
掌編『真白に還る月夜』
かつて、南海の島々で語り継がれる柔らかな言葉を愛し、人の詩を密かに集めていた一人の天使がいた。
潮の匂い、月を待つ祈り、誰かを想って眠れぬ夜――そんな小さな言葉たちを、彼は美しいと信じていた。
だが天界では、人間界の詩を持ち込むことは固く禁じられていた。
彼はその罪により、光の世界を追放されてしまう。
地へ堕ちた彼は、自らを「魔ちゅら」と呼んだ。
かつての名を捨て、黒く濁った翼を抱えたまま、長い闇の中に沈んだ。
そんな彼の傍らには、いつも静かに寄り添い続ける少女、澪(みお)がいた。
彼女はかつて、魔ちゅらが天界から手を差し伸べ救い出した、懐かしい魂の生まれ変わりだった。
「今日も空、見ないの?」
問いかけても、魔ちゅらは首を振るだけだった。それでも澪は離れなかった。
澪は、本当はずっと前から知っていた。
南の島の古い言葉で、「ちゅら」が「美しい」を意味することを。
けれど澪は、そのことを長い間口にできなかった。
自分を罪深い存在だと思い込み、名前さえ捨ててしまった彼に、その言葉を返せば、かえって傷を深くしてしまう気がしたから。
だから彼女は待っていた。
いつか彼自身が、もう一度その名を受け取れる夜を。
そして今夜、月明かりの下でふと見上げた彼の横顔には、長い闇の中で初めて、ほんのわずかな安らぎが宿っていた。
空を憎み、光から目を背け続けていた彼が、その夜だけは静かに月を見つめていた。
もう、大丈夫かもしれない――。
その小さな変化を見たとき、澪はようやく胸の奥で温め続けてきた言葉を届けようと思えた。
そして澪は静かに言った。
「ねえ、ちゅらって『美しい』って意味なんだよ」
その夜を境に、魔ちゅらはあたたかな白い光に包まれる夢を見るようになる。
数日後の美しい月夜、澪はそっと彼に近づいた。
長いあいだ胸の奥へ沈め続けてきた想いが、月の光に溶けるようにほどけていく。
救われた日の感謝も、寄り添い続けた歳月も、失われた名を取り戻してほしいという願いも。
言葉になれなかったすべてが溢れ、澪は震える指先で彼の頬に触れた。
そして――抑えきれなくなった愛しさのままに、そっと唇を重ねた。
刹那、魔ちゅらの記憶の海に、封じられていた追憶が溢れ出す。
――あの日、救った魂。
――そして、本当の自分の名前。
「真白……」
次の瞬間、呼び戻された名とともに、彼の背を覆っていた漆黒の翼は、眩い純白の輝きを取り戻した。
澪は涙を浮かべて微笑む。
「おかえり、真白」
澪の声に、真白は静かに彼女を抱き寄せた。
夜明けの空へ昇る二人の背を、海から吹くやさしい風だけが、いつまでも見送っていた。