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【靴を脱いだら話をしよう〜整形外科看護師が見つめる足の物語〜】パート②

    顔は笑顔で嘘をつく。

    口は平気で嘘をつく。

    だけど足は嘘が下手くそだ。

    やっぱり今日も私は、ナースシューズを履いている。

    そして相変わらず、整形外科の待合室は賑やかだ。

    問診票に書かれた文字の向こう側。

    靴を脱ぐと、その人らしさが見えてくる。

    ◇

    6足目:湿布一枚分のぬくもり

    〜ひとり残った男〜

    人は、痛いから病院へ来るとは限らない。

    「先生、いつものよろしくな」
    診察室のドアを開けるなり、そう言って入ってきたのは79歳の男性だ。
    変形性膝関節症で、何年も通院している顔なじみである。

    「いつものって居酒屋じゃないんだから」
    医師は笑いながら答える。

    男性は手慣れた様子で、診察台にどかっと寝転んだ。
    定期的に膝関節にヒアルロン酸注射をしてもらうことが、彼の言う「いつもの」なのだ。
    ズボンの裾を膝上までまくると、細くなった足が現れる。
    私は、彼の膝下に小さな枕を入れて体位を整えた。
    医師が、両方の膝関節に注射をする。

    それが終わると、彼は診察のたびに誰かに湿布を貼ってもらおうとする。
    自分で貼れる場所なのに。

    「家で貼れますよね?」私が聞くと、
    「貼れる」と答える。
    「じゃあ自分で貼ってください」
    「嫌や」即答だ。
    このやり取りも、もう何年目になるだろう。

    診察室には笑いが起こる。本人も笑っている。医師も笑っている。
    結局いつも、誰かが貼ることになる。

    若い頃は力仕事をしていたという。
    今は、少しO脚になった膝をかばいながら歩いている。
    それでも日課のように、自転車でリハビリに通ってくる。雨の日も、寒い日も、暑い日も。

    「今日は暑いですね」
    私が湿布の袋を開きながら言うと、「病院は冷房きいとるからな」と笑った。

    待合室に長くいる理由を、本人は隠そうともしない。
    膝のリハビリが終わっても帰らない。
    新聞を読んだり、顔なじみと話したりしている。
    時々、受付のスタッフにどうでもいい話をして困らせている。
    たまに下ネタも混じる。怒られる。
    それでも懲りない。

    「奥さんは?」
    昔、何気なく聞いたことがある。
    「十五年前に死んだ」
    そして続けた。
    「女が先に死んだらあかん」

    それ以来、何度も聞いている言葉が
    「残された男は哀れや」だ。
    そう言うたびに、私は適当に相づちを打つ。
    本人も、本気で同情してほしいわけではないのだと思う。

    だって彼は、そのあと必ず楽しそうに予定を話し始めるからだ。
    今日はカラオケ喫茶、明日は銭湯、その次はマレットゴルフにサウナ…。
    そして、晩ごはんは馴染みの蕎麦屋。
    話を聞いていると、私より忙しい。

    湿布を貼り終える。
    「はい、できましたよ」そう言うと、彼は満足そうに膝をさすった。
    「やっぱり人に貼ってもらう方が効くな」
    いつもの台詞だった。
    私は笑いながらゴミ箱へ包装紙を捨てた。

    診察が終わり、彼はゆっくり立ち上がる。
    「ほなな」そう言って診察室を出ていった。

    しばらくして窓の外を見ると、駐輪場で自転車の鍵を外している姿が見えた。
    少し曲がった背中。少し不自由な足。
    それでも慣れた動作で自転車にまたがる。

    哀れだと言いながら、誰よりも明日の予定を持っている人だ。

    私は湿布の残り香がする診察室で、次の患者さんのカルテを開いた。

    ◇

    7足目:骨の履歴書

    〜化粧品メーカーの彼女〜

    問診票には「51歳・会社員」と書かれていた。

    診察室に入ってきた彼女は、どこか目を引く人だった。
    派手ではない。けれど髪は綺麗に整えられ、肌は明るく、姿勢もいい。
    年齢を重ねる。そのことに、丁寧に向き合ってきた人なのだろうと思った。

