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空気より天ぷらの香り

    つくづく、人間社会が合ってないと思う。

    誰かの機嫌を伺ったり、
    自分の気持ちを押し殺したり。

    和を大事にする教育と、個を大事にする社会。

    その狭間で、時々息苦しくなる。

    今、まさにそうだ。

    【そば処】

    私は蕎麦が食べられない。

    六人席。
    何とか端の、しかも部長から遠い席は死守できた。

    青天の霹靂だった。

    部長が昼食に誘うなんて。

    列の後ろを歩く私は、店の看板が近づくにつれ、ただ祈るしかなかった。

    『どうか、蕎麦屋じゃありませんように。』

    そんな願いも虚しく、

    『ここ、行きつけなんだよ!』

    上司は、まるで有名遊園地のゲートをくぐるような勢いで暖簾をくぐった。

    奢ってくれる。
    感謝しよう。

    たった一時間、自分をなくすだけ。

    私は大人。

    そう言い聞かせ、お品書きを見る。


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    そこには、蕎麦、蕎麦、蕎麦。

    何か軽めの蕎麦はないものか。

    いや、蕎麦はもともと軽い。

    私の気持ちだけが重い。

    頭の中は、一人漫才状態だった。

    『ここの天ぷらも美味いんだよなぁ』

    部長の一言で、ふと周りを見る。

    確かに、天丼を食べている人もいる。

    『天ぷらか……でも、蕎麦……部長……。』

    天ぷらの香りと、空気を読む気持ちが、頭の中でせめぎ合う。

    そうして、私は静かに腹を括った時だった。

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    『じゃあ、私、天丼!』

    店内に響くほど勢いよく手を挙げたのは、社内でも一目置かれている先輩だった。

    『え……天丼?』

    みんなが先輩を見る。

    普段の昼食は、フルーツサンドとサラダ。
    たまにチキン。

    そんな先輩の選択に、誰もが驚いた。

    『ねぇ、ゆうちゃんも天丼にしよ!
    二種類あるみたいだし、どっちも頼めないしね、部長!』

    『まぁ、流石に一人二つはなぁ』

    部長は腕を組み、何か計算しているようだった。

    『それに、こんないい匂いがしてたら頼むしかないよ!』

    そう言われて、私は初めて天ぷらの香りに気づいた。

    厨房から聞こえる揚げる音まで、私を誘っているようだった。

    『じゃあ……私も天丼で』

    自然と、言葉が出ていた。

    部長は何とも言えない表情をしていたが、先輩と私は、何を交換するかと天ぷら談義に花を咲かせた。

    食後、女将さんがこっそり話しかけてくれた。

    この店には、上司と部下で来るお客さんも多いという。

    だからこそ、遠慮せず、少しでも楽しんで食べてもらえるメニューを考えているらしい。

    『今日は、注文の時から楽しそうだったでしょう?』

    女将さんは笑った。

    『また来ます。今度は二人で』

    先輩は、部長に聞こえないよう、そっと耳打ちした。

    帰り道。

    私は、先輩に小さく打ち明けた。

    『ありがとうございました。実は……蕎麦が苦手で』

    『あ、やっぱり?』

    『え?』

    『前に年越し蕎麦の話をした時、すごく困った顔してたから』

    それは三年前。

    私がこのチームに入ったばかりの頃のことだった。

    たった一度の、何気ない会話。

    それを、先輩は覚えていた。

    『今日も、同じ顔してたよ』

    『えっ』

    『大丈夫。みんな気づいてないと思うよ』

    先輩は、ふふっと笑った。

    『新メニュー、楽しみだね』

    『蕎麦屋さんだから……お品書きかな。
    ハーフセットがいいなぁ』

    空を見上げる先輩。

    そういえば、最後の方、食べるの大変そうだったな。

    ふふ。


    つくづく、人間社会は合わないと思っていた。

    でも。

    誰かが、誰かの「言えない」を拾ってくれるのなら。

    人間社会も、案外悪くないのかもしれない。

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    普通の毎日を、ちょっとだけ小説みたいに。 子育て、仕事、家族、 笑ったこと、ちょっと疲れた日。 「あったあった」と思える日常を、 短い物語として綴っていこうと思います。

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