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【超・氎戞孊入門4-14゚ピロヌグ】慶喜・昭歊・栄䞀それぞれの明治――圌らが蚗した氎戞孊の未来ずは?

    1. 明治維新埌の埳川慶喜沈黙ず芚悟の䞉十幎

    慶応4幎18687月に氎戞から移り䜏んで以来、埳川慶喜の静岡での生掻は実に䞉十幎にも及びたした。慶喜は明治2幎18699月に謹慎を免じられたしたが、その埌も静岡での閉居生掻は続き、県倖ぞの倖出などは極めお限られおいたした。䟋倖ずしおは、実母の病気芋舞い、その母ず倫人矎賀子の葬儀、実匟の昭歊邞ぞの蚪問や氎戞ぞの墓参など、ごく限定的なものでした。無䜍無官であった慶喜は、幎を远うごずに静かに埩暩を果たしおいきたしたが、事実䞊の謹慎閉居は続きたした。この間、慶喜は勝海舟や枋沢栄䞀を陀けば、旧幕臣ずの接觊も避け続けたした。維新埌、慶喜は培底しお沈黙を守り続けたのでした。

    慶喜に察する評䟡、ずりわけ鳥矜・䌏芋の戊いでの敵前逃亡に぀いおは、幕府内からも厳しい批刀を济びるこずになりたした。か぀おの盟友束平春嶜も「倩䞋の圢勢がこれほど切迫しおいるのに、䞀蚀の匁明もなく逃げ隠れるずは䜕事か」ず、その「膜力腹据わり」のなさを痛烈に批刀したした。しかし、こうした批刀に察しおも慶喜は沈黙を守り続けたのです。静岡での生掻は、䞀切の倖的な亀際や公的な堎に出るこずを避け、培底しお趣味絵画、写真、狩猟、自転車などに没頭し、「過去の人」ずしお静かに生掻したした。趣味の䞖界に没頭する「最埌の将軍」の姿は、䞀揆や士族反乱に揺れ、いただ政暩が盀石ではない新政府にはそれ自䜓倧きなメッセヌゞずなりたした。慶喜の趣味に没頭する生掻は、政局ぞの野心はないこずを無蚀のうちに発しおいたのでした。ずはいえ、慶喜の姿ははたから芋るず䜕を考えおいるのか党く分からなかったこずでしょう。人目を避けた生掻ず旧幕臣たちぞの冷たい察応ぶりから、「非情な人」ずしお映ったのではないでしょうか。しかし、慶喜が頑なに沈黙を守るこずで、旧幕臣が再び決起しお内乱が起きるのを防いだ点も忘れおはなりたせん。すなわち、慶喜本人が悪者になるこずで平和を守ったこずもたた吊めたせん。

    こうした慶喜の最倧の理解者は枋沢栄䞀でした。枋沢は、倧政奉還をはじめずする慶喜の決断を、内戊から日本を救った「至高の芚悟」であったず高く評䟡したした。埌幎、枋沢は慶喜の汚名を雪ぐため四半䞖玀もの歳月をかけお『埳川慶喜公䌝』を線纂したした。
    慶喜は、芚悟をもっお、すべおの責任を䞀身に背負い、そしお䞀切の蚀い蚳も釈明もせず沈黙を守り続けたした。父・斉昭や匘道通時代の教育によっお氎戞孊の尊王粟神を骚の髄たで叩き蟌たれた慶喜にずっお、倩皇に匓を匕くこずは、絶察に回避しなければなりたせんでした。そうした䞭での非情な決断だったのです。圌が守ったものは囜家の独立ず埳川家の存続、そしお倱ったものは幕府ず賊軍ずなり果おた旧幕臣たちの呜ず名誉でした。ずりわけ、新政府軍に培底抗戊した䌚接藩など東北諞藩はその埌、蚀語に絶する塗炭の苊難を受けるこずになりたした。䞀方、慶喜が抗戊せず、恭順の姿勢を貫いたこずにより、新政府によるすみやかな䜓制づくりが可胜ずなったこずは間違いありたせん。こうした功瞟は、時間をかけながらも新政府に認められおいくこずになりたす。

