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短編小説|伊東女観察日記(全文)

    再生補修

    「なんのはなしです課」通信 藹藹な五十四通目 回収希望記事

    及び 

    創作大賞2026 恋愛小説部門 応募作品

    【あらすじ】
    199X年。北海道札幌市内に所在する某大学の大学生、伊東マサカズは、常に女の子をひねくれた目線で観察している。彼の所属する『ブラバンサークル』やそこから派生した『音楽活動』でも、彼は同じような態度で過ごしていた。
    周りの男女は次々とカップルになっていく中、彼はいつまで経っても行動を起こさない。
    そんな生活を続けてきた彼だが、ある後輩の影響により、居酒屋でアルバイトを始める。
    そこで貯めたお金で彼はボロボロの中古車を購入し、その車で女の子とドライブを重ね、ついにある女性と交際することになる。
    ひとりの女性を愛する喜びを知った彼だったが、彼女の秘められた理由が、やがて思わぬ方向へと導かれてしまう。

    『伊東女観察日記』のあらすじ



    (本文)

    1 サキさん

    25時。
    ゲームセンター前の駐車場でサークルのメンバーが屯している。
    俺はあの時たしか、Tシャツ半ズボンでサンダルを履いていた。夜は寒くなるだろうから薄手の九分袖カーディガンを持ってきていたが、暑くて着なかった。
    次に行く所がなかなか決まらなくて、うだうだしていた。俺はもうほんとにどうでも良くて、ぼんやりしていた。
    俺と同じ大学二年だけど二歳歳上のトシキの車の汚れたボンネットに、指でベンツのマークを描いたりしていた。
    四年生のサキさんが帰ると言った。
    サキさんはこのメンバーの中では一番可愛い。
    俺はもう少し居てほしいと思った。
    サキさんはこういう集まりにはほとんど来ないし、俺はサキさんと接点がほとんどないので、上辺だけの話しかできていなかった。できることなら少人数で居酒屋に行ったりして深い話なんかをしてみたいと思った。別に下心があるわけではなくて、サキさんに少し興味があるだけだ。それで趣味の話とかしてそれで感性というか、そういうリズムみたいのが違かったら、それ以上どうということはなくて、その前に大体先輩だし、あと半年もすれば卒業だし、知らないままいなくなるのももったいないというか、それだけだ。
    「ちょっと、何描いてるの?」と田中さんが言った。田中さんはトシキの彼女で俺の同級生だ。
    「いや。ベンツのマーク?」と俺は言いながら、田中さんの顔を横から見ると夜露みたいので、メガネが湿っていた。いい歳こいて三つ編みにしている。前髪は自分で切ってるのかな。化粧もしてないし。なぜかピアスだけしてるし。生協の二階で売ってそうなデニムのシャツを着てるし。
    「なになに? ベンツのマーク描いたの? 面白い!」サキさんが田中さんに近づいてきてそう言った。
    「伊東君が描いてた」と田中さんが告げ口みたいに言った。
    俺は内心、田中さんナイス!と思った。
    「伊東君っていつも面白いこと思いつくよね!」とサキさんは言いながら小さいベンツマークをボンネットに描いた。
    俺は調子に乗って、その横に三菱のマークを描いた。「面白い!」と田中さんとサキさんは笑って、そこにトシキも入ってきた。
    「ウケる!」とトシキは言って、ボンネットに散々イタズラ描きされたことは特に気にしている様子はなかった。少し安心した。
    他の人にもその文化は広まり、もう一台の車にもベンツや三菱のマークがたくさん描かれた。
    一年のマリちゃんが、「残る人はゲーセンに戻りましょう。外に居ても怪しまれるし。24時間営業なんだし」と言った。彼女はそういう性格だ。俺はマリちゃんのことが最初から好きだ。
    サキさんは帰ると言ったので、俺たちは見送った。田中さんも一緒に帰った。トシキは二人を送ったら戻ってくると言って、偽ベンツは発進した。中古のセダンだった。
    俺はマリちゃんたちと一緒にゲームセンターに戻ってクレーンゲームをした。
    マリちゃんとユキちゃんはどちらも魅力的だ。マリちゃんは姉御肌みたいな感じで、ユキちゃんは抜けている所があるけど、話しかけたら一生懸命何か言おうとするのが良い。
    俺は板チョコがうず高く積み重ねられたところを目掛けてクレーンを降ろした。
    板チョコは簡単に崩れて大量のチョコがざーっと穴に落ちた。
    「伊東さんスゴイ!」と二人は言った。
    俺はそれを三等分に分けてビニール袋に入れた。マリちゃんにそれを渡したら、彼女は遠慮した。ユキちゃんはもらった。
    マリちゃんは、「それ伊東さんの戦利品なんだからマリ取ったらダメじゃん」と言った。
    俺は「こんなにあっても仕方ないし、逆にもらってほしいよ」と言うと、マリちゃんは「ごちそうさまで〜す」と言ってそれを受け取ってくれた。ユキちゃんは苦笑いしているように見えた。
    マリちゃんはタバコを吸うからなのか、アルバイトを詰め過ぎて睡眠時間が少ないからなのかわからないが、口が臭かった。
    少ししてトシキが戻ってきた。その日は結局三時くらいまで遊んだ。

    マリちゃんはその年の冬に俺の尊敬する先輩のコウスケさんと付き合い始めた。
    ユキちゃんも同じ頃に同級生のメガネで四角い顔のヤツと付き合い始めた。
    サキさんはその後どうなったか知らないが、あの日近づいてきたときに顔を盗み見したら、貧相な顔に見えたし、全体的に産毛が生えていた。

