
ツインレイ小説 『めぐり逢い』連載(2)(リメイク版)
あなたの愛した人は、
運命の人ですか?
第2章 結婚
第1話 魂がひとつになる刻
離婚後3年の時を経て、桜井雄一と江崎百合は、偶然のめぐり逢いに、心をふるわせた。
ここからは、ふたりの結婚、夫婦の愛と性、引き裂かれた結婚生活について語ってゆく。
話は、9年前にさかのぼる。
「1日だけの恋人同士」として、デートしたふたりだった。
雄一は、自分の前で飾らない百合に、心がほっとゆるむ安らぎを感じていた。百合は、雄一に抱きしめられた、とろけるような感覚に、初恋のよろこびを感じていた。
口には出せない、離れたくない想い。
「明日は?逢える?」
「明日は、プロモーション写真の撮影がある
の。高輪台の結婚式場よ」
「もう、結婚式の写真撮るの?」
「まさか〜、うちの家業は宝石屋なの。今度
『ブランド百合』って言う、花嫁さん向け
の宝石ブランド立ち上げたの」
「『ブランド百合』の百合って、君の百合?」
「そうなの。迷惑な話だわ!まったく!」
「それで?」
「私が、『ブランド百合』のティアラとかイヤ
リングつけて、ウェディングドレス着て、広
告写真撮ることになったの」
「じゃあ、明日は逢えないか」
「ううん、撮影がおわったら、兄に捕まらない
ように、うまく巻いて抜け出してくるから、
近くで待ってて。夕方には終わるわ」
百合の実家、江崎家は、「(株)銀座天賞堂」という、超富裕層向けの宝石業を営んでいる。江崎家は、江戸時代から続く名家である。
銀座天賞堂は、銀座の目抜き通りに、店舗が入った5階建の社屋をもち、南青山にも工房を有する、東京でも有名な老舗宝石店だった。
翌日の撮影は、緑豊かな広大な敷地に建つ結婚式場「ウェディング高輪園」で行われた。屋外で記念写真を撮ることで有名な式場だ。
この式場のオーナーが、百合の婚約者、新堂裕作である。もちろん、百合と裕作の結婚式も、3か月後、ここで執り行われる予定になっている。
新堂裕作は、百合が結婚式に着るウェディングドレスを特注した。それは、3千個のクリスタルが縫い込まれた豪華なドレスだった。
百合は、出来上がったばかりのドレスを着て、『ブランド百合』のティアラ、ネックレス、イヤリングをつけた花嫁姿の撮影に臨んだ。
かつて、美人ピアニストとして、もてはやされた百合は、撮影されることに慣れていた。撮影は、順調に進んだ。
百合は、このあと、愛しい人に逢えると思うだけで、しあわせな新婦の姿を演出できた。百合の兄、銀座天賞堂社長の江崎徳明は、腹違いの妹のうつくしさに、感動すら覚えた。そして、親友である新堂裕作と妹百合の結婚式を、だれよりも心待ちにしていた。
国道2号沿いのM大学正門前で待ち合わせした雄一と百合は、人目もはばからず、吸い寄せられるように抱きあった、
国道を行き交う車のヘッドライトが、まぶしくふたりを照らす。
いつまで逢えるかわからない、言いようのない空気の重たさと、息ができないくらいのせつなさが、ふたりの逢瀬を熱くしていた。
「百合さん、これから『光の降る場所』に、連
れていくよ」
「えっ、どこ?」
「幕張、行けばわかる!」
幕張公園には、1時間ほどで着いた。
「わあ〜、ホントに光が降ってくる!」
公園内では、すでにたくさんの老若男女が、光のシャワーをたのしんでいた。
公園中央に、高さ15メートルはあろうかというモミの木が立っている。それには、豪華なイルミネーションが飾られていた。まわりの木々にも、色とりどりの電球がまばたき、公園全体が、まるで光の海の底にいるような錯覚におちいる。
ふたりは、寄り添いながら、クリスマスツリーの先端を見上げた。惜しみなく降り注ぐ光のつぶ。雄一の大きくて、温もりのある手が、百合の手をギュッと握った。つかの間の幻想の世界に、ふたりのハートは、静かに溶けてゆく。
となりの広場では、たくさんの出店が並び、大道芸人のジャグリングに歓声があがる。ストリートミュージシャンの歌声がひびく。そこには、百合が見たことのない、心沸き立つ世界が広がっていた。
百合は、射的に挑戦し、モグラたたきに夢中になった。一杯のコーヒーを、ふたりで飲み、ひとつのアイスを、ふたりで食べた。
そして、ふたりは、広場の端にあるスカイウォークへの階段に、たどり着いた。
『めぐり逢いの橋』と表示されたプレートには、次の文言が刻まれている。
「めぐり逢いの奇跡を信じた恋人たちが、この
橋の上で愛を誓うと、永遠に結ばれる」
百合は、おもむろに語り始めた。
「1年前、私の最終フライトの時、通路隔てて
となりにすわる小さな男の子を、懸命に気遣
っていた男性がいたの。その子をトイレに連
れていったり、毛布をかけ直してあげたりし
てた。その男性、バドワイザー飲みながら、
エコノミスト読んでた」
「覚えてたんだ!僕のこと」
「ええ、ずっと忘れられなかった」
百合は、「めぐり逢いの橋」への階段を、ゆっくりと登っていった。
「百合さん、魂に聞いてみるんだ。自分の魂
に」
百合は、雄一へふり返り、うなずいた。そして、残りの階段を一気にかけ上がり、橋の中央まで来た時だった。
ひときわ大きい光の玉が、百合の目の前にゆっくりと降りてきた。百合は、その光の玉を、手のひらでつかまえて、胸にそっと押し当てた。
百合は、魂の声を聞いた。
百合の口から、嗚咽がもれる。
雄一は、百合をそっと見守っていた。
「百合さん、君の魂は、なんて言ったの?」
百合は、雄一の腕の中に飛び込んでいった。
「私、間違ってた!私は、自分で自分の人生を
選ぶわ!」
突然、橋の下から声が上がった。
「めぐり逢いの奇跡、おめでと〜、おしあわせ
に〜!」
若いカップルが、雄一と百合に、手をふっていた。
「ありがとう〜、君たちも、おしあわせに〜」
雄一と百合も、手をふり返した。
光が降り注ぐ夜空の下で、雄一と百合は、互いの魂がひとつになるのを感じていた。
クリスマスが近い、ある夜の出来事だった。
「お兄さま、私、新堂さんとは結婚しません」
これから百合の身に、大きな嵐がやってくることは、承知の上だった。
「なんだって?!おまえ、正気か!」
結婚の準備は、着々と進められていた。
「新堂となにかあったのか?」
「いいえ、なにもありません」
「だったら、なんだ!」
「私、気がついたんです。新堂さんのこと、愛
していません。一度も、愛したことがありま
せん。これからも、愛せないと思います」
兄徳明は、二の句がつげず、顔をひきつらせて、下を向き、こぶしを握りしめた。
「撮影のあと、どこ行ってた?新堂と会ってた
んじゃないのか?」
「新堂さんは、接待ゴルフで来られないと、メ
ールが来てました。だから、お友達とお食事
しておしゃべりしてました」
兄徳明と新堂裕作は、小学校から大学までの同級生だった。百合が、10歳で江崎家に来てからというもの、裕作は頻繁に江崎家を訪れるようになっていった。
