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マイにサチあれ

    あらすじ
    高校生の私(円道えんどう舞)はブレイキン好きでプロになるのが夢。同級生の俊と夏菜絵の三人で初詣に出かけ、智を紹介される。私は彼に惚れた。卒業後、半年間ニューヨークヘダンス留学。帰国して工場で働き、ダンスの実績を積む。やがてダンスで職を得た。仲間とキャンプに行き、智とドライブ中に大岩が車に落下。車が川に転落して溺れ、智が命を救う。世界大会が開かれ、憧れのダンサー、マイクが来日。国別トーナメント戦で勝ち抜く。決勝で米国とあたり、互角に戦う。最後の私はマイクとの勝負で得意技を決め、ステージで躍動する。僅差で優勝し、世界一の称号を得る。翌日、智と海辺をドライブ。冬の渚で両思いを確かめ、未来の幸せを誓い合う。

    #創作大賞2026  #エンタメ原作部門 #少女マンガ


    ああ、私という人間は、どうして懲りないのだろう。
    学習能力がない。

    五年前、私の恋は花でたとえるとつぼみの状態だった。いつきれいな花が咲くのか。問いに対する答えは簡単には得られなかった。毎日ドキドキ、モヤモヤの連続。他者の意見を訊きたくて、母の咲良さくらに打ち明けた。

    「恋なんて一筋縄でいかない。簡単にかなうもんですか。あきらめずに思い続けなさい」

    高校生だった私に対し、冷静な咲良はそんな風に諭した。冬の寒さに耐え、夏の暑さを乗り切り、ひたすら恋が実るのを待つしかなかった。

       @

    五年前の健速神社からすべてが始まった。
    日記や読書を三日でやめるズボラな私に、家族ははやし立てた。毎年の恒例を、一年の初日にせよ、せよ、と。

    何年も同じ家に住み続けている。今日に限って、白塗りの「砦とりで」はあっさりと一階のドアを開け、寒風の吹く町へつれなく追い出した。家を出た後、携帯で連絡を入れた。

    正月の空気は冷たく澄み切り、体の細胞と膜をことごとく麻痺させた。冷気に負けぬよう厚手のコートを羽織り、手にはピンク色の手袋をはめ、首にブルーのマフラーを巻いた。腰にカイロまで貼り、外を歩いた。

    車の少ない住宅街を通った。
    庭に木を植える家は少ない中、赤い椿つばきの花を咲かせた家があり、見事な赤色に元気をもらった。
    駅前で隣の犬飼さん夫婦に出会った。

    「明けましておめでとうございます」

    新年の挨拶を述べ、軽く会釈した。

    「おめでとうございます。本年もよろしく」

    犬飼さんは和やかな表情で言った。

    「マイちゃん。いい年になるといいわね」

    奥さんの佳乃さんもにっこり笑った。彼らは駅の階段を上って行った。遠方へ初詣に出かけるようだ。

    携帯を見た。メッセージが届いている。友だちからだ。返信せずに待ち合わせ場所を目指した。子どものいない静かな公園を過ぎ、住宅街を抜ける。これまた人気のない商店街を歩き、信号を渡る。その先の石畳をまっすぐに進んだ。

    神社の鳥居が、だんだん視界の中で広がりをもち、迫ってくる。いつもは何とも思わない鼠色の鳥居が、ことさら誇らしげにそそり立っている。その姿は見ていて心地よい。

    鳥居をくぐった。
    人で混み合う参道を抜ける。友だちの姿を見つけた。頬が赤く染まっている。

    「新年おめでとう」

    友だちに一年に一度だけの台詞を言った。

    「明けましておめでとう。さ、早くお参りしよ」

    女の友だちは私の肩を押した。人出が増えてきた境内で、友だちが手を引いた。

    「あれ? シュンは?」

    「どっかで見失ったわ。いずれ、落ち合うでしょ。何せ、ヤツは背が高いから」

    「それもそうね」

    私は声を上げて笑った。

    「よお、マイにカナエ」

    「ほら、噂をすれば影」

    夏菜絵が私を見て微笑んだ。頭一つぴょこんと飛び出た男が、手をあげる。

    「シュン。おめでとう」

    私は兎田うさぎだ俊に新年の挨拶をした。

    「ああ。キンガなんとか」

    俊は言い慣れない挨拶をした。
    人混みにもまれ、こちらに来る。私たちも彼の方へ行く。
    二人は長身の俊のところまで辿り着き、彼の腕をたたいた。

    「キンガシンネンでしょ? もう、恥ずかしいな」

    「さすがはカナエ。しっかり者の優等生は違うな」

    「普通なら、キンガより、シンネンの方が先に言えるよ」

    私は俊にツッコミをいれた。

    「それよりさ。ゲキ混みじゃん。並ばなきゃ」

    「わかってるよ、そのくらい」

    男一人に女二人の私たちは、目の前の人だかりを前にうろうろしていた。
    人の多さにあらためて圧倒された。

    拝殿前に参拝客の列が五つ、六つと長く伸びている。列の一つに並ぶ。左右に列ができ、黒や白の頭は少しずつ前進した。

    「おお、友よ。おまえ、一人か」

    俊がだれかに話しかける。

    「ああ、そうさ」

    相手の男はこちらに手を振る。

    「そっちに並ばず、こっちに来いって」

    俊は、進みの遅い列で、別のだれかを招き入れようとした。
    俊の友人らしい高校生は列を離れて近づき、こちらの列に入り直した。

    「だれ、この人」

    私は俊に訊ねた。

    「紹介するよ。俺の小学校のダチでサトシだ。他校の生徒」

    「初めまして。鵜飼うかい智さとしです」

    夏菜絵は照れ笑いを浮かべ、「相沢あいざわです。下の名は夏菜絵」ときちんと挨拶した。

    「舞よ。よろしく」

    私は簡単に名乗った。

    「正月から自己紹介か。あらためて、みんなで新年の挨拶を言おうよ」

    夏菜絵が俊の肩を手袋でたたいた。
    夏菜絵が、せーの、と小声で言った。

    「明けましておめでとう」

    みんなは異口同音で声を発した。声が揃って、私ははにかんだ。

    「神社、めっちゃ人が多いな。たくさんの人の願いを聞き入れるのは、たいへんだ。すいた日の方が願いはかないやすいじゃん。今日はやめた方が得だったな」

    俊はよくわからぬことを言って笑った。
    列はちょっとずつ、ほんとうにちょっとずつしか進まない。
    俊と智は昨日の紅白歌合戦の話で盛り上がっていた。私は部分的にしか見ず、長風呂で一年を振り返ったというのに。

    長い間かかり、牛の歩みよりも遅く、列は進んだ。
    ようやく、拝殿の前に来た。

    私たち四人の番になった。綱を引いて鐘を鳴らした。何を願うか、忘れてしまった。えい、いいや。願い事を絞った。二つの願い事を唱えて柏手を打った。

    「今年こそ、いい男を捕まえられますように。それと、ダンスがもっと上達しますように」

    その横で、見知らぬ男女が並んで祈っていた。全然知らない人たちだ。
    先に礼をすませ、ちらっと顔を見た。すぐに忘れそうな、特徴のない、さえない背の低い男。心に余裕がある私は靴を見た。エナメルの靴だ。これも珍しくない。

    「お兄ちゃん、あれ食べたい」

    「おお、そうか。正月だ。奮発してやる」

    若い男女は兄妹らしい。恋人同士にしてはちょっと釣り合わない気がしていた。
    なーんだ。変な風に勘ぐり、損した気分。

    「マイ。マイマイったら。おいてくよ」

    夏菜絵がからかうように私を呼んだ。マイはともかく、マイマイって。カタツムリか。

    「ごめん、ごめん。待ってよ」

    混み合う境内の人垣をすり抜け、私をマイと呼ぶ女の元へ小走りした。
    拝殿を後にして、一緒だった俊の姿が消えた。

    「あの男、どこへ行った?」

    夏菜絵はふくれた。俊が単独行動をしたのに立腹の様子だ。
    やがて、俊の頭がこちらに近づいた。

    「ごめん、ごめん。見失っちゃって」

    「それ、言い訳だからね。はぐれたのは、そっちのせいだわ」

    「何が言いたい?」

    「どうせ、振袖の女に見とれてたんでしょ?」

    夏菜絵は俊を下に見ていた。

    「何だよ。言いがかりか? 正月からそんな下心、出さねぇよ」

    俊は夏菜絵の言葉に不満そうで、プイと横を向いた。

    「じゃあ、何してたの?」

    私が夏菜絵に代わって訊ねる。

    「拝殿から出たけど、混んでてさ。似たような人が多くて、見失った。ホントだってば」

    「さあ、どうだか」

    夏菜絵はおおげさに両手を広げた。

    「ねぇ」

    私も追随し、夏菜絵と顔を見合わせる。
    俊は私たち女子にくっつくようにして歩き出した。

    「シュンは何をお願いしたの?」

    私は俊に訊いてみた。

    「俺か。フフフ。好きな人と両思いになれるようにって」

    「シュンたら、柄にもなく恋愛のことを願うなんて」

    私はまだ気づいてなかった。

    「悪いかよ。俺ももうすぐ高三だ。恋の一つや二つ、かなって当然だろ。恋愛が実って、幸せな高校生活を送りたいぜ」

    「健速神社は恋愛の神様じゃないのよ」

    夏菜絵が鼻で笑う。
    私も空気を読んで笑う。笑うけど、私だって恋愛を祈った一人だ。

    「いいさ。気にしてない。俺は自分に素直でありたい。近くに好きな人がいて、俺の魅力に気づいてくれればいいのさ」

    俊はあっけらかんと言い放った。

    彼を友だちとして見るなら、さっぱりした性格でいいヤツだ。これまで彼を見てきたが、一度たりとも恋人として意識することはなかった。竹を割ったような性格の男子だと思っていた。
     
    人混みを避け、境内の端を歩いた。

    不意に足に違和感を覚えた。立ち止まり、見下ろす。何かが北風に乗ってデニムにぺたりとまとわりついた。

    「めでたい日から紙切れが。馴れ馴れしい」

    忌々しく白紙を裏返す。
    「『ええやんフレンズ』のファーストドームツアー。一月二十二日午後六時開演」と文面を目でなぞった。

    「アイドルのチケットか。しかも一枚だけとは」

     私は一秒考えた。

    「新品ねぇ」別の考えがよぎる。

    「転売するか、誰かにあげようか」

    カバンに詰め込もうとして、何かが頭の中で引っかかった。

    「何してんのって」

    夏菜絵が振り返り、私をせかす。そのときはチケットを丁寧にカバンの札入れにしまった。友だちに追いついた。

    「ごめん、ごめん。ホント、ごめん」

    神様より丁寧に手を合わせた。
    夏菜絵を学問とスポーツの女神様だと本気で信じている。

    「紙を見て、何してたの? おみくじ?」

    「違うわ。チラシが飛んできただけ。さ、行こ」

    私は夏菜絵と腕を組み、広い境内の垣根沿いを歩いた。

    「あれ、やろうぜ」

    俊が屋根のついた建物を指さす。そこには人だかりができている。

    「おみくじ?」

    夏菜絵が俊に確かめる。

    「そうだよ。全員で引こう。俺は大吉だぞ」

    頭一つ飛び出た男は自信満々で社務所に並んだ。
    四人でおみくじを引いた。
    棒に書かれた番号を見て、番号と同じ紙をもらう。

    「あっ。これは」

    俊は絶句した。

    「どれ? あ、凶じゃん。俺は小吉。まあまあだ」

    智は俊の紙と見比べた。二人の男は文面の運勢を目で追った。
    私と夏菜絵はおみくじの文面を互いに見せ合い、いいところだけを相手に読ませた。

    「すごいじゃん。マイは大吉。願いはかなうのね」

    「そうみたい。ラッキー」

    私は目を細めた。

    「万事が成功する。フフフ、幸先さいさきいい」

    私は最高の幸運を引き寄せた。年始から縁起がよい。

    「私はダメね。交換しない?」

    夏菜絵が私を見た。

    「むり、むり。占いの効果がなくなっちゃう」

    「堅いこと言って。残念ね」

    「カナエは、学問の運勢がいいみたいじゃん」

    「そうなのよ。でも、勉強は運より実力よ」

    男たちが何やら喋っている。

    「おみくじは持ち帰っていいのかよ」と俊が言う。

    「結ぶんじゃないの?」

    智は首をかしげる。

    「どっちでもいいじゃん。携帯で写して、結べばどう?」

    「さすがはマイ。いいこと、言うね」

    俊は私を持ち上げた。

    「マイの運勢、見たいな」

    智が私のおみくじを覗のぞき込む。私は彼におみくじを見せた。

    「恋愛運。待ち人、現る。だれのことだろう?」

    智は思わせぶりなことを漏らし、アハハと笑った。
    大吉で気分は上々。朱塗りの本殿がひときわ輝いて見えた。
    四人は参道を歩いた。

    「なんか、腹、すかないか」

    智が言う。

    「食べる?」

    夏菜絵が私を見る。

    「私はいいよ」

    私は手を振り、断った。

    「俺は食べたい。な? サトシ」

    智と俊は、参道に建ち並んだ屋台へ歩み寄った。
    男二人は屋台で今川焼きを買い、少し離れた場所で頬張った。

    「うめぇな。あんこがじつにうまい」

    「生地がいいな。ふかふかして噛み心地がいい。たまには、甘いのもいいもんだ」

    智は食レポのようなことを言う。クスリと笑った。

    石畳の参道を歩き、境内の鳥居まで来た。
    みんなは普通に出た。
    智は鳥居の前で深々と一礼してから出た。参拝を終えて、そのようにしたのは、私たちの中で彼一人だった。

    「丁寧ね」

    私は智に話しかけた。

    「俺、けっこう礼儀正しいよ」

    彼は笑った。
    そのときはそうかと思った。
    あとあと、彼が意外に信心深いことに気づいた。

    神社を出てから、智がみんなに提案した。

    「せっかくだし、ムギノ珈琲に入ろうよ」

    「それ、名案ね」

    夏菜絵が拳を握る。

    「マイも行くだろ?」

    俊が問いかける。

    「うん、行くよ」

    私たち一行は、神社を離れてムギノ珈琲の店舗まで移動した。

    しばらく歩き、店に着いた。
    広い駐車場を備えた喫茶店は、大手のチェーン店らしく、三百六十五日営業している。外観が目立っている。

    元日の営業は遅めだが、私たち四人はさして待たずに入店できた。店員が誘導し、四人がけの席に案内された。

    女二人は壁際に並んで座り、男二人と対面した。私はマフラーと手袋を外した。

    「何、頼む?」

    私はみんなの顔を見る。

    「じゃ、俺はクリームソーダにホットドッグ」

    「俺はオレンジジュースね」

    智と俊はすぐに注文した。

    「二人ともジュースか。私はレモンティーがいいわ」

    そばに立つ店員が、注文を機械に打ち込みながら、私に訊いた。

    「レモンティーはアイス、ホットのどちらになさいますか」

    「ホットのレモンティーで」

    私は熱い紅茶を望んでいた。

    「カナエは?」

    私は女友だちの顔を見て催促した。

    「そうね。えーと」

    夏菜絵はメニュー表を一枚ずつ繰りながら、慎重に選ぼうとしていた。

    「ココア。ホットのココアを一つ」

    夏菜絵の分で、すべての注文が確定した。まだコーヒーを頼めるほど大人の舌にはだれもなっていないようだ。店員が復唱し、席を離れた。

    しばらくして、ホットドッグと飲み物四種がテーブルに運ばれてきた。
    智がホットドッグにかぶりつき、美味しそうな表情を見せる。
    それを横目にオレンジジュースを啜り、俊は待ってましたとばかりに話を切り出した。

    「冬休み、退屈だよな。いいこと、しないか」

    俊は企みのあるような目をした。

    「なに、なに? いいことって」

    私は俊の誘いに身を乗り出した。

    「シュンの考えることなんて、たかがしれてるわ。スケートに行く、とかでしょ?」

    夏菜絵はココアを少し口に含み、顔を上げた。

    「よくわかったな、カナエ。図星だよ。さすがに大学を目指す女は違うぜ」

    「それで、いつ行くの?」

    夏菜絵が俊に問い詰めるような口調で訊ねる。

    「そうだな。一月の五日くらいかな」

    「なら、ダメよ。私は行けない」

    夏菜絵はきっぱり断言し、首を横に振った。

    「どうしてだ? カナエ」

    俊の問いかけに、夏菜絵は人さし指を立てた。

    「家族で予定があるの。旅行に出かける。温泉旅行に行くわ」

    「へぇ。いいなぁ」

    智は羨ましそうに言った。

    「正月は料金が高めだからって、少しずらして行くのよ」

    「どこの温泉?」

    俊が訊ねる。

    「鬼怒川温泉」

    「キヌガワ? 初めて聞く名前だな」

    俊が呟いた。

    「私は聞いたことがあるよ」

    私はその名前を最近テレビで耳にした。

    「俺も知ってる。栃木県の川沿いにある温泉だよな」

    智はストローから口を外し、胸を反らした。彼は俊とは異質だと思った。

    「うん。よく知ってるわね」

    「俺の親戚が行ったことのある場所なんだ。そのとき、話を聞いたよ」

    「冬に温泉か。豪勢でいいなぁ。羨ましい」

    私はしみじみと感想を述べた。率直な気持ちだった。

    「それで、シュンの話に戻るけど、五日にスケートに行くんだよな? この三人なのか」

    智はクリームソーダを飲みながら、訊ねた。

    「そうだよ。カナエが行けないなら、男二人とマイで決まりだな」

    俊は私の予定などろくすっぽ訊かずに、そんな風に断言した。

    「私」

    私は言いかけ、下を向いた。

    「マイは行けるよな?」

    「うん。行けるよ」

    ほんとうはつまらない用事があった。自分でもじつにつまらないと思う。他人に話したら笑われそうな雑事である。
    それはいつかに回そう。そうしないと後悔する。

    「よし。当日は思いっきり滑ろう」

    「こら、こら」

    私は俊に文句を言いたかった。

    「え? どうしたんだ? 何だよ、マイ」

    「カナエは大学受験よ。この冬から受験勉強」

    「それがどうしたってんだ?」

    「もう、無神経ねぇ。落ちる、滑るは、受験生にとって二大NGワードでしょうが」

    私は俊にわかりやすく説明した。

    「ああ、なるほど。悪かったよ、カナエ」

    「別にいいわよ。まだ、本番まで一年もあるし。それに」

    「それに?」

    私と智は二人揃って夏菜絵を見た。

    「受験が終われば、スノボしに行こうよ。信州のゲレンデに」

    「いいねぇ。卒業記念のスノボ旅行だぜ」

    俊は単純に喜んだ。

    「俺も加わっていいのか? 俺は他校生だけど」

    智が遠慮がちに言った。

    「水くさいよ。いいじゃん。な? マイにカナエ」

    俊は朗らかな顔をした。

    「かまわないわよ。連絡はシュンが入れてあげなよ」

    夏菜絵は俊に目配せした。彼女はきっちりしている。

    私は驚いていた。俊が智を連れてきて、次々に大きな予定が二つ決まった。みんなの決断力の早さは、大きな発見だった。

    その発見があっても、私は見慣れた友だちより、出会ったばかりの新しい友だちにときめいた。
    さっきから、何度も智の顔を盗み見している。気になってしょうがない。

    ほのかな恋心という語句を思い出した。その語句を、少し前に図書館で借りた小説の中で見つけた。自分には無縁なのだろうと思っていた。
    今まさに小説と同じ状況だ。たまらなくうれしい。

    「どうしたの? 一人でニヤニヤして」

    夏菜絵の何気ないひと言が心にぶっ刺さるのと、飲みかけのレモンティーが鼻の穴に逆流するのは同時だった。
    私は慌てておしぼりを手に取った。

    「な、何でもないのよ。こっちのことだから」

    恥ずかしかった。下を向き、おしぼりで鼻をふいた。

    「変なマイね。とにかく、鬼怒川温泉旅行の間に、三人は仲良くスケートしてよね」

    夏菜絵は含み笑いをし、私の腕を軽くたたいた。この親友にはお見通しなのだろうか。

    そのあとしばらくは、学校生活や芸能人の話をし、適当なところで区切りをつけた。訊きたいことを本人にぶつけてみた。

    「サトシ。初詣の帰りに喫茶店で話し込んで、それでよかったの?」

    「いいんだ。たいした予定もないし。一年の始まりから、仲間の紹介で友だちが増えた。そちらの方がうれしいよ」

    「いい人だね。サトシって」

    私は彼をほめた。
    智のことがますます気に入った。仲間思いの素敵な友だちができて、ほんとうによかった。

    神社の願いがこんなに早く実現し、驚いた。おみくじは正しい。一年分の福を手にし、気分は最高だった。
    元日に初詣をしてよかったとつくづく思い、家族や友だち全員に心の中で感謝した。顔がにやけ、必死で俯いた。

    話すことがなくなり、ひとまず喫茶店を出た。
    正月の昼過ぎは退屈だ。

    去年は友だちと遊ぶ予定もなく、家に籠もってテレビを見たり、携帯のダンス動画を見たり、ゲームをしたりして過ごした。せっかくみんなで集まれたのだ。家に帰って同じことをするなんて、じつにもったいない。

    四人は二人と二人にわかれていた。夏菜絵と俊が前方を歩き、話し込んでいる。私と智は、一メートル離れて二人で並ぶ恰好になった。その並びを保ち、智の予定を探ってみた。

    「サトシ。このあと、どうするの?」

    「俺? そうだな。暇だし、家の中で一人のんびりと」

    彼はそこでタメを作った。

    「のんびりと?」

    私は智の顔を見つめ、続きを促した。

    「のんびりとゲームでもして」

    ゲ、ゲーム。去年の私と同じことを。

    彼といたい気持ちを最優先し、頭をひねった。そして、こう言った。

    「サトシ。元日だし、イオンモールに行かない?」

    「イオンモールか」

    「いいでしょ?」

    「うん、いいよ」

    快活な彼の口調に好感を持った。

    「よかった」

    急に俊が体をひねった。私は驚いた。俊はこちらを見て言った。

    「いいな、サトシ。マイと二人で行くのか」

    「そうよ」

    智の代わりに私が答えた。

    「どうせなら、サトシと入れ替わりたいな。そうすりゃ、神様の願いがかなうんだから」

    俊は笑った。

    それって、愛の告白? 俊が私を好きになったのか。
    困った。
    そんな素振りを見せるとは。気づいてなかったというより、俊の気持ちは行動に表れてなかった。気づきようがない。私は悪くない。

    俊が私を異性として意識しても、受け入れたくない。
    出会った智を好きになったばかりである。
    同日に俊が私を好きだと気づき、一日で三角関係が成立してしまったではないか。
    内心、複雑な心境だった。

    「どうしよう」

    空を見上げ、気持ちを落ち着かせた。
    唐突な、告白ともとれる俊の台詞に、だれも反応しない。

    俊は体を元に戻し、夏菜絵とまた喋り出した。話をそらそうとして、中断した続きを智に語った。

    「元日から福袋、売ってるのよ。買いに行くの」

    「福袋? 福袋って何?」

    「知らないかな。福を呼ぶというか、お店のものをたくさん袋に詰めて正月に売るの。めでたいから」

    「なるほど。そういうのがあるのは知ってた。福袋っていうんだ」

    「そう。中身がわからないようにしてさ。わかんなくてドキドキするの。それも楽しみ」

    「面白そうだな」

    「私、お年玉をもらったから、福袋を買えるよ」

    「いくら、もらった?」

    「言わないよ。内緒」

    「だれでも買えるのか? 福袋」

    「携帯のアプリで予約するんだよ。アプリに登録して、予約した人が優先的に入手できる仕組みなの」

    「どんな福袋?」

    「私は服に狙いをつけた。例年だと、コートやカーディガン、ワンピースにスカート。そんなものがいっぱい入ってる。お得感、満載よ」

    「詳しいね。去年も買った?」

    「今年が初めて。親戚のお姉さんから教えてもらったの」

    「服が入った福袋か。服と福。いいね」

    「とってもいいわ。正月から得した気分になるでしょ? めでたさも手伝って」

    「俺がついて行ってもいいのか。そばにいて」

    智の言葉は私を喜ばせた。
    三角関係を棚上げし、素直にうれしい。

    「う、うん。もちろんよ」

    私は顔を赤らめた。
    男の子と二人きりになる時間が増えた。ほんとうにうれしい。
    智が店に行くのは追加的な目的であるのに、福袋を買う本来の目的を飛び越えた。

    私の前を、俊と夏菜絵が行く。
    彼らは二人の世界に入り込んでいる。こちらを気にしてない。楽しそうに喋っている。
    二人と二人でこのまま行き先がわかれてほしかった。

    私は夏菜絵たちに「用事ができた」と言い残し、智を連れてショッピングモールに続く角を曲がった。

    モールが近づくにつれ、恋のボルテージは上がった。通行人も増えてきた。

    ショッピングモールに着いた。
    手袋を外し、コートのポケットに入れた。

    元日から活動したい人は、やはりいるものだ。
    家族のグループは飲食店のフロアに上がり、子ども連れは一階のおもちゃ売り場に直行する。
    どの顔も穏やかで柔らかい。明るく、どこかのほほんとしている。

    一昨年の冬、東北で地震が起こった。東京も揺れた。関東は地震の多い地域で、慣れてはいた。

    当時の私は高校受験を控えていた。勉強こそ不得意だが、地震の影響が長引かないこと、受験当日に関東で大きな地震が起きないことを願った。
    願いはただの杞憂きゆうに過ぎなかった。
    通常どおりにテスト用紙が配られ、私はペンを走らせた。合否の発表はドキドキしたが、無事志望校に合格した。

    「お母さん、銀空ぎんくう高校に合格したよ」と咲良に携帯で報告した週末、家族揃って丸の内にあるレストランで合格を祝った。
    人生初の受験と合格祝いであり、たいした勉強も努力もしてなかった私は、一夜限りのヒロイン気分を味わえた。

    もっとも、ダンスが得意な私は、東京エリアで行われるダンス大会によく出場した。
    得意のブレイキンで表彰を受け、トロフィーをもらうことも少なくなかった。

    父の義男は、勉強のできない私をむりに学習塾には通わせず、好きなことを伸ばした。
    コンテストやイベント、ふだんの練習で遅くなると、必ず車で迎えに来てくれる。
    そんな父には、体が疲れていても感謝し、帰りの車内で「ありがとう」のひと言を忘れなかった。義男はまっすぐ前を向き、信号で停まると、言った。

    「マイ。おまえにはダンスがある。ケガだけは気をつけろ」

    父は私をやさしく扱ってくれる。とてもうれしい。

    「わかってるよ。ちゃんと、やる前とやった後にストレッチしてるもん」

    小学生の頃からダンススタジオに通い、インストラクターのいいつけを守った。
    それでも、危険はどこから降ってくるかわからない。あとになって、そう思った。

    「マイ」

    智の呼びかけに、びくんと体を痙攣けいれんさせた。

    「さっきから、ずっと手すりにもたれてさ。何か物思いに耽ふけってるのか」

    「違う、違う。気にしないで」

    好きになった相手を自分から誘っておきながら、つまらぬことを回想した自分を恥じた。
    いや、つまらなくなんかない。
    ダンスは私にとって大事であり、ダンスを踊らない自分は自分じゃない。そんな風に思い直し、愛想笑いで誤魔化した。
    智は不思議そうな顔をした。