    2 リツカちゃん

    三年になった俺はバイトを一旦全部辞めて、その浮いた時間で考えたんだけど、ブラバンサークルでフルートを吹いているリツカちゃんが気になっていることを発見した。
    リツカちゃんは特に目立つ感じではないんだけど、キチンとしていて、俺にも色々言ってくる。
    この前も「伊東さんは根拠のない自信を持った方がいいと思います」と言われた。
    俺は自分のことを自信がないとか、あるいはあるとか考えたことはないんだけど、リツカちゃんがそういうなら根拠のない自信を持とうと思った。
    ところで、根拠ってなんだ。
    自信のあるなしに根拠?
    三十秒くらい俺はそのとき考えたんだけど、結局、「自信」と「根拠」というふたつの言葉は頭の中で繋がらなかった。
    その日は、セッチンっていう昔の便所みたいなあだ名の後輩からプレステのCD-ROMを借りて朝四時までやった。
    次の日は、起きたらもう十五時くらいで、授業はサボった。
    実は十時くらいに一回起きたんだけど、行きたくないな〜みたいな気持ちになって、そのあと明るいのに無理矢理寝ていたせいもあって何回も金縛りに遭って、気持ち悪かった。
    そのあと着替えて、急須でお茶を淹れて、昨日の残りのおかずに甘だれを掛けて丼ぶりにして、食べた。
    十八時半からブラバンサークルの一部メンバーで勝手にやっている「音楽活動」という名の集まりに参加して、何かカタチに残るものを残したいよね、という話だけした。
    しばらくダラダラしてたら守衛さんが来て、「いつもお疲れ様だねぇ」と言われたのですぐ帰りますすいません、と返事した。
    二十一時くらいにびっくりドンキーにそのメンバーで行って、めいめい好きなものを頼んだ。
    その中にセッチンもいて、ゲームの攻略法を教えて貰った。
    なんかカタチに残るものを残したいよねぇ、とさっき言っていたトシキが「なんかカタチに残るものを残したいよねぇ」といった。
    トシキは俺が高校一年のとき、同じ高校の三年の先輩だった。大学に入ってすぐ? いや、五月くらいの合同歓迎会のときに先輩に誘われてブラバンサークルに入ったんだけど、そこにトシキも誘われていて混乱した。えーどうすりゃいいの? と俺は思った。
    とりあえず「タカギ先輩お久しぶりです」って言ってみたら、「トシキでいいよ」と言われた。俺はそういうのは早い方がいいと思って、次のターンから「トシキは…」と言ったら、空気が澱んだ。
    びっくりドンキーを食べ終わって、駐車場にいるとき、マリちゃんにリツカちゃんの連絡先を聞いた。リツカちゃんは、サークル内サークルみたいなこの活動には来ない。マリちゃんが最初誘って断られて、その後俺も誘って断られていた。こういうダラけたのは苦手みたいだった。
    その日はそのあと、一つ上の先輩のコウスケさんの下宿に集まって家飲みした。マリちゃんがリツカちゃん情報をいくつか教えてくれたけど、マリちゃんとリツカちゃんはそれ程仲が良いわけではないようだった。
    マリちゃんはコウスケさんの彼女だから、俺たちは適当なところでお暇した。多分セックスとかもしたいだろうし。
    次の日、俺は頑張って一講目から出席した。同級生何人かが久し振り、とか、単位大丈夫か、など心配してくれた。
    二講目は休みだったから、リツカちゃんとマリちゃんがいるB研究室に顔を出した。
    二人ともいなかったけど、一年生の子が具合悪そうに寝ていた。
    二人っきりだし、起きたら知らない男がいたら驚くかなと思って、声をかけようと思ったけど、寝かせたままの方が良さそうなので、斜め前の席でお茶のペットボトルのラベルを眺めていた。
    マリちゃんが入ってきた。
    「アユ。伊東さん来てるよ」と彼女が声をかけたらアユという名の一年生は起きた。近くで見たらヤンキーみたいな、アウトローみたいな、丁度どっちかわからないくらいの雰囲気の子だった。
    マリちゃんがアユにお茶をあげたりしているうちに彼女は元気になってきて、「バイクの免許を取りに行っている」だとか「将来はピアノの調律士になりたい」とか喋り出した。だれがどう見ても飛び抜けた美人だった。
    だから俺は「バイクの免許取ったら後ろに乗せて下さい」と目をハートにして言った。アユは「イっすよ」といいながら、机の上に置いてあった、ペットボトルにおまけで付いてきたみたいな期間限定のプラスチックの塊をいじっていた。
    俺は昼からの授業で、さっき見たアユの顔を思い出しながらルーズリーフに似顔絵を描いたが、全然似てなかった。その横にマリちゃんとマリちゃんと仲の良いユキちゃんの顔も描いた。ユキちゃんだけめちゃくちゃ上手く描けて、みんなに見せたくなったけど、今授業を受けている同級生でユキちゃんの事を知る人はいなかった。なんとなく身体をボーリングのピンにした。
    なかなかリツカちゃんに会えなくて、マリちゃんに今日のリツカちゃんの予定を聞いたら、二十時まで家庭教師のバイトだという情報を得たので、二十時十分くらいにリツカちゃんの携帯に電話した。
    リツカちゃんは突然俺から電話が来たので「どうしたんですか?」と言っていたが、俺は「今近くにいるから会わないですか?」と通りすがりっぽくいった。
    リツカちゃんと二人きりで会うのは初めてだったけど、緊張はしなかった。近くで見たリツカちゃんは意外と背が小さかった。
    話す言葉も内容も素朴で真面目な印象だった。マリちゃんみたいにリードしてくれる感じではなかった。俺が意識してオチのある話を何個かしたら、全部笑ってくれた。駅近のボーリング場で、ビリヤードしないか誘った。
    俺はナインボールしか知らないけど、リツカちゃんはそれ以上に何も知らなかった。マリちゃんはボールを投げるのも上手かったし、ダーツもビリヤードも、ドラムも俺より断然上手かった。
    リツカちゃんが不器用にキューを握っている後ろから足元を見たら、ズボンの隙間から見える靴下の柄がピンク色の星がたくさん付いているやつだった。ズボンは少しぶかぶかで、もう一個下のサイズの方が良いと思った。今日のマリちゃんはタイト目なブルージーンズを履いて、身体の線を出していた。
    一ゲーム終えて、二人でビンのコカコーラを飲もうよと誘ったら、リツカちゃんはなっちゃんのりんごジュースがいいと言った。
    「『根拠のない自信』って、良いことばだね」と俺が言ったら、リツカちゃんは色々言ってたけど俺にはやっぱりよくわからなかった。
    楽しかったね。ありがとう。と俺はいいながら、一階のゲーム機のコーナーを見たりして、リツカちゃんもまた誘って下さい、といった。
    そのまま駅まで送って、恋人みたいに手をふって、俺はそのまま家に帰って、割と早めに寝た。

    3 りんさん

    りんさんの本名は本当にひらがなのりんだった。
    りんさんは俺が一年のときの四年生で、キーボードを弾いていた。ブラバンサークルにもいたんだけど、何の楽器をやっていたか思い出せないくらいキーボードばかり弾いていた。
    この前そのりんさんから結婚披露宴の招待状が来て、そこに『林 りん』って書いてあった。
    相手の人はりんさんの一個先輩の内匠さんっていう人で、この人はドラムとベースをやっていた。
    内匠さんは俺が初めて会ったときすでに卒業していて、就職もしていたんだけど、なんかの公務員をしているから夜は空いていて、りんさんと一緒に「音楽活動」のときだけ来てくれた。その時しか会えない人だった。
    俺は内匠さんからドラムを教えてもらいたかったんだけど、当時俺はまだ十八で、二十五歳の内匠さんと話をするのが少し怖かった。今考えるとあのときの内匠さんは二十四歳だった。まあどっちでも良いけど。
    俺は当時、ドラムのおかずが自分でも痛々しいくらいパターンが少なかったくせに、軽音のドラムのヤツをバカにしていた。なぜならそいつは盆踊りみたいなビート感、しか持ち合わせていないからだった。
    だから余計に内匠さんのドラムがかっこよく聴こえた。りんさんはそこでボーカルとキーボードをやっていたんだけど、声が細くて、俺には力強い内匠さんのドラム方がレベルが上だと感じた。
    それで俺はバンドの中でも競争というか切磋琢磨みたいなことがあることを学んだ。
    りんさんのバンドには、りんさんの同級生の女の人が入っていて、その人もボーカルをやっていた。その人はブラバンサークルではクラリネットを吹いていた。メガネでショートカットの人で、いつもりんさんと学内を歩いていたのに名前を忘れた。とりあえずその人を、クラリネットの頭文字を取ってKさんとする。
    Kさんの歌声はよく通るから、俺はりんさんよりKさんのボーカルの方が好みだった。見た目もKさんの方がカッコいい感じでそれも好みだった。
    披露宴には、大学の入学式のときに買ったスーツを着て行ったんだけど、トシキとかマリちゃんとかコウスケさんとか、いつものメンバーもちゃんと来ていて安心した。
    大体平日しか会わないから、ちゃんとみんな休日の昼間でも来れるのかな? とか、そんなことを心配していた。
    俺の円卓には当然のようにトシキとマリちゃんがいて、ノリオもいた。
    ノリオは俺より女っ気のないやつだから、この話にはあまり出てこないと思うけど、ブラバンのときも「音楽活動」のときも実はずーっと一緒に居て、しかも多分しっかりエロいやつだと思う。なんかノリオから女の話を聞くこと自体俺は生理的に受け付けないから、いつもそれ以外の話をするようにしていた。
    どういうわけか、りんさんのお友達席にKさんは入っていなくて、弾かれるように俺の隣に配席されていた。
    俺はりんさん経由でKさんと何度か話をしているから、Kさんは一応俺の事を知っている。
    「マサカズ君久しぶり~」とKさんは言った。
    俺は伊東と呼ばれるよりマサカズと呼ばれた方が嬉しいので、序盤からテンションが上がった。
    その後も反対隣のノリオに背を向けて、ずっとKさんと話をしていた。
    就職先の事や、音楽はもうやっていない事や、好きな服の話までしてくれた。
    俺はファッションとかには疎いんだけど、女が着ている服を観察するのはすごく好きだから、めちゃくちゃ興奮した。
    Kさんは「アパレル業界といえばアパレル業界なんだけど」とか言っていて、つまりよく分からない業界に所属しているらしかった。
    俺はまだ大学三年だし、就職とかそういう気持ち悪いことは考えないようにしていたので、そんな業界もあるのかな、くらいで聞いていた。それよりも髪型とか服とかメイクばっかり見ていたし、そういう方向に話題を持っていこうと必死になっていた。
    Kさんが話す服やおしゃれの話は所々分かる所もあったけど、全く知らないフリをして喋らせた。
    その声は、うるさい会場内でも聴き取りやすくて、甘い感じもときどき混ざるから、いい気分になった。
    そのとき、りんさんの細い声を連想して、考えようによってはりんさんの声は繊細で、曲によってはりんさんボーカルも良いなあ、と初めて思った。
    会場が暗転して、入り口にスポットライトが当たった。
    観音開きのドアが開いて、りんさんと内匠さんが現れた。
    恥ずかしい感じがした。
    俺は将来結婚できたとしても、これはやりたくないな〜と思った。でも、これは俺じゃないので単純に嬉しくて、とても祝いたかった。
    一度、内匠さんの部屋に行ったことがあって、そのとき内匠さんは寝ていた。
    その枕元に電子ドラムが置いてあった。
    同棲しているのか何なのか分からないけど、りんさんが妻みたいに出てきた。
    りんさんが「タカくん。」と声を掛けたら内匠さんは飛び起きて、ドラムイスに座って、スネアドラムの上に置きっぱなしになっていたスティックを取って、エイトビートを刻んだ。起きてから叩くまでが一秒だった。
    「これくらいやらないとドラムはうまくならないからね」と俺の方を見て言った。内匠さんはドラムをすぐやめてトイレに行った。
    内匠さんは常にそういう感じの人だった。
    りんさんはとにかく優しい人で、常に他人の良い所を見ようとしていて、苦労しても内に秘めていて、よく扁桃腺が腫れて、それでも無理して出てきて、何かの長の付く仕事を色々やっていて、そういうストレスを全て内匠さんは包んでくれそうで、そういうのを総合勘案したら、良いカップルだと思った。

