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赤いアーチの向こうへ〜君と過ごした日々〜

    あらすじ
    1944年(昭和19年)、戦時中という混乱のさなか、大阪に完成した“車ごと乗れる”珍しいトンネルエレベーターは、当時の最新鋭設備として人々の暮らしを支えていた。しかし1970年、その場所で発生した崩落事故が礼一の運命を一変させる。事故に巻き込まれた彼の運命は——。
    船上生活者にとってかけがえのない存在だった船。百合子に託したトパーズのエンゲージリング。そして結衣の本当の姿とは——。
    昭和と令和。時代に導かれるように交錯する運命の中で、新たな世界を生きようとした若者たちの、切なくも儚い恋の物語。苦しみや迷いを抱えながらも、彼らは真っ直ぐに未来を見つめていた。大阪の夜景に彩られた夕映えのアーチの向こうへ。そして、新たな未来へ——。


    赤いアーチの向こうへ
    〜君と過ごした日々〜

    終戦後、父にとって東京での生活を思い出すことは、きっと苦しかったのだろう。戦後のさなか母を亡くしてから、父はまるで別人のようになってしまっていた。
    その頃、大阪で暮らしていた叔母(父の姉)も、戦後の厳しい生活に耐えていた。それでも、父のことが気がかりだったのだろう。父に

    「大阪へ来たらどうか」

    と勧めてくれたのだ。
    母の思い出を忘れたかったのか、ただ環境を変えたかったのか――。けれど父はその提案を受け入れ、そして僕も父に連れられて大阪へとやってきた。

    それが僕の人生を大きく変えることになるなんて…。当時の僕には知る由もなかった。

    大阪での生活にも少しずつ慣れ、僕は卒業後、大阪市の職員となり、ようやく落ち着いた日々が訪れた。
    1969年、この年の初夏はとても涼しかったことを思い出す。その頃、僕は一人の女性と出会った。彼女は白い帽子をかぶり、いつも西九条の駅前でバスを待っていた。

    (なぜだろう)

    ――僕は彼女が気になって、気がつけばその姿を目で追うようになっていた。

    そんなある日、父が入院することになった。僕は毎日、病院へ通う生活が始まった。


    病院へ通う日々***

    初夏が涼しかったせいなのか、8月を超えるとまだ朝だというのに既に猛暑。その暑さに

    「はぁ…」

    とため息をつく僕。ふと光の射す方を見ると、窓辺の水道で小瓶に花を挿している女性がいた。僕も同じ水道の端で食器を洗っていたのだが、気づかずにいた。そして、帰り際にうっかりと彼女にぶつかってしまった。

    拍子に、小瓶が落ちて割れてしまったのだ。

    「あっ、ごめんなさい」

    僕は気付けば、ただ必死に謝っていた。すると彼女は、ふっと微笑んで言った。

    「大丈夫です。気にしないでくださいね」

    どこかで見覚えのあるその女性は、柔らかな髪を後ろで束ね、清楚な雰囲気が印象的だった。なぜなのか僕の胸の奥が少しだけ温かくなる。
    まさか――母に似ていると、そう思ったのだろうか…。そして彼女と不思議と徐々に仲良くなったいった。

    僕は毎日、父の見舞いで病院へ通っている。彼女も同じようによく病院に来ていたのか、気がつけば僕たちは自然と話すようになっていた。

    「私ね、保育園で働いているの。家はあのトンネルの向こうなのよ」

    「そうなんだ」

    「お父さんがね、日雇いで丸太運びをしていて…。だからうちらの家は船の中なの。驚いた?もしかして東京にもこんな場所ってあった?」

    彼女は決して恵まれているとは言えない境遇を悲観することもなく…。
    むしろ明るく笑いながら話し続けた。

    それから暫くして…。やがて大阪にも秋が来た。金色の銀杏並木が風に揺れる、美しい季節だ。難波には『虹の街』という華やかな商業施設の建設が予定され、安治川の新しい水門工事も完成が近づいている。僕はその建設に携わっているのだ。街はクリスマスが近づき、安治川トンネルを越えた先にある賑やかな“きらら九条商店街”も、年末の活気に染まっていた。

    だが、まさか――あの西九条のバス停で白い帽子をかぶっていた女性が、病院でよく話していた彼女だったなんて、夢にも思わなかった。その日、バス停にいた彼女は、こちらに向かって手を振った。

    「なぜ僕だとわかったの?」

    そう尋ねると、彼女は僕の小さなスバル360を指さして笑った。

    「この前、病院の帰りに駅まで乗せてくれたでしょ?この車、可愛らしくて覚えてたの」

    そう言って、彼女は微笑み、少しだけはにかんだ。

    しばらくして、新しい年がやってきた。僕はコタツで年賀状を開きながら過ごしていたとき、リーンリーンと電話のベルがなる…。彼女からだ。

    「一緒に初詣行にいかない?」

    「いいよ」

    そうしてこの年の初詣は、彼女と二人で出掛けることになった。父はまだ入院中だったが、お正月は面会時間も短いし、来なくていいと言うので、その言葉に甘えることにした。

    歩きながら神社へ向かう道すがら、やがて雪がちらつき始めた。去年のクリスマスに彼女からもらった手編みのマフラーを巻いていたのだが、僕はどこかくすぐったいような、少し恥ずかしいような気分になっていた。
    冬の外気は刺すように冷たい。
    それでも街には人々の活気があふれていた。近々開催される万博を、誰もが心待ちにしていた時代だったからだ。
    僕もまた、万博の会場で世界を感じられる日を楽しみにしていたし、やがて完成する虹の街が、どんな賑やかな場所になるのかを考えただけで、胸を躍らせた。

    そしてもちろん――そのどれにも、彼女と一緒に行きたいと強く思っていた。
    水門の建設も万博に合わせて進められており、仕事は繁忙を極めていて順調だった。3月からの本格稼働に向けて、僕は毎日忙しさと戦っていた。

    そして…。

    季節は巡り、春も過ぎ、やがて秋が来た。

    『二人で行った万博』

    『虹の街でのデート』

    華やかな大阪の街が、まるで自分たちだけのもののように思えるほど、僕らはよく笑い、よく歩き、よく語り合った。そして街が再び金色に染まり始める頃、クリスマス商戦の準備でどこも賑やかさが増していた。

    僕は彼女をデートに誘った。
    もちろん
    ――彼女の誕生日を祝うために。

    いや、本当はそれだけじゃない。
    西九条駅で彼女と待ち合わせていたが、少しでも早く会いたくて…。トンネルのエレベーターに車ごと乗り込み、向こう岸に上がるエレベーターを降りた時、ちょうど、彼女がきらら九条商店街の方から笑顔で走ってきた。