    「サトシ。福袋買ったら、何がしたい?」

    「そうだな。正月でやれることといったら……」

    智は考えあぐねた。手を顎あごに当て、黙ってしまった。

    「ま、そのうち、何か思いつくわよ。買い物、買い物」

    智の手を引いてモールの店へ急いだ。

    店の前まで来た。
    店頭にはワゴンが二つ。でーんと置いてある。
    その上に、赤い福袋がたくさん並ぶ。客が手に取っている。

    「どれも同じよね」

    「さあな。高いのは、いいのが入ってんじゃん?」

    「そりゃ、そうよ。私の予約した福袋は、これくらいなのよ」

    私は指の本数で智に金額を示した。

    「そっか。買う福袋も決まってるんだろ?」

    「うん。予約した番号と引き換えるだけだよ」

    携帯を操作した。店のサイトで、予約番号を表示した。

    「Sの1594***。これをレジで見せればいいはず」

    私は「ちょっと待っててね」と言い残し、レジの列に並んだ。
    同じ事情の客は意外と多い。順番待ちの列が伸びていた。

    支払いを済ませ、店員が下に置いてある福袋を私に手渡した。持ち手のタグには、値段と「Sの1594***」の印字が施してあった。

    「お待たせー」

    赤い袋を掲げ、笑顔で智の元へ戻った。

    「いま、思いついた。スカイツリーに行ってみようか」

    智がこちらを見た。

    「うん。いいよ」

    彼と出会った初日から、デート気分だ。
    飛び上がりたいくらいうれしかった。

    二人は歩いて駅に向かった。
    空を仰いだ。
    太陽は分厚い雲に阻まれ、高いビルが寒そうに佇たたずんでいる。

    電車に乗り、スカイツリーを目指した。
    地下鉄の車内では意識しすぎて変に緊張し、何も喋れない。
    つり革を握る手に汗をかいた。

    途中で乗り換え、車内はますます混雑した。どうやら、考えることはみな似ているようだ。
    子どもが「富士山、見えるかな」と朗らかに親に話しかけている。鼠色のジャケット姿の老人が文庫本に目を落とす。外国人だろう。若いアジア人のグループが早口で外国語をまくし立て、陽気に笑う。うらぶれたおじさんはスポーツ新聞に赤ペンで丸をつけている。「◯◯競艇」と書いてある。
    老若男女を乗せた電車はスカイツリーの最寄り駅に滑り込んだ。

    人の塊がホームに溢れ、改札口は混雑した。
    そこを過ぎると、客は同じ方向に進んだ。
    人の群れは、ゆっくりと前進する。

    見上げると、バカでかいスカイツリーが、威風堂々と頭上にあった。
    あいにく、太陽は冬の雲にくすんでいた。

    入り口を目指して階段を上る。

    「あっ」

    左のスニーカーの靴紐がほどけた。赤い靴紐だ。

    「ちょっと待って」

    智がその場で片膝かたひざを立て、紐を結んでくれた。

    「ありがとう。やさしいね」

    私は顔を赤らめた。

    当日券の列に並び、チケットを買った。
    ようやくスカイツリーのエレベーター前まで来た。
    乗る前に順番待ちをしながら、私は訊ねた。

    「スカイツリーの高さって、どれくらいなのかな」

    「俺に訊いてくれ。知ってるから」

    「どれくらい?」

    「たしか、六……百……」

    「なんだ。曖昧あいまいね」

    「悪かったな」

    「でも、六百メートルもあるのね」

    「そうだ、思い出した。大化の改新の年号くらいかな」

    「そんな風に覚えるんだっけ?」

    「間違ってるか? まあ、いい。侍の名前が出てこないんだ」

    私たちの横に、メガネをかけた小学生の女の子がいた。
    その子がこそっと囁ささやいた。

    「ムサシだよ」

    小さな声ははっきりと聞き取れた。

    「そうだ。ムサシ。ろく、さん、よん、で六百三十四メートル。ムサシと覚えんだよ」

    子どもの手柄を自分の記憶に上書きし、智は胸を張った。
    私は智の手を握った。冷えた手は、智の手から温もりをわけてもらった。

    展望デッキに上がるエレベーターは四基あり、春夏秋冬とわかれている。別に、どうでもよかった。

    エレベーターに乗り込む。人でいっぱいだ。
    数十秒後に天望デッキまで上昇した。

    デッキに着くと、人でごった返していた。外国人も多い。東北弁や関西弁も耳に入る。

    スカイツリーの展望デッキから東京の町を眺めた。

    「見て、見て。あれがディズニー。あっちが東京タワーじゃん」

    私は童心に帰ったようにはしゃいだ。

    「ホントだ。こっちの方が高いな」

    「六本木あたりは、とくに、背の高いビルが多いね。墓石みたい」

    私は無機質のビルをそんな風にたとえた。
    密集した墓石ビル群は整然と起立し、行儀よく空に伸びていた。
    小学校の朝礼を思い出し、変な発想にプッと吹いた。

    目を移すと、銀空高校内では見かけないカップルがそばを通った。
    背の高い男子高生が先を行き、彼女と思しき女子高生は彼の私服の袖をつまんで続いた。
    映画の一場面のようで、その初々ういういしさが印象深かった。

    「映えスポット」に来た。
    二人並んで写真を撮った。いい思い出ができてうれしい。

    大きなガラス窓から外を眺めた。
    運がいいのか、雲の切れ間から太陽が顔を覗かせた。

    「日が射したよ。あ、すごい。あれ、見て」

    私は子どものようなはしゃぎ声を出した。智もそちらを見た。
    すでに客たちはその光景を見てため息を漏らし、携帯で写真を撮り出した。

    午後の陽射ひざしを浴びた富士山が、残雪を頂いてくっきりと見えた。

    「きれいな富士山が見えた。やった。何て、幸運なんだろう。元日の富士山。俺はツイてるぞ」

    智はひどく喜び、夢中で写真を撮った。

    「ね、サトシ。一緒に撮ろ」

    彼に写真をねだった。
    近くにいた人に頼んだ。富士山と二人の上半身が入るような構図で、写真を写してもらった。

    「いい記念になったわ。よかったね」

    智に言ったつもりが、彼は先を行っていた。

    「あれ、何だろう」

    床面でガラスになっている部分に立ち、智は床の一点を指さした。

    「どれ、どれ?」

    私はかがんだ。
    ガラスの下に広がる小さな世界を、ガリバー気分で見つめた。

    「ただの行列じゃあないな。どこか違う行列。車じゃなさそうな」

    「変ね。何かしら」

    「降りてみよう。俺は大名行列だと思う」

    このあたりに、彼の歴史好きの片鱗へんりんが見え隠れする。あとで彼の趣味を詳しく知った。
    智の発想に吹き出しそうになるのをこらえ、口を押さえた。
    令和の大名行列ね。

    「じゃ、さっきのは、馬と侍?」

    私は智に訊ねた。

    「たぶんね」

    「どうして馬なの?」

    「だってさ。今年は馬の年だろ?」

    「あ、そっか」

    そこだけは妙に納得した。

    「でもさ。どうせ馬の列なら、馬車に揺られるお姫様じゃないの?」

    冷静に思い返せば、私も智とドッコイドッコイか。

    「さあ、わかんねぇ。正解は見ることではっきりするよな」

    二人はエレベーターで降り、地上に来た。

    隊列はまだ続いていた。
    彼の主張は半分だけ当たっていた。
    車のスピードでないのは正しい。馬だ。

    「警備の人みたいね。馬に乗って」

    制服に身を包んだ男の人たちが、二列で馬を進ませている。
    警備する人の制服である。

    「武将じゃなさそうだ。残念」

    「私が当たったみたいよ。ほら、馬車だわ」

    「おお、たしかに。めったに見られないぞ。貴重だ」

    智はまた写真を撮った。
    沿道には日の丸の小旗を振る人たちがいた。
    どうやら、馬車には皇族が乗っているらしい。

    目の前を馬車が通過する。
    皇族の女の人が窓から笑顔でこちらに手を振った。
    私も振り返した。
    白いベールをかぶり、白いドレス姿。花嫁の他に何があるというのか。

    「きれいな花嫁さんだ」

    私は素直な感想を述べた。

    「あれはご成婚を祝うパレードなのよ」

    隣にいたおばあさんが、私たちに教えてくれた。
    気のいい老婆に、私は微笑んで頷いた。

    「結婚のパレードですか」

    「そうよ。年末に結婚なさって、元日にパレード。あんたたちはツイてるよ」

    おばあさんは小さな背中を少し伸ばし、語りかけた。

    「ほらね。私の予想、当たったじゃん」

    智の肩に手を置いた。

    「マイは俺よりずっと頭がいい。何だか、絵本か、外国のメルヘンの世界みたいだな」

    パレードを見送り、智は携帯に表示された時刻を見た。

    「夜まで時間がある。次は浅草に行こう」

    「うん。いいよ」

    二人はスカイツリーから浅草へ移動した。

    電車に揺られ、浅草に着いた。
    雷門の前で、また記念写真を撮った。

    智が「あれ、見ろよ」と指さした。

    浅草寺の参道で、無名の芸人が一人で路上コントを披露ひろうしていた。立ち止まり、しばらく彼のコントに付き合った。
    コント自体は面白かったが、芸人も疲れていたのか、後半は芸の勢いがそがれた気がした。

    そこへ縁起物が登場した。獅子舞である。
    獅子舞の乱入でコントはハチャメチャになった。
    芸人も獅子にからみ、元気を取り戻した。
    ネタを即興で変更したのか、展開の読めない芸が笑いを呼んだ。
    最後は芸人が獅子にぶつかって仰向けに倒れ、終わりになった。
    そこで一番の拍手が起きた。

    「面白かったね」

    「そうだな。どうする?」

    「そろそろ暗くなるし」

    「じゃ、戻ろうか」

    電車に乗り、最寄り駅で下車した。

    駅前の喫茶店に入った。
    メニュー表をゆっくりと開く。

    「何か、食べる?」

    「うん、食べるよ」

    智はメニューを見ながら答えた。
    二人は、卵サンドとツナサンド、ジュースを頼んだ。

    しばらくもじもじして、私は適当なことを思いついた。

    「夕べ、何食べた?」

    「俺か。昼に年越しそばを食べて、夜は出前だった」

    「いいね、出前か。出前は何?」

    「お寿司だよ。四人前」

    「握り寿司?」

    「そうだよ」

    「サトシの好きなネタは?」

    「俺は、ハマチとサーモン。あと、イクラ」

    「いいよね。私もサーモン、好きよ。あと、アナゴも」

    「大晦日の前日も、魚だった」

    「魚なの?」

    「うん。ブリ大根」

    「ふーん。食べたことないわ。純和風ね」

    「冬はブリが旬だからな」

    「旬て、よく聞くわ。食べごろってこと?」

    「そうらしい。寒い時期のブリは脂がのってるって、父ちゃんが言うんだ」

    「へぇ。知らなかったわ」

    「ブリもさ。塩をふってしばらく置くだろ。出た水気を拭いて、ザルにブリを置いてから、熱湯をかけるんだ。ジャジャーって」

    「そうなんだ」

    「ブリが気持ちいーよ、と言ったら」

    「フフ。ブリが喋るの?」

    「喋らない。代わりに、気持ちいいと身が白くなる。そんで、冷たい水に入れてさ」

    「詳しいね。プロみたい」

    「ゲームの人になれなきゃ、プロの料理人になってもいいよ」

    「どっちもすごいね。憧れちゃう」

     智は照れたのか、黙った。
     黙って、急に身を乗り出した。

    「あのさ。こんなこと言うの、変かもしれないけどさ」

    智が顔を近づける。

    「な、何?」

    私はドキドキした。
    智は前置きをした。何を告げられるのだろう、と思った。

    「スカイツリーのエレベーターや写真を撮ったときに感じたんだけど」

    「うん。で、何よ?」

    「すごくいい香りがしたよ。マイの体から出てるのかな。マイに近づくと、甘いフルーツみたいな匂いがするんだ」

    智は照れたように、目を伏せた。

    「え、ほんとう? 何だか、恥ずかしいわ」

    思いのほか、智にほめられた。
    顔が上気した。
    私は手でパタパタと顔を扇あおいだ。
    そんな魅力というか、女らしさも自分にあったのだ。小さな発見。

    しばらくの間、会話が途切れた。

    そのタイミングで、注文したものがテーブルに並んだ。
    サンドイッチを食べてジュースを飲み、心がほぐれた。

    「お正月にサンドイッチもいいな。体に優しい感じがする」

    智は頬を緩めた。

    「そうだね」

    私も釣られて笑った。

    今日あった出来事を喋り、思い出を語って楽しく食事をした。
    その後、趣味について話し合った。私はアイドルの推しについて熱弁をふるった。お洒落のことも話した。彼は日本史とゲームのことを喋った。
    彼の顔を見た。ご満悦まんえつの顔だ。

    元日からいろいろあり、ひとしきり喋ると、魂が抜けたようにおとなしくなった。
    彼は私を気遣きづかい、あえて話しかけてこなかった。

    代金を払い、喫茶店を出た。

    すでに日は沈んでいた。
    駅前に広い公園がある。
    その公園に見慣れた顔があり、四つの目がこちらを見た。昼に会ったその二人は、こちらを指さして訊ねた。

    「どこへ行ってたの?」

    「そっちこそ、どうしてたのよ」

    「俺たちは特にすることなくて、俺んちに行ったんだ。友だちを部屋に呼んで、みんなでウノやスプラトゥーン(インクを地面に塗り合うアクションゲーム)をした。
    それが終わると、カナエと駅前のコンビニでお菓子とパンを買ってさ。ここで食べてたら、おまえたちが現れたんだ」

    俊は時間経過の順に、丁寧に説明してくれた。

    四人は公園の石垣に座り、話をした。少しのつもりが、話し込むと長くなった。
    俊は腕時計に目をやった。

    「俺、そろそろ帰るわ」

    俊は片手を上げ、ズボンの尻を払って背を向けた。
    俊が姿を消して三人になった。
    夏菜絵は腰に手をやり、言った。

    「どうする?」

    夏菜絵は私たちの顔を見比べた。

    「カナエはどうしたいの?」

    私は夏菜絵の判断に委ゆだねた。

    「私も帰りたい」

    「じゃあ、帰ろ」

    私は彼女に同調し、一緒に公園から出た。
    智も遅れてついてきた。

    夜の暗さに目が慣れてきた。

    「元日なのに、よく遊んだわ」

    私は、呟きとも感想ともとれる言葉を発した。

    「マイは結局、サトシとべったりだったのよね」

    「え? べったり? そうかなぁ」

    「そうなんでしょ? 違うの?」

    「まぁ、カナエがそう言うのなら、そうなんでしょうけど」

    「歯切れが悪いね。今夜見る夢も、さぞかし楽しい夢なんだろうね」

    「そうなのかな」

    私はどちらにもとれる言い方をした。

    「今夜見る夢が初夢なのか」

    聞き役に徹していた智が口出しした。

    「そうよ。一月一日の夜に見る夢は、一年の中で一回目の夢。だから初めての夢よ」

    私は人さし指を立て、智に説明した。

    「俺、夢なんてあまり見ないよ」

    「初夢を見ないなんて、もったいないわね」

    私は智の方を見た。
    今日いちにち智と遊び歩いて、私にとっては初夢以上の大収穫である。

    すぐに夏菜絵とは別れた。

    私の家は角を折れてまっすぐ行った先にある。
    家の門柱に国旗が掲げられ、その輪郭が暗がりに浮かんでいる。
    私の自宅である。

    家についた。
    時計を見る。二十一時。

    「送ってくれてありがとう。今日はとてもよかったよ。楽しかった。ほんとうにいい一日を過ごせて幸せだったわ」

    私は感謝の言葉に率直な感想を付け加えた。

    「照れるな。俺もよかったよ。これからもよろしく」

    それ以上の言葉は二人から出てこなかった。
    それ以上の行動も望まない。
    一月一日。最良の日は交際スタートの日になった。
    少なくとも私はそんな風に思っていた。

    元日でも、ダンスの練習はした。
    カーポートの床にマットを敷き、その上で練習を行った。
    カーポートを使うときは、父の義男にひと声かける。

    すると、家にいる父が出てくる。
    私が練習できるよう車を外に出し、カーポートを空けてくれる。
    そのあいだ、父は車で買い物に行くときもあれば、家の前の道に停車することもある。

    硬いマットの上で倒立したり、回転したり、頭をつけて足をプロペラのように回して大きな円を描いたりする。
    鏡がないのできれいに手足が伸びているのかを確かめることはできない。

    暗さは気にならない。
    携帯で音楽を流し、ワイヤレスのイヤホンを耳にはめて練習した。
    ダンスに熱が入り、気分が高揚する。
    十五分踊っただけなのに、もう半袖のティーシャツは汗でぐっしょり濡れた。
    ダンスを終え、タオルで汗を拭いた。

    携帯で、練習が終わったのを知らせた。
    義男が家から出てきた。

    外にとめてあった車をカーポートに入れた。
    暗がりの中、とめてある車にもたれかかり、有名ダンサーの動画を見た。自分のダンスと比較し、いろいろな課題も見つかった。

    「ああ。いつかワシも、このダンサーのように踊りたいな。絶対に踊ってみせるぞ」

    そんな風に呟き、コンクリートの床を拳でたたいた。汗で体が冷え切っている。

    風邪をひかないうちに家の中へ入った。
    暖房のよく効いた居間でテレビをつけ、弟が風呂から出てくるのを待った。すぐに弟が体から湯気を出して出てきた。

    弟と入れ替わるようにして入浴した。
    湯船にたっぷり張られた湯に体を沈める。
    じわじわと一日の疲れが滲にじみ出すようで、ほんとうに気持ちいい。

    片手で湯をかき、もう片方の肩から腕にかけて湯をかけ流す。
    床に置いてあるプラスチックの黄色いアヒルをつかみ、湯に浮かべた。
    プカプカと優雅に泳ぐおもちゃに、自然と笑みがこぼれる。
    夏菜絵の旅行の話を思い出した。

    「いいなぁ。カナエは栃木の温泉に行くんだね」

    遠方へ行く予定などない。
    代わりに、俊、智と三人でスケートに行くことになった。

    急に気が緩み、ブクブクと泡が立った。
    やっちまった。
    お尻から出る生理現象だ。
    一人きりでよかった。
    尻から出たガスは泡となり、泡は空気に触れ、パカッ、パカッと連続的にはじけて消えた。
    あとにはオナラの臭さだけが残るのが虚むなしい。

    「うー、臭ぇ。たとえ人前でオナラが出ても、サトシにだけは絶対に知られたくないわ」

    鼻をつまみ、言い聞かせるように頷く私だった。

    風呂から上がった。
    バスタオルで充分に体を拭い、鏡を見る。
    いつもの痩やせた自分が澄まし顔で映っている。鏡の自分が向こうから無表情にこちらを見ている。
    私が笑うと、シンクロして鏡の自分も笑う。
    いつもの自分はあんな風なんだ、と思った。

    湯冷めを避けて、二階の自室に上がる。
    部屋でドライヤーをつけ、髪を手早く乾かす。枝毛が気になった。

    「残念ね。三本ほど枝毛があるわ」

    手で抜こうとして、はたと手を止めた。

    「カナエが言ってた。枝毛は抜いちゃダメって。切るのはいいけど、抜くとよくないのか」

    鏡台の抽斗ひきだしを開け、小さなハサミを取り出した。
    ハサミを使い、慎重に枝毛の部分だけを切り落とした。
    二本は処理したが、三本目の枝毛が見つからずにあきらめた。

    喉が渇いて階段を下りた。
    ドライヤーを元の場所に戻して台所に入った。

    冷蔵庫からジュースを取り出す。
    残り少ない。
    コップに注ぎ、少量を一気に飲み干した。

    咲良がこちらに背を向け、立っていた。洗い物をしている。遅くまで働く主婦はたいへんだ。

    「お母さん、手伝おうか」

    「別にいいわよ。正月だし、ゆっくりしてなさい。母さん一人で片付けられるわ」

    母は私の申し出を断った。気丈きじょうである。

    「正月なのに家事をして、たいへんだね」

    「慣れてるし、いいの。マイは外出して疲れてるでしょ。私は元気だから」

    咲良はこちらを振り向き、明るく笑った。

    「お茶、いれようか」

    咲良は手を止め、私に言った。

    「うん」

    咲良の提案に素直に従った。
    母は電気ポットに急須をあてがい、湯を満たした。
    急須の中にお茶の葉のパックを入れ、しばらく待った。
    茶の雅みやびな香りに心が落ち着いた。

    咲良は湯呑みを二つ出し、日本茶を注いだ。
    私は熱い茶を啜った。
    まろやかな深い味がした。茶の苦みと少しの甘味がいかにも日本らしく、正月の静かな夜にふさわしかった。

    母はイスに腰かけた。

    「美味しいね。お茶」

    ゆっくりと茶を味わい、向かいに座る母を見た。

    「そのお茶、残り少ないのよ。高いお茶」

    「そうなんだ。どうりで美味しいわ」

    「今週はどこかに行くの?」

    「うん。五日にスケートに出かけるよ」

    「お友だちと?」

    「そうだよ。男の子、二人とね」

    「今日は遅かったね。五日も遅くなるようなら、連絡を入れなさいよ」

    「はーい。わかったよ」

    私は連絡するかどうかは別として、その場では親に逆らわなかった。

    「ねぇ」

    「何よ、マイ」

    「私が外国へ行ったら、寂しい?」

    「ダンスのこと?」

    咲良の察しのよさに、私はおずおずと顎を引いた。

    「ダンス留学を考えてるのね?」

    母は私の顔を覗き込むように見た。

    「反対?」

    「いいえ。それがマイの夢なら、反対なんてしませんよ。外国で安全に過ごせるなら、私は何も心配しないわ」

    「ほんとう?」

    「ええ。でも、ちゃんと勉強するのよ。ダンスも含めて」

    「わかってるわ」

    「それに途中で投げ出さないこと。いい?」

    咲良は人さし指を立てた。私は頷いた。

    「お金、だいじょうぶ?」

    「費用なら、だいじょうぶ。出せるわよ。進学用に貯金も少しあるし、学資保険も受け取れるから。マイはお金の心配なんて、しなくていいのよ」

    咲良は、金銭面の心配は無用だと断言した。

    「そうなのね。よかった」

    「ダンスで夢をかなえたいなら、目標に向かって最大限の努力をしなさい。努力した日々は裏切らないわ」

    「まだ行き先までは決めてないけど、そうなったらよろしくね」

    「親子なんだから。子どもの面倒は最後まで見るわよ。それより、ダンス、頑張るのよ」

    「うん。もちろんよ」

    私は元気よく答え、残りの茶を啜った。
    父は無骨ぶこつで話しづらい一方、母は話しやすくて気心が知れている。

    二日、三日と日にちは過ぎても、特に生活上の変化はなかった。

    スケートに行く前日、つまらない用事を片づけた。スニーカーの黒ずみを洗って落とした。気分もスッキリした。

    正月も終わり、寒さも緩んだ。

    約束の日が訪れた。
    スケート当日、朝から自室でダンスの練習をしていた。

    板張りの床の上に段ボールを平らになるように敷いた。
    その上で腰や頭でクルクルと回ったり、足を天井に伸ばしてひねったりしてみた。
    上を向く足が周囲に当たらぬよう気をつけた。

    壁にも、天井にも、よけいなものはほとんどない。
    唯一、推しのアイドルポスター一枚が壁に貼ってあるくらいだ。
    ポスターには、「マイドオオキニ」の文字が書いてある。

    チェアーの変形バージョン(片手で体全体を支えて二秒ほど静止する技)を練習中だった。

    突然、携帯が着信を知らせた。
    技の合間に中断し、携帯を見る。
    俊からメールが入っていた。

    「あっ、いけない。もうスケートに行く時間だ。このままだと遅刻する」

    携帯をカバンにしまい込み、ティーシャツを脱いで長袖シャツを着た。
    その上からコートを羽織った。ズボンはそのままで一階に下りた。

    壁時計を見て、洗面所の鏡を見る。軽く服の乱れや身だしなみを整え、慌てて靴を履いて外に出た。

    待ち合わせにうるさいのは夏菜絵である。
    夏菜絵。
    よく考えたら、今日、彼女は来ないはず。例の鬼怒川温泉旅行の件がある。

    「そっか。なら、少しくらい遅れても」

    そう思って、駅まで駆けた。

    電車がプラットホームに吸い込まれたとき、私は息を弾ませて階段を上りきったところだった。両者はほぼ同時刻だ。
    このあたりが絶妙である。
    ダンスコンテストでも遺憾いかんなく発揮され、制限時間ぴったりで演技を終える癖が染みついている。

    車内に入り、暖房の効いた中で乱れた呼吸を整えた。
    車内の他人を見て、マフラーを忘れたことに気づいた。
    まあ、いいかとやり過ごした。

    すぐにスケート場の最寄り駅に着いた。
    改札口に見慣れた頭が二つ、並んでいた。

    「ずいぶん早いわね」

    「マイはギリギリじゃん」

    俊はこちらを指さし、笑った。
    智も、横で無邪気に笑っている。
    四日前に私と智が親密に過ごした様子を、俊には伝えてない。
    俊がそれを訊こうとしない限り、伝えるつもりはない。

    三人の思いは単純でないのに、仲よく並んでスケート場まで移動した。

    「サトシ、スゲぇんだぜ」

    「何の話?」

    私は俊の真意を問い質ただした。
    何がすごいんだろう。この二人の間で、どんなやり取りがあったのか。
    特に、智に関する秘密や情報には、興味をそそられた。

    「クククッ。マイ、聞きたいか」

    「もちろんよ」

    「あのな。サトシのヤツ」

    俊の口元を見つめた。早く話してほしい。

    「やっぱ、やめとこう。本人が喋りゃ、いい話だ」

    「なんでよぉ。聞きたいのに」

    私はむくれた。問う相手を変えてみる。

    「サトシ。何があったの?」

    智の顔をしげしげと見た。
    彼は照れ笑いを浮かべ、俊の方を向いて目配せしてから、私の方に向き直った。じつに思わせぶりだ。

    「たいしたことじゃないんだ。昨日」

    「昨日?」

    私はオウム返しで身を乗り出した。
    智はまたしてもタメを作り、舌で唇を濡らした。ちょっとセクシーに見えた。
    ごくりと唾を飲んだ。

    「じつは」

    話がやっと始まる。

    「じつは、昨日の夜、近くの公園で遊んでてさ。シュンも途中から加わったんだ」

    「夜になるにつれて冷えてくるじゃん」

    俊が合いの手を入れる。

    「そうよね。冬だもん」

    「全員がトイレに行きたくなった。でも、公園から遠い」

    「それで?」

    「つまり、面倒くさいから公園の草にかけたんだ。おしっこを」

    「それのどこがすごいのよ」

    私は首をひねった。

    「それがさ。シュンたちとほぼ同時に小便をしたのに、俺だけがずっと出てて」

    「まぁ」

    私は大げさに手で口を押さえた。
    内心、つまんねぇとなじりたかった。

    「いちばん長かったんだよな。サトシの小便が。どんだけ、おしっこを溜ため込んでたのか。俺は笑っちまったぜ」

    俊の説明に苦笑した。
    下品ではあるが、その程度でホッとした。
    もっと過激な、赤裸々な話に言及するのかと想像し、赤面をこらえてドキドキしていた。

    そうこうしているうちに、スケート場の看板が目に入った。

    空の下で滑るスケートリンクであり、スケート靴をレンタルして入場料を払った。
    荷物とコートをロッカーに預け、さっそく氷の上を滑り出した。

    私は子どもの頃に何回か滑った経験がある。
    リンクを曲がることや一周するくらいは、難なくできた。

    スケートを提案した俊は、ふだん活発なのに意外と上手ではなかった。
    腰が引け、滑り出してもなかなか上手に止まれない。
    俊を置き去りにして、私と智は手をつないで軽快に氷上を滑った。

    「待ってくれよー」

    俊が叫ぶ。
    立ち止まって振り返った。
    私は、情けない声を出す友だちを指さして笑った。
    俊はその場でこけ、尻もちをついた。
    智が近寄って抱き起こした。

    ふと、背後に何かが迫るのを感じた。
    気づいたときには、私はバランスを崩して派手に転倒した。
    硬い氷に腰を強く打ちつけた。
    激しい痛みが走り、顔を歪ゆがめた。

