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きみがまた大人になるまで

    あらすじ

    不妊治療を続ける夫婦、真琴と遼。

    何度期待しても、結果は繰り返し裏切られる。

    それでも遼は優しかった。

    静かで、穏やかで、痛みを見ないふりをするように。

    ——「二人でも、悪くないと思うんだよね」

    その夜。

    雨音の響くリビングに、赤ん坊が現れる。

    遼のスウェットを握りしめた、見知らぬ赤ん坊。

    そして、夫だけが消えていた。

    戸惑いながらも赤ん坊を育て始める真琴。

    失うこと。

    愛すること。

    待ち続けること。

    これは、消えた夫ともう一度出会うまでの、小さな奇跡と再生の物語。


    第一章 雨の匂い

     雨が降っていた。

     病院の自動ドアが開くたびに、湿った空気が待合室に流れ込む。真琴は診察券を指先でなぞりながら、壁の時計を見上げた。

     午後三時過ぎ。

     不妊治療専門クリニックの待合室には、静かな疲労が沈んでいる。

     同年代くらいの女性が多い。

     誰も大きな声では話さない。

     真琴もその一人だった。

    「藤崎さん」

     名前を呼ばれて、肩がわずかに跳ねる。

     隣に座っていた遼が立ち上がる。

    「行こ」

     短い声。

     立ち上がる前に、遼は膝の上で揃えていた書類の角をきちんと重ね直した。そういう几帳面なところは、昔から変わらない。

     診察室の白さは、いつ来ても慣れない。

     医師はカルテをめくりながら、少し言葉を選ぶように口を開いた。

    「今回も、着床は確認できませんでした」

     真琴は小さく頷いた。

     もう何回目か、考えるのをやめていた。

    「年齢的にはまだ十分可能性はあります。ただ——」

     その“ただ”が一番重い。

    「治療のステップを少し見直す時期かもしれません」

     真琴は手元を見たまま答える。

    「少し、考えさせてください」

     遼は何も言わない。

     こういう時、彼はいつもそうだった。

     けれど帰り際、診察室の椅子を静かに元の位置へ戻しているのを見て、真琴は少しだけ息が詰まった。

     そんな優しさを向けられるたび、自分だけが壊れていく気がした。

     診察室を出ると、空気が少し軽くなる。

     それでも胸の奥は重いままだった。

    「帰り、何か食べる?」

     遼が聞く。

    「……なんでもいい」

    「じゃあ、駅前でいい?」

     真琴は頷く。

     外に出ると、雨は少し弱くなっていた。

     アスファルトが濡れて、街の光をぼんやり反射している。

     傘を差す遼は、いつも少しだけ真琴側に傾ける。

     その癖だけは変わらない。

     信号待ちの間、遼は傘の柄についた雨粒を親指で拭っていた。細かい汚れが気になる性格なのだ。

    「仕事、どう?」

    「普通」

    「そっか」

     会話はそこで終わる。

     それ以上、広げるのが怖い。

     駅前の交差点で、若い母親がベビーカーを押していた。

     雨除けのビニール越しに、小さな手が見える。

     赤ん坊は何が楽しいのか、ひとりで笑っていた。

     真琴は思わず目を奪われる。

     以前なら、ただ可愛いと思った。

     けれど今は違う。

     可愛いと思うたびに、その先を想像してしまう。

     小さな服を選ぶこと。

     名前を考えること。

     熱を出して慌てること。

     誕生日を祝うこと。

     入園式。

     運動会。

     反抗期。

     いつか大人になって家を出ていく日。

     当たり前に訪れるはずだった未来。

     真琴は気づいていた。

     欲しかったのは赤ん坊だけじゃない。

     その先に続いていく時間だった。

     信号が青になる。

     真琴は視線を逸らした。

     胸の奥だけが取り残されたままだった。

     遼は気づかないふりをしていた。

     その優しさが、時々いちばん苦しかった。

    *

     その夜。

     真琴はキッチンで洗い物をしていた。

     水の音だけが部屋に広がる。

     ソファの脇には、遼が途中まで読んでいたビジネス書が伏せられている。読みかけのページを折るのを嫌う彼は、いつも同じ向きで置いていた。

    「ちょっと疲れた」

     そう言って、遼はソファにもたれた。

     食器を洗いながら、真琴は何度も同じ皿をこすっていた。

     泡はとっくに落ちている。

     それでも手は止まらない。

     子ども用の食器なんて、一枚もない。

     それなのに食器棚の空いた場所を見るたびに、何かを待っている気持ちになる。

     ——まだ間に合うはずなのに。

     ふと、そんな言葉が頭をよぎる。

     何に対してなのか、自分でも分からない。

     年齢なのか。

     時間なのか。

     それとも、どこかで失いかけている未来なのか。

     真琴はふと思い出す。

     結婚したばかりの頃。

     二人で家具を選びに行った日。

     狭いアパートだった。

     それでも十分だった。

     遼はソファの色で真剣に悩みながら、

    「そのうち家族が増えたら、もっと大きいのがいるかもね」

     と笑っていた。

     真琴も笑った。

     その時は疑いもしなかった。

     いつか当たり前に子どもが生まれて。

     家族が増えて。

     二人で歳を取っていくのだと思っていた。

     未来はまだ白紙で。

     だから何にでもなれる気がしていた。

    「真琴」

     ソファから声がした。

    「うん?」

    「さ」

     少し間があく。

    「二人でも、悪くないと思うんだよね」

     真琴の手が止まる。

     水の音だけが続く。

