
同じ家で、違う時間を生きる
第一章 : 世界が変わった1日
2025年5月4日…深夜。
夫が倒れた。
それまでの私たちは、忙しくても普通の生活をしていた。
夫はディーラーのマネージャーとして店を任され、私はケアマネージャーとして利用者さんの暮らしを支えていた。
同じ家に暮らしながら、それぞれ違う仕事をして、違う時間を生きていた。
でも、あの日を境に、その時間は大きく形を変えた。
手術室の前で待ちながら、医師から言われた言葉を、今でも覚えている。
「まだ予断を許さない状況です。」
大丈夫とは言われなかった。
私はその言葉を聞きながら、これから先の生活がどうなるのか、まだ想像もできずにいた。
手術を終えたのは、数時間後。
ICUで初めて夫に会ったとき、私は言葉を失った。
たくさんの機械に囲まれて、体にはいくつもの管がつながれている。
モニターの音だけが静かに響いていた。
夫は意識がなかった。
そのとき、突然、身体が跳ねた。
ベッドの上で弾かれるように、何度も。
痙攣だったのかもしれない。
私はその様子を見ながら、頭の中で思った。
バッタみたいだ、と。
そんなことを思ってしまった自分に驚きながら、それでも目を離すことができなかった。
信じられなかった。
だって、ほんの数時間前まで、夫は私の隣でいつも通りに笑っていたのだから。
ICUを出たとき、外はもう朝だった。
病院の窓から、朝日が見えた。
夜のあいだに、世界はいつも通り朝を迎えていた。
人は起きて、仕事に向かい、電車が走り、誰かは朝ごはんを食べているのだろう。
そのときのことを思い出そうとすると、ところどころが抜け落ちている。
ちゃんと見ていたはずなのに、音も、周りの様子も、はっきりとは残っていない。
ただ、自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえていた気がする。
落ち着かなきゃ、と何度も思っていたのに、何をどうすればいいのかがわからなかった。
私の時間だけが、まだあのICUの中に置き去りにされたままだった。
ただ黙って、朝日を見ていたけど…
いつまでも立っているわけにはいかなかった。
まず、義母に連絡をしなくては。
そう思った。
けれど、携帯を握ったまま、指が動かなかった。
もし責められたらどうしよう。
なんて言えばいいのだろう。
頭の中で、同じ考えがぐるぐる回っていた。
それから、仕事の仲間の顔も浮かんできた。
一人、また一人と。
昨日まで一緒に仕事をしていた人たち。きっと心配するだろう。
そんなことを考えているうちに、ふと、子どもたちのことが頭に浮かんだ。
守らなくちゃ。
そう思った瞬間、私は現実に引き戻された。
帰らなければ。
当直の守衛さんに声をかけると、市内を回るバスがあることを教えてくれた。
「表からだと遠回りだから」
そう言って、守衛さんは
こっそり裏口を通してくれた。
始発の巡回バスには、もう人が乗っていた。私は無造作にビニール袋を抱えて座った。中には、夫のスーツと靴が入っていた。
救急車から手術室に運ばれるとき、病院の人がそのまま袋に入れてくれたものだった。
バスから電車に乗り、最寄駅に停めていた車を取りに行き、そこから自分で運転して家へ向かった。
夫のスーツが入ったビニール袋を持ったまま電車やバスに乗っていた私を見て、不思議に思った人もいたかもしれない。
家に着くころには、もうすっかり朝になっていた。
たぶん、7時くらいだったと思う。
玄関のドアを開けると、
「おかえり」
子どもたちがそう言ってくれたあと、家の中がふっと静かになった。
みんな、私の顔を見ていた。
私が何を言うのか、その言葉を待っているようだった。
私は、まだ夫のスーツが入ったビニール袋を持ったままだった。
何から話せばいいのかわからなかった。
ほんの昨日まで、この家はいつも通りの朝を迎えていたのに。
でも、もう同じ朝ではなかった。
「心配かけたね。」
そう言ってから、私はゆっくりと話した。
お父さんが倒れたこと。
救急車で運ばれたこと。
いまはICUにいること。
みんな黙って聞いていた。
その日は国民の祝日で、学校も仕事も休みだった。
だから、いつもより少しゆっくりとした朝だった。
台所に立って、簡単にごはんを用意した。
みんなで同じテーブルに座って食べた。
誰も泣かなかった。
でも、きっとみんな泣いていたと思う。
ただ、それを見せないようにしていただけだった。
私はそのあと、家族の写真を一枚撮った。
夫の枕元に置くためだった。
目が覚めたとき、すぐに見えるように。
「みんなここにいるよ」と
言葉の代わりに伝えられるように。
そのあと、私は夫の職場に説明に行かなければならなかった。
でも少しだけ、
体が限界だった。
リビングのソファに横になった。
ほんの少しのつもりだったのに、
そのまま眠ってしまった。
リビングで少し眠ったあと、私は夫の職場へ向かった。
昨日まで、夫が働いていた場所。
車を運転しながらも、まだどこか現実ではないような気がしていた。
職場に着くと、いつもと同じように朝の空気が流れていた。
みなさん、私の顔を見るとすぐに集まってきた。
そして、口々に言った。
「なんで?」
「どうして?」
同じ言葉を繰り返していた。
それ以外の言葉は、見つからないようだった。
しかたない。
病気でもなかったのだから。
昨日まで、夫はここで普通に働いていたのだから。
その中で、一人だけ泣いている人がいた。
声を上げるわけでもなく、ただ静かに涙を流していた。
私はそのとき、その人のことをちゃんと見る余裕はなかった。
ただ、ああ、泣いてくれる人がいるんだ、そう思っただけだった。
でも、いま振り返るとわかる。
最後まで夫のことを同僚として、そして友人として見てくれていたのだと思う。
そのとき泣いていた人は、多くを話さなかった。
ただ、そこに立っていた。
私はそのとき、その人のことを深く考える余裕もなかった。
けれど、そのあとも私が会社に顔を出すたびに、その人は必ず声をかけてくれた。
「どうですか。」
「ご主人は。」
「家族のみなさんは大丈夫ですか。」
決して長い会話ではなかった。
それでも、その言葉にはいつも変わらない気持ちが込められていた。
あのとき、静かに涙を流していた人は、そのあともずっと夫のことを気にかけてくれていた。
同僚として。
そしてきっと、友人として。