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Photo bybrainy_iris767

「緘黙症(疑)」から見た世界、それから自分と似て非なる存在について

    大人になってから知った「緘黙症」という言葉。


    他人とうまく話すことが出来なくなったのは、中学に上がってからで、そのあと少しずつ状況は好転していったものの、「え、わたし、最近おしゃべりするの楽しいかも?」と思えるようになったのは20代も後半になってから、つまり15年以上、私は「緘黙症」と格闘してきたことになる。


    この間、受験も就職も初恋も失恋も結婚も出産も、節目の出来事は数あれど、私が自分の人生を語るなら、こういった外形的な出来事よりも、「喋りたいのに、言葉が出てこない」というどうしようもなく孤独な状態から、今の状態まで持ってこられたこと、つまり、友達とカフェで何時間もお喋りをしたりとか、数日後の飲み会の予定に緊張してずっとそのことを考え続けたり、飲み会の後に自己嫌悪や一人反省会をすることなく、気軽に他人とお酒を飲んだりできるようになったこと、について語らずにはいられない。誰かと喋る必要がある時、特に大勢の人の輪の中でお喋りをしなければいけない時(つまり飲み会)、私はいつもいつも、びくびくしていたから。


    後年、中学時代の友人から言われて、すごく印象に残っていることがある。中学一年生で、彼女が私に初めて話しかけた時のエピソード。

    友達:(シャーペンを指さして)「あ、○○ちゃん(私の名前)、シャーペンお揃いだね~」

    私:「うん」(かすかにうなづく)

    友達:「??」


    私が「うん」としか言わないことに彼女はびっくりして「なにこの子」と思ったらしい。そりゃ、そうでしょう。この出来事を私は直接覚えていないけれど、これに近いことを何度もやらかしたのは間違いがない。身に覚えがありすぎる。


    もし、彼女が「このシャーペン、どこで買ったの?」と聞いたなら、私は店の名前を答えることは出来たと思う。でも「お揃いだね」って言われて何を返せばいいか本当にわからなくて、お揃いだね、うんそうだよね、えっとだからなんだろう、決して彼女を拒絶しているとか、「お揃いだからなんなの?」みたいな白けた気持ちだったとかいうわけではなく、本当に単純にどんな返事をしたらいいのか、まったくわからなかったのだ。


    自分の胸に聞いてみても、言うべきことは見つからなかった。


    たとえば「テスト、だるいよね~」とか「おなかすいた~」とか、そんな何気ない会話に、ちょっとした相槌をうつこともできなかった。感情はあったけれど、それを表す言葉がぽっかり消えてしまっているようだった。自分を空っぽの器のように感じた。12年、もう生きていたのに。小学生の自分は、意識せずに出来ていたことのはずなのに。


    中学生の私は、万事においてその調子だったので、絶望的だった。


    どうしてそんなことになってしまったのか、その後、自分なりに何度も考えてみた(今でも時々考えている)。


    まず一点、そもそも私は小さいころから人見知りではあった。初対面の子と打ち解けて話せないというのは、小学生の自分でも分かっていて、小学生の途中から入った習い事や塾では、誰とも喋れず、独りぼっちだったことはよくあった。でも小学校には沢山友達がいたし、勉強のできる優等生だったために、教師からもかわいがられたり、学級委員や生徒会役員にも選ばれたりしていたので、自分が人見知りであることはそこまで気にしていなかった。


    もう一点が家族との関係で、ほぼ母親との関係ということになるけれど(父親は多くの家庭と同様に影が薄い)、私は小学校高学年ぐらいから、母親とは一切、お喋りというものをしていなかった。仮面夫婦ならぬ、仮面親子だった。
    (反抗期のようにこれみよがしに無視するではなく、連絡事項は伝えていたし、何か言われたら返事はしていたので、母親は何も気づいていなかったと思う。)


    例えば母親と一緒にテレビを見て、この人かっこいいねとか、今度○○に行きたいな~とか、こういうのなんか最近学校で流行っててさあとか、友達が持ってるあの文房具、わたしも欲しい~とか、家族の団欒を構成するような会話(現実にしたことがないので、すべて私の妄想だけれど)は私たちの間には一切なかった。


    なぜなかったかと言うと、それはある時点で、私が母親を見限ったから。


    小学三年生の時、クラスでいじめ騒動が持ち上がった。私もいろいろ事情を聞かれるなかで、一部の保護者が私もいじめ側だったのではないか?という発言をしたらしく、私はすぐ否定したし、担任の先生も明確に否定してくれたのだが、母親は、私の否定を信じなかった。それ以前にも、私の主張を母親が信じてくれないということが何度かあって、そのたびに私は母親に対してどんどん不信感を募らせていた。