     その言葉は、優しいのに、どこか痛かった。

     諦めようと言われた気がした。

     いや、きっと違う。

     遼は真琴を守ろうとしているだけだ。

     これ以上傷つかないように。

     それでも。

     それでも真琴は、まだ諦められなかった。

    「……そうだね」

     そう答えるのが精一杯だった。

     遼はそれ以上何も言わなかった。

     洗い終えた皿を拭き終わる頃には、ソファから静かな寝息が聞こえていた。

    *

     夜が深くなった頃。

     雨音の中で、真琴はかすかな声を聞いた。

     最初は夢だと思った。

     けれど、確かにそれは泣き声だった。

     小さく、途切れ途切れの。

     真琴は目を開ける。

     隣に遼はいない。

    「……遼?」

     返事はない。

     泣き声はリビングから聞こえた。

     真琴はゆっくり起き上がる。

     嫌な予感だけが先に胸に落ちていた。

     リビングのドアを開ける。

     ソファの上。

     そこにあったのは、小さな身体だった。

     赤ん坊が泣いている。

     遼のスウェットを握りしめながら。

     ソファの脇には、読みかけの本だけが伏せられていた。

     部屋には、彼の姿だけがなかった。


    第二章 知らない泣き声

     赤ん坊は泣いていた。

     真琴は、立ち尽くしたまま動けなかった。

     エアコンの風が、薄いカーテンを揺らしている。テレビは消えていた。時計の秒針だけがやけに大きく聞こえた。

     遼がいない。

     その事実だけが、ゆっくりと身体に染み込んでくる。

    「……遼?」

     もう一度呼ぶ。

     返事はない。

     赤ん坊は泣き続けている。

     真琴は恐る恐る近づいた。

     ソファの上に落ちた毛布。その中で、小さな身体がもがいている。

     灰色のスウェット。

     遼が寝る前まで着ていた服だった。

     真琴の喉がひくりと震える。

    「なに、これ……」

     赤ん坊は涙で濡れた目を開き、真琴を見た。

     その瞬間。

     胸の奥が妙にざわついた。

     泣きながら眉を寄せる顔に、妙な既視感があった。

     誰かに似ている気がした。

     けれど、その考えを真琴はすぐに打ち消す。

     ありえない。

     そんなこと、あるはずがない。

    「違う……」

     自分に言い聞かせる。

     疲れているだけだ。

     不妊治療のストレス。睡眠不足。雨の音。

     おかしくなっている。

     真琴はスマートフォンを掴んだ。

     遼に電話をかける。

     けれど、すぐ近くで電子音が鳴った。

     テーブルの上。

     遼のスマートフォンが、画面を光らせながら震えている。

     真琴は息を呑んだ。

     寝室。

     浴室。

     トイレ。

     クローゼット。

     ベランダ。

     何度確認しても、遼はいない。

     玄関には靴が残っている。

     財布もある。

     スマートフォンもある。

     それなのに。

     人ひとりだけが消えていた。

     意味が分からなかった。

     理解しようとするたびに、頭のどこかが拒否した。

     その時。

     赤ん坊がまた大きな声で泣き始めた。

     真琴は肩を震わせる。

     どうしたらいいのか分からない。

     それでも放っておくことはできなかった。

     恐る恐る抱き上げる。

     小さな身体だった。

     温かかった。

     落としてしまったらどうしよう。

     首が曲がったら。

     苦しくなったら。

     そんな考えばかり浮かぶ。

    「ご、ごめん……」

     何に謝っているのか、自分でも分からない。

     その時、不意に記憶が蘇った。

     数年前。

     姉が出産した直後、病室で赤ん坊を抱かせてもらったことがある。

     その時、姉は笑いながら言った。

    『とりあえず揺らしとけばなんとかなる』

     真琴はぎこちなく身体を揺らした。

     すると。

     赤ん坊の泣き声が少しだけ弱くなる。

    「……あ」

     ゆっくり、ゆっくり揺らす。

     赤ん坊は真琴の服を掴み、小さく鼻を鳴らした。

     それから、安心したように目を閉じた。

     真琴はしばらく動けなかった。

     腕の中にいる存在の温度だけが妙に現実だった。

     遼はいない。

     なのに。

     どうして自分は、この子を抱いているのだろう。

    *

     朝まで一睡もできなかった。

     赤ん坊は何度か目を覚ました。

     そのたびに泣いた。

     真琴は抱き上げた。

     それが正しいのかも分からないまま。

     ソファに座ったまま、窓の外が少しずつ明るくなっていくのを見ていた。

     遼のスマートフォン。

     財布。

     読みかけの本。

     脱ぎ捨てられたスウェット。

     何もかもが、そこにいた人の気配を残している。

     それなのに。

     遼だけがいない。

     怖かった。

     涙も出なかった。

     何か現実感がない。

     夢を見ているみたいだった。

    「……どうすればいいの」

     呟いても、答える人はいない。

     赤ん坊は真琴の腕の中で眠っている。

     小さな寝息が規則正しく続いていた。

     真琴はその顔を見つめた。

     知らない子のはずだった。

     それなのに。

     毛布がずれていないか気になった。

     泣いたら抱き上げなければと思った。

     目を覚ました時、そこにいることを確かめてしまった。

     放っておけない気がしていた。

     その理由は分からない。

     分かりたくもなかった。