    「買い物してた?」

    と聞くと、

    「うん、ちょっとねぇ」

    と、彼女は照れたように言い、水色のカーネーションを一本差し出してきた。

    「どうしたの、これ?」

    「商店街で珍しいお花を見つけたの。こんな時期やのに綺麗でしょ?いろんな色に染められるみたいなのよ」

    「へぇ……青い水を吸わせてるのかな?」

    「多分そう。でも面白いでしょ? 私にも作れそうやん?商店街のおばちゃんがね、黄緑色にもできるって言ってたわ。それより……私が作ったマフラー、してくれてるんやね」

    最近、僕に少しずつ甘えるようになってきた彼女が、大阪弁で楽しそうに話す姿があまりに可愛らしくて、僕は胸が温かくなった。

    「まあねぇ……(照れながら…)
    で、予約してあるんだ。レストラン」

    そう言って、彼女の誕生日のために、レストランへと案内した。

    「なに? ガスビル? こんなところにレストランあるの?」

    と彼女は目を丸くした。

    僕は頷いた。そこは…。大阪に来た頃、父と二人で訪れた思い出の場所だった。洒落ていて落ち着いた空間で、料理も美味しく、僕にとって大切な記憶がつまっていた。8階のレストランから眺める夜景は優雅で、けれどそれはどこか人懐っこい大阪の光景だった。

    「今日は話があるんだ…」

    そう言って、四角い小箱を差し出した。

    「本当はダイヤモンドを渡したかったんだけど、ちょっと届かなくて」

    「ううん……嬉しい。
    私の誕生石……トパーズやね」

    そう言って、彼女は目に涙を浮かべていた。僕にとっても、そして忘れられない一日になった。

    「次に会えるのは……クリスマスやね」

    彼女がそう言った。僕は静かに頷いた。その後、またトンネルのエレベーターに乗り、彼女を送り届けた。
    帰り道、同じエレベーターに乗り込み殺風景な歩道と、自転車の入り混じった細い道路を僕のスバル360で走り抜ける。

    ただ…。胸の奥に、温かい余韻だけが残っていた。

    結婚への誓い***

    1970年、僕は、彼女の誕生日にプロポーズした。あの時の光景は、今でもふとした瞬間に胸の奥で輝きを放つ。

    「ねぇ、これって誕生日のプレゼントやね?」

    と、彼女は少し照れたように言った。

    「まぁ、それはこっち」

    そう言って、僕は彼女が編んでくれたマフラーと同じ色の手袋を差し出した。

    でも…。

    ――本当のプレゼントは、こっちだ。
    小箱に入れた宝石を渡しながら、

    「僕と結婚してください!」

    そう告げた時の自分自身の声は、震えていたようにも思う。

    「……はいっ。喜んで」

    その元気な声は、なんど思い返しても胸に響く。

    それから僕たちは、すぐに父の病室へ報告に行った。

    父は…

    「一人前になったんだな」

    と言って、静かに、けれど深く喜んでくれた。

    病院の帰り道、車の中で、

    「父が元気になって退院したら、僕たち結婚して…。――それから、あの新幹線に乗ってハネムーンに行こう。僕の生まれた東京へ」

    「うん……」

    僕たちは信号待ちの交差点で、新幹線が通過していくのを一緒に見上げていた。

    やがて12月が近づくと、大阪の街は一気にクリスマスの色に染まった。モダンで洗練された梅田の洋品店や、難波のにぎやかな食堂も人で溢れ、人気のアイスキャンデー屋も活気に満ちていた。そして中華食堂には行列ができ、入れそうにないほどだった。街の賑わいを見ているだけで胸が弾む。僕は彼女へのクリスマスプレゼントをなににしようかと考えながら、仕事帰りに南の街を歩いた。
    西洋風の洒落た建屋の百貨店に入り、プレゼントの下見をする。嘗ての戦時中を殆ど知らない僕達は、鮮やかでモダンと呼ばれる時代に生まれ、それになにより、こんなに愛しい人に出会えた僕はきっと幸せなのだろう。

    父の時代は戦争だった。
    母は戦争の後遺症で、僕を産んでからしばらくして亡くなった。
    だから、母の記憶はなにひとつない。
    ただ想像するしかできないのだ。

    それでも
    ――今の僕の幸せは、母が残してくれたものに違いない…。

    ふとそんな事を考えていた矢先、突然父が危篤だという連絡が入った。急いで病院へと駆けつけると、父の呼吸は弱々しくなり、僕にもたれかかるようにして語り始めた。

    「…実は、お前に話していなかったことがある。お前の母さんのことだ」

    父はゆっくりと、切れ切れの息の中で語り始めた。

    「俺は元々、鹿児島からお前の叔母、つまり姉を頼りに大阪へと家出してきたんだ。姉はいち早く大阪へ就職していたからな。そんな時、母さんと出会った。あの頃の俺は右も左も分からない、ただの田舎者だったが……母さんは大阪の生まれで、帝塚山という高級住宅街に住むお嬢さんだった。
    仕事帰りに偶然見つけた立派な屋敷。その二階の窓からピアノを弾く姿
    ――美しい音色とともに、時々外を覗き込む、フランス人形のように愛らしい女性。そんな母さんに、父さんは一目惚れしてしまったんだ。
    俺は仕事帰り、母さんが窓辺に立つ時間に合わせて足を止めた。何度も顔を合わせるうちに、やがて手を振り合うようになり……いつしか、二人で食事に出掛けるようになった。だが……俺たちは決して祝福されることはなかった。俺には親もなく、なにも持っていなかったからだ。若かった俺たちは、周りの反対を押し切って、その夜、夜行列車に乗った。駆け落ちだった。
    行き当たりばったりの逃避行だったよ。そして辿り着いたのが東京だった。故郷も何もかも姉さんも捨ててな……俺たちは浅はかだったよ」

    父は一度、苦しそうに息を吸った。

    「東京での生活は決して楽だったわけじゃない。やがて戦争が始まり、出兵の準備をしていた時に終戦になった。でも……母さんを一度も大阪へ返してやることもできず、あの世に送ってしまった。もし俺と一緒にならなければ、あんな苦労もしなくてよかったのかと思うと、今でも悔やんで仕方がない。その思いだけで、母さんの位牌とともに大阪へ帰ってきたんだ」

    父の手が、僕の腕を弱く握った。

    「お前は慣れた東京を離れるのを望んではいなかっただろう。でも……結婚すると聞いて、もう思い残すことはないよ。……ありがとな」

    そう言い終えると同時に、父は静かに息を引き取った。

    運命に導かれ***

    12月も暮れになり、父の四十九日もまだ迎えていない。

    1970年12月24日、クリスマス・イブ。
    僕は彼女の家へ向かう。
    またあのトンネルを通り、
    いつものように車ごとエレベーターに乗って――。

