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手術4回、「普通に働かせて」と願った人 ── みかさんの物語|インナーストーリーの宝石箱

    序

    皇居の近くに、環境に配慮した造りで知られるスターバックスがある。その店を指定してくれたのは、みかさんのほうだった。行ってみたいです、と。

    待ち合わせの少し前に、連絡が来た。

    「地図が読めなくて。危ない、通り過ぎてました」

    えー、意外。そう思ったら、ふっと肩の力が抜けた。地図が読めないって、私と一緒じゃないですか。会社でバンバン判断を下してきた人が、目の前の道で右往左往している。その姿を想像したら、急に親しみが湧いてしまった。

    *

    初めて会ったのは、昨年の12月。仕事帰りのみかさんは、ピンクのコートを颯爽とまとって現れた。

    話を聞きながら、私はつい「社外取締役になれそうですね」と言ってしまった。頭脳も、体力も、メンタルの強さも、どこを取っても加点になりそうな人に見えたからだ。健康優良児、という言葉が浮かぶくらい、タフな印象だった。

    実は、この日の前にオリエンテーションをしていて、病気の話があることは聞いていた。それでも、見た目にも雰囲気にも、その影は微塵もなかった。その印象は、8月になっても変わらない。

    *

    先に席についていた私のところへ、みかさんがにこやかに歩み寄ってくる。通り過ぎてしまった話をして、それから店の話をした。外国人のお客さんが多くて、環境への意識が高い店だ。みかさんがこれまで学んできたことに、ぴったりだと思った。

    その人が、これから病気の話をする。

    *

    みかさんは30代で、4回の手術をしている。ひとつは難病で、いまも月に一度、病院へ通っている。

    「病気とともにずっと生きてきた感じがあって、それをあんまり人にしゃべれなかったんですけど、最近それをようやく口にできるようになってきていて」

    そう言って、この日を申し込んでくださった。

    *

    これは、その日の5時間から生まれた物語です。いくつかの章のあとに「ゆきこの内省メモ」を添えました。これは、私から見たみかさん。しがらみのない人間からの、まっすぐなまなざしです。

    ご本人の希望で、お名前は伏せています。ここから先は「みかさん」と書かせてください。

    長い物語です。どうぞ、ゆっくり読んでみてください。

    第1章 お母さんは、私のもの

    2025年。みかさんは、44歳になっていた。参加していた講座で、宿題が出た。「子どもの頃のことを知っている人に、話を聞いてくること」。

    こっ恥ずかしいな、と思った。母とは今も、ムーミンの展示を見に行った帰りにお茶をするような関係だ。旅行にも行く。でも、そういう真面目な話はしない。

    「ちょっと宿題が出ててさ。手伝ってよ」

    そう切り出すと、母は「わかんないよねえ」と言いながら、ひとつだけ、覚えていることを話してくれた。

    *

    みかさんが3歳か4歳の頃だという。髪の毛を結ってもらいながら、みかさんは言ったらしい。

    「髪の毛を結んでくれる時だけ、お母さんは私のものだね」

    母は、ドキッとしたのだという。この子に、手をかけてあげられていない——。

    40年近く前の、たった一言だった。それを、母は覚えていた。みかさん自身は、まったく覚えていない。

    「そんなこと、よく言ったなって思うんですけど」

    *

    3人きょうだいの、真ん中だった。兄は4つ上、弟は2つ下。兄は長男で、一人っ子だった時代がある。だから素直に甘える。弟は小さくて、体が弱い。手がかかる。

    その間に、みかさんがいた。

    もうひとつ、母が何度も話して聞かせたエピソードがある。子どもが悪さをして、親が「出てきなさい」と叱る。昭和の家では、そういうことがあった。

    同じことを言われて、兄は家の外に出されて「入れて」と泣きわめいた。弟は「出てきなさい」「はーい」と返事をして、下でケロッと遊んでいた。

    みかさんは、荷物を詰め始めた。3つか4つの子が、おもちゃを鞄に詰めている。

    「おもちゃ詰めてどうすんの、みたいな」

    *

    札幌にいた頃、みかさんは喘息の子だった。遠足がある。前の日になると、ゴホゴホと咳が出る。行けなくなって、家で折り紙を折っている。そういう子どもだった。

    大人になってから、みかさんはある話を知る。子どもの喘息には、親に振り向いてほしい気持ちが出ることがあるのだという。

    「もしかしたら、子ども心に、ちょっと振り向いてよみたいな時にゴホしてたのかな」

    そう言って、笑った。

    *

    好奇心は、旺盛だった。4つ上の兄が勉強をしていると、自分もやりたくなる。

    「お兄ちゃんがドリルやってる。私もドリルが欲しい」

    計算ドリル、漢字ドリル。買ってもらったそばから、すぐ終わってしまう。

    「お母さん、次のちょうだい」

    小学校に上がる頃には、兄の影響で、すでにアドバンテージがあった。勉強がわかる。学校が楽しい。本を読むのが好きで、図書館が好き。通知表には「よくできました」がいくつも並んだ。

    *

    できることが、当たり前になった。100点を取っても、「100点だったね」で終わる。96点だと、こうなる。

    「96点だったんだ!ええー」

    親に、悪気はまったくなかった。この子は100点を取りたい子だから、96点だったらきっと悔しいだろう。そう思って、「96点だったもんね、悔しかったね」と言ってくれていた。

    悔しい気持ちは、あったと思う。たぶん、最初はあった。でも、だんだん形を変えていった。

    できて当たり前。できない自分を、見せられない。

    「全然完璧じゃなくて、できないこともたくさんあるんですけど」とみかさんは言う。それでも、弱いところを見せるのは苦手だった。

    *

    中学受験に、失敗した。

    第一志望に落ちた。クラスメイトはほぼ合格した。第二志望である母の母校にも落ちた。そして、2月4日。1月に行われた一次では落ちた学校の2次募集。最後の最後で受かった。

