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魔法科学者の研究地図 —— 心と空気の実験室から

    魔法の瞬間
    それはすべての人が「ただの人」になる瞬間。
    人種・宗教・国籍・性別・肩書きなどあらゆる壁が溶けてしまい、
    「!?今の見た?」と、その場を笑顔で共有できる。
    魔法を通して、そうあってほしい世の中が見えてくる。

    プロローグ:あの夜、何が起きていたのか


    五歳のころ、アメリカで暮らしていた家の近くで、ぼくは魔法を体験した。

    ある夏の夜、屋外でディズニーの『ファンタジア』が上映された。

    芝生の上に、見たこともない大勢の人が集まっていた。白人、黒人、アジア人、家族連れ、カップル、ひとりで来た老人。ふだんなら、それぞれ別の世界で生きている人たち。

    映画が始まり、音楽が流れ、絵が動きはじめた。そして、画面の中でミッキーマウスが魔法を使った瞬間——芝生の上の子供たちが、いっせいに立ち上がって魔法使いごっこを始めた。

    それを見ていた大人たちの顔が、ゆるんでいった。

    肌の色も、年齢も、言葉も、立場も、その夜、まったく関係なくなった。みんなが同じ夜空の下で、ただの人として、そこにいた。

    ぼくはまだ五歳だったけれど、それが何か特別なことが起きている瞬間だということだけは、はっきりとわかった。

    あの夜、何が起きていたのか。

    その問いに答えるために、ぼくは二十年以上、プロのマジシャンとして現場に立ち続けてきた。世界中で、テレビで、企業で、学校で、誰かの家のリビングで。何千回、何万回と、人の心と場の空気が動く瞬間に立ち会いながら、ずっと同じことを観察してきた。

    これは、その研究地図である。これから発信していくことの、全体の構造であり、骨格だ。

    魔法とは何か、魔法はどう起きるのか、「人の心」と「場の空気」はどう変容するのか——二十年以上にわたって現場で観察してきたことを、はじめて体系として書き残す試み。

    ひとつだけ、先に伝えておかなければならないことがある。

    ぼくにとっての作品とは、手先で繰り広げるマジックではなく、その後に生まれる空気感のほうを指す。

    これが、この研究地図の、最初の一行であり、最後の一行でもある。

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    第1層:魔法とは何か

    サマリー:
    ぼくは「場の空気を変える魔法」の手段として、マジックという芸能を使っている。手先で繰り広げるトリックそのものではなく、その瞬間に人と人のあいだの壁が溶け、誰もが「ただの人」に戻る——この心と空気の変容のほうこそ、ぼくが二十年以上追いかけてきたものである。

    あの瞬間、いったい何が起きていたのか。

    ファンタジアの夜、芝生の上で起きていたことを、ぼくは長いあいだ言葉にできなかった。映画の中で魔法が起きた。子供たちが魔法ごっこを始めた。それを見た大人たちの顔がゆるんだ。でも、それだけでは何かが足りない。

    大人になってから、ようやくわかった。五歳のぼくに見えていたのは、人と人のあいだにあった、目に見えない壁だったのだ。芝生の上に集まった大人たちのあいだには、たしかに距離があった。肌の色も、言葉も、立場も違う人たちが、それぞれ自分の領域のなかにいた。その境界が、物理的な距離としても、空気としても、たしかにそこに「あった」のだ。

    そして、映画と子供たちの魔法ごっこをきっかけに、その壁がじわりと溶けていった。

    その夜、芝生の上にいた全員のあいだから、壁が消えた。みんなが同じ夜空の下で、ただの人として、そこにいた。

    その瞬間、ぼくは「魔法」を感じた。

    ここで、ぼくにとってのマジックと魔法の関係について書いておきたい。

    マジックは、ぼくにとって「魔法つかいの役割を演じる役者の芸術」だ。コインが消える、カードが当たる、消えてしまった指輪が別の場所から出てくる——こうした、人を驚かせ、心を動かすための知恵を集積した総合芸術である。

    そして、そのマジックという相棒を使って、ぼくは空気を変える魔法を起こす。マジックが引き金になって、その場にいる人々の心が動き、それまであった壁が溶け、空気そのものが変わってしまう——この変容そのものを、ぼくは魔法と呼んでいる。

    つまりぼくにとってマジックは、魔法を起こすための手段である。マジックを尽くしてマジックを完成させることが目的ではなく、マジックの先に立ち上がる人の心と場の空気の変容こそが、ぼくの仕事の本体なのだ。