ピアノレッスンに時間を取られ、学業が疎かになっていた百合の家庭教師を、裕作は自ら進んでかって出た。裕作は、早くから、結婚相手は、百合しかいないと決めていた。
もちろん、新堂家としても、江崎家との縁組は、対外的にも、家の存続においても、この上ない慶事であった。
徳明は、百合のただならぬ異変に、百合の覚悟を垣間見た。百合は、従順なようで、芯は強く、言い出したら聞かない頑固な一面があるのを、徳明は良く知っている。
「好きな男性がいるのか?」
「はい、います!」
百合は、キッパリと答え、雄一の名刺を、徳明に渡した。
「なんだ、投資ファンドのサラリーマンじゃな
いか!まあ、仕方ない。どんなヤツか調べさ
せるからな。話は、それからだ!」
意外にあっさりと、兄が引き下がったことに、百合は拍子抜けした。兄はなにを思ったのだろうか?もっと激怒しても、おかしくないのに。百合には、徳明の感情の風景が、見えてこなかった。
逆に、江崎家お母さま、崇子の怒りは、予想通り凄まじかった。
「おまえは、やっぱり『ドロボウ猫の娘』だよ
!生まれが卑しいからね。どんないい躾をし
たって、身につかないのね。なんて、はした
ない娘なんでしょう」
崇子は、感情的になると、百合の母を『ドロボウ猫』と言ってさげすむ。百合は、その度、父の愛人であった母の、「砂上の楼閣」的立場を、自分の身に置き換えていた。
「お母さま、生意気を言うようですが、私は、
自分の結婚相手は、自分で決めます」
「そうですよ、お母さま。古い考えで、百合ち
ゃんを縛り付けるのは、間違ってます!」
兄嫁の美沙子が、百合をかばう。
兄徳明と美沙子は、大学の同級生で、恋愛結婚である。美沙子は、地方出身であるが、実家は、
資産家で、地元の名士と呼ばれる家柄だった。
兄夫婦には、昨年、江崎家跡取りの長男、翔太郎が誕生していた。江崎家当主の嫁として、美沙子の発言権は、ゆるぎないものとなっていた。
「百合ちゃん、早く新堂さんと会って、ちゃん
とお話したほうがいいわ」
「はい、義姉さま。そうします」
「私は、百合ちゃんの味方よ!」
兄嫁美沙子の笑顔に、百合は力を得た。百合は、今夜にでも、新堂裕作にアポを取ることにした。
百合は、新堂裕作に電話した。
「百合ちゃんのほうから、会いたいなんて、め
ずらいなあ〜!」
裕作の声は、弾んでいた。
百合と裕作は、簡単に食事をして、新婚生活を送るために、裕作が買ったマンションの部屋に向かった。百合が、その部屋に行くことは、滅多になかった。
「百合ちゃん、式を待たないで、一緒に住まな
いか?もういいだろう、許してくれても」
裕作は、百合を引き寄せて、抱きしめた。百合は、まだ男を知らない。
「今夜は、ゆっくりしよう」
裕作は、ロマネコンティをグラスに注いで、百合にすすめた。ワインの赤い色が、百合の不安と緊張をあおる。
「あの、裕作さん。お話したいことがありま
す」
「どうした、かしこまって」
「婚約を解消してください。お願いします」
百合は、深々と頭を下げた。
「え?今、なんと言った?!」
「裕作さんとは、結婚しません」
百合は、渾身の力を込めて言い放った。
「まあ、座れ」
百合は、深く沈むソファに、腰を落とした。そして、次の言葉を選んでいた。裕作は、百合の前では、いつも紳士的だ。だが、気の荒い性格だと、百合も承知していた。
「私、裕作さんを夫として、愛していく自信が
ありません」
「なにを今更」
「すみません。もっと早く、お伝えするべきで
した」
「他に男ができたのか?」
裕作は、ソファに座る百合の前にしゃがみ、百合のワンピースのすそから、手を入れた。百合は、その手を払いのけた。
裕作は、なおも百合のとなりに座り、百合のワンピースのボタンに手をかけた。
「やめてください!」
「なんでだ、百合。僕のなにが気に入らない。
なぜ、僕を愛してくれない!」
「ごめんなさい、裕作さん。許してください」
「いや、許さない!」
裕作は、紳士の仮面を脱ぎ捨てた。
裕作は、百合の身体に、容赦なく割って入った。快楽とは程遠い、百合の絶望のあえぎ声が、部屋中に響き渡った。
百合は、裂けたワンピースの胸元をかばいながら、コートを羽織った。そして、逃げるように部屋を出た。
自分の身に、なにが起きたのか、考えたくもなかった。頭の中は、真っ白だった。身体は、恐怖でふるえていた。
裕作の湿ったささやきが、百合の耳にドロのように、まとわりつく。
「百合、その身体で、好きな男に逢いに行ける
のか!」
タクシーが、江崎邸の前に着いた。百合は、通用門をくぐり、立ち止まる。
父が丹精込めて造りあげた日本庭園、荘厳な日本建築の母屋が、闇の中に浮かびあがる。そこには、百合を慈しみ育ててくれた父は、もういない。
「ここには、居たくない」
百合は、通りに出た。行くあてはなかった。
百合の足は、自然に天保山下の小さな公園へ向いた。「1日だけの恋人同士」の朝、雄一と待ちあわせした場所だ。
「逢いたい。あなたに、逢いたい」
百合は、スマホのロックを開けた。雄一からの着信履歴が、目に飛び込んできた。
「もう、逢えないの。私は、汚れてしまった
の。でも、最後にひと目逢いたい」
スマホが鳴る。
「あなたの声だけでも聞きたい。もう一度だ
け」
「百合さん、なにかあったの?」
「雄一さん、、、」
「今、どこにいる?」
「公園」
「どこの?」
「天保山下の」
「そこ動くな!わかったな!すぐ行く!」
雄一は、数分で公園にかけつけた。そして、コートの襟もとを両手でしっかりつかみ、怯えていている百合を見つけた。百合を抱えるように車に乗せ、自宅マンションへ向かった。
部屋に入ると、雄一は、温かいハチミツレモンを作って、百合に飲ませた。少し落ち着いた様子を見て、百合のコートを脱がせようとした。
雄一は、百合の身に、なにが起きたのか、察しがついた。
「乱暴されたのか?新堂か?」
百合は、手で顔をおおって号泣した。
「ひとりで会いに行ったのか?」
百合は、コクリとうなずいた。
「怖かったろ。僕がうかつだった」
雄一は、百合を抱きしめた。
「百合、もうどこにも行くな。ずっと、ここに
居ろ!いいな!」
百合は、もう一度、コクリとうなずいた。
「さあ、お風呂に入っておいで。着替えなら、
おふくろのがある」
お風呂からあがった百合を、雄一はベッドに寝かせた。
「ゆっくり休んで、今夜のことは忘れるんだ」
百合のほほをやさしく撫でた。
「明日は、仕事休むから、買い物行こう」
「雄一さん、お仕事大丈夫なの?」
「有給たくさん残ってるから、大丈夫だよ。僕
は、もう少し仕事片付けてから、となりの部
屋で寝るから、心配するな」
雄一は、百合の手をにぎり、布団をしっかり掛け直した。
「おやすみ、百合」
身体に残る邪悪な痛みが、雄一のやさしさに溶けてなくなってゆくような、感覚だった。