    結局、その学校に行ってよかったと今は思っている。でも当時は、違った。滑り込みで、拾ってもらった。

    「ことごとく失敗して、なんとかこの学校に拾ってもらえたんだっていう、劣等感の塊みたいな形で入ってるんで」

    私はできない子だ。私は失敗した。

    中学のスタートは、真っ暗だった。

    *

    朝、学校に行こうとすると、気持ちが悪くなった。好きな学校だった。それなのに、行こうとすると、気持ちが悪くなる。

    「なんで具合が悪いっていうの。学校に行くのに、行かないの」

    母に怒られた。

    「いやいや、お母さん、学校に行くのが気持ち悪いの」

    「とりあえず行きなさい!」

    みんなとは逆の方向へ。空いている電車に30分乗って、学校まで通う。ゴールデンウィークが明ける頃には、友達ができて、ケロッとして通うようになった。

    でも、何かが残った。期待に応えられない。それが、ずっと後まで、みかさんの感情を大きく揺らすことになる。

    *

    「みかちゃんは、手がかからないから」

    ずっと、言われてきた言葉だ。

    「手がかからないね」「しっかりしてるね」「偉いね」

    大人たちは、褒めてくれていた。でも、みかさんは言う。

    「言われれば言われるほど、実は全然嬉しくなくって」

    *

    どうしたら、手をかけてもらえるんだろう。

    弟は、自由気ままにしている。いいなあ。兄は兄で、一人っ子の時代が長かったからか、「いやだ」とはっきり言える。

    そんなふうに、当時のみかさんの目には映っていた。

    子どもの頃だから、「空気を読む」なんて言葉は知らなかったと思う、とみかさんは付け加える。それでも、していた。この場でこう振る舞ったら大人が喜ぶ。大人はこう期待しているだろう。

    「そういうことをしすぎちゃって、生きてきたのかな」

    ゆきこの内省メモ
    初めてお会いしたのは、昨年の12月。私の目に映ったみかさんは、仕事も遊びもがんばれる"万能タイプの人"でした。仕事でも役職の階段を駆け上がっている。ロールモデルのような、少し超越したところにいる人に見えました。

    その人の出発点に、髪を結ってもらう数分だけ母を独り占めできた女の子がいた。私はそのことを、しばらく考えていました。

    対話の終わりのほうで、みかさんがこんな話をしてくださいました。兄が小6、みかさんが小2。同じ小学校でした。全校行事の感想文に、みかさんは無意識にこう書いたそうです。

    「お兄ちゃんをよろしく」

    授業参観で読み上げられて、大爆笑になったといいます。笑い話として話してくださいました。

    たった8歳のみかさんは、4つ上の兄に頼るのではなく、面倒を見る側の目線でいた。

    「手がかからない子」という言い方は、たぶん正確ではありません。みかさんは、最初から「手をかける側」にいました。手をかけてもらう側に立つことが、ほとんどなかったのではないでしょうか。だから、「どうしたら手をかけてもらえるんだろう」という問いが、心に残っていたのかもしれない、と思います。

    第2章 高3の夏、もう限界

    小学校5、6年の頃、「七人の女弁護士」というドラマがあった。働く女性の姿が、子どもの目にはかっこよく映る。みかさんの夢は、女性の弁護士になることになった。小学校の文集にも、「正義は勝つ」と書いている。

    *

    その夢は、家の中でだけ、少し違う意味を持った。父は法学部の出身で、一緒に住んでいた祖父も法学部。祖父は本当は弁護士になりたかったのだと、みかさんは知っていた。

    孫が法曹の道に行きたいと言っている。期待が、そこに乗った。

    *

    中学の頃から、成績が張り出されるようになった。塾は習熟度別で、上のクラスがある。高校になれば、大学受験のクラス分けになる。上位にいないと、不安だった。

    「純粋な学びが好き、ももちろん。でも中学高校の時に純粋に学びが好きって思ってたのか、あんまり記憶ないんですよね」

    みかさんは、東大クラスという名前のクラスにいた。弁護士になると言い続けていたから、東大の法学部を、という話になっている。

    高3の夏。

    「なんか息苦しくなって、なんか違うって思って」

    まわりは、もう進路がほぼ決まっている時期だった。

    「もう限界」

    みかさんは、親に言った。進路を変える、と。

    *

    東大の受験には、センター試験で5教科が要る。世界史と日本史を両方やらなければならない。まず、世界史を捨てた。

    弁護士にも、ならない。ずっと言い続けてきたのに、やめた。親は、びっくりしていた。

    代わりに、こう言った。国際関係をやりたい。世界の中で仕事がしたい。

    なぜ世界だったのかは、みかさん自身、はっきりとは覚えていないという。でも、思い当たることが、ひとつだけあった。

    *

    高校2年のとき、交換留学に行きたかった。

    母は、高校時代に交換留学を経験している。とてもいい経験だったと聞かされていた。母の世代でそれをさせるために、祖父母がずいぶん頑張ったことも知っていた。

    当時の相手とは、今も文通が続いている。みかさんも、その人に会ったことがある。

    行きたかった。

    でも、家は4世帯が同居していた。曾祖母がいて、祖父母がいて、両親がいて、きょうだいが3人。8人家族だ。留学生を受け入れるスペースなど、どこにもない。

    「『どうせ無理だろう』が先に立っちゃって」

    行きたかったけれど、行きたいが、言えなかった。

    *

    高3の夏に大慌てでオープンキャンパスへ行って、ここだ、と思った大学に入った。予習してきて当たり前、みんなで議論するのが当たり前の大学。自分がどう思うかを言う。そこから何かを立ち上げる。それが授業だった。

    「4年間パラダイスだったんで、楽しくて楽しくてしょうがなかった」

    学ぶ楽しさを取り戻した気がします、とみかさんは言う。

    *

    1年生の夏休みに、留学の機会があった。7週間。単位にもなる。交換留学という名前だが、受け入れは必要なく、自分が行くだけでいい。これなら行けるんじゃないか、と思った。

