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人は自由になるために空を飛ばなければならない

今日は、個人的な人生観と

弟が言った最も有効なたとえ話のnoteです

ゆっくりしていってね




人は真の意味で自由になることはないと思います。

人が何かを行う、というのは常に責任が伴う行為だからです。

これに関しては、自由の定義を考える必要があります

私の中の自由とはおおむねの場合

何にも縛られないこと

です

しかし私の中の自由の話だけをしてもしょうがないので

有名な哲学者の自由でも見ていきましょう
(ちなみにこの有名な哲学者というものは古すぎて嫌いだ、今哲学をやっても大体こいつらが正解らしきものを用意している。)

ちなみにここから出る哲学者の考えは
個人的解釈と要約もりもりです悪しからず

カントは

自立こそが自由である

としました。

本能的な欲求以上に人間が考えて生み出した道徳心に従って生きること

欲望でなく、理性で考えること

自分の中でいいか悪いかではなく
より多くの世界において
より良い行動であるように自分自身を律すること

そして、人が自由であるかどうかは
証明することができないが
それは人間にとっての意味になるため求められ続けると

なるほど面白い考え方です。
ほかの人はどうでしょうか

ジョン・スチュアート・ミルは

他人に迷惑をかけない限り、その人の自由は絶対である

としました

満足した豚よりも、
不満足な人間であるほうが良く、
満足した愚か者よりも、不満足なソクラテスであるほうが良い

という言葉からわかるように

単に幸福であることがよいのではなく
より高位の幸せを求め続けることが大切だと考えていたようです

その上で

ミルはどんなに正しく見えない考えでも
他人に対して実害がない限りは認められるべきであるとしました。

つまり、

なにが正しいことなのか、何が幸せなのか考える自由

こそが自由であるという考えですね


2人の哲学者を見てみました
私の考え方がこの二人と少し違うということが分かりますか?

基本的に、
自由とはほかの何かとトレードオフだし
獣であることを認めることはありません

私の中での自由とは、何にも縛られないとは

哲学者っぽくかっこよく言うならば

究極的に賢い人が愚かであることを選択できる自由

です。

ゆえに人は自由になることはありません

何故なら
人は、自ら死を選択することはできません
死を選択することを肯定できないようにできているからです

自由とは、行動に伴う一切の責任を持たないことです

放棄するのではなく最初から持たないこと
しかし、愚かになれ無責任になれということでもなく
その権利を持たないことを自分自身で選ぶことという

つまり、究極的な死も愛も憎もすべてを自分の意識のみで行えることです

人間的な部分を捨てるもの
捨てないのもあくまで自分が選ぶ

それも、人間の中にあるとされている道徳とか倫理を一切無視できる

そういうのが自由なのかなと

しかし、私たちはどこまで行っても自由になることはないといいました。

この話を弟としていた時
弟はこの問いに対して最も有効なたとえを出しました

それは、人間が生きていくうえで


ジャンプするときに着地する責任を伴う


ためです

人でなくても人であっても
この世には重力というものがあります
(宇宙は無重力という話はしないでくださいたとえです)

人は、ジャンプしたとき

その場所から少し離れた場所に着地します

責任も同じで

人が何かをするのはジャンプするようなもので

絶対にどこかには着地します

行動と責任はセットです
原因と結果がセットなのと同じです

行動を起こした時点でその行動に対する責任があります

ひょっとしたら行動するより前に責任があるかもしれません

着地しなければならないと分かっているからこそ、
人は「無茶な高さ」からは飛べません

だからこそ、人は自由になれない

もし究極の自由は何かと聞かれたら

着地することを一切考慮せず、
重力という概念さえ忘れて、ただ『飛ぶこと』そのものに純粋になれる状態

でしょうね。
だからこそ、人はその純粋な自由に惹かれるのでしょう

人間は世界で一番自由に近くそして不自由な動物かもしれません

私たちは自由になれない、けれど、
これを書いている間だけは、
着地の衝撃を忘れて高く跳んでいたいと思うのです。

今日はこの辺で

今日は筆が乗りました、空を飛んでいる気持ちでしたよ

では、またあした


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