    披露宴は何ということもなく終わって、二次会にはりんさんと内匠さん世代の人たちが行く感じだったからやめた。
    マリちゃんとコウスケさんはお疲れー、と言ってどこかに行ってしまった。
    ノリオとトシキと俺がその場に取り残された。トシキが「この近くにジャズバーがあるんだけど、行かない?」と言ったので、あまり乗り気ではなかったけどついて行くことにした。でもよく考えたら、それって夜しかやってないんじゃないかな、と思ったが、トシキはその辺の事はしっかりしてそうだから黙っていた。
    ジャズバーに着いたら、『十九時〜』と書いてあった。まだ十六時台だった。
    二人はあと三時間もあるのに、時間を潰してからジャズバーに行くと言い始めたので、俺は電車に乗って帰った。
    イベントのある日にこんなに早く帰るなんて、と思うと少し寂しくなった。

    今書いてて気づいたんだけど、クラリネットの頭文字はKじゃなくてCだった。

    4 アユ

    同級生の中で俺の気を引く女はあまりいない。
    俺は自分の研究室にはあまり近付かなくなっていて、代わりにマリちゃんなどのブラバンサークルに所属している人がたくさんいるB研究室に出入りしている。
    ブラバンサークルの同級生の女は田中さんとかしかいなくて、いや確かに田中さんはいい人なんだけど、あまり異性として好みではなくて、何よりトシキの彼女だ。
    田中さんは俺に会うと大抵「部費払ってね」と言ってくる。ブラバンサークルの会計をしているのだ。
    俺は「払います」と言うのだが、どういうわけだかいつも持ち合わせがなくて、払えない。
    覚えておこうと思ってるんだけど、すぐそれ以上の楽しい刺激がじゃんじゃん入ってきて忘れる。年額五千円なんだけど。
    トシキはB研究室には来ない。彼は自分の研究室の方でもうまいことやっているようだった。
    二浪している事を利用して、兄貴的なポジションを得ているみたいだった。
    トシキの事は別にいいんだけど、俺が所属している研究室には同級生の女が三人いて、その内二人は可愛かった。
    ひとりはマエカワという苗字の女で、柔らかい雰囲気と髪の毛のツヤがすごかった。
    もうひとりはモリという苗字の女で、双子の片割れだという噂だったが、よく聞いたらもうひとりは違う大学に通っているらしく、結局知らなくてもいい情報だった。
    俺は当然のごとく、マエカワと努めて話をするようにしていたんだけど、マエカワは一年の夏くらいに男前とかではないんだけど、男女関係なく好かれそうな雰囲気を持つ、ケンゴってヤツと付き合い始めた。
    モリも二個先輩の丸顔メガネの塾講師のバイトをしている、ややこしいんだけど、森さんと言う苗字の人と付き合い始めた。
    だから俺が自分の研究室に行ってもあまり利益はなくて、確かにサトウとかムラちゃんとかの男の同級生には大抵会えるのだが、断然マリちゃんと会った方が楽しいから、そっちに入り浸っていた。
    そう言えばショッキングなことがあった。
    俺がいつものようにB研究室に行くと、マリちゃんがいて嬉しかったんだけど、それは今は良くて、「伊東さん知ってました? 一年のアユいますよね」「あーいるね」「そのアユとセッチンが付き合ってるんですよ」「へー良かったね」という会話を俺はしました。
    それで「アユちゃんは美人さんだからね」とか「そう言えばセッチンにプレステのソフト返すの忘れてたわ」とかもう普通の精神状態の人間が話しているとは思えない感じに俺はなっていた。
    だからマリちゃんに「伊東さんアユ好きだったんですか」と言われてしまった。
    俺は「アユちゃんはみんな好きでしょう」と負け惜しみみたいに言った。
    その流れで「アユと付き合ったら疲れそうですよね」みたいなことをマリちゃんは言って、俺は思わず「そうだよね」と言ったりしていた。
    それをその日の夜に思い出して、マリちゃんは誘導尋問を仕掛けて俺をからかっていたと思った。マリはそういう女だ。
    そうしている内に、全く普通の雰囲気のセッチンが入って来た。
    いつも通りの安定したダサさなのに、何だか少しカッコよく見えた。服はいつもの醤油をこぼした跡が目立つ白系のパーカーを着ていた。一緒にワタベくんというセッチンとよく一緒にいる、メガネ天パ痩せだが背の高い男が入って来た。
    俺はワタベくんと話すことにした。
    ワタベくんは接しやすい。でも話せば話すほどわかってくるのだが、ワタベくんはすごく適当だ。
    基本やる気がなくて大切なことは何も任せられない。そのとき俺は彼と何の話をしたか忘れた。なぜならマリちゃんとセッチンの話を盗み聞きしていたからだ。
    マリちゃんは、「アユ元気?」とか、「ヤったの?」とかみたいな事をバンバン聞いているので、俺はワタベくんと話している方が不自然に思えてきて、「マリちゃん聞きすぎ」と先輩らしい柔らかいトーンで言った。
    するとセッチンは「いや別にいいんですよ、この人いつもそうだから」などと余裕のある感じを示したから行け好かなかった。
    セッチンは元々ちょっとだけ行け好かなかったのだが、この瞬間に、やや行け好かないにレベルアップした。
    ブラバンサークルでも指揮者とかやってるし、ブラバンの強豪校出身だし、トランペットも優等生的な音で、全体的に行け好かなかったのだ。また男の話になってしまった。
    とにかくアユは、流石に俺とは釣り合わないんだけど、セッチンはないよなと思った。ワタベくんの方がむしろ合っていると思った。
    そのあとも、マリちゃんと同学年のユキちゃんとか、周りの評価はイマイチでも俺好みのタミヤとか、俺が一時好きだったリツカちゃんとか、二年のとき編入して来た子とか、高校のとき体育会系だった匂いがする、やっちゃんって子などが出入りした。色んな女の良い香りがした。
    それらの女たちの内、ブラバンサークルではマリ、ユキ、やっちゃん、俺が打楽器を担当している。
    やっちゃん以外は全員彼氏がいる。