    (付け加えておくと、母親は元教師で、教師時代に、自分の子供の発言だけを盲目的に信じて問題を大きくする親を何人も見てきたので、自分はそうなりたくなかった、と後年話してくれたことがある。そして、上記の例は別として、もちろん私は母親に嘘をついたこともあるので、母親が私を100%信じなかったのも、仕方のないことである。)


    また、母親は俗に言う「教育ママ」だった。ごく幼いころから、家では、毎日ピアノ数時間、公文のプリント15枚以上が習慣で、私から「10分休憩して、本を読んでもいい?」と言い出さない限りは、自由な時間はなかった。女の子の多くがいうような「お母さんと一緒にお料理したい」みたいなことを言っても、「そんなことより勉強しなさい」という親だった。


    小学生に上がって、その習慣は若干和らいだものの、家では常に「勉強しなさい」という空気が流れていた。低学年のうちは、自分の置かれた環境について、まだ何も思うことはなかった。街を歩いていると、私はつい親子連れを観察してしまうのだけれど、どんなに険のある母親の腕にひかれている子も、ある程度の年齢までならば、みな無邪気な表情をしている。多分、小学生の半ばまでぐらいの子供達。


    そんな私も小学校高学年になったぐらいから、徐々に気づき始めた。そして、私が学校であったことや友達のことやその他諸々を母親に話しても、
    ――それで結局あなた、勉強は捗っているの、勉強は今日どれだけやったの、そんなことにかまけていて勉強をおろそかにしていないわよね、
    という具合に(どんな論理の飛躍を使ったのか)帰結する、ということにも。


    そんなことが続いて、であればこれ以上、
    ーー母親と喋る意味はない。
    と私が明確に思った瞬間があり、それ以来、私は、自分の心の声に従うことにした。
    (ちなみに、このことを夫に話したら、「○○(私の名前)は本当にこわい」と言われた。「決めたことをやり遂げるというのがこわすぎる」と。)


    そして、これが一番の原因かもしれないけれど、私は大の不安もちだった。またまた拘りのある親の意向で、私は小学生のとき、皆が学校給食を食べるなか、母親のつくったお弁当を持参していたのだけれど、そのお弁当について、クラスメイトから何を言われるかと毎日ひやひやしていた。給食の時間が近づくにつれ、「今日こそなにかお弁当の中身について、からかわれるかもしれない」「なんでお弁当なのかしつこく聞かれるかもしれない」「笑われるかもしれない」と毎日毎日心の中で考えていた。


    結局のところ、クラスメイトから「(弁当の中身を指して)それなあに?」とか、お弁当の理由について多少聞かれたりすることはあったものの、それ以上からかわれたり、ネタにされることはなかった。だから不安になる必要は、本当はなかったのだ。でも、学年が上がれば上がるほど私の不安は強くなり、毎日毎日、給食の時間が近づくたびに私はちょっとおびえていて、給食の時間が終わると心からほっとした。


    この時点で、「緘黙症」が発現するための要素は揃い踏み、カウントダウンはすでに始まっていたと思う。あとは、最後の一押し、なんらかのきっかけが起きるのを待つだけ。そして私は、教育ママの見事な成果として、第一志望の私立中学に入学し、今までとまったく違う環境に放り込まれた。最後のトリガー、「大きな環境の変化」である。


    入学当初、私は別に友達なんていなくてもいいやと思っていた。しかし、学校や社会というリアルワールドでは、冷笑的な態度は、自分の首をしめることにしかならないということに、中学生のおぼこな私は気づいていなかった。小説やエッセイを書くのとはわけが違うのだ。学校では、教室を移動するにしても誰かと喋りながら群れながら行くというのが当たり前で、グループを作るとか二人一組になるとか、そんな機会がいくらでもある。そしてそもそも私は、自分が他人からどう見られるか、非常に敏感な性質なのだ。


    気づけば、私は人と話すことができなくなっていた。
    未知の状況に愕然とした私は、一人きりで何とかしようとあがきはじめた。


    まず、自分が空っぽなので、インプットすることから始めなければならなかった。学校では、席の近い子達のお喋りをなるべく聞くようにして、女子中学生の会話のパターンを知ろうとした。パターンを網羅して、会話のやり取りを覚えようと思ったのだ。そして、実践する。


    とにかく、話しかけられたら、なんでもいいから返さなければいけない、会話を続かせなければいけない。もちろん、家でテレビドラマを見ている時も、本を読んでいる時も、使えそうなやり取りは、脳内でリストアップして、何度も反芻した。1時間以上かかる電車通学をしていたのだけれど、帰りの時間は、今日学校で聞いた会話の内容とか、自分がかろうじて喋ったフレーズを思い返して、一人で反省会を開いていた。何かの用事で、クラスメイトから電話がかかった時には、カセットレコーダーで会話を録音し、後から聞き直したこともある。