    「痛い。痛いよ」

    「すみません。ほんとうにごめんなさい」

    謝っているのは、背後からぶつかってきた男の子である。
    中学生くらいだった。まだ背も低い。

    「すみませんって言われても」

    「僕がいけないんです。前をよく見ずにスピードを出し過ぎちゃって」

    男の子は壊れたロボットのようにペコペコする。
    その男の子の差し出す手につかまり、私は立ち上がる。

    「ああ、まだ痛むわ」

    私は呟き、眉間に皺しわを寄せた。

    「あのぉ、僕、用事があるので」

    男の子は名前もろくに名乗らず、向こうへ行ってしまった。
    引け目を感じたのか。
    さっさとスケートリンクからあがり、いなくなった。

    「おい、マイ。だいじょうぶか」

    智が心配そうに私の顔を覗き込んだ。
    少し遅れて、俊も来た。

    「ずいぶん痛そうだ。可哀想に」

    俊が同情する。

    「向こうが不注意でぶつかったのよ。痛くてしょうがない」

    掠かすれ声で言葉を絞り出した。
    痛みに耐えられず、とても苦しい。

    「俺につかまれよ」

    智は肩を貸してくれた。
    彼の肩に手を回し、腰をかばうようにしてゆっくりと歩いた。

    「病院に行こう」

    智は私を支えながら、スケート靴を脱がしてくれた。
    ロッカーの荷物を出し、私は肩からコートを羽織った。
    スケートリンクを後にした。

    大通りが見えた。
    智が携帯でタクシーを呼んだ。
    まもなく、タクシーが迎えに来た。

    楽しいはずのスケートは暗転した。
    楽しかったスケートを中断し、智とタクシーで病院に向かった。

    近所の総合病院に着いた。

    受付で問診票を記入し、待合室で待った。
    長く待たされ、診察室に入る。

    年老いた医者は私を寝台に寝かせ、患部を見て軽く触った。

    「軽い捻挫ねんざかもしれないな」

    医者はしゃがれ声でこともなげに告げた。
    メガネの奥を光らせ、レントゲンを撮った。
    医者はレントゲン写真を見て、「特に異状は見られないね」と言った。

    看護師が来て、腰に湿布を貼った。
    医者は腰を丁寧に扱い、イスにどっかと座った。咳せきを一つし、こちらを向いた。

    「全治三週間程度だ。ま、ここに通いなさい」

    「先生。腰が治ったら、ダンスをしてもいいですか」

    「どんなダンス?」

    「ブレイキン。床でクルクル回るヤツ」

    「激しいのはせん方がいいね。しばらく様子を見て、だいじょうぶならやればいい」

    カルテを書きながら、医者はこう言った。

    「くれぐれも安静にしてくださいよ」

    また、「あなたは若くて体力もあり、回復は早いだろう」と付け加えた。
    それにしても、大好きなダンスを踊れない日々が続くのかと思うと、やはり辛かった。

    私は頭を下げ、診察室を出た。

    智が待合室に座っていた。
    私を見た彼は、「どうだった?」と声をかけた。

    「少し楽になったけど、まだ腰がじんじんするのよね」

    私はこぼした。
    会計をすませ、病院を出た。
    病院の前にある薬局で、鎮痛剤と湿布と塗り薬をもらった。

    「マイ。しばらくはじっとしてろよ。腰を痛めたんだからな」

    「わかってるわ、サトシ。わかってるけど」

    「マイが元のようになるのをみんなは望んでる。焦らず、腐らず、むりはするなよ」

    「ありがとう。やさしいね。サトシは」

    私は痛みをこらえ、辛うじて笑顔を作った。

    薬局から自宅まで、智を伴って帰った。
    帰る道中、二人きりになり、意外な展開となった。

    「姉貴」

    相手の声が耳に届いた。
    自宅前の四つ角に弟がいた。しかも女と。
    驚いた。
    彼女らしき女と二人連れ。こちらも、同じようなもんだが。

    「正月明けにデートかよ」

    弟の英徳ひでのりが先制パンチを見舞った。

    「何よ。そっちこそ、仲よさそうにして」

    「俺が誘ったんだ。何もやましいことはない」

    英徳は悪びれずに堂々と胸を張る。

    「お母さんに言うわよ」

    「いちいちうるせぇな。勝手なこと、言うなよな」

    「ケンカはやめてよ。別にいいって。バレたって」

    英徳の彼女はぼそぼそと喋った。

    「いいのかよ」

    「うん。ヒデくんの家族なら、かまわないよ」

    英徳の彼女は、恥ずかしそうに弟の体に隠れた。

    「ずいぶんとけなげな女の子ね」

    「姉貴とは違うのさ」

    「あっそ」

    「それにしても、円道家に浮いた話は尽きねぇな」

    「もう、それくらいにしな。外は寒いし、自宅はすぐそこだよ」

    私は弟に自制を求めた。

    「それもそうだ」

    「今夜は月曜よ。ヒデノリの好きなアニメ、始まるんでしょ? 初回放送が」

    私はわざと話の論点をずらした。英徳はアニメ好きだ。

    「そうだった。今から楽しみだ。早く風呂に入らなきゃ。マユ、今日はありがとう」

    「うん。こっちこそ。楽しかったわ。じゃあね」

    マユと呼ばれた女子は、反対の道へ歩き去った。

    「中二で恋愛か。やるね、ヒデノリも」

    「もう子どもじゃないんだ。恋しても全然悪くない」

    それまで黙ってやり取りを聞いていた智は、私の方に向き直り、こう言った。

    「俺は、マイも、マイの弟も、ともに幸せになってほしいよ。神様にそう祈ってる」

    「ホント? ありがとう。それに、今日は送ってくれてありがとう。また、会おうね」

    「うん。体、気をつけろ。早くよくなれ」

    彼の飾り気のない言葉にやさしさがあった。そのやさしさが身に染みた。

    私たちは家の前で別れた。

    「ただいま」

    玄関のドアを押し開けた。
    背後から弟の英徳が顔を出した。

    「あら、二人揃っての帰宅ね。それはそうと、シュンくんから電話があったのよ。腰を痛めたんだって?」

    咲良が出てきた。心配そうな表情だ。

    「うん。スケート中に中学生がぶつかって、転んだ。腰を打った。ついてないよ」

    「だいじょうぶ?」

    「うん。なんとか」

    「病院に行った?」

    「行って来た。薬をもらった」

    私は腰をさすり、居間のソファーにゆっくりと座った。

    「あああ。しばらくダンスを踊れない。遊んでるときに腰を捻挫するなんて、我ながら情けない。ほんとうについてない」

    しばらく総合病院に通うことが確定し、己の不幸を嘆いた。

       @

    「痛いなぁ、もう」

    私は鏡を見た。
    赤くはれている。
    おでこにできたのは、ニキビだ。
    洗顔はかかさずやるが、できるときはしょうがない。
    専用のクリームを塗った。触らなくてもうずく。

    「早くはれがひいてくれないかな」

    口をすぼめた。

    「ワシ、かなわんよ」

    人前では自分のことを「私」と言うが、最近になり、とくに一人でいるときや呟くときに、自分を「ワシ」と言いがちになっていた。

    そこへ、ピンポーンと間延びした呼び鈴の音。
    慌てた。

    「はーい。ちょっと待ってくれー」

    洗面所から玄関に向かった。

    「だれだろう? お母さんも、お父さんも留守よ。そんなときに限って、だれか訪ねて来るのね」

    玄関を開けた。

    「よぉ、こんにちは」

    俊が立っていた。
    漫才師のように手を前に広げ、おどけた。
    後ろにもう一人。智もいる。

    「俊に、智も」

    「今日はさ。心配になって、見舞いに来たんだ」と俊は説明する。

    「ほんとうのところ、俺が心配したんだ。そんでさ。一人で行くのもアレかなって、俊を誘った」

    「そう。うれしいわ。あがってよ」

    そう言いつつ、一人で来てほしかったな、と残念がった。

    私は、二人の男を居間ではなく、自室にあげるつもりで招き入れた。
    外出中の家人のことなど、頭から飛んでいた。
    男子二人は、元気よく階段を上がった。

    「女の子の部屋って、こんなのか」

    智が言った。本音とも、ウソともつかぬような口ぶりだ。

    「また、また。知ってるくせに」

    私は軽口をたたいた。

    「俺はよく知ってるよ。女子の部屋ってのは、一見きちんとしているようで、見えないところに秘密が」

    「ちょっと待った!」

    思わず叫んだ。

    「ちょっと待った。もう、変なこと、言わないの。それと、勝手に探したり、抽斗を開けたりしないこと。いいわね? これ、円道舞のトリセツだからね」

    私は釘をさしておいた。

    「何だか、いい匂いがするな。部屋全体に」

    智が鼻をヒクヒクする。

    「そ、そうかな。うれしいわ。私の匂いよ」

    出まかせに言った。
    ほめられたからには、そう言いたくなる。

    布団を隅に片づけた。

    「ここが俺の定位置」

    俊がベッドの真ん中に飛び乗る。

    「シュン、俺もそこがいい」

    「ダメ、ダメ。サトシは床だ」

    俊が一方的に言う。

    「何でだよ」

    「二人ともケンカしないで。ベッドの左右に座りなよ」

    狭い部屋の陣取り合戦。
    私は床に座布団を敷いて座った。

    「なあ、マイ。どうなんだ?」

    俊がぶっきらぼうに訊ねる。

    「え? 何が」

    「だからさ。腰の具合だって」

    「二日前に痛めたばっかよ。すぐに回復はしない」

    「どれくらいかかる? 治るのに」

    今度は智が、心配そうに訊いてくる。

    「三週間くらいかな。長くて一月」

    「そうなんだ。でも、ダンス、踊れないんだろ?」

    「もちろん、そうよ」

    「マイからダンスをとったら、ただのありふれた女子高生」

    「うるさいよ、シュンたら。シュンは、これだけは人に負けないこと、あんの?」

    「ないよ。そんなもの」

    「サトシは?」

    「俺は、ゲーム。アクションやRPGなら、けっこう強いよ」

    「二人とも、そのままじゃ、社会に出ても潰つぶしがきかないね」

    「なんだよ。俺をぶっ潰すつもりか」

    俊が勢い込む。

    「そうじゃなくてさ。ある種の腕があれば、他の職業でもやっていけるってわけよ」

    「図面を引けりゃ、土建でも、不動産でも、電気の設計でも、いけるとか?」

    「そうよ。ほら、サトシは理解が早い。仕事して壁にあたって、転職するときに、潰しがきけば楽じゃん。楽でなくても、めちゃくちゃ苦労はしない。ウチのお父さんがそう言うの。たしかよ」

    「腰痛めたのに、口だけは達者だな」

    俊はベッドで足を投げ出した。

    「マイ。床でくるくる回るダンスができるんだろ?」

    「まあね。ツルツルした床なら、頭でも手でも回れるよ」

    私は自慢げに言った。

    「おお、すげぇじゃん。俺、見てみたい」

    「俺も見たいよ。やって見せてよ、マイ」

    智も俊に同調する。

    「しょうがないな。じゃあ、二人のために、ちょっとだけ踊るよ」

    座布団を壁に立てかけ、板張りの床の上でブレイキンを披露した。
    ベッドが邪魔なので、軽くステップを踏んで軽快なフットワークを見せる。
    頭を床につけて倒立し、勢いをつけて体を回転させた。

    「すげぇな」

    俊が驚いた声を出す。

    「めっちゃ恰好いいね。迫力満点だ」

    智もほめてくれた。

    「ありがとう、サトシ。私はつねに、見る人を楽しくする演技を心がけてるの」

    ブレイキンが踊れることを鼻にかけた。

    「俺でも練習すればできるかな」

    俊は興味ありげに訊ねた。

    「できるよ。ホントに難しくないの」

    「ダンサーは楽しそうだし、見る方も楽しいよ。いいよな」

    智は感心した様子だ。

    「智は、動きを止めるのと、ダイナミックに動くのと、どっちが好み?」

    「どっちもいいよ。恰好よければ」

    「マイ。将来はダンスで檜舞台に立つんだろ?」

    俊はベッドで胡座あぐらをかいて身を乗り出す。

    「うん、そのつもり」

    「すっげぇな。ダンサーマイの誕生だ」

    「プロになる夢の他に、オリンピックとかで金メダルをとる夢。二つある」

    「そのときは、真っ先に俺にサイン、くれよな」

    俊が自分の顔を指さす。

    「さあね。どうしよっかなぁ」

    「俺もほしい。マイのサイン」

    「サトシは素直だから、考えとくよ」

    「なんで? なんでだよ。マイ、俺とサトシで対応が違くないか」

    「ま、気にしないで。笑って誤魔化せ」

    「それより、腹がへった。お菓子、ないのか」

    俊の口元によだれが光る。

    「待ってて。探してくる。あ、そうだ」

    「どうした?」

    「サトシも来てよ」

    「俺が?」

    智は自分を指さす。

    「そうだよ。サトシは料理に詳しいじゃん。魚とかさ」

    「えっ。まだ、それほどでも……」

    「いいから、いいから。行こ」

    私は智の腕を引っ張り、強引に二人で自室を出た。

    「早く、探してこいよ」

    背中越しに食いしん坊の声が聞こえた。

    二人で階段を降り、智を洗面所に誘導した。

    「こんなとこに、食べ物は」

    「いいのよ。冷蔵庫にプリンがあるわ」

    「いいのか」

    「かまわないって。それより、ここなら安全。ライン、交換しよ」

    「ライン? ああ、いいよ」

    私と智は携帯を出し合い、二次元コードを他方の携帯で読み取った。二人は互いのラインIDを登録し、すぐさま「友だち」に追加した。

    「これでよし、と。いつでも連絡できるわ」

    間があき、二人は見つめ合った。

    「なんか、いい雰囲気だな」

    「そうね。ねぇ」

    私は目を閉じ、唇を突き出した。

    そのとき、智の携帯が鳴った。
    智は電話に出て、廊下へ行ってしまった。

    「えええー」

    私は目を開け、つまらなそうな声を出した。
    しかし、ラインを交換して十点プラス。幸先がいい。円道舞選手、好発進ですね。
    心の中では、〝恋愛選手権〟に出場中だ。

    智は照れ隠しか、二階へ上がってしまった。

    私は冷蔵庫を開けた。
    プリン一個とハムと栗の甘露煮の瓶を持ち、スプーン三本を携えて階段を上がった。

    待ちかねた俊がドアから顔を出し、手招きする。

    「早く来いって」

    「わかってるって。食い意地の張ったヤツめ」

    ドアを開けて中に入った。

    「ワシもな。疲れたで」

    何気ない言葉にふだんの癖が出た。

    「なぜ、おっさん言葉?」

    「なぜ、関西弁?」

    二人の男から、厳しい指摘があった。

    「ま、いいじゃん。ときどきおっさんが出るのよ」

    ベッドに〝戦利品〟を並べた。

    「このままじゃ、シーツが汚れるよ」

    私は食べたあとをイメージした。

    「ふむ。タオルか何か、敷こう」

    俊は適当なことを言う。

    「待って。抽斗にあるから」

    私は背中を向け、押し入れからスポーツタオルを取り出した。

    「あ。推し活のタオルだ」

    「そんなことはいいから」

    私は、茶目っ気の多い俊に注意した。

    「ほれ、スポーツタオルよ。これを敷きましょ」

    シーツの中央部をスポーツタオルで覆い、そこに食べ物を置いた。
    必然的に、三人がベッドに集まった。
    かなりの重さだろうが、ベッドは持ちこたえた。

    「マイ。プリン、食べるぞ」

    俊がせかす。

    「俺もほしい」

    「私のものよ。元々は」

    意見がまとまらない。
    住人として、私は決断した。

    「三人で一個を食べられるようにしよう。私がまず三分の一を食べる。残りを二人でわけなさい」

    「なかば命令口調だな。そうするか」

    「三分の一の残りって。三ひく一で、二分の二か」

    智は計算が苦手らしい。
    右に同じだ。
    智は私に従った。
    適当に残せばいいよ、と俊は言った。

    「ただし、カラメルをかき回すなよ。グチャグチャになったら、プリンの意味がないからな」

    「言うね。シュンの割には」

    私はスプーンで大きくひとすくいし、舌の上にのせた。
    至福の甘みと柔らかさが私をとろけさせる。

    「その間に、栗、食おうっと」

    俊はスプーンを使って、瓶の中の栗を食べた。

    「甘いな。たまらねぇぜ」

    私はプリンの残りを智に回した。

    「ところで、今日は何しに来たの?」

    私は訊ねた。

    「何度も言わせるなよ。マイの腰の具合、見に来たんだってば」

    俊が面倒くさそうに言う。

    智が言い足した。

    「でも、だいじょうぶそうだな」

    「まだ、少し痛みは残ってるよ。薬が効いてる。二月に入るまでは安静にしなさいって、医者は言うの。でも、私、こう見えて体を鍛えてるスポーツ女子だし」

    「ごもっとも」

    智は私の方を見て、にこりと笑った。やさしい笑い方に、胸がキュンとした。

    少し腹が満たされ、訪問の目的はもうどうでもよくなった。

    三人でゲームをした。雑学をあてるゲームだ。
    五分間に携帯などで調べ、問題を考える。
    三人が一問ずつ、出題した。

    「中華まんで、売られてないのはどれ?」

    私が出題者である。

    「それなら、わかりやすいぞ」俊は身を乗り出した。

    「さあ、言ってくれ」智は落ち着いている。

    私は中華まんを四つ挙げた。一つはウソだ。 

    「あんまん。プリンまん。バナナまん。すまん」

    「えー、どれかな。すまん、なんてねぇだろ」俊は笑った。

    「ぶぶー」

    「バナナまん?」智が答えた。

    「サトシ、正解」

    「くそぉ。すまんなんて、あるのか」

    俊は悔しがった。

    「次はだれ?」

    「じゃ、俺が」智が言った。

    「孫の子どもは、ひ孫。では、孫の孫は」

    「知らねぇよ。マゴマゴするぜ」

    俊はつまらぬ洒落を言う。

    「なんだろう。聞いたことありそうな」

    「時間切れ。答えは、やしゃご」

    「難しいな。サトシはよく調べたな」

    俊が感心する。

    「ときどき聞くけどな」

    「じゃあ、最後に俺からのクイズだぞ」

    俊は腕組をした。

    「サルナシって果物があるらしいんだ」

    「サルナシ。初めて聞く名だ」

    智が顎に手をやる。

    「そのサルナシ、どんな果物に似てる?」

    「梨?」

    私は当てずっぽうで言ってみた。

    「違う」

    「リンゴ」

    「サトシも違うぜ」

    「分からない。何?」

    私は訊ねた。

    「じゃ、次までの宿題だな。ただし、携帯やパソコンを使って調べるの、禁止ね」

    「えー。先生に訊こうかな」

    「図書室で調べる手もある」

    「シュンにしては、いいとこ突くね。シュンのくせに」

    私はちょっとからかった。

    「何だと?」

    「まあまあ。最後は難しかった。次までに答えを出すよ」

    智はそう言うと、机の時計を見た。

    「俺、そろそろ帰るよ」

    智はベッドから起き上がった。

    「じゃ、俺も、帰ろうかな」

    俊も帰ろうとする。

    私は玄関で二人を見送った。

    友だち二人が辞去し、しばらくたった。
    弟が外から帰って来た。
    それからさらに三十分違いで、両親が買い物から帰宅した。
    母は、横文字の書かれた大きな袋を小脇に抱えていた。

    「どうだった?」

    「え? 何が?」

    「だれか来たんでしょ? ヒデノリから聞いたわよ」

    「ただの友だちよ。遊びに来て、すぐに帰った」

    私はつまらなそうに答えた。

    「あら、そう」

    それだけですんだ。
    いつもなら、もっと突っ込んだ質問をしてくる咲良だが、今日はあっさり二階へ上がった。

    どこかのブランドの服を買ったようだ。
    母はそういうときしか、寝室へ直行しない。
    今ごろ、寝室の鏡の前で、上機嫌で服とスカートを色合わせしているに違いない。

    「あっ、プリンがない」

    台所で声がした。英徳が騒ぎ出した。

    「姉貴、食ったな?」

    「知らないよ」

    「流しにスプーンが置いてあるぞ」

    「私じゃないわ」

    あくまで白を切る私。

    「食い物の恨みは一生忘れないぞ」

    「だから、知らないってば。しつこいなあ」

    ウソをつきつつも、本気で怒った。

    しばらく言い合っていると、二階から降りて来た母が、仲裁に入った。

    「もう、やめなさい。プリンくらいで。バームクーヘンを買ってきたから、みんなで食べましょう」

    「そうこなくっちゃ」

    英徳は顔をほころばせた。

    「お父さんは?」

    父の姿が見えない。

    「まだ、車のところにいるんでしょ」

    咲良はそう言った。

    お湯を沸かす間に、義男は居間にやって来た。車の中にいたのではなく、トイレで用を足していたらしい。

    「あなた、バームクーヘン、食べる?」

    咲良が義男に訊ねる。

    「俺か? いらんよ。熱いお茶だけほしい」

    お湯が沸いた。
    義男は日本茶、他は紅茶を飲んだ。

    「マイ。おとなしくしてるか」

    義男は探るような目つきで訊ねた。

    「え? 腰のケガの心配?」

    「そうだ。腰を痛めたら、練習は休めよ」

    「ダンススタジオなら、とうぶん休むよ」

    そのつもりだった。

    「だれかにダンスを見せるのも禁止だぞ」

    父は痛いところを突いてくる。さすが、元剣道部。

    「うん、だいじょうぶよ」

    さっき見せていたのは、何だろう。
    バームクーヘンをフォークで崩すかわいい悪魔は、心の中で舌を出した。

    「マイ、今日の体育、休むの?」

    「うん。腰を痛めたからね」

    クラスの友だちが更衣室から出てきて、話しかけた。

    冬休みも終わり、今週から三学期が始まった。
    昼下がり、見慣れたグラウンドに私たちはいた。
    体操服の女子らは、すでに走り終えた男子とは別メニューで準備体操をしていた。

    腰を痛めていることを体育教師に告げ、制服姿でグラウンドの隅に立っていた。見学である。
    折からの冬の寒さをこらえて手袋をつけ、女子たちのするソフトボールを見守った。
    男子は運動場の半面を使い、ラグビーをしていた。

    体を動かしたい。
    けれど、医者から止められている。もどかしかった。

    「マイ、ボール、拾って」

    「え、ああ、これね」

    三塁側のファウルゾーンに転がったボールを足で止めた。
    手袋を外した。
    かがんでそれを拾い、ベンチの選手に放った。

    カキーン。金属バットの鋭い音が鳴った。
    ボールは外野を越える大きな当たり。

    「カナエ、回れ、回れ」

    攻撃側の選手たちが大声を出す。
    夏菜絵は、全速力でベースを回った。
    転がったソフトボールは男子のグラウンドの方まで転々とし、夏菜絵がホームベースを踏んだ。

    「やったね。カナエ、ホームランだ」

    私は手をたたいて、拳を天に突き上げた。
    夏菜絵は満面の笑みで仲間とハイタッチしていた。

    彼女は文武両道で通っている。部活こそやらない帰宅部だが、運動系はなにをさせても活躍する。
    二学期の体力測定では、走り高跳びでクラス一位だった。五十メートル走はクラスで二位。千五百メートルの長距離走は学年で五指に入る活躍ぶりだ。

    陸上部から「頼む。県大会の記録会に出てよ」と頭を下げられ、「嫌よ。しんどいのと順番を待つのは、性に合わないわ」と彼女はすげなく断った。

    ソフトボールでもその運動神経の良さは無双状態である。彼女のいるチームは、必ず試合に勝った。

    体育の授業が終わった。
    みんなは道具を片付け、更衣室に向かった。

    このあとホームルームがあり、各自が部活を始める。
    私はダンス部に所属していたが、腰のケガを理由に一月の練習は休むと顧問に伝えた。
    もともと、二年になってから、ほぼ幽霊部員である。

    「マイ。今日は一緒に帰れるね」

    「そうだね。帰ろっか」

    土日を含む週三日、夏菜絵は早くに帰宅し、バイトをする。
    回転寿司チェーン店で働いている。
    働く理由は二つある。
    一つは、お小遣いをためて大学生になってから好きな服を買うため。
    もう一つの理由。それは、寿司が好物だから。
    かつて、家族でそこのチェーン店に行き、すっかり虜とりこになったそうだ。

    「中トロとあぶりサーモン。それさえあれば、私はご機嫌よ」

    寿司を語るとき、親友は屈託なく笑う。
    今日はバイトのない日だった。
    二人は自転車に乗り、遠回りした。よく行く堤防まで、ペダルを漕いだ。

    大きな川が近くを流れている。橋を自転車で渡った。
    渡り終え、サドルから降りた。
    堤防に自転車を止める。
    夏ならば、ゴロンと草の上に寝転べる。
    今の季節、吹き渡る風は冷たい。
    近くのベンチに腰かけ、話し込んだ。

    ときおり冷風が肌を刺す。
    足は慣れていて平気だが、顔はきつい。
    ブルーのマフラーは勇敢に冷風を阻止し、首元への侵入から守ってくれる。とてもありがたい。

    「カナエ。二学期の面談、なんて言われた?」

    「三者面談か。成績と進路の話よ」

    「成績はいいでしょ? 進路は大学?」

    「そうよ。よほどのことがないかぎり、就職ではないわ」

    「そう」

    「マイは?」

    「私? 私、まだ決めてない」

    「決まってるでしょ?」

    夏菜絵は私の顔を横から覗き込む。

    「でもね。ダンススタジオに就職するなら、それなりの実績と実力が」

    「そんな甘いこと、言ってんじゃないわよ。もっと、世界をアッと言わせてやるとかさ。自分がダンスの新しい歴史と未来を切り開くとかさ。大それたこと、言わなきゃ」

    「つまり、大きな夢を語れってこと?」

    「そうね。平たく言えば、夢よ。夢。夢を語ってもバカにされないし、大きな夢ほど魅力的だもの」

    「よし。私にはダンスしかない。ダンスでてっぺんをとるのが夢。ぜったい、私のダンスで世界を塗り替えてやる」

    「そうよ。その意気、その意気」

    夏菜絵は目を細めた。
    しばらく話が途切れ、彼女は呟いた。

    「しかし、学校が始まっても、毎日変わり映えしないなぁ」

    「ホントよね。私はとうめんダンスができない。体を動かせない学校生活なんて、苦痛でしかないわ」

    「勉強以外で楽しいこと、ないかなぁ」

    「カナエに推しはいないの?」

    「アイドル? とくに興味はないわ。マイはいるよね?」

    「うん。ずっと、クールヒーローを推してるよ」

    「ライブ、行くの?」

    「もちろん行く。今年の四月にあるわ」

    「いいな。楽しそうで」

    「カナエも行く?」

    「え? いいの?」

    「いいよ。近所で一個下の子といつも行くけど、チケット三枚くらいならとれるよ。ファンクラブの優先予約があるし」

    「じゃ、頼んでもいい?」

    「任せといて。クールヒーローのライブ、めっちゃ盛り上がるから」

    「よかった。楽しみができた。ライブのために勉強を頑張れる」

    「それはすごいね。私はクールヒーローのために、体を治してダンスを頑張るよ」

    「なんだか、ウチら、青春してるね」

    「そうだね。これが青春なんだわ」

    「好きな人、いるの?」

    夏菜絵は、急に私の恋愛に話を変えた。

    「えー、だしぬけに何よ。好きな人くらい、いるわよ」

    「へー、やっぱりだわ」

    親友は先日と同様、意味深な笑みを浮かべた。
    彼女は、私が智に恋したのを見抜いている。
    間違いない。

    「何がやっぱりよ? どういう意味?」

    「それは言えない。私はマイのこと、応援するよ」

    「あ、ありがとう」

    「そろそろ、帰ろっか」

    夏菜絵が言う。

    「うん。いろいろ励ましてくれて、ありがとうね」

    私は友人にお礼の言葉を繰り返した。 

    「友だちだから、当然よ。じゃあね。また、明日」

    「うん。バイバイ」

    私は手を振り、夏菜絵と別れた。
    彼女は反対方向にペダルを漕いだ。その背中が小さくなった。
    ゆっくりと自転車のペダルを漕ぎ、橋まで戻った。
    なるべく腰を痛めないよう、できるだけ同じ姿勢を保ち、サドルにまたがった。

