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人生は思い通りにならない。それでも、自分の歩き方は選べる。

    第一章 ある日突然、レストランのマダムという職業が降ってきた!!

    貴方は、ある日突然、予期せぬ出来事によって職業を変えなければならなくなったり、生き方そのものを変えざるを得なくなった経験はありますか?

    私は40歳にして、自分の意思とはまったく関係なく、突然「レストラン経営者兼マダム」という役割が降ってきました。

    まずは、この物語の背景からお話ししましょう。

    2007年、私は今回のすべての元凶とも言える、自分勝手な行動で家族を巻き込む甲斐性なしのシェフと結婚しました。

    その後、一男一女に恵まれましたが、シェフの仕事はとにかく過酷でした。

    一日の労働時間は16時間以上。休日は年間58日ほど。

    深夜2時まで営業だったため、家に帰ってくるのは朝7時。出勤は13時。そんな生活を8年間続け、その後も独立するまでの5年間は別の飲食店で働いていました。

    結婚してからの生活は、一般企業で働く人の二年分を一年で働くような激務。それなのに、お給料は一般職より低い。

    そんな貧乏生活の中、夫婦らしい会話もほとんどないまま、私はワンオペ育児。

    当然、旦那への不満は募る一方でした。

    しかも、「いつか独立したい」なんて話は、一度たりとも聞いたことがありませんでした。

    私は子どもたちが小学生になったタイミングで、学校給食のパートを始めました。

    もともと学校給食で社員として働いていたこともあり、仕事はとても充実していました。

    「主人は飲食店で雇われとして働き、私はいずれ社員に戻る。」

    それが、私の描いていた人生設計でした。

    ようやく安心、安全、安定を手に入れた。

    そう思い、穏やかな毎日を過ごしていたのです。

    ところが――。

    人生に「安心・安全・安定」なんてものは存在しない。

    そう思い知らされる出来事が、ある日突然、私の前にやってきたのです。

    第二章 飲食店って、どうやって開業するの?

    ある日突然、主人が「独立する」と言い出した。

    2019年8月、ある日のことだった。

    さかのぼること2か月前の6月。

    息子のサッカーで保護者コーチをしていた主人は、ボールを蹴った瞬間に半月板を損傷。8月に手術をすることになった。

    どうやら、この怪我がきっかけで、彼の中に「今が独立のチャンスだ!」という謎のスイッチが入ってしまったらしい。

    ……トホホなエピソードである。

    飲食店あるあるなのだが、当時は自分の代わりが見つからないと、なかなか辞めさせてもらえなかった。

    主人は「怪我をして、もう立ち仕事は無理です」という理由で仕事を辞めてきた。

    そして、その翌日。

    なんと物件探しを始めたのである。

    いやいや、ちょっと待ってください。

    皆様、よーく考えてみてください。

    お店を持つということは、まずお金を借りて、資金繰りの目処を立て、それから物件を探す。

    これが普通の流れではないでしょうか。

    ところが彼は、そのセオリーを見事に無視した。

    お金より先に物件。

    気になる物件を見つけるたびに私を呼び出し、「ちょっと見に来て。」と一緒に内見へ連れて行く。

    なかなかの策士である。

    私は昔から心配性だ。

    彼一人ではどうにもならない気がしてしまう。

    もし家族の大黒柱が折れたら、私たちは路頭に迷う。

    そんな不安から、「私がサポートしなければ」という一心で動き始めた。

    こうして私は、まったく想像もしていなかった未来へ、少しずつ巻き込まれていくことになる。

    飲食店経営の知識はゼロ。

    さて、この先どうなることやら。

    第三章 キッチンカーなら出来るかも?

    計画性のない行動は、とても危険だと思っている私は、主人の独立にひたすら反対した。

    何度も喧嘩をした。

    泣いて、叫んで、

    「私は絶対やりたくない!!」

    そう言って家を飛び出し、スカイツリーまで自転車を走らせた。

    涙で前が見えないまま、必死にペダルを漕ぐ。

    本当なら、どこか居酒屋にでも入って、お酒を飲んで全部忘れてしまいたかった。

    でも、そんなお金はない。

    だから私は、ひたすら自転車を漕ぐしかなかった。

    せっかく安心・安全・安定した生活を手に入れたのに。

    「なんで私の人生の邪魔をするんだ!」

    そんな怒りしかなかった。

    それでも主人の決意は固かった。

    「絶対に店をやる。」

    何を言っても、その気持ちは変わらなかった。

    こうなったら、もう手伝うしかない。

    私は覚悟を決め、図書館へ向かった。

    そして、飲食店開業の参考になりそうな本を30冊以上読み漁った。

    調べたことは、とてもシンプルだ。

    ① いったい、いくらお金が必要なのか。

    ② 開業にはどんな資格が必要なのか。

    ③ 固定費と変動費のバランスはどうなっているのか。

    ④ どんなメニューなら成り立つのか。

    ともかく勉強。

    勉強、勉強、勉強。

    そして、私が出した結論は一つだった。

    最初から店舗なんて、絶対に無理!!!!