    俺はその日家に帰ってから、アユの事を考えた。
    アユは美人過ぎて何とも思わなかった。
    次にマリちゃんがセッチンに「ヤったの?」と言ったときの声を思い出したが、それもセッチンが連想された。
    やっちゃんの健康的な雰囲気や、ユキちゃんのどう言えばいいのかな、と考えてる顔が次々出てきた。
    そして結局マリちゃんのことが思い浮かんだ。……でもマリはコウスケさんの彼女だ。
    最後にタミヤの俯いて集中しているときの頭頂部が出てきた。少し攻撃的なひとこと。彼女は悪気はなくて、いつも思ったそのままを言う。マリちゃんにも「タミヤそういう言い方良くないよ」とよく言われている。そういう世間ズレした所が愛らしかった。
    その瞬間携帯が鳴り、相手が高校のときの友達だったから嬉しくなって、深夜まで喋った。

    5 マリちゃん

    マリちゃんが好きだ。
    俺はその正直な心をずっと心に押し込めてきた。
    俺の顔に少し冷たくて緊張感のある、秋独特の風が当たった。
    「あたたか〜い」の方のGEORGIAのエメラルドマウンテンが飲みたくなって、枯れたイネ科雑草がその脇にぽやぽや生えている自販機で買った。上着のポケットに入れて、カイロの代わりにして、いつの間にか忘れていた。
    マリちゃんのいるB研究室には最近行っていなくて、ブラバンサークルにも二週に一回くらいしか出なくなっていた。
    サークルに出たら「先週どうしたんですか」と心配されて有り難かったんだけど、なんか気を遣われているような気もして、勝手に居心地が悪くなった。
    最近はもっぱら「音楽活動」というブラバンサークル内の非公認サークルの方に力を入れている。
    この日記には、俺が日々感じた女に対する感情だけを赤裸々に書いているんだけども、今回はそれ以外も書く。
    「音楽活動」のメンバーのトシキが、「なんかカタチに残る事をやりたいよね」とずっと言っていて、俺たちは学祭でジャズを演奏することになった。
    メンバーのトシキとノリオがジャズ喫茶に行ったのをキッカケにそんな機運が高まったらしい。
    それで、コウスケさん、俺、マリ、セッチン、ワタベくんと言ういつものメンバーに加えて、タク、っていう軽音のヤツも「ジャズやってみたいです」って言ってたから、俺が誘った。
    俺はドラムしかできないんだけど、そのせいでマリちゃんはピアノをやる事になった。
    俺は交代でドラムやろうよ、と言ったが、マリちゃんは断固としてドラムセットに近づいて来なかった。
    彼女はそういう所を凄く考えて行動する。
    俺は極端な話、客でも良かったんだけど、「伊東さんしかジャズドラマーはいません」とマリちゃんに言われて少し調子に乗った。それで俺はあんまり興味がなかったけどジャズを聴いた。
    カッコいいんだけど、難しすぎる。
    しかもジャズって、ソロがあるみたいだった。スィングする、というのもわからんし、エイトビートでずんずん叩くのが好きだから面倒くさかった。
    わからないなりに、一拍を全部三連符で感じるのがスウィング。と勝手に解釈してそういう練習をした。
    それで例えば一歩歩くたびに、頭の中でそれを三分割したりなどして生活していた。

    マリちゃんがコウスケさんと別れた。
    俺は悲しい気持ちになった。コウスケさんは俺の尊敬する先輩で、マリちゃんは俺の好きな後輩だ。
    マリちゃんの心の事を考えると、ぎゅーーっと心が締め付けられた。
    この前コウスケさんの車に乗ったとき、コウスケさんはマリちゃんと別れた経緯を喋り出した。
    要するに、マリちゃんの前に付き合っていた人とヨリを戻したから、別れた、という話だった。
    素直に言う所がコウスケさんの良い所だと思った。
    それでもマリちゃんは一緒に「音楽活動」をしていたし、コウスケさんの下宿の家飲みにも普通に参加していた。
    マリちゃんは、俺にもこの前「別れました」と言ってきた。
    俺のリアクションが薄いのを察して、「コウスケさんから聞いてた?」と言われた。
    呼び方が「コウスケ」から「コウスケさん」に戻っていた。めっちゃ事務的だと思った。
    そういう割り切りの早さが良い所なんだけど、俺には下品にも感じられた。
    もしかしたら本当は傷ついていて、上手に演じているだけかもしれないけど。
    マリちゃん。どっちなの? って聞きたくなるけど、それが一番下品だと思った。

    学祭直前に、ノリオがワタベくんのやる気のなさににブチギレて、ほかのメンバーが楽しくやろうよ、とかなんとか言いながら、実はみんなノリオに呆れていた。
    つまりワタベくんのやる気のなさに気づくの今更かよ、いうことだ。
    ノリオは見た目も気持ち悪いし、中身もそんな感じだから、雑に扱っても良い。
    本番もブラバンサークルの人が一杯来てくれて、楽しかった。ちなみにアユが酔っ払い過ぎて、俺を誘惑してきたりもあって、そういう部分も良かった。
    だから大成功と言えたし、トシキがバカみたいに言い続けたことが本当に実現したのかと思うと感慨深かった。

    その翌週に、打楽器担当の四人で外国人の打楽器奏者ユニットみたいなやつを見に行った。これはマリちゃんが見つけてきた。
    マリちゃんが冬に開催される、打楽器アンサンブルに出ようと言い出して、その一環で見に行ったのだ。
    女どもは俺の事を「幸せ者だねぇ」とか言ってイジって来た。
    確かにみんな魅力的なんだけど、明らかに気を遣われている感じがして、俺はカラ元気で、「いや、ホントに。」というのが精一杯だった。空気を悪くして申し訳ないが、このときの俺は結構色々虚しかった。
    で、そのコンサート的なのが終わったあと、女三人がロビーでキャッキャやっていて、俺もその近くに佇んでいたんだけど、マリちゃんが近づいてきて「伊東さん、どうしたんですか?」って言ってきた。
    俺が「え?」と言うと、マリちゃんは「伊東さん、そろそろ帰らないんですか。私たち次行きたいんですけど」と言った。
    打楽器アンサンブルは金賞だった。

    6 マリちゃん2

    マリちゃんにアタックする前から何となくフラれて、俺はかなり落ち込んだ。
    結局俺は傍観者が良くて、女を見ながら欠点などを観察して、それを慈しんでいた頃が一番幸せだったことを思い出した。
    つまり自分がプレイヤーになる、ということはそれなりの覚悟が必要、ということだ。
    そんな覚悟よりも、妄想を膨らませた方がお手軽だし、実際それなりに満足だった。