    そして、ここが重要なのだけれど——実はマジック以外の方法でも、魔法は起こせる。

    美しい音楽でも、心を打つ言葉でも、思いがけない事件でも、ときには沈黙でさえ、人と人のあいだの壁を溶かすことはある。マジックは、その壁を溶かす最も効率的で純度の高い手段のひとつではあるけれど、唯一の手段ではない。

    ぼくが「魔法科学者」と名乗っているのは、マジックそのものを極めるために研究しているからではない。マジックを通して観察・研究してきた「人の心」と「場の空気」の魔法のような変容を、誰でも応用できる形にまとめあげるためである。皆が「魔法つかい」になるためのメカニズムを再現性のある方法で伝えていきたい。そんな気持ちが、「魔法科学者」という痛々しい肩書きを生み出してしまった。

    そして、ぼくの研究のの核心にあるのが、冒頭にも掲げた二十年前から変わらないぼくのマニフェストである。

    魔法とは、すべての人が「ただの人」に戻る瞬間のことだ。

    社長も部下も、先生も生徒も、有名人も一般人も、その瞬間だけは肩書きが外れてしまう。肌の色も宗教も関係ない。同じ魔法を体験した人々として、ただの人になる。

    これが、ぼくが追いかけてきた魔法の正体である。

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    第2層:魔法のメカニズム

    サマリー:
    場の空気が変わる魔法は、三段階で起きている。バラバラの状態であった観客の周波数(心の状態)が、予期せぬ驚きによって一旦フラット化し、その無防備な瞬間に演者が発する周波数が浸透する——この一連のプロセスが、ぼくのいう魔法の正体である。

    では、その「ただの人に戻る瞬間」は、どんなメカニズムで起きているのか。

    二十年以上のあいだ、ぼくは何千回、何万回と、その瞬間を観察してきた。いまの時点で言葉にできることを、ここに書いておきたい。

    まず、魔法が起きるためには観客が予期せぬ驚きに遭遇する必要がある。別の言い方をすると予期せぬ形で情報量の差を叩きつけられる必要がある。

    ぼくたちは普段、絶え間なく未来を予測しながら生きている。次に何が起きるか、目の前の人が何を言うか、テーブルの上のコインがどこにあるか、このコップの重さはどのくらいか——意識せずとも、脳は休まず予測を立て続けている。そして、予測の範囲内で起きることは、すんなりと処理されていく。たとえば学術書を読んで知らなかった情報を得るとき、そこに情報量の差はあれど、「知らない情報を学ぼう」と自ら取り組んでいるので予期せぬ驚きは発生しない。

    魔法が起きるのは、予測の領域の外側から、情報が一気になだれ込んでくる瞬間だ。ぼくはこれを、ポテンシャルエネルギーの蓄積と解放という感覚で捉えている。マジックという芸能においては、観客に気づかれないように、その認知の外側に情報を秘密裏に蓄えていく作業の連続だ。そして、ある瞬間、そのエネルギーが一気に解放される。観客の処理能力を超えた情報量が、予測のできないタイミングで、なだれ込む。

    ここで起きるのが「 ! 」と「 ? 」だ。

    ただし、これは喜怒哀楽のような感情ではない。もっと手前にある、本能的な反応だ。文化や年齢や肌の色を超えて、人類が等しく持っている反応。まさに、あらゆる壁が溶けてしまう瞬間。(「驚き」の捉え方については、ぼくの研究の中でも重要な論点になっているため、いずれ別の機会に詳しく書きたいと思っている。)

    そして、「 ! 」と「 ? 」には順序がある。まず「 ! 」が反射的に立ち上がる。そのコンマ数秒あとに、「 ? 」が立ち上がる。理性が動き始めて「なぜ」と問いはじめる。けれど、答えはまだない。

    この「 ! 」から「 ? 」が立ち上がるプロセス——情報量のギャップに驚き、理性が問いを立てたのに、答えがまだやってこない、わずかな空白の時間。ここで、バラバラだった観客の周波数(心の状態)が、一旦フラットになる。

