メインコンテンツへスキップ
見出し画像
Photo byyokoichi

遠浅に帰す #8 [最終話]

     囁くような笑い声が、私とユキのあいだからこぼれていた。
     その声を横目に、窓際でノートパソコンを開いていた外国人が店員と軽く挨拶を交わし、店を出ていく。ドアが開くたび、潮の匂いを含んだ風が一瞬だけ流れ込んできた。冷たい風だった。でも、もう寒さに震えることはなかった。
     付き合い始めた頃、私はユキと離れたくなくて、あの古いアパートにほとんど住み着いていた。
     壁は薄く、床は歩くたびに軋み、エアコンもろくに効かなかった。それでも、その頃の私には何も気にならなかった。そんなことを気にする余裕がないくらい、私はユキのことで頭がいっぱいだった。
     あれはちょうど夏休みだった。そのほとんどを、あの部屋で過ごした。
     昼も夜も汗だくになりながら、笑って、眠って、抱き合った。そのあとは、窓を開け放して風に当たった。コンビニで買ったアイスを食べながら、どうでもいい話をした。
     何も特別じゃない。
     でも、幸せだった。
     ドアから吹き込む冷たい風が頬を撫でる。
     ふと、あの頃食べていたアイスの味を思い出した。
    「ユキは、何味が好きだったっけ」
     何気なく尋ねると、ユキが不思議そうに私を見る。
    「アイス」
     そう言い直すと、ユキは少し考えてから笑った。
    「バニラだよ」
    「それは私でしょ」
     思わず言い返すと、ユキは笑っていた。
    「あかりが好きだから、俺も好きになったんだよ」
     そうだっただろうか。
     そうだったのかもしれない。それだけ長い時間を、私たちは一緒に過ごしてきた。
     それから私たちは何も話さず、ただ笑い合った。店内には、コーヒー豆を挽く音だけが静かに響いていた。
     カフェを出ると、空気はもう夕方の冷たさを帯びていた。
     街へ向かう道を歩きながら、私はぽつりと口を開く。
    「連絡ぐらい、返してほしかった」
     ユキがここへ戻ってきた理由は、もう分かっていた。でも、それでも私は置いていかれた。ユキにそんなつもりがなかったとしても、それだけは変わらない。
    「……自信が、なくなっちゃったんだよ」
    「自信?」
    「そう。あの家は、いつも俺の自信を奪っていくんだ」
     ユキは前を向いたまま、小さく笑う。
     その笑顔は寂しかった。
     ユキの苦しさを、私は全部理解することはできない。きっと一生できない。でも、それでいいと思った。
    「私はね」
     立ち止まることなく言う。
    「ユキに見つけてもらえて、本当によかった」
     ユキがゆっくりとこちらを向く。
    「こんな広い世界があるなんて、知らなかったから」
     海の方を振り返る。
     どこまでも広がる海が、夕日に照らされてきらきらと輝いていた。
    「だから、ユキがどれだけ遠くに行っても、私はちゃんと見つけるよ」
     そう言って手を伸ばす。
     ユキは少し驚いたような顔をしたあと、そっと私の手を握り返した。
     私の言葉の全部は、きっと伝わっていない。それでもよかった。分からなくていい。ユキはそのままでいい。背伸びなんて、もうしなくていい。
     海の匂いが少しずつ遠ざかっていく。
     夕焼けの中、寄り添う二人の影だけが長く前へ伸びていた。

     
     

    紺野

     
     
    日記のようなエッセイのようなもの。それから小説。 フィクションかもしれないし、ノンフィクションかもしれない。

    あなたへのおすすめ