    今日は彼女の家でクリスマスパーティーに参加する予定だ。豪華な料理というわけではないけれど、たまご焼き、ほうれん草の胡麻和え、ひじきの煮物、鳥の唐揚げ……和洋が並ぶ小さな食卓に、みんな幸せそうに笑っている。
    それに、彼女のお手製のケーキがとても美味しかった。
    なんだか僕は

    “家庭っていいなぁ”

    としみじみ思った。
    もし自分が家庭を持ったなら、どんな風になるのだろうか。彼女の家は船の上でのとても貧しい暮らしだと聞いていた。なのに、洒落て見えた。
    まるでパリやロンドンのような、どこか遠い国の異国情緒さえ感じられた。
    僕はすっかりご馳走になり、食事のあと二人で船のデッキに出て大阪の夜景を眺めていた。
    そこへ、彼女の飼い犬のマルが息を切らせてやって来た。

    「可愛いね」

    僕がそう言って撫でると、彼女は満面の笑顔でこう言った。

    「元々は野良犬だったのこの子。でも居着いちゃったの」

    その笑顔は、絵に残したいほど綺麗だった。そして思わず彼女を、そっと抱きしめたいと…、強く思った。

    「ねぇ、明日はやめておこうか?」

    彼女がふと真面目な声で言った。

    「お父さんも亡くなったばかりだし…。それにまだ、四十九日も迎えてないのに……」

    「いや、いいさ。せっかくだし会おうよ。なんだか、亡くなった父が
    “遠慮なんかするんじゃねぇぞ”
    って言ってる気がするんだよね。だから明日も会いに来る。いや、迎えに来るよ。そして明日はもう一度トンネルを渡って、僕の家で過ごそう」

    1970年12月25日、金曜日。
    この日の仕事は昼までなので、できるだけ頑張って進めてしまおう。早く帰りたい。そんな気持ちでいた。
    ところが、一人が風邪で欠勤。仕方なく書類に目を通しながら、僕はぼんやり考えていた。

    ――彼女は今、何をしているのだろう。

    時計を見ると8時ちょうど。
    帰り道、車で西九条駅近くの店に立ち寄り買い物を済ませた。
    喫茶店で電話を借り、彼女に

    「9時頃になる」

    と伝える。
    街並みはまだ活気づいていた。
    クリスマスということもあり、安治川トンネルには行列ができている。エレベーターもフル稼働だ。

    ようやく順番が回ってきて、
    車ごとエレベーターに乗り込む。
    トンネルの中は、この日は薄い霧がかかっているように見えた。
    どうしたのだろうと思いつつ、向かい側のエレベーターへ車を乗せる。
    カーラジオからは、ビング・クロスビーの静かなクリスマスソングが流れていた。僕もそのリズムに少し酔いしれながら、貧乏ゆすりをしていた。

    「やっと乗れた!」

    そう思った、瞬間だった。
    目の前が真っ暗になり、時間が止まったような感覚に襲われた。
    けれど、その間もクリスマスソングだけは耳元で小さく響いていた。
    しばらく…。気を失っていたのかもしれない。

    目が覚め、扉が開いた瞬間

    『――光と煙に包まれた』

    僕は反射的に車を走らせ、外へ出た。
    何が起こったのだろう。
    そう思い、辺りを見渡す。

    "大きな鉄道橋?いや…'少し離れた場所に背の高いビル?それに、道路が綺麗に舗装されている?"

    僕は車をその場に停め、歩いてみた。
    いつもなら活気で満ちている“きらら九条商店街”も、どこか閑散としている。
    9時前だからなのか?
    でも……何かが“違う”。
    僕は咄嗟に彼女の家があった辺りへ向かってみる。だが、そこにはたくさんの、あの小さな船の姿はどこにもなく、ただ静かに夜風が流れているだけだった。

    仕方がなく…。近隣にあったはずの叔母の家を探した。しかし、その場所には途轍もなく大きなビルが建っていた。僕はそのビルの駐車場の一角に車を停め、座席にもたれかかった。
    そして、気づけば深い眠りに落ちていた――。