「ここが、私の居場所」
雄一の、ほのかなにおいが残るベッドの中で、百合は深い眠りに落ちていった。
第2話 夫雄一と新妻百合、魂の結婚
※性描写あり
桜井雄一は、大学卒業後、金融業界では名の知れた投資会社に就職した。金融アナリスト、トレーダーとして、順調に出世コースを歩んでいたた。
20代後半に、2年間のパリ駐在を経験したあと、目黒駅近くの2LDKのマンションを購入して、ひとり暮らしをしていた。
雄一は、千葉鴨川に生まれ育った。父は、職人を抱える腕のいい大工だったが、雄一が7歳の時、現場の事故で帰らぬ人となった。母は、地元の総合病院で看護師をしている。
イケメンとまでは言えないが、太い眉に整った目鼻、背も高く、サッカーで鍛えたガッシリした体形は、モテモテでもおかしくなかった。
が、しかし、合コンに参加しても、なぜか女性にはスルーされた。それは、女性の前に出ると、急に口下手になり、気の利いたセリフひとつ言えない不器用な性格が災いしていた。つまり、「ダサい男」なのだ。
百合と出逢った刻、雄一の魂はふるえた。百合の存在は、雄一の胸の中で、人生の伴侶としての灯となった。
江崎百合は、名家江崎家当主、江崎辰哉とその愛人綾子との間に誕生した。辰哉と綾子は、結婚を誓った仲だったが、家柄を重視する江崎家にとって、綾子は卑しい出の「よそ者」だった。
辰哉は、綾子と別れて、家のために、財界の大物の娘、崇子と結婚した。しかし、辰哉は綾子への想いを断ちきれなかった。早くから会社経営を父から譲られ、試行錯誤に神経をすり減らす辰哉にとって、綾子は唯一の安らぎだった。結婚しても、辰哉は、綾子の元に通った。
崇子は、子どもを作らないことを条件に、夫の愛人に目をつぶることにした。そこに、誕生したのが、百合だった。
辰哉は、すぐ百合を認知し、病弱な綾子のために、百合にハマノという乳母をつけた。百合は、笑うとエクボがかわいい、絵本から飛び出したような天使だった。
辰哉には、百合が宝物だった。かわいくて、仕方なかった。辰哉は、百合を江崎家の娘として、どこに出しても恥ずかしくない淑女に育てようと考えた。そのためなら、お金は惜しまないと。
3歳からピアノを習い始めた百合は、その才能を開花させていった。数々のコンクールで最年少優勝者として、将来を嘱望される美少女ピアニストとして注目された。
そんな中、母綾子が急死した。心臓発作だった。江崎家は、百合を迎え入れた。百合が、10歳の多感な時期だった。
K音楽大学の名士、園田教授の下、百合は美人ピアニストとして、マスコミにも取り上げられる存在となる。しかし、百合は、迷いの中にいた。
アメリカボストンにあるバークリー音楽大学ジャズピアノ科に留学したが、百合は世界のカベにブチあたり、打ちのめされて帰国した。百合には、初めての大きな挫折だった。
百合は、自分の才能の限界と社会経験がない弱さを、思い知った。帰国後は、どこかの御曹司とのお見合い結婚が待っているだけだ。百合のいちばんの役割りは、「江崎家の娘」であることだった。
音楽以外の経験を求めて、百合はCAとして再出発した。しかし、それも父辰哉の余命宣告により、4年で終わりを迎えた。
しかし、その刻、百合の魂は、運命を動かした。最終フライトでの、雄一との出逢い。その1年後、めぐり逢った桜井雄一。その人こそが、百合の運命の人となる。
クリスマスイブの夜、婚約者新堂裕作の卑屈な行為に、傷ついた百合は、雄一のベッドの中で深い眠りに落ちた。
スッキリ目覚めた朝。
「起きた?おはよう。今日はクリスマスだよ」
雄一の明るい声に、百合は、今、愛する人と一緒に居ることを実感する。
「おはようございます。早いのね」
雄一は、朝の鉄板ルーティンであるジョギングから帰宅したところだった。
「コーヒー淹れるから、待ってて」
百合は、着ていたパジャマに、SNOOPYがプリントされているのに、思わず吹き出した。雄一の母のものだ。
「ねえ、お母さま、SNOOPYがお好きなの?」
「うん、うちのおふくろ、ちょっと変わり者で
ね。頭のネジが一本ぶっ飛んでる」
百合は、笑いのツボにハマった。
「そうなの。お会いするのが、楽しみだわ」
「ホントに普通じゃないから、腰抜かすよ」
百合は、愛らしくケラケラと笑い続けた。
百合は、雄一の母が置いていったニットのワンピースを借りた。ちょっと、ブカブカだったが。
雄一の住むマンションの前は、区立の大きな公園が広がっている。中央に噴水、東側には遊具やベンチ、花壇があり、区民の憩いの場となっている。西側は、サッカーコートと運動場がある。
朝食のあと、ふたりは、公園へ散歩に出た。噴水の前のベンチに座り、ふたりは水しぶきを眺めていた。言葉にできそうもない、湧き上がるしあわせを、ふたりで噛みしめていた。
「百合、贅沢はさせられないけど、いいか?」
「ええ、わかってるわ。雄一さんと一緒に居る
ことが、いちばんの贅沢よ!」
「江崎さんのお宅に、あいさつに行こう。新堂
さんにも会うよ」
「矢とか鉄砲玉とか、いっぱい飛んできそう」
「ああ、覚悟してるよ。生命があればいいさ」
ふたりは、心から笑った。まだ、お互いのことを良くは知らない。しかし、前から知っていたような、懐かしい風景を見ているような、ふしぎな感覚だった。
「ねえ、百合。もう時効だろ。あの男の子、君
に、なんて言ったの?」
ふたりが出逢った、飛行機の中の出来事だ。
「ああ、あれね。あの子私にね『お姉さん、や
さしくてキレイだね。僕がオトナになったら
結婚して』って言ったの」
「ずいぶん、ませた子だな。で、君はなん
て?」
「『待ってるから、早くオトナになってネ』っ
て答えたわ」
うふふっと、百合はしなやかに笑った。
「ヤバ〜!あの子が迎えに来る前に、間にあっ
て良かった〜!」
マジ顔の雄一に、百合は、盛大に笑いのツボにハマってしまった。実は、百合は、ツボにハマると笑いがとまない、見た目とのギャップが激しい稀有な素質があった。
「よお〜、桜井コーチ、今日は休みかい?」
雄一に声をかけた初老の男性。
「はい、今日は有給です」
男性は、雄一のとなりで微笑む百合に目を向けた。
「こりゃ、えらいべっぴんさんだな!カノジョ
かい?」
「妻の百合です。こちら、掛谷さん。公園の管
理をされている方だよ」
「百合です。よろしくお願いします」
「いや、こちらこそ!コーチ、いつ結婚したん
だい?なぜ、黙ってた、水臭いな!」
「はい、結婚したのは、つい最近です」
まさか、「昨夜です」とは、言えない。ふたりは、顔を見合わせて、クスッと笑った。
「コーチって、なんのコーチ?」
「目黒区でやってる、少年サッカーチームのコ
ーチだよ。僕ね、学生時代、サッカーやって
たんだ」
「そうなの」
「たぶん、来年の4月から、また指導頼まれる
と思う。手伝ってくれるかい?」
「はい、お手伝いします!」
