メインコンテンツへスキップ
見出し画像

AI時代に「本物」はあるのか――既視感で溢れた世界の正体に迫る

窓のない部屋で、私たちは世界をめくる


深い夜の底で、私たちはしばしば、自らの指先が冷たいガラスの表面を滑る音だけを聴いている。スマートフォンの画面をスクロールするその微かな摩擦音は、現代におけるもっとも普遍的な祈りの形かもしれません。

そこには、絶え間なく溢れ出す視覚の奔流があります。淡いパステルカラーのカフェの風景、どこかで見覚えのある完璧な造形のモデル、あるいは、あまりにも「それらしい」夕暮れ。

ふと、指が止まる。そのとき、胸の奥を通り過ぎるのは、驚きでも感動でもなく、奇妙な「既視感(デジャヴ)」ではないでしょうか。それは、かつてどこかで見たものを思い出す懐かしさとは、決定的に異なるもの。むしろ、「まだ見ていないはずのものが、すでに見知ったものとして立ち現れてしまう」。時間軸が反転したような居心地の悪さです。

AIによって生成された画像がタイムラインを埋め尽くし、あらゆる表現が「テンプレート」という鋳型に嵌め込まれて量産されていく。そんななかで、私たちは世界の手触りが薄利(はくり)していく感覚を抱いているのではないでしょうか。

昨日見た夕焼けと、今日画面越しに見る夕焼け。その間に、かつてあったはずの決定的な「隔たり」が消滅し、すべてが均質な、透明な膜の向こう側に配置されている。

私たちは、世界の「本物」に触れているのではなく、洗練された「世界の標本箱」を眺めているに過ぎないのではないでしょうか。そのような疑念が、静かに、しかし確実に、私たちの日常を侵食し始めているのかもしれません。

なぜ、この世界はこれほどまでに「既視感」に満ちているのでしょうか。

私たちは、この溢れんばかりの情報と表現のなかで、一体何を失ったと感じているのでしょうか。

あるいは、それは「失った」のではなく、私たちの「経験」という概念そのものが、かつてない変質を遂げたということなのでしょうか。

この記事では、ジャン・ボードリヤール、ヴァルター・ベンヤミン、そしてハルトムート・ローザという三人の思想家の手掛かりを借りながら、この「既視感に満ちた世界」の深層を歩いてみたいと思います。

彼らの言葉は、単なる理論ではありません。それは、私たちがこの滑らかな表面の世界で、もう一度「手応え」を取り戻すための、静かな思索の地図となるはずです。


現実の構造の変容
――ボードリヤールと「砂漠」の出現

 
 
 
コーヒーと万年筆が好き。人文知と語学とアフリカが好き。野良の社会学者。ちいさな社会投資家。

あなたへのおすすめ