
未完成を恐れるな。文学作品に完結は必要か?
最近のニュースとして毛利蘭の声優を務めた山崎和佳奈さんが死去された事に関して、コナン読者に悲しみが広がっています。(私個人としても、いちコナンファンとして山崎和佳奈さんのご冥福をお祈りします。)
それと同時に作品に対する完結を求める声が上がっています。その作者に対する批判は妥当な批判であるでしょうか?
人々は何故、文学作品に完結を求めるのでしょうか。
この問いは、私の中で長い間引っかかり続けています。
世の中には、未完成でありながら高く評価され、むしろ未完成であることそのものが作品価値として扱われている芸術作品が数多く存在します。にもかかわらず、文学作品だけは異常なまでに「完結」を求められる。未完に終わることは、裏切りであり、怠慢であり、無責任であるかのように語られる。
しかし私は、その価値観に強い違和感を覚えます。
建築作品を見てみましょう。
例えば Sagrada Família は、未完成建築として世界的に有名です。完成予定は存在しているものの、長年にわたり未完成の状態で人々に公開され続けています。そして人々は、それを「未完成だから価値が低い」とは捉えません。むしろ、「未完成であり続ける時間」そのものを作品の一部として受け入れている。
そこにはある種のロマンがあります。
人類は完成形だけを見ているのではない。「未完成から完成へ向かおうとする過程」そのものを芸術として見ているのです。
絵画作品においても同様です。
The Adoration of the Magi のような未完成作品は、完成作品には存在しない独特の余韻を持っています。線画だけが残された部分。描き込まれなかった背景。未着色の空間。そこには「欠落」が存在しています。
しかし、その欠落こそが人々の想像力を刺激する。
もし完成していたなら、我々は完成形を受動的に鑑賞するだけで終わっていたかもしれません。しかし未完成であるが故に、「ダ・ヴィンチはここに何を描こうとしていたのか」「どのような構図を意図していたのか」「どのような感情で筆を動かしていたのか」と、人々は作品の内部へ想像を侵入させる。
つまり未完成作品とは、鑑賞者を作品制作へ参加させる芸術なのです。
音楽もまた同じです。
作曲家が死によって制作途中で残した作品には、完成作品にはない重みがあります。そこには、人間の有限性がそのまま刻み込まれているからです。
未完成で終わった旋律。 解決されなかった和声。 終止しなかった感情。
人々はそこに、「死」という現実を感じ取る。
そしてその瞬間、音楽作品は単なる娯楽を超え、「人間という存在そのもの」に触れ始める。
では、何故文学だけがここまで完結を要求されるのでしょうか。
私は、ここに重要な点があると思っています。
それは、文学作品以外においての未完成作品には「選別機能」が存在するということです。
未完成作品を芸術として受け入れられる人間と、受け入れられない人間。その選別が、建築や絵画では無意識的に行われている。
余韻を楽しめる人間。 欠落を想像によって補完できる人間。 完成していないことそのものを、美として受け取れる人間。
そうした人間だけが、未完成作品を本当の意味で鑑賞することができる。
逆に言えば、「完成していないから価値がない」と考える人間は、その時点で作品から自然に振り落とされる。
しかし文学作品には、この選別機能が存在しません。
私はその理由を、「文学作品が時間軸の中で公開される芸術である」という特性に求めています。
建築や絵画の未完成作品は、多くの場合、「未完成作品」として人々に鑑賞されます。しかし文学作品は違う。特に近代以降の連載文化において、文学は長期間にわたり読者と並走しながら進行する形式を取るようになりました。
つまり読者は、物語を「完成済みの芸術」としてではなく、「進行中の体験」として消費する。
ここで問題が生まれます。
読者は長い時間をかけて作品と付き合う中で、「この作品はいずれ完結する」という期待を無意識に形成してしまうのです。
その結果、未完は「芸術的余韻」ではなく、「契約違反」として認識される。
私はこの感覚を、「精神的契約」と呼ばれるものの正体だと思っています。
しかし本当に、その契約は存在するのでしょうか。
私は存在しないと思う。
それは読者自身が、作者に対して一方的に結んだ契約に過ぎません。
もし文学作品にも最初から選別機能が存在していたなら、そもそもそのような契約は発生しなかったでしょう。
未完成を受け入れられない人間は、最初の段階で作品から離れていくはずだからです。
作者は、「必ず完結させます」と約束しているわけではない。(コナンシリーズにおいては、完結は決まっていると、作者が明言していますが。)にもかかわらず読者は、自らの中で期待を膨らませ、その期待が満たされないと「裏切られた」と感じる。
しかしそれは、本当に作者の責任なのでしょうか。
むしろ私は、その怒りの根底には、「読者側の創造性の放棄」が存在しているように見えます。