    新たな場所へ***

    2025年12月25日、木曜日。
    和恵は分譲マンションの管理事務室で、残っていた書類を片付けていた。
    そのとき、スマートフォンが小さく震えた。

    「もしもし?」

    電話の相手は夫の博敏だった。

    「ちょっと聞いてくれよ」

    「あなた、酔ってるの?」

    「そんなわけ無いやろ。……っていうかさぁ、お客さんなのか? 俺の駐車場に見慣れん車が停まってんねんけど」

    「はぁ? 私は知らないわよ。今ちょっと忙しいのよね」

    そう言い放って、和恵は電話を切った。

    一方の博敏は、恐る恐るその車に近づいた。目の前の車は、どう見ても昭和の時代を思わせるレトロカー。なのに、驚くほど美しく手入れされている。

    「なんやこれ……めっちゃ綺麗やん」

    興味を抑えきれず、窓を軽くトントンと叩いた。

    「おーい兄さん、ここ俺の駐車場なんや。勝手に停められたら困るでぇ」

    しかし、ハンドルにもたれかかった若い男は微動だにしない。
    ただ事ではないと思った博敏はドアを開け、思わず声をかけた。

    「お前、大丈夫か?」

    その言葉に、男、――つまり「僕」はかすかに頷いたが、そのまま意識を失って倒れた。

    目を覚ますと、そこはふかふかのベッドの上だった。

    「気が付いた?」

    優しく声をかけてきた女性に、見覚えはない。ここはどこなのだろう。そもそも、夢なのか現実なのかさえ分からない。言葉を探して黙っていると、その女性は続けた。

    「あなた、どこから来たの? 市街のほうから来て、迷ったんでしょ?」

    僕は全く意味がつかめない。

    「まあいいわ。今夜はゆっくり休みなさい。この部屋ね、息子の部屋だったの。23歳で亡くなったのよ……。」

    和恵は少しの間、押し黙ると、その後…。

    「とにかく夕飯を食べて、今日は泊まっていきなさい」

    そう言い残し、部屋を出ていった。
    周りを見渡すと、楽しそうに笑う若い男性の写真。棚にはスポーツ大会のトロフィーがいくつも飾られている。

    僕はリビングへと向かった。すると、さっきの女性が「こっち」と手招きした。ダイニングテーブルの上には、見たこともないほど豪勢な料理が並んでいた。

    「遠慮はいらないのよ。ほら、コロナの時期なら誰かを泊めるなんて絶対できなかったけど、今はもう落ち着いたしね」

    彼女は微笑んだ。

    「私は奥菜和恵。そして、こちらが夫の博敏さん。あなた、お名前は?」

    「……山井田礼一といいます」

    「礼一さん。平成生まれだよね?にしてはなんだか珍しい名前ねぇ、今の若い子にはあんまりいない気がするわ」

    すると博敏が、冗談めかして言った。

    「お前、もしかしてタイムトラベルでもして来たんちゃうか?」

    僕は意味が分からず戸惑う…。

    和恵が肩を叩いて笑った。

    「なに言ってるの。ほら、この人、市外から来たのよね?」

    僕は首を傾げた。「市外?……」
    和恵は窓から外を指した。

    「だって、大阪ナンバーだったじゃない」

    意思とは裏腹に、僕は言葉を失った。
    後で博敏の車を見ると、ナンバープレートには「なにわ」の文字。

    ーーひょっとして僕は、隣の区に来たわけではないのかもしれない…。

    翌朝。

    「お世話になりました」

    と頭を下げて家を出ようとしたとき、和恵に呼び止められた。

    「礼一さん……ちょっと待って」

    玄関で振り返ると、和恵は静かに言った。

    「あなた、遠くから家出してきたんでしょ?」

    「え……?」

    「分かるのよ。私ね、もともと千住の生まれなの。あなたのその言葉遣い、なんとなく故郷を思い出すの…。 生粋の大阪の人じゃないんでしょ?」

    僕は返せず、ただ俯いた。
    続けざまに、和恵は胸の奥の痛みを吐き出すように言った。

    「その淋しそうな目……ね。遠くに行ってしまった我が子を見てるみたいなの。私は息子のこと、何も知らなかった。どんな悩みを抱えていたのかも。……自殺してしまったの。後悔してもしきれないわ。居なくなった人は、もう帰ってこないから」

    そして、ふっと優しい声に戻った。

    「もし行くところがないなら、うちに住まない? 息子の部屋、使っていいのよ。なんとなく……あなたなら許せるような気がするの」

    僕は、言いかけた言葉を飲み込んだ。

    (別に家出してきたわけじゃ……)

    そう言おうとした時、玄関のカレンダーが目に飛び込んできた。

    2025年12月26日、金曜日。
    令和7年ーー。

    僕は、息を呑んだ。

    そして…。和恵の分譲マンションで一緒に暮らすことになった。

    「礼一さん。私ね、私立大学の学長をしているの。それにこのマンション全体の管理も任されていて、毎日とても忙しいのよ。夕飯が遅くなることも多いけど、夜は必ず作るから、毎日お話しましょ。なにかあったら遠慮なく言ってね」

    僕は少しでも和恵の負担を減らしたくて、言った。

    「じゃあ、僕が買い物に行きますよ。夕飯の支度にも早く取りかかれますし、必要なものをメモに書いておいてくれたら」

    すると和恵は急に、思い出したように言った。

    「あっ、メモ帳もいいんだけど……ねぇ、礼一さん、スマホは? iPhone? それともAndroid?」

    「……え?」

    僕には、和恵がなにを言っているのかがまったく理解できなかった。

    ただ、どうやら

    「持ち物のひとつ」

    らしいとなんとなく推測し、

    「実は、ここに来る前に失くしてしまって……」

    すると和恵は、優しい声で言った。

    「言わなくていいのよ。誰にも見つかりたくなくて置いてきたんでしょ?」

    僕は、つい頷いてしまった。

    「じゃあ、新しいのを一緒に買いに行きましょう。次のお休みにね」

    和恵はとても嬉しそうだった。

    休みの日。
    和恵の車で携帯ショップへ向かう。
    店員が僕に尋ねた。

    「お客様、どのタイプの携帯がよろしいですか? 色は? スペックは?」

    「えっと……最近はどんなものがあるんですか?」

    「こちらなんか、とても使いやすいですよ」

    差し出された『スマホ』を僕はまじまじと見つめた。

    「どうぞ、自由に触ってみてください。見本ですので」

    そう言われても、どう動かせばいいのかわからない。店の奥では、若い人たちが当たり前のようにスマホを指でなぞっている。それを見て、僕もなんとか真似してみたが……訳が分からない。

    結局、

    「……これにします」

    と答えるしかなかった。
    契約書に記入する和恵の横に座りながら、店員の声を聞く。

    「お値段は保証料込み、消費税込みで128,000円になります。分割になさいますか?」

    「いえ、ここで払います」
     
    "保証料?消費税?って一体…"
    その金額に、僕は思わず息を呑んだ。
    僕のいた時代なら、2か月分の給料に相当する。そんなもの、とてもじゃないが返せない。

    「……あの、僕の給料じゃ返せなくなります」

    そう言いかけると、和恵は首を振った。

    「大丈夫よ。そんなに遠慮しなくていいの。スマホがないと不便でしょ? GPSも地図も見られるし、知らない土地でも迷わないんだから。そして…勿論キャッシュレス決済も入れておくから自由に使っていいのよ」

    和恵のその言葉に、もうなにがなんだか分からない。僕は頭を抱え込みたくなった。

    「家に帰る前に、ちょっと寄りたいところがあるの。いいでしょ?」

    和恵に連れられて着いたのは、ヘアサロンだった。

    「理髪店?」

    「ううん。美容室かな。ここ、私の行きつけなの。ほらっあなたってとっても可愛らしい顔をしてるし、その黒髪すごく綺麗。だからあえてカラーはしないほうが素敵。でもね、なぜかしら…。少し今風じゃないのよね。ここで整えるだけ、格好よくしてもらいましょう」

    僕は椅子に座らされ、髪を整えられ、気づけば……
    まったく違う自分が、鏡の中にいた。

    『でも、これはこれで悪くない』

    「随分イケメンになったじゃない?それになんとなく瑛大に似てるかも…」

    そう言う和恵に

    「…。イケってなに?なにがなんだか…」

    (それに僕は…似てる…息子さんに…)

    そんな困惑する僕を元気付けようとしたのか、和恵は帰りにカフェに立ち寄った。

    「お腹空いたでしょう?」

    「カフェ?」

    着いてみて、また驚いた。
    まるで洋館と和の家屋を合わせたような、不思議で美しい空間。僕には2025年の世界は、なにもかもが眩しく見えた。

    家に帰ると、清潔な部屋。
    タイル張りではなく、湯気の立たない最新式の風呂。風が出るトイレ。
    どれをとっても、僕の知っている世界では考えられないものばかりだった。
    僕は、もらったばかりのスマホの黒い画面をじっと見つめた。

    「説明書はないのですか?」

    和恵は笑った。

    「説明書はね、メーカーの型式を検索したら見られるのよ」

    (検索? 型式?)

    言葉の意味さえ分からない。
    そんな僕を見て、和恵は真剣な顔になった。

    「昨日ね、夢を見たの。息子の瑛大が出てきて……“礼一さんのこと、よろしく”って言ってたの。あなた、本当に未来から来たんでしょ? あのトンネルを超えて」

    僕は言葉を失った。

    「……なぜ、それを」

    「分からない。でもね、なぜだか……そう思ったの」

    僕は、静かに頷いた。
    和恵は立ち上がり、椅子を僕の前に置いた。

    「さあ、ここに座って。スマホの使い方、私が教えてあげる。」

    その夜、僕は電話でもテレビでもない、不思議な機械

    ――スマホの使い方を覚えていった。

    ぎこちなくても、触れば触るほど楽しくなっていった。和恵がふっと笑って言った。

    「そうだわ、礼一さんって名前……呼び難いし、ちょっと今風じゃないのよね。だから今日からレイくん。あなたは“レイ”くん。文字も変えましょう。山井田“玲”。どう?」

    "…なぜ?"