     分かってしまえば、何かを認めることになる気がした。

     窓の外では、まだ雨が降っている。

     朝になっても、世界は何一つ説明してくれなかった。


    第三章 あなたではない

     赤ん坊との生活は、突然始まった。

     準備なんて何もなかった。

     哺乳瓶も、おむつも、ベビーベッドもない。

     翌朝、真琴は赤ん坊を抱えてドラッグストアへ向かった。

     粉ミルクの棚の前で立ち尽くす。

     種類が多すぎて分からない。

     月齢。

     アレルギー。

     乳首のサイズ。

     どれも自分とは無縁の言葉だと思っていた。

     周囲の母親たちは迷いなく商品をカゴへ入れていく。

     自分だけが場違いな場所へ紛れ込んでしまった気がした。

    「あの……」

     真琴は店員へ声をかけた。

    「初めてで……」

     そう言った瞬間、自分で傷ついた。

     初めて。

     確かに初めてだった。

     けれど、それは望んだ形ではなかった。

     店員は慣れた様子で商品を説明してくれる。

     真琴は何度も頭を下げながら買い物カゴを抱えた。

     帰り道。

     ベビーカーを押す母親たちとすれ違う。

     以前なら目を逸らしていた光景だった。

     羨ましくて。

     苦しくて。

     見たくなかった。

     それなのに今は、自分の腕の中に赤ん坊がいる。

     ずっと欲しかったはずだった。

     けれど違う。

     こんな形を望んだわけじゃない。

     嬉しいわけでもない。

     幸せなわけでもない。

     ただ混乱していた。

     胸の奥がぐちゃぐちゃだった。

    *

     会社には休みをもらっていた。

     夫が突然いなくなった。

     それだけは事実だった。

     本当のことは誰にも話せない。

     話したところで、信じてもらえるはずがなかった。

    『何かあったら連絡して』

     上司の言葉だけが、少しだけ救いだった。

     電話を切ったあと、真琴はしばらくスマートフォンを見つめていた。

     何かあった。

     確かに何かあった。

     けれど、それを説明できる言葉がなかった。

     振り返る。

     ソファでは赤ん坊が眠っている。

     小さな手。

     小さな寝息。

     それを見ても、現実感はなかった。

     数日前まで、自分は不妊治療の結果に落ち込んでいた。

     それが今は、赤ん坊を育てている。

     意味が分からなかった。

     分からないまま、時間だけが過ぎていく。

    *

     赤ん坊は容赦なく泣く。

     夜中の二時。

     三時。

     四時。

     真琴は何度も起き上がった。

     ミルクを作る。

     おむつを替える。

     抱き上げる。

     泣く。

     また抱き上げる。

     それの繰り返しだった。

     数日が過ぎる頃には、曜日の感覚も曖昧になっていた。

     遼のスマートフォンは、今もテーブルの上にある。

     財布もある。

     読みかけの本もある。

     それなのに。

     遼だけがいない。

     真琴は何度も思う。

     この子は遼じゃない。

     あなたじゃない。

     そう思わないと、自分が壊れてしまいそうだった。

    *

     あの日から十日が過ぎていた。

     真琴はほとんど眠れていなかった。

     細切れの睡眠。

     慣れないミルク。

     終わらない泣き声。

     時計を見るたび、まだ数十分しか経っていないことに絶望する。

     朝方。

     ミルクを作ろうとして粉を床へぶちまけた。

     白い粉がフローリングに散らばる。

     真琴はその場で動けなくなった。

     赤ん坊は泣いている。

     真琴も泣きそうだった。

    「……もう無理」

     気づけば声が漏れていた。

     何をしているのだろう。

     遼は消えたまま。

     理由も分からない。

     なのに自分は、知らない赤ん坊を抱いている。

     その現実が、時々怖かった。

     スマートフォンが震える。

     姉の沙紀からだった。

    『生きてる?』

     短いメッセージ。

     真琴はしばらく画面を見つめる。

     それから、小さく文字を打った。

    『……助けて』

    *

     二時間後。

     インターホンが鳴った。

     玄関を開けると、沙紀が大きなトートバッグを抱えて立っていた。

    「遅い!」

     そう言いながら勝手に入ってくる。

    「ちゃんと連絡くらい——」

     言葉が止まる。

     真琴の顔を見たからだった。

    「……うわ」

     沙紀が眉をひそめる。

    「ひどい顔」

    「……うるさい」

    「寝てないでしょ」

     答える前に、リビングから泣き声が響いた。

     沙紀が顔を上げる。

    「え?」

     真琴は何も言えなかった。

     沙紀はゆっくりリビングを覗き込む。

     ソファの上。

     毛布の中で泣いている、小さな赤ん坊。

     数秒の沈黙。

    「……は?」

     当然の反応だった。

    *

    「待って」

     沙紀は頭を押さえた。

    「いや、待って」

     もう一度言う。

    「何これ?」

     真琴は黙っている。

    「誰の子?」

    「分からない」

    「分からないって何?」

    「分からないの」

     声が震えた。

     沙紀は真琴を見る。

     本気だった。

     冗談を言っている顔ではない。

    「遼さんは?」

    「いない」

    「どこに?」

    「分からない」

    「警察は?」

    「相談した」