    「お願いだから、これは行かせて」

    みかさんは、初めて頼んだ。

    *

    返ってきた答えは、こうだった。

    「一回はいいじゃない」

    「言ってみたら意外と『一回はいいじゃない』みたいな感じだったんで、高校の時も言えばよかったってその時思った」

    ニュージーランドに行き、初めて親元を離れた。

    *

    専攻は、途中で心理学に変えた。興味があったのは、子どもの言語発達。現場に出て親子支援をやりたいと思ったが、大学を出ただけでは足りないと言われ、大学院へ進んだ。

    *

    就職活動で、みかさんは変わった選び方をした。

    ネームバリューのあるグローバル企業から内定をもらっていた。ところが内定者の集まりに行ったら、仲良くなるための体育祭のようなことをやると聞かされた。

    えっ、いやと思った。なんでそんなのやらなきゃいけないの、と。

    もう一社は、社員と同じくらいの数の新卒を一度に入れるという、今考えても無茶苦茶な求人広告の会社だった。こちらの内定者の集まりでは、グループに分かれて新規事業を考え、競い合う。そっちのほうが面白い、と思った。

    「わけわかんない面白さに惹かれて」

    親は、え、どこ?という顔をした。みかさんは、直感で決めた。

    その会社は、その後どんどん成長し、みかさんが辞める頃には上場企業になっていた。

    「会社の成長と自分の成長が重なり合う感覚」

    *

    営業として入ったが、担当したお客さんが人事の人で、人事の仕事に興味を持った。みかさんは、会社を辞めることにした。人事をやりたいから、と。転職先も決めて、辞めますと伝えた。

    そうしたら、会社が動いた。

    社内公募で人事の募集がある、一度それを受けてみたらどうか、と言われた。人事の本部長と部長と課長との面談があり、公募が通って、人事に異動になった。

    「辞めるって騒いでた人のために、会社を動かしちゃいました。今考えれば、人事の立場になったら大迷惑な人ですね」

    *

    人事の仕事は、忙しかった。課長がいなくなり、分からないなりにやるしかなかった。社会人5年目で、内定者は150人ほど。説明会で全国を回り、面接をして、内定者のフォローもする。正解のない仕事だった。

    全国を回りすぎて、一人暮らしを考えたのに「家にいないから意味がない」とやめたくらいだった。それでも、楽しい。学生に喜んでもらえるのが、素直に嬉しかった。

    「全部が良い方向に回ってたから、働きすぎちゃってたんですよね」

    *

    泊まりがけの入社式があった。2週間の新人研修を終えて、配属を発表する。会社の伝統行事だった。

    会場に着いた頃には節々が痛くて、歩くのも必死だった。熱もあるらしい。それでも、入社式はやり切った。

    終わってから帰って、翌日、病院に行った。

    緊急入院だった。

    *

    風邪をひいていることに、気づいていなかった。ウイルスが体じゅうに回っていて、絶対安静と言われた。翌週に決まっていた出張は、全部行けなくなった。

    前の月の残業は、70時間。

    退院して戻ると、人事のトップに呼ばれた。みかさんは、こう言った。

    「すいません。私、風邪ひいたの気づかなくて。いろいろご迷惑をおかけしました」

    呼んだほうが、拍子抜けしていた。これだけ働かせたからこうなったんだ、と言われると思っていたらしい。

    みかさんは、そんなことは思っていなかった。当時は労働時間の知識もなく、自分が倒れたことを、自分の不注意だと思っていた。

    *

    退院はしていたが、ゴールデンウィーク明けまでは休むことになっていた。そのゴールデンウィークに、みかさんは韓国旅行の予約を入れていた。

    会社には内緒で、行った。

    節々はまだ痛い。ガイドに、病み上がりだけど大丈夫か、結構歩くか、と母から聞いてもらうと、移動が多いから何とかなるでしょう、と言われた。

    「ゴールデンウィークはニンジンだったんですよね」

    採用が終わって、研修も終わって、連休が明ければまた佳境に入る。ここを逃したら旅行に行けない。そう分かっていた。

    第3章 普通に働けるから、普通に働かせて

    2013年。みかさんは32歳になっていた。

    貧血と、生理不順。めまいもひどい。採用の担当を離れて労務に移ったところで、人事評価の取りまとめの時期も重なっていた。全国を飛び回っていた頃の生活が、そのまま続いている。

    20代の終わりに、働きすぎて緊急入院した。あの時と同じだ、と思った。

    「また働きすぎて体調悪いのかな、生理不順なのかなとか。あーもう働きすぎか。なんで学習しないんだろうと思ってたんですけど」

    貧血ですね、と言われるために病院に行った。そういうつもりで、行った。

    *

    検査が、次々に増えていった。血糖の検査、ブドウ糖の検査、視野検査。片っ端から受けさせられた。医者は、病名を言わない。可能性を分かるようにするために検査します、としか言わない。

    みかさんは、自分で調べ始めた。

    検査の前には必ず説明がある。何のための検査で、前日に何を気をつけるのか。だから検査の名前だけは分かる。この検査と、この検査と、この検査。それに、女性診療科の医師が言っていた「ホルモンが」という言葉。

    当時はまだAIなどない。片っ端から調べた。

    行き着いたのは、脳の腫瘍だった。

    *

    内分泌内科の問診の日。一通りの検査が、一段落したところだった。みかさんは、思わず聞いてしまった。

    「私って、もしかしてこの病気ですか?」

    医者が「え」という顔をした。まだ検査の途中ですので、と言葉を濁された。

    その顔で、分かった。告知される前に、自分で当てていた。

    *

    親には、詳しいことを言っていなかった。病院に通っているのは知られている。検査があるからこれは食べちゃいけない、という話もする。でも、何の検査で、何の可能性があるのかは、言わなかった。不確実なことを言えば、余計に心配をかける。

    弟に、めちゃくちゃ怒られた。普段、弟がみかさんに何か言うことは、ほとんどない。

    「なんで言わないの」

    「ちゃんとお母さんに言わなきゃダメでしょ。お母さん、めちゃくちゃ心配してんだよ」

    そういうとこだよ、とも言われた。この件だけの話ではなさそうだった。

    *

    病名は、先端巨大症(アクロメガリー)。難病に指定されている。脳下垂体の、成長ホルモンが出るところだけが大きくなっていた。成長ホルモンばかりが体に出て、女性ホルモンを押さえつける。貧血も、生理不順も、そこから来ていた。