    ――僕の名前は、
    今日から“山井田 玲(レイ)”になった。

    礼一は玲になった。***

    暫くして、僕は未来での生活にも少しずつ慣れてきた。買い物も一人で出掛けられるようになり、歩きながら考える。

    ――この時代の買い物って、商店街だけじゃないんだ。

    スーパーマーケットは僕の時代にもあったが、雰囲気はまるで別世界。それに…。 コンビニ と呼ばれる小さな店、食品から飲み物までなんでも買える ドラッグストア。便利すぎて驚くばかりだった。

    「あっ、そうだ!」明日、僕の住んでいた最寄り駅、『西九条駅』へ行ってみよう。

    翌日。西九条駅に立つと、僕が知る昔の面影を残しつつ、どこかレトロで新しい空気が漂っていた。あの頃の国鉄は “JR” という名前に変わり、不思議な気分になる。安治川トンネルは車では走れないし、もう乗せられないようだったが、人や自転車が行き交う歩道とエレベーターだけは健在で、昔と同じように賑わっていた。

    (なんだかとても不思議な気持ちになる…)

    遠くには鉄道の大きな橋。これも変わらず力強く走っている。僕は2025年という時代が、どんな年なのかまだ掴めずにいた。しかしひとつ気になる事実を知る。この時代では、2020年の万博が翌年にズレ込み、2021年に既に開催されたということ。興味が湧いた僕は、その動画や写真をスマホで検索してみた。気づけば、日々その映像に魅せられ、僕は未来へ思いを馳せるようになっていた。

    そんな時、和恵が飲み物を持って部屋に入ってきた。

    「ねぇ、ちょっと話があるの。
    私は大学を経営してるって話したでしょ? もし良かったら、その大学に通ってみない?」

    突然の提案に戸惑いながら…僕は頷いた。

    「この世界を知るにもいいし、お友達もできるわ。事情は話さなくていいの。まずは簡単な試験を受けてみない?」

    そう言って、和恵は入試の説明書を机の上に置いた。

    大学生になるのか――。そう言えば
    1970年の僕は進学はせず、市役所へと就職していた。だから、社会人を経て大学生になるという事実は、どこか不思議で、けれど悪くない気もした。
    いっそ元の世界に帰れないのなら、ここでの人生を考えなければならない。
    その前に

    (僕は何かを忘れている…)

    あの時の、あのトンネルでの衝撃のせいなのか…どうしても思い出せない。

    そして大晦日がやって来た。
    年末商戦の賑わいは、昔と変わらないが、この時代は宅配でなんでも揃うという。空を飛ぶ配送の話まで耳にして、水門作りに携わってきた僕としては非常に興味深く感じた。
    そんな時、フラワーショップの前で立ち止まった僕は、突然激しい頭痛に倒れ込む。

    あの青い花…。僕は青いムスカリの花を見た瞬間なにかが蘇る気がした。そう…青いカーネーションのことを。

    その瞬間僕の記憶はハッキリと蘇った。…涙が滲む。なんども彼女の顔を思い浮かべては消え…。
    なにより胸を締めつけるのは

    ――彼女に会えないことだった。

    そうだった。僕たちは婚約していて、結婚も目前だったのに…。それでも考えすぎると心が壊れそうで、あえて深く考えないようにしていたのだろうか。

    『あの頃に帰りたい…』

    その気持ちだけで、ただあのトンネルを訪れた。渡ってはまた渡り、なんどもなんども繰り返していると。警備員に不思議そうな顔で見られた。
    募る思いは消えそうにない。でも帰れない以上、迷惑もかけられない。
    だからこそ僕は出来る限り冷静を装った。年末の買い出しに和恵に付き添い、気を紛らわせた。

    「最近はね、年末休むお店も増えたのよ。私の子供の頃みたい。」

    和恵が笑い、続けて尋ねた。

    「玲くんは、何年からやって来たの?」

    少し黙り、僕は答えた。

    「……1970年。」

    和恵は驚き、目を見開いた。

    「私、1970年生まれなの。」

    ――あの頃、和恵はまだ千住で生まれたばかりの赤ん坊だったのだ。

    買い物を終え、和恵と別れて僕は少し寄り道をした。どうしても、安治川水門を見たかったからだ。街の景色はすっかり変わってしまっていたが、水門は驚くほど綺麗に残っていた。

    昔のままのアーチ型

    ――それがまだそこにあった。

    しかし近い将来、このアーチは撤去される予定らしい。なんだか悲しい気分でいっぱいになっていた。新設祝のあの日を覚えている僕には、複雑な気持ちが広がった。
    嬉しさと寂しさ、その両方を抱えたまま電車で西九条駅に戻る。
    僕の家があった場所には、まるで別の人生が流れているように、違う家が建ち並んでいて、知らない家族が暮らしていた。トンネルの先のきらら九条商店街や、中央線九条駅は残っているものの彼女の家だった船は、もうどこにもない。トンネルを見るたびに胸がざわつく。

    ――この場にいたはずなのに。

    ――けれど、もう帰れない。

    僕はトンネルを抜けず、もう一度西九条駅から電車に乗り、弁天町駅で降り、和恵のマンションまで歩いて帰ってきた。

    明日は正月。そう思った瞬間、疲れがどっと押し寄せてきて、僕は瑛大のベッドで深い眠りに落ちていた。
    きっとそれは、心のどこかで “元の世界へと帰れるのかも” と期待していたからなのかもしれない。

    社会人から大学生へ***

    僕は受験の為に大学の図書館で勉強させてもらえる事になった。同時に街の公共の図書館へも時々通うようになっていた。勉強とは言え僕がいた時代のものとは、なにもかもが変わってしまっていたので、まずはその変化を理解しようとした。必死だった事もあり、彼女の思い出を紛らわす事が出来たのだ。図書館にあるパソコンで、勉強に役立ちそうな資料をまとめたりもした。

    気付くと僕は、この時代にすでに馴染んでいた。新しい変化にも自然に順応していたのである。そんな時、一つの記事が目に飛び込んできた。瞬間、
    胸が“ギュッ”と掴まれたような感覚に襲われた。

    ★「1970年12月25日 トンネル崩落事故」思わず息を飲んだ。
    手が震え、マウスを握る指が少し汗ばんでいた。

    僕は気になってその記事を読む。

    トンネル崩落事故があり、中に車と人が閉じ込められた模様。
    亡くなったとされる人は、山井礼一さん、25歳と見られる。

    しかし死体は見つかっておらず行方不明……

    “礼一”…?