    学祭で一緒に演奏してから、軽音部のタクと急速に仲良くなった。タクの何が良いかというと、行動力だ。
    タクはとにかくバイトをしている。そして学校が休みに入ると、海外にバックパッカー的な感じで旅行へ繰り出しているそうだ。
    その旅行記が面白かった。
    そこにはインドからネパールまで旅した事が書かれていて、主に現地の人たちの下衆な態度やそれに対する感想などがタク独特の箇条書きみたいな、淡白な筆致で記されていた。
    読み終わってタクに返しに行くと「ヨーロッパとアジアに行ったから、次アフリカに行きます」と言っていた。
    ブラバンには絶対いないタイプだった。
    俺はタクから影響を受けたくなって、タクがやっているバイトを始めることにした。それは居酒屋で、俺には一番向いてなさそうだった。
    タクが「伊東さんなら大丈夫ですよ」と、何の根拠もない事を言った。「根拠のない自信」と昔リツカちゃんに言われたことを思い出した。
    バイトが始まると、刻々と変わる状況に俺は混乱した。何度も聞き返して、棒立ちになって、自己嫌悪に陥った。
    タクも、「あぁ、そっか。そうですよね……いや大丈夫です」くらいの大丈夫になった。
    それでも俺は「根拠のない自信、根拠のない自信……」と呟きながら、痛々しく勤務時間を終えた。
    みんなこうやって働いてるんだなあ、と思った。俺は実家から通ってるから、金銭的に余裕があった。だからバイトも単発の土日のやつしかやらなかったし、親の知り合いの子どもの勉強を見てほしい、くらいの家庭教師しかやってこなかったから、居酒屋みたいなサービス業は辛かった。
    マリちゃんはモスバーガーで働いてるし、セッチンもなんか色々掛け持ちしていた。あのやる気のないワタベくんでさえ、児童館の手伝いみたいのをしていた。
    一方のトシキとノリオは俺と同じ実家通いで、家庭教師くらいしかやっていなかった。
    だからイケてないのだと思った。
    従って俺は耐えた。
    タクは海外に行くためにバイトしている。
    俺もそういう明確な目標を持とうと思った。
    内匠さんと同じモデルの電子ドラムを買おうと思って、少しずつ金を貯めてたんだけど、それじゃないと思った。
    コウスケさんは車を持っている。マリちゃんはコウスケさんと付き合っていた。という単なる連想で車を買うことにした。
    思い付きの割にはすごくしっくりきた。

    知らぬ間に四年生になっていて、コウスケさんはいなくなっていた。
    俺とトシキとノリオの内、誰かがサークルのまとめ役をするのかと思ったけど、指揮者ができる後輩のセッチンがブラバンサークルの長になった。
    「音楽活動」の方は一応ノリオがリーダーということになったけど、実質的にはマリちゃんがリーダーみたいなものだった。こっちは非公認だけど、それなりにいい感じになって来たので、同好会として申請しても良さそうな雰囲気があった。
    こういうときトシキは気配を消す。後輩の中でも、トシキさん……? みたいな空気があったのにノリオにやらせた。一方のノリオはトシキがリーダーなのは嫌みたいだった。
    あと、マリちゃんが「伊東さんにやってもらいましょうよ」とふざけて言った。
    俺は「いいよ」と言ったけど、みんな冗談だと思ったみたいだった。
    ところで、何で三年が実権を握るのかと少し思ったが、四年生の三人は自分で言うのもアレだけど、ダメ人間ばかりなので仕方がないと思った。

    サークルより俺はバイトに明け暮れた。そして遂に薄緑色の十万キロ走ってるゴミみたいな軽自動車を買った。
    それを学校に乗り入れ申請して、電車通学ともおさらばした。
    俺はその車であちこち行ったから、ガソリン代がめちゃくちゃかかった。あと保険代やらタイヤ代もあるからバイトはますますやめられなくなった。

    結局助手席に乗ってくれる女はマリちゃんだけだった。
    その車内で、タミヤがいつも持ち歩いてる成人式の写真がウケるだとか、そんな話をした。
    俺もその写真をタミヤから見せてもらったが、振袖よりタミヤが勝っていた。なんというか、「質実剛健」という言葉が思い浮かんだ。俺はその骨太な身体付きとお尻のデカさに安産な女を見い出していた。タミヤは正直な分、笑うと子供みたいで可愛いし、マリちゃんもタミヤには好感を持っているように見えた。
    マリちゃんはにやにやしている。人をバカにして、悪い女だと思った。けど、そういうマリちゃんも俺は好きだった。
    あーここでキスしたいな、とか勝手気ままな妄想が浮かんだ。女のもみあげって、男と全然違うな。耳の皮膚もツヤっ、としていて、その皮膚がそのまま耳の裏にも採用されていた。簡単にまとめた髪の毛がその後ろに存在していて、その陰で真っ白い首筋が光を放っている。
    「伊東さんの車の助手席に座ったら、タミヤに怒られるかも」とマリちゃんは言った。
    「へーそうなの」
    「それはそうでしょう。伊東さんモテモテですよ」
    「誰に?」
    「いやだからタミヤとか、リツカとか、あとエイミさんも伊東さんのこと良いって言ってましたよ」
    「えーマジで? マリちゃんは?」
    「私はコウジロウが好き」
    「あーあの北大の?」
    「ヤツ子もコウジロウ派だから」
    ヤツ子、はやっちゃんのことだ。
    「そのコウジロウには会ってるの?」
    「会ってないです」
    「何それ」
    「どうやって会えるんですか?」
    「ドラム教えて下さい、って言えば良いんじゃないの?」
    「私の方が上手いし」
    確かにそう思った。
    「背が高くて、爪がきれいで、手の指が長いのが良いんですよ」
    俺にはそのひとつもなかった。
    ドラムと言えば、マリちゃんと俺のドラムの実力はもう大体同じくらいまで来ていると思った。
    技術は負けるけど、表現力なら勝ってるかも、くらいに思った。
    マリちゃんのドラムには執念みたいなものが感じられない。

    7 やっちゃん

    最近俺はブラバンサークルでモテている。
    マリちゃんからその情報を得て、忙しくてもサークルに行くようになった。
    マリちゃんは、「伊東さん最近バイトとか頑張ってるから目に生気が戻って、それでモテてるんじゃないですか」と半笑いで分析した。
    「でも俺がモテるって、なんかおかしいよね」って言ったら、「私は伊東さんを男としては見れないから、私もわかんないです。なんでも話せる女友達?」と言われた。
    ここで、「マリちゃん。俺はマリちゃんを女として見ています!」って言ったら、めちゃくちゃキモいよなあと思った。

    そんな話をした次の日に、やっちゃんが死んだ。
    トラックに撥ねられて頭を打って即死だった。
    お通夜に参列したら、やっちゃんの彼氏の本木くんってヤツが来ていて、号泣していた。本木くんとはたまに話すので、逆に声を掛けづらかった。
    俺も何回も泣きそうになったけど、堪えた。
    マリちゃんと、ユキちゃんと三人でやっちゃんの両親に挨拶した。
    やっちゃんは「アンサンブルコンクール金賞だったんだよ」ってすごく喜んでいたそうだ。
    やっちゃんは完全に初心者で、ドラムスティックの握り方から教えた。運動神経が良いからすぐ上手くなった。いつも笑顔で、声が少しハスキーだった。高校生の妹が居て、同じ顔で、同じ声だった。

    俺はまた暗い感じになりかけたんだけど、ユキちゃんがぽつりと「ヤツ子でも、死んじゃうんだ」と言ったのが、すごく頭に残った。
    それで、俺はいつ死んでも後悔のないように生きようと思った。

    それを踏まえて何をしたかと言うと、タミヤとエイミちゃんとリツカちゃんの内の誰かと付き合おうと思った。
    リツカちゃんと二人で遊んだ日のことを思い出した。彼女はマジメ過ぎて、俺には息苦しい気がした。例えば、ワタベくんみたいな打たれ強いタイプの方が合ってると思った。
    最近、タミヤは俺を意識し過ぎて、近づいてきてくれない。そういうのがいちいちたまらなかった。
    エイミちゃんの事はまだほとんど知らないのに、俺はもうほとんどタミヤと付き合おうと決めていた。

