルジュだ」 ドライバーたちの顔から悲壮感が消し去り、ハイヤーのプロとしての誇りと笑みを生み出すよう注力した。
    こういった労働環境の向上が自然と世間に伝われば、STARリムジンには求人広告を出さずとも、他社で磨かれたベテランや高い志を持つ若手が「あそこなら安心して働ける」と、自然に続々と集まる好循環が生まれるのである。

    <国内インフラ改善への取り組み>
    2026年に突入した東京は、これまでにない「モビリティ革命の過渡期」を迎えていた。 日本は長年、強固なタクシー権益に守られた世界であり、海外で普及しているような「ライドシェア」や「次世代型モビリティシステム」の導入に対して、極めて保守的な姿勢を崩せていなかった。欧米や中国などの先進国がスマートフォン一つでシームレスに移動できる利便性の高い社会を構築していく中、日本の空港や主要駅におけるインフラは完全に取り残されていた。 特にアプリ配車やハイヤーに対しては、駅や空港で「確固とした専用の待機場所・送迎レーン」が与えられず、常に疎外感が漂っていたのである。
    しかし、2026年初夏、押し寄せるインバウンドの嵐と世界的なモビリティの潮流に抗いきれず、国土交通省はやっと重い腰を上げた。ハイヤーおよびアプリ配車対応車両のため、まずは羽田空港から専用インフラ作りにようやく動き出したのである。 こういったハイヤー業界に対する方針転換は現場に「産みの苦しみ」をもたらす。特に週末の羽田空港第3ターミナルは、新設された「アプリ配車専用レーン」の運用に対応しきれない車両と、その誘導に不慣れな現場スタッフにより、それまでに増して発生する週末の大渋滞・混乱が発生した。
    しかしながら、こうした取り組みが開始されたこと自体が画期的なことであり、その後の改善・発展が大いに期待される段階に日本がやっとたどり着いた瞬間だった。

    STARリムジンも当事者意識を高め、ハイヤー業界に対するインフラ改善に少なからず貢献していかなくてはならない。
    「今こそ、俺たちの出番だ。民間から国を動かすぞ」 隆二と田山社長が動いた。かつて隆二が日の丸航空時代に経験した各省庁や国交省の官僚たちとのパイプを活かせないものか、そして主要ハイヤー協会への参加も必要だ。
    混乱を極める羽田空港の現場に自ら立ち、データを収集、国交省および空港ビル当局に対して、ハイヤー協会とも連携し具体的な改善案を提示していかなくてはならない。
    STARリムジンは「単に移動手段を提供する会社」から、「国家の移動インフラをデザインするパートナーの一翼」へと変貌していくのだった。

    <自動運転化への対応>
    時代の波は、自動運転化という巨大な地殻変動を起こしつつある。世間では「自動運転が普及すれば、ドライバーの数は削減され、ハイヤー会社は不要になる」という極論も囁かれていた。しかし隆二は、それを脅威ではなく、大いなる好機として捉えていた。テクノロジーに淘汰されるか、それともテクノロジーを飼いならすか。
    いよいよここで、中国の自動運転開発メガベンチャーとの太いパイプを持つ陳の腕の見せ所だ。
    自動運転技術の開発自体は、膨大な資本とデータを背景にした世界的大企業に任せればいい。問題は、STARリムジンがハイヤー会社として、その高度なオペレーションにどう関わっていくかだ。陳の仲介により、STARリムジンは中国の自動運転トップ企業との共同実証実験パートナーとなることを目指した。
    隆二が導き出した、ハイヤー会社が果たすべき関わり方の答えは「ハイブリッド・リミテッド・サービス」。 まず、高速道路や主要幹線道路、空港から都心への直線ルートなど、極めて安全性が担保されたセクションは「レベル4(特定条件下における完全自動運転)」のAIに任せる。しかし、そこから先、複雑に入り組んだ都心の路地、格式高い料亭や高級ホテルのエントランスへのアプローチ、そして何よりもお客様の細かな体調の変化変化に気づき、言葉にしない要望を察するというおもてなしは人間にしかできない。
    STARリムジンが描く初期の自動運転化は、車内に「コ・パイロット(副操縦士兼コンシェルジュ)」として、卓越したプロのドライバーが同乗する形態だった。運転のストレスから解放されたドライバーは、移動する車内を最高級のプライベートサロンに変えるため、接客と安全監視にすべてのエネルギーを注ぐことができる。また、過疎地や深夜の移動においては、STARリムジンの内務センターが「遠隔管制室」となり、複数台の自動運転ハイヤーの安全を監視・コントロールするオペレーター業務も請け負うこととなった。自動運転車両のメンテナンス、車内の徹底した清掃と空間演出のクオリティ管理。これらはすべて、ハイヤーのプロでなければAIにはまだ不可能な領域だ。
    「技術が進歩すればするほど、最後に残るのは『人間の温もり』と『信頼』だ。私達はAIにハンドルを奪われるんじゃない。AIを従えて、さらに上の感動を提供するんだ」 陳がもたらした最先端の矢は、隆二の哲学と融合し、自動運転を「ドライバーを減らす道具」から「ドライバーの価値を極限まで高めるシステム」へと昇華させていく。

    隆二が考える理想のハイヤー会社づくりには、まだまだ課題が山積している。
    しかし、そのすべての課題に全力で挑める「今」があることに、隆二は心から感謝している。

    ふと、東京の夜景をバックに走り去る自社の漆黒のハイヤーを見送りながら、隆二はポケットに手を突っ込んだ。その指先が、ずっとお守り代わりに持っている「赤川の形見の写真」にそっと触れた。
    (おい、赤川。見てるか? お前が繋いでくれた俺の命だ。無駄にはしなかったぞ……)
    かつて起業に失敗し、勤務先が経営破綻し、人生の泥沼の中で、すべてを諦めかけ、自ら命を絶つことすら頭をよぎったあの夜。しかし、これまでの荊の道を歩む中で、隆二が血の滲む思いで掴み取ったすべての経験、すべての挫折、すべての涙は、何一つとして無駄なものはなかった。あの夜の絶望も、孤独も、すべては今この瞬間のためにあったのだ。そのすべての点が強力な線で結ばれ、今、未来を照らす力強いネットワークとなった。
    進行する自動運転化、激変する世界。しかし、ここに集う頼もしい仲間たちがいる限り、日本のハイヤー業界の未来は、どこまでも明るく不屈の光に満ちている。

    熟年世代の人間たちが、これまでに培った知恵と意地を武器に、若き力と共に生き生きと挑戦できる環境を創り出すこと。そして、すべての働く人間たちの誇りと情熱を乗せて、隆二は、まだ見ぬ明日の街へと、力強く、どこまでも走り続けるのだった。
    ( 完)





    #創作大賞2026 #お仕事小説部門

     
     
    ペンネームは本名の読みと自らの中途半端な人生=「歯痒い」の音をかけ合わせたものです。 実体験をもとにモデル小説を書いています。 よろしくお願い致します🙇

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