それから、ふたりは、目黒駅周辺で百合の衣類を買い、スーパーマルニでワインと食材を仕入れた。百合にとって、スーパーで買い物することは新しい体験だった。百合は、キャベツ1この値段さえ知らなかった。
昨夜の衝撃を忘れるくらい、百合のワクワクは止まらない。
「新婚1日目が、クリスマスだなんて、なんだ
かロマンチックね」
百合は、年のわりに、中身は夢見る少女だ。ピアノしかやってこなかった、純正培養の世間ズレしたお嬢さまだった。
「百合、結婚式どうする?新婚旅行行きたいだ
ろう?」
「ううん、なにもしなくていい。あなたは?」
「僕も、いい」
百合は、やっと自分の人生を、自分の意思で歩き始めていた。
「あのっ、私、家事やったことないの」
「いいよ。僕がいちから教えるよ。それに、今
は、検索すればたくさん出てる」
ふたりだけの、クリスマスの夜。リビングテーブルには、アロマのふんわりとした香りを放つロウソクの炎がゆれる。
「私、恥ずかしいくらい、なにも知らないの。
でもね、江崎家には家訓があって、父はそれ
を家族に忠実に守らせたの」
百合の父、江崎辰哉は、百合に言って聞かせた。
「百合、時間とお金は有限だ。時間もお金も、
浪費か消費か投資かで、判断するんだ。買い
物の失敗は、浪費だ。意味のない時間も浪費
だ。自分を成長させるために、時間とお金を
使え。それがいちばんの投資だ」
「そうか、だから江崎家は、繁栄してきたんだ
な。うちの会社の顧客も富裕層だから、良く
わかるよ」
「父は、私の音楽に莫大なお金を投資してくれ
たの。なのに、私は留学して、挫折してしま
ったの。親不孝だわ」
「いや、百合、これからだよ。いちから、やり
直せばいいじゃないか。仕事部屋を防音室に
改装して、ピアノ買おう。投資だ」
「ううん、そこまでしなくていいわよ。ピアノ
貸してくれるところは、たくさんあるから。
私、ピアノ教えてみたい」
「だったら、サッカーグラウンドの前に、山村
楽器の目黒店があるよ」
「え〜、ホント!行ってみるわ。でも、その前
に、家事覚えなくちゃ!」
百合は、これから、自分がやるべき主婦としての大事な仕事に、意欲をもやしていた。
ふたりは、深夜まで語りあった。
雄一が、百合を抱き寄せた。百合の身体は、一瞬、ビクッとふるえた。
「まだ、怖いよね。キズが癒えてからでいい
よ。僕は待つよ」
「その時、あなたに、なんて言えばいいの?」
「大丈夫、自然とそうなるから、君は心配しな
くていい」
雄一は、その夜も、仕事部屋の折りたたみベッドで寝た。
雄一は、百合の婚約者、新堂裕作に会いに行った。(株)新堂ホールディングス傘下、新堂機械工業は、新橋のオフィス街にあった。
裕作の秘書から、屋上の回遊庭園で待つように指示された。お昼休みが終わり、庭園で休みを過ごした社員たちが、次々と職場に戻っていき、だれもいない庭園で、雄一は裕作を待った。
新堂裕作は、約束より30分以上、遅れてやって来た。背格好は雄一と同じくらいで、日焼けした四角張った顔の、あまり品の良さを感じない男だと、雄一は思った。
「おまえが、百合をたぶらかしたヤツか!どの
ツラ下げて来た!百合をどうする気だ!」
「桜井雄一です。この度は、ご不快な思いをさ
せてしまい、申し訳ありません」
雄一は、まず、深々と頭を下げた。顔を上げた瞬間、顔面にスルドいパンチが炸裂した。
よろける体を、なんとか踏ん張って、言った。
「僕は、百合さんと結婚します。婚約を解消し
てください。お願いします」
雄一は、土下座した。
裕作は、すかさず、雄一のアゴを蹴り上げた。それでも、雄一は土下座を続けた。
「おまえ、わかってんだろうな。オレは、おま
えをクビにすることくらい、簡単にできるん
だぞ!」
「はい、覚悟しています」
「チッ、婚約不履行で、訴えてやる!!」
雄一は、立ち上がり、裕作の前に、仁王立ちになった。
「では、こちらも強姦罪で訴えます。百合の体
は、アザだらけでした。スキャンダルになり
ますよ。新堂さんの名を汚しますよ。よろし
いんですか?!」
裕作は、はっとして、雄一をにらみつけた。
「桜井雄一といったな。おまえ、なかなかいい
度胸してるな」
裕作は、うすら笑いをうかべ去って行った。そこで初めて、唇が切れて、血がしたたっていることに気がついた雄一だった。
「明日は、青アザになるかも」
百合は、雄一の切れた唇と、アゴのキズの手当てをした。
「やっぱり、矢とか鉄砲玉が飛んで来たわね」
「大丈夫、生きて帰ってきたから」
そう言って笑う雄一は、ひと仕事終えた、たくましい男の顔だった。
たくさんの子会社を傘下におさめる、新堂ホールディングス会長の御曹司と、互角に戦ってきた雄一を、百合は誇らしく思い、うれしさを隠しきれない。
「僕の顔、そんなに変になっちゃった?」
「ううん、ステキなあなた!!」
翌朝、雄一は退職願を胸に、見事な青アザの顔で出社した。案の定、雄一の上司にあたる、取締役統括部長から、呼び出しがきた。
「桜井君、うちの会長から直々に電話があって
ね。君を転勤させるように、言ってきたん
だ。なにか、不手際でもあったのかね?」
「いいえ、仕事上のトラブル案件はありませ
ん。多分、プライベートに関することだと思
います」
「というと?」
「はい、統括部長のお耳にも、すぐに届くと思
いますが、わたくしの結婚のことです」
「ほほう〜」
「依願退職させたいのであれば、よろこんで、
退職いたします。社員のプライベートにま
で、介入するような会社では、いい仕事はで
きそうにありませんので。では、失礼いたし
ます」
そう言って、雄一は退職願を、統括部長の机上に置いた。そして、一礼して部屋を出ようとした時だった。
「桜井君、待ちたまえ。今、君に辞められたら
困る」
統括部長は、雄一の退職願をやぶいて、引き出しにしまった。
「ところで、その顔はどうしたんだね?」
「はい、この顔は、男の勲章です!!!」
暮れも押し迫った、日曜日の午後。
雄一と百合は、江崎家へおもむいた。
大きな玄関の両脇には、すでに松飾りが据えられている。
「百合ちゃん、桜井さん、いらっしゃい。もう
すぐ、徳明も帰って来ます」
兄嫁美沙子が、ふたりを出迎えた。美沙子は、長男翔太郎を抱っこしていた。
その時奥から、大奥さまの崇子が現れた。
「桜井雄一です。本日は、、」
そこで、崇子は、雄一の言葉をさえぎった。
「人に頼みごとをする時は、どうすればよろし
いのかしらね、百合」
あわてて、口を挟もうとした美沙子を、百合は制した。
「いいんです。お義姉さま」
雄一と百合は、冷たいタタキに土下座した。
それから崇子は、奥に戻り、再度玄関に現れた。崇子のうしろから、お手伝いさんのハマノが、青ざめた顔で、バケツを持ってついて来た。
「大奥さま、いけません!おやめください!」
