
インクに溶かした私の本音
窓の外は、静かな群青色に沈んでいる。
遠くでかすかに轍の音が聞こえるだけで、世界はすっかり寝静まってしまった。部屋に響くのは、手元のノートにペンを走らせる、かすかで乾いた摩擦音だけ。
私は昔から、自分に小さな嘘をつくのがひどく上手かった。
「みんなが良いと言うから」「波風を立てるべきではないから」「大人として、ちゃんとしていなくては」。
そうやって柔らかな本音に蓋をして、世間の正解という型に自分を流し込む日々。誰かを騙したかったわけではない。ただ、波の立たない凪の海を泳ぐための、私なりの哀しい処世術だった。
けれど、自分についた小さな嘘たちは、見えない埃となって心の隅にしんしんと降り積もっていく。
ふと立ち止まったとき、私は愕然とした。本当は何が好きで、何が嫌いなのか。私自身の輪郭すら、ひどくぼやけてしまっていたからだ。
その夜、私はお気に入りのノートを開いた。
誰の目にも触れない、私だけの秘密の場所。ここなら、少しだけ正直になってもいいのではないか。祈るような気持ちで、インクの出を確かめるようにゆっくりと文字を綴り始めた。
「本当は、もうあの集まりには行きたくない」
「ちゃんとした人を演じるのは、もう疲れた」
白い紙にこぼれ落ちた言葉は、あまりにも不器用で、子どものように幼い本音だった。
でも、インクの染みた自分の気持ちをじっと見つめていると、胸の奥で固まっていた氷が、すっと溶けていくのが分かった。誰かに宣言したわけでもない。世界が劇的に変わったわけでもない。ただ、「本当は嫌だったんだね」と、自分自身を許し、認めてあげただけ。たったそれだけなのに、長年背負っていた見えない重荷が、足元へすとんと落ちたような気がした。
翌朝、カーテンを開けた私は息を呑んだ。
いつもの見慣れたはずの景色が、まるで生まれ変わったように違って見えたからだ。朝の光はどこまでも透明で、風に揺れる街路樹の葉が、祝福するようにきらきらと光を反射している。心のレンズを覆っていた曇りを、昨夜の涙とインクが洗い流してくれたのだろう。
傷つかないように、はみ出さないように守ってきた嘘。
それを手放した瞬間の、あの静かで澄み切った呼吸の深さを、私は忘れたくない。
自分に正直でいること。それは、明日見る景色を、今日よりもほんの少しだけ美しくしてくれる、確かな魔法なのだと知ったから。