
虫になる ムーンウォークと寝言
彼女は美容師で、この仕事をはじめてすでに7年がたっていた。得意とするのは客の髪質に、集中と放出のエネルギーを加えることだ。銀のはさみの先は彼女の指とほぼ一致していた。はさみが感じるそのままを彼女の指も察知する。髪の色を作ることにおいては、少なくとも、この街の中においては、彼女に勝る美容師はいない。
「こんな雰囲気にしたいわ、あの女優さんが今している髪の色が好きなの」
客の望みをなるべく叶えるため、彼女は自分の頭の中にあるパレットに必要な色を複数並べる。ベージュがかった暗いオレンジ。紫よりのグレイ。色にはそれぞれ濃淡と明暗の段階があり、彼女は脳内パレット上で濃淡と明暗の度合いを自由に調節することが出来る。
休憩時間がくる。このごろ彼女には一日中ほぼ予約が入っている、おにぎりと簡単なサラダとカップの味噌汁。さっさと必要最低限の栄養を補給すると彼女はタブレットに好きな絵を描く。次の予約までのたったの15分、絵を描くことに集中する。誰も彼女に話しかけない。頭の中にある「大好き」を彼女にしか描けない独特のライン、カーブ、イメージをぴたりと落とし込めるフォルム、点描あるいは色の雫を潰し、それを捻ったようなタッチ。
家に戻る。息子の食事、入浴、遊び、寝かしつけが待っている。夫が帰宅する。冗談をいい、少し家の経済について話す。犬はおとなしい。彼女の頭に鼻を寄せてくる。
3歳の息子はある時、マイケル・ジャクソンのミュージックビデオを見た。BILLIE JEANだ。3歳の全身でその場で飛び上がり、一瞬、宙に浮かんだ。それからムーンウォークの真似事に取りかかり、その夜のうちに息子はマイケルのムーンウォークに似たようななにか、を習得した。
眠るまでの30分。彼女はふたたびタブレットに絵を描いた。心に残っている映画や音楽のイメージを描いてみたい。描くことに没頭する、ふくらんだイメージの真ん中にダイブする。夫はすでに大きなベッドで寝息をたてている。
家族、仕事、友人。想い出。あるいは彼女自身。
愛を客観的に見る。終わりのない色が押し寄せて、細胞を刺激する。
真夜中すぎ。突然、集中が途切れ、彼女はタブレットをテーブルに置き、夫の隣にもぐる。
クィーンサイズのベッドを買ってよかった。がっしり逞しい夫がなにやらむにゃむにゃ言っている。
お月さまは寝言をいうのかしらん。
明日も稼がなくちゃ。
またたくまに眠りに落ちた。
窓の外に一匹の名無しの虫が張りついている。小さな虫だ。
筆者はときどき虫になる。
虫になり、時空を移動する。
今夜はこの家の窓辺で咲くピンクの薔薇をねぐらとしよう。