と、ハマノが言うか言わないかのうちに、崇子はバケツを奪いとり、土下座するふたりの頭上に、水をぶちまけた。
「やっぱり、おまえは『ドロボウ猫』の娘だ
よ!どこの馬の骨かわからない男との結婚
は、絶対に認めません!」
と、吐き捨てるように言った。それは、江崎家を勘当されるという意味だ。
「今、タオル持ってくるから」
美沙子は、奥へ行こうとしたが、驚いた翔太郎が泣き出した。
「お義姉さま、大丈夫です。これで、失礼いた
します。ありがとうございました」
玄関を出たふたりは、崇子の怨念のしずくを、払いのけるように、顔を見あわせて、ブフッと吹き出した。
通用門を出たところで、ハマノが息を切らして追いかけて来た。手には、なにやら持っている。
「百合お嬢さま、まあ、こんなに濡れちゃっ
て」
ハマノは、タオルを雄一に渡し、自らは百合の顔や髪やコートを、丁寧にふいた。
「百合お嬢さま、お好きな方とご一緒になられ
て、ハマノもうれしいです!」
ハマノは、涙ぐんでいた。
「桜井さん、百合お嬢さまを、よろしくお願い
いたします」
ハマノは、百合の母に代わり、雄一に頭を下げた。それから、雄一に、手さげ袋を渡した。
「百合お嬢さまの、大好物を作っておきました
よ」
ハマノは、手を振り、百合と雄一が、見えなくなるまで見送った。
帰宅したふたりは、早速、ハマノから受け取った百合の大好物を、開けることにした。
「これハマノスペシャルって呼んでるの」
百合は、昔を懐かしむように、語り始めた。
「ハマノさんは、私の乳母だったの」
百合が、産まれてすぐ、父辰哉は、ハマノを乳母として、百合の世話をさせた。母綾子は、産後の日だちが悪く、病気がちだった。ハマノは、我が子のように、百合をかわいがった。
百合が、江崎家に来てからも、ハマノは江崎家に雇われ続けた。百合が成長してからは、次々と辞めていった家政婦に代わり、江崎家の家事全般を担う、なくてはならないお手伝いさんとなった。
「お母さまはね、特にお夕飯の時、あれこれ細
かいことに、うるさくて。私、ブチ切れて、
お夕飯途中でやめて、お部屋こもっちゃう
の」
百合が江崎家に、迎え入れられたのは、10歳になったばかりの多感な時期だった。お母さまの崇子は、百合に厳しい躾をした。それは、百合の将来を思ってのことだった。しかし、小学生の百合には、それが理解できず、百合は未だに、トラウマを抱えたままだ。
「でも、あとから、お腹すくのよね。ハマノさ
んは、わかってて、これお部屋に届けてくれ
たの。そんなこと、なん度もあった」
百合は、包を開けた。
海苔が巻かれた、シャケとこんぶの2つのおむすびと卵焼きにきゅうりの糠漬け。百合は、これをハマノスペシャルと呼んで、ハマノに感謝の意を表していた。赤ちゃんの時から世話をしてきた、ハマノの愛情がハマノスペシャルだった。
義姉美沙子とハマノだけは、雄一との結婚を祝福してくれた。百合は、それで充分しあわせだった。
年が明け、兄徳明が、新婚家庭にやって来た。
徳明は、雄一と初対面である。
徳明は、まず、母崇子の無礼なふるまいを詫びた。兄嫁美沙子から、ふたりに謝罪するよう、キツく言われたらしい。
日本の経済状況や投資の話を、徳明はなにごともなかったかのように、雄一となごやかに会話した。雄一の行状や勤務先の評価を、急いで調べさせた結果、問題がなかったことがわかったからだった。
最後に、徳明は、神妙な顔をして語った。
「実はな、百合。お父さまが、亡くなる前に僕
に言い残したんだ。『百合に好きな人ができ
たら、自由にさせてやれ。家の犠牲にしない
で、やってくれ』ってな。お父さまは、百合
が新堂との結婚を、乗り気でないことを知っ
ていたんだ」
新堂裕作と結婚をしたくないと、兄に伝えた時、徳明が慎重な態度を見せたのは、父の遺言にあったのだ。
それから、徳明は、胸ポケットから封筒を取り出して、百合に渡した。
「困ったことがあったら、美沙子になんでも言
ってくれ。兄さんは、おまえのしあわせを願
ってる。お母さまを許してやってくれ」
「お兄さま、、、」
百合は、兄のやさしさが、心に沁みた。
徳明は、雄一と握手をして、帰って行った。封筒の中には、帯のついた百万円が入っていた。
百合は、泣き伏した。父が、こんなにも、自分を愛してくれていたことが、たまらなくうれしかった。
百合にとって、家事は、楽しいチャレンジだった。雄一の言った通り、今はなんでもネットで情報が取れる時代だ。特に、料理レシピには、困らない。百合は、iPadをかたわらに、レパートリーを広げていった。
ピアノが弾きたくて、ウズウズしていた百合は、早速、山村楽器目黒店に出向いた。
「昨日、お電話いたしました桜井です。面接に
お伺いしました」
「ああ、桜井さんね。私は、主任講師の池辺で
す。桜井さん、実はね、今のとこ講師は、足
りてるんです」
黒縁メガネをかけた、目の吊り上がった中年女性の池辺は、迷惑そうに百合を見た。
「でも、昨日お電話した時、こちらの店長さん
が、面接してくださるとおっしゃっいまし
た」
「あ、そう!店長〜、ちょっと〜ぉ」
奥から、どっしりした中年男性が出てきた。この男性が、のちに、百合が勤務する『ミュージックプラザ表参道』の総支配人になる人物である。
「桜井さんですね。店長の和田です」
「今、池辺さんから、講師は足りてるとお聞き
しましたが」
「はい、そうなんですが。K音大志望の子がい
まして、桜井さんK音大卒業ですよね。やっ
ていただけますか?」
「はい、やらせていただきます」
そばで聞いていた主任講師の池辺は、苦虫をかみつぶしたような顔をした。和田が言ったK音大志望の子は、池辺の生徒だったが、池辺の指導を嫌がっていた。
「では、なにか弾いてください。得意な曲
は?」
池辺は、意地悪全開の顔だ。
「特に、ありません」
百合は、古典から近代まで、一通りなんでも弾けたのだが。
「あなたねー!ホントに音大出たの?!」
「はい、ちゃんと卒業しました」
百合は、和田と池辺が、百合の「過去の栄光」に、気づいていないことに、ホッとした。できれば、ずっと隠し通したい。
百合は、ピアノを弾き始めた。ブラームス作曲交響曲第3番第3楽章だ。百合が、学生時代に、ピアノバージョンに編曲した思い出深い曲だ。
2階の教室で、T音大志望者向けの説明会が終わり、生徒がぞくぞくと降りて来た。そして、百合は、その後の百合の教育者としての道を、開けてくれた恩師に再会することとなる。
百合は、弾きながら、多忙な学生時代を思い出していた。コンクールに、演奏会、マスコミの取材、百合の青春は、国内外を飛びまわる日々だった。遠い昔のことのように感じる。
百合の周りに集まった生徒たちは、哀愁漂うブラームスの調べに酔いしれていた。弾き終わると、一斉に拍手が起こる。
「百合ちゃんじゃないの!」
「あっ、橋口先生!」
橋口教授は、K音大で園田教授と共に、百合を指導した恩師だった。