    僕の胸のあたりがドクンと跳ね、全身が一瞬冷えた。

    僕は山井田礼一だ。

    それでも、まるで自分の死亡記事を読まされているようで、背中に汗がスーッと流れるのを感じた。

    違うのか?別人なのか?
    それとも
    ——どこかで世界線がずれてしまったのか?
    頭が真っ白になって、椅子に深く座り込んだ。

    「なら…。もう彼女に……会えないのか?」

    そう思った瞬間、胸の奥が締め付けられて、思わず机に手をついて俯いた。
    必死で調べてみた。
    けれど調べれば調べるほど、心がざわついて落ち着かない…。

    なんどページをめくっても、視界が滲んでくる。僕は街の図書館で、気付けば頭を抱えていた。呼吸が浅くなり、胸の奥で波が暴れているみたいだった。

    どれほど時間が経ったのか、顔を上げた時にはすでに夕方近くになっていた。帰りに、あの日に出てきた場所——
    九条側のエレベーター跡へと、再び行ってみた。

    『しかし、そこは閉じられたシャッターと、ただのコンクリートの壁…』

    冷たい空気の中で、僕の鼓動だけが妙に大きく響いている。

    「どうして……」

    声に出した瞬間、喉が詰まりそうになって、涙がこぼれそうになるのを必死でこらえた。

    俯いて立っていると——
    そこへ

    「ねぇ貴方、和恵さんとこの確か…。瑛大くんのいとこの子よね?」
    その声に振り返ると、
    そこには、この前のヘアサロンの店主がいた。

    「あっ、はいっ。確か理容院……
    ヘアサロンの」

    「私の名前は奈美子よ。吉岡奈美子」

    「奈美子さん…」

    「どうしたの?こんなところで」

    「いや、図書館の帰りに……あの、商店街に立ち寄ってみようと思って」

    「と言っても、閑散としてるでしょ? 何か買った?」

    「いいえ、何も」

    「そう」

    僕は奈美子さんと一緒に歩いてトンネルを越え、西九条駅から電車に乗った。

    「あっ、これ良かったらどうぞ。買い物できなかったんでしょ?」

    そう言って、お菓子の入った袋を僕に手渡してくれた。

    「さっきコンビニで買ったのよ」

    「いいんですか? お客さんに出す予定だったものですよね?」

    「いいのよ。ほら、またそこのコンビニで私は買って帰るから。オバサンの親切は受け取っときなさい。元気なさそうやん…。無理しないようにね」

    「それじゃ、また」

    弁天町駅を出たところで、奈美子さんは手を振って帰っていった。
    周りはもうすっかり暗い。
    夜の冷たい風が頬に刺さった。
    買い物袋を握る手に力が入りすぎて、指が少し痛い。
    胸の奥の重さだけが、まだ消えない。
    でも和恵が帰る前に、食事の下ごしらえをしないと。自分にそう言い聞かせ、僕は早足に家へと向かった。

    悲しみと新たな出会い***

    暫くして、僕は大学受験を終え、無事に大学生になった。とはいえ、多分和恵の計らいもあって、入学できたのだろう。そして本日は、初めて大学へ行く日だ。
    僕は髪を整えて部屋から出た。そのとき和恵が、

    「そんなにペチャンコではダメ…。でも一周して今風かも?」

    と言いながら、僕の髪をもう一度軽く整えてくれた。

    ――つまり、この時代の髪型とは少しだけ合っていないってことなのかもしれない。そう思っていた…。1970年の世界では、お世辞にも異性からそこまで気に掛けられる様には思えなかった。細身でどことなく幼く見える…。
    そんな頼りない雰囲気の僕だから、まさか女性から気に入られるような存在になれるなんて、これっぽっちも思ってはいなかった。ところが大学に着くやいなや、周りの視線を感じる。どうやらこの大学は、女性が多いらしい。

    「うっわー、久々の編入男子キタ。あの子めっちゃカワイイやん…ヤバくない?」

    「確かにメロい…激メロ」

    複数の女学生…。いや生徒が何かを囁いている。

    けれど僕には、その意味がよく分からない。ひとりの女の子が近寄ってきて、僕をじっと見ながら、

    「……溶けそう」

    と言い放ち、照れたように去っていった。

    (え?なにが?外はそこまで暑くもないのに、溶けるって…?)

    僕にとっては、彼女たちの発言はどれも全く分からず、不思議なことばかりだった。

    しかし、そんな日々を過ごすうちに、男女問わず親しい仲間ができた。中でも佐久田結衣とは、特に親しくなっていった。ぎこちない態度の僕を、結衣はなんども助けてくれた。僕が恥ずかしそうに笑うと、結衣はいつも優しく笑い返してくれた。

    『気がつけば、僕たちは惹かれ合っていた』

    二人でデートすることも増え、夏には海へ行き、花火大会にも足を運んだ。

    しかし――僕の心の奥には、過去の記憶の中にいる彼女の姿が、どうしても薄れてくれなかった。
    嘗て結婚の約束までした、あの彼女。
    僕がいなくて寂しがって、泣いているのだろうか。それとも、僕は“亡くなったことになっていて”、その悲しみを忘れようとしているのだろうか。
    もう確かめる術はどこにもない。
    彼女を知る方法も、辿る手がかりも…。僕は悩み、俯いた。

    ――だからこそ、結衣に本当のことを伝えよう…。

    2026年のクリスマスが近づく頃、きらら九条商店街は昔とは違い、閑散としていた。その姿を見るたびに、胸の奥が少し締め付けられる。
    僕は結衣を呼び出そうとした。
    スマホを握り、メッセージをなんども書いては消し、再び書いては又消した。どこまで伝えるべきなのか。
    気持ちは、重く沈んでいく…。
    やがて結衣からメッセージが届く。

    『勿論、一緒に過ごそう』

    ーーそれでも僕の心は、晴れなかった。

    当日。待ち合わせに向かう途中、道沿いの花屋で青いカーネーションを見つけた。その色を見た瞬間、僕の心の奥の思い出が溢れ返り、また涙が滲みそうになった。だから僕は、その青い花を選ばず、オレンジ色のカーネーションを手に取った。

    『何かを手放し、何かを受け入れるような…』

    そんな感覚だったのかもしれない。
    結衣も大切だ。でも、当時の彼女も忘れられない。僕は弁天町駅ではなく、西九条駅で結衣と待ち合わせをした。
    今日は、少し歩きたかったからだ。
    そんなとき買った、1輪のオレンジ色のカーネーション。僕の時代では珍しい色だった。だからあえて選んだ。
    まるで過去の思い出をそっと添えるように。結衣が笑顔で手を振りながら駆け寄ってくる。