       @

    「円道。おまえってヤツは」

    銀空高校で円道と呼ぶのは先生だけ。みんな、マイとか、マイマイと呼ぶ。下の名前が舞だから。

    「先生、何が言いたいんですか」

    「何がって、円道の進路はまだ白紙になっとる」

    担任の鷺沼さぎぬま先生が紙を指さす。
    放課後の夕陽が先生の体と紙を照らす。
    進路指導室はシーンとして、ドラマで見た警察の取調室みたいだ。

    「そうですよ。そのときはまだ定まってなかったので」

    「もういちど訊くが、進路は決まったか」

    「はい。決めました」

    「進学か? それとも就職か」

    「どちらでもありません」

    「何を言ってる。どちらかしかあり得んだろうが」

    「あえて言うなら、勉強なしの進学かしら」

    「なんだ、それは?」

    「ダンスですよ」

    「ダンス教室へ就職か」

    「まだ、すぐには。実力をつけるために、進学です」

    「つまり、それは」

    「アメリカへ留学します。ダンスの勉強をしてきます」

    「おお、そうなのか。だいじょうぶか」

    「これから準備します」

    「お金とか、言葉とか、心配な面もあるがなぁ」

    「何とかなります。向こうで奨学金をもらう制度もあります」

    「ほう。調べたのか」

    「はい。ダンススタジオのインストラクターに詳しく聞きました」

    「そうか。ダンスが得意なのは、先生も知ってる。円道がやりたいことを追求するのなら、精いっぱい頑張りなさい。若いときに夢を追うのは、いいことだ」

    「先生、ありがとう」

    「先生も、全力で円道のことを応援するぞ」

    鷺沼先生は喜んだ。

    「はい。私、頑張ります」

    私の進路調査はそれで終わった。
    鷺沼先生の言葉が素直にうれしかった。
    高三で行われる一学期末の三者面談は、留学の話になるだろう。

    進路指導室を出た十五分後の私は、体育館にいた。
    銀空高校ダンス部の練習が、空き教室や体育館の隅を借りて行われていた。

    体育館は、主にバレー部やバスケ部が使う。
    実績の少ないダンス部はどうしてもしかたのない面がある。
    今日、バスケ部の練習は二時間後の開始であり、ダンス部のすぐ横では、体操部が平均台や跳馬の練習をしていた。

    個人で技を磨くダンスならば、狭い空間で事足りる。
    部員総出で群舞する創作ダンスが主となるとき、休日の体育館を借りるか、民間のバレエスタジオなどでダンスを合わせるしかない。
    鏡のあるバレエスタジオが近くにあるのはありがたかった。

    銀空高校ダンス部の月間、年間のスケジュールは決まっている。練習日は、月、水、金曜日だ。以前は、土曜日もあった。
    土曜の部活は、制度の変更により、学外のスポーツクラブに移行した。

    土曜日のスポーツクラブに参加できない部員もいて、まとまった練習というよりは、個人的に練習量を増やしたい者が集まって参加する感じだ。
    私は、部活の日にダンススタジオに行き、練習にはほとんど出ていない。

    いろいろな場所で練習し、ある程度踊りを覚える。
    ダンスを熟知した先輩がその場で後輩を指導する。
    ダンスが仕上がると、全体で広い場所に集合する。
    そこで踊り、コーチに見てもらう。

    ダンスは全体で揃えなければならなかった。
    全体練習は音楽に合わせて一糸乱れぬ踊りになるため、部員の呼吸と動きが揃うように気をつけなければならない。

    私は小さな頃から、個人で踊るストリート系のダンスに興味があった。
    人と合わせるダンスは好きではない。
    一年のときはまじめに創作ダンスを練習して、大会や地域のイベントに出た。
    二年になって変化した。サボりがちで、補欠要員になった。
    そんな暇があるなら、個人でダンススタジオに通い、ブレイキンの技を磨きたかった。

    医者にダンスを止められ、スタジオに行っても他人のダンスを見ることしかできない。
    ダンスを見るしかできないなら、とふらりと体育館に足が向いた。
    少しだけみんなの元気な姿を見たくなった。

    動きを素早くし、みんなと踊りを合わせる演技は、少人数で恰好よく踊るスタイルのブレイキンとは方向性が違っている。

    「みんな、熱心ね」

    「あら、マイ。久しぶり」

    友だちが声をかける。

    「久しぶり」

    「今日はダンス、していくの?」

    友だちが首を少し傾ける。

    「ううん。腰を捻挫してそれどころじゃなくて」

    「まあ、大変ね。お大事に」

    「ねぇ。私、何でダンス部に入ったんだろう」

    「マイの得意なダンスは違うもんね」

    「そうよ。小さい頃から習い事としてダンススタジオに通い、いろんなダンスを覚えたわ。
    ステップを覚え、バク宙なんかのアクロバットもやった。特に、ヘッドスピン(頭を軸にしてクルクル回転する技)やチェアー(両手と頭で体を支える基礎的な技)、ラビットをよく練習したわ。いわゆるストリート系のダンス。ひとくちにダンスといっても、動き方や目的もまるで違うわ」

    「そうだよね。部活のダンスは、テーマに沿った芸術性や表現力を求められる。自由度の高いダンスだもの」

    「ダンスの違いはわかってるわ。私の好きなブレイキンとはちょっと路線が違う。個性のぶつかるバトルだから」

    「ところで、マイは、まだダンススタジオに通ってるの?」

    「うん、もちろん。私にとっては、そこが主戦場よ」

    「マイはどうして部活にあまり出ないの?」

    「私は、ブレイキンを小さい頃から練習してきた。それだけをやりたいからよ」

    「部活には出た方がいいと思うよ。みんなで一つのダンスを仕上げると、部員同士の一体感が味わえて楽しいのに」

    仲間はそう話した。

    「それもわかるんだけどね」

    「部活のダンスには、みんなでダンスを合わせる楽しさと、互いのダンスを見て学ぶ刺激があるわよ」

    「私も、ダンススタジオに行かない日は来ようと思うんだけどさ。なかなかね」

    我ながら歯切れの悪い答えだ。

    「気が向いたら、いつでもここに来て踊りなよ。マイも部員なんだし」

    「うん。ありがとう。そろそろ、ダンススタジオに行く時間だから」

    「そう。じゃあ、また」

    「じゃあね」

    私は体育館を出て、ダンススタジオを目指した。
    その日は雨だった。傘を差して歩いた。

    耳にワイヤレスイヤホンをはめ、携帯で音楽を再生した。
    耳に心地よい音楽が溢れ出す。軽快な音に頭を揺らし、歩き慣れた道を歩いた。

    いつも目にするダンススタジオの看板が雨に煙っていた。

    「この看板を目にすると、ホッとするのよね」

    傘を閉じ、階段を上った。
    二階のダンススタジオに入った。

    入り口で下足を脱ぎ、傘立てに傘を差す。
    カードをかざして中に入る。
    いつも使う更衣室には入らず、そのままで部屋の中に入る。

    練習前にもかかわらず、すでにストレッチをする子や、鏡を見ながらステップを練習している年下の子らがちらほらいた。

    「マイさん、こんにちは」

    知り合いの子が挨拶する。

    「こんにちは」

    「ケガしたんでしょ? だいじょうぶ?」

    「だいじょうぶよ。すぐに練習に復帰できるわ。どう? 練習は」

    「まだ、慣れなくて。このステップ、どこかおかしくないですか」

    「私に見せてよ」

    話しかけた子のステップを見て、おかしなところを指摘する。

    「わかりました。リズムの取り方、こうですね」

    「そうよ。合ってきたわ。その調子」

    私は目を細めた。

    しばらくすると、何人かの生徒が部屋に集まり出し、同じようにストレッチを始めた。

    やがて、練習時間となり、インストラクターが現れた。
    紙を見ながら、インストラクターは点呼した。
    生徒は一人ひとり名前を呼ばれ、返事をした。

    「では、レッスンを始めますよ」

    女のインストラクターは鏡の方を向き、ストレッチをやり始めた。

    「はい、まっすぐ立って、右の足を踏み出して。そうそう、しっかり腰を落とす」

    インストラクターの指示に従い、生徒らは同じ動きをする。

    「元に戻って、次は反対」

    「左右で十回やったら、それを三セットやる」

    太もものストレッチのあと、肩甲骨と股関節のそれを数回行った。
    まじめにやる子もいれば、ちょっとサボりながらやる子もいた。隣同士で喋る子もいて、その子たちはインストラクターに注意された。

    ストレッチが終わると、首や腰や胸のアイソレーション──体の部位をバラバラに動かす動作──をやり、そのあと、筋トレを行った。

    スケートでケガをした私は、壁にもたれて見学した。
    踊りたい。でも、踊れない。
    ここに通って長くたつが、数週間踊れなくなるのは初めてだ。

    人のダンスを見て、その子はあれができてる、あの子はまだまだね、と思うだけである。無言で生徒のダンスを見守った。

    「私が大人になり、インストラクターの仕事を選べば、こんな風に教える立場になるのね」

    大人への憧れを抱き、その反面、すぐに大人になりたくなかった。
    短い未成年の間をもっと満喫したかった。

    やがて、音楽がかかり、生徒らは振付のダンスを踊り始めた。
    頭をふり、下半身を動かさず、その場で音楽に合わせてリズムをとった。

    その日は最後まで見学し、出席のチェックをもらって帰宅した。
     
    咲良はエプロン姿で手にミトンをはめ、テーブルに置かれた鍋敷きの上に鍋を移した。

    「今夜、お父さんは飲んで帰るらしいわ。三人で食べましょう」

    「今夜はなに鍋だろう」

    英徳は体を前傾させた。
    母がフタをとる。
    できたての鍋の湯気が立ち上る。

    「おお。キムチの鍋だぜ。いただきまーす」

    英徳はさっそく菜箸で鍋の具材をよそった。

    「豚肉以外に、野菜もあるのよ。きのこや豆腐も食べてね」

    英徳のお椀を見て、咲良は念を押した。

    「わかってるよ」

    赤いスープは食欲をそそる。
    真ん中の緑色のネギが彩りを添えている。

    「私の食べる肉も残しなさいよね」

    私は、隣に座る弟を牽制した。

    「何だと? 女のくせに」

    「二人とも、食べてる間くらい、ケンカはよしなさい」

    咲良がたしなめる。
    その隙に、菜箸で奥の肉をかっさらった。

    みんなが楽しく食べていると、咲良の携帯の着信音が鳴った。

    「はい。ああ、お父さん」

    父からの電話だ。

    「はい、はい。わかりました。帰りに気をつけてね」

    「どうしたの?」

    私は訊ねた。

    「お父さん飲んでて、もうすぐ帰って来るって」

    咲良は面倒くさそうに言った。どこか、嫌がる表情だった。
    中年の夫が酔って帰宅するのが、嫌なのかもしれない。

    「さてと。おなかいっぱいになったわ。ごちそうさま」

    お茶を飲み、二階へ上がった。
    春に行われるクールヒーローのライブを、ホームページで検索した。

    「あった、あった。おや?」

    いつも出る画面の目立つところに、注意喚起が出ている。

    【ライブの開催にあたり、チケットの転売行為が予想されます。クールヒーローファンクラブ会員の皆さまにおかれましては、今回のライブから、原則として、登録アカウントの本人氏名と住所に書かれた一名分のチケット予約のみの取り扱いとさせていただきます。 クールヒーローチケット事務局】

    「えー。弱った。任せろだの、チケット三枚とれるだの、言いたい放題だったけどさ。これって、なに?」

    私は画面を睨んだ。

    「自分のチケットはとれるけど、夏菜絵のチケット、とれないじゃん。あの子、ファンクラブに入ってないし。ワシ、どうしたらいいのだ」

    しばらく、ない知恵を絞った。

    「そうだ」

    名案が浮かんだ。

    「ええやんフレンズのチケットを拾ったんだっけ。あれをクールヒーローのライブチケットと交換できないかな」

    ペラペラに薄いカバンから、札入れを出した。
    あった。
    初詣の日に風に乗り、私のデニムに貼りついたヤツだ。
    これはたしかに、一月二十二日のええやんフレンズのライブチケット一枚だ。
    鼻息も荒く、私は交換サイトで募集をかけた。

    【大至急! 当方、ええやんフレンズの一月分チケットを一枚、持ってます。クールヒーローの四月分ライブチケットと交換できる方、よろしくお願いします】

    「さて、魚はかかるかな」

    手をこすり、しばらくはクールヒーローの新曲情報を見たり、メンバーのプロフィールを確認したりした。それはそれで有意義だった。

    一時間たち、交換サイトの掲示板を見た。何人も情報を閲覧し、書き込みもあった。

    「おお。来てる、来てる。どれ、どれ」

    【ええやんフレンズのチケット、取れませんでした。ええやんの大ファンです。妹がクールヒーローのファンクラブに入っていて、そちらのチケットは取れそうです。ライブ本番まで日にちが少なく焦ってます。ぜひ、交換を願います】

    「なるほど。この子に決めた」

    私は、その子の書き込みに対し、コメントの返信欄にラインのIDを記した。必ずクールヒーローのチケット一枚を郵送してくれるのを条件に、交換に応じた。

    「よし。これで、夏菜絵とライブに行ける。席は離れてしまうけど、終わったら合流して、感想を言い合おう。とにかく、やったね」

    うれしいので、夏菜絵にラインで連絡を入れた。

    【カナエ。クールヒーローのチケット、とれるよ。楽しみだね】

    【ありがとう。代金はいくら?】

    【チケットのお金? いらないよ】

    【ええ? ホント?】

    【うん。事情があって。その代わり、グッズを買いなよ】

    【そう。分かった】

    【今、何してる?】

    【いまクールヒーローの曲、聴いてるよ。いい曲があるね】

    【それはよかった。当日の席はバラバラになるの。終わったら、ロビーあたりで合流しよ】

    【うん。そうする】

    少し間が空き、またメッセージが来た。

    【当日に着る服とか、おかしくないか、ライブに行く前に私の家で見てくれる?】

    【いいよ】

    ラインのやり取りはそれで終わった。
    私はひとまずホッとした。
    ホッとしたら、トイレに行きたくなり、階下へ行った。
    トイレに入ろうとした、まさにそのときだった。物音と声が玄関でした。

    「おーい、帰ったぞ。トイレ、使わしてくれ」

    「えー、やだなぁ。もう」

    「すまないね、マイ。お父さんは我慢してきたんだ」

    呂律ろれつの怪しい父は、いやらしそうにヘラヘラ笑い、靴を脱ぎ散らかしてトイレに入った。

    父が出た。
    入れ替わりに中へ入る。アルコールとタバコの臭いと加齢臭が混ざり、吐きたくなるような、淀んだ空気が個室に充満していた。
    鼻をつまみ、用を足した。

    その晩、好きな音楽を聴いて気分を変えた。クールヒーローの写真を印刷したクリアファイルを枕の下に挟み、いい夢を期待した。

    夢の半分は、よくわからない世界の冒険だった。冒険から家に戻ってテレビをつけると、画面の中でクールヒーローが歌っていた。

    「何だ。夢でも、現実とさして変わらないじゃん」

    少し失望して目が覚めた。
    よだれを拭い、眠い目を手でこする。
    大きな欠伸をして、一階に降りた。

    今日は何の日だっけ?
    顔を洗い、鏡の向こうに問いかける。向こうの自分も半分寝ぼけて首を傾げている。

    「そうだ。実力テストの日だった」

    私は思い出した。
    思い出せてよかった。
    いつもの私なら、学校で友だちから指摘され、赤恥を書くのが関の山だから。
    テストは苦手だ。そもそも、進学する気はない自分にテストをして、どうだというのか。留学する人は、免除してほしかった。

    「筆記用具はいるな。あ、消しゴム、ちびてたっけ」

    部屋に戻りたい気持ちを抑え、朝食を食べた。
    今日の占いを見て、そこそこ悪くないのを確認し、二階へ戻った。

    パジャマを脱ぎ、制服に着替えた。
    カバンのペンケースを開け、シャーペンとちびた消しゴムに、新品の消しゴムを追加した。

    学校までの距離は短い。
    自転車に乗ると冷たい風に晒さらされ、足が冷えた。

    「さあ、今日は頑張らなくちゃね」

    夏菜絵が黒板を背にし、立ったまま参考書をめくっている。

    「頭いい人は、違うね。私なんて、いつも平常心よ。わかる問題に取り組むだけ」

    「マイはそれでいい。私は、河合塾の模試が来月にある。校内のテストも大事だけど、全国模試で偏差値を確かめないと」

    「すっごいね。カナエ、志望校はなに判定?」

    「いまはB判定くらいかな。国立大のA判定を狙ってる」

    「二人とも、先生、来たわよ」

    前に座る子が、こちらに知らせてくれる。
    私にとっては、静かな苦痛の時間が始まった。
    緊張はしないけれど、難しい問題に取り組むのは苦行であった。

    三十分もすると、テストに飽きた。
    たくさんの空欄を、適当な数字や答えで埋めて行く。

    一生懸命考え、正解を書く人はえらい。尊敬する。
    同じ学び舎で勉強しても、卒業して銀空高校に帰るときには、そんな人と私は、天と地ほどの身分差ができていることだろう。

    その日のテストが終わった。

    学校を出た。
    マクドナルドまで、自転車を押して歩いた。

    「マイ、どうだった?」

    「え? テストはいつもの調子よ。わかるところは少なかった。あとは適当よ」

    「そっか。私は難しかった。模試の前に総復習しなきゃ」

    「カナエは、将来、何になるの?」

    「私はね。会社員。東京のビジネスに携わって、この国の経済に貢献するの」

    「すっごいね。頑張ってね。私はその恩恵に預かる側だわ」

    「マイにカナエ。俺の将来も聞いてくれ」

    「シュンは、私と同じく成績の低いグループだけど、進学じゃないでしょ?」

    「俺、どっかに就職する。体力を活かして、頑張れる職業を探す」

    「資格も取るの?」

    「職場で必要ならね」

    「車の免許はいるでしょ?」

    私は人さし指を立てる。

    「もちろん、とるよ。それはどの職業でもいるって、父ちゃんが言うから」

       @

    「あああ。進学しない俺たちは、退屈な毎日が続くぜ。な、マイ」

    俊が私の方を見る。
    冬の陽射しは弱い。弱い光がガラス窓を照らしていた。

    テスト三昧のあとで、マックに来ていた。
    俊と一緒に座り、二階から冬の光景を眺めていた。
    鉛色をした雲がたれ込め、冷たい空気が北風に乗って町を徘徊はいかいしている。寒さに震える人を見て、そんな風に感じた。

    私たちは、学校と反対側にある、駅前のマックによく入り浸る。
    そこで雑談する日もあれば、宿題をやる日もあった。
    今日も、いつものようにダベっていた。

    「そうだよね、シュン。私、アメリカへ行こうと思うんだ」

    「へぇ、アメリカか。ダンスの勉強?」

    「もちろん、そうよ。留学ってわけ」

    「いいなぁ。アメリカで生活するのか」

    「ダンスの本場はアメリカ。アメリカでダンス漬けの日々よ。きっとね」

    「やるじゃん。大物ダンサーへの道を歩むのかよ」

    「まあね。やれることは全部やるわ。ダンスは好きよ。好きなことなら、究めてみせなきゃ。人生の勝負よ」

    「マイならできるよ。ダンス、上手いし。俺、応援する」

    「ありがとう。少し前に、オリンピックってあったじゃん?」

    「ああ、あったな。マイのダンスもそれだろ?」

    「そう。ブレイキン。恰好よくない?」

    「だよな。めっちゃ、イカしてる。体が動いて、躍動感があるよ」

    「いつか、私もオリンピックに出るよ。出られなくとも、ブレイキンの世界大会で優勝する。てっぺんをとる」

    「そうだよ。威勢がいいぜ。夢はでかいほどいい。ん?」

    俊の携帯に着信があった。

    「サトシだ。サトシがこっちに向かってるってさ」

    「サトシ? えー、照れるな」

    私はもじもじした。

    「しかし、あれだな。みんなが同じ場所で過ごせるのも、あと一年。長いようで短いぞ」

    「そうだよ。今のうちに、いい思い出づくりをしとかなきゃ」

    「もう作ったさ。去年の十一月、修学旅行で」

    「シュンのグループは、何してたの?」

    そこから修学旅行の話で盛り上がり、時が過ぎるのも忘れた。
    話の途中で、智が合流した。
    智はポテトを食べてコーラを飲み、相槌を打った。

    「そうか。俺の高校はその一週間前に伊勢へ行ったよ」

    「サトシも伊勢なのか」

    「ああ。『海ほおずき』でてこね寿司を作った」

    「やっぱ、一緒じゃん。高校が近いと、行く場所もかぶるんだな」

    俊は笑った。

    「シーカヤックもした」

    智がカヤックを漕ぐしぐさをする。

    「それは『志摩自然学校』だろ? ウチのメインは、伊勢神宮と鳥羽水族館と志摩スペイン村。それに、『伊勢忍者キングダム』。オプションでグループにわかれ、魚釣り、海女、干物、てこね寿司を選ぶ」

    「ほとんどウチの高校と一緒だ」

    智は目を丸くした。

    「伊勢に行って、伊勢エビを食えなかったのが、残念と言えば残念だ」

    「高いのよ。私たちの予算で食べられるわけ、ないじゃん」

    私は笑った。

    「それもそうだな。でも、刺身はうまかったな。赤福餅もうまかった」

    「それは定番のお土産だもん。私も買ったよ。近所におすそわけして、家族で食べた」

    数か月前の修学旅行では、布団にくるまっていろいろ話した。
    家での生活や、学校の仲間の悪口も含まれた。限られた仲間で情報を共有するのは楽しいもんだ。
    寝ながら喋るのが面白かった。それだけで、非日常の世界が出現する。
    先生が見回りに来た。
    消灯を確認し、出て行った。
    アイドルの話に口角泡を飛ばし、夏菜絵はやたらと私の腰をもんだ。

    帰宅しても、体を動かせない。やむなく、携帯のダンス動画をチェックする。上手なダンサーの踊りや構成を参考にし、おおいに勉強になった。いいダンスは何度も巻き戻して再生し、飽きなかった。

    先日、家族に撮ってもらった自分のダンス動画を再生してみた。
    ステップはいいものの、ダンスにもうひとつキレがない。
    このときは、体調もあまりよくなく、緊張していた。体調面に不安が残り、メンタルにも影響を及ぼした。
    音楽のリズムにちゃんと乗れていなかった。

    そんな風に、今となっては冷静に分析できる。
    同日にステージに立った仲間の優のダンスを見た。上手だった。
    その日、牛野優は、コンテストの三位に食い込んだ。
    年の違う大勢のダンサーを押しのけての三位入賞は、大きな価値がある。立派だと思った。

    私だって、小学生の頃、優勝や準優勝をとったことはある。
    年をとるにつれ、ブレイキンにこだわり、それに青春を賭けるダンサーの数は絞られた。今では、少数精鋭のエリートたちがしのぎを削っている。

    次のコンテストは負けられない。その決意で年を越したのに、もう腰を痛めてしまった。

    「そうだ。今週か来週、ダンス仲間のユウやオサムのところへ行こう。行って、私のダンス動画を見てもらおう」

    いいアイデアが生まれ、私は素直にうれしくなった。

    携帯にたくさん保存してあるダンス動画の整理に時間を取られた。
    古い動画は、そのときベストなダンスでも、今となっては、そのレベルで満足できない。だから、消す。
    最近の動画で、これはいいと思うものを二、三本厳選した。

    「ヘッドスピンのコンビネーションはユウの得意パターンね。彼女と同じじゃ、面白くない。その代わり、私にはウインドミルがあるわ」

    ウインドミルとは、背中を床につけて回る技である。空中で回す足を風車の羽根に見立てている。

    「オサム。オサムは、どんなダンスをするんだっけ。一部しか知らないのよね」

    動画サイトで検索をかけ、光井修のダンス動画を見た。
    コンテストの動画しかなく、早送りして彼の場面をようやく探し当てた。

    「ふむふむ。さすがはオサムね。チェアーで静止してからの自在な動き。滑らかで見事。十代の男子ではトップクラスだわ」

    修のダンスは誰が見ても出色だった。
    修と優は、私とときどき話をする仲である。
    二人とも他市に住んでいる。
    コンテストの常連であり、都内で開かれる大会でもよく一緒に出場した。
    三人とも十代であり、音楽や映画の趣味がよく合った。

    あらためて同じ年代のダンスを見ると、上位に行く人には迫力がある。
    豊富な技をいくつも繰り出すわけでなく、どの技を見せ場に使うか、前後の組み合わせも含めて練られている。
    その分、きれいに決まる。技の一つひとつが基本に忠実なのは言うまでもない。
    見せ場をしっかりと作り、もちろん大技はきちんと見せる。
    その間のステップやチェアーもスムーズにつなげ、違和感がない。
    ダンスを見る者を飽きさせない工夫を凝らしている。

    「近いうちに、ユウやオサムのスタジオへ出かけようっと。いい助言がもらえれば、参考にして取り入れたいわ」

    人のダンス動画を見ているうちに、腹が鳴った。
    ちょうど、いい匂いが一階から二階に流れてきた。

    「何もしなくても、ご飯を食べたくなるわ」

    その台詞に呼応するように、咲良が声をかけた。

    「晩ご飯よ」

    「はーい」

    勢いよく自室のドアを開け、迷いなく台所へ向かった。
     
    台所のドアを開けた。
    咲良ひとりが立っている。

    「あれ? ヒデノリは?」

    「おかしいわね。まだ、部屋にいるんじゃないの?」

    「ヒデノリ。ご飯よ」

    しーんとしていた。
    静寂は答えを示さない。無反応はよけいな想像を伴うものだ。

    「いいよ。ほっときなよ。ご飯が冷めちゃう」

    私は手を洗い、イスに腰かけた。今夜ありつけるのはおでんである。

    「熱々の大根から行こうかな。それとも、厚揚げか、はんぺんか」

    「玉子もあるのよ。底に沈んでるけど」

    「いただきます」

    私は元気よく言った。
    玉杓子たまじゃくしで玉子と大根をすくいとった。

    「ふぅー。熱そう。体が温もる」

    食べ始めて十分たった。台所のドアを勢いよく開けたのは、英徳だった。

    「さてと。俺も少しだけ食うぞ」

    「あら。少しだなんて、いっぱい食べなさい」

    咲良は気遣って、そう言った。

    「いや、夕方、友だちとマックに行った。ちょっと食べたから、腹はあまり空いてない」

    「中二のくせに、ふてぶてしいヤツ。外で食べてきたなんて、まったく、お父さんとそっくりの言い草ね」

    私は苦言を呈した。

    「父ちゃんは飲むだろ。一緒にしないでくれ」

    英徳は口をすぼめた。

    「マイ。腰の具合はどう?」

    母が訊ねる。

    「ずっと安静にしてるよ。なんの問題もない。痛みもひいた」

    「隠れて踊っちゃダメよ」

    「わかってます。今は、ベッドで動画を見るだけだから」

    私の説明にウソ偽りはない。

    「ところで、今年でマイは高三よね。将来、どうするか、決めたの?」

    咲良にとって、ほんとうに訊きたい質問が出た。

    「もちろん。私、アメリカでダンスするの」

    「アメリカ」

    母は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。母の頭にその四文字はなかったみたいだ。

    「姉貴がアメリカか。信じられねぇ」

    「簡単に言うと、ダンス留学ってヤツよ」

    「ダンス留学はいいけど、ちゃんと調べた? 費用とか場所とか」

    「うん。インストラクターに訊いたわ。ニューヨークに半年間、行ってくる。有名なダンスのスタジオがいくつもあってさ。世界各国から、ダンサーが学びに来るんだって」

    「いいな、姉貴は。本場のハンバーガー、食えて」

    英徳はたいしたことを言えない。まだまだ子どもだ。

    「そう。よく、調べたね」

    母は言った。

    「うん。本場でダンスの腕を磨く」

    「ビザとか、どうなってるのよ。お母さん、詳しくないわよ」

    「ダンスと英語で留学するなら、長期に滞在できるビザが下りるわ。午前は英語を勉強して、午後からスタジオでレッスンを受ける。学生ビザになるらしいの」

    「泊まるところは?」

    「学生寮にする」

    「それでいいのね?」

    「それがいちばん安くつく方法よ」

    「とにかく、お金はこちらでなんとかするわ」

    「そう言ってくれると、私もありがたいよ」

    「ダンスで一流になりたいなら、最後まであきらめない。いいわね?」

    咲良は語尾に力を込めた。元日にも同じことを言っていた。

    「うん。わかってるって」

    はんぺんを箸で突き刺し、唇で挟んだ。熱くて思わず、ハフハフする。
    冷めたお茶を啜った。
    白いすり身は口の中で踊り、お茶に熱を奪われた。
    だしを吸ったはんぺんは絶妙にうまかった。

    食後にテレビを見て、入浴した。
    入浴して洗った髪を乾かすと、明日のことに思いを馳せた。
    雨でも降って、中止になってほしい。
    今から憂鬱だった。

    「ちゃんと、二周、走るんだぞ」

    先生がメガホンで決まりを叫ぶ。それはわかってる。ズルする人への予防のためか。

    土を蹴って、決められたコースを走る。
    前を行く人の蹴った土で舞い上がった土埃つちぼこりが、私の吐く白い息と混じる。
    校庭を周回すると、校門から外へ出た。
    吸う息は町の空気に変わった。