    もうひとつ、分かったことがある。成長ホルモンが多く出ている人は、馬力がある。

    「馬力が単にある体力お化けなのかと思ったら、成長ホルモンがいっぱい出てたからっていうのもあるんじゃない」

    主治医は、笑いながらそう言った。

    *

    脳神経外科の医師は、あっけらかんとしていた。

    脳腫瘍という言葉で、みかさんはさんざん嫌な想像をしていた。調べれば、回復が遅いとか、変なところを傷つけるとか、そういう情報ばかり出てくる。どうしよう、どうしよう、と思いながら病棟へ行った。

    その医師は、淡々と説明した。

    「脳だね。ここに腫瘍があるからね」

    鼻から内視鏡を入れて、ガラスの板みたいなところを除いて、ビューっと取って、また戻す。

    拍子抜けした。血管に絡んでいるから全部は取り切れないと思う、ということも、そのまま言われた。

    「淡々と説明してくれたからこそ、現実をすごく冷静に受け止められた」

    手術日が決まって、一度退院してくださいと言われ、みかさんは普通に仕事に戻った。

    *

    検査入院が8月の下旬。手術は10月の上旬。その間は、人事評価の準備でいちばん忙しい時期にあたっていた。

    みかさんはToDoリストを書いた。自分が抜けるのは決まっている。開ける穴をできるだけ小さくするために、何を先にやっておけばいいか。全部片付けてから、言った。

    「ごめんね、回せないけど入院するわ」

    *

    手術の前日に、遺書を書いた。人生で初めてだった。

    血管に腫瘍が絡んでいる。傷つけてしまえば、意識がどうなるか分からない。ちゃんと書き残せるうちに書いておこう、と思った。何を書いたかは、もう覚えていない。ただ、感謝のことばかり書いていた気がする、と言う。

    *

    手術は、無事に終わった。

    しんどかったのは、その後だった。全身麻酔は初めてで、体に合わなかったらしい。切れた瞬間から気持ちが悪い。頭がガンガン痛む。喉も渇く。でも術後は水を飲んではいけない。

    夜だった。真っ暗で、誰もいない。

    早く朝が来てくれ。早く水を飲ませてくれ。

    「あれこそまさに地獄でしたね」

    ナースコールを押した。気持ち悪いです、頭が痛いです。看護師さんが来て、口の中を濡らしてくれた。そのとき、こう言われた。

    「また苦しくなったら、いつでも呼んでくださいね」

    「呼んでいいんだ」

    みかさんは、そう思ったという。

    それから何回か、呼んだ。朝が来て、麻酔が本当に切れて、水を飲めるようになった。

    *

    腫瘍は、全部は取り切れなかった。大きくならないように、薬を続けることになる。飲み薬は合わず、めまいがひどくて仕事にならない。

    主治医から、ちょうど行われていた治験を勧められた。それに入れてもらって、一年半ほどで薬は市販された。シグニフォーという。

    治療は、月に1回の注射になった。病院へ行って、打って、帰る。通院が習慣になってからは、体調は安定した。月に1回、病院に行く。それ以外は、普通に働いている。

    その月1回が、13年続いている。

    *

    難病の申請をしました、と、脳神経外科の医師はさらっと言った。自分の病気が難病であることは、調べて知っていた。治療法がないから難病なのだということも。

    手帳を持つことになる、とみかさんは言った。指定難病の医療費助成で交付されるのは、正確には受給者証だ。それでも本人の感覚では、ずっと「手帳」だった。

    医療費の助成を受けるためのものだ。注射は月に35万円ほどかかる。それがあれば、1万か2万で済む。今となっては、ありがたい話だと思っている。

    でも当時は、違った。

    「手帳を持たなきゃいけないっていうのも、ショックでしたね」

    自分が何かしらの病気であることを証明するものを、持たなければならない。持たないという選択肢もある。でも治療を続けるなら、助成がなければ続かない。

    「何かしらそういうものがないと、生きていけないんだな」

    *

    会社には、脳に腫瘍があることも、手術で休むことも、その後も月に1回は通院することも言った。

    難病指定を受けたことだけは、言えなかった。

    「難病指定の子なんだ、とか思われるのが嫌で」

    ずっと、恵まれてきたと思っていた。仕事もいろいろやらせてもらって、人事の経験も広がって、楽しくなってきたところだった。そこに病気が来て、こう思われるのが怖かった。

    もうやらせてあげられない。やらせないほうがいいんじゃないか。期待をかけないほうがいいんじゃないか。だって病気だし。

    「普通に働けるから、普通に働かせて」

    病院に行くことさえ許してもらえれば、あとは普通に何でもできるから。

    みかさんは、そう言った。

    ゆきこの内省メモ
    この章のお話を伺っている途中で、私は思わず口を挟みました。淡々としてるんですよ、と。告知をされた話をしているのに、ケロケロケロっとしている、と。

    みかさんは、こう答えました。

    「そこが感情を私やっぱ忘れちゃうんで。そう言っていただいて、そう私、感情忘れてたと思って。当時はあるんです。色んな感情があるんですよ」

    ここまで読んでいただいた場面のいくつかは、そう聞かなければ、出てこないままでした。麻酔の切れた夜のことも、遺書のことも、みかさんの中では終わった話として片付いていたのだと思います。

    もうひとつ、みかさんの声が変わったのは、会社の人にどう思われるか、という話になったときでした。

    手術の失敗より、病気もちだから「無理させられないよね」と扱われることのほうが怖い。これは、子どもの頃の、期待に応えて当たり前だった時代から、そのまま続いている気がしました。