    「ねぇねぇ……ちょっとだけ付き合ってほしい場所があるんやけど、えぇかな?」

    息を弾ませながらそう言い、僕の持つカーネーションに気づいた。

    「え、それ、どこで買ったん?」

    僕はすっかり渡すのを忘れかけていたことに気づいた。

    「これ……結衣に」

    そう言って花を差し出すと、結衣は驚いた顔をして、そしてその表情がぱっと明るくなった。

    「めっちゃ嬉しいやん。有難う」

    そう言って、笑った。

    2026年クリスマスイブ。
    結衣と会った僕は、先程辿ってきた道のりを再び戻る。それは、僕が買ったあのオレンジ色のカーネーションをもう一度買う為だった。
    西九条駅からあの安治川トンネルへ潜り、再び地上へと上がっていく。異様に長い階段は、どこかあの時代を思い起こさせる。花屋へ向かう途中、僕は何気なく尋ねた。

    「花を買って、どこかに持ってくの?」

    「そうなの。実はうちのお婆ちゃんが先月から入院してるんよ。もう80歳くらいなんやけどねぇ」

    「そうなんだ。それは大変だね」

    「やから玲くんの持ってたそのカーネーションのセンスが、なんかバズりそうなくらいいい感じやったから」

    「え?バズ?」

    (まぁいいか、ここは笑って誤魔化そう…)

    少しハニカみながら、僕は言った。

    「それならお婆ちゃん、きっと喜ぶと思うよ。オレンジ色は元気が出る色だしさ」

    照れ隠しと曖昧な言葉でごまかしたつもりだったが…。結衣はとても嬉しそうだった。その笑顔は、僕の送った婚約指輪を喜んで嵌めていたあの頃の彼女を思い出させた。
    僕たちはそのまま戻ることなくバスに乗り、病院に着いた。小振りな花束を抱えた結衣。その姿があまりに美しく、思わず見惚れてしまった。
     
    「ココ」と結衣が言い、病室に入ろうとした瞬間、僕は身体が震えた…。

    『十河百合子――。』

    驚きを隠せず、ゆっくりと病室に入る。結衣がその沈黙をかき消すように、話を続ける。

    「うちのお婆ちゃんよ。名字が違うのは、正式には母方のお婆ちゃん。父方のお婆ちゃんは、私が二歳の時に亡くなったの。だから母方のお婆ちゃんと一緒に暮らしてるんよ」

    「母方の……。十河百合子さん…」

    その愛らしい姿は、長い年月を重ね、孫を見守り、そして優しい笑みを絶やさない人だった。

    (こんな形で再会するなんて…。)

    僕が押し黙っていると、百合子が話し始めた。

    「孫が、いつもお世話になります。…そう言えば、どこかでお会いしたかしら?」

    僕は少し沈黙した後、咄嗟に大阪弁で誤魔化した。

    「あの、いいえ。結衣さんとは最近友達になったばっかりで…。今日はクリスマスイブやし、二人でお見舞いに来たんです」

    その拙い大阪弁に、結衣は首を傾げ不思議そうな顔で僕を見ていた。
    廊下に出て花を生ける。そして結衣が尋ねた。

    「ねぇ、どないしたん?いきなりなんで大阪弁なん?」

    「いやぁ、ほら、結衣のお婆ちゃんに、ちゃんと通じるように…あはは」
     
    「てか、もうなんちゃってやん(笑)」

    そう言って肘で軽く突き、犬のじゃれ噛みのように、僕の袖を引っ張りながら笑う結衣。

    「僕が持つよ」

    と言うと、

    「いらないよーだ!」

    そう笑い返された。

    再び病室に入ると、十河百合子の姿は、紛れもなくあの時の彼女だった。昔の面影を残しつつ歳を重ね、あのトンネル崩落事故以降、彼女は新たな人生を歩み、そして結婚し子供を育てていた。その子供が、つまり結衣の母親で、今、結衣はここにいる。

    (僕はどうしてここに来たのだろう。なんのために…)

    百合子と結婚していれば、幸せに暮らせたのではないのか。悔しさで胸が張り裂けそうになった。しかし、今は理解できず、この状況を受け入れるしかない。あまりに残酷で悲しく、何度も心が締め付けられた。

    「ごめん、ちょっと席を外すね…。
    結衣は、ゆっくりお婆ちゃんと話していて」

    そう言って僕は少しその場を離れた。
    一人になりたかったからだ。

    帰り道、浮かない顔で歩く僕に結衣は寄り添った。

    「大丈夫?疲れちゃったね。実は…、お婆ちゃん、認知症になりかけてるから、時々わけわからん事言うけど、気にせんとってね」

    「うん…」

    「それより、景色見ながら歩いてみる?」

    「あっ、うん…」

    結衣は腕を組んできて、楽しそうに笑う。煌めくクリスマスイルミネーションの中を僕たちはゆっくりと歩いていた。 

    難波で人気の中華食堂は、後に豚まん屋で有名になっていた。それを買い二人は駅のホームで頬ばった。

    「久しぶりにここに来たわ」

    そう言い、結衣は楽しそうに笑った。

    僕にとっても久しぶりの梅田は、あの頃とは別世界のように輝いていた。僕は昔と比較しながら歩いたが、変わり果てていてよくわからなかった。当時は横丁のような飲み屋街や、古い土産屋があったが、今は姿を消している。しかし、見覚えのある店もいくつか残っていた。カレー屋も姿を変えていたが、昔からあったものなのかもしれない。当時はカウンターのみの小さな店で、なにもかもが簡単で、目の前の豊かさを皆が精一杯楽しんでいた。そんな戦後生まれの僕たちにとって、この豊かさは当たり前ではなく、貴重なものだったのだろう。僕は1945年10月生まれだからだ。