     沙紀はしばらく黙り込んだ。

     理解できない。

     当たり前だった。

     真琴だって理解できていない。

    「……意味分かんない」

     ようやく絞り出すように言う。

    「私も」

    「遼さんが消えて」

     沙紀は赤ん坊を見る。

    「赤ちゃんがいた?」

     真琴は小さく頷いた。

    「……意味分かんない」

     もう一度同じことを言った。

     それから大きく息を吐く。

    「でも」

     真琴を見る。

    「あんたが限界なのは分かる」

     その言葉だけで、泣きそうになった。

    *

    「貸して」

     沙紀が赤ん坊を抱き上げる。

     慣れた手つきだった。

     真琴は少し驚く。

    「なに?」

    「いや……」

    「私、一応母親だから」

     当然でしょ、という顔。

     真琴は思わず苦笑した。

     久しぶりに笑った気がした。

    「とりあえず」

     沙紀は赤ん坊を揺らしながら言う。

    「あんた座って」

    「大丈夫」

    「大丈夫じゃない」

     即答だった。

    「鏡見た?」

     真琴は何も言えなかった。

     沙紀は小さくため息を吐く。

    「意味は分からない」

     赤ん坊を見る。

    「正直、全然分からない」

     それから真琴を見る。

    「でも今は、そんなことよりあんたの方が心配」

     真琴は唇を噛んだ。

     泣きたくなる。

     誰かに心配されるだけで。

     こんなにも救われるなんて思わなかった。

    *

     昼過ぎ。

     赤ん坊は珍しく機嫌がよかった。

     沙紀に抱かれながら、小さく笑っている。

    「かわいいじゃん」

     沙紀が言う。

     真琴は少し離れた場所から、その様子を見ていた。

    「名前は?」

     何気ない質問だった。

     真琴は答えられなかった。

     名前なんてない。

     ずっと、“この子”だった。

     呼ぶたびに距離を置くように。

     名前を付けたら、本当に受け入れてしまいそうだった。

     沙紀は何も言わず待っている。

     真琴は赤ん坊を見る。

     小さな手。

     小さな寝息。

     温かい体温。

     名前を付けたら終わりだと思った。

     認めてしまう気がした。

     この子が自分の人生にいることを。

     これから先も、一緒に生きていくことを。

     だから呼ばなかった。

     赤ちゃん。

     この子。

     それだけだった。

     けれど、人は名前がないままでは生きていけない。

     真琴は眠る赤ん坊を見つめる。

     生きている。

     理由は分からない。

     何者なのかも分からない。

     それでも、生きている。

     真琴はゆっくり息を吸った。

    「……湊」

     気づけば口にしていた。

     沙紀が目を瞬く。

    「湊?」

     真琴は小さく頷く。

    「遼がね」

     少しだけ笑った。

    「いつか子どもができたらって。そんな話をしたことがあって」

     胸の奥が少しだけ痛む。

    「その時に、いい名前だなって思ったの」

     沙紀はしばらく黙っていた。

     それから小さく頷く。

    「そっか」

     それ以上は聞かなかった。

     ただ腕の中の赤ん坊を見下ろす。

    「湊くん」

     自然に呼ぶ。

     赤ん坊は何も分からないまま、小さく手を動かした。

     真琴はその姿を見つめる。

     遼じゃない。

     あなたじゃない。

     けれど。

     もう、“この子”でもなかった。

     窓の外では、雨が少しだけ弱くなっている。


    第四章 育っていく

     春になった。

     湊はよく笑う子だった。

     抱き上げると笑う。

     名前を呼ぶと笑う。

     泣いていたくせに、次の瞬間には笑っている。

     真琴は少しずつ、その笑顔に慣れていった。

     慣れてはいけないと思いながら。

     それでも、朝起きて湊が笑っていると、胸のどこかがほどけた。

     ミルクをこぼされても。

     夜中に何度も起こされても。

     畳んだ洗濯物を崩されても。

     小さな手が真琴の指を握るだけで、怒りも疲れも行き場をなくした。

     人はこんなふうに、誰かを必要としてしまうのだと思った。

    *

     保育園へ預け始めたのは、湊が一歳半になった頃だった。

     真琴は仕事に復帰した。

     朝は戦争だった。

     寝不足のまま朝食を作り、小さな身体に服を着せ、泣く湊を自転車へ乗せる。

    「やだぁ……!」

    「ごめん、急いでるの」

     湊は毎朝泣いた。

     門の前で足を踏ん張り、真琴の服を握りしめる。

     先生が優しく手を伸ばしても、首を横に振る。

     真琴は何度も「すぐ迎えに来るから」と言った。

     けれど、その言葉が湊に届いているのかは分からなかった。

     先生に引き渡したあと、自転車を漕ぎながら真琴まで泣きそうになる。

     仕事に向かう電車の窓に、疲れた顔が映った。

     その顔を見て、真琴はふと思う。

     自分は今、何をしているのだろう。

     母親のように働いて。

     母親のように迎えに行って。

     母親のように叱って、抱きしめて。

     けれど、湊は自分の子ではない。

     そう思うたびに、胸の奥が少しだけ冷えた。

     それでも夕方迎えに行くと、湊は真っ先に走ってきた。

    「まこと!」

     まだ上手く発音できない声。

     小さな手が真琴の服を掴む。

     その瞬間、一日の疲れが全部ほどける。

     不思議だった。

     こんな感情、自分の中にあるなんて知らなかった。

