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鍵も財布も忘れる私が、相談に乗ったりしています

    私は今、ピアサポーターを名乗っている。

    人の話を聞いたり、
    安心できる場について考えたり、
    リカバリーだの、ウェルネスだの、
    まあまあ立派そうな言葉を使っている。

    言葉だけ見ると、ちゃんとしている人みたいである。

    でも実際の私は、出かける前に鍵を忘れる。

    携帯を忘れる。
    財布を忘れる。

    多い時は、玄関と部屋を五回くらい行き来する。

    人の人生の話を聞く前に、
    まず自分の鍵の居場所がわからない。

    周りから見たら、たぶんこう思う人もいる。

    「この人、大丈夫か」

    もっと言えば、
    「無責任じゃないか」
    と思われることもあるかもしれない。

    まあ、わかる。

    実際、忘れる。
    遅れる。
    抜ける。
    確認したつもりで、確認できていない。
    返事をしたつもりで、現実には送っていない。

    これは、なかなかまずい。

    自分でもそう思う。

    私は、自分を美談にしたいわけではない。

    「ADHDは才能です」
    と、きれいにまとめたいわけでもない。

    そんなに都合よくはいかない。

    普通に困る。
    普通に怒られる。
    普通に落ち込む。

    周りから見たら、ただのダメ人間に見える日もあると思う。

    立派な大人ではない。

    少なくとも、朝から鍵を探して、携帯を探して、財布を確認して、それでも何か忘れている人間を、私は立派な大人とは呼びにくい。

    でも本人としては、けっこう必死に責任を取ろうとしている。

    忘れないようにアラームをかける。
    メモを書く。
    玄関に置く。
    何度も確認する。

    それでも忘れる。

    ここがつらい。

    努力していないわけではない。

    でも結果だけ見れば、
    「また忘れた人」
    である。

    まあ、しょうがない。

    いや、しょうがなくない。

    でも、しょうがない部分もある。

    この文章は、そんな私の日常の話である。


    私にとって、玄関は関所である。

    出かける。

    ただそれだけのことが、なかなか終わらない。

    靴を履く。
    ドアを開ける。
    鍵を閉めようとする。

    鍵がない。

    戻る。

    鍵を取る。

    今度こそ出る。

    階段を降りる。

    「あ、携帯」

    戻る。

    携帯を取る。

    また出る。

    「あ、財布」

    戻る。

    財布を取る。

    また出る。

    「あれ、さっき取った携帯どこ?」

    もう意味がわからない。

    私は家から出たいだけなのに、家が私をなかなか外へ出してくれない。

    いや、家のせいではない。

    たぶん、私の脳内にいる受付係が、持ち物チェックの途中で昼休みに入っている。

    鍵。
    携帯。
    財布。
    資料。
    薬。
    飲み物。
    充電器。

    全部そろえたつもりなのに、何かがない。

    しかも不思議なのは、さっきまで目の前にあった物体が、急にこの世から消えることである。

    携帯がない。

    机の上にない。
    バッグの中にない。
    ポケットにもない。

    本当にない。

    ちなみに私は、家の中で携帯を週に三回は見失う。

    外でなくすなら、まだわかる。

    コンビニ。
    車。
    会場。
    職場。

    どこかに置いてきたのかもしれない。

    でも、家の中である。

    範囲は限られている。

    なのに、ない。

    さっきまで手に持っていた。

    通知も見た。
    時間も見た。
    たぶん、アラームも止めた。

    それなのに、次の瞬間にはもういない。

    私は部屋の中を歩き回る。

    机を見る。
    布団を見る。
    洗面所を見る。