    第4章 ジャングルに帰ります

    手術のあと、みかさんはまた勉強を始めていた。メンタルヘルスの対応をするようになって、産業医から、自分の身を守るためにも学んだほうがいいと言われたのがきっかけだった。産業カウンセラーの資格を取りに、土曜日は学校へ通う。

    それが、楽しくなってしまった。

    *

    28歳のとき、みかさんはライフプランを書いたことがある。キャリアコンサルタントの資格を取ったときの課題だった。そこには、こう書いてあった。35歳で家を買う。

    前提があった。それまでに結婚していて、子どもが一人生まれていて、夫と一緒に買う——そういう35歳を、28歳のみかさんは思い描いていた。

    *

    チャンスはあった。

    ただ、タイミングが合わなかったのだと思う、とみかさんは言う。

    そして、今、夫はいない。子どももいない。

    でも、みかさんはこう考えた。

    「35で家を買うっていうプランは、ありじゃない」

    実家とは反対側の街に、気に入る物件を見つけて、買った。

    資産形成のことはよく分からない。家を買うとはどういうことなのか、いつか売るとしたら資産価値のある家とは何なのか。知らないことを知りながら進めた。人生の勉強だと思っていた。

    「28歳の私が思ってたことを、ちょっとやろうと思って」

    *

    35歳で、初めての一人暮らしが始まった。

    実家を出るのは結婚のときだ、とどこかで思っていた。古い考え方を持っていたな、と今のみかさんは言う。

    社会人3年目のころに一度は出ようとしたが、出張ばかりでタイミングを逃した。当時付き合っていた彼と結婚するのだから、そのときに実家から出ればいい。そう考えているうちに、出そびれた。

    35歳まで、8人家族や4人家族の中にいた。家に帰って、驚いたことがある。

    「家が静かなんだ」

    洗濯物が終わっていることも、当然、ない。

    *

    次に何をやりたいのかを考えたとき、思い出したものがあった。

    「そうだ、国際関係じゃん」

    高3の夏に選んだはずのものだった。

    *

    国際関係の仕事ができる人事、という条件で、メーカーに転職した。海外と人事評価のやり取りをしたり、英語を使ったり。仕事そのものには、楽しさもあった。

    ただ、古き良き会社だった。

    思ったことを口にすると、止められる。入社のときには、思ったことは言ってね、そのために採用したんだから、と言われていた。だから、これはなぜですか、あれは何ですか、と聞く。

    ある日、隣の部署の上司に、こう言われた。

    「女は黙ってろ」

    人事の人だった。

    自分の言い方も生意気だったと思う、とみかさんは言う。それでも、プツンと切れてしまった。

    *

    その日のうちに、みかさんは動いた。知り合いの人事部長がいた。今の会社の人だ。今日こんなことを言われたんです、とメッセンジャーを送った。

    返ってきた言葉は、思いがけないものだった。

    「実は今日、うちの人事が一人辞めることになった。来ない?」

    本当に、その日だったらしい。

    *

    ご飯を食べながら、話を聞いた。人事を作り上げていく状況で、いろいろなことをゼロから作る仕事だという。来年から新卒が入ることは決まっているのに、教育の体系がまだない。それをやってほしい、と。

    聞いた瞬間、ワクワクのアンテナが立った。でも、まだ入社して3ヶ月しか経っていない。人事の人間が3ヶ月で転職するなんて、かっこ悪い。

    そう言うと、こう聞かれた。

    「そこに、居たいの」

    「居たくないです」

    *

    3ヶ月の試用期間が明けたその日に、みかさんは上司に伝えた。

    「いま任せていただいているプロジェクトが終わったら、辞めます」

    試用期間おめでとう、と言うつもりだった上司は、目を丸くしていた。

    かっこ悪いな、とは思った。それでも、言いたいことも言えずにうじうじしているよりは、ずっといい。

    *

    同僚は、いい人ばかりだった。なんで辞めるの、と聞かれた。

    みかさんは、こう答えた。

    「ジャングルに帰ります」

    みんな、大爆笑だったという。

    前の会社は、平和な草原。悪い場所ではない。ただ、そこにいると自分が自分でなくなる。

    「このままここにいたら、私が私でいなくなっちゃう」

    *

    新しい会社では、まず新卒の受け入れ体制を作り上げることになった。その次に来たのが、企業理念の推進プロジェクト。やったことがない。

    困った、と思って調べてみたら、そのテーマを研究している先生が、社会人向けの大学院にいると分かった。みかさんは、受験することにした。

    *

    その受験勉強を、みかさんは治療をしながらしていた。体調が、また崩れている。生理不順と、貧血。検査に行くと、子宮筋腫が大きくなっているので取ったほうがいい、と言われた。

    手術の日は、もう決まっている。願書を書いて、試験を受けて、そのあとに入院。合格発表があって、その翌日には入院という日程だった。入学の書類を大慌てで揃えて、手術を受けた。

    術後は安静にしていなければならず、一ヶ月ほど休んで、新卒2期生が入る直前に職場に戻った。

    第5章 なんでみかちゃんばっかり

    体調は、いいはずだった。

    子宮筋腫を取ったあとで、それまで悪さをしていたものがなくなり、貧血もおさまっていた。こんなことなら早く取ってしまえばよかった、と思うくらい、体が軽い。大学院にも通いはじめていた。

    その秋の健康診断で、乳房に影が見えると言われた。念のためですね、という話。がんじゃないかもしれないし、検査してみましょうか、と。

    「乳がんじゃないことを確認する、そうするために私は精密検査をしたつもりなので、ある意味がんであるはずがないって思っていた」

    11月ごろに精密検査を受けた。

    見つかりました、がんです、と言われた。

    「なんだろう。ほんと頭を金槌で打たれた感じでした」

    *

    ステージ0だった。

    0で見つかることは奇跡です、と医師は言った。一年放っておいたら、もっと広がっていたかもしれない。冷静に考えれば、これ以上ないほど運がいい。

    それでも、言葉のほうが重かった。

    「がんという言葉の重みが、心をフリーズさせました。心も頭もフリーズでしたね」

    脳腫瘍のときとは、違う。あのときは検査を重ねながら自分で調べて、こうだろうと見立てを立てて、その通りだったと知らされた。受け止める時間が、途中にあった。

    今回は、自分は絶対に違うと思っていた。

    *

    問診が終わって、病室を出た。出て、動けなくなった。病院の受付の、会計のところで、ぼーっとしたまま立っている。

    その日は、検査のあと会社に行くつもりで、人事部長に「精密検査なんですよ」と笑いながら話していた。自分は絶対に違うと思っていたから、笑って言えた。ちょっと聞いてきますね、そのあと会社行きますね、と。