    だって、世の中のお店は1000万円から2500万円もかけて作っている。

    子どもたちはこれから一番お金がかかる時期だ。

    そんな大きなリスクを、私は絶対に取れなかった。

    当時の手持ちのお金は、子どもたちの児童手当をコツコツ貯めてきた200万円。

    仮に300万円借りたとしても、使える予算は500万円。

    「500万円でできることは何だろう?」

    そう考えた瞬間、ひらめいた。

    あっ、そうだ! キッチンカーだ!

    思いついた私は、すぐにキッチンカーでできるメニューや必要な設備、経費を洗い出した。

    主人にもキッチンカーの説明会へ行くよう勧め、実際に見に行ってもらった。

    私は、この時ようやく安心した。

    まずはキッチンカーで経験を積み、軌道に乗ったら、いつか店舗を持てばいい。

    借金も少なくて済む。

    リスクも低い。

    私の中では、それが一番現実的で、安全な方法だった。

    ……ところが、どうやら神様は主人の味方だったらしい。

    第四章 物件エトセトラ

    キッチンカーでスタートすると決めたはずなのに、主人はどうしても物件探しを諦めなかった。

    しぶとい。

    とにかく、しぶと過ぎる!

    そして見つけてきた一軒目は、駅から徒歩1分、トリマー屋さんの隣の物件だった。

    ただし条件が一つ。

    「犬OKにすること。」

    えミっ

    犬OKってことは、ワンちゃんがおしっこしたらどうするの?

    犬の匂いで料理の香りが分からなくなるんじゃない?

    でも居抜きだから初期費用は抑えられるかもしれない……。

    そんなことが頭の中をグルグル駆け巡った。

    けれど、きちんとしたレストランで修業を積んできた主人の料理に、「犬同伴」は必要ないという結論になり、その物件はお断りした。

    今となっては思う。

    もし、あそこでお店をやっていたら、どうなっていただろう。

    でも、人生はなるようにしかならない。

    そして、ついに運命の物件と出会う。

    きっかけは、一本の電話だった。

    ところが主人は、

    「この不動産屋さん、面倒だから出ない。」

    と言う。

    はっ?

    何を言ってるの、この人。

    どんだけお前は偉いんだ!

    私は半ばキレながら、

    「いいから出なよ!」

    と言った。

    主人は渋々電話に出た。

    すると、それが今のお店を紹介する電話だったのである。

    紹介された物件は、スケルトン。

    しかも家賃が安く、家からも近い。

    私たちにとっては、これ以上ない好条件だった。

    現地を見に行った主人は、その場で即決。

    「ここにする。」

    ……決断だけは、本当に早い。

    ちなみに、この時点でお金の工面は一切していない。

    お金は後。物件が先。

    それが我が家の開業スタイルだった。

    ちなみに、ここまでにかかった時間は約一か月。

    今思えば、信じられないスピードである。

    そして、この決断が、私たちの怒涛の日々の始まりだった。

    第五章 いよいよ飲食店開業

    さてさて、物件が決まり、いよいよお金を借りなければならない状況になった。

    物件を紹介してくださった不動産会社の方が税理士さんを紹介してくださり、その税理士さんのサポートのおかげで、なんとか日本政策金融公庫からの融資を受けることができた。

    これで、とりあえずお金の工面はクリア。

    ……と思ったのも束の間。

    日本政策金融公庫へ提出する創業計画書。

    これを、ほぼ私が作ることになった。

    えーっと……。

    飲食店をやりたいのは、誰でしたっけ?

    最悪だ。

    面倒なことは全部、私に押し付ける。

    主人の言い分は決まっている。

    「君のほうが、こういう仕事得意でしょ?」

    いやいや。

    アンタがやりたくないだけでしょ。

    ボケナスが!!