    *

     初めて保育園から電話がかかってきたのは、復帰して間もない頃だった。

    「湊くん、お熱がありまして」

     受話器越しの先生の声を聞いた瞬間、真琴は椅子から立ち上がっていた。

     会議の資料も、机の上のコーヒーも、そのままだった。

    「すみません、早退します」

     上司に頭を下げながら、自分の声が震えていることに気づく。

     保育園に着くと、湊は布団の上で横になっていた。

     頬が赤い。

     いつもより目が潤んでいる。

     真琴を見るなり、湊は小さく手を伸ばした。

    「まこと……」

     その声だけで、胸が痛くなった。

    「ごめんね」

     何に謝っているのか分からなかった。

     熱を出したことは、真琴のせいではない。

     分かっている。

     それでも、そばにいられなかった時間まで責められている気がした。

     夜。

     湊はなかなか眠らなかった。

     額に冷却シートを貼ると嫌がって剥がす。

     水を飲ませようとしても顔を背ける。

     真琴は何度も体温を測った。

     何度も額に手を当てた。

     布団の横で膝を抱えたまま、眠れない夜を過ごした。

     遼がいない夜は、ずっと怖かった。

     けれど湊が熱を出した夜は、別の怖さだった。

     この小さな身体に何かあったら。

     そう思った瞬間、自分の中で何かがはっきり変わってしまった気がした。

     失いたくない。

     真琴は初めて、そう思った。

    *

     三歳の冬。

     保育園のお遊戯会があった。

     湊は舞台の真ん中で固まっていた。

     音楽が流れても動かない。

     周りの子どもたちが踊る中、一人だけ突っ立っている。

     真琴は客席で思わず笑った。

     先生に促され、湊はようやく小さく踊り始める。

     ぎこちない動き。

     それなのに客席からは温かい笑いが起きた。

     湊は困ったように笑う。

     真琴も笑った。

     こんなふうに誰かの成長を見守る日が来るなんて、昔は想像もしていなかった。

     帰り道、湊は真琴の手を握ったまま言った。

    「おどれた?」

    「うん。踊れてたよ」

    「かっこよかった?」

    「すごく」

     湊は満足そうに笑った。

     真琴はその横顔を見つめる。

     ほんの少し前まで、泣くことしかできなかった子が、自分の足で歩き、舞台に立ち、褒められることを待っている。

     人は、育つのだ。

     どんな始まり方をしたとしても。

    *

     季節は何度も巡った。

     湊は転びながら歩くようになり。

     友達を作り。

     泣いて、笑って、怒って。

     少しずつ大きくなっていった。

     靴のサイズが変わる。

     服の袖が短くなる。

     読めなかった文字を読めるようになる。

     昨日できなかったことが、今日できるようになる。

     そのたびに真琴は驚いた。

     嬉しかった。

     そして少し、怖かった。

     育っていくということは、近づいてくるということでもあった。

     遼が消えた年齢へ。

     いつか戻るかもしれない場所へ。

     それでも湊は、そんな真琴の不安など知らずに笑っていた。

    *

     小学生になった湊は、朝からよく喋る子になった。

    「今日、体育ある」

    「そう」

    「あと、給食カレー」

    「よかったね」

    「母さん、聞いてる?」

    「聞いてる」

     ランドセルはまだ少し大きかった。

     玄関で靴を履く背中を見るたびに、真琴は不思議な気持ちになった。

     赤ん坊だった。

     何も分からず泣いていた。

     それが今は、時間割を気にして、給食を楽しみにして、友達の名前を口にする。

    「いってきます」

    「いってらっしゃい」

     ドアが閉まる。

     部屋が静かになる。

     真琴はその静けさに、しばらく慣れなかった。

    *

     小学二年生の秋。

     運動会があった。

     湊は徒競走に出た。

     スタート前、何度も靴紐を結び直している。

     真琴は保護者席からその姿を見ていた。

     合図の笛が鳴る。

     子どもたちが一斉に走り出す。

     湊は決して速くなかった。

     けれど一生懸命だった。

     腕を大きく振り、顔を真っ赤にして走っている。

     途中で少しつまずいた。

     真琴の心臓が跳ねる。

     湊は転びかけた身体を立て直し、そのまま走り続けた。

     最後から二番目。

     それでもゴールした瞬間、湊は真琴を探すように顔を上げた。

     真琴は大きく手を振った。

     湊も照れくさそうに手を振り返す。

     順位なんてどうでもよかった。

     転ばなかったこと。

     最後まで走ったこと。

     その全部が、胸に迫った。

     帰り道、湊は少し不満そうだった。

    「一番じゃなかった」

    「うん」

    「悔しい」

    「そっか」

    「来年は勝つ」

     真琴は笑った。

    「じゃあ練習しないとね」

    「する」

     湊は真剣に頷く。

     その横顔は、もう幼いだけではなかった。

     悔しさを知っている顔だった。

     真琴は思う。

     湊は湊の人生を生き始めている。

     誰かの代わりではなく。

     誰かの続きでもなく。

    *

     湊が小学四年生の時だった。

     授業参観の帰り道。

    「母さん」

    「ん?」

    「俺って、父親いないの?」

     真琴の足が止まる。

     夕焼けが道路を赤く染めていた。

     周囲では、他の親子が笑いながら歩いていく。

     真琴だけが動けなかった。