    「デスクの角に思いっきりぶつけちゃったんです」そう言って苦笑いした。
    職場は化粧品メーカーだという。
    「結構派手にやりました」

    診察のためにスカートをたくし上げ、パンプスとストッキングを脱ぐ。
    太ももの外側に、打撲後の大きな皮下出血斑。
    赤紫に変化した色が、皮膚の下で静かに広がっている。

    「痛そうですね」私が言うと、
    「痛いんです。それに見た目がひどいですよね」変色した部分を見ながら、彼女は笑った。

    念のためにレントゲンを撮ることになった。

    しばらくして画像がモニターに映し出される。
    医師が言った。
    「骨折はありませんね」
    彼女の顔がぱっと明るくなる。
    「よかった」
    心から安心した声だった。

    ところが医師は、もう一度モニターへ目を向けた。
    「ただね」
    彼女の表情が少し止まる。
    医師が画像を指差した。
    「骨密度、測ったことあります?」
    「ありません」
    「骨梁が粗めに見えるので、骨粗鬆症が隠れている可能性もあります。調べてみますか?」

    私も画面へ目を向けた。
    そこには白と黒だけの世界がある。
    肌の艶も、髪の美しさも、毎日のスキンケアも、こだわって選んだ化粧品も、何ひとつ映らない。
    映っているのは、モノクロの骨だけだった。

    医師が説明を続ける。
    栄養、運動、閉経、女性ホルモン、
    そして若い頃のダイエット歴…。
    彼女は黙って聞いていた。

    やがて少しだけ笑った。
    「若い頃、無茶なダイエットをしました。何度も」
    彼女の声には、少しだけ昔の自分を見つめ直すような響きがあった。

    骨は不思議だ。
    肌なら手入れできる。髪も整えられる。爪も磨ける。
    けれど骨は見えない。
    見えないまま何十年も働き続ける。
    そしてある日突然、
    その人が歩いてきた時間を映し出す。

    彼女は、骨密度測定で骨粗鬆症と診断され、治療を始めることになった。
    打撲部分にはアイシングと圧迫固定の指導をして、診察が終わった。

    彼女は丁寧な手つきでストッキングを履き直した。
    ストッキングが太ももの赤紫のあざを通過するとき、彼女の表情が痛々しい。

    帰り際。
    彼女はレントゲンモニターを見ながら苦笑いした。
    「肌年齢ばかり気にしていたけど…これからは骨年齢ばかり気になるんだろうな…」
    誰に言うでもない独り言だった。

    「ありがとうございました」
    そう言って頭を下げ、診察室を出ていく。
    ドアが閉まる。

    あざは、そのうち消えるだろう。
    けれど今日彼女が見つけてしまったものは、たぶん簡単には消えない。

    骨は嘘をつかない。
    いや…骨は、その人が歩いてきた時間を静かに覚えている。

    彼女が去ったあと、診察室には化粧品のほのかな香りだけが残っていた。
    私はレントゲン画像を閉じ、次のカルテを開いた。

    ◇

    8足目:筋肉図鑑の少女

    〜中学生リケジョと下腿三頭筋〜

    診察室に入ってきた少女は、中学2年生だった。

    「今日はどうしましたか?」
    そう尋ねると、彼女は即答した。
    「下腿三頭筋の内側付近に疼痛があります」

    私はペンを持つ手を止めた。
    医師も一瞬だけ黙った。
    「……ふくらはぎが痛いんだね?」
    「はい」 彼女は真顔だった。

    部活動は陸上部の長距離選手。
    痛みは一週間ほど前から。
    問診を進めると、彼女は次々に専門用語を並べた。
    「当初は腓腹筋由来の筋損傷を疑いました」 「ハムストリングの柔軟性も意識していました」「フォームとの関連も考えています」

    医師が聞いた。「医学生?」
    「中学生です」即答だった。
    診察室に笑いが広がった。本人だけが真顔だった。

    話を聞くうちに分かった。
    人体図鑑や筋肉図鑑が好きで、動画で解剖学を見るのも好き。

    「好きな筋肉は?」医師が聞いた。
    彼女は少しだけ考えた。
    「前脛骨筋(ぜんけいこつきん)です」
    医師が吹き出した。「そこ?」
    「はい、鍛えにくい筋肉なので」即答だった。