    冷蔵庫の横を見る。
    なぜか洗濯機の上も見る。

    だんだん、自分が探偵なのか、被害者なのか、犯人なのかわからなくなってくる。

    最終的に、携帯はだいたい変なところから出てくる。

    枕の下。
    洗濯物の上。
    カバンの外ポケット。
    トイレの棚。
    さっき見たはずの机の上。

    特に腹が立つのは、さっき見たはずの場所から出てくる時である。

    私は思う。

    「お前、さっきはいなかっただろ」

    でも、携帯は黙っている。

    スマートフォンという名前なのに、こういう時だけ全然スマートではない。

    いや、違う。

    たぶんスマートではないのは私である。

    しょうがない。

    そういう日もある。

    週に三回くらいある。


    私は、アラームで行動している。

    朝起きるアラーム。
    薬を飲むアラーム。
    出発準備のアラーム。
    出発するアラーム。
    そろそろ本当に出ないとまずいアラーム。

    私の一日は、もはや鐘で動く学校みたいになっている。

    アラームが鳴る。

    私は思う。

    「はいはい、わかってますよ」

    止める。

    そして、三分後には忘れている。

    アラームは、私に命令してくれる。
    でも、私を実際に動かしてくれるわけではない。

    ここが大問題である。

    時間というものは、私にだけ少し速い。

    普通の人の十分は、十分なのかもしれない。

    でも、私の十分は、体感で二分くらいで終わる。

    ちょっとメールを見る。
    ちょっと資料を確認する。
    ちょっと洗い物をする。

    この「ちょっと」が信用できない。

    「ちょっと」は、だいたい三十分を連れてくる。

    そして私は時計を見て言う。

    「え、なんで?」

    毎回、本気で驚く。

    まるで初犯みたいな顔で驚く。

    でも、これは常習である。


    一番ひどいのは、コンビニである。

    私はコンビニに行く。

    買うものは決まっている。

    コーヒー。
    水。
    たまに甘いもの。

    店に入る。

    商品を選ぶ。

    レジに並ぶ。

    ここまでは、かなり普通の人間である。

    ところが、支払いの瞬間に気づく。

    財布がない。

    「あ」

    この「あ」には、いろんな意味が含まれている。

    しまった。
    またか。
    なぜ今なのか。
    店員さん、すみません。
    私は怪しい者ではありません。
    ただ、財布を忘れた者です。

    しかも最近は、携帯決済もある。

    財布がなくても携帯があれば何とかなる。

    そう思ってポケットを触る。

    携帯もない。

    終わった。

    コンビニまで来て、財布も携帯もない。

    私は何を持ってここまで来たのか。

    勇気か。

    もしかして私は、買い物ではなく、商品を眺めに来ただけの人なのか。

    店員さんに小さく謝って、商品を戻し、家に帰る。

    帰り道の私は、何とも言えない顔をしている。

    怒っているわけではない。
    悲しいわけでもない。

    ただ、自分に対して、静かに引いている。

    家に戻ると、財布と携帯はちゃんとある。

    玄関近くに。

    私はそれを見て、ただ静かに思う。

    また私か。


    ADHDという言葉を知る前、私は自分をただのダメな人間だと思っていた。

    忘れる。
    遅れる。
    片づけられない。
    話が飛ぶ。
    字がうまく書けない。
    説明が長くなる。
    でも、大事なところで妙に勘が働く。

    このアンバランスさが、自分でもよくわからなかった。

    できることはできる。
    できないことは、本当にできない。

    その差が激しい。

    周りから見ると、たぶん不思議だったと思う。

    「あれだけ話せるのに、なんでこれができないの?」
    「企画はできるのに、なんで書類が遅いの?」
    「人のことはよく見ているのに、なんで自分の予定は忘れるの?」