    結局、私は主人をサポートするため、安定していた学校給食の仕事を辞めざるを得なかった。

    こうして、後戻りはできなくなった。

    さて、お金は借りられた。

    次は、お店の内装である。

    内装業者探しが始まった。

    主人には飲食店時代の内装業者とのつながりがまったくなかったため、まずは不動産会社の紹介で店舗内装業者と打ち合わせをした。

    しかし、提案されたデザインはイメージと違う。

    しかも予算も合わない。

    そこで、相見積もりを取って別の業者を探すことにした。

    これが――。

    すべての失敗の始まりだった。

    安物買いの銭失い。

    今だから分かる。

    こう言うと語弊があるかもしれないが、相見積もりサイトに登録している会社の中には、仕事が少ないから掲載している会社もある。

    一方、本当に腕のいい職人さんは、紹介だけで仕事が回っていることが多い。

    もちろん、すべての会社がそうだと言いたいわけではない。

    でも、私たちが選んだ業者は違った。

    当時の私たちは、飲食店開業の知識もコネもゼロ。

    世間知らずの二人は、この選択をきっかけに、少しずつ負のスパイラルへと足を踏み入れていくことになる。

    第六章 内装トラブル続出

    きっと、スケルトン物件あるあるなのだろう。

    最初から何もかもがトントン拍子に進むわけがない。

    私たちがお願いした内装業者は、飲食店の施工経験がほとんどなかった。

    そのため、厨房の配置や素材選びなどは、自分たちで一から決めることになった。

    自由に決められるのは良かった。

    ……最初は、そう思っていた。

    ところが、工事が始まると問題が次々に起こる。

    現場には工事の後のゴミが散乱したまま。

    現場監督はほとんど来ない。

    気が付くと図面とは違うものが出来上がっている。

    電気配線まで混線してしまい、毎日現場に行き見張っていないと図面とは違うものが出来上がる始末だった。

    私たちは毎日のように現場へ足を運び、そのたびに胃が痛くなるような日々を送っていた。

    そして、ある日、決定的な出来事が起こる。

    ダクトが設置され、床にコンクリートを流した時のことだった。

    なんと、床が高くなり過ぎていたのである。

    シェフが厨房に立つと、ダクトがすぐ頭の上。

    「さすがに、これはないでしょう!」

    主人が珍しく本気で怒った。

    業者さんもすぐにやり直してくれた。

    しかし、このやり直し工事が、後にさらに大きな問題を引き起こすことになるとは、その時は誰も思っていなかった。

    その影響で、2019年11月末に予定していたオープンは延期。

    ようやく開業の目処が立ったのは、2020年1月だった。

    そして、引き渡しの日。

    また事件が起きる。

    シェフが、

    「吸気口が付いてない。」

    と気付いたのである。

    当然、業者さんと再び話し合いになった。

    最終的には、裏口のドアを吸気用のドアへ交換することになった。

    ところが、そのドアが完成するまで約3か月。

    真冬にもかかわらず、私たちは裏口のドアを開けっぱなしのまま営業することになった。

    なんとも寒くて、なんとも先が思いやられるスタートだった。

    そして、この後、私たちにはさらに悪い出来事が待っていたのである。

    第七章 いよいよオープン

    紆余曲折ありながらも、2020年1月24日。

    私たちのイタリアンレストランは、無事オープンの日を迎えた。

    長かった。

    本当に長かった。

    ようやく、この日が来たのだ。

    オープン初日。

    来てくださったのは、私の大学時代の友人ご夫婦。

    初日のお客様は、たった2名だった。

    何のコネクションもなかった私たち。

    オープン祝いのお花は、大家さん、不動産会社の方、そして内装業者さんからいただいた三つだけ。

    ……どんだけコネクションないんだか!!!!!