    結衣と僕は食事を済ませたあと、少しカフェでお茶を楽しんだ。それから送っていくことにした。

    「家に入っていく?」

    結衣がそう言ったけれど、もう遅いので

    「今日は帰るよ」

    と答えた。

    「あっ、ご両親に挨拶だけ」

    そう言って軽く会釈して帰った。
    寒い夜更け。住宅街のイルミネーションだけが風に揺れ、きらきらと光っていてキレイだった。

    僕はひとり電車に乗り、最寄り駅へと向かった。弁天町駅のイルミネーションはこの時代らしく、淡い色合いでとても洒落ていた。

    駅構内で可愛らしいお菓子を見付け、一つ買う。そして閉店ギリギリに奈美子へ届けた。

    「この間は、有難う御座いました」

    そんな僕に奈美子は笑顔で

    「気なんか遣わんでもいいのに」

    と笑った。奈美子の店を出た後、夕暮れの帰り道は少し長く感じた。

    「ただいま」

    そう言って家に入ると、和恵はまだ起きていた。

    「お帰りなさい、玲くん。今日は楽しめた?」

    「あっ、うん」

    そういったあと、僕は微笑んだだけで部屋に戻り床に就いた。

    ――その夜、不思議な夢を見た。

    そこには瑛大がいた。

    「僕の部屋、気に入った?いい部屋だろ?」

    「あ、本当……使わせてもらっています。ごめんなさい」

    そう言うと、瑛大は笑った。

    「まぁそんなに恐縮するなよ。ところで、君がここへ来た理由を知りたい?」

    「えっ……どうして瑛大さんがそれを?」

    「だってこれは僕が起こした“奇跡”だからね」

    「奇跡……?それは、どういった意味ですか?」

    すると瑛大は言った。

    「実はね、僕は自殺したんじゃないんだ」

    「えっ?」

    「それを君に証明してほしかった。だから――」

    そう言われた瞬間、景色が変わった。

    1970年12月24日。
    僕はその夜、百合子の自宅でもある船の上で一緒に過ごしていた。そして翌日のクリスマス。仕事中の僕を、もう一人の僕が、どこか上から見下ろしているような視点で見ていた。そのあと、車に乗り、エレベーターに乗り込む場面。そこで再び“夢の世界”へ戻された。

    瑛大は話を続けた。

    「君はね、あの中にいてもこちらに来たとしても、実はあの日に亡くなっていたんだ…。でも君はこっちでは生きている。そして僕は、無念にも“自殺”として片付けられてしまった。本当は……殺されたのにね。」

    僕は息を呑んだ…。

    瑛大は続ける。

    「その後、案内人に聞いたんだ。

    『僕は殺されたのに、なぜ自殺になってるのか?』

    って。
    そしたら案内人が言ったんだよ。

    “あなたはまだ生きています。戻ったところで脳死状態でした。従って
    そのまま生き続けることになります。”

    「――ってね」

    案内人は更に続け、

    あなたは選択ができます。その状態で生きるか…。
    あるいは──1970年12月25日に既に亡くなった男性を自身の魂で救い出し、そして与え、別の人生を見守りながら歩ませるか。”」

    僕は思わず口を開いた。

    「1970年に亡くなった……男性?」

    「そうだよ…。山井礼一さん。
    君の許しがあれば、形は変わるけれど僕の魂は君のものとなり、このまま生き続けることが出来る。2025年の新たな魂として君に吹き込み、そして自然とその場に存在する事が出来るんだ。君は僕の弟として生き直すことができるはず…」

    僕は言葉を失った。

    瑛大は僕の目を見て言った。

    「僕はね…。とっくに決めてたんだ。
    もう戻ってもなにもできない。
    だったら……君にこの命を譲りたい。兄として心の中で生き続けたい。だと言って君を乗っ取るわけじゃ無いよ。魂はこれからも君のまま。僕が出来る事はもうなにもない。でも君の思い出と力になれる事だけなんだ」

    「でも……僕は結衣のことが……。
    もしこのまま受け入れてしまえば、彼女のことを忘れるの?」

    そんな僕の返答に瑛大は少しだけ目を伏せた。

    「実は……僕も結衣のこと、ずっと好きだったんだ。君もそうだよね。百合子さんとの事は、本当に残念で仕方がなかった。だからその事実を僕は知って、案内人に頼んだんだ。この恋を決して終わらせないようにしたいと…」

    僕は胸の奥がぎゅっと締め付けられた。

    そして瑛大は柔らかく笑った。

    「これからの人生。結衣と…。幸せになれよ!」

    そう言って瑛大は続けた。

    「それと最後に…。戸棚の奥に隠し扉がある。そこに僕が殺された“証拠”を残してある。犯人の写真と名前、そしてスマホ…。持っていけば、必ず捕まるよ」

    案内人が横から、

    「はい、間違いありません」

    と告げた。
    次の瞬間、柔らかな光に包まれ、僕は目を覚ました。

    「……夢、だよね?」

    でも心の奥で分かっていた。
    もう元の世界へは戻れない…。
    そして…。僕自身が、そう選んだのだと…。
    そんな風に思うといたたまれなくて、涙が溢れた。

    それから、
    ──僕の新たな日々が始まった。
    兄という存在が心の中に芽生え、僕は“奥菜玲”として生きていた。
    和恵がドアをノックした。

    「起きてる?今日はお兄ちゃんの命日よ?」

    僕は着替えて、家族と墓へ向かった。

    そこにはなぜか山井礼一だった頃の父の墓もあった。

    僕はこっそりその墓に手を合わせた。

    そして…

    「瑛大を殺した犯人、捕まれば……」

    和恵がそう言うと、僕は答えた。

    「大丈夫。もうすぐ捕まるよ」

    その言葉どおり、犯人は直ぐに逮捕された。

    和恵は泣きながら言った。

    「瑛大のこと、本当に悔しい。
    でも玲がいてくれたから耐えられた。
    だから玲…無理だけはしないで…」

    リビングには僕の赤ちゃんの頃の写真が。その隣には、少し年上の兄 
    ──瑛大。

    そして…。

    大学生活は相変わらず「メロい」「映え」の言葉が飛び交い、
    その度に僕は首を傾げてしまう。

    帰り道、結衣と訪れたあの赤いアーチの傍で、僕は勇気を出して打ち明けた。

    「この水門ができた時、僕も携わってたんだ。半世紀以上前の話だけれどね」

    結衣は驚きながらも、静かに受け止めてくれた。

    そして…。

    『百合子が亡くなった日』

    僕たちは、赤いアーチの見える場所で、夕焼けが夜景へと変わるのをただずっと見ていた。
    この街も、僕も、結衣も、いつか風化していく。
    あの水上にあったたくさんの船も今はもう無い。
    そしてアーチも、トンネルも

    ──いつか消えていくのかもしれない。

    それでも、この街は止まらない。
    そして、

    2030年4月。

    「僕たち……結婚しよう」

    それは僕の言葉と同時に、兄から貰った不思議な勇気でもあった。

    新たなダイヤモンドの指輪を、結衣へ
    と手渡す。

    「イエローダイヤモンド……珍しいね」

    結衣は、それ以上なにも言わずとも、すべてを理解してくれているようだった。

    「お婆ちゃんの形見分けで貰った指輪……トパーズとどっか似てる。なんか嬉しい」

    そう言って涙を浮かべ、どこか寂しさを滲ませながらも微笑む結衣は、その指輪をそっと優しく指に嵌めた…。

    赤いアーチの向こうへ
    〜君と過ごした日々〜

    終わり

    #創作大賞2026 #エンタメ原作部門

     
     
    境界線の旅人(ボーダー・ウォーカー) 昭和の金魚鉢のようなちょっと静かで味のある思考メモ。 クリエーターショップ🔗 豆狸稲荷本舗https://suzuri.jp/mameda-inari

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