    私も知りたい。

    本当に知りたい。

    私の脳みそは、なぜ助けが必要なところで急に旅に出るのか。


    私は、転職回数も半端ない。

    レストランサービス、ホテル、居酒屋、銀座のクラブ、喫茶店、給食の管理、社会福祉法人の支援者、弁当配達。

    こうやって並べると、自分でも思う。

    「私は何をしてきたんだ」

    履歴書として見ると、かなり落ち着きがない。

    面接で説明するには、少し体力がいる人生である。

    でも、その時その時は必死だった。

    続かなかった仕事もある。
    逃げるように離れた場所もある。
    向こうもたぶん、私に向いていないと思っていた場所もある。

    それでも、何とかやってきた。

    私の人生は、だいたいこれである。

    ただ、レストランサービスではけっこう本気だった。

    洋食、和食、中華。

    気づけば、それぞれのサービスの現場でトップに立つところまで行った。

    これは少しだけ自慢していいと思う。

    いや、させてほしい。

    私は忘れ物も多いし、時間感覚も怪しいし、物もよくなくす。

    でも、対人サービスの現場では、人の五倍は努力したと思う。

    人に努力を見せるのは嫌だった。

    「頑張っています」と見えるより、
    「何でもない顔でできる人」に見られたかった。

    だから、何でもない顔をした。

    でも、内側ではかなり必死だった。

    まあ、しょうがない。

    そういう生き方しか、当時の私は知らなかった。


    社会福祉法人で、支援者として働いたこともある。

    ピアサポーターを名乗る前に、私は支援する側の現場も見てしまった。

    福祉の世界には、きれいな言葉がたくさんある。

    「寄り添う」
    「本人中心」
    「その人らしく」
    「安心できる場」

    私は、それらの言葉を否定したいわけではない。

    むしろ、大事だと思っている。

    でも、現場では、その言葉だけでは済まないことも多かった。

    人手が足りない。
    時間が足りない。
    記録がある。
    会議がある。
    制度がある。

    支援者も疲れている。

    支援する側も、ちゃんと人間だった。

    だから私は、支援者を簡単に責められない。

    でも同時に、支援される側の違和感も、なかったことにはできない。

    「支援」という言葉の中で、人が小さく扱われることがある。
    本人の人生なのに、いつの間にか支援計画の中に収められてしまうことがある。
    よかれと思って言われた言葉が、その人の力を奪うこともある。

    私は、そこにも引っかかってきた。

    たぶん私は、どちら側にも完全には立てなかった。

    でも、今は少し思う。

    その中途半端さこそ、私の立ち位置なのかもしれない。

    人と人が出会うことは、時々かなり面倒くさい。
    期待も起きる。
    誤解も起きる。
    傷つくこともある。
    助けたい気持ちが、相手を苦しくすることもある。

    それでも、私は人が人に出会う場をあきらめたくない。

    なぜなら、私自身が、何度も失敗しながら、何度も人に助けられてきたからだ。


    仕事でも、私はわりと役に立つと思っている。

    特に、新しい取り組みを始める時だ。

    新しいシステム。
    新しいイベント。
    新しい申し込みフォーム。
    新しい会場運営。
    新しい講座の流れ。

    こういうものを私に渡すと、だいたい二週間以内に、起こりそうな失敗を一通り起こす。

    普通の人なら、半年かけて見つけるヒューマンエラーを、私はかなり早い段階で発見する。

    申し込みフォームの抜け。
    案内文のわかりにくさ。
    当日の動線の悪さ。
    支払い方法の落とし穴。
    参加者が迷うポイント。

    私は、だいたい踏む。

    見事に踏む。

    まるで地雷原を歩く専門職である。

    ただ問題は、誰も褒めてくれないことだ。

    だいたい言われるのは、

    「また?」

    である。

    私は思う。

    いや、これは実証実験である。

    私が失敗したのではない。
    仕組みの弱点が、私を通じて可視化されたのである。

    言い方を変えると、急に立派になる。

    でも、現場ではだいたい怒られる。


    でも、正直に言うと、あんまり怒られるのはきつい。

    笑い話にしているけれど、怒られて平気なわけではない。

    「また?」
    「なんで確認しなかったの?」
    「前にも言ったよね?」
    「普通は忘れないよ」

    そう言われるたびに、表面では笑っていても、内側ではちゃんと削れている。

    私も、忘れたくて忘れているわけではない。
    ミスしたくてミスしているわけでもない。

    自分でも、もう十分に思っている。

    またやった。
    なんでできないんだ。
    今度こそ気をつけようと思ったのに。
    また人に迷惑をかけた。

    そこへさらに怒られると、反省より先に、心が固まってしまうことがある。

    謝らなければいけないのはわかっている。
    直さなければいけないのもわかっている。
    でも、怒られすぎると、次に動く力まで削られる。

    これは甘えなのかもしれない。

    でも、私の本音である。

    私は失敗する。

    それは事実だ。

    でも、失敗した時に必要なのは、怒号ではなく、次に失敗しにくくなる仕組みだと思う。

    確認する場所を決める。
    持ち物を置く場所を固定する。
    アラームを増やす。
    一人で抱えず、誰かに確認してもらう。
    ミスが起きた時に、責めるより先に流れを見る。