    ある日、B研究室にいつもの感じで居たら、キツめのパーマをあてたエイミちゃんが入ってきた。
    エイミちゃんの髪は長くて、前髪をびん留めで留めて、横に流していた。
    フレームが下にだけ付いたメガネを掛けて、黒い襟付きの服を着ていた。
    なんかわからんが、とにかく洗練されたオシャレな感じだった。しばらく見ないうちにすごくカッコよくなっていた。
    それで俺の横に座って……くれたら良かったんだけど、田中さんとずっとお喋りしていた。
    俺はエイミちゃんの斜め前くらいに座っていたから、目が合った。彼女は少しニコッと笑って、その顔はパグ犬に似ていた。
    「エイミちゃん、今日オシャレだよね」と思っただけのはずだったが、口にしていた。
    「ありがとう」とエイミちゃんは言って、それから俺は、最近のトシキの話をした。話しているうちに、田中さんとトシキが別れていることが、じわじわ分かってきた。
    田中さんは「いいのいいの」って言ってたけど、本当にすまなかった。
    実はトシキは高校の時、同級生の角田先輩っていう人と付き合っていたんだけど、まだ引きずっていた。時々そんな恋愛相談を俺みたいな童貞にしていた。
    だからそれは単なる独り言だと受けとめていて、いつもお菓子など食べながら聞き流していた。多分、トシキは角田先輩とヨリを戻したのだと思った。
    そんなことを考えながら俺は、エイミちゃんの綺麗な二重まぶたと、眉尻が必要以上に上がったカッコ良い眉毛と、団子っ鼻と、ひな人形みたいな小さな口と、所々ニキビが出ている肌と、細い首、形の良い胸、くびれてない腰、肉の薄いお尻、とにかく全部見ていた。
    そして何よりシャンプーの匂いが良くて、銘柄を知りたいくらいだった。
    もうその日から、エイミちゃんの匂いが頭から離れなくて、またすぐ会いたくなった。
    夢中になればなる程、やっちゃんの事が頭を掠めて変な罪悪感がよぎったが、ユキちゃんのセリフがそれを防いだ。
    エイミちゃんは俺と同じ四年だから、卒業論文の進捗状況とかを話したり、図書館で調べものしたり、何とか共通点を見つけて会うようにしていた。
    でも学部が全然違うし、住んでる駅も反対方向だったので、やっぱりブラバンサークルがちゃんと会える最大のチャンスだった。

    水色のTシャツを着たエイミちゃんがテナーサックスの練習をしていた。アルトサックスのキイチってヤツが「エイミの髪、めっちゃいい匂いする!」と鼻を髪の毛にくっ付けてふざけていた。エイミちゃんはキイチと一緒に笑っていたから、俺は羨まし過ぎた。
    サークル終わりの廊下でエイミちゃんとふたりになれそうな瞬間があったから、「駅まで一緒に帰ってくれませんか?」と誘った。
    エイミちゃんは「何で敬語?」と言って、パグ犬が尻尾を振る、みたいに笑った。
    もう俺は速攻でドラムセットシンバル木琴大太鼓及びトライアングルなどの小物類、とにかく全部片付けて準備万端にした。マリちゃんが「伊東さん頑張って〜」と言った。
    エイミちゃんがTシャツの上に黒くて裾の長いカーディガンを羽織ってB研究室から出てきた。
    並んで階段を降りている所で、ラブラブな雰囲気が漂った。そこで俺は気づいたんだけど、車で学校に来ていた。
    「ごめん、今日俺車だった」って言ったら、エイミちゃんは、「車はタミヤちゃんに悪いかなあ」と言ったので、俺は聞こえないフリをした。

    8 エイミちゃん


    エイミちゃんは俺の車の助手席に乗った。
    俺が車の後ろを回って車内に入ると、エイミちゃんの匂いが既に車内に充満していた。
    俺は「ドライブしようよ」って言った。
    エイミちゃんは「いいよ」って言った。
    それで海まで行くことになった。
    四年間一緒のサークルだったのに、エイミちゃんとはずっとあいさつ程度の関係だった。
    それで今までのお互いの歩み、みたいな話をした。
    何で俺はエイミちゃんのことを見ていなかったのだろう。それはきっとマリちゃんを見ていたからだと思った。
    エイミちゃんの丸い顔は柔らかそうで、心が落ち着いた。
    話していると眉毛がよく動く。無表情だとドラゴンボールの孫悟空みたいな角度なんだけど、笑うと一瞬、ハの字まで行く。本当に0.何秒の話なんだけど、その一瞬の顔が見たくて俺は喋り続けた。
    服装がクール目なのに、性格は全然そんな事はなかった。とにかく表情も性格も柔らかいという印象が強かった。
    俺はバイトを頑張ってきて、本当に良かったと思った。

    少しずつ空が暗くなってきた。
    それでも車は海に向けて進んでいる。エイミちゃんも、俺と同じで実家から大学に通っている。
    「帰りが遅くなっても大丈夫?」と聞いたら、「いいよ」と言った。
    俺は車のライトを点けた。田舎道には俺とエイミちゃんを乗せた車だけが走っていた。
    しばらく行くと、石狩の海が見えてきた。正確には見えていないんだけど、この先に土地がないという雰囲気がむんむん漂っていた。
    石狩は風が強いイメージがあったけど、この日は無風だった。
    舗装道路が切れたところから少し進んで、車を寄せて停めた。エイミちゃんと俺は車を降りた。夜なのに寒くなかった。
    海に反射する月をふたりで眺めて、波の音を聴いた。
    左側にいるエイミちゃんの口角は上がっていて、眉毛は孫悟空だった。丸顔の頬のラインを手のひらで同じ形にして、被せてみたくなった。
    少し長目の玉虫色のスカートがひらひらして、風が吹き始めた事を示した。
    その下から延びる二本の脚は白くて、グレーのNIKEの昔っぽいスニーカーがカッコよかった。
    今日初めてふたりで学校から帰るだけだったはずなのに、今海にいる。
    「そろそろ帰ろうよ」と俺が言うと、エイミちゃんは笑顔で頷いた。
    俺の車の色はやっぱりすごくダサかった。
    「伊東くん、次はタミヤちゃんを乗せてあげなよ」とエイミちゃんが言った。
    ここでタミヤの事を出すと言うことは、俺の事が好きじゃないのかな、と思った。
    俺はマリちゃんのウソ情報に乗せられただけかもしれないと思った。
    マリちゃん情報を得てから、エイミちゃんのことを好きになるまで、半月くらいしか経ってないと思った。
    やっちゃんが死んでから、俺は一日一日を大切にしようと思うようになった。それはエイミちゃんにとっても同じ一日だ。
    「いつまでも大学生じゃないよね」とエイミちゃんが言って、俺が「そうだね」と言った。
    変な沈黙が一分くらい続いて、「あのさ、私伊東くんと付き合ってみたい」と彼女は言った。
    俺は「ありがとう。俺こそエイミちゃんと付き合いたいよ」と言った。
    そうしたらエイミちゃんは「うそ。タミヤちゃんと付き合いなさいよ。」と言った。
    俺はずっと柔らかかったエイミちゃんの中のものをみた。
    「伊東くんってさ。人の事観察してさ。自分だけ安全な所から見て、いい気になってるでしょ?」
    「私、そういう伊東くんって、気持ち悪いな、って思ってるよ。」
    「人の欠点を見つけるのって、簡単だよ。それをさも自分だけが見抜いてるみたいな顔してさ。最悪だよ」
    「リツカちゃん傷ついてたよ。あれから全然誘ってもらえない、って言ってたよ」
    「このまえも田中ちゃんのこと傷つけてたよね。トシキくんとよく一緒にいるのにそういうのわからないのかな」
    「マリちゃんも悪いよ。伊東くんのことおちょくって。伊東くんもマリちゃんが好き過ぎるからさ、構ってもらえるから喜んじゃって。伊東くんって、自分に芯がないからそんな感じなんだよ」
    「しかも人一倍他人にどう見られてるかいつも気にしてさ。びくびくしてる割に余裕がある感じだけ出して、自分の気分が乗らなくなったら環境のせいにして、サークルこなくなるし、部費も払わないし。」
    「やっちゃん死んだときもカッコつけて、マリちゃんとユキちゃん引き連れて、代表で挨拶しに行って。あのときだって、俺もいざとなれば挨拶ぐらいできるんだよ、って所を見せてる感じがしたよ。ご両親に向けた挨拶なのに意識がマリちゃんとユキちゃんに行ってたよ。やっちゃん、そんなんじゃ、かわいそ過ぎるよ。」
    「それで周りから伊東くんのこと良いとか言われて、それで居心地良くなって、保険がかかった状態になった子の中から付き合う人選んでさ。それで初めて行動に起こして。おめーが好きな子はマリなんだろって。それって女の子のことバカにしてるよ」
    「そんな風に私は伊東くんの事を観察してたよ。私も観察好きなんだよね」
    「こんな私で良ければ、付き合ってくれませんか?」
    エイミ!
    エイミっ!!
    「大好きです! 付き合って下さい!」
    って俺は言った。