    これが、ぼくが「フラット化」と呼んでいる状態だ。

    それまで観客が持っていた様々な周波数——その人の思考、感情、肩書き、立場、その日の気分——それらすべてが、一瞬、リセットされる。

    しかし、ここで終わりではない。むしろ、ここからが本題だ。

    フラット化された無防備な状態の観客に、演者が発している周波数(空気感)が浸透していく。何の妨げもなく、まっすぐに伝わっていく。

    だから、同じマジックを同じ精度で演じたとしても、その先に立ち上がる空気は人によってまったく違ってくる。フラット化までは技法の問題でも、そのあとに何が浸透するかは、もう技法の話ではない。演者がその瞬間に何を発しているか——その内側の状態こそが、観客の中で何になるかを決める。

    この浸透のメカニズム、そして浸透した先で観客の心がどう動き、場の空気がどう変容していくのか——その話を、続く層で書いていく。

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    第3層:心の変容のプロセス

    サマリー:
    魔法の前後で、人の心は何段階もの変化を辿る。バラバラなカオスから一点への集約、フラット化、そして演者が発する周波数の浸透を経て、再び個性として立ち上がる。この変容のプロセスと、その後に残る空気感こそが、ぼくの作品である。

    では、その魔法の前後で、人の心はどう動いているのか。

    第2層では、フラット化が起きるまでのメカニズムを書いた。ここでは、その同じ出来事を、観客の心の側から書いてみたい。

    魔法が起きる前、人々の心の状態は、てんでバラバラだ。形も、温度も、速度も、ベクトルも、揃っていない。

    ある人は、今晩の夕飯のおかずのことを考えている。物理的にはその会場にいても、心は未来という情報空間のなかの食卓のほうへ浮遊している。

    別のある人は、隣に座っている初対面の相手のことが気になって仕方ない。声をかけたいけれど、自信がない。心は猛烈に隣の人のほうへ惹きつけられているのに、それを表に出せない。そこには温度があり、強いベクトルと、太さがある。

    十人いれば、十通りのベクトルが、十通りの強さで、十通りの方向に伸びている。これが、魔法の前の状態だ。いわば心のカオスと呼んでも良いかもしれない。

    そして、ささやかな魔法が起きる。

    その瞬間、夕飯のことを考えていた人も、隣の人を気にしていた人も、いっせいに、目の前で起きたひとつの出来事に注意を奪われる。爆心地から波紋が広がるように、「 ! 」の波が放射状に場全体を満たしていく。

    そこには喜怒哀楽のような感情も温度も存在しない。それまで十方向に伸びていたベクトルが、一点に向かって収束し、魔法の直後に驚きという原始的な波紋に形を変え、その後にフラット化が訪れる。

    ここから先は、第2層で書いたメカニズムの「その後」の話である。

    フラット化された無防備な状態の人々の中で、まず立ち上がるのは、「いま、見ました?」という共有衝動だ。隣の人と、目の前で起きたことを確かめ合いたくなる。「見ました、何で!?」——魔法の直後、人は本能的に、自分の体験を確かめるために、他者と顔を見合わせる。

    このとき、それまで自分の中にあった「隣の人にどう接するか」という躊躇は、いったん消えている。さっきまで声をかけることができなかった人が、気づけば笑顔で「いまの魔法、見ました?」と話しかけている。同じ魔法を体験したもの同士、という新しい関係が、それまでの肩書きや距離感を一時的に上書きしてしまう。

    そして、この無防備な瞬間に、ほとんどの人が見過ごしている重大な変化が起きている。

    演者の発している周波数(空気感)が、場全体に抵抗なく浸透していくのだ。観客がフラット化された空白の時間には、演者がまとう空気感が、そのまま場の空気となりやすい。

    ここに、魔法のメカニズムの核心がある。

    同じマジックを同じ精度で演じたとしても、その先に立ち上がる空気は、まったく違ってくる。Mr.マリック氏とマギー司郎氏が創る空気の違いと言えばわかりやすいだろうか。フラット化までは技法の問題だとしても、そのあとに何が浸透するかは、もう技法の話ではない。演者がその瞬間に何を発しているか——その内側の状態こそが、場の空気となり、果ては観客の内側の状態までをも決める。

    そして、浸透した空気が場を満たしたあと、観客はふたたび自分の個性を取り戻し始める。誰かが先に笑い、誰かが少しズレた感じ方を口にし、他の誰かは静かに余韻に浸る。十人いれば、十通りの再分化が始まる。ただし、それは魔法の前のカオスとは違う。同じ空気をくぐり抜けたあとの、開かれた個性として立ち上がる。