    それでも、また失敗するかもしれない。

    その時は、また直す。

    私はそうやってしか進めない。

    怒られることが全部悪いとは思わない。

    注意が必要な時もある。
    迷惑をかけたなら、謝る必要もある。
    責任を取らなければいけない場面もある。

    でも、怒られ続けることと、育つことは同じではない。

    怒られ続けると、人はよくなる前に、小さくなる。

    少なくとも私は、そうだった。

    だから私は、誰かが失敗した時も、できるだけすぐに責めたくない。

    「なんでできないの?」の前に、
    「どこで詰まったのか」を見たい。

    それは優しさというより、私自身がそうしてほしかったからだ。


    本当のことを言うと、私は自己肯定感が高い人間ではない。

    むしろ、かなり低い方だと思う。

    笑い話にしているから、平気そうに見えるかもしれない。
    人前で話すから、自信があるように見えるかもしれない。
    ピアサポーターを名乗っているから、自分の経験を受け入れている人に見えるかもしれない。

    でも、実際はそんなにきれいではない。

    私は、けっこう怒られてきた。

    そして、けっこうディスられてきた。

    「なんでそんなこともできないの」
    「普通はわかるでしょ」
    「また忘れたの」
    「ちゃんと聞いてた?」
    「何回言わせるの」
    「本当に使えないね」

    そういう言葉は、表面では流したふりをしていても、ちゃんと残る。

    一回一回は小さな言葉かもしれない。

    でも、何度も何度も重なると、だんだん自分の中に染み込んでいく。

    私はダメなんだ。
    私は迷惑なんだ。
    私は普通にできないんだ。
    私はまた誰かを困らせるんだ。

    そういう思いが、自分の中で勝手に育っていく。

    これは、なかなか厄介である。

    他人から言われなくなったあとも、自分の中にその声が残るからだ。

    また失敗するぞ。
    また怒られるぞ。
    また笑われるぞ。
    またがっかりされるぞ。

    だから、何かに挑戦する時、私は見た目以上に怖がっている。

    新しいことが嫌いなわけではない。
    むしろ、新しいことを考えるのは好きだ。

    でも、その裏で、また失敗してディスられる怖さがある。


    相談の場で、相手が、

    「私なんて全然ダメなんで」

    と笑うことがある。

    でも、話を聞いていると、
    だいたい私よりちゃんとしている。

    ちゃんと予約して来る。
    時間に間に合って来る。
    自分の困りごとを整理して話す。
    悩みながらも、どうにかしたいと思っている。
    「迷惑かけてすみません」とまで言う。

    いやいや。

    私は、そこで普通に言ってしまう。

    「いや、あなたの方がよっぽどちゃんとしてますよ。
    こっちは朝から鍵を探して、携帯を探して、財布を確認して、
    それでも何か忘れているかもしれない男ですからね」