    当時の主人は、料理の腕はあっても人脈はゼロ。

    そんな主人に対して、私は怒りしか湧いてこなかった。

    正直、最初から負けると分かっている勝負に巻き込まれたような気分だった。

    それでも、お店は始まった。

    ところが――。

    オープン3日目。

    また問題が起きる。

    なんと、お店の裏側から水漏れが始まったのだ。

    おそらく原因は、床をやり直した工事の際に、水道管のどこかを傷つけてしまったことだった。

    すぐに内装業者さんへ連絡し、何度も修理を試みてもらった。

    しかし、どの方法もうまくいかない。

    水漏れは止まらなかった。

    そのうち対応も曖昧になり、このままでは逃げ切られてしまう。

    そう判断した私たちは、裁判を起こすことを決意した。

    お客様は来ない。

    水漏れは止まらない。

    コロナは始まる。

    裁判も始まる。

    2020年。

    私たちにとって、この一年は、まさに問題だらけの幕開けだった。

    第八章 コロナ始まる

    2020年。

    世の中は、それまでの日常とはまったく違う景色へと変わっていった。

    今まで当たり前だったことが、次々と当たり前ではなくなっていく。

    当然ながら、飲食店にお客様が来るわけもない。

    それでも、内装トラブルを抱えたまま、コロナを理由にお店を潰すわけにはいかなかった。

    正直、私は「やりたくない」という気持ちを、まだ心のどこかに抱えていた。

    それでも、子どもたちを路頭に迷わせるわけにはいかない。

    その一心で、シェフと二人、とにかくできることは何でもやった。

    テイクアウトを始めた。

    チラシを作ってポスティングをした。

    BASEでラザニアやカレーを販売した。

    使える補助金制度はすべて調べ、申請した。

    とにかく、お店を守るために必死だった。

    ただ、オープンして間もない私たちには、前年度の実績がなかった。

    そのため、持続化補助金だけでは到底足りない。

    結局、日本政策金融公庫からの借入は、当初の約1.8倍まで膨れ上がってしまった。

    返せる自信があったかと言われれば、正直なかった。

    でも、お店を続けるためには、それしか方法がなかった。

    生活費も足りない。

    親にお金を借りた。

    シェフはUber Eatsの配達員として走った。

    私は派遣の仕事へ行った。

    思いつく限りのことをやって、首の皮一枚で生活していた。

    あの頃、一番不安だったのは、きっと子どもたちだったと思う。

    今振り返ると、「よくあんな生活ができたな」と思う。

    正直、45歳を過ぎた今、もう一度同じことをやれと言われても無理だ。

    体力が確実に落ちている。

    あの頃は、本当に火事場の馬鹿力が働いていたとしか思えない。

    第九章 そして鬱になる

    2020年10月。

    ここまで、ついていない出来事の連続だった。

    そして何より、自分の夢ではなく、シェフの夢を否応なく背負い続けてきたことで、私の心はとうとう限界を迎えた。

    ある朝、目が覚めた瞬間、涙が止まらなかった。

    身体は鉛のように重く、何もやる気が出ない。

    子どもたちのご飯すら作れなくなってしまった。

    それでも、レストランには立ち続けた。

    不思議なことに、お客様が来店されると接客モードのスイッチが入り、身体はなんとか動いてくれた。

    ただ、生きているだけで精一杯だった。

    これまでの経験から、「必ずまた浮上できる日が来る」と、ほんの少しだけ希望は持っていた。

    だから、その日が来ることを信じて、一日一日をなんとかやり過ごしていた。

    約3か月。

    仕事以外は、ほとんど寝て過ごす毎日だった。

    病院を受診すると、鬱と診断された。

    薬も処方していただき、しばらく飲んでみた。

    気持ちが極端に沈むことはなくなったものの、私には、ずっと水の中にいるような感覚があった。

    「私には、この薬は合わないのかもしれない。」

    そう感じ、医師とも相談しながら約1か月で服用を終えた。

    そして、自分なりに少しずつ回復を目指していこうと決めた。

    鬱になってからは食欲もなくなり、58キロあった体重は49キロまで落ちていた。

    家族は、家のことが何もできない私を責めることは一度もなかった。
    私の姉達がそんな私を見兼ねてご飯を作りに来てくれたりと沢山沢山サポートをしてくれた。そんな姉達にも感謝しかない。

    娘は当時、小学6年生。

    「お母さん、休みなよ。」

    そう何度も声を掛けてくれた。

    あの言葉には、本当に何度も救われた。

    それでも私は、自分が何もできないことに腹が立った。

    子どもたちに申し訳なくて、「母親失格」の烙印を押されたような気持ちになっていた。

    そして、シェフに対する恨みだけは、日に日に募っていった。

    でも、このままでは終われない。

    この闇からは、必ず抜け出さなければならない。

    では、どうすればいいのか。

    私はまず、「なぜ自分は鬱になったのか」を振り返ることから始めることにした。

    第十章 自分分析

    鬱については、実は鬱になる前から何冊か本を読んだことがあった。

    だからこそ、今度はその内容を自分自身に当てはめて考えてみることにした。

    私には思い当たることがいくつもあった。

    完璧主義。

    真面目。

    人に優しい。

    そして、自分の感情を後回しにしてしまうこと。

    予期せぬ精神的な負荷が重なり、自分の気持ちを無視したまま頑張り続ける。

    すると、心が「もう限界だ」と悲鳴を上げ、身体があらゆる機能を止めてしまう。

    私には、そんな状態だったように思えた。

    実際、涙は自分ではコントロールできなかった。

    食欲もなくなり、食べなくてもお腹は空かない。

    頭も働かず、思考が止まってしまう。

    一度壊れてしまった心は、そう簡単には元には戻らない。

    まず私がやったことは、とにかく眠ることだった。

    睡眠時間を増やすことで、考え続ける時間を少しでも減らしたかった。

    ちょうどコロナ禍で緊急事態宣言もあり、休める時間があったことは、私にとっては救いだったと思う。

    もし休める環境でなかったら、薬をもっと長く飲み続けていたかもしれない。

    今振り返ると、ストレスというバケツは、とっくに溢れていた。

    それなのに私は、その水を捨てることもせず、「まだ頑張れる」と思い込んでいた。

    頑張ることが正義。

    頑張っている自分は偉い。

    頑張ることには意味がある。

    私は、ずっとそう信じて生きてきた。

    でも、その考え方こそが、自分自身を追い込んでいたのだと思う。

    日本人は勤勉だと言われる。

    もちろん、その勤勉さは素晴らしい長所でもある。

    でも、働き過ぎると心に余裕がなくなり、思考は止まり、視野は狭くなる。

    そして、判断を誤ってしまうこともある。

    そんな時に出会ったのが、「シャバット」というユダヤ教の教えだった。

    シャバットでは、

    ・家族で食卓を囲む
    ・ろうそくを灯す
    ・感謝の祈りを捧げる
    ・特別なパン(ハラ)やワインをいただく
    ・家族や友人との時間を大切にする
    ・心と身体を休める