    カオスから一点へ。一点からフラット化へ。フラット化から浸透へ。浸透から、ふたたび個性へ。

    これが、魔法の前後で人の心が辿る、一連の動きである。

    そして、この一連の動きの中で、最も重要なのは、フラット化の直後に「何が浸透するか」だ。なぜなら、その浸透した空気こそが、その日その場所に残る空気感の正体だからだ。

    ここまでがメカニズムの話である。

    このメカニズムを手にしたあなたが、自分の周りで魔法を起こせるようになったとき——フラット化の直後には、あなたの周波数が、その場に浸透していく。

    あなたなら、どんな空気を発していたいと思いますか。

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    第4層:場の空気の構造と力学

    サマリー:
    場の空気は、一人ひとりの心が同じ時空間で溶け合った結果として立ち上がる。フラット化はその場の空気を方向づけやすくする装置であり、どのような色にでも染まりやすくなる。だからこそ、この知は開かれた形で共有される必要がある。ここでは「私たち」と「私の集合体」という典型的な二つの例をあげた。

    ここまでは、個人の心の動きについて書いてきた。ここからは、視点を一段引いて、場の空気そのものを観察する。

    ひとつの場に複数の人が集まったとき、そこには必ず場の空気が立ち上がる。ただし、その空気は一人ひとりの心の足し算とはならない。十人いれば十通りの心があるけれど、その十の心が同じ時空間で溶け合い化学変化を起こした結果として、場の空気が現れる。つまり、1+1が2になるとは限らないのだ。

    てんでバラバラで方向性の見えないカオスな空気もまた、場の空気のひとつだ。一人ひとりの心がそこにある限り、それらが溶け合った結果として、何らかの空気が必ず立ち上がってくる。

    さて、その化学変化のなかで、特徴的な二つの典型について考えてみたいと思う。「私たち」と「私の集合体」だ。

    ひとつめは、「私たち」という主語が立ち上がる場。

    似た怒りや不満を抱えた人が複数いる場で、ふと、周囲にも自分と近いベクトル、近い温度感の感情を持った人がいることが互いにわかる瞬間がある。その瞬間、「私たち」という主語が場に芽生える。

    そこから、人の中で三つのことが続けざまに起きる。

    責任の曖昧化:
    「私」だったものが「私たち」になり、個人の責任感が薄れて、普段とは違う言動が現れやすくなる。

    リミッターの解除:
    匿名性を得て、理性のブレーキが外れる。そして、ブレーキが外れた個人の言動が周囲に波及し、その波及がさらに別の誰かのブレーキを外す。

    エネルギーの爆発的増幅:
    互いに影響し合って求心力が生まれ、怒りが20になり、100になり、1000になっていく。気づいたときには、誰のものでもない巨大なうねりが、場全体を支配している。

    そして、心に不安や弱さを抱えた人ほど、「自分一人では発信できないけれど、あの渦の中に入れば強くなれる」と錯覚し、吸い寄せられるように飲み込まれていく。

    炎上、暴徒化、魔女狩り——すべて「私たち」の場で起きている現象だ。オンラインでは匿名性がさらに高まるため、一層この渦が発生しやすくなる。

    ひとつ書いておかねばならないのは、「私たち」の力が必ずしも悪の方向にしか働かないわけではないということ。決して個人の力では成し遂げられないことを、「私たち」の力を利用することで成し遂げることも可能なのだ。歴史上の偉業の中には、この「私たち」の構造を利用して成し遂げられたものも多い。しかし、往々にして力の暴走を生み出す結果になるため、そこには細心の注意を払わなければならない。

    ふたつめは、「私の集合体」としての場だ。

    複数の人が同じ場にいながら、それぞれが「私」のまま並んでいる。誰も「私たち」には溶けない。個性が消えず、求心力に飲み込まれず、それでいて場全体の空気感もゆるやかに流れている。仮にわずかな「私たち」の意識が芽生えても、それを良い方向に利用することはあっても、皆自分の足で地面に立つことを放棄しない。そんな集団意識もある。

    そして、場の空気には、それ自体の力学の法則がある。発信源が強いほど、そして受信側のエネルギーが弱いほど、空気は伝染しやすい。大きく育った空気は止めにくく、生まれたばかりの方が止めやすい。けれど永遠ではなく、外部からのエネルギー供給が途絶えれば、自然に求心力は失われていく。