本来、文学作品とは極めて想像力依存の強い芸術です。
映像作品のように視覚情報が固定されているわけではない。音楽のように音響が直接感情を規定するわけでもない。文学は、読者自身の脳内によって初めて映像化され、音声化され、感情化される。
つまり文学とは、読者参加型芸術なのです。
それなのに、未完に対してだけは、「作者が答えを出せ」と要求する。
私はそこに強い矛盾を感じます。
Sherlock Holmesは、作者であるArthur Conan Doyleの手によって一度は完結しました。
しかしその後、読者の熱狂的な要望によって続編が執筆され、作品は再び延長されることになります。
つまりそこでは、「作者による完結」と「読者が望む物語の継続」が衝突していたと言えるでしょう。
ここに、文学作品の特殊性が現れています。
たとえ物語が一度閉じられたとしても、読者は必ずしもその終わり方を受け入れるとは限らない。
それは文学作品が、他の芸術以上に強く想像力へ依存しているからです。
ではなぜ、読者はその続きを想像し、自らの中で補完し、自分自身で完結させることを嫌うのでしょうか。
もし本当に物語を愛しているのなら、その続きを想像し、自らの中で補完し、自分自身で完結させるという態度も成立するはずです。
未完成作品を完結させる能力は、読者自身にも確かに存在している。
しかし多くの読者は、それを選びません。
その理由は選別機能に存在します。読者は文学作品を視覚情報として処理し、想像力を働かせます。
そして、その想像力によって生み出された様々なシーンを繋ぎ合わせて想像上の完結を生み出します。
その過程においては、読者は時間的コストを払うことになります。
選別機能によって本来除外されるはずであった読者はその時間的コストを嫌います。
そして、本来時間的コストを節約することになる他者の想像上の完結は、第三者による完結として批判するでしょう。
これは文学作品における、描かれていない部分においての想像の共有の処理不可能性です。
第三者からの完結を嫌う本来除外されるはずであった読者にとって、時間的コストを支払わずに文学作品を芸術作品として余韻を楽しむということは不可能なのです。
文学作品における未完成とは、単なる欠落ではなく、読者の想像力を介して成立する構造そのものです。読者は視覚情報として作品を受け取り、その断片を自らの認知の中で接続し、ひとつの完結像を生成します。その過程には必然的に時間的コストが発生し、それを引き受けるかどうかが、作品の受容態度を分けることになります。
このとき重要なのは、完結は常に外部から与えられるものではなく、内部で構成可能であるという点です。すなわち、未完成作品の完結は本質的には不可能ではなく、むしろ読者側の能動的行為として常に開かれています。
それにもかかわらず、読者が外部の結末や確定的な答えを求める傾向を示すのは、共有可能性や安定した解釈を重視する性質によるものであり、そこに文学作品特有の受容構造が現れます。
したがって、未完成をどう扱うかは作品側の問題ではなく、読者側の認知と選択の問題でもあります。文学とは完成された答えを受け取る行為ではなく、未完成の断片をどのように完結させるかという、読者自身の思考の運動そのものなのです。
ここで私は、しばしば見かける「長期連載は作家の自慰行為だ」という批判について触れたい。
私はこの批判そのものが間違っていると思っています。何故なら、そもそも芸術作品とは自慰行為だからです。
作者は自己表現を行う。 自分の感情、自分の思想、自分の欲望を作品へ流し込む。
それを読者が覗き込む。
しかし読者もまた、その作品を通して想像し、感情移入し、自分自身の欲望を満たしている。
つまり作者だけが快楽を得ているわけではない。
読者もまた、作品消費を通して快楽を得ている。
極端な比喩で言えば、それは「見せ合い自慰行為」に近い。
作者が欲望を見せ、 読者がそれを覗き込み、 読者自身もまた想像によって快楽を得る。
それが芸術作品における作者と読者の関係です。
にもかかわらず、読者だけが被害者の立場に立ち、「完結しろ」「責任を果たせ」と要求するのは、あまりにも一方的ではないでしょうか。
もちろん、私は「作品を完結させること」に反対しているわけではありません。
一つの物語を、一つの作品として閉じること。その美しさを私は否定しません。
しかし、「未完成であること」を過剰に恐れ、「完結しない作品には価値がない」と考える態度には、私は賛同できない。
むしろ未完成作品とは、人間の有限性そのものを映し出す芸術です。
人は必ず死ぬ。 創作もまた途中で終わる可能性がある。 人生そのものが未完成のまま終わる。
だからこそ未完成作品には、生々しい人間性が宿る。
私は、芸術とは本来、その不完全さを含めて味わうものだと思っています。
未完成を受け入れられること。 余韻を楽しめること。 答えが存在しない空白を想像できること。
それこそが、本当の意味で芸術を鑑賞するということなのではないでしょうか。