    といった時間を過ごす。

    一方で、

    ・仕事
    ・買い物
    ・車の運転
    ・電気製品の操作

    などは控えるとされている。

    私が印象に残ったのは、

    「生産性を手放し、存在そのものを祝福する日」

    という考え方だった。

    単なる休日ではない。

    「何かを生み出さなくても、自分には価値がある。」

    そんなメッセージのように、私には感じられた。

    私は、この考え方がとても好きだった。

    だからまず、自分を労わる練習を始めることにした。

    それが、私の回復への第一歩だった。

    第十一章 コロナ禍での3年間

    鬱の症状は続いていたが、ひたすら眠ることで少しずつ回復してきた。

    そこで私は、心と身体を整えるためにヨガを始めた。

    お店の経営に対する心配や恐怖で、頭も心もいっぱいになっていた。

    気が付けば呼吸は浅くなり、常に緊張している状態だった。

    「自律神経が乱れているのかもしれない。」

    そう思ったのが、ヨガを始めたきっかけだった。

    実際に続けてみると、少しずつ心が緩んでいく感覚があった。

    でも、考え方の癖までは、すぐには変わらない。

    不安になる。

    焦る。

    そして、その不安から経営判断をしては失敗する。

    そんなことを何度も繰り返していた。

    例えば、テイクアウトを始めるために大量の容器を購入したこと。

    あるいは、「検索サイトでお店を一番上に表示できます」という営業を信じて契約したがどうも怪しいと思いその日に解約の電話をしたにも関わらず、その場でクレジットカードを切られてしまった為に約20万円の広告費を丸々取られてしまったり、冷静な判断を出来ずにいた。

    結果として、思うような効果は得られず、高い授業料になった。

    当時の私は、「何もしない時間」が怖かった。

    お金を生み出していない時間は、すべて無駄だと思っていた。

    だから、とにかく何かをやらなければと焦っていたのだ。

    一方で、シェフはというと、相変わらず呑気だった。

    根拠のない自信だけで、

    「絶対、大丈夫!」

    と言い切る。

    私は、その姿を見ていつも思っていた。

    「馬鹿って最強だなぁ。」

    もちろん本人にも、

    「馬鹿って最強だね。」

    と、毎日のように悪態をついていた。

    今だから笑って話せるが、当時は本気でそう思っていた。

    彼は経営の数字をほとんど見ない。

    お金を借りる時だけ判子を押す人だったので、数字を見て心配することもなかった。

    ある意味、無責任。

    そう言ってしまえば、それまでだった。

    一方の私は、毎日数字とにらめっこをしていた。

    だからこそ、不安も恐怖も、すべて一人で抱え込んでしまっていたのだ。

    2021年。

    補助金に何度も助けられながら、私たちは首の皮一枚で、お店を守り続けていた。

    第十二章 薄利多売を捨てる決断

    2020年、2021年。

    コロナで先の見えない不安な日々が続く中、それでも私たちは何とかお店を維持することができた。

    お客様が一組でも来てくださる日は、お店を開けた。

    休みは不定休。

    ランチ営業をして、夜はアラカルト営業。

    とにかく、できることは全部やった。

    しかし、コロナ禍では昼に外食をする人そのものが少なく、思うようにお客様は来なかった。

    しかも、ランチのお客様の多くは、夜には来店されない。

    本来、飲食店は客単価の高い夜営業で利益を出す商売だ。

    それなのに、ランチ営業で体力を使い果たし、夜には最高のパフォーマンスが出せない。

    そんな悪循環を、私たちは身をもって体験した。

    その頃から、私は一つの疑問を持つようになった。

    飲食店はサービス業だ。

    でも、本当にそれだけなのだろうか。

    安い価格で長時間働き続けることは、自分たちの労力を安く売っているだけではないのか。

    時給に換算したら、重労働の割にまったく割に合わない。

    人件費をきちんと価格へ反映すれば、料理の値段は当然上がる。

    でも、それが本来の姿なのではないか。

    商売を始めて、初めて気付いたことだった。

    それまでは私も、一人の消費者だった。

    少しでも安く。

    少しでもお得に。

    そんな基準でお店を選んでいた。

    でも、お店を経営する側になって初めて、その「安さ」は、誰かの労力の上に成り立っていることを知った。

    その現実に気付いた時、私たちの考え方は大きく変わった。

    このまま薄利多売を続けていたら、年齢を重ねた私たちの身体は、きっと持たない。

    頑張れば頑張るほど疲弊し、利益は残らない。

    そんな経営を、この先も続けることはできない。

    では、どうすればいいのだろうか。

    その答えを探すことが、私たちの次の挑戦の始まりだった。

    第十三章 安さは、本当に正義なのか?