    行ける状態ではない。上司に連絡した。すみません、午後は会社に行けません。無理です。

    「メンタル自分は強めだと信じて生きてきたけど、そんな私でも本当動けなかったですからね」

    *

    手術の日を、決めなければならなかった。空いている日が限られていると言われた。こことここしかありません、と。ひとつは3週間後の12月。それを逃すと年明けになる。

    決めてください、と言われた。決めてと言われても、と思った。

    たまたま、12月には子宮筋腫の追加手術がすでに入っていた。取り切れずに残っていたものを、もう一度取る手術。提示された乳がんの手術日は、その翌日だった。

    「大丈夫、大丈夫です、場所が違うから」

    みかさんは、そう主治医に言われて決めた。父方も母方も、祖父母はがんで亡くなっている。一日でも早いほうがいいと思っていた。

    *

    その前の年、かつて同居していた祖父、祖母が相次いで亡くなっていた。家じゅうが、沈んでいる。

    みかさんの家は、8人家族だった時期がある。曾祖母がいて、祖父母がいて、両親がいて、きょうだいが3人。祖父は明るい人だった。祖母は芯の強い人だった。

    そこへ、娘のがんの話を持っていく。

    「ただでさえ、おじいちゃん、おばあちゃんが立て続けに亡くなってこんなに暗い中、また暗い話どうしよう」

    *

    家族の誰よりも先に、みかさんが連絡した人がいる。キャリアコンサルタントの講座で一緒だった友人だった。数年前に乳がんを患い、そのことをフェイスブックで公開していた人だ。みかさんより進んだ段階で見つかって、治療をしていた。

    どうしよう、と連絡した。当事者だから、その人は誰よりも早く受け止めてくれた。

    「そっか」

    「いつでも私でよかったら話するからね」

    ピンクリボンで調べれば、情報はいくらでも出てくる。ほとんど全部見た。それでも、当事者が身近にいて、生の声で気にかけてくれることは、まったく違う。

    みかさんは、こう続けた。

    「そこは難病とちょっと違いますね。難病って誰も周りにいないから、誰にも何も言えないみたいな」

    *

    会社には、言えた。

    翌週の月曜日に上司の時間をもらって、こうこうでお休みをいただきます、ご迷惑をおかけします、と淡々と伝え、管理職のミーティングでも言った。

    「すみません、ちょっと見つかっちゃったんで」

    手術の間の一週間だけはいないから、と部下にも伝えた。退院したらすぐ戻るからね、と。そんなに大丈夫なんですか、と驚かれた。

    「人に伝える練習をしてた感じですよね」

    仕事なら、淡々と言える。抜けたあとの手当ても準備できる。そうやって手を動かしながら、頭の中は、ずっと同じことを考えていた。

    親に、どう言おう。

    *

    告知から、2週間が過ぎていた。その間に、実家には2、3回帰っている。そのたびに、言えなかった。

    家に帰るとぐったりして、そのまま寝てしまう。どう伝えるかを、何度もシミュレーションした。

    夕飯を食べ終わったあとに切り出そう。検査結果が出たよ、と会社に言ったのと同じように言おう。そのあと、どんな時間が流れるだろう。それは、辛い。

    「自分のことのはずなのに、自分が病気を伝えるっていうこと以上に、親とどうしようっていうことばっかり考えてました。なんでこうも自分が辛いとかいう気持ちに向かないんだろうって不思議に思いながら」

