
娘が撮った写真の中に、母がいた。
娘がスマホで隠し撮りした写真の中に、母がいた。
リビングのソファで、私がスマホを見ている写真だった。
笑いながら「見て」と見せてきたので、のぞいてみた。
知らない女が、そこにいた。
いや、知っている。知っているけれど、見たくなかった。
母だ。いや、祖母かもしれない。
少なくとも、私の中にいる「私」ではなかった。
私の中の私は、たぶんまだ30代のどこかにいる。
根拠はないけれど、そういうものだと思っていた。
でも娘のスマホの中の女は、完全にアラフィフだった。
むしろアラフィフを超えていた。
今年、私は55歳になる
母は自営業をしていた。
忙しく、よく働き、いつも若々しかった。
子どもの目から見ても、「お母さん」というより、一人の女性として格好よかった。
その母が仕事をやめたのは、55歳のときだった。
今年、私は55歳になる。
母と同じ年齢になる、ということを、最近よく考える。
母はこの年齢のとき、何を思っていたのだろう。
仕事をやめて、どんな気持ちだったのだろう。
聞けないまま、母は66歳で他界した。
だから私にはわからない。
ただ、娘の隠し撮り写真の中の私が、あの頃の母に似ていることだけは、はっきりとわかった。
体は正直だ
思い返せば、サインはたくさんあった。
まず、歯に物が挟まるようになった。
食事のたびに、奥歯のどこかに何かが引っかかる。
40代の前半まではそんなことなかったのに、気づいたらフロスが手放せなくなっていた。
外食のたびに、さりげなく使う楊枝。これが地味に効く。
「あ、私もうそういう年齢なんだ」と毎回思う。毎回。慣れない。
そして、まぶたが落ちてきた。
目の下もたるんだ。
鏡を正面から見るぶんにはまあいい。
でも娘の隠し撮りのような、斜め下からの角度は致命的だ。
重力というのは、正直で、公平で、容赦がない。
白髪を、抜いている
白髪染めはしていない。
抜いている。
よくないとわかっている。
抜くと毛根が傷む、同じところから何本も生える、そういう話は知っている。
それでも抜いてしまう。
最初は数本だった。
見つけたら抜く、それだけのことだった。
でも最近、手に負えなくなってきた。
抜いても抜いても、次が生えてくる。当たり前だ。
鏡の前で、どこから手をつければいいかわからなくなる瞬間がある。
それでもやめられない。
染めればいい、とわかっている。
でも染めることは、なんとなく「認めること」のような気がして、ずっと踏み切れないでいる。
何を認めるのか、うまく言葉にできないけれど。
美容整形を妄想する夜
寝る前に、スマホで調べたことがある。
「まぶた たるみ 整形」
出てきた。いろいろ出てきた。
二重埋没法、眼瞼下垂手術、糸リフト。
値段もいろいろ。ダウンタイムもいろいろ。
症例写真もいろいろ。
30分くらい見ていた。
そしてスマホを閉じた。
怖いのだ。端的に言って、怖い。
メスを入れるのが怖い、というより、「変わってしまうこと」が怖い気がした。
それとも「変わらなかったら」が怖いのか。
自分でもよくわからないまま、電気を消した。
翌朝、また鏡を見た。
まぶたは昨夜と同じところにあった。
白髪も、昨夜と同じところから生えていた。
母も、こうだったのだろうか
娘の隠し撮り写真をもう一度見た。
そこにいる女は、確かに母に似ていた。
若い頃の母ではなく、私が大人になって見ていた「お母さん」の母だ。
自営業で忙しく働いていた、あの頃の母。
母は自分のことを、何歳だと思っていたのだろう。
まぶたが落ちてきたとき、どう思っていたのだろう。
白髪を見つけたとき、抜いていたのだろうか、染めていたのだろうか。
聞いたことがなかった。
というより、そんなことを母が気にしているとは、思ってもいなかった。
子どもの目には、母はただ「お母さん」だったから。
娘の目に、私はどう見えているのだろう。
隠し撮りをして笑いながら見せてくる娘は、きっと私のことを「お母さん」としか見ていない。
皺もたるみも白髪も、娘には関係のない話だ。
それがちょっと、悔しいような、ありがたいような。
何もしないまま、今日も過ぎる
結局、整形はしていない。
白髪は今日も抜いている。
まぶたは、落ちたままだ。
鏡の中の女は、今日も母に似ている。
スマホの中の私は、祖母にも似ている。
今年、私は55歳になる。
母が仕事をやめた年齢に、追いついてしまう。
でも私の中の私は、まだどこか30代のあたりをうろうろしている。
それでいい気がしている。
根拠はないけれど。