    こうやって文章にすると、馬鹿馬鹿しくて変態的で笑ってしまうけれど、私は本気だったし、それ以外の方法は思いつかなかった。膨大なパターンをインプットして、その中で最適解を見つけようだなんて、今でいう生成AIのようなものではないか。
    もしくは、数学(文系)の受験勉強で使うテクニック。


    学校では、ずっと緊張状態だった。緊張を解くことは出来なかった。教師が壇上から一方的に講義をするような、みんなが黙っている、主要科目の授業時間だけが息抜きだった。現代文や数学や日本史の授業の多い日は、まだマシだった。体育や美術や音楽や、グループワークがある授業が続く日は、余計にきつかった。


    次の日に起きて学校に行くことが怖かったので、夜はあまり寝なかった。眠ってしまえばすぐ朝で、また人目に晒され、自己嫌悪にさいなまれる日中が始まる。でも眠らずに起きていれば、時間は伸びて長くなり、わたしはそれだけ自由でいられた。


    そんなこんなを続けて数年たち、高校生になった頃だろうか、こんな私とも喋ってくれる同級生のひとりから、こういわれたことがある。

    「ふつうは、友達関係って、広く浅くか、深くせまく、っていうけど、○○ちゃん(私の名前)は、浅くせまくだよねえ」

    多分私はぎょっとして、「そうかな~」とか、「ははは」と軽く笑ってその場を取り繕ったと思う。


    そうやって、自分自身に踏み込まれる言葉をを突然かけられて、返す術が私にはなかった。そもそも、自分で勝手に作った、「こういう話になったら、こうやって返す」という杜撰なマニュアルを無理やり運用して会話をしのいでいる状態だったので、想定問答にないことを言われると、たちまちパニックになってしまう。


    家に帰ってから、私はその子の発言を思い出して「その通りだわ」と完全同意した(一人反省会)。そして、もしかしたら、彼女は「もっと仲良くなろうよ、腹を割って話そうよ」と言おうとしてくれていたのかもしれない、とも思った。


    でも、後のまつりだったし、私にはどうしようもなかった。

    まだ、自分の心からの言葉で人とお喋りすることはできなかった。


    無口で、反応もつまらない子だっただろうに、それでもなんとなく一緒にいることを許してくれたあの頃の友人たち(友人と呼んでよいかわからないが)には、感謝しかない。



    つい最近、YouTubeで「陰キャトーク:クラスの端っこだった俺たち」(by雷獣)という楽しい動画を拝見した。


    中高時代に陰キャでクラスの端っこだったと自認する3人が、MC2人(こちらは端っこではなく、真ん中寄りとのこと)とわいわい盛り上がりながら、それぞれの笑い話や端っこあるあるを披露してくれるもので、サムネを見て、これは私の琴線に触れるに違いないぞ、と確信をもって見始めたのだが、没頭して見入ってしまい、まさにあっという間の1時間だった。


    驚いたことに、こんな議題のわりに、中身はまったく湿っぽくなくて、みんなのお喋りスキルが高すぎて何度も笑わされた。(私もそんな風に自分の経験を語りたいと思ったけれど、これがものすごく難しい。)


    そう、そんな楽しい動画で私が唯一感傷的になってしまったのが、この動画についていたコメントのひとつを読んだときなのだが、大変手前勝手ながらこれを取り上げさせてほしい。


    ――進学校で「クラスの端っこ」なんだろうなという息子がいます。このチャンネルで初めて涙が出ました。心配で仕方ないですがとにかく見守ります。


    ……お母さん。その気持ち、すっっごくわかります。

    このコメントだけでは、お母さんが自分は陽キャだったけれど、子供がそうではなさそうなので心配しているのか、お母さんも似たような経験があって敏感に子供の立ち位置を気にしていらっしゃるのかはわからないし、お子さんのどんな様子からそう言う風に思っていらっしゃるのかも、まったくわかりはしない。勿論、そんなことは勝手に想像するものじゃない。


     そして、私は自分の過去と、このコメントをされた方と「母親」という属性が共通しているというだけで、このコメントを自分ごとのように捉え、過剰に共感しているだけなのだけれども、それは理解しているので、どうか語らせてほしい。


    私が子供を産むうえで一番不安だったのが、自分の中学時代からの長い苦闘を、私の血を引いているがゆえに、子供も経験するのではないか、ということだった。私がかろうじて(運が良いこともあって)やり過ごしてきたものに、自分の子供は立ち向かえるだろうか。


