
掌編「ケンとミオとヒナとヨシ」
夕暮れの湖は、鏡みたいだった。
風がない。
波もない。
恵那咲の湖は、ときどき空を映すことを忘れるくらい静かになる。
その日もそうだった。
四人は湖畔の桟橋に立っている。
誰も喋らない。
湖の真ん中に、人がいたからだ。
奇術師スーソオリーメ。
恵那咲市の子どもなら、一度は名前を聞いたことがある。
いつからいるのかわからない。
どこから来るのかもわからない。
ただ、ときどき湖の上に現れる。
何も語らず。
何も宣伝せず。
観客を集めることもなく。
ただ奇術だけを行う。
「あれ、人間だよな」
ケンが小さく言った。
「たぶん」
ミオも自信がない。
スーソオリーメは湖上に立っていた。
船はない。
足場もない。
黒い燕尾服だけが夕陽を受けて赤く染まっている。
顔は遠すぎて見えない。
帽子だけが見えた。
古いシルクハット。
ヒナは息を止める。
スーソオリーメが右手を上げた。
何かを投げる。
小さな銀色のもの。
それは落ちなかった。
空中で止まった。
さらにもう一つ。
さらにもう一つ。
気づけば十数個の銀色の球が湖の上に浮かんでいた。
夕陽を反射して、小さな月みたいに光っている。
「糸?」
ミオが言う。
「見えない」
ヨシが答える。
その時だった。
銀色の球が一斉にほどけた。
光の鳥になる。
鳥たちは羽ばたきながら湖面を横切る。
だが羽音はしない。
湖も揺れない。
静かなまま。
ケンが思わず前へ出る。
「すげえ……」
その声だけが妙に現実的だった。
鳥たちは湖の上を旋回し、やがて空へ昇る。
夕陽の中へ。
赤い空へ。
そして消える。
最初から存在しなかったみたいに。
誰も拍手しなかった。
スーソオリーメも礼をしない。
ただ湖上に立っている。
夕暮れの真ん中で。
世界から少しだけ外れた場所で。
やがて奇術師は帽子を脱いだ。
湖に向かって一礼する。
それから振り返る。
一歩。
また一歩。
湖の奥へ歩いていく。
水面には波紋ひとつ立たない。
「どこ行くんだろ」
ヒナが呟く。
ケンもミオもヨシも答えなかった。
四人はただ遠ざかる後ろ姿を見続けている。
夕陽は沈みかけていた。
奇術師スーソオリーメは、湖と空の境目へ向かって歩いていく。
その姿が小さくなるにつれ、四人は少しずつ不安になった。
まるで今見たものまで、一緒に遠ざかっていく気がしたから。
やがて奇術師は点になり、
そして消えた。
湖には何も残らない。
風もない。
波もない。
ただ夕暮れだけが残っている。
「……夢だったのかな」
ヒナが言う。
誰も答えなかった。
けれど四人とも知っていた。
夢ではない、夢ではないけれど、たぶん現実とも少し違う。
恵那咲市には、ときどきそういう夕方がある。