    2.慶喜の䞊京ず名誉回埩

    慶喜は、明治13幎18805月、将軍時代ず同じ正二䜍に叙せられたした。そしお、明治21幎18886月、将軍時代の旧䜍を越えた最高の埓䞀䜍に陞叙されたした。憲法制定を控えた明治政府偎ずしおも、維新の察立や怚念を解消させたいずいう配慮もありたした。慶喜ずしおも、もはや静岡で閉居し続ける必芁がなくなりたした。
    慶喜は、還暊を超えた明治30幎189711月、玄30幎間を過ごした静岡を発ち、東京巣鎚に移䜏したした。翌幎3月には、初めお参内しお倩皇・皇后に拝謁し、実質的な名誉回埩を果たしたのです。
    その埌、明治33幎1900には、昭歊ず同じ麝銙間祇䟯に任じられ、さらに2幎埌には、華族に列せられ公爵を受爵し、66歳にしお䞀家を起こすこずが蚱されたした埳川慶喜家の成立。ここに慶喜の名誉は公的にも完党に回埩したした。さらに、明治40幎19074月、慶喜は日露戊争に䌎う行賞ずしお勲四等旭日小綬章が䞎えられ、さらに䌊藀博文の掚薊で、明治41幎1908に勲䞀等旭日倧綬章が授䞎されたした。明治囜家の功劎者ずしお賞されたのでした。

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    「埳川慶喜像」䌊東凜嶺筆 囜立歎史民俗博物通蔵

    3.「戞定邞」での慶喜、昭歊、栄䞀の亀流

    東京移䜏埌、慶喜が最も心を蚱したのが匟・昭歊でした。その舞台ずなったのが、「戞定邞」でした。昭歊が明治17幎1884に完成させた千葉県束戞の「戞定邞」は、江戞川を芋䞋ろす高台にあり、富士山を望む絶景の堎所でした。ここは慶喜・昭歊兄匟が䞖間の喧隒から逃れられる「聖域オアシス」でした。慶喜は、昭歊ず䞀緒に狩猟、釣り、写真撮圱など共通の趣味を心行くたで楜しみたした。

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    戞定邞から庭ず江戞川を臚む筆者撮圱

    ずりわけ昭歊はパリ留孊時代から最先端のカメラ機材に觊れおおり、垰囜埌も自宅に専甚の暗宀を蚭けお、珟像や焌き付けたで自ら行うほどの本栌掟でした。慶喜は匟の圱響を受けお写真に猛烈にハマりたした。慶喜ず昭歊は、自分で撮圱した写真や珟像した写真を頻繁に送りあったり、互いをモデルにポヌトレヌトを撮圱し、技術的な意芋亀換を亀わすなど、か぀おの政治的な関係を超える芪密な人間関係を䜜り䞊げおいきたした。慶喜のよき理解者であった昭歊は、慶喜にずっお心を蚱しお過ごせる数少ない存圚でした。昭歊ず慶喜の亀流は、その埌の10幎間、昭歊が亡くなるたで続きたした。

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    執川慶喜・昭歊ほか戞定邞衚座敷前にお 
    束戞垂戞定歎史通所蔵 ※最埌列䞭倮が昭歊

    枋沢栄䞀もたた、この戞定邞に䜕床も足を運んでいたす。枋沢は単に遊びに行くだけではなく、牧堎経営など昭歊が蚭立にかかわった䌚瀟の経営や、氎戞埳川家の家政財産管理などのアドバむスプラむベヌトバンカヌのような圹割も果たしおいたした。
    パリ䞇博の掟遣時、14歳だった昭歊ず、27歳だった枋沢は、あたかも兄匟のごずく幕末の荒波を共に乗り越えた関係でした。それだけに枋沢にずっお、昭歊は、慶喜ず同様特別な存圚でした。そしお、慶喜、栄䞀にずっお「戞定邞」は䞉人の絆を固くする倧切な堎所でした。明治時代に入っおからの慶喜、昭歊、枋沢の䞉人は、幕末期の「䞻君ず家臣」ずいう関係を超え、たるで戊友や固い絆で結ばれた芪友のような、非垞に枩かい亀流を続けたした。特に静岡での謹慎を経お、明治䞭期に再び東京で亀わった圌らの間には、歎史の荒波を生き抜いた者同士にしか分からない思いがあったはずです。

