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Photo byhappy_recipes

【エッセイ】言葉と社会、そして脳

    “言葉を変えると、少しだけ自分が変わる”
    そんなことを最近、ふと実感して不思議に思うことがありました。

    日本語で考えたり・話している時は
    どこか話し方もふわっとしていて、
    感情も「余白」を大事にしているかのように
    言い切ることは重要なことをお伝えするときぐらいで、
    人との距離感も遠すぎず近すぎず
      
    一方で韓国語を話しているときは、
    韓国語には「激音」という目の前に紙を置いた時に
    紙がフワッと揺れるように強い発音もあるからなのか
    しっかり口を大きく使って言葉の輪郭もはっきりして少しだけ強く、
    日本語の時よりも感情もわずかにストレートになり、
    人との距離感も僅かに近くなっていたり
      
    そして英語のときは、
    日本語の時よりも意思表示がクリアになり
    マインドにもどこか陽気さが芽生えたりして
    たまたま居合わせた人に話しかけられて
    なにやらジョークを交えたくなったり

    「その服、素敵なデザインで綺麗ですね」というようなことを
    平気で口走っていたりと、フレンドリーな距離感になっていたり

    以前そのような状況を普段の私のことをよく知る人が
    目にした際、その方に「なんか違う人みたいだった」と言われたことがあり

    これらのことは「各言語の発音の仕方の違い」によるのだと
    長年、思っていたのですが

    ある日、少し切なくもある情緒的な話を韓国語で耳にした時に
    心がコトッと動いてポロポロ泣けてきて驚いたことがありました。

    でもホテルに戻ってきて、その出来事や話を
    日本語で振り返ってみたら心は動くけれど、
    感極まる感じの捉え方までには至らず

    その時にこんなことに気づいたのでした。

    各言語を見聞きしてその言葉で思考を巡らせているとき
    もしかしたらその言語が使われている社会や文化に、
    無意識に自分の感覚が寄っているのではないかと。

    日本語を使うときは日本の社会に適した距離感やマイルドな意思表示、
    韓国語を使うときは近しい距離感と素直な意思表示、
    英語を使うときは英語圏で無難とされる距離感や意思表示。
      
    もしかしたら脳がそれぞれの言語を用いる社会で過ごしやすく
    溶け込みやすくなるように「身体的感覚や情緒のモード」を
    自然に切り替えているのかなと

    でも私は脳科学のことも深く知らない素人なので、
    ここまで書いたことは個人的な感覚から思った話でしかないのですが

    もしそのように「生存していくための仕組み」として
    脳が切り替えているのだとしたら・・・

    「脳は主を生存させるために」に
    そんな働きをしているのだとしたらユニークだなと
    思ったのでした。

    それなら自分はどの言語のときがいちばん“素”なのか?
    ・・・なんて、そんなことを考え出したら眠れなくなりそう(笑)

     

    Megu

     
     
    韓国政府機関KOREA.net Honorary Reportersで韓国エンタメ・文化・旅を紹介する記者兼ライター/表現者/ここではふと訪れる日常の思考やエッセイ・短編ストーリー・取材にまつわる記事未満のあれこれを記録しています。/発言は個人の見解⚠️無断転載禁止