
【ショートショート】 雨に濡れたラブレター
教室から走って駐輪場に行き、急いで自転車にまたがって、できるだけ早く校門を出る。
見上げた北の空は真っ暗で、今にも雨が降りそうな気配があった。私は、「ちょうどいい」と思った。
私の家は、ここから北のほうにある。
重たい雨を含んだ、あの真っ黒な雲がある方向だ。
今なら、帰る途中に雨に降られてびしょ濡れになっても構わない。
傘も雨合羽もないけれど、気持ちはもう十分過ぎるくらいどんよりしていて、すぐにでも涙が出そうだった。
雨が降るなら、降ればいい。
そうしたら、ちょっとくらい泣いたって目立たないからむしろ都合がいいくらいだ。
もう一度、「ちょうどいい」と思いながら、私はペダルにかけた足に力を入れた。
顔の横を通り過ぎる空気は、じわじわ湿り気が増して同時に、雨の匂いも強くなる。
踏切を越え坂道を下りながら、私はチラチラと何度も鞄の中を確かめた。
そこには、ノートや問題集と一緒に封筒が入っている。
封筒の中身は、昨夜机に向かい何時間もかけて書いた手紙。
書いたことがないから、何をどう書けばいいのか分からなくて、最初の一文だけで三十分も悩んだ。
いきなり「好きです」と書くのが気恥ずかしくて、「ずっと前から」と書き出してみたり、「急にこんな手紙を渡してごめんなさい」と書いてみたりして、何度も紙を丸めて捨てた。
ようやく書き終わったのは、日付が変わった頃だったと思う。
世の中で、それは「ラブレター」と呼ばれる。
今朝その白いシンプルな封筒を改めて眺め、もう少しおしゃれなものにしたほうが良かったかもと思いつつ、ええいと鞄へ入れた。
明日渡したら、どうなるだろう。
困った顔をされるかもしれない、断られるかもしれない…。
浮かぶ反応はネガティブなものばかりだったけれど、それでも、気持ちは伝えたいと思っていた。そのはずだった。
──昼休みまでは。
昼休み、いつものように私は教室の後ろで友達と話していた。
その時、誰かの「え、まじ?」「よかったじゃん、おめでとう!」という声が聞こえてきたのである。
何気なく振り向くと、そこには私の好きな人がいた。…その隣には、隣のクラスの女子がにこにこしながら立っていて、周りはみんな拍手をしたりちょっと冷やかしたりしている。
何が起きたのかは、すぐに分かった。
別に、誰も悪くない。
結末がこうなら、ラブレターなんていつ渡してもきっと答えは同じだっただろう。
気がつくと、私は周りの空気に合わせて、わーおめでとーみたいなことを言いながら、拍手をしていた。
とりあえず絶対に泣くもんかと、ぐっと喉の奥に力を入れて、私は拍手をしながら鞄の中の手紙のことを考えていた。
急に行き場を失ってしまった、渡す相手はいるのに渡すことはない手紙──。
ぽたり、と頬に雫が当たる。
気づけば空はさらに暗くなっていて、あれよあれよという間に、我慢の限界を迎えたような激しい雨が降り始めた。
「うわ…」
制服の肩は一瞬で濡れ、髪の毛は絞れるくらいに雨を含む。
瞬く間に、涙が目立たないどころか、着衣水泳した後でもバレないくらいにはずぶ濡れになった。
私は、慌てて近くにある商店街へ自転車を向ける。アーケードの下へ滑り込む頃には、靴下までじっとり湿っていた。
空は変わらず真っ暗で、しばらく雨脚の弱まる気配はない。
私はため息をついて、自転車を押しながら商店街を歩き、すぐ近くの一軒の本屋の前で立ち止まった。
年季の入った看板が立てかけられ、店先には色褪せた文庫本が並んでいる古い本屋だ。
新刊を扱う駅前の大型書店とは違う、昔からそこにあり続けたのだろうと思わせる店構えに、ちょっと首を傾げる…いつからあったのだろう。
とりあえず、持っていたハンドタオルや洗濯するために持ち帰ってきた体操服など、少しでも乾いているもので、軽く全身の水分を拭き取る。
しばらくここで雨宿りをさせてもらおうと、自転車のカゴから、濡れて色の変わった鞄を下ろし本屋の中へ入ることにした。
扉を押して開けると、小さいけれどよく響く鈴がリンと鳴り、本屋独特の匂いに包まれる。
「…いらっしゃい」
レジの奥から声がして、白髪混じりの店主はちらりと私を見た。
私は軽く頭を下げ、本棚の間を進む。もちろん、うっかり本を濡らすことのないように細心の気を配りながら。
特に読みたい本があるわけではないので、ただ綺麗に並んだ背表紙を眺めて歩く。
ふと思い出して鞄の中を覗くと、雨に濡れて書かれた文字が少し滲んでいる封筒が見えた。思わず手に取り、それを見ていると、じわじわ気持ちが引っ張られてなおさら文字が滲んで見えてくる。
そんなとき、「すっかり濡れてしまったね、大事な手紙かい」と、こちらを伺うように見ていた店主のおじさんが不意に声をかけてきた。
