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Photo bychii_chiichanchi

第2章 : ICUのドアの向こう

    その日から、私たちの生活は  
    病院を中心に回り始めた。

    昨日までとは、まったく違う時間が流れ始めた。

    ICUに入ると、最初に耳に入ってくるのはモニターの音だった。

    規則正しく、小さく鳴り続ける電子音。

    仕事上それが、ここでは命の音なのだと知ってる。

    ベッドの上の夫は、たくさんの機械につながれていた。

    鼻には栄養を送るための管。
    呼吸を助けるための機械。

    胸は、機械に合わせて上下していた。

    眠っている、という感じではなかった。

    静かすぎるほど静かで、時間が止まっているようだった。

    わかろうとしなければ、なんとかやり過ごせる気がしていた。

    理解してしまったら、きっと元には戻れないと思った。

    だから、目の前のことだけを見ていた。

    モニターの音や、規則正しく動く機械の様子を、ただぼんやりと眺めていた。

    それが何を意味しているのかは、深く考えないようにしていた。

    考えた瞬間に、何かが決定的に変わってしまう気がしていたから。

    私は、そっと夫の手に触れた。

    でも

    その手は、ピクリとも動かなかった。

    名前を呼んでみても、返事はなかった。

    それでも、もう一度だけ呼んでみた。

    また、少しだけ手を握って、小さな声で言った。

    「大丈夫。私が全部やる。心配しないで。早く帰ってきて。」

    ーー

    面会の時間を過ぎても、看護師さんから声をかけられることはなかった。

    仕事の日も、休みの日も、私は毎日ここに来ていたから。

    気をつかってくれていたのだと思う。

    だから、帰る時間は自分で決めていた。

    時計を見て、夫の手をそっと離す。

    ドアの前まで歩いて、一度だけ振り返る。

    それからドアを閉めて、外の窓越しにもう一度、夫を見る。

    それが、毎日の帰り方だった。

    家に戻れば、私は母になる。

    ごはんを作り、「おかえり」と言い、いつものように家の時間を動かす。

    子どもたちは泣かなかった。

    だから、私も泣かなかった。

    泣く場所は決めていた。

    車の中。

    病院の帰り道、エンジンをかけたままハンドルに顔を伏せる。

    その瞬間だけ、誰にも見られない。

    狂ったように泣き叫んだ日もあった。

    声が枯れるほど泣いて、しばらくすると、またエンジンをかけて家に帰る。

    そしてドアを開けたら、何事もなかったように母に戻るのだった。

    それが、毎日の光景だった。

    ある日、いつものようにベッドの横に座って夫の顔を見ていたときだった。

    まぶたが、少し動いた。

    最初は気のせいかと思った。

    でも、もう一度、ゆっくりと夫の目が開いた。

    私は思わず身を乗り出していた。

    「ねえ、聞こえる?」

    「お願い、戻ってきて。」

    「ここにいるよ。」

    気がつけば、必死に夫の名前を呼んでいた。

    夫の目は開いていたけれど、意識はまだ朦朧としているようだった。

    こちらを見ているのかどうかも…はっきりとはわからなかった。

    それでも、私は何度も声をかけ続けた。

    夫が目を開けるようになってからも、  
    すぐに会話ができたわけではなかった。

    意識はまだぼんやりしていて、こちらの声が届いているのかどうかも…よくわからない日が続いた。

    それでも私は、毎日声をかけた。

    ある日、私は夫に聞いた。

    「私は誰ですか?」

    少し間があった。

    夫は私を見て、ゆっくりと口を動かした。

    「○○」

    名前だった。

    それだけだったけれど、その一言で十分だった。

    ちゃんと、ここに戻ってきている。

    そう思えた。

    夫が会いたいだろうとは思うけど、子どもたちは、まだ病室には呼べなかった。

    ICUを出て一般病棟に移っていたけれど、まだ会わせられる状態ではなかったから。

    手は拘束されていて

    無意識に管を抜いたり、頭を触ってしまったりしないようにするためだった。

    そしてもう一つ、理由があった。

    彼の頭蓋骨は、まだ元に戻されていなかった。

    手術で外されたまま、頭の一部は守られていない状態だった。

    だから、子どもたちを病室に入れることができなかった。

    子どもたちには、できるだけ
    静かな声で話した。

    誰も、悪くないこと。

    お父さんが、
    いちばんつらいということ。

    転倒しただけだったこと。
    ただ、当たりどころが悪くて、長い時間の頭の手術が必要になったこと。

    そして、最後に一つだけ。

    「必ず、戻ってくる。」

    それだけは、言い切るように話した。

    みんな黙って聞いていた。

    途中で、何度かうなずいていた。

    泣かなかった。

    たぶん、泣くのを我慢していたのだと思う。

    私はそれ以上、何も付け加えなかった。

    希望だけは、手放させたくなかったから。

    義母に話したのは、その少しあとだった。

    電話だったか、直接会ったのだったか、細かいことはもうはっきり覚えていない。

    ただ、声を出す前から胸の奥が重くなっていたことだけは覚えている。

    私は、同じように話した。

    誰も悪くないこと。

    転倒しただけだったこと。

    当たりどころが悪くて、長時間の頭の手術をしたこと。

    そして、いまは一般病棟にいること。

    でも、子どもたちに話したときと同じ言葉にはならなかった。

    義母の前では、「必ず戻ってくる」と
    簡単には言えなかった。

    代わりに、慎重に、一つずつ言葉を選んだ。

    「いまは、医師の説明を聞きながら
    できることをやっています。」

    義母は、しばらく黙っていた。

    そして、とても静かな声で言った。

    「……そう。」

    それだけだった。

    責められることはなかった。
    取り乱されることもなかった。

    でも、その沈黙の重さを、私ははっきりと感じていた。

    親として。
    母として。

    息子のことを想う時間が、そこにあった。

    話を終えたあと、私はしばらく動けなかった。

    長女、次女、長男には
    希望を手渡した。

    義母には
    現実を置いてきた。

    その違いを、私は一人で抱えることになった。

    夫自身、一般病棟に移ってからも、事態を理解している様子はなかった。

    自分がなぜここにいるのか。  

    何が起きたのか。

    それを把握できているようには見えなかった。

    私は少しずつ、本当に少しずつ、今の状況を話していた。

    ある日、いつものように顔を拭こうと近づいたときだった。

    夫が突然、私の服をつかんだ。

    胸ぐらをつかむような、そんな勢いだった。

    そして、かすれた声で言った。

    「なんでこんな…」

    それだけだった。

    そのあと、夫は何も言わなかった。

    それは、たった一度だけのことだった。

    でも、その言葉の重さを、私はずっと忘れていない。

     
     

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    ケアマネジャーで社会福祉士 夫の重篤な不慮の事故をきっかけに、家族として…支援職として 「同じ家で、違う時間を生きる」日々を経験する。 本書では、病室に通った時間と、その中で見えた家族と人の姿を静かに記録している。

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