「今の曲、リサイタルで弾いてたわね。百合ち
ゃん、留学から帰ってなにしてたの?突然き
えちゃったから、心配してたのよ」
「ええ、いろいろありまして。私、結婚したん
です」
「そうなの。ところで、ここでなにしてる
の?」
「はい、ピアノを教えたいと思いまして、面接
に来ました」
橋口教授は、即座に、和田と池辺を怒鳴りつけた。
「あなたたち、江崎百合を知らないの?!百合
ちゃんはね、こんなとこで教える人じゃない
のよ!」
「えっ、あの江崎百合さんですか?」
和田は、ビックリ仰天だった。池辺は、額にあぶら汗をにじませていた。百合の「過去の栄光」は、あっさりバレてしまった。
店長の和田と主任の池辺は、百合に平身低頭に謝った。UNIQLOのワンピースにカーディガン姿の「桜井さん」が、まさか、あの江崎百合だとは、だれも思わない。
今は、T音大の専務理事をしている橋口教授から、T音大で准教授をやらないかと、誘いを受けたが、百合は断った。子どもにピアノを教えるのが、百合の夢であり、自分へのチャレンジだった。
結婚して、初めて雄一が、ロンドン出張に行くことになった。1週間の予定である。雄一は、慣れた手つきで、準備をしたが、キャリーカートに詰めるのは、CAをやっていた百合のほうが、格段に上手だった。
雄一の出張前夜、百合は、いつものようにベッドに入った。雄一は、まだとなりの部屋で、資料の整理をしている。
百合は、眠れずにいた。
「あの、あなた。こっちで一緒に寝よう。そこ
じゃ、疲れが取れないでしょう」
「えっ?!いいの?」
雄一は、トボけた声を出した。
ふたりは、寝室のベッドで、背中合わせに寝ていた。互いの背中の温もりが、互いの身体に、小さな火をつける。
「1週間も離れるの初めてね。ちゃんと、帰っ
てきてね」
百合の声は、せつない。そのせつなさは、雄一の声にならない、せつなさでもあった。たまらず、雄一は、百合を引き寄せて、抱きしめた。
「僕が帰るところは、君しかいないよ」
ふたりは、抱きあって、押さえていた感情が吹き出すような、濃厚なキスをした。雄一の手は、自然に、百合の胸のボタンを外し、百合の乳房をやさしく揉んだ。
百合のかすかな吐息が、雄一の唇に伝わる。さくら色の乳首を、指先でころがす。百合は、思わず身体をねじる。百合の反応は、雄一の男を、くすぐる。しかし、雄一は慎重だった。
「あなた」
「百合、好きだよ」
雄一は、高まる興奮を押さえて、自分のパジャマを脱ぎ、百合のパジャマを脱がせていった。
柔らかい間接照明の中で、透き通るような白い素肌は、まぶしく、うつくしい。雄一の心は、ふるえた。首筋から肩、脇の下から腰までつづくしなやかな曲線は、雄一の男を燃えさせた。
雄一は、百合の全身をやさしく愛撫した。少し豊満な太ももと、細い足首が、雄一のたくましい下半身に絡みつく。すでに、充分に濡れていた。
「百合、いいかい?」
「、、、うん」
百合の萌えるあえぎ声。雄一は、ゆっくりと動かした。
「痛くない?」
「大丈夫」
百合は、すでに恍惚のふちにいた。
「百合、これから君は、少しづつ女になってゆ
く。僕だけの、愛しい女に」
ふたりは、本当の夫婦になった、
今日は、雄一がロンドン出張から、帰ってくる。百合は、夕飯の支度をしていた。
「ピンポーン、カチャッ」
玄関ドアを開ける音。百合は、とっさに、モップの柄を持ち、身構えた。玄関に、小太りのまあるいお目めの、人の良さそうな、初老のご婦人が立っていた。
「あら、お掃除中だった?」
「あ、はい」
百合は、あわてて、モップの柄を背中に隠した。百合とご婦人は、しばしにらみ合った。
「まあ、キレイなお嬢さんだこと!お名前
は?」
「百合といいます。あのっ、ひょっとして、お
母さまですか?」
「はい、雄一の母の昌子です。『お母さま』だ
なんて、この辺がむず痒くなるから、『おふ
くろさん』って呼んで」
「はいっ、おふくろさん!」
「なんて、素直な娘さんなんでしょう!」
この方が、SNOOPYパジャマの持ち主かと、百合は、こみあげる笑いを必死でこらえた。
「雄一さんは、飛行機が遅れてるみたいで、ま
だなんですよ」
「いいの、いいの。あんな、つまんない顔見た
ってしょうがないでしょ。今日は、百合ちゃ
んの顔、拝みにきたのよ!」
「はあぁ〜、私の顔ですかあ〜?!」
「そうよ、だってね、なにが悲しくて、あんな
『ダサい男』と、結婚する気になったのか、
ナゾだったの」
「ナゾですか?」
「世の中には、もの好きがいるもんだって、感
心しちゃったの。だから、百合ちゃんは、女
神さまよ!」
「私、女神さまほど、神々しくはありませんけ
ど、この顔でよければ、どうぞ拝んでくださ
い」
嫁と姑の笑い声が、部屋中にひびく。
ちょうど、雄一の大好物、肉じゃがを作っている最中だった。レシピ通りに作っても、味付けがイマイチ納得いかない百合は、おふくろさんに教えを乞うた。
「百合ちゃん、お料理をおいしく仕上げるコツ
はね、最後にちょこっと、愛情のスパイスを
ふりかけるの」
「はい、わかりました。実は、私、家事やった
ことがなくて、なーんにもできないんです」
「あら、そうなの。お嬢さまなのね。ま〜なん
とかなるっしょ。ドンマイ、ドンマイ!」
百合は、お茶を淹れた。
「おいしいお茶だこと!」
「ええ、お茶の淹れ方だけは、自信がありま
す。CAやってた時に、教えてもらいました」
「CAって、キャビンなんちゃらっていう、スチ
ュワーデスのことね。そ〜なの、雄一からな
にも聞いてないのよ」
昌子は、ホントになにも知らないようだ。
「結婚したよって、メールきただけよ。それだ
けよ、呆れるでしょ。どんだけ省エネなの、
あのダメ男!」
百合は、ツボへのスイッチが入ってしまい、笑い転げたい。
「でも、ホントに良かった!百合ちゃんみたい
な、かわいいボランティアが来てくれて。ア
イツ、昔から女性には縁がなくてね。もしか
して、『アッチのケ』があるのかと思って、
孫の顔はムリかって、半分あきらめてたの」
「はあ?アッチって、どっちですかあ?」
という、会話の途中で、雄一が帰宅した。
「おふくろ、来るんだったら、もうちょっと、
早く連絡しろよ!」
「さあて、じゃあ、帰るわ。看護師会の会合、
抜けてきたの。そろそろ、宴会始まるころだ
から失礼するわ。百合ちゃん、鴨川遊びに来
てね」
昌子は、見送り無用と言って、息子の顔もそこそこに、帰っていった。
「台風が来たみたいだったろ」
「ええ、かなり大型だった」
百合は、この変わったおふくろさんと、なぜか相性が良かった。
1週間、離れていた夫婦は、熱い抱擁をした。夫婦とはいえ、ふたりは、まだ恋人同士だった。
「この肉じゃが、イケる!」
「でしょう!おふくろさんに、教わったの。桜
井家の味よ」
「ねえ、あなた。『アッチのケ』ってなに?お