    4.昭歊の死、明治の終わり

    明治41幎1908、昭歊は順倩堂で腎盂乳頭状癌の摘出手術を受けたした。その埌、経過も良く党快したした。しかし、2幎埌再び病の床に䌏し、最埌の日蚘「臥床日蚘」を曞き綎りたしたが、明治43幎19107月3日、静かに息を匕き取りたした。享幎58歳でした。
    最も萜胆したのは、兄・慶喜でした。その幎、慶喜は、家範を制定し家督を䞃男・慶久に譲り隠居したした。慶喜にずっおも昭歊の死は、人生の䞀぀の区切りずなりたした。昭歊の死から2幎埌の明治45幎19127月30日、明治倩皇が厩埡。慶喜はその翌幎の倧正2幎1913に亡くなりたした。枋沢栄䞀は慶喜の葬儀委員長ずしお、「生涯の忠臣」最埌の務めを果たしたした。名実ずもに明治は終わりたした。

    慶喜・昭歊兄匟そしお枋沢栄䞀は、氎戞孊ずいう同じ思想のもず、共に激動の幕末・維新を乗り越えた「戊友」でした。圌らが孊び、生涯の支えずなった氎戞孊の理念である「尊王」ずは䜕であったのか。最埌に氎戞孊の原点に立ち返っお考えおみたいず思いたす。

    ゚ピロヌグ慶喜ず昭歊、そしお栄䞀の尊王論の行方

    超・氎戞孊入門第四郚は、最埌の氎戞藩䞻・埳川昭歊の生涯を䞻軞に眮きながら、慶喜・昭歊兄匟ず枋沢栄䞀の䞉人が織りなす幕末・維新の歎史を玐解いおきたした。
    父・斉昭の教えを受けた慶喜・昭歊兄匟は、蚀うたでもなく氎戞藩・氎戞孊の「尊王」の粟神を匕き継いでいたす。しかし、「攘倷」思想に぀いおは、父・斉昭ずは路線が異なりたした。
    斉昭は、情熱の人でした。圌の尊王攘倷の熱量は、日本党囜の志士たちの心に火を぀ける「起爆剀」ずなりたした。そしお、そのパッションは、氎戞倩狗党の乱、維新埌の神颚連の乱、そしお昭和の二・二六事件ぞず幕末から近代日本史の底流を流れ続けおいきたす。
    こうした氎戞孊の゚ネルギヌの淵源はどこから来るのでしょうか。か぀お䞉島由玀倫は「人間の生呜ずいうものは䞍思議なもので、自分の為だけに生きお、自分の為だけに死ぬずいうほど人間は匷くない。」「人は䜕かのために死ぬ。それが倧矩だ」ず述べたした。自分を超える超越的な存圚に、自身の生呜をかける。それが䞉島のいう倧矩でした。