    だいたい、少し笑いが起きる。

    もちろん、笑わせたいだけではない。

    本気でそう思っている。

    人の相談に乗る前に、
    自分の持ち物確認でだいぶ消耗している私からすると、
    目の前の人は本当にすごい。

    自分のしんどさを抱えながら、
    ちゃんとその場に来ている。

    自分の困りごとを誰かに話すのは、簡単なことではない。

    「助けてほしい」
    「一緒に考えてほしい」
    「どうしたらいいかわからない」

    そう言葉にするまでに、
    その人はたぶん、何度も一人で考えている。

    何度も我慢している。
    何度も自分で何とかしようとしている。

    それでも、誰かに話してみようと思って、
    その場に来ている。

    それはもう、かなりすごいことだと思う。

    だから私は、相談に乗っているというより、
    その人がここまで来たことに、まず頭が下がる。

    相談に来る人は、弱い人ではない。

    少なくとも私は、そう思っている。

    私は、相談に来た人を上から見られるほど、
    ちゃんとした人間ではない。

    むしろ、こっちもだいぶ危ない。

    でも、だからこそ同じ場所に座れることがある。

    失敗してきた者同士、
    うまくいかなかった者同士、
    それでも何とかしようとしている者同士、
    少し笑いながら、話すことはできる。

    私は、その時間がけっこう好きだ。


    私は、ちゃんとしたピアサポーターではないのかもしれない。

    そもそも、ちゃんとしたピアサポーターとは何なのかも、よくわからない。

    落ち着いていて、
    いつも穏やかで、
    人の話を上手に聞けて、
    深い言葉を返せて、
    自分の生活もきちんと整っている人。

    もしそれが理想なら、
    私はかなり遠いところにいる。

    朝から鍵を探す。
    携帯を探す。
    財布を確認する。
    それでも何か忘れる。

    予定も抜ける。
    返事も遅れる。
    時々、自分でも引く。

    立派な大人かと言われると、
    正直、かなり怪しい。

    でも、だからこそ言えることがある。

    そんなに立派じゃなくていい。

    ちゃんとしていなくても、
    人と話していい。

    失敗していても、
    誰かの隣に座っていい。

    今日をなんとか生きているなら、
    それだけでけっこうすごい。

    私は、そう思う。

    これは、立派な人が上から言う言葉ではない。

    ダメなところをたくさん抱えた私が、
    自分にも言い聞かせながら、
    目の前の人にも言っている言葉である。

    「そんなに立派じゃなくていいですよ。
    私なんて、今日ここに来るまでに三回くらい忘れ物チェックしてますからね」

    私は、わりと本気でそう言う。

    だいたい、少し笑いが起きる。

    でも、笑わせたいだけではない。

    その笑いの中で、
    少し肩の力が抜けることがある。

    私は、それがピアサポーターの意味のひとつだと思っている。

    立派な答えを持っていることではない。

    正しい方向へ導くことでもない。

    「私も、けっこう危ないです」

    そう言いながら、
    同じ場所に座ること。

    それでも、
    「まあ、なんとか一緒に考えましょうか」
    と言えること。

    ダメな私だからこそ、
    ダメなままで終わりにしない話ができる。

    私は、そんなに立派ではない。

    でも、そんなに立派でなくていいと言える存在ではありたい。

    それが、私にとってのピアサポーターの意味なのだと思う。


    私は、ADHDを「才能です」と言い切るのは、少し苦手だ。

    それはそれで、きれいすぎる。

    正直、困ることは多い。

    笑えない日もある。

    失敗して、自分にうんざりする日もある。
    人に迷惑をかけて、申し訳なくなる日もある。
    普通にできる人を見て、いいなと思う日もある。

    だから私は、ADHDを美談にはしたくない。

    ただ、笑い話にはしたい。

    笑い話にしないと、やってられないからだ。

    玄関を五回出入りする自分。
    探していたスマホを手に持っている自分。
    会議中に真面目な顔をしながら、頭の中で全然違うことを考えている自分。
    資料を作るためにパソコンを開いたのに、気づけばチラシのデザインを直している自分。

    そんな自分を、毎回責めていたら、身がもたない。

    だから、私は時々、自分に言う。

    「まぁくん、今日もなかなか仕上がってるね」

    これは、ほめ言葉ではない。

    でも、悪口でもない。

    生き延びるための、私なりの声かけだ。


    私は、ちゃんとした人間になりたかった。

    忘れ物も少なく、
    段取りもよく、
    落ち着いていて、
    いつも穏やかで、
    人に迷惑をかけない人間になりたかった。

    でも、どうやら私はそういうタイプではなかった。

    私は、鍵を忘れる。
    携帯を忘れる。
    財布を忘れる。
    時間を忘れる。

    人の五倍努力して、何でもない顔をしてきたのに、
    それでもできないことは、やっぱりできなかった。

    怒られて、ディスられて、
    自分を信用できなくなった時期もあった。

    それでも、失敗は経験になることがある。

    経験は、誰かの役に立つことがある。

    そして、笑い話にもなる。

    ただし、笑い話になるまでには、少し時間がいる。

    失敗した瞬間は、普通にしんどい。

    コンビニで財布も携帯も忘れた時に、
    その場で人生の意味なんて考えない。

    ただ、商品を棚に戻して、
    静かに家へ帰るだけである。

    でも、あとで誰かに話すと、少し笑える。

    その笑いに、私は何度も助けられてきた。

    だから生きていける。

    私はそう思う。

    今日もたぶん、何かを忘れる。

    明日もきっと、何かをやらかす。

    コンビニまで行って、財布も携帯も忘れているかもしれない。

    その時は、家に帰るしかない。

    しょうがない。

    そういう日もある。

    でも、帰れば財布はある。

    携帯もある。

    たぶん鍵も、どこかにある。

    そして私は、また出かける。

    少し遅れて。
    少し疲れて。
    少し笑いながら。

    こんな特性でも、生きてるんです。

    こんな私でも、ピアサポーターを名乗っているんです。

    まあ、しょうがないな。

    でも今日も私は、
    人のいる場所へ向かう。

    そして、こんな私が、
    人の話を聞いたり、
    一緒に考えたり、
    時々笑いながら、
    相談に乗ったりしています。

    #創作大賞2026
    #エッセイ部門

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