    学校にいる限り、永遠に課せられる運動。
    「時間を測り、それをデータに落とし込み、役所に出すのよ」夏菜絵はそう言った。
    全国からデータを集め、その年の男女の平均時間を数字で並べ、見比べる。県別とか、過去の測定結果とかを突き合わせ、優劣を決めるらしい。

    そんなことして、何が楽しいのか。
    私はデータのために生きているわけではない。
    それが大事なときも多いのは承知しているが。

    「マイ、置いてくぞ」

    俊の声がし、あっという間に追い抜かれた。
    男子は、女子よりも外を多く走る。
    何周目かで、速い男子は女子をどんどん追い抜いて行く。

    「ちょっと、待ちなよ」

    私の声を無視し、俊の背中は小さくなった。

    私は腰を痛めていたが、痛みも和らいだので参加した。
    三学期になり、最初の二週間は体育を休んだ。その頃は、まだコルセットを腰に巻いていた。
    医者の意見を聞き、学校の先生とも話し合った。「出られるなら出てもいいぞ」と体育の先生は言った。

    なまった体を動かそうと、今走ってる。
    正直、腰への負担は少ない。
    寒い中で、全員がゴールするまで待つ方が嫌だった。

    「マイ。私と走ろう」

    クラスで席の近い子が息を弾ませ、並走してくれる。

    「ありがと。何だか体が熱くなってきた」

    そのとき風が吹きつけた。

    「うー、寒い。火照った体を冷やす風。無情だ」

    「私、マイの後ろを走るよ」

    「えー。それって、私を風よけに?」

    「へへへ」

    その子はこずるそうに笑った。
    ほんとうは、私だって彼女をたてにして、冷たい風をよけたかった。
    でも、北風に負けてしまうなんて、腹が立つ。負けん気だけで、たてであり続けた。

    みんなと一緒に走るのは、なんだか安心感があった。
    運動神経のいい夏菜絵は一足先を行き、背中も見えない。
    体力はある方だが、同じ動きをずっと続けるのが苦痛だ。
    今日は、高二のマラソン大会。
    男女で距離は異なるが、すべてのクラスが同時にスタートし、走る時間を測定する。

    最後の方で、夏菜絵に追い抜かれた。

    「カナエ、速いね」

    「設定タイム以内に走りたいの」

    友だちは振り返って、そう言った。
    ツインテールにしたお団子の髪が、少しずつ遠ざかって行く。
    私のお団子の髪と同じだ。仲良しだから着替える前に揃えた。

    冬でもこれだけ長い時間走ると、体に熱がこもる。
    もう少しの辛抱だ。
    あそこの交差点を曲がり、大きな通りに出て角のコンビニを左折する。すると、銀空高校に着く。戻ったらトラックを回り、ゴール。

    ダンスなら、音楽に合わせて自然と体が動く。
    今は車と鳥の鳴き声と風の音しか聞こえない。
    呼吸の作り出す音が内なるリズムとなって、地面を蹴る音と一体になる。
    単調だ。
    走るとは、じつに古典的な所作だと思った。

    角を曲がり、学校の塀沿いに走る。
    あともうちょっとで、退屈な運動から解放される。
    前方には、すでに校門に吸い込まれて行く走者がたくさんいる。

    「はい。あと少しだ。最後まで頑張る」

    校門に立つ先生は、仁王立ちで発破をかけた。
    校門の中に入った。
    運動場のトラックを回り、ゴールする。

    見学の生徒が、交代でゴールする走者に時間を告げ、各自が覚えて先生に申告する。
    私の場合、一秒の時間内にたくさんの走者がゴールインした。着順がたしょう狂っても、タイムが一緒だねと笑い合った。

    その日は疲れてマックでぐったりした。

    「どうだった? カナエ」

    「マラソンでしょ? 去年の記録を上回ったわ」

    「カナエはえらいよ。自分のゴールタイムを設定して、どれだけのペースで走ればいいか、逆算できるもん」

    「そうね。その点、マイは行き当たりばったり?」

    「ひどい言い方。私は体を動かせなかった時期もあるし、もともと長距離は得意じゃないもんね」

    「私は持久力を上げたかったけど、ちょっとね」

    「なんだよ、カナエ。はっきり言えって」

    俊が夏菜絵の顔につまんだポテトを向ける。

    「バーカ。この鈍いヤツ」

    私は俊を罵った。
    同性だから、すぐピンと来る。
    男だって、女の変化を見抜くべきだ。生理ではない。体の変化。思春期の成長というヤツである。

    夏菜絵は恥ずかしそうに下を向いた。
    彼女の女性的な部分は、ここ数か月でいっそう磨きがかかった。きれいな曲線でかたどられ、さらなる成長を遂げた。
    走る動作を妨げるのは、容易に想像がつく。

    帰りに俊と別れ、夏菜絵と二人並んで自転車を押して歩いた。

    「さっきはありがとう。マイ」

    「持久力を上げたいけど、できない話?」

    「そう。だんだんふくらみが大きくなって」

    「羨ましいよ。私は成長が止まってる」

    「ときどきこすれて痛いんだよね」

    「それ、合ってないんじゃん? ちゃんとサイズを測り直し、正しいものをつけるべきよ」

    「そう思う?」

    「うん。靴だって、サイズが合わないと靴ズレするでしょ?」

    「なるほど。そうね。動くところは、特にそうかも」

    「運動で揺れるって、女子のあるあるだよね」

    「マイは、ダンスのとき、どうしてるの?」

    「私? 私はスポーツ用の下着で間に合ってるよ。倒立したり、回転したりするから、ちゃんとしたブラじゃないと、気になるわ」

    「久しく彼氏もいないし、好きな相手もいないのに、どうして大きくなるんだろ?」

    そのひと言は、ある意味で、妬みを買いそうな発言だった。

    「それは……。神様がカナエを魅力的にしたいからかも」

    「魅力的になって、その先は?」

    「いい男と出会って、その人とできた子どもを健やかに育てる。そのための長い下準備」

    「そうなのか。女の体って、不思議だわ」

    夏菜絵の言葉にコクリと頷いた。
    一月の夕闇が道路に影を落とし、それは道に長く伸びていた。

    「ねぇ。家に帰ったら、ラインのビデオ通話しない? 使ったことないから、使ってみたいの」

    私はニヤリと笑った。

    「え。まぁ、いいけど」

    「カナエの部屋、見てみたい」

    「何それ? 家に来りゃ、いいじゃん」

    「そうだけど、ちょっとスリル、あるよ」

    「たとえマイでも、見せられない部分は映さないからね」

    「うん。いいよ」

    「マイ、子どもの頃、けっこう部屋、散らかってなかった?」

    「そうだね。少しはましになったよ」

    私は笑った。

    「カナエは几帳面だよね」

    「そうね。綺麗な部屋は気持ちも整うわ」

    彼女は明るい笑い声を出した。

    四つ角に来た。

    「じゃあ、私はこっちだから」

    「うん。バイバイ。今夜、楽しみにしてるよ。じゃあね、カナエ」

    暗闇の迫る中、私は手を振って自転車のサドルにまたがった。

    帰宅して夜を迎えた。
    携帯を見ながら、ベッドに寝転んだ。

    「もう十時だし、カナエにライン、しようっと」

    ラインを立ち上げ、メッセージを送った。【準備、いいよ】と返事が来た。ちょっと、ドキドキした。

    【ビデオ通話に切り替えて】

    【わかった】

    文字のやり取りから、すぐにビデオ通話の状態になった。相手の姿が小さな画面に映し出される。彼女は水玉のパジャマを羽織っていた。

    私は指示を出した。

    「ベッドを映してみて」

    「うーん。ダメ。やっぱ嫌だ。やめようよ」

    「そう。残念ね。ま、嫌なのなら、むり強いはよくないか」

    「ごめんね」

    「いいのよ。別に」

    「代わりと言っちゃなんだけどさ。マイの子どもの頃の写真、見たいな」

    「いいよ。ちょっと待って」

    私は夏菜絵のリクエストに応じた。
    押し入れからアルバムを出し、適当にベッドの上に写真を並べた。
    画面をビデオにしたまま、写真をカメラのフレーム内に収めた。

    「その写真、見たことあるわよ」

    「そうだよ。小さい頃、カナエが遊びに来てさ。アルバム出して、見たんだよ」

    二人とも、当時のことを覚えていた。

    「マイの赤ん坊の写真、見たいわ」

    「いいよ。どうして?」

    「あのねぇ。たしか、マイの赤ちゃんの頃、とってもかわいかったはず。覚えてるの」

    「そ、そうかも。そういや、ときどき言われた。赤ちゃんの笑顔がとってもいいって」

    私は赤ん坊の写真をアルバムから抜き取った。それを小学生時分の写真の隣に並べた。

    「その赤ちゃんが、数年後に隣の小学生に成長するのね」

    「そうだよ。私も見ていい? カナエの中学生の写真、見せてよ。それは見てないと思うから」

    「いいよ。ちょっと待ってね」

    夏菜絵は携帯をベッドに伏せ、ごそごそした。
    彼女は、中学の入学式の写真と、遊園地へ行った写真を見せてくれた。

    「やっぱ、見たことないね」

    「そうだろうね」

    「その遊園地はどこの? コースターが後ろに写ってるけど」

    「これ? これは、東京ドームのヤツよ」

    「そうなのね。二枚目のは?」

    「こっちは、よみうりランドね」

    「へぇ。いろいろ行ったんだね」

    「うん。今も行くよ。私、遊園地巡りが趣味だから」

    「えー、そうだったっけ」

    「へへ。隠れた趣味よ。人には食べることが好きって言うの」

    「何の乗り物が好き? 遊園地で」

    「コースターと巨大スイング系ね」

    「ああ、あれか。前後に揺れるヤツね。あれは、いい。来る、来る、ってわかってても、フワッと落ちてさ。スリルがいい」

    「でしょ、でしょ?」

    夏菜絵は興奮気味だ。

    その後、電話に切り替えて話の続きを語り合った。深夜の日付をまたいで、二人は楽しく盛り上がった。
    時間がだいぶたち、電話を切ろうとした。

    「今夜はいいものを見られて、貴重な話も聞けて、とってもよかったよ」

    私は言った。

    「そうなのね。私も楽しかった」

    翌日、馴染みのダンススタジオの鏡の前にいた。
    ちゃんとティーシャツに着替え、鏡の前で体を動かした。
    もちろん、痛めた腰は使わない。そこはケアし、音楽に合わせて立ったままでステップを踏む。
    床に頭をつけて回ったり、倒立したりはしない。
    完全復活に向け、リズムを取るだけの軽い調整にとどめた。

    休憩時間に、インストラクターに話をきいてもらった。

    「ユリさん。この前、留学について教えてもらったけど、私、高校を出たら、アメリカへダンス留学します」

    「そうなのね。家族に話したの?」

    「ええ。ちゃんと話したよ」

    「家族の同意は得られた?」

    「うん。だいじょうぶだった」

    「アメリカね。決断したのか。それでいいのね?」

    インストラクターの大倉由理は念を押した。

    「はい。覚悟してる」

    「そう。私は、行けとも、行くなとも言わない。ダンスを志す若者は格段に増えたわ。マイのように、ダンスの本場へ行く人も多い」

    「ユリさん、アメリカへ行ったことは?」

    「もちろん、あるわよ。二度、渡米した。世界大会へ出場するために。短い間だったけれど、いろいろな国のダンサーと、ダンスを通じて仲良くなれた」

    「ユリさんは、私のダンス留学について、どう思います?」

    「チャンスがあれば、挑戦するのは素晴らしいわ。当たって砕けろ。ブレイキンだけじゃなく、多様なダンスや音楽にふれて、若いうちに感性を磨くのはいいことよ。
    大会に出て順位がどうこうというのは、二の次。頑張ってくればいいじゃん。どのくらい、行くの?」

    「半年です」

    「短い期間よね。心を空っぽにして、たくさん吸収してらっしゃい。台所の真新しいスポンジみたいに」

    「わかった。私、スポンジになる。スポンジみたいにたくさん吸収して、ダンスを鍛え直してくる」

    「ところで、腰の具合はどう? よくなった?」

    「少しよくなったよ。医者は、二月に入れば、動かしてもいいってさ」

    「むりしないでね。腰はいちばん体重や圧力がかかる部位だから」

    「ありがとうございます。早く治して、二月から、またこのダンススタジオで踊りたい。私にとって、ダンスは日常そのもの。息を吸うよりも自然で、空中の酸素よりもありふれている」

    「そうなの。それはいいことね」

    「私、ホントにダンスが大好き。ダンスを踊れば、昨日の憂さや嫌なことが今日は吹き飛ぶ。ウソじゃないわ」

    「マイの名前は裏切らないわよ。まさに、踊るため、舞うために生まれたのね」

    由理さんは私に微笑んだ。

    「そうみたい。とにかく、踊って、踊って、踊りまくる。それが私にとって、いちばんの楽しい時間だから」 

    「だれかが言ってたわ。『踊れば、この世はパラダイス』だって」

    由理さんは笑い、私の肩を軽くたたいた。

    休憩時間は終わり、由理さんは生徒の前で見本のダンスを披露した。
    鏡を前にして生徒たちはステップを踏み、同じ動きで元気にダンスを踊る。

    しばらくすると、数人がチェアーやヘッドスピンの練習をやり始めた。
    数年前の私と同じ姿である。当時、私も同じダンスをし、同じように練習を重ねてここまで生きてきた。

    ダンスが私を育て、ダンスのできる場所が私の居場所だった。
    人にダンスを見せるのがかけがえのない喜びであり、幸福だった。
    それは今でも変わってない。

    子どもの頃から、たくさんのダンス仲間を得た。
    ともに踊り、ともに遊んだ。
    とくに、優と修と親しくなり、顔を合わせれば、バトル形式でダンスを見せ合った。それが一種の挨拶代わりだった。

    ダンススタジオからの帰り道、自分のダンス動画を優や修に見せ、感想をもらう計画を立てた。
    同じ十代のダンサーで、二人とは親しい間柄である。
    日程の都合さえつければ、快く受け入れてもらえるに違いない。

    家に帰った。
    久しぶりに格闘ゲームをプレイしてから、何とはなしにやる気がうせた。
    ゴロンとベッドに横たわった。
    腰を下にしても、痛みや違和感は感じない。

    冷たい風ががらんどうの胸の中で吹き荒れる。
    ベッドに放られたカバンから携帯を取り出す。

    ひとたび画面に吸いつくと、指の先端は黒い画面から離れない。不安でしかたない。わずかばかりの情報をあてにする。情報世界という名の海原を旅する、魔法の絨毯じゅうたんにしがみつき、未知の冒険を試みるのに夢中になる。
    ダンスという武器を取り上げられた私は、携帯の世界に隷属するより他になかった。

    「そうなのよね。もうすぐ二月だというのに、何もしてない。ああ、ダメな私」

    しばらくは、行事だの、ニュースだの、音楽サイトだのを見ていた。
    やがて、ダンス動画に食いついた。

    「目標が定まったし、私はダンスで生きて行く」

    ブレイキンの動画を検索し、それらを集中的に見入った。

    「この人のダンスはとてもいい。参考になる。技の見せ方に工夫があるわ」

    しばらく、同じダンサーのダンスを見比べた。
    それに飽きると、今度はブレイキンの世界大会の動画を見た。

    「うーん。海外勢はすごい。やっぱ、優勝した人はダントツにうまいわ。感心しちゃう」

    二次元でしか見られず、音も小さい。
    でも、このダンサーは大会で最高のパフォーマンスを見せた。
    他者を寄せつけない貫禄があった。その人の熱気が画面越しに伝わってきた。

    「私の動画をアップロードしてないかしら」

    円道舞の名前で動画を検索し、いくつかを再生してみた。

    「ああ、この出だしから始まるのよね。うん、最初は悪くないじゃん」

    二人対二人のバトル形式で競う試合は、だれもがミスなく、いい調子でブレイキンを披露していた。
    その表情はいきいきしていた。

    「私のチームは相手にひけをとらないわ。それで、試合に勝てたポイントは何だろう。決めポーズの表情かな」

    その大会では、たしかに準優勝した。
    相手の実力もかなりのものだが、個別のダンスは遜色がないように映った。

    「ミスした方が負けなのはわかるけど、私の出た試合はどれもがかなりのハイレベル。きっと、まだ理解できてない部分で差があるんだわ」

    そんな風に思うのだった。
    それから数日間、毎晩遅くまでダンス動画をチェックし、研究した。
    ブレイキンに飽き足らず、他のジャンルのダンスもたくさん視聴した。

    その週末、優と同じ場所にいた。彼女の通うダンススタジオへ出かけた。
    優は熱心にブレイキンに取り組んでいた。

    「ユウ、遊びに来たよ」

    「マイ。マイじゃん。やっぱ来たんだ」

    「前に、ライン送ったよね? 私の動画を見てほしいって」

    「うん、知ってる。練習終わったら、見てあげるよ」

    かつて、ダンスのコンテストで争った好敵手は、今日もキレのいいダンスを踊っている。
    私はそれを羨望せんぼうの眼差しで眺めた。少しでもいいところを、スポンジになったつもりで吸収しようと目をこらした。

    自由練習の時間になった。
    大きい子が、小さい子の苦手なところを教えたり、手本を見せたりして面倒を見た。

    そんな中、牛野優は一人気を吐いていた。頭に帽子をかぶり、ヘッドスピンを何回もやってのけた。
    続けることを意識しているのか、納得のいくヘッドスピンをやりたいのか。彼女は他の技を織り交ぜながら、得意とするヘッドスピンにこだわった。

    ようやく、床に足をつけて立ち止まった。
    こちらを見るので、私は拍手した。

    「さすがはユウね。代名詞のヘッドスピンは健在。今日も絶好調じゃん」

    「ありがとう、マイ。私には、これっきゃないのよね」

    目深まぶかにかぶった帽子を直し、優ははにかんだ。
    彼女は床に尻をつけ、私の隣に座った。
    優は呼吸を整えながら、こう話した。

    「いつものヘッドスピンのコンビネーションも気に入ってる。気に入ってるけど、他のダンサーでもちょくちょく見かける。差別化を図るのもあって、私独自のステップやチェアーを完成させ、それを採り入れた新しい流れを練習したいのよね」

    「そうなんだ。えらいよ。いろいろ考えて」

    「そうかな。普通だよ。ダンスに変化と表現はつきもの。その連続よ」

    「ねぇ、ユウ。私、今日はユウに動画を見てもらいたくて」

    「ああ、そうだった。ごめんね」

    私は携帯画面に指をつけ、自分のダンス動画を再生した。

    「ふーん。これがマイのダンスね」

    友だちは私の携帯を熱心に覗き込んだ。
    二人で顔を寄せ合うようにして、一つの動画をなんべんも再生した。
    優の髪からいい香りがした。私と違うシャンプーだわと思った。

    「どう?」

    おそるおそる、優の横顔を見た。

    「ダンス自体は悪くない。でも、もっと躍動感があっていいと思う。ウインドミルのダイナミックさに対して、つなぎのステップの手がしゃきっと伸び切ってないとか、頭がぶれたり、傾きすぎたりしてるとかさ。私個人の感想だけど、基本ができてるだけに、そういう美しさの乱れが気になったわ」

    「なるほど。言うことが違う。やっぱ、友だちはありがたい。ここに来られてよかったよ。参考にするね」

    私は携帯を床に置き、優の肩に手を回した。優は立ち上がってスタジオの端に行き、自分の飲み物で喉を潤した。

    「ユウはそういうところ、ふだんから意識してるの?」

    「そりゃあ、そうよ。でも、技自体も気になるし、半々かな。大技がうまくいってると、別のことが気になる。別がだいじょうぶなら、技を気にかける。何事もバランスね」

    「今日はユウに会えてよかった」

    私はにっこり笑った。

    「収穫になったよ。ありがとう」

    優とハグし、ダンススタジオをあとにした。

       @

    その日、雨だった。私は傘を差し、歩いて学校に行った。

    学校帰りに、私は見てしまった。いけない目撃。遠くから、気づかれずに観察した。
    向こうは二人の世界に没入していた。
    公園にいたのは、夏菜絵と俊の二人だった。

    「え、どうしてシュンがいるのよ」

    二人は深刻そうな表情で話し、俊は俯いた。
    どことなく、気まずい感じだった。
    二人の男女は傘を差し、ベンチに座っていた。
    サーっと降りしきる雨音の中、二人の様子をそっとうかがう。
    会話は耳に届かない。
    傘をたたく音が周囲の音を消し、丸めた体の熱を奪う。

    しばらくして、夏菜絵が立ち上がり、振り向きもせずに去って行った。
    俊ひとりが取り残され、地面と向き合っていた。
    この状況は失恋だろうと思った。

    俊は私のことが好きなのだと思っていた。
    もしかして、二股をかけていたのか。
    私と俊と智の三角関係は、ここに来て、四角関係に発展した。だれもが片思いで両思いは成立しない。
    そんなの切ないじゃん。無情な恋愛構図だった。

    俊の無念な気持ちに思いを馳せつつ、公園からそっと離れた。

    遠回りして自宅に戻ろうと思い、駅の向こう側まで歩いた。
    雨は上がった。傘を畳んだ。

    向こう側の町内を一周し、また駅に戻った。
    駅前の本屋に入った。

    「おお、マイじゃん」

    智が呼びかけた。
    彼は、ペラペラの薄いカバンを床に置いていた。

    「あれ、サトシ。こんなところで何してんの?」

    白々しくとぼけた。
    さっき、俊の失恋場面を見たとは、口が裂けても言うつもりはない。
    自宅への道中で、本屋に立ち寄り、智とばったり出くわしたように見せかけた。
    さいわい、智は友だちの不幸について、まだ知らない様子だ。

    「俺は、読みたい雑誌があってさ。ここに来た」

    「雑誌って、それ?」

    「い、いや。これは違う」

    笑顔の水着美女の表紙を後ろに隠し、私の好きな人は首を左右に振った。

    「ま、何でもいいけどね。もうすぐバレンタインよ。もらえる相手はいるの?」

    「さぁな。クラスにはいないと思う。別に、何ももらえなくても、へっちゃらさ」

    「そうなんだ。強がり言っちゃって。でも、人がもらってるのを見ると、寂しくない?」

    「それはそうだが、お菓子や恋なんて、男の中ではごく一部に過ぎない。俺は、ほんとうにやりたいことに力を集中する」

    「アニメでいうところの〝全集中〟ね。たまには、本屋で女の子の肌を見るのもいいけど、頑張ってね」

    「うん。エール、ありがとう。ところで、マイは何の用?」

    「私? えーと、そうそう。推しのグッズを買いに来たの」

    「クールヒーローか」

    「そ。クールヒーローの缶バッジとフィギュアよ。それをほしいの」

    「本、ではないと」

    「そうよ。アイドルの本って、写真集でしょ。それは持ってる」

    「クールヒーロー、好きか」

    「もちろん。推し活するくらいだからね」

    「もしクールヒーローに会えたら、何がしたい?」

    「えー、そうね。一緒に写真に写りたい」

    「なるほどな。そうなるよう、神様に祈るよ」

    「サトシの推しは、だれ?」

    「特にいない」

    「なんだ。寂しいね」

    「そうかな」

    「そうだよ。だれか、かわいい子を見つけて、推しなよ。楽しいよ」

    「俺は、あんまりそういう趣味はない」

    「堅物だね」

    「よく言われるよ」

    「ま、ある意味、安心だけど」

    「なんだよ、それは」

    「ごめん、ごめん。こっちの話よ。じゃあね」

    本棚を左右に見て、奥にあるアイドルのコーナーへ進んだ。
    ここの本屋は駅前という立地もあり、延べ床面積が大きい。店内は広く、出入口も複数ある。
    最初から本屋に用事があって来ても、愛しい人とすれ違ったかもしれない。
    智と出会えた今日という日は、きっといい日に違いなかった。

    クールヒーローの写真を前に、財布の紐と顔の筋肉が緩んだ。
    缶バッジを三つ買おうとし、ついでにフィギュアと写真付きのうちわも買った。
    うちわに関しては、イチオシメンバーの分をすでに持っている。
    新たに買ったのは、夏菜絵用だ。四月に夏菜絵とライブに行く予定である。その前に、彼女にプレゼントするつもりで買い求めた。

    夏菜絵は大学入試に向けて受験勉強を始めた、と聞いた。
    二月には河合塾の高二模試があり、全国レベルでの自分の順位を把握したいらしい。

    「まじめな受験生も、たまには気分転換よね。クールヒーローの魅力がカナエの勉強パワーの源になればいいわ」

    夏菜絵のことばかり言える立場ではない。

    「そうよ。私だって、四月は大事な月。大きなダンスコンテストが開かれる。二月に入ったら、気合を入れてダンスの練習を再開しなきゃね」

    雨上がりの空の下、濡れた歩道を歩いた。
    駅から歩くこと十数分。
    庭を艶やかに彩る椿の花が目に飛び込んだ。冬場の自宅風景である。その隣に犬飼邸がある。

    駅前の本屋から自宅までやって来て、犬飼さんちで立ち止まった。
    奥さんの犬飼佳乃と出会った。
    犬飼邸の庭は外から丸見えだ。
    庭に見慣れない猫がいた。赤い首輪をつけている。白い猫。

    「ヨシノさん。この白猫は?」

    「ああ、マイちゃん。こんにちは」

    佳乃さんが声をかけた。

    「こんにちは」

    「その猫、最近、家で飼い始めたのよ」

    「そうですか。でも、どうやって手に入れたの?」

    「知り合いの方から譲られてね。犬飼家に来て、まだ五日目なのよ」

    「そうなんですか。かわいい猫」

    白猫はじつに愛くるしい。

    「名前、あててごらん」

    佳乃さんは笑いをこらえて言った。

    「えー、そうだな。雪のように白いから、ユキかシロ」

    「いい線、いってる。でも、どちらも外れよ」

    「じゃあ、白いものといえば、パンか豆腐。パンとかモメン?」

    「それも違うの」

    「うーん、わかんない。ライス?」

    「ライスでもない。残念」

    「わからない」

    私は白旗を揚げた。

    「降参?」

    「はい。教えてください」

    「旦那が名付けたの。牛乳のように白いから、ミルクよ」

    「ミルク!」

    私は猫の名を口にした。すると、ミャアオとミルクが鳴いた。

    「ミルクはオス? それともメス?」

    「オスの猫よ」

    「ミルク。おいで」

    私は膝を折り、白猫を手招きした。
    ミルクという名の猫は、警戒してこちらをじっと見ているだけだ。

    「ミルク、おいで」

    同じことを言おうとして、先に別の声がした。
    背中越しの男の声。英徳である。

    「あんた、ミルクを知ってるの?」

    その問いを無視し、弟はしゃがんで手を差し出す。
    ミルクは英徳の方へゆっくりと近づき、その手を舐めた。

    「まぁ。ミルクはヒデノリに慣れてるわ」

    「へへーん。俺は、一昨日から顔を合わせてるからな」

    「悔しいわ。弟に負けた」

    弟がミルクの背中を撫でる。
    猫は落ち着いて地面に尻尾をつけている。そして、じつに気持ちよさそうな顔を浮かべた。
    私は、今がチャンスとばかりに、白猫の背を撫でた。

    「ミルク。私はマイよ。マイの顔も覚えてね。ヒデノリの姉よ。マイよ」

    ミャア、とミルクはまた鳴いた。
    オス猫は、「わかったよ」とでも言いたかったのか。

    英徳は私を見た。

    「俺にもなつくし、シュンさんにもなつくよ」

    「え、シュンもミルクに?」

    「そうさ。そんな意外な顔、すんなよ。シュンさんと俺は、たまたま二日前に犬飼さんちでミルクを見かけたのさ。俺がミルクのご機嫌をとってたら、シュンさんも寄って来てさ。二人して、ミルクと遊んだってわけ」