    私は、ランチ営業そのものが悪いとは思っていない。

    ただ、私たちのお店には合わなかった。

    それが、この数年間で出した結論だった。

    昔は、お弁当を持って会社へ行くのが当たり前の時代だった。

    それが高度経済成長とともに、忙しい毎日の中で「外で手軽に、安く、美味しく食べられるランチ」が求められるようになった。

    その流れの中で、日本には「ランチはお得であるべき」という価値観が根付いたのだと思う。

    もちろん、ランチ営業だけでしっかり利益を出しているお店もある。

    大手チェーン店であれば、仕入れやオペレーションを工夫し、その仕組みを作ることができる。

    でも、私たちのような小さな個人店では事情が違った。

    ランチは利益を出す時間というより、お店を知っていただくための時間になっていた。

    価格は低く、仕込みも営業も手間は変わらない。

    その結果、自分たちの労力を安く売ることになっていた。

    最近では、千円以下のランチが少なくなってきた。

    それは食材だけではなく、人件費や光熱費など、すべてが上がっているからだ。

    それでも、「常連さんに申し訳ないから」と値上げをためらうお店は少なくない。

    でも今の私は思う。

    常連さんが悪いわけではない。

    私たち自身が、「安く提供し続けなければ」という思い込みに縛られていただけだったのだ。

    その優しさは、ときに自分たちの首を絞める。

    利益が残らなければ、お店は続けられない。

    続けられなければ、お客様に料理を届けることもできない。

    だから私は、「安さ」だけを正義にする考え方を手放すことにした。

    お客様にも、お店にも、どちらか一方だけが得をする関係ではなく、お互いが気持ちよく笑顔になれる関係でありたい。

    お客様が得をして、お店だけが損をする。

    そんな経営は、いつか必ず限界が来る。

    どんなに料理が美味しくても、どんなにサービスが良くても、資金がショートすれば、お店は続けられない。

    商売とは、利益を出すことではなく、「続けること」。

    私はそう考えるようになった。

    第十四章 経営者の視点

    経営者になると、見える景色が変わる。

    消費者だった頃の私は、一円でも得をしたいと思っていた。

    少しでも安く。

    少しでも良いものを。

    そんな基準で物を選び、お店を選んでいた。

    だから、開業当初は内装工事でも「安ければいい」と考え、結果として安物買いの銭失いを経験した。

    スタートダッシュも切れず、泣かず飛ばずの2年が続いた。

    でも、飲食店を経営するようになってから、少しずつ考え方が変わっていった。

    それまで見えていなかったものが、見えるようになったのである。

    まず気付いたのは、第一次産業で働く方々の大変さだった。

    生産者の皆さんは、本当に手間をかけて食材を育てている。

    それなのに、決して楽に儲かる仕事ではない。

    もし、その仕事が割に合わないままなら、親は子どもに継がせたいとは思わないだろう。

    子どもたちも、未来の見えない仕事を選ぼうとは思わない。

    そうなれば、日本の食料自給率はさらに下がり、私たちは高くて美味しくない輸入品に頼ることになるかもしれない。

    結局、長い間「安さ」を求め続けた結果が、今の社会なのではないか。

    そんなことを考えるようになった。

    世の中は、誰かが得をすれば、その裏で誰かが負担をしていることもある。

    だから私は、「どうすれば良いものを、良い状態でお客様へ届けられるのか」を考えるようになった。

    そのためには、働く時間も、営業日数も、営業スタイルも見直さなければならない。

    コース料理にするのか。

    アラカルトを続けるのか。

    そして、私たちが最初に出した結論は、

    「ランチ営業を辞める。」

    という決断だった。

    第十五章 薄利多売を捨てた日

    ランチ営業を辞めたことは、結果的に良いことしかなかった。

    それまでの「いつでも、誰でもウェルカム」という営業スタイルから、私たちの料理の価値を理解してくださるお客様に来ていただける店へと変わったのだ。

    つまり、お客様の層が変わったのである。

    基本的に、ランチのお客様は夜には来ないことが多い。

    価格の安いランチ営業で体力も気力も使い切ってしまうと、夜営業にはその半分ほどのエネルギーしか残っていない。

    本来、夜のお客様の方が客単価は高い。

    それにもかかわらず、人間は完璧ではない。どう考えても、料理も接客もクオリティーが落ちてしまうのは当然だった。

    もちろん、ランチを辞める時は売上が減るのではないかという不安もあった。

    しかし、夜営業に全力を注げるようになると、料理の質もサービスの質も上がり、お客様の満足度は確実に高くなった。

    その結果、売上も少しずつ伸び始めたのである。

    そこで私は、一つの答えに辿り着いた。

    薄利多売という考え方では、人は幸せになれない。