私は慌てて鼻をすすり、封筒を鞄の中にそっと戻す。
「いえ…」
私は反射的にそう答えたものの、どちらかいうと大事な手紙だなと思った。
人生で初めて書いた、私の気持ちをめいっぱい詰め込んだ、大事なラブレターだ。
店主はそれ以上追及することなく、独り言のように話し続ける。
「こういう店をやっているとね、たまに本の間から出てくるんだよ」
「本の間から…?」
「そう。古本を買い取ることもあるからね。しおり代わりに挟んだのか、気持ちを封じるために挟んだのか。理由はそれぞれだろうけれど、そのまま売られてくるくらいだから、いずれにしても忘れられた手紙だね」
他にも、レシートや映画の半券、古い写真も出てくるぞ、と店主のおじさんはちょっとおどけて言う。話を聞いているうちに、私は少しだけ興味を持った。
「手紙って、結構あるんですか」
「思っている以上にはあると思うよ」
店主は笑う。
「子どもが母親に書いたものもあれば、旅行先から出そうとして忘れたらしい葉書も見たな。友達への謝罪文なんていうのもあった」
そこで少し間を置いて、「もちろん、ラブレターもね」と続ける。
胸の奥がちくりと痛んだ。
店主はそんな私を、気にした様子もなく続ける。
「どれも、相手に届いた後のものなのか、届けられる前のものなのか分からないんだ」おじさんは、まあそりゃそうだよな、売られた本を受け取っただけだからなと笑った。
「…届かなかったら、意味のない手紙になってしまいますね」
思わず、思ったことが口をついて出た。
店主は驚くこともなく、「そうかな」と穏やかに返す。
「だって、届いていなければ、内容は相手に伝わらないですよね」
「そうだね」
「相手に伝わらないなら、書いた意味はあるんでしょうか」
店の外からは、まだ激しい雨音が聞こえる。泣きたいのは私だ、と思う。
店主はしばらく黙ったあと、静かに尋ねた。
「あなたが持っているその手紙は、書くのにどれくらい時間がかかりましたか」
私は、うまく答えられなかった。
「そのかかっている時間、きっとたくさん相手のことを考えたことだろう」
昨夜のことを思い出す。
好きな人の笑う顔。
名前を呼ばれたとき、誰にでも「なあに」と応じる声。
文化祭の準備で、一緒になったこと。
係の仕事で、重い荷物を持ってくれたこと。
委員の仕事を黙って手伝ってくれたこと。
一つひとつ、思い出しながら文章を考えた。
「どんな言葉なら、正しく相手に伝わるか悩んだだろう」
確かに、何度も悩んだ。何度も書き直した。
好きだという自分の気持ちを、できるだけしっかり伝えたかったからだ。
「それも全部、意味がないものなのだろうか」
私は、視線を落とす。
意味がないと言い切ることはできなかった、したくないなと思った。
店主は、続ける。
「昔、本の間から出てきた手紙に、『渡せなかったけど、好きになれてよかった』と書かれたものがあってね」
そうして、ちょっと照れくさそうにしながら、「私はそれを見て、ああこの手紙は渡されることはなかったけれど、大切で意義のある手紙だったのだなと、ひどく感動したんだよ」とそっと微笑んだ。
雨は、なお降り続く。
私は手に持ったままの封筒を、改めて見つめた。
好きだった、その事実は変わらない。
叶わなかったからといって、その気持ちまで嘘になるわけではない。
好きな人のことで一喜一憂した日々も、放課後に少し話せただけで嬉しかったことも、全部事実だ。
私は、大切に持ち帰るために、封筒をそっと鞄にしまった。
「ありがとうございました」
頭を下げると、店主は穏やかに笑った。
「気をつけて帰りなさい、そしてまたおいで」
店を出ると雨はすっかり上がっていて、空はまだ曇っていたものの、雲の切れ間からわずかに夕陽が覗いていた。
帰った後、私はその雨に濡れたラブレターを、机の引き出しの奥へそっと丁寧にしまい込んだ。
(3570文字)
=自分用メモ=
書いていたらどんどん楽しくなって、思ったより長くなってしまった。
ラブレターってすごいですよね。好きなものや好きなこと、好きな人への想いなんて言葉にし始めたらもう論文みたいになってしまう。それを相手の負担にならない程度に、うまく推敲してまとめなくてはいけないんですもんね…。
そんなもの、私にはどれだけ時間があっても恐らく書けないし、書いたことがないのはそのせいだったのだろうなという、突然の気づきを得たのでありました。
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五月最終日、良い一日を過ごすことができたので満足。今日は早めに寝ようと思います。皆さま良い夜を。