    私はメモの余白に小さく書いた。
    『前脛骨筋』
    次に来たとき忘れないように。

    医師に促され、彼女は診察台に腰掛けた。

    几帳面にきつく結ばれたランニングシューズの紐をほどき、白くて分厚いスポーツソックスを脱ぐ。
    現れたのは、無駄な脂肪のない、綺麗に引き締まったアスリートの足だった。

    診察が進む。痛みの場所や程度、筋力、柔軟性、足の動き、フォーム。
    医師がエコー検査をしている間も、彼女は水を得た魚のように、筋肉の話を専門用語のまま生き生きと続けた。
    覚えた知識を、惜しげもなく披露している。

    「オーバーユースだね。しばらく距離もスピードも落として。ふくらはぎのストレッチを念入りにすること。
    走ったあとの正しいアイシング、それも意識してみて」
    医師が彼女の顔を見ながら伝える。

    そして「学校はどう?」と医師が聞く。
    「普通です…」

    お母さんが少し困ったように笑う。
    「家でもこんな感じなんです」そう言って肩をすくめた。
    「学校ではあまり喋らないみたいで。
    こういう話をすると不思議な顔をされたり、変わってると言われるからって。
    でも、ここなら専門用語を言っても理解してもらえるので、嬉しいんでしょうね。
    親の私でも、時々どう返していいか分からなくなるんです」

    私はつられて笑った。「いいじゃないですか。かっこいいですよ」

    診察室には人体模型が置いてある。
    彼女は、模型の足をじっと見ている。
    「これ、ヒラメ筋ですね」
    私はうなずいた。「そうだね」
    彼女は模型を見たまま続けた。「アキレス腱が長い」
    「ほんとだね」 私はまたうなずいた。
    お母さんは苦笑いしていた。

    数週間後、彼女は再診に来た。
    診察室に入るなり言った。
    「前脛骨筋、覚えてますか」
    「もちろん」 私は即答した。
    彼女は少しだけ微笑んだ。

    彼女のふくらはぎの痛みはもう治まっていた。
    走るのも問題ないらしい。
    医師が、診察のあとカルテを見ながら尋ねた。
    「これだけ詳しければ、将来有望だね。進路はもう決まってるの?」

    彼女はまっすぐ前を向いて答えた。
    「まだはっきりとは決まってません。でも、好きなことを好きと言えるところに行きたいです」
    医師は優しく微笑んだ。
    「そうか。きっと見つかるよ」
    彼女は小さくうなずいた。

    ドアへ向かう途中で彼女が振り返った。
    「最近、生物部の子と話すようになりました」
    「へぇー」医師が答える。
    「筋肉の話もできるので」
    「それは良かった」
    彼女はうなずいて、「また来ます」と言った。
    診察室のドアが閉まる。

    待合室では、小学生の男の子がオモチャの人体模型を触っていた。
    彼女は立ち止まり、その横にしゃがみ込んだ。
    「それね、前脛骨筋」
    男の子は首をかしげた。
    彼女は少し考えてから言った。
    「足首を上げる筋肉」
    男の子は、「へぇ」と言った。
    それから自分の足首を、きゅっと上に曲げてみせた。
    彼女はそれを見て、また少しだけ笑った。

    いつか彼女のそのまっすぐさを、面白いと一緒に笑ってくれる人がもっと増えるといい。

    換気のために診察室の窓を開けると、真っ青な空がどこまでも続いている。
    外遊びをする子どもたちの賑やかな声を聞きながら、私は書類棚から探し出した「前脛骨筋」のメモを、ポケットにしまい込んだ。

    ◇

    9足目:覚えている足

    〜認知症徘徊女性の思い出〜

    問診票には「88歳・女性」と書かれていた。

    診察室の外から怒鳴り声が聞こえる。
    「帰る!帰るって言ってるでしょ!」

    押し問答の末に診察室のドアが開くと、車椅子に乗った老女が、後ろで必死になだめる娘さんの手を激しく振り払いながら入ってきた。

    「昨夜、徘徊中に玄関の段差で転倒しました。右足を全くつけなくて」
    娘さんが説明をしながら、車椅子のフットレストから老女の右足を下ろそうとすると、彼女は再び抵抗するように身をよじった。
    身内だからこそ、甘えと混乱がすべて娘さんへの拒絶となって向かっているようだった。