    先に、弟に言った。脳のときに怒られた弟だ。また怒られる場面が浮かんだ、というのもある。

    「マジで」

    「お母さんに言ったの」

    「いや、言えてない」

    どうすんのよ、と言われた。

    *

    祖母の四十九日の法要の帰りに、言おうと決めた。

    実家では、言えなかった。

    「実家で言うとなんかかしこまって言わなきゃいけないっていうか、テレビ見ながらの日常で言える話でもないし、実家でどう言えばいいのかが全然わかんなくて」

    四十九日の帰りという、少し非日常の時間なら、言えるかもしれない。法要が終わったあと、みかさんは母に声をかけた。

    「ちょっとお母さん、ごめん。時間ちょうだい」

    外で、話した。

    検査の結果が出て、見つかって、手術をすることになった。手術をすればそんなに悪くないから、ここで見つかってラッキーだったんだよ——できるだけ明るく言おうとした。

    *

    母は、こう言った。

    「なんでみかちゃんばっかり、病気が続くの」

    想像した通りの言葉だった。

    「それが一番辛かった」

    自分のがんのことは、受け止めるしかない。しょうがないよ、としか言いようがない。でも、そう言ったときの母の表情を見るのが、辛かった。

    みかさんは、そのまま帰った。じゃあ帰るね、と言って、帰った。

    そのあと母がどんな顔をしていたのか、あの言葉のあとに何を思ったのか、聞いていない。

    「聞く勇気もなかったし」

    「なんでみかちゃんばっかりで、私はもうお腹いっぱいになっちゃったんで聞けないし」

    父には、面と向かって言えなかった。お母さんに言っといてよ、と母に頼んだ。

    *

    手術は、12月。子宮筋腫の翌日だった。リンパへの転移はなく、部位も小さい。傷もほとんど分からないくらいだった。

    そのあと一ヶ月半ほど、放射線治療が続いた。コロナが始まった頃で、会社も大学院もオンラインになっている。朝9時に病院へ行き、11時からは在宅で働く。

    日常は、あっけないほど早く戻ってきた。

    「ステージ0で見つかったラッキー、放射線治療だけで済んだラッキー、仕事に戻れるラッキー、学校もあるラッキーみたいな、なんかラッキー、私やっぱついてる」

    そう言ってから、みかさんはこう付け足した。

    「そう言い聞かせて。まあ事実なんですけど、それを心のよりどころにしてたところはあったと思います」

    *

    このとき、遺書は書かなかった。脳の手術のときは書いたのに、今回は書いていない。

    「取るべきものを取るみたいな感じ」

    そのかわり、麻酔科医には激しく訴えた。前の全身麻酔で目が覚めたときにひどい思いをしたこと、二度とあんな思いはしたくないこと。今回の麻酔は、悪さをしなかった。

    「一回経験していると、何事も経験だなと思いながら」

    *

    30代で、手術を4回した。32の厄年に、脳。37の厄年に、子宮筋腫。取り切れずに残ったものを取る追加の手術があって、その翌日が、乳がんの手術だった。

    去年の12月、乳腺科の経過観察が終わった。がんをすると、5年が一区切り。その5年が、過ぎた。

    卒業ですね、と言われた。

    「5年、本当に何事もなく生きてこられたのが、やっぱり一つ、本当に節目でしたね」

    ゆきこの内省メモ
    5時間、お話を伺っていました。その間ずっと、みかさんは淡々としていました。脳の手術のことも、麻酔が切れた夜のことも、軽々と越えていくように話されます。

    重さが見えたのは、お母さまの話になったときだけでした。

    巨大な石が、どーんとおりてきたように見えました。上半身に重いものを背負うように、うなだれてしまう。参った、という感じ。声も目線も落ちました。それまでは、こんなふうには見えなかった。ここの話に来るまでは。

    中学生のみかさんを思い出していました。朝、学校に行こうとすると気持ちが悪くなっていた子です。あのときも語られたのは、自分の苦しさではなく、親の期待に応えられなかったという感覚でした。

    そのことを口にすると、みかさんは、マイコーチにも同じことを言われたことがある、と話してくださいました。

    「みかちゃんって、お母さんを悲しませるっていうことにすごく抵抗感あるよね、って言われたことがあるんですけど」

    そして、こう続きました。

    「なんなんでしょうね。ここが本当に未だによくわかんないですね」

    でも、私の口をついて出たのは、違う言葉でした。でもなんか、綺麗なものな気はしますよね、と。

    みかさんも、少し考えてから受け取り直してくださいました。美しいものというか、綺麗なものというか、と。

    あのとき私が感じていたのは、期待に応えたいとか、役割を果たすとか、そういうものとは違うものでした。愛情とか、守りたい気持ちとか、もっと純粋な絆のようなもの。みかさんが起点の話ではなくて、お母さまという人と、セットになっている何か。あくまで、私の直感ですが。

    親にとっての宝物である自分が、「なんでみかちゃんばっかり」と言われる状況になってしまった。乗り越えたあとでも、その悲しみは、みかさんの中に残っているかも知れません。

    第6章 おかえりと、ただいま

    みかさんは、45歳になった。28歳のときに描いたライフプランには、別の45歳が書かれている。結婚して、子どもがいて、育児と仕事のあいだで悩みながら、40代を迎えている。そういう絵だった。

    今のところ、思い描いた絵とは違う人生を歩んでいる。

    悲しさは、もちろんある、とみかさんは言う。そうしたかったのは、紛れもない事実だから。ただ、当時の自分を責める気にもならない。

    「頭の片隅にはあったけど、それを動かす以上に、他の目の前のことを生きるのに必死だった」

    30代で、手術を4回した。5年の経過観察を終えたのが、去年の12月。

    *

    その去年の、1月のことだ。みかさんは、コーチに泣きついた。年末のことが想像できない。明るい未来が描けない。

    何かがうまくいっていないという感覚だけが、ずっとあった。

    その頃、人事の学びをしに、3ヶ月のコースでビジネススクールへ通いはじめていた。好きなはずの学び。

    「そんなメンタル状態で行ったから、全然楽しめなくて」

    行けば行くほど、自分のできなさ加減と、レポートの書けなさ加減に落ち込んで、深みにはまっていった。

    「学びが楽しめない。これ重症だなって思いました」

    体調は、何ともなかった。

    *

    いま、みかさんは仕事の役割が変わろうとしている時期にいる。40歳から45歳のあいだ、ずっと揺れていた。いまも、揺れ幅は小さくなったけれど、続いている。

    上の役職に就く話は、以前から出ていた。みかさんは、こう言う。

    「上に行きたいとか、偉くなりたいとか、思ったことないんですよ」

    特に社会人になってからは一度もない、と繰り返した。

    *

    それでも、迷っている理由がある。同じことを、もう一度やってしまうかもしれない、という感覚だった。

    病気があり、パートナーのこともあった。それでもあの頃、目の前の仕事が楽しくて、やりがいもあって、みかさんはそちらを選んできた。

    「仕事センターで考えちゃったんですよね」

    後悔はしていない、と言う。当時の自分が選んだことだし、それは喜びでもあったから。

    ただ、いま振り返ると、と続けた。仕事を真ん中に置きながら、もう少し自分の生活のほうにも目を向けてあげられていたら、違ったのかもしれない、と。

    「なんか、仕事も役割になっちゃうから、なんか役割だけで生きるのをちょっと解放したいのかもしれないですね」

    *

    みかさんが、ある言葉に泣きそうになった日がある。脳の手術をしたあとのことだ。

    キャリアコンサルタントの仲間と定期的にやっていた勉強会に、しばらく行けなくなっていて、手術が終わってから、久しぶりに顔を出した。

    「おかえり」

    そう言われた。みかちゃんは本を読むのが好きだから、とブックカバーを渡された。

    「待ってたよ」

    *

    職場でも、病気で出たり入ったりするたびに、みかさんは「おかえり」と迎えられた。

    「感謝しかないですね」

    *

    35歳で家を買って、実家を出たとき、みかさんは電気のついていない部屋に帰っていた。8人家族で育った人が、初めて知った静けさ。

    *

    「ただいまとおかえりは、ありがとうとごめんなさいと同じくらい、私、すごい、当たり前に言ってた分、すごい素敵な言葉だなって思うようになりましたね」

    *

    みかさんは、屋号をひとつ持っている。生け花の号から取った名前だ。売上の少ない個人事業主だと本人は言う。その屋号を、みかさんはキャリアにも、コーチングにも、生け花にも使っている。

