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落花の音 第10話「美しき終焉」

    第10話「美しき終焉」

    腕の中に残る確かな重みと、肌を焼くような熱。それだけを道標に、私はもぬけの殻となった屋敷の中を彷徨った。
    つい数刻前まで、ここには確かに彼女の吐息が満ちていたはずだった。

    湿り気を帯びた古い木造建築の匂いに混じって、どこか甘く、そして死を予感させるような椿の花粉の香りが漂っていた。
    だが今の屋敷は、ただの冷え切った器に過ぎない。

    「椿さん……椿さん!」

    叫ぶ声は、冷え切った廊下に虚しく吸い込まれていく。座敷には彼女が点てた茶碗が一つ、冷え切ったまま置かれていた。縁に残ったわずかな茶の跡が、彼女の唇がそこに触れた事実を無言で突きつけてくる。

    蔵の奥、あの黒ずんだ椿の山も、今はただの埃を被った残骸にしか見えない。だが、私の首筋には、彼女が狂おしく刻んだ爪痕が疼いている。

    指先でなぞれば、そこから彼女の情念が、どろりとした熱を伴って私の血管へと逆流してくるかのような錯覚に陥った。

    確かに、彼女はいたのだ。あの底なしの暗闇の中で、私たちは互いの絶望を分かち合い、呪いのような愛を交わした。世間が呼ぶ「愛」という言葉ではあまりに軽薄で、足りない。
    それは魂を削り合い、欠けた部分を互いの血で埋め合わせるような、凄惨な儀式だった。
    彼女の氷のように冷たい指先が私の背を這い、私の体温が彼女の凍てついた心を溶かしていくあの瞬間、私は生まれて初めて「生きている」と実感した。
    それまでの私の人生は、ただ呼吸をしているだけの空白だったのだ。彼女という劇薬が、私の空っぽな輪郭を鮮やかに縁取ってくれた。彼女の瞳の奥に潜む、底知れぬ孤独。それに触れたとき、私は恐怖よりも先に、深い安らぎを覚えた。私たちは同類だったのだ。光の中に居場所を見つけられず、影の縁で震えているだけの存在。

    きっと彼女が私に伝えたかったのは、言葉による謝罪でも、過去の清算でもなかったのだろう。ただ、誰かに自分を見つけてほしかった。この狂気ごと、孤独ごと、逃げ場のない絶望ごと、丸ごと抱きしめてほしかったのだ。彼女が私に牙を立てたのは、私を壊したかったからではない。私の中に、自分という存在を永遠に刻みつけたかったから。そして私もまた、彼女の一部になることを、魂の底から渇望していた。

    「……そうか。あなたは、ずっと待っていたんですね。」

    涙が溢れ、頬を伝った。それは喪失の悲しみというよりも、彼女というあまりに美しく、あまりに歪んだ魂に触れられたことへの、震えるような感動だった。私は、彼女に救われたのだ。光り輝く救済。そして彼女もまた、私という依代(よりしろ)を得て、ようやく長い夜から解放されたのではないか。
    彼女の呪いを引き受け、彼女の孤独を私の肉体で受け止める。それこそが、私がこの世に生まれてきた唯一の意味だったのだと、確信に近い思いが胸を突き上げた。そう思うと、胸の奥が熱い塊で満たされていくのを感じた。心臓の鼓動が、彼女の刻んだ爪痕と共鳴して激しく打ち鳴らされる。

    私はふらふらと、吸い寄せられるように庭へと向かった。冬の冷気が肌を刺すが、不思議と寒さは感じない。むしろ、体内の熱が外気と混ざり合い、自分が世界に溶け出していくような万能感に包まれていた。あの巨大な椿の木が、冬の陽光を浴びて黒々とそびえ立っている。幾人もの命を吸い上げ、その根元に死を積み上げてきたであろうその樹木は、今日はどこか慈悲深く見えた。

    私は、その根元に辿り着いた。
    見上げれば、青い空を切り裂くように伸びた枝が、私を招いているように見える。彼女が待っている。
    あの冷たくて、熱い、永遠の暗闇の中で。私は目を閉じ、彼女の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
    思考は霧のように消え去り、ただ彼女への純粋な思慕だけが、私の意識を支配した。

    ――ボトッ

    音がした。夢の中で聞いた、椿の花が首から落ちる音よりも、ずっと重く、ずっしりとした、生々しい肉の重みを感じさせる鈍い音。

    私は振り返ることができなかった。いや、振り返る必要などなかった。ただ、その音が私の世界の終わりを告げる鐘の音のように、鼓膜にいつまでもこびりついて離れなかった。
    視界がゆっくりと反転し、冬の青空が遠ざかっていく。最後にもう一度...

    *翌朝、この界隈を管轄する市の職員二人が、苦虫を噛み潰したような顔で屋敷の門を潜った。

    「……またか」

    年配の職員が、吐き出すように呟いた。冬の澄んだ空気の中、庭の奥にある巨大な椿の木が、風に揺れている。その太い枝から吊り下がった「何か」が、緩やかに弧を描いて揺れていた。

    「この家は、呪われているとしか思えんな。前の住人も、その前も……。結局、この木に魅入られちまうんだ」

    若い職員は、顔を背けながら手元の書類に目を落とした。

    「綺麗な顔をしてますね。まるで、一番いい夢を見ている最中みたいだ」

    「よせ。……さっさと下ろすぞ。警察が来る前に、せめてこの惨状をどうにかしないと」

    風が吹き抜け、椿の葉がざわめく。盛りを過ぎたはずの椿の木には、昨夜まではなかったはずの、燃えるような赤い花がいくつも咲き乱れていた。それはまるで、吸い上げたばかりの鮮血を糧に、一夜にして開花したかのようだった。

    職員たちが作業を始める中、どこからか、鈴を転がすような女の声が風に乗って響いた。

    『綺麗なまま、終えられるのは幸せなことです。……汚れる前に、最も美しい瞬間のまま時を止めることができれば』

    その声は、満足げな吐息と共に、冬の青空へと溶けて消えた。庭にはただ、真っ赤な椿の花が、音もなく雪の上にこぼれ落ちていくだけだった。

    fin.

     
     
    心のまどろみを綴る場所。 夜、雨、創作、少しの孤独。 あなたの眠れない夜に寄り添えますように。

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