
『沈丁花が眠る頃、梔子が囁く』
六月の喫茶店は、水の内側にいるような息苦しさがまとわりついていた。
アスファルトは夜を映し、信号機の色は滲み、誰かの傘の骨が、遠くで小さく軋んでいる。
世界が、乾くことを忘れた季節。
君は窓際の席で、もう冷めた珈琲を見ていた。
何もしないことにした、と君は言った。
その言葉は、決意というより、
落ちる場所を選べず、ただ重力に従うことしかできない雨粒に近かった。
ボツボツとビニール傘を叩くように、僕の心も叩いた。
僕は曖昧に頷いた。
責めるには静かすぎたし、引き止めるには、君の輪郭はもう遠かった。
君は、壊れたわけじゃない。
むしろ逆で、壊れないために止まることを選んだのだと思う。
水没した線路みたいだと思った。
走らせれば、もっと深く沈むから。
僕は僕で、別の終わらせ方をしていた。
力の限り漕いで、岸が無いと知った舟のように。
途方にくれて、漕ぐことをやめた。
きっと、どちらも間違いではない。
動かない君も。
オールから手を離した僕も。
ただ、雨の日の時計のように、針だけが静かに進む。
窓の向こうを、傘の群れが流れていく。
誰もが小さな屋根を持ちながら、少しずつ肩を濡らしていた。
君が言う。
「終わる時ってさ」
そこで言葉を切った。
店内の換気扇の音が、遠い海底深くから聞こえているようだった。
「一人だけじゃ終われないんだね」
ようやく分かった気がした。
終わるというのは、関係に鍵を掛けることじゃない。
君の周りに降っていた雨の名前を忘れていくこと。
君を照らしていた午後の色が、世界から抜け落ちていくこと。
コンビニまでの遠回りや、低気圧の日の沈黙や、飲み残した炭酸水まで、少しずつ“無関係”になっていくこと。
終わるなら、君だけじゃ足りない。
君の周りの世界ごと、静かに水位を下げていく。
六月とは、たぶんそういう季節だ。
何かが腐る手前の匂いと、
何かを育ててしまう雨が、同じ空から落ちてくる。
やがて、可憐な香りの新たな花を咲かせるために。