    そのまま俺はエイミのひな人形みたいな唇にキスをした。
    ふたりとも自分勝手な時間を過ごしたくて仕方がなかった。
    六月二十四日だった。

    9 エイミ

    「音楽活動」のとき、ノリオに「休みの日って何してるの?」とかどうでもいいことを聞いていた。
    ノリオは『超科学研究会』という、市がやっている文化サークルに参加してるとか、怪しげなことを言っていた。
    そのメンバーはヘンリーとかいう黒人と、七瀬とかいうどっかの大学で事務をやっている美人がいる、とか言っていた。
    そこで物体を動かしたり、他人の心を読んだりとかしているらしい。
    しかもある程度なら自分もできる、とかウソを言い出したので俺はドラムの練習を始めた。

    エイミと付き合うようになって、一か月くらい経った。
    平日は週に三、四回学校で会って話をするんだけど、お互い観察好きだから何を考えているのか大体わかるし、ぽつぽつ喋るだけだった。
    週末の夜はバイトがあるから、昼間に会ってご飯を食べて、一緒に散歩したり、たまに札幌で買い物したりした。本当に幸せだった。
    マリちゃんとか、他の女の子の事をほとんど観察しなくなった。
    見る、と言えば、二年のアユが来たときくらいで、それは彼女が美人過ぎるから仕方がなった。アユはこの前体育の授業があったらしく、ジャージ上下だったんだけど、それでもおしゃれしている女の子よりもずっと目立っていた。鼻筋が水平器で測ったみたいに精確に通っている。目も常人の二倍くらい大きくなる瞬間があって、その都度キラキラマークが彼女の背景に加工された。ほとんど化粧をしている感じがないのに、唇が元々ピンク色だった。白い頬肉が持ち上がって、「伊東さん」と唇が一つずつ動いた。
    俺はそれを美術品のように観察するだけで、前みたいにセッチンがどうとかは連想しなくなっていた。
    エイミは団子っ鼻で、パグ犬みたいな感じだからいわゆる美人とかでは全然なかった。でもぶすとは感じさせない、品のようなものと、漂う生々しさ、みたいなのもあった。
    マリちゃんはごく普通の見た目の女の子で、肌質だけトップクラスだった。
    タミヤはお尻が良い。母性を感じさせる。それと性格の幼さのミスマッチが魅力なのだ。
    こんな感じの事を考える時間は、これでもかなり減った。
    それはやっぱりエイミが居るからだ。彼女は俺の分身みたいな、運命的な女だった。
    彼女が観察する男に対する目線は、吐き気がするほど嫌らしかった。だけど、俺はそれを聞くたびに一人じゃないというか、妙な安心感を得るのだ。
    俺という男とエイミという女は元々ひとりの性別のない「観察人間」で、それがふたりに別れちゃったやつだと思うのだ。
    だからエイミと会ってもそれ程話をする必要はなかったし、会うと完全体に戻れるような充実感もあった。
    エイミの手を握ると、神経伝達用の電気がびりびりして、この人ですよーって脳が俺に言ってくる。それはキスをしても、胸やお尻を触っても、どこを触っても同じだった。

    七月に入って学校が休みになった。
    一週間ほどふたりで車に乗って北海道を周ろうという話になった。エイミも家庭教師の回数を増やしてお金を稼いでいたらしいので、ガソリン代は大丈夫だよ、って言ってくれた。
    でもそれくらいの金銭的余裕は居酒屋バイトに慣れた俺には全く問題がなかった。
    札幌を出発して、太平洋岸周りで函館に行った。そこから日本海沿いに北上して、小樽、留萌、稚内まで一気に行った。稚内で貝柱がバカデカいホタテを出す回転寿司を食べたりした。夜になるたび、車のシートを倒して毛布を掛けてふたりで寝た。いつもいい匂いのエイミも、さすがに体臭がしてきて、俺はエイミの服の隙間に鼻を近づけて匂った。女の匂いの濃いやつがした。抱き寄せてしまいたかったが、エイミが嫌がったのでやめた。
    オホーツク海沿いを南下して行って、網走からサロマ湖を回った。俺は根室まで回るのは面倒くさくなったから、釧路に直接行こうよと言ったら、エイミもそれがいいと言った。
    そこから襟裳岬まで降りても何もないんだけど、なんとなく海岸沿いを走った方が達成感を味わえる感じがして、それで行こうとなった。
    雨が降って、車も潮だらけになった。フロントガラスに強い雨粒がばしばし当たっては砕けた。視界の左側ではコンクリート壁に波がぶつかり、飛沫を道路まで上げ続けていた。
    俺とエイミは無言のままセイコーマートで買った安いお茶を飲んで、お惣菜のから揚げを食べた。車内は、油と生姜と香辛料の匂いが染みついた。今更こんな車、錆ようが、臭くなろうが全く気にならない。それが逆に良いと思った。俺にはエイミがいるので、それで充分だと思った。
    静内から苫小牧へ抜けて、市内のコイン洗車で車を洗って、給油した。
    札幌に戻って、エイミの家の近くで降ろした。
    エイミはお腹がぽっこりして見えた。ずっとオシッコとかおならを我慢してたのかな?
    親にはなんと言うのだろう。俺は親には友だちと遊びに行ってくると言って出たけど。
    結局今回もセックスはできなかった。

    そんな感じで四か月経ったけど、エイミはセックスをさせてくれなかった。それ以外は、キスも何もかも、激しいくらいにやるのに。

    十一月になって、大分迷ったが、エイミにセックスをしないのはなぜか聞いた。
    どうしても言いたくないらしく、エイミには珍しく「ごめんね」というばかりだった。
    そして泣きながら、「伊東くんの考えてることは私わからないよ、ごめんね。」
    「石狩で告白したときは、ノリオくんから伊東くんの考えてることを教えてもらって、それを言っただけだよ」と言われた。
    「伊東くんごめんね。」とまた言われた。
    俺は意味がわからなくて、ノリオがなんで突然出てくるのかもわからなかったけど、俺がノリオとよく一緒にいるからか、と結論づけた。
    そのあと何となく記憶が蘇ってきて、ノリオは超能力を使えるとか言っていたのを思い出した。俺はあほらしいと思った。

    10 エイミー!