    さらに自分の心を突き詰めていくと、もし子供が自分と同じことで悩むとしたら、母親である私もまた、子と一緒にあの地獄を追体験しなければならなくなる(なにしろ私は、過保護で過剰に共感する癖のある母親なので)。要するに、私は子供のためだけでなく、自分のためにも不安だった。


    今年の春、上の息子は中学生になった。私と同様に私立中学に入学し(私も教育ママの端くれ)、まったく新しい環境からのスタートである。私はひそかに、非常に緊張していた。

    ちなみに、私は自分の不安気質を子供に伝染させたくないので、自分が子供を観察して不安に思ったこと(主に人間関係とか)についても、息子には9割がた口をつぐんでいる(もしかしたら、息子は感じ取っているところがあるかもしれないが)。


    しかし、息子は今のところ、親の心配をどこ吹く風かと、淡々と学校に通っており、時折話してくれる学校の出来事は、以下のような感じである。

    ・クラスには4人の「オールスターズ」と言われる問題児たちがいて、日替わりで様々な問題を起こし、話題に事欠かない

    ・ペンのインクを飲んだり、消しゴムを食べたりする奴がいる

    ・ジュースに絵の具を溶かして飲んだ奴が、先生に怒られた

    ・上記のことに対して注意をしている担任は、自分が本当に中学校の教師なのか?と疑いを持っている

    ・教室の窓から見える庇の一部が、賽銭箱みたいだと言って、小銭を投げて遊び、先生がキレていた

    ・教師がすぐ近くにいるにも関わらず、背丈よりも高い金属製ロッカーの上によじのぼって遊び、怒られた奴がいる

    ・「出てはいけない」と言われているベランダに出て遊んでいた奴らが、先生から「俺は責任を取りたくないから、今度やったらお前らは退学にする」とブチギレられた


    そして、昨夜の会話はこうだった。

    息子:「昨日は自販機の下に100円落ちてたから、それと自分の50円を合わせたらぎりぎりポカリが買えた、ラッキー」

    私:「いやいや、それは届けなきゃダメでしょ」

    息子:「いやいや、だってこの前も100円落ちてて『これ誰の?』って聞いたら、『あ、それ俺の! 3週間前におとしたんだよね~』て言う奴に強引に持ってかれたんだよ。絶対、そいつのじゃないだろ」

    私:「……」


    私はひそかにほっとしながら、彼の話を聞いている。彼自身の話はあまりしてくれないので、彼のクラスでの立ち位置がどうなのかは、全然わからない。楽しんで学校に通っているようにも見えないが、毎日の登校が辛そうというわけでもない。


    ひとつ、私にはない明るい要素が彼にはあって、彼は運動がまあまあ好きで、中でもサッカーが好きなので、サッカー部に所属している。一学年の部員が30名ほどもいるマンモス部のなかで、スタメンを目指して(いちおう)真面目に部活を頑張っているらしい。彼の父親はサッカー部を挫折して途中でやめているので、彼もどこまで続けられるのかわからないが、出来るだけ頑張ってみてほしいと思っている。


    昔、三島由紀夫氏がエッセイのなかで太宰治氏にむかって

    「君がそんな風にくよくよ悩んでいるのは、運動をしていないからである。そんなものは体を鍛え、体を十分に動かせば解決する類のものだ。そんなことで芸術を患わすな」

    というようなことを言っていて、その罵り方が面白かったので覚えているのだけれど、確かに私のようにエッセイなんて書いているよりも、彼のように運動に打ち込むほうが、よほど精神的に健全だろう。


    運動嫌いでまったく健全でない私は、自分の生来の性質もあり、生きている限り、不安を捨て去ることはできないのだと、最近はあきらめと共に受容しようと努めてはいる。
    でも、生まれつきの過敏なセンサーも兼ね備えているので、息子の言葉の端々から、いちいち何らかの兆候をかぎ取ろうとしてしまうし、勝手に心配するのをやめられない。


    未来がどうなるかわからないが、ただ、もし息子たちが昔の私のような状況に陥ったとしたら、その時には私の体験を話し、寄り添って、今どきの過保護親として、どこまでも面倒を見るつもりである。



    ※私は自分自身の中高時代の経験がなんだったのか、どうしてそんなことになったのか、事あるごとにその答えをずっと探していて、その過程で「緘黙症」という言葉を知りました。その事例が驚くほど当時の自分の状況と似ていると同時に、これが「生まれ持った不安の感じやすさ(気質)」からくるという説明が、私の中で非常に腑に落ちるものでした。しかし学生時代に自分の状況について他人に説明したこともなく、医学的に「緘黙症」と診断されたことはないので、タイトルは「緘黙症(疑)」としました。

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