ふくろさん、孫の顔はあきらめてたって」
百合は、話の流れを説明した。雄一は、しばし箸を止めて、爆笑モードに入った。
「男性が男性を好むこと。ゲイのことだよ」
「えーっ、あなた、ゲイだったの?!」
「オイオイ、勘弁してくれよ。そういう人もい
るんだよ」
「あ〜、良かった。じゃあ、孫の顔OKね!」
百合の知識は、またひとつ増えた。
雄一は、百合の幼さに、保護者のような感覚になった。それもまた、雄一にとっては、愛しい女を育ててゆく、快感だった。
結婚して、3か月過ぎた。世間では年度末で、投資会社に勤める雄一も、帰宅が遅い上に、出張も多くなっていた。
今月は、3度目の出張となる。雄一は、仕事部屋で、キャリーカートに詰めていた。すると、開いたドアから、いきなり、くつ下とトランクスを、百合がぶん投げて、雄一の頭を直撃した。
「こらあー、なにすんだー!」
「なんで、あなたばっかり、出張行かされる
の?今月3回目よ!」
「仕方ないだろ。仕事なんだから」
「だれかに代わってもらえば、いいじゃない。
うちは新婚なんだから!」
と、激オコプンプンの百合は、クローゼットに入っていった。
「まあた、始まったよ。んったく!」
百合は、雄一に遠慮なく甘えた。そんな世間知らずの「ポンコツ姫」を、雄一は愛しくて、たまらなかった。
お米のとぎ方ひとつ知らなかった百合だったが、持ち前の好奇心と持って生まれた頭の良さで、なんでも器用にこなした。
すっかり庶民感覚を身につけた百合は、時折、トンチンカンな質問をして、雄一をあわてさせた。
「ねえ、あなた、エクスタシーって、どうやっ
て感じるの?」
「え?どうやって?って、言われてもな~!」
「じゃあ、Gスポットって、どこにあるの?」
「え?女じゃないから、わからないよ」
「あなた、私でなん人目?」
「え?!覚えてないよ、そんなの」
「覚えてないくらい多いんだ。ふう〜ん!」
「おい、百合、ちょっと待ってくれ。誤解する
な!男と女は違う」
「なにが違うの?」
知らぬ間に、耳年増になった百合に、雄一はあ然とした。しかし、あどけない笑顔、かわいい仕草、そしてうつくしい容姿に、雄一の男心は、ガッチリロックされていた。
百合は、小中高とカトリックのお嬢さま学校に通い、学生時代も、ボストン留学時も、恋をする暇はなかった。CA時代は、兄徳明から、男性との交際を固く禁じられていた。百合は、男性の心理など知る由もない。
4月に入り、雄一は、地元の少年サッカーチームの指導を再開した。チームの監督は、雄一に絶大な信頼を寄せており、すべて雄一に任せていた。雄一は、試合の審判の資格も取っていた。
練習は、区立目黒公園の西側、サッカーグランドで、毎週土曜日の午後中に行われる。雄一は、百合を「コーチの奥さん」デビューさせることにした。百合のワクワクが、またひとつ増えた。
グランド入り口に、車を停め、その横にテントを張る。百合は、デジカメで少年たちの動きを撮影し、中休みには、冷やしたドリンクや汗拭きタオルを配った。
子どもたちの父兄が、練習を見守る。父兄たちは、突然現れて、イキイキと動くコーチのアシスタントに、興味津々だった。
「あのう、コーチの奥さまですか?」
百合は、「奥さま」という言葉の響きに、顔を赤らめた。
「はい、桜井百合です。皆さま、どうぞよろし
くお願いします」
百合の「コーチの奥さん」デビューは、滞りなく終わった。雄一は、少年たちから、散々からかわれた。
「コーチ、やるじゃん!」
「コーチにしちゃ上出来だな!」
「コーチ、あんなかわいいカノジョ、どこで見
つけたんだ!」
それは、雄一を慕う少年たち流の祝福の言葉だった。百合は、「桜井コーチの奥さん」としての新しい体験に、雄一の妻であるよろこびを感じていた。
サッカー練習が終わった昼下がり、昼食を摂り、シャワーを浴びてサッパリしたふたりは、それぞれに、くつろいでいた。
雄一は、経済誌を読み、百合は、Mr.Childrenの「君が好き」を、口ずさみながら、カウチソファでペディキュアを塗っていた。
「君が好き。僕が生きる、上でこれ以上の意味
は、なくたっていい、、」
百合は、このフレーズが気に入っていた。
「ねえ〜、あなた〜、『君が好き』って言って
え〜」
「そんな、小っ恥ずかしいセリフ言えるか!」
「あ、そっ!!だったらいいわよ。ほかの人に
言ってもらうから」
「まぁた、始まったよ。まったく!」
雄一は、聞こえないフリをして、百合の「病気」を聞き流していた。しかし、百合は、納得しない。
「それ、釣った魚にエサやらないってこと?だ
ってさ、最近言ってくれないもん。『君が好
き』って。海外じゃ当たり前よ!」
百合は、ペディキュアを塗った足先をフーフーしながら、ふてくされた。
雄一は、百合の前に立って、肩をつかみ、意味深に言った。
「君、僕を誘ってる?」
「え?なに?!」
キョトンとした百合に、更に言った。
「誘ってんだろ!」
雄一は、百合の前でしゃがみこんだ。そして、雄一は、いきなり、百合のTシャツを胸の上までたくし上げた。
おわんを伏せたような形のいい乳房。雄一は、そのさくら色のかわいい乳首を吸った。
「あっ、なにするの。まだ、昼間じゃない」
小さくあげた声は、身体の反応にかき消された。
それから、雄一は、百合のレギンスを脱がせ、その唇は、百合の胸から下腹部に降りていった。
レースのカーテン越しに、陽射しが入るリビングのソファ。
初めて、味わう官能の世界に、夫にすべてを委ね、百合は、興奮の絶頂に達しようとしていた。雄一は、今まで、あえて控えていた激しい営みを、百合の身体に、存分に与えた。
百合は、身もだえ、奥底から湧き上がる、あえぎ声をもらして、悶絶して果てた。まだ、快楽のふちにさまよう百合の耳元で、雄一はささやいた。
「今のが、エクスタシーだ。君は、僕だけのも
のだ。君が、たまらなく好きだ」
百合は、夫から教えられた女のよろこびを、全身で受けとめていた。
雄一と百合が、結婚して3年が過ぎた。
まだ、子どもが授からないこと以外は、満ち足りた生活だった。
雄一は、着実に実績をあげ、イギリスロンドン支店への転勤が決まった。百合は、毎日ウキウキして、ロンドン生活の準備にいそしんでいた。
赴任まで、あと2週間足らずのある日、兄嫁の美沙子から電話がかかってきた。
「百合ちゃん、徳明が倒れたの」
美沙子の悲痛な声に、百合は、病院へ急行した。兄徳明は、急性骨髄性白血病と診断された。
雄一と百合は、赴任する前に、江崎家のお墓参りに行った。父辰哉の命日にあたる日だった。墓前に手をあわせていたふたりに、声をかけてきたのは、銀座天賞堂の専務取締役、佐伯泰三だ。
佐伯泰三は、父辰哉の右腕だった人物だった。百合が、まだ小さい頃、辰哉の命を受け、綾子と百合母娘の相談役として、百合をかわいがってくれた恩人だった。
「百合お嬢さま、いらしてたんですか」