    2026年現在、食材価格はコロナ前の一・五倍から二倍以上になっているものも珍しくない。

    良い食材を使い、本当に美味しい料理を作ろうとすれば、価格はどうしても上がる。

    もちろん、「安く、お腹いっぱいになればいい」という人もいる。

    しかし、多くの人は、本当は美味しいものを食べたいと思っているはずだ。

    だからこそ、皆さんにも一つ考えていただきたい。

    お気に入りのお店で、何年も値上げをしていないお店はないだろうか。

    もしあるなら、その裏側で何が起きているのか。

    利益を削っているのかもしれない。

    食材の質を落としているのかもしれない。

    スタッフが無理をしているのかもしれない。

    そして最悪の場合、お店そのものが続けられなくなってしまう。

    価格を上げられない店。

    そして、その値上げを受け入れてもらえない店。

    そういうお店は、残念ながら長く続けることが難しい。

    私はランチ営業を辞めたことで、「安く売ること」よりも、「価値を届けること」の大切さを学んだ。

    それは、お店を守るためでもあり、自分たちの人生を守るためでもあった。

    そして、この決断が、私たちの店の未来を少しずつ変え始めることになる。

    第十六章 勝負はコンセプトだった

    夜だけの営業になると、身体は驚くほど楽になった。

    以前は朝9時には店に入り、急いで仕込みをしてランチ営業が始まる。

    価格の安いランチで長居をするお客様も多く、回転率は悪い。当然、利益も少ない。

    ランチ営業が終われば休む暇もなく自宅へ戻って夕飯を作り、再び店へ向かってディナー営業。家に帰る頃には夜中の1時を過ぎていた。

    そんな生活では、子育てを満足にすることなどできない。

    母親失格だと自分を責める日々が続き、心もなかなか整わなかった。

    利益も出ない。

    体力も削られる。

    このままでは、お店も私たち自身も長くは続かない。

    そう感じた私たちは、裁判が終わった2022年7月、大きな決断を下した。

    内装をやり直し、アラカルト主体だった店をやめる。

    そして、6席だけのコース料理専門店へと営業形態を変えることにしたのである。

    正直に言えば、これは大きな賭けだった。

    シェフは以前から、

    「こんなに美味しい料理を作っているんだから、いつか必ず流行る。」

    と本気で信じていた。

    しかし私は、美味しい料理だけでは店は成り立たないことも、この数年間で痛いほど学んでいた。

    当時、私たち夫婦がよくやっていたことがある。

    流行っている店と、流行っていない店を分析することだった。

    世の中には、美味しくなくても流行っている店がある。

    その一方で、本当に美味しいのに流行っていない店もある。

    その違いは何なのだろう。

    二人で何度も話し合い、考え続けた。

    そして、たどり着いた答えが**「コンセプト」**だった。

    誰に、何を、どう届けたいのか。

    どんな人に来てほしいのか。

    その人に喜んでもらうためには、何を提供すればいいのか。

    ターゲットを明確に決めること。

    私たちは、ようやく「料理を作る店」ではなく、「誰のための店なのか」を考え始めたのである。

    第十七章 マーケティングだけでは人は動かない

    世の中のほとんどの商品やサービスは、マーケティングによって分析されたデータをもとに、商品展開や販売方法が考えられている。

    飲食店も同じだ。

    どこに店を出すのか。

    どんなお客様に来ていただきたいのか。

    何を売りにするのか。

    売上をいくら目指すのか。

    料理以外にも、考えなければならないことは山ほどある。

    もちろん、私たちもたくさん勉強した。

    マーケティングについても学び、分析もした。

    しかし、いくら考え抜いても、実際に蓋を開けてみると予想が外れることは珍しくない。

    だから私は思う。

    人は失敗したくない。

    でも、失敗から学び、修正を繰り返すことでしか前には進めないのだと。

    つまり、失敗しなければ分からないことばかりなのである。

    成功したい人は、成功している人の話を聞きたがる。

    もちろん、それも大切だ。

    しかし、その人が成功したのは、成功法則を知っていたからではない。

    数え切れないほど失敗し、そのたびに学び、修正し、前へ進むことを諦めなかったからだ。

    だから、その人の成功法則が、そのままあなたにも当てはまるとは限らない。

    私たちの店も、本当にたくさん失敗した。

    そのたびにお金も飛んでいった。

    それでも諦めなかった。

    そして、もう一つだけ決めていたことがある。

    毎日来てくださるお客様一人ひとりに、120%のおもてなしをすること。

    それだけは、どんな時も変えなかった。

    結局のところ、マーケティングはあくまで入り口に過ぎない。

    商品や料理を届ける先には、必ず「人」がいる。