    英徳は得意気に説明した。
    人としては憎たらしい弟も、猫をかわいがる姿に生き物を愛でる純粋さがあり、微笑ましかった。

    しばらく、私と弟と佳乃さんはミルクとじゃれた。
    のどかなひとときを過ごした。

    日暮れ前に、私と弟は自宅に戻った。
    升目ますめに整列した敷石を踏み、玄関のドアを開けた。

    ただいまの挨拶に、返事代わりの美味しそうな匂いが鼻から入る。
    思い出したように、腹が音を立てた。

    「ただいま。お腹、すいたよ」

    奥の方から、「お帰り」の声がした。
    台所を開けた。
    中華特有の甘辛さを含んだ空気が私を包んだ。

    「中華?」

    「ええ。そろそろ食べましょうか」

    母は微笑んだ。

    その晩、好物の麻婆豆腐に舌鼓を打ち、お腹がふくれた。
    とても楽しい夜を過ごせた。

    失恋した俊を慰めるという目的で、智が私を映画に誘ったのは、失恋現場を見た二日後のことだった。

    「サトシはえらいね。失恋した友だちを思って、映画に誘うなんてさ」

    私は彼をほめた。

    「そういうとこ、私は好きよ」

    さり気なく、自分のアピールも付け加えた。

    「まあね。仲間として、ほっとけないよ」

    私と智は、イオンモールの映画館の前にいた。
    そこで俊と合流した。

    三人で横並びに席を取り、アクション系の洋画を鑑賞した。カーチェイスあり。爆破あり。裏切りと友情、愛の告白あり。
    見ていて満足した。気分がスッキリする映画だった。

    「いやぁ、よかったぜ。あの映画」

    俊に少し元気が戻った。

    「シュンを連れて来て、正解だったな」

    「そうよ。ほんとうね。シュンの心も大きなスクリーンで洗われてさ」

    私は思いついたままの気持ちを表した。

    「洗われる? 俺の心は汚れていたのか」

    「へへへっ」

    私はおどけ、舌を出した。

    三人でイオンモールのマックに入った。
    映画や映画俳優の話に花が咲き、コーラやポテトはすぐになくなった。

    「俺、そろそろ帰るわ」

    「そうだな。寒くならないうちに帰るか」

    みんなは腰を上げ、店を出た。
    暗くなる夜空を見ながら、イオンモールを後にし、家路についた。

    俊は先に角を曲がった。
    彼のことだ。気を回したとか、深い意味もないのだろう。
    お陰で、私と智は二人きりになれた。

    「やったね」

    「え? どういう意味?」

    「何でもない。こっちのことよ」

    二人は歩いて公園に行った。
    冬の夜の公園にはだれもいない。
    それが好都合だった。
    しんしんとふけてゆく夜の暗さ。じわじわと肌を冷やす寒さ。
    そんな中、私の心は常夏だった。

    智を誘ってブランコに乗った。
    二つのブランコは振り子の原理で体を揺らし、気分まで揺らしてくれた。
    二人仲良く、夜の公園で「幸せなひととき」を共有した。

    「ねぇ、サトシ」

    「なんだよ、マイ」

    「サトシってさ。いい男だよ」

    「え、急にどうした」

    「だってさ。失恋した友だちを励ませるし、仲間思いだし。それでいて、気さくで落ち着きがあって」

    「照れるなぁ。褒めちぎられるとは」

    「サトシ」

    「ん?」

    「サトシに好きな人はいるの?」

    愚問を発した。
    四の五の言わず、唇を突き出すべきだった。
    もう、遅かった。

    「俺か。俺、カナエが好きだよ」

    ガーン、夏菜絵。
    またしても、彼女か。彼女は俊に好かれ、智にまで──。

    悔しかった。とても悔しくてやり切れない。女としての魅力で、親友に負けている。思わず歯がみした。

    「そうなんだね。カナエは美人で頭もいいよ。胸もある。私に勝てる要素は何もないのか」

    私は失恋というジョーカーを引き当てた。
    心がどんよりと重くなった。重くなった心のせいで、体まで重たくなった。失恋の二文字が私の気分を阻害し、露骨に不機嫌にした。

    「くっそ。なんでなのよ!」

    怒りが込み上げた。

    「カナエ、カナエって。カナエばっか、男が寄って来てさ」

    「マイ……」

    「いい女はよかったね。私なんて、だーれも見向きもしない」

    「そんなことないよ。そのうち、いい人が現れるって」

    「なに、それ? 私を慰めて励ますつもり?」

    智に食ってかかった。
    その言い草と態度に、彼も眉を下げるしかなかった。

    「腹立たしい。もう、帰るっ」

    ブランコから飛び下り、ぺしゃんこのカバンで公園の柵を思いっきしぶん殴った。

    「マイ。やけになんなよ」

    背中越しの声が遠ざかる。
    今までのいじらしい努力と苦労を、彼はどう受け止めていたのか。
    あのクソ男め。

    その晩、おおいに荒れた。パソコンでヘビーメタルを聴き、手当たりしだいに触ったものを、床や壁に乱暴に投げつけた。
    それでも収まらない。
    抽斗の奥から過去にひどい点数をとったテストを持ち出した。ビリビリに破いてやった。どうでもよくなれ、とやけくそだった。

    週が明け、今度は修の通うダンススタジオに顔を出した。
    初訪問でも、知っている顔がちらほらいる。心強い。彼らは私に挨拶した。
    ブレイキンの仲間内では、自分も名の知れた人間の証明といえる。

    修にあらかじめ目的を告げ、訪問してよい日時を調整していた。
    修はちょうどダンスを踊り終え、隅で休んでいるところだった。

    「いよっ。マイマイ。元気か」

    床の上から修が見上げる。

    「元気だよ。ちょっと腰、痛めたけど、体も心も元気だよ」

    「そうらしいな。腰、痛むのか」

    「もうだいじょうぶよ。二月から練習は再開する」

    「今日は?」

    「ラインで送ったでしょ? お互いのダンス動画を見せ合おうって。私の動画はここにあるから」

    「そうだったな。俺の動画は、と。えーと……。ここにあったっけ」

    光井修は、そばにあったタブレット端末をこちらに引き寄せた。

    「ああ。これ、これ。俺の最近の動画があるね」

    「こっちに見せてよ」

    私は修の横に座った。

    ダンスの動画は三本あった。
    一本目はグループで踊るダンス動画で、二本目は修がコンテストに出た動画だった。三本目は、ダンススタジオで撮られた、練習用の動画らしい。

    二本目を再生するようにねだり、食い入るように見つめた。
    男のダンスだけあり、じつに力強い。回転の速さに秀でているし、高さもある。それでいて力任せにせず、よけいな力みもない。きれいに技を見せていた。 

    「さすがは男子の実力者。とっても上手」

    私は修をほめた。

    「ありがとう。あらためて自分のダンスを見て、これくらいでよかったなと思ったよ」

    「これくらいって、どういう意味?」

    「背も高すぎず、手足の長さもちょうどよくて、ダンスに向いた体格っていうかさ」

    「そういや、そうかもね。体のバランスが悪いと、見る方も引きがちかも」

    修の説明がすんなりと頭に入った。

    「オサムは、小さい頃からダンス、してたよね?」

    「ああ、そうだな。小一からしてるよ。長いことやってるな」

    「私は三つの頃からだから、キャリアは私の勝ちだね」

    「習い事として、だろ? 幼児のレッスンはいちばんの基礎じゃん。リズムを覚えるとか、体のバランス力を養うとか」

    「たとえそうでも、ダンス歴は数字上、私が上回るのよ。私が先輩よ」

    「はい、はい。先輩には負けるよ」

    修は、不承不承に私の勝ちを認めた。

    思い返せば、小さな頃から踊るのが好きだった。
    まだ二つ、三つの年に、親戚が集まった場で、踊り出したらしい。
    自宅にいるときは、テレビでCMが流れたら、必ずといっていいほど、そのダンスを即興でまねした。
    それはよく覚えている。

    小学生になり、私のダンス熱はとどまるところを知らなかった。地元ではキッズダンサーとして名を馳せ、各地のダンス大会に顔を出すのが恒例行事になった。
    母がミシンで手作りしてくれた衣装を着て、地元のダンスコンテストに欠かさず出場し、覚え立てのブレイキンを披露した。

    当時はグループでの出場が多かった。
    チャームポイントの赤いリボンをつけた女の子という見た目で覚えてもらい、一人でダンスを見せるときもあった。

    その頃、ブレイキンを踊れるキッズとして注目され、コンテストで優や修と知り合った。
    三人はすぐに仲良くなった。互いにダンスを続けて刺激し合い、その技術を高め合う関係になれた。
    とてもありがたいことだった。

    「オサム。私のも見てよね」

    自分のダンス動画を、これ見よがしに彼の目の前に差し出した。
    修は、私の携帯を手に取り、じっくりと動画を眺めた。

    「いいじゃん。なかなかのレベルだ。マイマイには力があるよ。ダンスもいい」

    「そう?」

    「うん。十代の女子ダンサーで、ヘッドスピンと言えばユウ。ウインドミルと言えばマイ。二人は双璧だな」

    「双璧か。ありがとう。フフフ」

    気分のバロメーターは一気に上昇した。

    「ユウはそのダンスを見て、もっと指をピンと伸ばせとか、頭のブレが気になるとかって言ったよ。そう思う?」

    「そういう見方もできる。俺は気にならないけど、審査する人は、そこまで高い基準で判断するのかもな」

    「やっぱ、そうなんだ」

    優は目が肥えているということか。

    「マイマイ。まだ、踊れないのか」

    「そうなのよ。治るのに、もう少しかかるわ」

    「よかったら、生で俺のダンス、見ていけよ」

    私は返事代わりに、コクリと頷いた。

    修はレッスンが終わっても、居残りで三十分ほど練習した。
    彼のウインドミルは、手をつけずに回る型や、両手に樽たるを抱えるような型、腕を後ろに組む型などの派生バージョンだった。

    いずれも背中の一部で地面と接し、足を回転させながらバランスを保っている。
    派生形のウインドミルからチェアーやヘッドスピンに移行するコンビネーションを見せてくれた。

    練習は終わった。
    修は更衣室から出てきて、私を誘った。

    「この後、父ちゃんと合流する。メシ、食うか」

    「え、いいの?」

    「いいよ。二人より三人の食事の方が楽しいだろ?」

    「ありがとう。親に連絡しとくね」

    携帯で、食べてくるとメッセージを入れた。
    修と彼の父、私の三人で、ガストで食事をした。
    私は自分の食事代を払おうとしたが、修の父が手で制した。「いいから。こちらが持つよ」と言われ、おごってもらった。

    近くに切磋琢磨する仲間がいるというのは、なにかと心強い。
    食事の席で話題となったのは、二年前のパリオリンピックである。

    「あのとき、俺もテレビを録画してさ。何度も見たよ。画面に釘付けだった」

    修は興奮気味に振り返った。

    「うん、うん。わかるよ。私だってテレビにかじりついたもん。AMIさん、すごいよね」

    「すごいのひと言に尽きる。相手との駆け引きも余裕だったし、完成度はピカ一だった」

    「私もAMIさんを目指すわ。絶対、オリンピックに出て、金メダルをとってみせる」

    「AMIも世界選手権で敗退し、アジア大会では結果を残せなかった。いろいろ悩んだと噂で聞いたけど、自分のスタイルを貫いた。全力を出し切れば、強い者は自然と上に行けるんだな、と俺は思ったね」

    その晩食べたステーキは格別な味がした。
    世界一になれた日に食べる料理とどちらが美味しいだろう。
    その答えは、いつかわかる日が来ると思った。

    ガストで食べ終わり、店内で記念写真を撮った。
    店員にお願いし、私たちは笑顔でカメラに収まった。

    帰宅した。

    寝る前に、パリオリンピックの感動を思い起こした。
    携帯でダンスを検索し、AMIの決勝動画を再生した。
    実に多彩なダンス表現だ。また感動した。
    当時、速報でAMIが金メダルをとったのは知っていたので、安心して演技を見たものだ。彼女の躍動するダンスを、私もまねしたい。

    「次は、私がブレイキンの歴史に名を刻み、日本に感動の嵐をもたらすんだ」

    強くそう望んだ。

    「近い将来、ああいう形で天下を取りたい。その前後でも、素晴らしいダンスを多くの人に披露し、感動を届けたいわ」

    夢はふくらみ、眠るのに時間を要した。

    「今日は、シュンが来てないね」

    私は夏菜絵と向かい合わせに腰かけていた。いつもの店で、いつものように。

    「シュンはサトシを誘って、仲間でカラオケに行ってるよ」

    夏菜絵が答えた。

    「そうなの?」

    「うん。道ですれ違ったとき、そう言って走ってった」

    「そうか。ところでさ。カナエにはまだ言ってなかったよね?」

    「何の話?」

    「だからさ。進路よ。この前、先生に訊かれたでしょ? 進路を」

    「ああ、そっか。私は進学。マイはダンス?」

    「そうよ。ニューヨークへ行くんだから」

    「ニューヨーク! すごいね。どのくらい行くの?」

    「半年くらいかな。ビザではそうなってる」

    「英語が必要よ」

    「うん。それが悩ましい」

    「学校に通うの?」

    「そうなの。語学学校に通うよ。ダンスと英語の二刀流だわ」

    「その表現、正しくなさそう」

    「ま、いいのよ。私もカナエくらい英語がわかるなら、ダンスの仕事で行く就労ビザでもいいのだけどね。そうも行かないでしょ?」

    「アメリカでダンスを学んで、プロデビュー?」

    「そのつもり。きっと成功すると信じてるわ。日本に帰ってダンスの仕事をし、有名になりたいな。夢は」

    「プロのダンサー」

    最後の台詞だけ、私と夏菜絵の息がピッタリと合った。
    顔を見合わせ、二人で破顔した。

    「マイなら、やれるよ。マイのダンスを見たわ。すごかったもん。私、信じてる」

    「ありがとう、カナエ」

    「マイが踊れば、天下一品」

    「ほめすぎよ。体がかゆくなる」

    「でも、名前からしてさ。生まれつきというか」

    「え? マイは踊ると、『舞、踊れ』って?」

    「フフッ。自分で言ってりゃ世話ないわ」

    二人は足で床をどんどんと蹴り、周囲を憚はばからずに大きなはしゃぎ声を出した。

    「あ。そろそろ、家に帰るわ」

    夏菜絵は携帯を見て時刻を確かめ、カバンを持って立ち上がった。

    「バイトの日?」

    「違うよ。バイトは水曜。今日は火曜じゃん」

    「じゃあ、なんで?」

    「二月も近いでしょ。二月に河合塾の模試がある。今から全国のレベルを把握したいから、少しでも勉強して順位を上げておきたいのよ」

    「えらっ! 立派ね。私とは住む世界が違うね」

    「大げさよ。でも、マイたちとここで遊べる日も少なくなるよ。きっと」

    「寂しいな。遊び相手が一人、いなくなっちゃう。大きな損失だわ」

    「そうかもね。これが現実よ」

    「ホントに寂しいわ」

    学生を縛りつける勉強が、友との楽しい時間や思い出を奪い去り、絆を引き裂くのを想像した。
    逃れられない実体験に抗あらがえなかった。
    それを防ぐ方法など、どこの高校の学園生活にも存在を許されないのだろう。

    「マイだってさ。ダンススタジオに通うじゃん。いずれ、再開するんでしょ? ダンスを」

    「そりゃ、そうだけど」

    私と夏菜絵は岐路に立っていた。
    いよいよ、将来に向けて、別々の道を歩もうとしている。
    それが大人になるときに味わう残酷な試練に思えた。
    たとえて言うなら、私は東北行きの飛行機に乗り、夏菜絵は沖縄行きの飛行機に乗る。今は銀空高校という名の同じ空港にいるが、いずれ出発しなければならない。行き先の変更は認められない規則である。

    「カナエ。大人になっても、ときどきみんなで集まろうね」

    「いいよ。マイたちと会うためなら、都合を調整して会いに行く」

    「うれしいね。絶対だよ。約束よ」

    私は子どものように、小指を突き出した。彼女もそれをまねした。
    二人は小指を絡ませた。指切りをして、未来の再会を誓い合った。

    マフラーに手袋の完全防備で自転車にまたがり、冷たい強風に立ち向かう日々が続いた。
    寒いだけだった季節も、大寒波が押し寄せて景色は一変した。
    東京でも積雪があった。
    雪が融けて路面が凍る可能性があり、徒歩で登校した。
    一面雪化粧の美しさと引き換えに、寒さに凍えた。

    「めっちゃ雪が降ったね」

    夏菜絵は窓の外を見て言った。

    「ウチの車の上に積もったよ」

    私は他人事のように答えた。
    授業の前に教室でくつろいでいた。

    「知ってる? 郊外から車で来る先生、雪道の渋滞で遅れるって」

    「じゃ、一限目の日本史は自習だな」

    「私、長靴で来たわよ。去年の雪の日、ひどかったじゃん。帰りに雪が融けて黒ずんでさ。靴を汚したからね」

    「用心深いね、カナエは。私、そこまで考えないよ」

    「ねぇ。この動画、見て。めっちゃ笑える」

    夏菜絵が携帯の画面を突き出す。

    「アメリカの若者か。雪だるまに大きな雪の胸。男はどの国でもやらしいね」

    雪だるまで遊ぶアメリカ人を見て、思った。
    ニューヨークでも、寒波ならば雪が積もるだろうか。
    自分の行く季節は雪と無縁のはずだが。

    その日、一限目と二限目は急きょ入れ替えとなり、自習にならなかった。

    「もう、いくらやっても進まない。だれがこんなことするかよ」

    私はシャーペンを教科書の上に投げ出し、毒づいた。
    試験範囲の広さに閉口し、勉強するのを途中で放棄した。

    一年でいちばん日付の少ない月に入った。
    二月はバレンタインという一大イベントがある。
    それに向けて準備をする人、待ちわびる友だちも少なくない。

    気分を下げる学校行事がその直後に待ち構えていた。みんなに等しく、点数地獄がやって来る。学年末テストだ。

    「私はもう少しやるよ」

    夏菜絵は真剣な眼差しで熱心に参考書にペンを走らせる。マーカーで色をつけ、そこを暗記する。
    できる人はいい。
    試験も、そのための勉強も、ただひたすらに辛い。

    「せっせと取り組んで、えらいね」

    私は勉強するために、夏菜絵の自宅にお邪魔していた。

    私の場合、いや、多くの人がそうしがちだと聞いたが、勉強をより一生懸命にするために自分よりも賢い友人の近くで勉強する計画を立てた。
    今、それを実行している。

    そのようにしてテストの勉強をした方が、一人きりで静かに勉強するよりも安心で、かつ、合理的だという結論に達した。
    事実、一学期も、二学期も、夏菜絵のそばで勉強した。
    わからないところの答えや覚え方、解き方を教わりながらテスト対策をした。
    そして、二学期は一学期よりもいい点数をとれた。

    「慣れたもんよ」

    夏菜絵は涼しい顔をして問題を解く。

    「カナエ」

    頭の構造がはるかに高度な友人の名前を、ぼそりと呟いた。

    「カナエとひっついて行けるなら、秘書みたいにお供するのに」

    「なにバカなこと、言ってんの? 秘書は有能でなきゃ」

    「どうせ、私は有能ではございませんよ」

    私は頬をふくらました。

    「ねぇ。試験に絶対に出る問題、教えてあげようか」

    彼女は、上手に私の機嫌を取ろうとする。いい友だちだ。

    「どこ、どこ」

    ペンを握り、夏菜絵の指先を見つめる。

    「数学はこの問題。三角関数の計算ね。あとは」

    「私の頭で解けるとこ、教えてよ。二次関数とか」

    「そうね。二次関数なら、これかな」

    その後、私は夏菜絵の予想した問題の答えをそっくり写した。
    どうしてそうなるのか、二度、三度と彼女の解説に聞き入った。
    まるで、そこは私的な予備校のようだ。
    美人の数学担当講師が相沢夏菜絵。
    受講料はオールフリーでマンツーマン。
    それって、甘えすぎかな。

    「ふー。頭が火山になって噴火しそう」

    「そりゃ、まずいね。休もうか」

    「そうしようよ」

    携帯を開き、クールヒーローの動画を見せた。
    彼らの颯爽さっそうとしたダンスと歌唱を、頭のいい親友に覚え込ませた。それはあたかも、受験生をイケメンアイドルの推しに洗脳させる作業のようであった。

    その後、それぞれのペースで勉強を続けた。
    夏菜絵が一心不乱に取り組むから、私としてもできるだけの努力を惜しまない。
    数学と英語を中心に、厄介な教科を片づけた。
    国語に関しては自信があり、二人で漢字の問題を出し合って苦手な漢字の克服に時間をかけた。

    夜も更けてきた。

    「おなか、空かない?」

    夏菜絵が訊いた。

    「うん。ちょっとね」

    「お菓子ならあるよ」

    「おお。いいのを仕入れたか。お主も悪よのう」

    「なんで、時代劇? まあ、仕入れてあるでござるが」

    「早う、持って参れ」

    「お代官様、机の抽斗に入ってます」

    「うむ。どんな菓子じゃ?」

    「バテレンのカステラという焼き菓子にござりまする」

    「カステラとな。どんなものじゃ? 一口食べたい」

    「しばし、お待ちを」

    ほんとうに夏菜絵は机の抽斗を開け、ラップに包まれた本物のカステラを出してきた。
    それを二つに割り、二人で食べた。

    「余は満足じゃ」

    「では、お代官様の舞を見とうござる」

    「なんと。今、踊りは舞えぬ。病気ゆえに」

    ハハハと私は笑った。

    「これで、古文も楽勝ね」

    夏菜絵はよほどおかしかったのか、腹を抱えた。

    学年末テストが始まると、緊張と焦りでふざけてばかりいられなかった。
    夏菜絵の自宅に二度通い、対策を立てた。

    問題用紙はなかなか私の解答を寄せつけなかった。
    ときには、空白の状態で飛ばしてしまう設問もあり、悪戦苦闘した。

    二月の初め、病院に行った。
    治っている自覚はあった。
    医者は告げた。

    「よいじゃろう。腰の捻挫は治っとる。もう通わなくていいよ」

    「ほんとうですか。ダンス、してもいいですか」

    「ああ、よいよ」

    私はうれしくなった。
    診察を終え、待合室で診療費の順番待ちをした。
    そこへ、俊の家族が現れた。

    「シュンのお母さん、どうしたの?」

    「あら、マイちゃん。じつはね、シュンが入院して」

    「えー、そんな。どうして」

    「それがさ。あたっちまってさ。カキフライに」

    「ええ? 食あたり?」

    「そうなのよ。とにかく、昨晩、ひどく吐いてね。熱もあって。もう、たい
    へんよ」

    俊のお母さんは項垂うなだれた。

    「詳しく訊いてもいいですか」

    私はお母さんに事情を訊いた。
    お母さんはイスに座った。
    昨夜からの経緯を、順を追って話した。

    「そうですか。お大事に」

    私はお辞儀をし、病院を去った。

    家族から聞いた話では、俊はウイルスによる食中毒だった。

    俊たち家族は、金曜日の晩に家族で外食に出かけた。
    みんなはレストランで、エビフライやカキフライを食べた。

    運悪く、俊だけが吐き気を催した。寝る前に症状がひどくなった。吐いて熱が出た。

    夜遅く、救急でこの総合病院に来た。
    医者にかかり、A型肝炎と判明した。
    カキフライが原因であり、その症状の現れだという。
    三週間ほど症状は続くらしい。症状が落ち着くまでの間、入院するように言われた。

    それで、土曜日の今日、俊の家族が身の回りのものを病室に運んだのだ。

    私はお母さんと病室を訪ねた。
    俊はベッドに横になり、浮かない顔をしていた。
    その日は、顔だけ見て帰った。

    二日後、学校が終わった帰りにお見舞いに行った。
    そのとき、彼は意外なほど穏やかな顔をしていた。

    「体、だいじょうぶ?」

    「マイ、ありがとう。見舞いに来てくれて。うれしいよ」

    「友だちよ。お見舞いくらいするわ。高校に通えなくて退屈でしょ?」

    「まあな。でも、退屈なりに楽しみはあるよ」

    「楽しみ? なに、それ」

    俊は笑ってすぐには教えてくれない。
    しばらくじらされて、その意味がわかった。

    「体温と血圧を測りますね」

    若い女の看護師が入ってきた。
    まだ十代の若々しさである。それに、ちょっとかわいい。

    「お願いします」 

    俊は看護師に呼びかけ、デレデレと看護師を見た。

    彼の楽しみとは、この女か。
    公園で見たのは失恋の場面。
    失恋したあととはいえ、この男の腰の軽さ。
    早くも新しい恋愛対象を見つけるとは──。

    俊の心を知らないのか、看護師は淡々と仕事を進める。

    「はい、終わりました。体調に変わりありませんね」

    「うん。俺、元気だよ」

    「しばらく安静にしてくださいね。倦怠感けんたいかんや嘔吐おうとがあるかもしれません。ゆっくり休んでくださいね」

    「わかった。看護師さん、なんて名前?」

    「板橋です」

    「板橋さん。板橋さんの言いつけに従うよ。板橋さん?」

    「何ですか」

    「とってもかわいいね」

    「やだぁ」

    板橋という名の看護師は、俯いて病室から出て行った。

    「やるねぇ。この色男」

    「へへへ。転んでも、ただでは起きない、兎田俊。一句できた」

    笑いが込み上げ、少しむせた。

    「シュン。あの女に惚れたの?」

    ズバリ、核心を突いてみた。

    「そう思ってもらってかまわない。俺、気が多くて、いろんな子を好きになるからな」

    「でもさ。退院したら、そうそう会わないんじゃないの?」

    「なーに。そこは工夫しだいさ」

    俊はパジャマ姿で、頭の後ろで両手を組んだ。

    「手紙かメールを送るつもり?」

    「いろいろ想像してくれたまえ。いずれにせよ、退院するまでは彼女と顔を合わせるし、テストもあとで受ければいい。ここは天国だぜ」

    「バーカ」

    私は軽く嘲あざけった。
    これだけ元気ならば、やがて退院できるだろう。
    そのとき彼が別の思いを抱いたことまで、私は知らなかった。

    それから彼は入院生活を送り、テスト期間中に退院した。

       @

    「ああ、ダメだ。やっぱ、少し内容を変えられて、解けなかった。残念。カンニング防止もあるのかな」

    「そのようね。ま、仲間から問題を教わるのと、出された設問を解けるかどうかは、本質が違うものよ」

    夏菜絵は涼しい顔で言った。あからさまに下に見ている。

    俊の肝炎が治った。
    病み上がりで、彼は途中から一緒にテストを受けた。
    受けられなかった科目については、三月に入って順次追試を受けたらしい。

    先に試験を終了した仲間から問題を教えてもらったという。
    それでいい点を取れるほど甘くはない。
    そこは兎田俊だ。彼の頭では、矛先を少し変えられると、実力が露呈する。

    「ま、いいさ。俺は進学しないもんな。学力だけがすべてじゃないし、それで人生なんて決まらねぇよ」

    俊はうそぶいた。

    「それよりさ。シュンたらね。きれいな女の人、見つけちゃってさ」

    私は小声で言った。我ながら口が軽い。

    「なによ、それ。聞きたい、聞きたい」

    夏菜絵が食いついた。私の腕をグイグイと引っ張る。

    「わかった、わかった。今話すから」

    私は半笑いを浮かべた。

    いつものように、学校帰りで三人はダベっていた。
    今日はマックが閉まっていた。貼り紙によると、システム障害らしい。それだけは文句のつけようがない。
    場所を変え、近くの喫茶店にした。
    俊自身が喋ってもよさそうなのに、彼はニコニコして聞いていた。