「佐伯のおじさま、ご無沙汰しております。夫
の桜井です」
雄一と佐伯は、初対面のあいさつを交わし、3人は、墓地のあずま屋で話をした。
「そうですか。ロンドンですか」
佐伯の顔が、曇ったのを、雄一も百合も見逃さなかった。
「百合お嬢さま、かわいかったお嬢ちゃまが、
すっかり奥さまらしくなられて、ジイはうれ
しいです!」
佐伯は、百合夫婦を心配していた。結婚式も挙げない、かけ落ち同然の結婚だったからだ。
「では、失礼いたします」
佐伯は、墓地をあとにしたが、明らかに、なにか言いたそうな様子だった。ふたりは、それが妙に、引っかかった。
雄一は、先にロンドン入りし、生活の準備を整えることにし、百合は、しばらく残って、江崎家の様子をみることになった。
成田空港、国際線出発ロビー。
「じゃ、行ってくるよ」
「私も、今月中には行くわ」
百合は、デッキに出て、ヒースロー行きの飛行機を見えなくなるまで、見送った。
不吉な予感が、百合の心を縛りつけていた。
雄一を見送った2日後、佐伯泰三が百合を訪ねてきた。
「駅近で便利なとこですなあ」
なかなか本題に入ろうとしない佐伯に、業をにやして、百合は切り出した。
「おじさま、ご用件は?」
「百合お嬢さま、天賞堂と江崎家を助けてくだ
さい。お願いします!」
佐伯の表情は、苦渋に満ちている。
とっくにリタイヤしておかしくない老人は、「先代さま」と呼ばれる、百合の父辰哉から、兄徳明の補佐役を担わされていた。
「徳明さまの病状は、先が見えません。取引先
も社員たちも、皆、不安を抱えています」
百合は、ジリジリしていた。
「徳明さまが、完治なさるまで、百合お嬢さま
に天賞堂の経営を、担っていただきたく、本
日はお願いにあがりました」
佐伯は、額の汗を拭って、出されたお茶を飲み干した。
「おじさま、私は、今月中には、夫の元に参り
ます。佐伯さんが、社長代行をやればいいじ
ゃないですか!」
「そうは行きません!百合お嬢さま、良ーく、
聞いてください。江崎家あっての天賞堂なん
ですよ、わかりますか?天賞堂の経営は、
『先代さま』のお血筋の方でないと、周りが
承知しません。そういうものなんですよ」
「それなら、江崎のお母さまが、おやりになれ
ばいいんだわ」
「その大奥さまが、百合お嬢さまに、まかせた
いと、おっしゃっています」
「私は、お母さまに勘当された身です。今更な
んで私が」
「一度、大奥さまにお会いください。お願いし
ます。どうか、このジイの頼みを聞いてくだ
さい」
佐伯は、テーブルにつけんばかりに、頭を下げて、懇願する目で百合を見た。
「もうひとつ、心配事がありまして。新堂さま
です。新堂さまは、当社の大株主で、社外取
締役をなさっております」
百合は、久しぶりに新堂の名前を聞いた。
「新堂さんが、どうかしたんですか?」
「新堂さまが、百合お嬢さまが、経営に携わる
のであれば、全面的に協力してもよいと、お
っしゃいました」
百合の気は、どっと重くなった。
百合の知らないところで、話は進められていた。数日後の臨時株主総会で、百合の社長代行、取締役副社長が承認される運びになっていた。
「夫に相談しなければ、私の一存では、お返事
しかねます」
ガンとして首をたてに振らない百合に、佐伯は、肩を落として帰っていった。
その夜、兄嫁美沙子から電話がかかってきた。
「百合ちゃん、助けて!徳明は、当分復帰でき
そうもないわ」
兄徳明の病状は重く、合併症も併発しているとのこと。お母さまの崇子が、百合に会いたいと言っていると。美沙子本人は、江崎家の切り盛りと徳明の病院、子どもたちの世話で手一杯であるとの話だった。徳明夫婦には、長男翔太郎の下に、2歳になる凛ちゃんが産まれていた。
百合は、重い足取りで、江崎家へおもむいた。
「百合お嬢さま、お帰りなさいませ」
ハマノが迎えてくれた。
百合は、ご仏壇に手をあわせ、父辰哉の遺影を見ていた。そこへ、お母さまの崇子が、入ってきた。
「百合、お帰り。元気そうね」
「お母さま、ご無沙汰しております」
崇子は、やつれていた。
「その節は、大変なご心労をおかけしまして
申し訳ありませんでした」
「わたくしも、あなたに、ひどい仕打ちをして
しまいました。許してください」
崇子は、百合に頭を下げた。崇子が、百合に謝るのは、初めてだった。
「百合、天賞堂を守っていただきたいの。お父さまの血を引くのは、あなたしかいないの。徳明の病状は聞いてるでしょう」
「お母さま、私は、今月中にロンドンへ行きます。桜井の転勤について行きます。たとえ、お引き受けするにしても、夫に相談しなければ、私ひとりでは、決められません」
「では、すぐ桜井さんと相談してください」
百合は、下を向いて目を閉じ、唇をかんだ。
「百合、わたくし、綾子さんには、本当に
感謝してるの。そりゃあ、ひどい言い方
したけど、百合のような素直でかわいい娘
ができて、うれしかったのよ。この家にあ
なたが、来てくれたお陰で、お父さまは、
どんなにか、おしあわせだったことか」
百合は、崇子の変わりように面食らってしまった。崇子は、泣いていた。ずいぶん弱気になったものだと、百合は思う。江崎家の先行きを按ずるその気苦労は、百合にも良くわかる。
百合は、亡き父辰哉の遺影を、再度見つめた。父の商才で、銀座天賞堂は、押しも押されもせぬ東京一の老舗宝石店と呼ばれるようになった。そして、百合のいちばんの理解者だった父辰哉。
帰宅した百合は、しばし放心状態だった。雄一と結婚して、忘れていられた「江崎家の娘」という呪縛が、百合の中によみがえっていた。
百合は、雄一に電話した。
「あなた、、、」
「百合、どうした?」
「あなたに逢いたい。そばに居たい」
百合は、こぼれる涙を雄一に託した。
「百合、落ち着くんだ。義兄さんの容体が悪い
のか?」
「それもあるけど、、、」
「じゃあ、天賞堂のことだな。君に、義兄さん
の代わりをやってくれって話になったんだ
ろ」
「どうしてわかるの?」
「それくらい、察しはつくよ。同族会社にあり
がちな話さ」
「私、どうすればいいの?」
「君しかいないだろ。やるしかないよ」
「だって、私、会社の経営なんて、やったこと
ないもん」
「大丈夫、君ならできる。僕は3年で本社に戻
るから、とりあえず3年間だけがんばってみ
るんだ。君は、新しいことに挑戦してみたい
って、いつも言ってただろう。チャレンジし
てみろよ。じゃあ、体に気をつけて」
雄一と離れて暮らすことなど、考えられない百合だった。百合は、泣いて泣いて泣き明かした。空が白み始めた頃、百合は夫の言葉を思い出していた。
「君しかいない。やるしかない。3年間だけが
んばってみる。チャレンジ」
百合は、江崎家に生まれた自分の運命だと、現実を受け入れようと決意した。
雄一と百合が、別居を余儀なくされた、6年前の春のことだった。