    人が人を呼び、人が店を育ててくれる。

    だから私は、今の時代に一番大切なのは、心を込めて仕事をすることなのではないかと思っている。

    遠回りに見えても、その積み重ねこそが、最後には一番強い力になるのだから。

    第十八章 すべてを捨てて、もう一度始めた

    アラカルトとランチ営業をしていた店から、コース料理だけのレストランへ。

    これは、私たちにとって人生を懸けた大きな決断だった。

    今まで来てくださっていたお客様を手放し、新しいお客様へと舵を切る。

    簡単な決断ではなかった。

    それでも決めた理由は、たった一つ。

    今のお客様の層では、私たちは労力を提供するばかりで、ボランティアに近い経営になってしまっていたからだ。

    身を粉にして働いても利益が残らない。

    それでは、お店を続けることはできない。

    さらに、この頃のお客様の中には、自分都合のリクエストを当然のようにされる方も少なくなかった。

    私はそのたびに、「飲食店は下に見られているのではないか」と感じることがあった。

    私は、お客様は神様ではないと思っている。

    お金は、労働に対する正当な対価だ。

    お金を払う側が偉いわけでも、お店側が偉いわけでもない。

    本来は、お互いが対等な立場であるべきなのだ。

    しかし、日本では飲食店や職人の仕事は、まだまだ正当に評価されていない。

    そんな現実も、この数年間で痛感した。

    そして2022年12月。

    私たちは、コース料理一本、6席だけのレストランとして再出発した。

    コース料金は18,000円。

    この挑戦が成功する保証など、どこにもなかった。

    最初の数か月は週6日営業。

    お客様が2名の日もあれば、4名の日、満席の6名の日もあった。

    毎日が不安だった。

    それでも、目の前のお客様だけを見て、一皿一皿、一人ひとりを大切にし続けた。

    すると少しずつ、風向きが変わり始めた。

    2023年、私たちの店はミシュランセレクテッドレストランに選ばれた。

    さらに、堀江さんの「クリスマスキャロル」の監修という仕事もいただいた。

    2020年から続いてきた、裁判、コロナ、借金、鬱――。

    暗闇の中でもがき続けた三年間。

    ようやく、その先に小さな光が見え始めた瞬間だった。

    あの時、諦めなくて本当に良かった。

    そう、心から思えたのである。

    第十九章 淡々と

    結局、私たちが2020年からやってきたことは、とてもシンプルだった。

    挑戦して、失敗して、修正する。

    また挑戦して、また失敗して、また修正する。

    その繰り返しを、本当に毎日、淡々と続けてきただけだった。

    何かが一気に変わった瞬間なんて、一度もない。

    「いつか上手くいく」と信じていたというよりも、諦めたらすべてが終わると分かっていた。

    だから、私の辞書に「諦める」という選択肢はなかったのである。

    子どもがいた。

    親としての責任があった。

    絶対に子どもたちを食べさせていかなければならない。

    その重圧で心は何度もボロボロになった。

    それでも営業が始まると、不思議とスイッチが入る。

    目の前のお客様がいる限り、どうにか最後までやり切ることができた。

    その積み重ねが少しずつ実を結び、お客様がお客様を呼んでくださるようになった。

    口コミでお店を広げていただき、今では何か月も先までご予約をいただける店になった。

    でも、お客様との信頼関係は、一度で築けるものではない。

    私がいつも心に置いていたことがある。

    「もし今日来てくださるのが、大切な友人だったら、自分はどんなおもてなしをするだろう。」

    そのことだけは、毎日忘れないようにしてきた。

    大切な友人を迎えるような気持ちで接すると、お客様は喜んでくださる。

    そして、その笑顔を見ると、今度は私が元気をいただく。

    そんな繰り返しだった。

    心も身体も限界だった日でさえ、お客様はいつも私たちに頑張る力をくださっていたのである。

    お店は、これからも続いていく。

    未来がどうなるかは誰にも分からない。

    また思いもよらない出来事が起きるかもしれない。

    それでも、私は明日を信じる。

    自分の心と身体を整えながら、今日を淡々と生きる。

    それが今の私にとって、一番大切なことなのだと思う。

    ある日突然、私の人生に降ってきた「レストランのマダム」という役割。

    最初は心の底から嫌だった。

    それでも今は、この仕事を通して出会えた人たち、学べたこと、乗り越えてきた時間のすべてが、私の人生だったのだと思える。

    だから今日も、私はレストランに立つ。

    大切なお客様を、大切な友人として迎えるために。

    私のイタリアンレストランマダムの日々は、まだまだ続きます。

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