    俊のいた病室で見たことを、私は説明した。
    夏菜絵は途中からあきれていた。

    私が話し終えるのを待っていたように、俊が訊ねた。

    「マイ。ダンスの練習、行かなくていいのか」

    「行くよ。週三日、通ってるもんね。月と水と金に」

    「今日は水曜日だぞ」

    「そうね。十六時からだから、あと少し、ここにいられる。ここから遠くないし」

    「普通に見える女子高生がクルクル回るんだからね。人って、見かけによらないよ」

    夏菜絵はしみじみとした口調で言った。

    「数年後、私は世界一のダンサーになってるはずよ。ブレイキンの女王に」

    「すごいぜ。俺たちはさしずめ、女王様と親しくする貴族ってとこか」

    「どうして貴族なのよ。かつてのヨーロッパ?」

    夏菜絵は指で口を隠して笑いをこらえた。

    「だってよぉ。女王って言うと、王様がいて、召使いがいてさ。宮殿に住んで、毎晩パーティー。当然、貴族もいるわけだろ?」

    「近世のヨーロッパね。ベートーベンが髪の毛をクルクルにして、ピアノを弾いてそうな」

    夏菜絵は具体的な名前を出し、俊の話に付き合った。

    「あ、ヤバい。そろそろ、家に帰らなきゃ」

    夏菜絵は携帯で時刻を見て、立ち上がった。

    「え? そんな時間?」

    私は少し驚いた。

    「うん。じゃ、私、帰るね」

    「えー。もう帰っちゃうって、まだこんな早い時間なのに」

    「ごめんね。学校のテストも大事だけど、今週末に模試があるでしょ。河合塾の」

    「ああ、あれか。例のヤツ」

    「そう、例のよ。勉強しなきゃ」

    「すげー。まじめ。受験組は違うね」

    私は感心した。テスト続きでもまだ勉強できるなんて、想像がつかない。

    夏菜絵は帰った。
    その後、智が遅れてやって来た。
    メンツは再び三人となり、三人でまたダベった。

    「さっき、言いそびれたけどさ。シュン、カナエにフラれたでしょ?」

    「さあ、何のことだか」

    「ばっくれちゃって。私、見たよ。公園で二人が話してるところを」

    「さようか。ま、もうそのことには触れないでくれ」

    「失恋の痛手を、早くも別の恋で埋めるつもりよ。この男は」

    「お? というと、新しい彼女が」

    珍しく、智が乗り気になる。

    「そうなのよ。聞いてよ。シュンったら、私がお見舞いに行ったとき、ニコニコしてさ。『好きな女ができた。看護師の子だ。板橋さんだぜ』なんて、堂々と言うのよ。この口が」

    私はコーラを飲む俊の口を指さした。

    「看護師を好きになったのか。入院して辛かろうと心配したのに、おまえというヤツは」

    「俺がどうしたんだ。何も悪いこと、してないさ。ハッキリ言ってくれ」

    「シュンは油断も隙もないな。女ならだれでもいいのかよ」

    「サトシ。それは言い過ぎだ。俺にも分別ってもんがある。ユミちゃんがきれいで、おしとやかだから惚れたわけよ。会ったらわかるさ。いい子だよ、ホント」

    俊は板橋さんの下の名前を使い、親密さを強調した。

    「相手の看護師は、シュンをどう見てるんだろうか」

    智が素朴な疑問を投げかけた。

    「それが、まんざらでもない。向こうも俺を意識してるようなんだ」

    「ほんとうか」

    「ほんとうさ。辛いね。モテる男は」

    「信じられない」

    「サトシは疑り深いな。ユミちゃんに告げたよ。『俺、ユミちゃんみたいな人と付き合いたいな』って。そしたら」

    「そしたら?」

    私と智は同じ言葉を発する。

    「彼女曰く、『私、男らしい人と付き合って、幸せになりたいわ』って言うじゃん。俺にもその資格がある。舞い上がったよ。病院パラダイス!」

    「くー。のろけちゃって。ホント、バカね」

    私は俊の腕をたたいた。

    「俺は、二つの誓いを立てた。一つは、ユミちゃんを幸せにすること。もう一つは、大人になってあることを実行すること。どちらも難しくない」

    俊はゆっくり頷き、腕組みをした。

    「後半の実行することって、何よ?」

    私は訊ねずにはいられなかった。

    「さてと。そろそろ時間じゃないのか、マイ。ダンスに行く時間」

    「ちぇっ。また今度、じっくり聞かせてよね」

    私はペラペラのカバンを肩に引っかけ、喫茶店を出て行った。

    二月に入り、四月に行われるコンテストに向け、私も再始動していた。
    ダンスの練習とトレーニングを再開した。

    腰を痛めて練習から遠ざかっていたので、いつものダンススタジオで筋力と持久力を意識して鍛えた。
    ダンスにメリハリをつけたり、速さや激しさを求めたりするには、そうした力を必要とする。それらの力を鍛えていて損はない。

    部活でも同じだが、ダンススタジオではタブレット端末の活用が増えつつある。生徒のダンスを撮り、たくさんの動画を保存してある。いつでも再生して、個々の長所や短所をチェックするのに役立っている。

    中学になってから始め、今も続けていることに、ダンスノートの記入がある。そのノートはすでに三冊目に突入した。
    ダンススタジオで学んだこと、気づいた弱点、インストラクターに指摘された注意点。そうしたことを、日付とともに書き記した。
    ところどころに自作の絵も入れ、後から見てもわかるように書いた。
    そのうち、その日の課題や感想をしっかり書けるようになり、ダンスの振り返りと意識の向上に一役買った。

    「コンテストにはユウも参加するのよね。ユウよりも注目を浴びたい。目立ちたい。負けてられないわ」

    ブレイキンの技を一つひとつ丁寧に踊り、仕上げた。
    鏡を見ながら再確認し、動きを修正した。
    まだ本調子ではない。
    何分も続けて踊ると息が苦しい。技にキレもない。
    それにつけても、一月を棒に振ったのがもったいなかった。
    ダンススタジオの生徒に見てもらい、稽古に熱が入った。

    できるだけ多くの人の目に触れたくて、学校でもブレイキンを踊った。
    休み時間の廊下や階段の踊り場で、ゲリラ的に敢行した。
    スカートの下にジャージを穿き、毛糸の帽子をかぶり、ウインドミルやチェアーを踊った。
    手応えは上々だった。生徒は歓声を上げ、拍手を送った。

    「マイ、上手だね」

    「ありがとう」

    「夢は?」

    「私の夢は、オリンピックに出て、金メダルを手にすることよ」

    「すごーい。目指している選手はいるの?」

    「金メダリストのAMIさんみたいになりたいな。それと、男のダンサーで神様みたいなスターがいるの。マイク・ガブリエル」

    「へぇ。そうなんだ。目指すべきスターがいるのね。いいことだよ」

    「マイクと同じステージに立ち、いつか、彼とバトル形式で踊りたい。それも私のもう一つの夢よ」

    「ブレイキンのスター目指して、頑張れ! マイ」

    「ありがとう、みんな」

    ダンスを再開して間もなく、自分の欠点に気づいた。
    ダンスの技そのものではない。
    どの技の前後にどんな風に踊るか。大きな技を効果的に見せるのか。
    つまり、ダンス演技の構成である。

    もちろん、一対一のソロバトルや三対三のチームバトルに出ても、技量と経験が必要だ。相手の繰り出す技に対し、その場で柔軟に技を変更して対抗するのは経験と度胸がいる。

    そうではなく、コンテストなどで一人ずつ踊り、持ち時間のダンスを踊り切るとき、そこでのダンスの流れが気に食わなかった。
    それをダンスノートに書き留めた。

    自分一人では解決できず、優に相談した。
    彼女の通うダンススタジオに行った。
    優は汗をタオルで拭き、私を出迎えた。練習終わりに、悩みを打ち明けた。

    「私、ダンスで悩んでるんだ。ユウは、ダンスで悩んだら、どうしてる?」

    「一つはダンスノートを見返すことね。中学からつけていて、弱点や課題が書いてある。今の状態で、それをクリアしてるか。とても参考になる」

    「やっぱ、それよね。私もダンスノート、つけてるよ」

    「もう一つは、インストラクターのコメントかな」

    「インストラクターって、ユウのダンススタジオの?」

    「そうよ。インストラクターは長く私を見てきた。私のことをいちばんよく知ってる。技も、調子も、メンタルも」

    「私も同じだわ。インストラクターのユリさんにコメントをもらうよ。コンテストに出たあと、家族に撮影してもらった動画を見せると、ユリさんがコメントする。私のダンスに何が足りないか、私とユリさんで話し合うわけ。そうすることで実力が養える気がするのよね」

    「へぇ。私も同じこと、するよ」

    優も頷く。

    「そうだよね。それでも、今日みたいに悩みがあるときも出てくる。難しいよ」

    私は携帯を出し、優に最近のダンス動画を見せた。

    「よくわからないけどさ。何かあっさりしていて、印象に残らないかもね。知人のダンスを見たらどう? それが解決の糸口になるかもよ」

    やさしい友だちの助言に、心が温まった。

    休日、優と二人で、別のダンススタジオを訪ねた。
    そこでインストラクターとして働く、ダンサーの基もとい博ひろしに悩みを聞いてもらった。
    三十代の彼は、私を小さな頃から知っていた。

    「難しいね。俺も同じだったよ。若い頃につまずき、同じように思ったもんだ」

    「で、どうすればいいの? 基さん」

    「俺と生徒のダンス、見てみなよ」

    基は生徒を紹介した。

    「東あずま瑛斗えいとです。よろしく」

    「円道舞です。こちらこそ、よろしく」

    「同じく、牛野優です」

    四人はあらためて挨拶した。

    「さ、エイト。俺が最初に踊る。その後、二分ほど踊ってみせろ」

    「はい」

    基が踊った。見事で力強かった。
    そのあとで、瑛斗も踊った。瑛斗のダンスもダイナミックだった。

    「どうだい?」

    基は息を弾ませ、立って見ていた私の隣に来た。

    「基さんのダンスはきれいで力強い。そして、メリハリがあったわ」

    私は答えた。

    「そうだろう?」

    「エイトのヘッドスピンも力強さと美しさがあった。抑えたフットワークとのバランスもよくて、流れが自然だった」

    「マイの言うとおりよね。やりたいことを明確に表現できていたわ」

    優も感心した。

    「踊る本人は、ダンス中にそこまで意識できない。踊る前に、そこで技を出すなら、前後はどのステップを使うか。どのフットワークにしようか。簡単なチェアーを入れてワンクッションを置こうとか、いろいろ考えるよね」

    基は言った。

    「基先生の手本を参考に、俺もそんなことを意識してるよ」

    瑛斗も基と同意見だった。

    「今日は勉強になりました。どうも、ありがとう」

    「基さん、ありがとう」

    私と優は、基たちに礼を述べ、お辞儀してそこを去った。

    翌朝、頭で理解したことを実行に移してみた。
    手っ取り早く父に見てもらい、感想を求めた。

    「マイのダンスは、出だしこそ恰好よく決まっているけど、中だるみしてる。何かインパクトに欠けるな。たくさん見てきたけど、目玉となる演技に迫力がないぞ」

    辛口の義男は、腕組みをしてそんな風に言った。
    自分でも、踊っていて違和感はあった。はっきりと不足している点を指摘され、目が覚めた。

    「そうだよ。ただ恰好いいだけのダンスじゃ、人に訴えるものがない。それでは困る。ステップやフットワークで観客を引きつけ、ここぞの大技でアッと言わせたい。短い競技時間にたくさんの技を詰め込んでも、印象には残らないよね」

    あらためて反省し、それからは、ダンスの構成を練り直した。
    何度か修正し、また父に仕上げたダンスを見てもらった。

    「うん。前よりはよくなってるぞ。そのくらい、目玉は何で、どう盛り上げて行くのか、はっきりした方がいい。そこを意識するとしないとでは、雲泥の差がある。意識した方がずっとよく見えるぞ」

    父は深く頷いた。私も納得した。

    テストの直前が二月十四日だった。
    その年のバレンタインデーは土曜日。
    自分用に買い求めたり、同性にあげるチョコを買って友だち同士で食べたりする人も多い。
    学校がなくて異性にプレゼントする〝本命組〟の生徒は、相手をどこかに呼び出すか、家を直接訪問するか、といった勇気ある行動を強いられた。

    「どう? 味の方は」

    「えっと、まあまあだよ」

    「カナエに同じ。いいんじゃない?」

    夏菜絵と私は、友だちを傷つけないよう、味を否定しなかった。
    ただ市販のチョコを混ぜて固めただけでは、お世辞にも美味しいと言える味には遠い。
    友だちに頼まれ、手作りチョコレートの味見をしていた。
    今週の土曜日、待ちに待ったバレンタインデーが来る。

    「そう? 食べられる?」

    友だちがおずおずと訊ねる。

    「うん、だいじょうぶ。自信、持って」

    二人で友だちを励ました。

    食べられるレベルではある。
    男が食べて美味しいかというと、チョコレートの味からは少し離れている気がする。
    でも、好きな人のために一生懸命作るチョコレートに対し、その人の気持ちに立てば、文句なんてつけられない。
    友だちと同じように手作りしたら、私とて、きっと同じ結果になっただろう。

    「そうだよね。難しいもん、お菓子作りは。だから、プロのパティシエがいるわけじゃん」

    心の中でそんな風に思う私だった。

    私はというと、デパートで高級チョコを買い、一人の男に手渡すやり方を選んだ。
    相手はもちろん、あの人。智である。彼をおいて、他にチョコレートを贈る相手などいない。

    バレンタインデー当日になった。連絡しておいた場所に智を呼び出し、二人は同じ場所で再会した。

    「よっ、マイ。会えたな」

    「久しぶりね」

    「そうかな。そうでもないような」

    「細かいことはいいからさ。今日は何の日か、わかってるよね?」

    「ああ。バレンタインデー」

    「そうよ。これ、私の気持ち。フォーユー」

    「フォーミー?」

    「イエス」

    なぜか、英語で喋る私たち。
    赤い包装紙にくるまれたチョコレートの箱を差し出し、彼はキョトンとして受け取った。

    イオンモールの広場に、彼と私は佇んでいた。
    その刹那だけ、時が止まった。そこだけが四次元から切り取られ、イオンモールの中ではないような別の時空だった。

    「チョコレート?」

    「うん。チョコレート」

    「マイが俺に?」

    「そ。サトシだけのために贈る。心からのプレゼント」

    「ありがとう。家に持ち帰って、じっくり味わうよ」

    智は、チョコレートの入った箱をペラペラのカバンの中にしまった。
    私の胸は早鐘を打った。もう、最高だわ。
    体中の熱気が迸ほとばしり、顔も火照った。

    私はうれしくて、彼の体にぴたりと身を寄せた。
    すると、智は私から離れた。
    えー、何で?

    「サ、サトシ。もう」

    「ごめん。俺、トイレに行きたくて」

    彼はトイレの方へ小走りに去った。

    「ああん、もう。バカ」

    私は足で床を蹴った。

    「せっかく、ピタッとくっつきたかったのにな」

    トイレから帰って来た彼は、私をがっかりさせるような台詞を口にした。

    「受け取って、正直、うれしかったよ。今日はありがとう、俺、家に帰らないと」

    「ええ、何で?」

    次々と予想外の展開が押し寄せる。

    「母さんが風邪で倒れちゃった。俺が、家族四人分の食事を作らないといけなくなった」

    「そう。病気か。それならしょうがないね」

    「うん。俺も料理は得意だし、母さんに雑炊を食べさせて、他の人間には親子丼を作る」

    「そう。えらいね」

    さっきまで舞い上がっていた心の羽根は急に重くなり、バタバタと地面に落下した。そんな気がした。

    「悪いな。今日はありがとう」

    「家族のために、頑張ってね」

    そう言うのがやっとだった。
    引きつり笑いをし、体は硬直した。
    私のバレンタインが終わりを迎えた。
    他に言うことがあろうに。お互いに。

    チョコレートを渡したあとで、愛の告白をするつもりだった。それは空白の泡となり、宙でプツンと消えた。持ち越しとなった。

    智の好きな人は夏菜絵。それは彼の口から聞いた。
    しかし、夏菜絵は勉強ばかりで相手にしないだろう。
    事実、彼女は、チョコレートをだれかにあげると明言しなかったが、好きな相手は長くいない、とも言った。
    私はバレンタインのチョコレートで、何とか挽回ばんかいを図ろうとしていた。

    去って行く彼。一人佇む私。
    遠くなる彼の背中を見送った。
    彼は立ち止まって振り返り、手を振った。
    弱々しく手を振り返した。

    それから、どうやって自宅に帰ったのか、覚えていない。
    世の中というのは、予想外の事件に満ちている。

    その晩、食卓で母に話しかけられた。

    「マイ。元気がないね」

    「そう。そうかな」

    「どうしたの? 何かあった?」

    「別に何もないよ」

    「前に言わなかった? 簡単にあきらめちゃダメだって」

    言われた気がした。

    「あれは、ニューヨークの話が出たときで。ダンス留学しても、あきらめるなって」

    「そうよ。ダンスに限らない。結果が出なくても、投げ出すのはよくない。最後まであきらめちゃだめなのよ」

    「うん。わかってる」

    私は俯いて箸を握っていた。

    「ほんとうに、わかってる?」

    「私を信じてよ」

    私は母に言い返した。

    「マイ。だれかを好きになったでしょ」

    台所に立つ母は、顎を引いて座る私を見下ろした。

    「知ってるの?」

    「顔見りゃ、わかるわよ。親子だもの」

    元日に好きになり、デートしたこと。それから進展せず、彼の好きな相手は友だちだったこと。バレンタインに呼び出し、チョコを上げたけれど告白しそびれたこと。
    それらを咲良に打ち明けた。
    どうしても、他者の意見を訊ねたかった。

    母は茶を啜り、こう言った。

    「恋なんて一筋縄でいかない。ダンスよりも難しいわ。簡単にかなうもんですか。あきらめずに思い続けなさい」

    母は偉大だ。何でもわかっている。
    その場は、コクリと頷いた。

    食事をすませ、歯を磨いた。
    そのまま、自室に上がった。

    母に言われたことを、あらためて思い返した。
    何とかなる。
    そう言い聞かせた。
    明日という日を信じよう。

    「そうだよ。ワシは今年、ツイてるんだ。何しろ、大吉なんじゃ」

    拳を握り、小声で呟いた。
    必ず運を引き寄せてみせる。
    唇を噛んだ。

    友人ら四人で繁華街のカラオケ店へ繰り出したのは、三月の土曜日の晩だった。ちょうど前日に学年末テストが終わり、はじけたいタイミングだった。

    まだ少し肌寒い早春の夜、言い出しっぺの俊に加え、私と智と修の四人は私服姿で集合し、カラオケ店に入った。
    修は智、俊と初対面であり、簡単に自己紹介をすませた。

    「なにを歌う?」

    「まず、ドリンクを飲まなきゃ」

    「フードも行くだろ」

    みんなは口々に勝手なことを喋る。
    そのうち、俊と修が歌い、智は熱心にフードの注文をし始めた。
    私は修のあとに曲を入れてもらい、流行りの歌を熱唱した。

    「サトシも歌いなよ」

    「ああ、じゃあ、入れるよ」

    智はタブレット端末を手にして、指でポチポチ押した。

    智の歌は上手くなかった。
    歌のサビの高音が出ていない。
    それでも、歌っている横顔は素敵だった。

    俊と修は笑顔で歌い、フライドポテトや唐揚げ、たこ焼きを食べた。

    「マイも頼めよ」

    「そう?」

    私は甘いものを注文した。
    狭いテーブルに皿が並んだ。
    私はいちごパフェをおいしく食べた。

    「パフェか。俺にも一口くれよ」

    「シュンはだめ。サトシ、食べる?」

    「いいのか? じゃ、一口」

    私は智の開けた口に、スプーンを入れてあげた。智はうまそうに口を動かした。

    「あ、オムライス頼んでるわ」

    私は目ざとく、修がオムライスを食べるのを見た。

    「お腹すいた。ちょっとくれる?」

    「いいよ。マイ、食べな」

    私はパフェのスプーンをきれいに舐め取った。修の差し出したオムライスにそのスプーンを差し込み、ケチャップライスと黄色の玉子をすくった。

    「うーん、おいしい」

    「もっと食えよ」

    「ありがとう」

    狭い個室という状況が仲間の親密さを高めたのかもしれない。
    その後も、あちこちで頼んだメニューを分け合う私たちだった。

    そのうち、智がライン通話で夏菜絵と喋り出した。

    「サトシ。カナエとラインしてんのか」

    「ああ」

    「じゃあさ、グループでビデオ通話しようぜ」

    俊がさしたる理由もなく、ノリでそう提案した。

    「なるほど、ビデオ通話ね」

    智は了承した。

    「え、いいのかな」

    私は首をひねった。

    夏菜絵に伝えずに、なし崩しでラインのビデオ通話を始めた。

    「な、なんでビデオ通話? 暇だったから参加したけどさ」

    参加のボタンを押した夏菜絵も、戸惑ったことだろう。

    「いいじゃん、いいじゃん。カナエ、俺の歌を聴け」

    ラインの画面に俊の顔が大きく映された。俊は、いきなりラブバラードを歌った。

    「どうだ? カナエ」

    「まあまあってとこね」

    夏菜絵は笑った。

    その後、智の歌う様子もビデオ通話に流した。

    やがて、だれも歌わず、五人は画面を分割し、ビデオ通話で雑談した。
    修は夏菜絵に、「ダンス仲間のオサムだよ。よろしく」とアピールした。
    カラオケ店はただの私的な空間と化していた。

    制限時間の二時間がきた。

    「そろそろ、出るか」

    「だな」

    智と俊は顔を見合わせた。

    「オサムとマイも、それでいいだろ?」

    二人は同意した。
    学年末テストで憂さを晴らしたかった四人は、カラオケで発散し、まだ寒い春の一夜を高校生パワーで吹き飛ばした。

    カラオケを終えたとき、すでにかなり遅くなっていた。

    繁華街から、みんなは歩いて帰った。
    智と修は駅まで行くので、途中でサヨナラだった。
    大きな角で俊と別れた。

    「シュン。じゃあね。お休み」

    「じゃあな、マイ」

    私たちは手を振り、背中を向けた。

    帰宅したときには、当然のように零時を回っていた。
    携帯が時刻を教えた。
    親には、「今夜、友だちの家に行く。遅くに帰る」と言ってウソをついた。

    フタを開けてみると、このザマだ。このザマだからなるようになれ、と開き直った。
    堂々と玄関のドアを勢いよく開けた。

    「こら! 今、何時だと思ってる」

    さっそく、父の義男が雷を落とした。
    腕組みして見下ろしている。
    恐い顔つきに、こちらもムッとする。

    「ちょっと遅いだけじゃん。何時に帰るとか、約束した覚えはないよ」

    「屁理屈こねるな。未成年がうろつく時間じゃないぞ」

    「うるさいよ。今日は土曜よ。少しくらい、いいでしょ?」

    「何だと?」

    「そこ、邪魔。どきな。上がらせてよ」

    「このヤロウ」

    義男が腕をふりかぶる。私は素早く頭を低くし、父の脇をサッと通り抜けた。

    「こら、マイ! 今度遅くまで遊んだら、家に入れんからな」

    義男の威嚇に、舌を出した。

    その晩、なぜかせいせいした。
    もう、父や母に反抗する時期は終わったのだ。
    これから大人になり、自分で考える。自分で考えて行動する。その責任は自分で負う。負えるから、もう大人。
    そんな風に思い、どこか晴れがましく、どこか寂しくもあった。

    自室の掃き出し窓を開けた。
    春の夜風がじつに心地よい。
    春の夜に心境の変化が訪れた。

    「そうよ。自分が大人の自覚を持ち、行動すれば、周囲も大人として扱ってくれるはず」

    ミャアオオと猫の鳴き声がした。隣の窓辺にミルクがいた。窓の隙間から、白い顔を覗かせている。その通りさ、マイ。そんな風に、ミルクが自分の呟きを肯定してくれる気がした。

    春休みに、智は夏菜絵を呼び出して会ったらしい。
    夏菜絵から詳しく聞いた。

    智と夏菜絵が二人きりでボートに揺られたのは、井の頭公園の池だった。
    岸から離れた池の真ん中で、智はためらいがちに愛を語った。

    夏菜絵の話を聞き、自分と代わってほしかった。
    ショックだった。
    おおいなる悔しさと羨ましさが心に渦巻いた。

    智は夏菜絵と向き合い、自分の気持ちを伝えた。

    「カナエ。正月に紹介されたときから好きになった」

    「えー、困るよ」

    「困ると言われてもな。俺、いつかはカナエに対する気持ちを打ち明けたかった。今、伝えないと、きっと後悔するに違いないと思ってさ。それで、こうして」

    「私は受験生だし、今は恋愛する気はないの。だれともね」

    夏菜絵はきっぱりと恋愛を否定した。
    けっして智が嫌いとは言ってない。
    それでも、智は食い下がった。

    「じゃあ、受験が終わって志望校に合格したら、俺の愛を受け入れてくれるか」

    「それもむりかも」

    「どうして?」

    「私には、ずっと心に決めた相手がいるのよ」

    「決めた相手とは? だれのこと?」

    「地元の幼馴染みよ」

    「幼馴染みか。そいつとは会っているのか」

    「それは言えないわ。とにかく、そういうことだから。他の人にあたって。ごめんなさい。私のことはあきらめて」

    完全に夏菜絵のペースで話は進んだ。
    彼女は相手を翻弄ほんろうし、智はその拒絶に降参するしかなかった。

    彼はボートの櫂かいを握り、ゆっくりと漕いだ。
    ボートは池の中央で円を描きながら、その付近を二周、三周した。

    「井の頭公園ってさ。作家の太宰治もよく来たんだ」

    智は文学の事実に触れた。

    「そうよね。知ってるよ」

    「俺、太宰の作品、読んだよ。『花火』はよかった」

    「サトシ。太宰なんか引き合いに出して、何が言いたいの?」

    「この地元にも、井の頭公園を愛した文豪がいた。文豪もボートに乗っただろうな。もしかしたら、ボートに乗って愛を語る相手がいたかもしれない」

    「そうだとして、サトシとは何の関係もない」

    そう言いかけた途端、智は櫂をボートの内側に置いた。
    いきなり身を乗り出し、夏菜絵の両肩をつかんだ。
    ボートは安定を失い、左右に揺れた。

    「俺、いつか必ず、立派な人間になる。なって、もし、もしも、そのときカナエが独り身ならば、俺を選んでくれ。俺と結ばれろ」

    男らしい台詞に、夏菜絵は顔を背けた。
    少しばかしぐらっと来たのか。私は、夏菜絵の気持ちを勝手に想像した。
    夏菜絵は池の水面を見つめた。

    「あなたは水紋よ」

    「え? すいもん?」

    智は手を下ろした。

    「そ。小さな水紋に過ぎないわ。雨が降って、たまたまそこに池があった。小雨ですぐ止むような程度だから、ポツンと小さな水紋が池にできた。それはすぐに消えた」

    「消える……のか」

    「うん。消える。池には大きな水鳥が住み着いてね。水鳥が水浴びをして、バシャバシャと羽ばたく。すると、大きな水紋が広がるでしょ。大きな水紋は残るし、小さな水紋を飲み込んで消してゆく。そういうことよ」

    夏菜絵の巧みな話術に智も返す言葉がない。
    そのたとえ方に納得したのか。太宰治を引き合いに出しても挽回不能と悟ったか。
    智は空を仰いで、フーッと息を吐いた。
    そして、おもむろにボートを漕ぎ出した。

    ボートを返した後、二人は池をぐるりと回った。駅まで行って別れた。

    夏菜絵は私にそう語った。俊に智。二人の勇者は敗者となった。〇勝二敗。私のよく知る男どもは、どうして、こうも似たもの同士で、同じ傾向なのか。
    似通った結末を迎え、私はゆらゆらと頭を振った。

    夏菜絵の言う幼馴染みに疑問のマークがついた。
    小さい頃から夏菜絵を知っている。
    そんな仲のよい男がいたことはないはずだ。
    夏菜絵からも、そのような幼馴染みの話を聞いたこともない。
    おおいに怪しい。十中八九、作り話。

    夏菜絵と長電話し、そんな「恋バナ」を聞かされた。まさに、「夏菜絵劇場」である。
    親友に少なからぬ嫉妬心を抱いた。

    義男に話すと、こう言って笑った。

    「カナエちゃんは、そういうところがあるよな。男を魅了する美貌の持ち主で、来る者を惑わす不思議な存在。蠱惑的こわくてきな女って、お父さんは好きだよ。そういうの、たしか、マジックマウンテンとか言ったな」

    「何、それ」

    「登山者には山が見えた。山に登ったけれど、行けど、進めど、頂上には着かない。そこに見えているのに、不思議にも頂上に達しない」

    「なんか、面白いね。そんな山、あるの?」

    「知らん。しかし、山にはそういう摩訶不思議な面もある」

    「カナエが男を魅了するのはしかたないとして、男を惑わすマジックマウンテンねぇ。彼女、まともに異性と付き合えるのかしら」

    「相手がいなけりゃ、ヒデノリはどうだ? アッハッハ」

    義男は無責任なことを言い、大笑いして入浴した。

    春の訪れはまた一つの事件を生み出し、哀れな結末で幕を閉じた。

    それによって、私の好きな相手がフラれ、私のチャンスは拡大した。
    今度は私の出番だ。
    次こそ、智のハートを射止めてみせる。
    私はそのチャンスを待った。