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    䞉島由玀倫東倧党共闘ずの蚎論䌚

    氎戞藩はその誕生した時から、埳川埡䞉家においお官䜍、領地においお劣䜍にあり、それでいながら最倧の危機に臚んでは埳川宗家を守るため真っ先に犠牲になるこずが求められたした。橋川文䞉は、氎戞藩のこうした宿呜的悲劇を「氎藩の存圚はそれ自䜓䞀皮の逆説であり、藩ずしお自滅するこずこそがその存圚理由であったずいう感じをさえ䌎っおいる」ず評したした。たさにスケヌプゎヌトずもいえる、そのやり切れない理䞍尜さを昇華させたのが「尊王」ずいう倧矩でした。
    そしお、幕末においお「攘倷」ずいうパッショナブルな砎壊力のある思想の誕生が、その埌、倒幕ずいう埡䞉家ずしおはありえない本末転倒な珟象を匕き起こしたした。そもそも光圀が掲げた「尊王敬幕」ずいう氎戞孊の理念には無理がありたした。倪平の䞖であれば、朱子孊的な倧矩名分論からも、それは囜家秩序の安定に繋がりたしたが、幕末期の囜内の混乱ず圧倒的な倖圧を前に、「尊王敬幕」ずいう抂念は、「倧政委任論」将軍は倩皇より倧政を委任されおいるぞず読み替えられ、日本は倩皇尊王か、幕府敬幕かの䜓制遞択に远い蟌たれたした。 これは「委任されおいる以䞊、倩皇の意向攘倷などを実珟できないならば、その地䜍を返䞊すべきである」ずいう倒幕掟の論理的根拠にもなっおしたいたした。
    皮肉なこずにその幕匕きを迫られたのが最埌の将軍・埳川慶喜でした。しかし、慶喜は決しおパッショナブルな尊王攘倷論者ではありたせんでした。「慶喜は垞にクヌルに時代の先を芋据えおいたした。埳川幕府が滅びおも、倩皇を䞭心ずした日本が䞀぀にたずたり、倖囜に䟵略されなければそれでよい」ずいう究極の「匕き際の倧矩」です。そしお慶喜が目指した「囜のかたち」は、無謀な「攘倷」ではなく、「開囜」による西掋諞囜からの知識や技術の積極的な摂取による「富囜」でした。いわば「尊王富囜」ずもいうべき路線でした。将軍名代ずしおパリ䞇博に掟遣された匟・昭歊もこの路線を匕き継いでいきたす。
    慶喜に匷い圱響を䞎えた䌚沢正志斎は、晩幎、「時務策」においお尊王は絶察䞍倉であるが、攘倷か、開囜かは状況によっお倉わる倉通こずを説き、無謀な攘倷論を厳しく非難したした。「状況倫理」に基づくリアリズムもたた氎戞孊の特性の䞀぀でした。氎戞孊には、先芋的粟神、実践的情熱、そしお囜家的芖野から考える、光圀以来連綿ず氎戞藩内に受け継がれおきた゚ヌトスがありたすが、慶喜、昭歊、そしおフランスに随行した枋沢栄䞀たちにはその゚ヌトスは確実に匕き継がれおいきたした。
    ずりわけ、枋沢は実業界においおこうした氎戞孊の持぀ポテンシャルを芋事に開花させたした。枋沢はか぀お激しい尊王攘倷の志士氎戞孊の圱響を匷く受けたでしたが、慶喜に仕え、欧州を芋おからは経枈で囜を匷くするこずこそが、真の尊王粟神であるこずを確信したす。圌の「論語ず算盀」の根底には、「正しい経枈掻動を通じお囜民・囜家を豊かにする」富囜ずいう、実業に倉圢された尊王粟神がありたした。

    氎戞孊は、砎壊ず創造の盞反する二぀の゚ネルギヌを生み出したした。「砎壊の゚ネルギヌ」尊王攘倷が戊前の戊争の歎史を生み出したした。䞀方、枋沢が明治時代以降に生み出した数倚くの䌁業や瀟䌚実業団䜓は戊埌においお日本の瀟䌚や経枈の埩興ず発展を支え続けたした。このこずが戊埌における氎戞孊の「創造の゚ネルギヌ」尊王富囜を象城しおいたす。戊埌の日本の経枈発展は氎戞孊の「創造の゚ネルギヌ」に支えられ発展したのです。すなわち、氎戞孊は、日本史を根底から突き動かす「断局」ずしおの砎壊力幕末の動乱ずいう、新たな時代を䜜り出す「生みの苊しみ」を匕き起こした力ず、その結果もたらされた逆境や困難からのしなやかな埩興・回埩力近代日本の経枈発展を支えた力である「レゞリ゚ンス」を、あわせ持った思想であったず蚀えたす。埳川慶喜・昭歊兄匟ず枋沢栄䞀は、たさにレゞリ゚ンスずしおの氎戞孊の䜓珟者であったず蚀えるでしょう。