    「今日、友達に言われた」

     湊は前を向いたまま言う。

    「一回も見たことないって」

     真琴は喉が乾くのを感じた。

     いつか来ると思っていた質問だった。

    「……いたよ」

     やっと、それだけ言う。

    「どんな人?」

     真琴は少し笑った。

    「優しい人」

    「ふーん」

    「でも、ちょっと頼りない」

     湊が笑う。

    「母さん、なんか楽しそう」

     その言葉に、胸が痛んだ。

     真琴は気づく。

     遼の話をする時、自分はまだ嬉しそうに笑ってしまう。

     忘れられていない。

     何年経っても。

    「会いたい?」

     湊が聞いた。

     真琴はすぐに答えられなかった。

     会いたい。

     その言葉は喉元まで出かかった。

     けれど、隣には湊がいる。

     今ここにいる湊を前にして、遼に会いたいと言うことが、ひどく残酷な気がした。

    「……会えたら、嬉しいかな」

     ようやくそう言った。

     湊は「そっか」とだけ答えた。

     それ以上は聞かなかった。

     その優しさが、まだ子どもなのに少し大人びていて、真琴はまた胸が痛くなった。

    *

     中学生になると、湊は急に背が伸びた。

     声変わりも始まり、真琴を「母さん」と低い声で呼ぶようになる。

     小学校の頃のように、何でも話してくれるわけではなくなった。

    「今日どうだった?」

    「普通」

    「部活は?」

    「別に」

    「ごはん食べる?」

    「あとで」

     会話は短くなった。

     部屋のドアは閉まるようになった。

     洗濯物は自分で出さないくせに、口だけは一人前になった。

     真琴は何度もため息をついた。

     分かっている。

     成長しているのだ。

     親から離れようとしているのだ。

     それでも、分かることと寂しくないことは違った。

     ある夜、湊の帰りが遅かった。

     部活のあと友達と話していたらしい。

     連絡もなかった。

     玄関のドアが開いた瞬間、真琴は思わず声を荒げた。

    「何時だと思ってるの」

     湊は面倒くさそうに靴を脱ぐ。

    「別にいいじゃん」

    「よくない」

    「子ども扱いすんなよ」

     その言葉に、真琴は息を止めた。

     湊は乱暴にリビングを通り抜け、自分の部屋へ入っていった。

     ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。

     真琴はしばらく立ち尽くした。

     子ども扱い。

     その言葉が胸に残る。

     いつまでも小さなままでいてほしいわけではない。

     けれど、大きくなっていくことが、こんなにも痛いとは知らなかった。

    *

     その日の夜遅く。

     真琴がキッチンへ行くと、冷蔵庫に小さな付箋が貼ってあった。

    『ごめん』

     たった三文字。

     ぶっきらぼうな字。

     真琴はしばらくそれを見つめた。

     湊らしいと思った。

     素直ではない。

     けれど、ちゃんと戻ってくる。

     真琴は付箋を剥がさず、そのままにしておいた。

     翌朝、湊は何事もなかったように食卓についた。

    「味噌汁、いる?」

    「いる」

    「昨日のこと」

    「……ごめんって書いた」

    「口でも言えるでしょ」

    「ごめん」

     小さな声だった。

     真琴は笑わなかった。

     笑ったら怒られると思ったのか、湊は気まずそうに箸を取る。

     その横顔を見ながら、真琴は思った。

     湊は育っている。

     自分から離れようとして。

     それでも、まだ戻ってくる場所を探している。

    *

     ある夜。

     真琴はソファで眠ってしまった。

     仕事の資料を抱えたまま。

     ふと目を覚ますと、毛布が掛けられていた。

     リビングの灯りも消えている。

     ダイニングでは湊が勉強していた。

    「……起きてたの」

    「今寝たら風邪ひく」

     ぶっきらぼうな返事。

     真琴は小さく笑った。

    「ありがとう」

     湊は少しだけ肩をすくめる。

     何でもないことのように。

     けれど真琴は知っていた。

     人を気遣う優しさは、教科書では学べない。

     その背中を見ながら、いつの間にか遠くまで来たのだと思った。

    *

     高校生になる頃には、湊は真琴より背が高くなっていた。

     洗面台の前で寝癖を直す後ろ姿を見ると、時々胸が詰まった。

     肩幅。

     首筋。

     伏せた横顔。

     不意に、遼がそこにいるように見える瞬間があった。

     もちろん違う。

     湊は湊だ。

     そう何度も思う。

     それでも、朝の光の中で振り返るたび、胸の奥が小さく揺れた。

    「ネクタイ曲がってる」

    「え、マジ?」

     湊は鏡を覗き込みながら笑う。

    「母さん、直して」

    「自分でできるでしょ」

    「時間ない」

     仕方なく近づき、真琴はネクタイに手を伸ばした。

     昔は、靴下さえ一人で履けなかった。

     それが今は、制服を着て、真琴を見下ろす高さにいる。

     結び目を整えながら、真琴は息を呑む。

     時間は本当に進んでいた。

     止まってほしいと願ったこともある。

     進んでほしいと願ったこともある。

     けれど時間は、どちらの願いも聞かず、ただ湊を大人にしていった。

    *

     高校二年の冬。

     リビングには参考書が積まれるようになった。

     受験勉強が始まっていた。

     夜遅くまで灯りが消えない。

     真琴が仕事を終えてリビングへ行くと、湊は机に向かったまま問題集を睨んでいる。