    これらの法則は、どのような場でも物理法則と同じように正確に働く。

    ここで、フラット化という現象が、場の空気とどう関わるかを書いておきたい。

    場の空気は通常、コントロールしにくい。一人ひとりの心には、それぞれ別の慣性が働いていて、別の方向に動こうとしている。それらが溶け合って立ち上がる空気を、人為的にひとつの方向にまとめることは、簡単にはできない。

    ところが、フラット化された直後だけは違う。皆の心がいったん0になるからだ。それぞれに働いていた慣性が、全員から一斉に消える。バラバラであったことのデメリットも、その瞬間には消えている。

    だからこそ、フラット化の直後は、場の空気が方向づけやすい。優しくオープンな空気にすることもできるし、怒りや憎しみの方向に押し流すこともできる。どのような色にでも、染まりやすい。

    「私たち」の渦が立ち上がりかけたとき、それを「私の集合体」に戻すための技術もまた、研究の射程に入っている。そちらは、別の場で書いていく。

    ここまでで、ひとつの認識に行き着く。

    白(良い空気)を起こせる者は、黒(よからぬ空気)を起こす能力も身につけることになる。白を起こす力と黒を起こす力は、本質的には同じ能力だ。場の空気を観察する眼を磨き、自らが発する空気を研ぎ澄ませていく過程で、両面の能力が必然的に同時に磨かれていく。

    これが、魔法の倫理が要請される根拠だ。能力そのものは中立で、どんな色にも使える。だからこそ、強い力には、それに見合った高い人間性と、深い思考と、想像力が必要になる。

    そして、だからこそ——この知は閉じた形で守られるよりも、開かれた形で広く共有されるほうが良い。

    この知を持つ者は、他者がつくる場の空気にも敏感になる。フラット化の直後に何が浸透しようとしているかを察知できれば、自分が望まない方向へ流される前に距離を置くこともできる。攻めだけでなく、自らを守る知識にもなる。

    一部の者だけがメカニズムを密かに使う社会よりも、多くの人がメカニズムを知り、それぞれの場で意識して使い、必要なときには身を守れる社会のほうが、健やかに保たれるはずだ。

    フラット化の効果を知り、空気を変える術を知ったあなたが、そのあとに何を浸透させるかは、あなたの内側の状態が決める。

    あなたは、どのような空気を発していたいと思いますか。

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    第5層:応用領域

    サマリー:
    ここまで書いてきた考え方は、マジックだけに当てはまる理論ではない。家庭でも、教室でも、職場でも、SNSのタイムラインでも、潜在的には同じメカニズムが働いている。「フラット化」の瞬間は、マジック以外の方法でも起こすことができるのだ。そして、その瞬間にどのような空気を浸透させるかは、あなたの在り方で決まる。

    最後に一番大切なことを。

    ここまでの理論はマジックだけに当てはまる理論ではない。

    カオス、一点への集約、フラット化、浸透、そして再分化。場の空気の溶け合いと化学変化。「私たち」と「私の集合体」。これらのメカニズムは、マジックという芸能を通すと極めてわかりやすく観察できるだけで、それ自体は、人が集まる場所には必ず潜在的に存在している。そのメカニズムを正確に把握し、意図して使う人が少ないだけなのだ。

    朝、家族が出かける前のキッチン。担任の先生が教室に入ってきた直後の数秒。月曜の午前、会議室にメンバーが集まりはじめた時間。SNSのタイムラインに、思いがけない一報が流れ込んできた瞬間。

    どの場面でも、一人ひとりの心はバラバラの方向に伸びている。そして何かをきっかけに、皆の心がふっと一点に集約され、わずかなフラット化が訪れ、そのあとに、その場にいる誰かの周波数が浸透していく。

    その「誰か」は、いつもプロのマジシャンとは限らない。

    家庭であれば、子供がお皿を割ってしまった直後の父親の反応。教室であれば、先生の意外な一言と、その後に見せる笑顔。職場であれば、予期せぬトラブルに対するリーダーの冷静な判断。SNSであれば、芸能人の炎上と、それに対する本人の反応の仕方。フラット化の直後の場に、中心人物の内側にある空気感が浸透し、その場の空気を決めていく。

    そして、その浸透していく周波数が、必ずしも望ましいものであるとは限らない。

    オンラインでは、誰かの怒りや嘆きが、瞬く間に何百万人を「私たち」の渦へと押し流していく。広告は、視聴者をフラット化する瞬間を設計の中核に置き、その直後に商品の周波数を浸透させる。教室では、先生の苛立ちが、子供たちの一日の空気を決める。家庭では、ある一日の食卓で、子供が「他者を認め合う」という空気を浴びるかどうかが、その子のこれからを少しずつ形づくっていく。