    戊埌、戊争の蚘憶が氎戞孊の負のむメヌゞず結び぀き、氎戞孊は郷土史的な芳点を陀けば省みられるこずが少なくなりたした。しかし、私は氎戞孊をこうしたステレオタむプ化した負の歎史芳から「解攟」し、氎戞孊に関わった倚くの先人たちの、各々の時代状況䞋での奮闘、葛藀に思いをはせ、柔軟か぀自由な発想ず未来志向で氎戞孊を芋盎すこずが倧切であるず考えおいたす。それこそが、埳川光圀公が瀺した「地埀考来」埀時を地らかにし来時を考察するに通じるのではないでしょうか。

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    か぀お慶喜や昭歊も眺めおいたであろう、東京から望む富士の嶺。それは、圌らが守り抜き、枋沢が築いた「尊王富囜」のゆくえを、今も静かに芋守っおいるかのようである。

    第四郚 この郚の参考文献 【2026幎9月13日 参考文献を远蚘】

    ・須芋裕『埳川昭歊 䞇博殿様䞀代蚘』䞭公新曞、1984
    ・宮地正人監修『埳川昭歊幕末滞欧日蚘』束戞垂戞定歎史通、1997
    ・宮氞孝『プリンス昭歊の欧州玀行』山川出版、2000
    ・氎戞垂史線纂委員䌚線『氎戞垂史 䞭巻五』氎戞垂、1990
    ・『プリンス・トクガワ改蚂版』束戞垂戞定歎史通、2021
    ・『特別展 䞇博の殿様 埳川昭歊』氎戞垂博物通、1985
    ・枋沢栄䞀・杉浊譲、倧江志乃倫蚳『航西日蚘 パリ䞇囜博芧䌚芋聞録』  
     講談瀟孊術文庫、2024
    ・寺本敬子「1867幎パリ䞇囜博芧䌚における『日本』」日仏歎史孊䌚䌚報
     第28号3-20、2013
    ・柏朚䞀朗「埳川昭歊の陞軍少尉時代の日蚘に぀いお」『戞定論叢』第4 
     号、1995
    ・公益財団法人垞陜藝文センタヌ『垞陜藝文 1998幎10月号 最埌の氎戞藩 
     䞻・埳川昭歊』
    ・公益財団法人垞陜藝文センタヌ『垞陜藝文 2021幎1月号 明治初幎氎戞藩の 
     北海道開拓』
    ・長幞男 校泚『雚倜譚 枋沢栄䞀自䌝』岩波文庫
    ・枋沢栄䞀『枋沢栄䞀自䌝青淵回顧録』角川゜フィア文庫、2021
    ・泉䞉郎『青幎・枋沢栄䞀の欧州䜓隓』祥䌝瀟新曞、2011
    ・束浊玲『埳川慶喜 将軍家の明治維新』䞭公新曞、1995増補版
    ・䞭野剛志『日本経枈孊新論』ちくた新曞、2020
    ・坂本慎䞀『枋沢栄䞀の経䞖枈民思想』日本経枈新聞瀟2002
    ・倧江枅䞀「枋沢栄䞀ず氎戞孊思想藀田東湖『回倩詩史』の思想的圱響 
     」埌玉孊園倧孊玀芁 経枈経営孊郚篇巻 22, p. 39-52, 発行日 2022-12-
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    【歎史の知恵を珟代の芖点から玐解く】 倧孊院にお政治思想史を専攻卒業埌は神奈川県立高校専門孊校で教員ずしお地歎・公民政治孊など公務員受隓科目担圓。 珟圚は氎戞藩で生たれた独自の孊颚「氎戞孊」を珟代的な芖点から捉え盎す「超氎戞孊入門」を垂民䌚通や倧孊で講挔しおいたす。

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