    役割ごとに、名前を分けていない。

    *

    いま大事にしている言葉を聞かれて、みかさんはこう答えた。

    「らしさを分かち合う」

    自分らしさが何なのかは、まだ分からない、と言う。それでも、そこは大事にしないと、私が私じゃなくなってしまう。

    「ぎゅーって押し込められることはしたくないし、私は自分がかわいそうだな」

    自分だけの話ではない、とも続けた。私には私らしさがあって、あなたにはあなたらしさがある。それを分かち合えるような生き方がしたい、と。

    「まだそれが何なのか見えてないんですけど、そうありたいなとは思ってます」

    *

    この記事を、誰に読んでほしいですか。そう聞かれて、みかさんはこう答えた。

    病気で気持ちが参ってしまっている人に。自分は早期に見つかっているから、おこがましく元気づけなんてできないけれど、と前置きしてから、こう続けた。

    「病気した人でも、こんな風にへへへって生きてるやつがいるよみたいな」

    特に難病の場合は、周りに同じ人がいない。みかさん自身、自分の病気を調べたとき、出てくる情報はほとんどなかった。同じ病気の人がメディアで公表してくれたおかげで、少しずつ開示されるようになったのを知っている。

    だから、その日常が誰かの支えになるなら、と。

    「私も数年前、そういうブログを見て励まされたんで」

    *

    もうひとつ、と、みかさんは付け足した。役割を全うしようと一生懸命がんばっている人にも、読んでもらえたら嬉しい、と。自分でもその感覚はまだよく分かっていないのだけれど、と断りながら。

    「ちょっと解放してあげるというか、そんなヒントにもし私がなれるんだったら」

    ゆきこの内省メモ
    みかさんは、やりがいある仕事があって、学びたいものは学びたいだけ学んでいて、やりたいことを謳歌しているパワフルな人。ピンクのコートで颯爽と現れた12月の印象は、そのままでした。

    その人の拠りどころが「おかえり」と「ただいま」だと聞いたとき、私は涙が出そうになりました。

    母を悲しませたくないから、がんのことを2週間も言えずにいた。会社にも、難病だとは言えなかった。

    助けてと言えたのは、麻酔の切れた真っ暗な病室で、いつでも呼んでくださいね、と言われたときくらいです。

    「言えばよかった」という言葉が漏れたとき、背中をさすりたい気持ちになりました。みかさんは、ずっと、そうやってがんばってきた人です。

    「おかえり」は、こちらから頼まなくても、言ってもらえる言葉です。

    対話の終わりに、そのことをお伝えしたら、みかさんは、こう言いました。

    「おかえり、ただいま。そうですね。本当大事だなと思うけど、それ確かに伝えてないですね」

    学んできたこと、やってきたことを、みかさんはちゃんと人に伝えています。でも、この関係性が自分の拠りどころなのだ、というふうには伝えていない。私にはそう聞こえました、とお話ししました。それが伝わったら、みかさんご自身にも何かが巡ってくるでしょうし、いま本当に辛い思いをしている人には、心の光になると思います、とも。

    みかさんは、少し考えてから、こう言いました。

    「おかえり、ただいまが大事だと伝える……」

    この対話が、その一歩になれば嬉しいです。

    締め

    原稿を書き終えるころ、そろそろ読んでもらおうと思って、みかさんに連絡をしようとした。その前にSNSを開いたら、空港の写真が上がっていた。これから海外へ発つところだという。

    朝の移動が大変だったこと、チェックインの列が長かったこと。そんなことが並んだあとに、飛行機に乗れただけで大満足だ、と書いてあった。雨が降らなかったのも、体調を崩さずに済んだのも、ラッキーだった、と。

    *

    ラッキー。

    放射線を当てながら、ステージ0で見つかったラッキー、放射線だけで済んだラッキー、私やっぱりついてる——そう言い聞かせていた人が、空港で同じ言葉を書いている。

    変わっていない。でも今度は、旅の話だ。

    *

    その投稿には、こうもあった。働きすぎの毎日からしばらく離れて、旅に出る。ここ数ヶ月の働きぶりを見ていたからか、上司も気持ちよく送り出してくれたらしい。

    ああ、と思った。

    この人は、こうなのだ。働きすぎがデフォルトで、それは、この人の幸せでもあった。思いっきり役に立って、任される。その状態が生きがいだった。学びも、遊びも、全力投球で。

    その人が、しばらく別れを告げて、旅に出ている。

    *

    書きながら、ずっと考えていたことがある。

    みかさんは、いつも社会を見ている。

    高3の夏、弁護士になる道をやめたとき、代わりに選んだのは「国際関係をやりたい、世界の中で仕事がしたい」だった。議論するのが当たり前の大学で、4年を過ごした。

    いまはSDGsのプログラムに通っている。待ち合わせに選んでくれたのも、環境に配慮した店だった。

    「女は黙ってろ」にも、まっすぐ反応してきた。過重労働のチェックをしているときには、会社を守る最後の砦だと思っていた。そして今は、らしさを分かち合いたいと言う。

    組織の中の話をしているときも、この人が見ているのは、いつもその先だった。

    *

    だから、ひとつだけ。

    環境に配慮した店を選ぶ人。サステナブルを学んでいる人。

    その人が、自分自身のことだけは、あまりサステナブルに扱ってこなかったように見えます。

    「おかえり」と「ただいま」が続いていく社会を、みかさんはきっと、これから作っていく人だと思います。

    そのために、ご自身のことも。



    ◇◇◇

    あらがき ゆきこ|インナーストーリーを探り当て、魅力を「手の内」に

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