    魔法科学者として、ぼくがやりたいことの中心はここにある。これらすべての現場で起きている同じメカニズムを、誰もが見えるように開いていくこと。そして、それぞれの場で、それぞれの人が、自分なりの魔法を起こせるようにしていくこと。誰もが「ただの魔法つかい」である世界。

    ふと、あの夜のことを思い出す。

    夏の夜の屋外スクリーン。芝生の上に集まった、ばらばらの背景を持つ人たち。映画が始まり、音楽が流れ、画面の中で魔法が起こされ、子供たちが立ち上がって魔法使いごっこを始めた、あの瞬間。

    映画と音楽とストーリーが、芝生の上の子供たちをいったんフラット化した。そのあとに、子供たちの無邪気な遊びの周波数が、大人たちの間にも浸透していった。そして肌の色も、年齢も、立場も、その夜だけは、まったく関係なくなった。

    あの場にマジックという芸能は存在しなかった。でも、たしかに魔法が起きていた。

    魔法は、マジックの現場だけのものではない。あなたが今いる、その場所にもある。

    その場で、フラット化の直後に何が浸透するか。それを決めるのは、その瞬間にあなたが内側に何を持っているか、ただそれだけだ。

    ここから先は、あなたの魔法の物語だ。

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    エピローグ:ぼくの魔法の物語


    ここで、視点をぼく自身に戻したい。

    振り返れば、この研究地図の冒頭に置いたあの言葉は、二十数年前にぼくがホームページの一番上に掲げて以来ずっと掲げ続けてきたものだ。長い時間をかけて、ようやくその言葉の中身を、こうして開いていく作業に取りかかれる時期に来た。

    *

    ぼくは二〇一八年に『間法の科学Ⅰ』という電子書籍を書いた。あれは、この研究の前提となる「心や間合いを見極める観察眼」の話だった。本の最後で、ぼくはこう書き残している。

    「心の世界の法則を超越して一瞬で心を変化させてしまう方法も存在します。それこそが魔法であり、マジックの持つ圧倒的なポテンシャルなのですが、本書のテーマはそれを扱う以前の大前提をお伝えすることにあります。別の機会に譲りたいと思います」。

    あれから八年。ようやく訪れたその「別の機会」が、「今、この瞬間」だ。

    五歳のときのあの夜から、ぼくはずっと「空気が変わる魔法の瞬間」を追いかけてきた。世界中の現場で、テレビで、企業で、学校で、誰かの家のリビングで、何千回、何万回と、「人の心」と「空気」が変わる瞬間に立ち会いながら、ずっと同じことを観察してきた。

    あの夜、何が起きていたのか。

    その問いに答えるためにこの地図を書いた。誰のためかと聞かれたら、自分のためだとしか答えようがない。人類が、肌の色や立場を超えて、ただの人として同じ空の下で笑顔で暮らす時間が少しずつ増えていくこと——それがぼくの願いであり、人間社会のためであり、地球のためでもあると信じているから。

    ただし、ぼくが譲れない一点がある。

    それは、現場で日々人の心と場の空気を変え続ける、現役の魔法つかいであり続けることだ。それがあってこその魔法科学者としての研究だから。机上で考えたり学んだりした理論ではなく、毎日の現場の中で肌で感じたことだけを、ぼくは書いていきたい。

    ここに書いたのは、ぼくの研究のほんの輪郭にすぎない。魔法の定義、心の動き、場の空気、応用領域——どの層も、まだその先に広大な研究領域が拡がっている。そして、ぼく自身がそれぞれの場でどのような空気を浸透させようとしているかについても、また別の機会に譲りたいと思う。

    この研究地図は始まりに過ぎない。魔法つかいとして二十年以上空気を変え続けてきた今、ようやく本当の使命に取りかかる準備が整った。

    今日も実験を始めよう。

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    最後までお読みいただき、ありがとうございます。
    魔法に満ちた1日をお過ごしください。

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    魔法科学者/プロマジシャンとして20年以上磨いてきた経験を土台に「人の心」と「場の空気」の変化を科学する。 少女漫画家の妻と2人の娘たちと東京暮らし。 手帳と文房具、道具類への愛がとまらない✨

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