    「まだ起きてたの」

    「眠い」

    「寝れば?」

    「無理」

     ぶっきらぼうに返しながらも、ペンは止まらない。

     もう真琴を見上げる子どもではなかった。

     自分の未来を、自分で選ぼうとしている。

     湊が消しゴムのかすを集めながら、ぽつりと言った。

    「一人暮らしって、大変?」

     真琴は少しだけ動きを止める。

    「大学の話?」

    「まだ決まってないけど」

    「大変だよ」

    「だよね」

    「でも、楽しいこともあると思う」

     湊は「ふうん」と言った。

     真琴は気づいていた。

     湊はもう、家を出る未来を考え始めている。

     真琴の知らない場所で。

     真琴の知らない人たちと。

     真琴の知らない時間を生きることを。

     寂しかった。

     でも、それを止めたいとは思わなかった。

     育つとは、そういうことなのだ。

    *

     進路希望調査の紙を見た時、真琴はしばらく動けなかった。

     書かれていた大学名。

     遼が昔、目指していた場所だった。

    「……ここ、行きたいの?」

    「なんとなく」

     湊は軽く答える。

    「面白そうだし」

     真琴は小さく息を吐いた。

     理由をうまく説明できないくせに、一度決めたら変えない。

     そんなところまで似なくていいのに、と思う。

    「難しいよ」

    「知ってる」

    「頑張るんだ」

    「うん」

     短いやり取りだった。

     けれど、その返事は思っていたより力強かった。

    「母さんは反対?」

    「反対はしない」

    「じゃあ、応援して」

     湊は照れもなく言った。

     真琴は少し驚いて、それから笑った。

    「うん。応援する」

     その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが変わった。

     遼の夢だった場所。

     湊が選んだ場所。

     同じ名前の大学でも、その意味は違う。

     湊は遼の続きを生きているのではない。

     湊自身の未来へ歩いている。

     そう思いたかった。

     そう信じたかった。

    *

     受験前日の夜。

     湊は珍しく緊張していた。

     参考書を開いたまま、ほとんどページが進んでいない。

    「落ちたらどうしよ」

     ぽつりと呟く。

     真琴は少し笑った。

    「落ちたら、その時考えよう」

    「軽いな」

    「今さら焦っても仕方ないでしょ」

    「母さんって、そういうとこあるよね」

    「どういうとこ」

    「変に腹くくってるとこ」

     湊はそう言って笑った。

     真琴は何も言えなかった。

     腹をくくったわけではない。

     ただ、くくらなければ生きてこられなかっただけだ。

     遼が消えた夜から。

     湊を抱いた朝から。

     名前を呼んだ日から。

     何度も何度も、理由の分からない現実を受け入れるしかなかった。

    「大丈夫」

     真琴は言った。

    「湊は、ちゃんとやってきたから」

     湊はしばらく黙っていた。

     それから小さく頷く。

    「うん」

     その返事は、もう子どもの声ではなかった。

    *

     春。

     合格発表の日。

     スマートフォンを見た湊が、数秒黙る。

     それから。

    「……受かった」

     小さく呟いた。

     真琴は「そっか」と笑う。

     本当は、泣きそうだった。

     頑張ったね、と言おうとして。

     その前に、別の感情が込み上げる。

     ——遼に、教えたかった。

     その思考に、自分で傷つく。

     でも次の瞬間、湊が振り返った。

     嬉しそうに笑っている。

     その顔は、ちゃんと湊だった。

     真琴はそこでようやく気づく。

     自分はずっと、

     この子の中に遼を探しながら、

     同時に、湊を愛してしまっていたのだと。

    *

     引っ越しの日は、よく晴れていた。

     段ボールがいくつも玄関に積まれている。

     湊の部屋は、驚くほど空っぽだった。

     机。

     ベッド。

     カーテン。

     それだけが残っている。

     壁に貼られていた時間割の跡。

     小さな傷。

     ランドセルを置いていた場所。

     真琴は部屋の入口に立ち、しばらく中を見ていた。

    「そんな顔しないでよ」

     湊が笑う。

    「してない」

    「してる」

    「うるさい」

     湊は段ボールを抱えながら、少しだけ困ったように笑った。

    「たまには帰るから」

    「別に、好きにしなさい」

    「素直じゃないな」

    「誰に似たんだろうね」

     湊は笑った。

     その笑い声が、空っぽの部屋に響く。

    トラックが出ていったあと、部屋は本当に静かになった。

     真琴は窓を開ける。

     春の風が入ってくる。

     湊の匂いが少しずつ薄れていく気がした。

     寂しかった。

     けれど、それだけではなかった。

     湊は育った。

     ここから出ていけるほどに。

     真琴の腕の中で泣いていた子が、自分の足で家を出ていった。

     それは悲しいことだけではなかった。

     ふと、窓ガラスに映った自分の姿が目に入る。

     以前より少しだけ痩せた顔。

     目尻には細かな皺が増えていた。

     いつからだろう、と真琴は思う。

     けれど。

     あの子を育てている間は、そんなことを気にする暇もなかった。

     泣いていた赤ん坊は、いつの間にか大人になった。