    エイミはノリオから俺の考えてることを教えてもらった、とか訳のわからないことを言っていた。
    でもノリオが『超科学同好会』とかいう怪しい集まりに参加しているのがなんか引っ掛かった。
    エイミが言うには、ノリオは他人の心を読むことができて、それを別に隠してもいない、とのことだった。
    ただ、まともにノリオと話をする人がいないから話題にならないだけで、実際にノリオに会って「今、何考えてるか当ててみて?」と聞けば確かめられるよ、みたいなことを言われた。
    ちなみにセックスさせてくれない理由は結局教えてくれなかった。けどその日も何回もキスをした。
    ノリオはB研究室には来ない。しかも俺たちは四年なので、ノリオもあまり学校に来ないのだ。結局、「音楽活動」のときくらいしか彼を捕まえられないと思った。なんとなくノリオならいつでも会えると思い込んでいた。これほどノリオについて考えたのは初めてだった。

    「音楽活動」は夜の六時半から始まるんだけど、ノリオはいつも六時前には来ていてアルトサックスの練習をしている。だから俺も早めに行った。
    練習場所のドアを開ける前から、ノリオがいつもやっている気持ち悪いタンギング練習の音が聴こえてきた。
    ドアを開けるとそこは二十畳くらいの広さがあって、その真ん中ら辺で背中を向けたノリオがびゅっ、びゅっ、という音を立てていた。
    俺はノリオに向かって、「あ! ノリオノリオ! ちょっと聞いていい? 今俺が何考えてるか当ててみて?」と聞いた。
    するとノリオは、「だからいつも言っている通り、わかりますよ。僕の読心術のことでしょ」と彼は練習を中断して応えた。
    「正解! じゃあ、今は?」
    「僕がエイミちゃんにマサカズの考えてる事を教えたのかどうか、でしょ?」
    マサカズ、は俺の名前だ。
    「どうなの?」
    「教えましたよ」
    「なんで」
    「なんで? 聞かれたからですかね?」
    「なんで俺らにその能力のことを教えてくれなかったんだよ? 冷たいな。俺たちって、ずっと一緒に居たよね」
    「いや、ですから僕は繰り返し読心術ができる、ということを言及していましたよ。つい先程も言ったばかりです。」
    「そういえば俺、ノリオのことずっと頭の中でボロクソに言ってなかった?」
    「だから、いつも言ってますって」
    そういえば、ノリオの口癖って「ひどい」だった事を思い出した。
    ノリオの前髪はセンター分けなんだけど、のれんみたいに左右に分かれているだけだった。その分け目はちんぽの裏側みたいだった。また今日もおじいちゃんの休日みたいな服を着ている。白いキャップはおしゃれだろうか? それもおじいちゃんのパークゴルフみたいだ。と俺が思っていると、ノリオは「ひどい」と言った。
    そんなのおしゃれな雑誌見てそのままの服と髪型にすればいいんだよ。センスないなら自分の感覚を信じるなよ、と俺は言おうとしたが、試しにそう思った。
    「なるほど! さすが伊東くんですね」とノリオが言った。
    ほんとに超能力者だったんだな、と俺はまた思うと、「だから僕は何回も言っていますよ。あれ? もしかして、思ってただけだったかな? 僕、思ってることと、言ったことを整理できないタイプなんです。」とノリオは言った。
    俺はそんなタイプがあるのかと興味をもったが、これ以上はこの日記の趣旨から外れるので、その辺は端折る。
    「じゃあさ。エイミの考えていることも教えてよ」と俺は言ったが、実際に会って、近くに行かないと分からない、と彼は言った。
    有効範囲はこの練習場所くらいらしかった。
    「じゃあさ、エイミの近くに行って、なんで俺とセックスしてくれないのか心を読んでよ。同じサックスパートなんだからチャンスは毎週あるしさ。」と俺は頼んだ。
    するとノリオは「エイミちゃんは特殊なんですよ。彼女は僕の心を読めるんです。でも彼女からマサカズの心を読んでほしいと言われたから、エイミちゃんは読心術を使える人に対してだけ、読心術が使えるんだと思うんですよ」と言った。
    「…え? なに?」
    俺はまだ『読心術』自体わからないのにその先の応用編みたいな話をされてもわからないと思った。
    ノリオは頷きながら、昔の登山家が使ってたような分厚い帆布で作ったリュックサックの中からコクヨのノートを出して、その関係を図示してくれた。

    ノリオ→マサカズ(近くだけ○)
    ノリオ→エイミ(近くだけ○)
    エイミ→マサカズ(×)
    エイミ→ノリオ(どこでも○)

    「じゃあつまり、エイミに何でセックスしてくれないのかをノリオが探ったら、エイミはそれに勘づく、ってことになるのか?」と俺が聞いたら、ノリオは「ザッツライト」と言った。
    何で突然英語なんだよ気持ち悪いなと思ったら、ノリオは「ひどい」という顔をしていた。ひどいって直接言えば良いのに、と思ったが、思うことと言うことの見分けが自分でもわからなくなっている、ってこの事かな、と思った。

    結局ノリオが読心術を使うとエイミにバレて、なんか変な感じになる方が怖いし、それなら直接聞きたいんだけど、それもはぐらかされるし、だからと言ってしつこく聞くのも大人気ないから、エイミを観察するしかなかった。
    でもよく考えたら、俺がノリオに言った時点でエイミに伝わってる可能性もあると思った。そこまで考えたら混乱してきたので、考えるのをやめた。
    でも、エイミといるだけで充実した毎日を送れるし、逆に言えば不満はセックスができないことだけだったので、考えようによっては、……そうだな。問題なかったと言えば、そうとも言えたし。つまり、やっぱりセックスはしたかった。

    十二月に入って、エイミが卒業論文の追い込みとかで、会っても昼にちょっとだけ、みたいになった。顔色が悪くて精神的に追い込まれてるのかな、と思った。
    締切の後でもそれはなぜか続いた。夜にゲーセンに行かないか誘ってみたが、それも断られた。

    俺は適当に卒論を仕上げて、半ば無理矢理教授にOKをもらった。最初から期待されてなかったし、最終的に卒業だけできれば良いんでしょって雰囲気だったし、実際そう言われた。
    それで、就職活動もせず淡々と居酒屋バイトを続けていたんだけど、ある日マリちゃんとふざけてキスしたり、バイト先にセッチンの彼女の超美人のアユが入ってきて、喋るようになって、セックスレスの話をしたらアユが練習相手になってくれるって言うからアユの部屋でセックスして童貞を卒業したりしていた。
    でもそれらは浮気であって本気ではない。俺の運命の人はあくまでエイミである。

    二月半ばの一年で一番寒い日に、エイミと別れた。
    そのときも、石狩で言われたときみたいに、俺の今までの行動を全部言われた。
    マリちゃんよりタミヤをオススメしてもらった。
    マリちゃんは現実を生きてるんだよ。邪魔しちゃダメだよ、って言われた。そんなの言われなくてもわかってるよ。
    俺は泣きそうだったけど、泣かないで、痩せ細ったエイミの頬を撫で、一緒のベッドに並んで入った。「観察人間」の完全体の完成。
    「看護師さんが来るからやめなよ」って言われた。
    「他人にどう思われるとか俺はもう考えないんだよ。」って言ったら、エイミの眉毛は0.何秒かだけハの字になった。
    マリちゃんとキスしたときこんな気持ちだったよ。仲の良い友達がいるっていいよね。セックスってこんなに気持ちいいんだね。アユとノリオには感謝だよね。エイミ。俺はやっぱりエイミと直接セックスがしたかったよ。
    俺は勃起しながらエイミーエイミーって小さい声で何度も叫んで子どもみたいに結局泣いた。
    そしてもうわかってたけど、改めて彼女は俺とセックスしてくれない理由を教えてくれて、エイミは三月十日に卵巣がんで死んだ。

    (おわり)

     
     
     
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