    介護用シューズをなんとか脱がせる。
    右足首から足趾にかけて、皮下出血がどす黒く広がり、パンパンに腫れ上がっていた。
    「一度レントゲンを撮って詳しく見ましょう」
    医師の指示で、私は車椅子の彼女をレントゲン室へ誘導した。

    放射線技師が低く落ち着いた声で、
    「ゆっくりで大丈夫ですよ」となだめると、驚くほどすっと大人しくなった。

    診察室に戻り、モニターに画像が映し出される。
    医師が、彼女に穏やかな声をかけた。
    「痛かったですね。ここ、足の外側の骨がね、パッキリ折れちゃっているんですよ」

    医師はそのまま、傍らの娘さんに向き直って言葉を選びながら説明を続けた。
    「第4、第5中足骨骨折、それからこの足首の腫れと激しい痛みからして、足関節外側側副靭帯損傷も併発しています。
    骨折の治療としては、骨を金属で固定する手術と、このまま固めて治す保存療法の2つの選択肢があります。
    ただ、お母さんの場合は、入院という環境の変化で混乱が強くなるリスクがあります。
    そして、術後すぐに歩いてしまうと、固定した骨がまたズレてしまうんです」

    「入院は、きっと無理です。母は前に入院した時、パニックになって大変だったので……。手術はさせたくありません」

    「分かりました。では、今回は手術をせず、シーネというギプスの板を当てて包帯でしっかり固定する治療にしましょう。
    ただ、しばらくは車椅子での生活をお願いしたいのですが、ご自宅での介護は大丈夫ですか?」

    「日中はヘルパーさんに手伝ってもらうので、大丈夫です」
    娘さんは、深くうなずいた。

    「では、シーネで固定をしますね」
    私は、水に濡らしたシーネ材を下腿の後ろから足底に沿わせた。
    それを、医師が形を整えながら弾性包帯を均一な圧で巻き上げていく。
    彼女は包帯が巻かれていく自分の足を、大人しく不思議そうに見つめていた。

    包帯を巻き進めながら、私はすぐ傍らにいる娘さんに静かに尋ねた。
    「夜中も、ずっと目が離せない状態だったんですか?」
    娘さんは、白く包まれていく母親の足を見つめたまま言った。
    「鍵を勝手にあけて出ていってしまったり、ドアを叩いて叫んだり…」

    包帯を巻き終え、テープで端を止める。
    「これでしっかり固定されましたよ。お疲れ様でした」
    私が伝えると、娘さんは医師の方を向き、すがるような目で尋ねた。
    「先生、この骨折は、いつ頃治りますか」
    医師が答える。
    「骨がつくまでは、順調にいって一か月半くらいですね。
    これだけ腫れて痛みも強いでしょうから、しばらくは歩き回ることは難しいと思います」

    その言葉を聞いた瞬間、娘さんの視線が泳いだ。
    張り詰めていた糸が一瞬だけ緩んだような、安堵の表情だった。
    口元が少しだけ、ほっとしたように緩んでいた。

    帰り支度をしている間だった。
    車椅子の彼女が突然言った。
    「この子、小さい頃よく転んだのよ」
    娘さんの手が止まる。
    「膝ばかり擦りむいてね」
    彼女は笑った。
    「そのたびに抱っこして帰ったわ」
    娘さんは何も言わなかった。
    ただ黙って、帰り支度を進めている。

    しばらくして、彼女が娘さんを見る。
    「……あんた誰?」
    診察室が静かになる。

    娘さんは慣れた声で答えた。
    「あなたの娘」
    「ああ、そう」
    彼女はうなずいた。
    本当に思い出したようにも見えたし、そうではないようにも見えた。

    ふたりが診察室を出ていった。
    ドアが閉まる。

    しばらくして待合室を見る。
    車椅子の彼女が、娘さんに話しかけているのが見えた。
    何を話しているのかは聞こえない。
    さっきまでの診察室での出来事は、もう忘れているのかもしれない。