     そして真琴もまた、同じだけ歳を重ねていた。

     気づけば、長い時間が過ぎていた。

    *

     湊は少しずつ大人になっていく。

     真琴の知らない時間を生きながら。

     新しい部屋。

     新しい友人。

     新しい朝。

     真琴の知らない湊が、少しずつ増えていく。

     それでも時々、帰ってくる。

    「ただいま」

     そう言って玄関を開ける。

     その声は、帰るたびに低くなり、落ち着いていった。

     真琴はそのたびに「おかえり」と返した。

     何度も。

     何度も。

     そうして、湊は。

     あの日遼が消えた年齢へ近づこうとしていた。


    第五章 雨のあとで

     午後の光が、静かに部屋へ落ちていた。

     窓は少しだけ開いている。

     春の終わりの風が、薄いカーテンをゆっくり揺らしていた。

     真琴はキッチンに立ちながら、ぼんやり包丁を動かしていた。

     切りかけの玉ねぎ。

     鍋の湯気。

     そんな、ありふれた午後だった。

     真琴はふと、窓ガラスに映った自分を見る。

     目尻に増えた皺。

     昔より少し細くなった指。

     若い頃より落ち着いた髪。

     長い時間が流れたのだと、今さらのように思う。

     その時間のほとんどを、湊と生きてきた。

     泣いていた赤ん坊。

     保育園の帰り道。

     ランドセル。

     制服。

     そして今。

     いつの間にか、自分を追い越して大人になった背中。

     真琴は小さく息を吐く。

     歳を重ねたのは、自分だけではなかった。

     玄関のドアが開く。

    「ただいま」

     低い声。

     聞き慣れた声。

    「おかえり」

     真琴はいつものように返した。

     けれど、その日は少しだけ違った。

     湊はリビングへ入ってくると、すぐには座らなかった。

     何かを確かめるように、静かに部屋を見回している。

     ソファ。

     テーブル。

     窓際のカーテン。

     壁に掛かった時計。

     何度も見てきたはずの景色を、初めて見るみたいに。

    「母さん」

    「ん?」

     真琴は包丁を置く。

     胸の奥が、なぜか静かにざわついていた。

     湊はすぐには答えない。

     ただ、部屋を見回したまま立っている。

    「最近、変な夢を見る」

     真琴は振り返った。

    「どんな夢?」

    「知らない部屋」

     少し間が空く。

    「でも、懐かしい部屋」

     風が吹く。

     カーテンが揺れる。

    「そこで、誰かが泣いてる」

     真琴の呼吸が浅くなる。

    「その人に、俺、何か言ってるんだ」

     静かな声だった。

    「大丈夫だって」

     真琴の手が止まる。

     鼓動だけが妙に大きい。

    「最近、それが夢じゃない気がしてきた」

     湊はゆっくり振り返った。

     その目を見た瞬間。

     真琴は息をするのを忘れた。

     懐かしい、と思った。

     時間ではなく。

     記憶でもなく。

     もっと深い場所で。

     知っている目だった。

     湊は唇を開く。

     長い沈黙が落ちる。

     遠くで、子どもたちの笑い声が聞こえた。

    「真琴」

     その呼び方に、真琴の胸が大きく震えた。

     母さん、ではなかった。

     忘れたくても忘れられなかった声だった。

    「……思い出した」

     掠れた声。

     それだけだった。

     それだけで、十分だった。

     真琴は動けなかった。

     長い時間が、胸の中で音もなくほどけていく。

     雨の夜。

     腕の中の赤ん坊。

     初めて名前を呼んだ日。

     何度も眠れなかった夜。

     父親について聞かれた日。

     受験の日。

     積み重なった時間が、一瞬で押し寄せてくる。

     失った人を、もう一度育てた。

     夫だった人を、息子として愛した。

     湊として笑った日々も。

     遼として生きていた過去も。

     どちらも嘘ではなかった。

     雲の切れ間から差し込んだ光が、静かに床へ落ちる。

     揺れるカーテンの隙間から入り込んだ午後の光が、二人の間を柔らかく照らしていた。

     長い時間が、ようやくほどけていくみたいだった。

     真琴はゆっくり息を吐く。

     涙は出なかった。

     もう涙だけでは足りなかった。

     遼は真琴を見ていた。

     湊として過ごした時間を抱えたまま。

     遼だった頃の記憶を抱えたまま。

     真琴は少しだけ笑った。

     夫だった。

     子どもだった。

     失った人だった。

     帰りを待ち続けた人だった。

     そのどれもが本当で。

     そのどれだけでも足りなかった。

     ただ。

     長い時間を、一緒に生きてしまった。

     それだけが確かな気持ちだった。

     真琴は遼を見つめる。

     若い頃のようには笑えなかった。

     目尻には皺が増えていた。

     長い時間を生きた顔だった。

     失った時間ではない。

     湊と生きた時間だった。

     それでも。

     真琴は穏やかに微笑んだ。

    「おかえり」

     雨上がりの光が静かに揺れている。

     それだけで、十分だった。

     
     
    「きみがまた大人になるまで」という小説を書いています。 まだまだ小さな作品ですが、 いつか書籍化や映画化できるような作品を目指して、少しずつ大切に育てています。 読んでくださった方の心に、 少しでも長く残る作品になれたら嬉しいです。

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