    だけど足は覚えていた。
    幼い娘の手を引いて歩いた道も。
    転んだ娘を抱き上げて帰った重みも。
    家族のために使い続けた足の、年月を。

    でも…今は、家族のために歩き続けた足が、家族を休ませない足になっている。

    誰も悪くないからこそ、診察室にはただ、乾いた疲労の空気だけが残る。
    私は大きな深呼吸をひとつして、診察室へと戻った。

    ◇

    10足目:歩く役目
    〜母と娘、受け継がれる足〜

    翌日の外来だった。
    問診票には「63歳・主婦」と書かれている。

    前日、認知症のお母さんと一緒に来ていた娘さんだった。

    診察室へ入ってきた彼女は、一人だった。
    昨日とは違い、声を荒らげる母親をなだめる緊迫感も、無理に作った笑顔もない。
    ただ少しだけ右足を引きずりながら、「昨日から足首が急に痛くなってしまって」と静かに言った。

    それから、小さく苦笑いした。
    「母の徘徊を止めようとした時か、母が転倒した時か、私も足首を捻っていたみたいです。その時は必死で、何も感じなかったんですけど……」

    娘さんは診察台に腰を掛けた。
    診察のために、スニーカーと靴下を脱ぐ。

    その足を見た瞬間、私は思わず息をのんだ。

    少し長い人さしゆび。
    親ゆびの付け根が、わずかに外側へ張り出した骨格。
    昨日、介護用シューズから現れた、あのお母さんの足とそっくりだった。

    もちろん年齢は違う。
    皮膚の張りも、血管の浮き出方も、筋肉のつき方も違う。
    それでも、その足の形だけは親子で驚くほどよく似ていた。

    昨日見たあの足が、もう一度、私の目の前にあった。

    医師が足首の可動域を確認し、エコー検査をしながら言った。
    「骨に異常はありません。急に強い負荷がかかったことによる捻挫ですね」
    娘さんは、胸の奥に溜め込んでいた息を、ようやく静かに吐き出した。

    医師の指示を受け、私は湿布を当て、足首にサポーターを巻いていく。
    その少し冷たい足を両手で支えながら、私は車椅子の老女の言葉を思い出していた。

    「この子、小さい頃よく転んだのよ」
    「そのたびに抱っこして帰ったわ」

    認知症という深い霧の向こうから、それだけは奇跡のようにこぼれ落ちてきた記憶だった。

    あの頃は、お母さんが娘の手を引いて歩いていた。
    転べば抱き上げ、泥を払い、危ない道では小さな手を強く握りしめて。
    けれど今は違う。

    夜中に徘徊する母親を追いかけ、転ばないように腕を支え、家まで連れ帰るのは、この娘さんの足だった。

    手を引いて歩く役目は、いつの間にか入れ替わっていた。
    親から子へ。
    誰にも気付かれないほど静かに、そして確かに。

    処置が終わると、娘さんはスニーカーの紐を大きくゆるめ、サポーターの上からゆっくりと足を入れた。
    「私まで歩けなくなるわけにはいかないですから」

    その一言に、介護する人だけが抱える覚悟と疲れが、静かに滲んでいた。

    「どうか、ご自分の足も大切にしてくださいね」
    私が伝えると、娘さんは「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げ、診察室を出ていった。

    ドアが閉まり、静けさが戻る。

    私はしばらく、自分のナースシューズの足元を見つめた。

    足は親子でよく似る。
    形も、歩き方も。
    そして、誰かの手を引いて歩く役目さえ。

    靴を脱いだ診察台の上で、今日も足は何も語らず、家族の歴史を支え続けていた。

    ◇

    顔は笑顔で嘘をつく。

    口は平気で嘘をつく。

    だけど、やっぱり足は嘘が下手くそだ。

    だから私は明日も、この場所でナースシューズを履くだろう。

    靴を脱いだその足が語る、小さな物語を聞き逃さないように。

    ※本作は、整形外科外来で働く看護師の視点から生まれた連作エッセイです。登場する人物・出来事は創作を交えて再構成しており、特定の個人や事例を描写したものではありません。

    秋山 叶

    #創作大賞2026 #エッセイ部門


     
     
    整形外科の看護師です。 患者さんたちの靴の中に隠された、愛おしい人生のドラマを、そっとすくい上げています。 ※本作は整形外科外来で働く看護師の視点から生まれた連作短編です。 登場する人物や出来事は創作を交えており、特定の患者・医療従事者・施設を描写したものではありません。

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