    春の花は咲き乱れ、桜前線が列島を包むように北上した。開花の便りが南から届いた。

    桜が舞い散った。
    歩道を淡いピンク色で塗り重ねる景色は、一年を通じて私の好きな時季の五指に入る。

    四月の町には、ダンスコンテストのチラシが貼られた。
    携帯でコンテストの告知ページを穴のあくほど見た。
    それに向けて練習を重ねた。
    私も出演予定なのだから、当然と言えば当然である。

    コンテストの会場で、前日にリハーサルが行われた。
    ダンスのときに使用する音楽の確認。ステージで踊る順番と時間、場所。受賞したさいに立つ位置。照明の位置。
    そうしたことを、出場者全員が頭に入れた。

    ステージを下りるとき、あれ、と思った。

    「お兄ちゃん、明日、見られるのね」

    「ああ、そうさ。特別に、お父さんが来賓席らいひんせきを用意してくれる」

    あの兄妹だ。声をかけてみた。

    「もしかして、元日に健速神社で初詣に」

    「ええ、行きましたよ」

    兄が快活そうに話す。「それが、なにか」

    「いえ、こっちの話で。二人は、ダンスコンテストの関係者?」

    「関係者の家族です。お父さんの会社は、コンテストのスポンサー」

    「スポンサー、と言うと」

    「あそこに社名が書いてますよ。日本電動工業(株)って」

    「あ、ホントだ」

    「僕らのお父さんは、その会社の社長をしてます」

    「なるほど。どうりで」

    ステージの背景に、日本電動工業など数社が社名を連ねていた。
    私と年の近そうな兄は頭を下げ、妹を連れて向こうへ行った。
    イベントなどにスポンサーがつくのは当たり前だ。
    あまり意識したことはなかった。

    「地元でよく知られてる会社じゃん。社長の息子と娘か」

    正月のふとした引っかかりが溶けて消えた。

    コンテスト前日の晩、無性に興奮気味の私は、自分のダンスのことばかり考えていた。
    あのステップで入り、フットワークはそれを使う。ウインドミルからあれに移行して──考え出すと止まらなかった。
    コンテストには優や修も参加する。
    自分の演技だけでなく、彼らの演技も頭に浮かんだ。

    「ダメだ。興奮して眠れないよ」

    携帯の黒い画面を見つめた。
    自然と手が伸び、読んだことのない小説を開いた。青空文庫の太宰治作品『花火』である。

    昭和のはじめに起こったという体で、奇妙な事件を扱う短編だった。
    粗野な放蕩ほうとう息子の顛末てんまつを大げさに書いている
    どこか、著者の一部であり、虚像なのかもしれない。
    キャラの書き分けはじつに上手だ。
    最後の妹の言葉をどうとるべきか。それは本音であり、読者大半の心情であろう。
    質屋に世話になり、二十前に金策を覚える女。金を得て自堕落に暮らす男。哀れな兄妹だった。
    ダンケという外国語と杯盤狼藉の意味を知った。

    『花火』の結末が糸を引く納豆のように心にまとわりつくうちに、ようやく瞼が垂れ下がった。

    悪夢を見た。ダンスをしていて太い柱にぶつかった。
    柱は硬くて太い木の幹。
    どうして木の近くでブレイキンを踊るのか。
    夢は、あり得ぬ世界に見る者を引きずり込む。

    目が覚め、朝食を食べた。
    立ち上がるとき、テーブルの脚にすねをぶつけた。
    先週の練習で、誤って足から落ちてそこをぶつけていた。その分、よけいに痛かった。
    大倉由理の言葉を思い出した。

    「子どもたちによく言うのよ。足の打ち身やすり傷は勲章だよってね。ぶつけて青タンを作るのは、その子が頑張って練習した証拠よ」

    彼女の言う「勲章」が、右足に十円玉くらいの大きさで残っていた。
    またぶつけ、痛みが倍増した。

    二階に上がり、本番用の派手な服に着替えた。その上から黒のパーカーを羽織った。

    私は車に揺られた。送り迎えの運転手は、いつものように父の義男だ。

    早い時間に会場入りした。
    会場に目をやる。すでに、観客席は埋まり、智に俊、夏菜絵が座っていた。少し離れたところに犬飼さん夫婦もいた。
    言っておいたが、ちゃんと来てくれた。
    うれしいような、困ったような、妙な気分になった。

    控え室の鏡の前で、私は大人に変身した。毛糸の帽子をかぶり、色の濃い口紅を塗った。睫毛まつげをビューラーで上げ、目元を薄い紫色に塗った。昨晩、ユーチューブで見たエレガントな、大人のメイクに仕上げた。

    「よし。バッチリね。セクシーなマイ」

    順番を待つ間、ステージの袖から他のダンサーが踊る姿をチラチラ見た。
    自分のダンスができれば最高なのだけれど、やはり人のダンスも気になる。
    修が出る男子の部は午後からで、女子の部が午前中だった。
    すでに優は踊り終えた。次の次が私の出番だ。

    「終わったよ。マイ、頑張ってね」

    演技を終えた優が、にこやかに微笑む。
    心臓が大きく脈を打つ。大きく深呼吸した。
    胸の高鳴りを押さえ、時が来るのを待った。

    「さあ、次は十六番。円道舞さんです。どうぞ」

    MCの女性が紹介する。
    勢いよくステージに飛び出し、客席の智たちに手を振る。
    すぐに音楽が鳴った。
    ヒップホップの軽快なリズムに、自然と手足が動く。
    ステージの中央でステップを踏み、フットワークで手足を床について回る。
    その流れでウインドミルやフリーズ(動きを止めてポーズを決める技)を見せた。
    その後も技を繰り出したが、熱狂に我を忘れて覚えてなかった。
    ステージを彩る照明が音楽に合わせて切り替わった。

    気づくと音楽がやんだ。
    MCの「十六番の方でした。ありがとうございました」の声にはじかれ、ステージの袖に引っ込んだ。

    「どうだったんだろう。うまく行ったのかしら」

    スポーツドリンクを口にあてがい、喉を潤した。
    踊る前とは違った感情が湧いた。

    ステージの演目がすべて終了したのは、夕方だった。
    私はMCに呼ばれて出て行った。
    三位に入賞した。優は二位で表彰された。

    ステージ終了後、智らと会い、みんなで写真を撮った。

    「少し寒くなかった?」

    「うん、ちょっとね」

    夏菜絵は正直に打ち明けた。

    「よく最後までいたね」

    「そうだな。屋台も出てたし、軽く食べたぜ。そんで、表彰式まで待ったぞ」

    俊が笑う。

    「カナエが言うんだ。『マイのダンスはよかった。きっと、入賞するでしょうよ』ってね」

    智は片目を閉じ、目配せした。
    私の心は喜びに溢れた。
    他のみんなも、マイのダンスは恰好よかったね、と口々にほめてくれた。

    みんなに礼を言い、義男の車に乗り込んだ。
    車に乗っていると、雨が降ってきた。

    「ヤバいよ。お父さん、雨だよ」

    「慌てるな。マイ、折り畳み傘、そこにあるだろ?」

    父は運転しながら、ちらっと横を向いた。

    「あったよ」

    助手席の私は、座席の下に転がっている傘をたぐり寄せた。
    やがて雨は止み、太陽が照った。

    家に着いた。
    車から降りたとき、犬飼さんちが目に入った。
    犬飼さんの庭先で英徳がミルクの背中を撫でていた。
    雨上がりの春の柔らかな夕陽を浴び、白猫は気持ちよさそうに背を丸めていた。

    「お父さん、猫の食べられる野菜ってあるの?」

    「ああ、あるよ。たしか、生のキュウリなら」

    私は家に上がった。
    台所のテーブルに三位の賞状を置き、冷蔵庫からキュウリを取り出した。
    それを小さく刻んだ。
    刻んだキュウリを手に握り、家を出た。

    雨上がりの道を歩く。
    濡れた地面と靴底が、ねちゃねちゃと粘着質の音を奏でる。
    隣の庭に行き、ミルクの前でかがんだ。

    「ミルク、ミルク」

    ミャオ、ミャオ、ミャオ。
    何か、言おうとしている。
    何だよ、ってか。

    「キュウリだよ。キュウリ、食べなよ」

    それには、ミャアオオと鳴いて応えた。
    ミルクが、のっし、のっし、とこちらへ近づいて来る。
    私はかがんだまま、青い野菜を差し出した。

    ミルクは最初、警戒してじっとこちらを凝視した。
    そして、掌のキュウリに鼻を近づけ、おもむろにキュウリの欠片をパクリとくわえ、食べ始めた。
    カリ、カリ、サク、サク。小気味いい音がした。
    少ない量だが、満腹になったのだろう。
    ミルクは目を細め、ミャアと鳴いた。

    平和そのものの食事風景だった。
    ミルクは最後に、キュウリをのせていた掌をぺろりと舐めて歩き去った。
    また、のっし、のっし、と。

    その晩、私はダンスコンテストの様子よりも、ミルクの食事風景をつぶさに語った。
    円道家の一家団欒だんらんは笑いに満ち、賑やかそのものだったのは言うまでもない。

    「ようこそ、東京ドームへ。ありがとう、皆さん」

    「みんな、今夜は盛り上がりましょう!」

    四月には別の楽しみがあった。
    クールヒーローのライブは、かなり前から期待していた。
    ダンスイベントが終わった一週間後、私は夏菜絵と東京ドーム前にいた。
    二人で東京ドームをバックに写真を撮った。この日のために用意した応援グッズを、直前に確認した。

    「よし。これでバッチリね。クールヒーローを応援できるわ」

    出かける前に、念入りにメイクをし、いろいろと用意した。推しグループ名入りのタオルとペンライト、うちわ、チケット。
    何度も確認してカバンに入れ、会場内で慌てないよう気をつけた。
    夏菜絵も私とお揃いのスポーツタオルを東京ドームで購入した。「マイドオオキニ」の文字が書いてあるタオルである。
    彼女には、以前本屋で買った推しの団扇を渡した。夏菜絵は素直に喜んだ。

    夏菜絵の座る席は私からだいぶ離れたけれど、推しを応援する気持ちは同じであり、ライブを存分に楽しめた。

    最初から盛り上がった。
    いきなり、ヒット曲から始まり、観客は沸いた。
    四曲目でバラードになり、五、六曲目はカバー曲。
    MCが入ったあと、何曲目なのか忘れたが、「みんな、一緒に歌って」と推しが頼み、全員でサビを熱唱した。

    愛にあふれた楽しい二時間はあっという間に過ぎた。
    それは、私も含めたファンを、夢の世界へと導いてくれた。

    ライブが終わった。
    少し時間を置いて帰ろうと、携帯で連絡を取り合い、夏菜絵とロビーで合流した。

    「カナエ、ちょっと喫茶店で話そうよ」

    「うん、いいよ」

    二人は水道橋駅近くのムギノ珈琲に入った。

    「どうだった? 初めてのクールヒーローのライブは」

    「すごくよかった。楽しいね」

    「でしょ? こういう世界は若いうちに楽しまなきゃ。また行きたくなった?」

    「うん。今度はファンクラブに入会して、ちゃんと自分でチケットを取るよ」

    「そのときは、私にひと声かけて。私も同日のチケットを押さえるよ」

    「わかったわ。それにつけても、クールヒーローって、恰好いいね」

    「うん。現実にああいう男が近くに現れたら、舞い上がっちゃうね。適当な男が周囲にいなければ、推し活でもいいやと思っちゃう」

    「私、今夜、クールヒーローのHの写真を枕の下に挟んで眠ろうっと」

    「へへへ。いい夢、見なよ」

    私と夏菜絵は、最寄り駅までの車内でずっとクールヒーローのことを喋り合った。
    駅を出て途中まで歩き、別れた。

    ふだんは頭のいい友だちだが、ちゃんと他の子とも歩調を合わせてくれる。
    そうした心のやさしさが、夏菜絵にはあった。
    そこも、私の気に入る一面だった。

    ダンスコンテストの翌日、夏菜絵を除いた三人は、いつものマックでダベっていた。

    「サトシ。カナエにフラれたんだって? 聞いたよ」

    私は何気ない口ぶりで言った。

    「カナエが喋ったのか」

    「うん」

    私は首を縦に振った。

    「カナエのヤツ。口が軽い」

    智は悔しそうに口を歪めた。

    「なにも、井の頭公園でボートに乗って告白しなくてもさ。カナエはダメよ。あきらめな」

    「俺はまだカナエのこと、思ってる」

    「一途いちずだね。でも、未練がましいよ。まだ高三だし、これからなのに」

    私はテーブルに両肘をつき、智の顔を眺めた。
    この人がいつか自分に振り向いてくれる日を、密かに期待した。

    「ところでさ。高三になったし、みんな進路は決まってるよ。サトシはどうするの?」

    私はさりげなく訊いてみた。

    「俺か。俺はまだ迷ってる。料理の専門学校に進むか、会社に就職するかで」

    「早く決めた方がいいぜ、募集の期限があるし、遅くとも五月までには」

    俊は仲間のことを思いやった。

    「そうだな。早い決断がいい。それを承知の上で、他の人の意見も聞きたいんだ。いったん就職して世間を知るべきか。それとも、料理人を目指すべきなのか。大事なことだし、悩ましい」

    「どっちでもいいじゃん。まだ高三だし、そんなに深く悩まなくても」

    「マイはいいよな。小さな頃からダンス一筋。ニューヨークにまで行くなんて、王道だ。恵まれてる」

    俊は私を羨ましがった。少し素直に喜べない自分がいた。

    「シュンはどこを狙ってるの? 就職なんでしょ」

    今度は俊に振ってみた。

    「俺は病院に就職するよ」

    「そうなの? 病院の仕事っていっても、ピンとこないけど。医者じゃないよね?」

    「当たり前だろ。医者はいい大学を出なきゃなれねぇ。この頭で、病気なんて、わかるもんか」

    俊は笑い飛ばした。
    私と智もつられて控えめに笑った。

    「病院で医者以外なら、薬剤師?」

    私は首をかしげた。

    「それもむり。薬の名前、覚えられねぇ」

    「じゃ、いったい、なに?」

    「調べてみたんだ」

    「シュンの『調べた』は、家族に訊いたんだろ?」

    智が指摘する。

    「ま、そうだけど、それも調べのうちさ。介護士になるんだ」

    「へぇ」

    私は合いの手を入れた。

    「老人の入院患者がいて、その世話をする人がいる。その仕事だ」

    「その介護士、具体的に何をするの?」

    「だから、日常のケア。ベッドから起こしたり、風呂場に運んだり。場合によっては、入浴を手伝う。布団を運んだり、敷いたりもする」

    俊の口から出る台詞に、ちょっと面食らった。
    俊でも、まともなことを言えるんだ。
    やればできるじゃん。
    マックで、だてにダベっていない。

    「おっきな病院で、年老いた患者の世話をする仕事か。すげぇな。大人だ」

    智が感心した。

    「すごいね」

    私も智同様、感心した。

    「エヘヘ。そんで、看護師の子と仲良くなるんだ」

    「また、そんな色気を出して。シュンの目的は、最初からそれ一択じゃん?」

    私は彼を指さした。
    俊の目が泳いだ。
    その目つきに彼の本心を疑った。感心した私が愚かなのか。
    でも、信じよう。

    「だってさ。肝炎で入院して、俺は気づいたんだ。ユミちゃんに惚れたからね。生まれ変わっても、この子のそばにいようと思った。ユミちゃんのいるような施設で働きたい。俺の力で働き、助けたい。そう思ったわけよ」

    「出たよ。また、彼女の名が。ユミちゃん、ユミちゃん。口を開けば、ユミちゃん。看護師の若い女の名前ばっかし」

    智もなかば呆れ気味に俊を揶揄やゆした。

    「サトシよ。羨ましいからって、そう妬くな」

    俊は智の方を見て、笑った。

    「妬いてないよ」

    「ユミちゃんは俺の心の支え。一目会ったその日から、恋の花咲くこともある。俺と彼女の間には、長くて丈夫な橋かかる」

    俊の言い回しに、私はプッと吹いた。
    どこかでだれかが言ったような文言。

    「何の橋だ? レインボーブリッジか」

    智は俊に訊ねた。

    「違う。俺の中では、東京ゲートブリッジさ」

    「どうして?」

    智はさらに訊く。

    「だってさ。この前、父ちゃんの車で行って来てさ。陸から見たら、ライトアップで浮かび上がった橋が、やたらときれいだったからね」

    「それ、恐竜橋のことだろ?」

    智は情報を付け加える。

    「ああ、そうだよ。よく知ってるな。たしかに、恐竜が向き合うように見えるからな」

    話が脱線している。

    「とにかく、ユミちゃんとひっついていたいんだろ? このスケベ男が」

    「サトシ。そういうわけさ。俺とユミちゃんはいい関係にある。ラインを交換し、互いに連絡を取り合う仲だ。俺は真剣に彼女と暮らす未来図を描いている」

    「就職の話が、いつの間にやら、シュンの恋愛事情になっちゃってるよ」

    私は笑った。
    みんなはハハハと声を上げた。場は和やかな雰囲気に包まれた。
    ワイワイとくつろいでいたら、私の携帯が着信を知らせた。
    夏菜絵からメールが届いた。

    「カナエからだよ」

    「俺たちは、二人ともカナエにフラれた。女同士で彼女のことを知られていいな」

    智がそんな風に言った。

    「内容、見たいんでしょ?」

    私は口の端を上げ、二人を見た。

    「俺はもういい。ユミちゃん一筋だからな」

    俊は素っ気なく言った。

    「俺は見たいよ。何て書いてある?」

    智は身を乗り出した。
    私は携帯の画面を見つめ、メールを読み上げた。

    【私は受験の勉強中です。マイはどうしてる? シュンとサトシもそこにいる気がするな。三人でマックに。お寿司のバイトは三月から週二日になったよ。木曜日と日曜日。暇なら、スシローに食べに来てね】

    男二人の表情にさして変化はない。

    「受験とバイトの話か。スシローに行けば、カナエの働く姿が見られるのか」

    智が呟いた。

    「仮にそうだとしても、手は出せないでしょ。カナエはああ見えて頑固だし、ただの客、ただの友だちとしか見ないって」

    私は智の下心を見透かして忠告した。

    「でもさ。カナエが、スシローで働いてるから食べに来てって誘ってるんだ。行ったってかまわないだろ?」

    「客として行くならいいよね。店に迷惑かけたらダメだよ」

    私は智のしつこさに閉口した。
    放っておくと、彼はストーカーまがいのことをするかもしれない。
    どうにかして、夏菜絵を忘れ、私を女として意識してくれないものか。

    女としてのプライドがある。
    女の魅力という点で、私と夏菜絵に大きな差があるのは認める。
    夏菜絵は胸が大きくて美人。アニメのヒロインみたい。
    一方の私は、たいして胸もなくて普通の容姿。
    どうせ、私みたいな女──だんだん卑屈になってきた。

    「あ。そろそろ夕方よね。ダンススタジオに行かなきゃ」

    私は慌てて席を立った。
    立つとき、何かの紙が手に触れた。
    パッと見る。
    智だ。
    彼がテーブルの下から私の手に紙を押しつけ、握らせようとしている。
    何食わぬ顔で紙を掌の中に滑らせた。

    何かのメッセージだろう。
    令和の時代でも、アナログ的な方法は健在だ。
    なまじっか形があると、あとで処理に困る。
    それでも、どこか安心するケースは多い。
    その場で言えばすむことでも、あとで二人の世界に浸りたいとか、そういう場合だってある。

    私は丸めた紙をやさしく握った。
    私に宛てたメッセージならば、それを大切にし、彼の考えを尊重したかった。

    紙を持ち、マックを出た。

    自転車に乗り、ダンススタジオに着いた。

    ダンススタジオで体をほぐした。
    基礎的な動きをやり、それぞれの課題とするダンスに取り組んだ。
    インストラクターが回ってきて、私の足りないところを教えた。

    一時間のレッスンを終えた。更衣室で着替え、送迎の車が迎えに来た。
    義男の隣に乗り込んだ。助手席で、智のくれた紙を広げる。

    「何だ。ラブレターか」

    ゴホッとむせた。
    無骨な親の割に、たまに核心をつく。
    またしても、剣道の竹刀で斬り込む父の姿が浮かんだ。

    「青春だな」

    「うるさい。黙って運転してよ」

    私は口を尖らせた。文面に目を落とす。

    【マイ。なんか間違えてたかもな。カナエを追いかけるのはやめにする。ずっと前から、マイも好きだよ】

    その続きはなかった。理由はなくとも、それで充分だ。紙の温もりが心に火を灯した。

    「よかったな」

    父はポツリと言った。

    「なんでわかるの?」

    「親子だからな。伝わるのさ。見なくても」

    私は無言で家まで揺られた。
    頭の中で、ガッツポーズをする自分の姿が浮かんだ。

    コンテストから数日後、ふらりと知人がやって来た。
    瑛斗だった。
    その日、ダンススタジオでいつものようにブレイキンを踊っていた。
    ドアの隙間から視線を感じた。
    振り向くと、瑛斗が立っていた。

    「あら、エイト。来たのね」

    「うん。ダンスを続けて」

    瑛斗の視線を感じながら、私は続きを踊った。
    ふだんはあまりやらないフリーズ技を見せつけるようにやり、ムーブも二種類ほど試した。

    大倉由理がみんなに指導し、助言して回る。
    私も細かな注意を受け、課題を出された。

    瑛斗は口を挟まず隅に座り、レッスン風景を見ていた。
    来ることは知らなかった。
    更衣室で着替えている間、彼は入口で待った。

    ダンススタジオから出た。
    瑛斗と並んで歩いた。
    同い年なのに、弟のような親近感があった。

    近くにあるムギノ珈琲に二人で入った。

    「何か、食べる?」

    「そうだな。俺は、コーラとサンドイッチかな」

    「じゃ、私はケーキと紅茶にするわ」

    二人は注文して向かい合った。

    「今日はどうかしたの?」

    「スタジオ、休みだった」

    「基さんのところが?」

    「うん。基先生、法事だって。身内の不幸。貼り紙がしてあったよ。急なことで代わりも見つからないのか、臨時休業ってわけさ」

    「それで、ウチのダンススタジオに?」

    「ま、そんなとこ」

    しばらく、ダンスや学校のことを話し合った。瑛斗も新高三生であり、進路は決まっているはず。その話をふると、意外な答えが返ってきた。

    「俺、実家を継ぐよ」

    「そう……。そうなんだ。実家って、何してるの」

    「ウチはバイクショップなんだ」

    「そっか。ダンスやスポーツとは縁がないね」

    「ないけど、すぐに継がなくてもいいって、父さんは言うんだ」

    「じゃあ、若いうちだけダンスを続けるのはどう?」

    「わかんねぇ。俺、ギリギリまで決めない性格だから」

    「就職するなら、地元なの?」

    「たぶんね。俺、面接は苦手だ」

    「そうね。高三で、初めて会った大人といきなり接しろって、むちゃぶりよね」

    「学校の先生ともそりが合わねぇのに、面接の人と話せって言われてもな。ダンス以外のことは、なんて話していいのやら」

    「ま、頑張って」

    「話、変わるけどさ。俺、オサムと意気投合したよ。同学年だし、ブレイキンする仲間で、タメ口で喋れる友だちが増えてうれしい」

    瑛斗ははにかんだ。

    「いいじゃん。ダンス仲間で、同学年のライバル。互いを励みにして頑張りなよ」

    「オサムは国内にとどまるけど、俺はいつかアメリカへ行ってみてぇ。そんで、できるならニューヨークがいい」

    「やっぱ、そうだよね。自由の女神」

    「観光もしてみたいし、なんかワクワクする大都会じゃん」

    「私もそう思う」

    「いいな、マイは。ニューヨークっていう目標ができて」

    「へへーん。半年だけど、吸収して帰って来る。私はスポンジになる」

    「スポンジ、か」

    「そう。心も体も軽くして、ニューヨークという水をいっぱい吸い取る」

    「俺もニューヨークでダンスの修行して、プロのダンサーを目指す。それでダメなら、実家でバイクの整備をする」

    「ダンサーと整備士の二刀流でもいいよ」

    「ハハハ。さすがにそうは甘くない。父さんの仕事ぶりからして、バイクの整備はそうとう体力を使うから」

    「そうなんだ」

    「ちょっとごめん。俺、トイレ」

    瑛斗は会話をさえぎり、席を立った。
    十分ほどして、「悪い。俺、帰るわ」と言い残し、代金を置いて先に店を出た。

    「急用なのかな。トイレというのも、言い訳かも」

    夢や将来について少し喋れて、うれしかった。

    春の訪れとともに、ダンススタジオに新しい生徒が加わった。
    活気に満ちた。

    桜が散り、私は由理さんの指導を受けつつも、お姉さんとして注意したり、先輩として教えたりする場面が増えた。
    みんな吸収が早く、あっという間に仲間を見つけ、自然とダンスに馴染んで行く。

    私の春は、音もなく過ぎた。
    景色は、赤や薄紅から緑へとカーテンを取り替えるように変化した。

    学校のダンス部は、六月の地域イベントに参加した。
    詳しく知らない。あいかわらず、私は部活に出てなかった。
    それでも、七月の合宿に来ないか、と誘われた。
    断った。適当な言い訳をして。
    八月に全国大会が、九月には文化祭があった。
    私にとってはどうでもよかった。
    早く一年が過ぎ、来年の四月が来ないか。ダンス留学ばかりを考えた。

    そんな中、夏に明るいニュースがあった。

    「俺、求人に応募したよ」

    智が明るい表情で言う。
    公園には青々とした葉が茂っている。
    木漏れ日のベンチに二人は座っていた。

    「企業の求人?」

    「そうだよ。地元の企業に狙いを絞った」

    「どこ?」

    「内定もらったら、教えるよ」

    二人は学校生活や家族のことを話した。
    それから二か月がたち、智は私に会うなり、ピースサインをした。

    「夏休み明けに応募の書類を出した。昨日、合否が届いた」

    「どうだった?」

    わかっていても、いちおう訊く。

    「合格だよ。企業の内定、もらえた」

    「よかったね。おめでとう。それで、どこの会社?」

    「あ、言ってなかったな。日本電動工業」

    決まった内定先は、私もよく知る会社だ。
    地元のダンスコンテストで、ときどきスポンサーになる会社。
    地元でよく知られたところに決まり、智はうれしそうだ。
    もちろん、友だちである私もうれしかった。

    「何をする会社?」

    「電気設備や産業ロボットの設計と、その部品を作る会社らしい。イメージがわかないけど」

    「ふーん」

    私は智の未来を描いた。
    彼が大人に見えた。
    パソコンで電気の設計図を引く姿と、設計図をタブレットに映して現場で取引先と話す未来を想像した。
    とても男らしく思えた。
    仕事に集中する姿はまじめだろう。男の人がまじめに働く姿はどの職業の人でも恰好よく、凜々しく見えるというが、本当にそんな風に思う。
    私が目指すダンスの仕事とはかけ離れた世界である。

    「サトシの未来は安泰だね」

    「そうかな。そうかもしれないな。でも、実際にどうなるかは、働かないとわからないよ」

    「車の免許はどうするの?」

    「卒業前にとるよ」

    「誕生日は?」

    「十二月だよ。だから、年明けで十八になって教習所に通う。就職前にはとれるだろう。たぶん」

    「免許とったら、私が助手席に乗ってもいいよね?」

    「ああ、いいよ」

    彼の台詞に私はほくそ笑んだ。

    一方、受験組の夏菜絵はクラスで顔を合わせ、よく話をした。
    放課後のマックから彼女の足は遠ざかった。
    その分、学校で話す時間が増えた。

    お昼休みに二人で屋上へ行き、パンや弁当を広げて二人で話し込んだ。
    夏休みに入り、雨の心配がないときは、そうして屋上に来ることが多い。

    今日も屋上に来た。
    期末テストは終わり、夏菜絵たち受験組は、午前と午後に共通テスト対策の夏期講習を取るのを勧められていた。
    私はそれには出ず、部活に出るフリをし、夏菜絵と屋上にいた。

    「カナエ。最近、どうなの?」

    夏空に浮かぶ白い雲は薄く広がり、強い陽射しが私たちの肌を照らす。
    カナエはサンドイッチを頬張り、前を向いていた。
    急にくるりとこちらを向き、返事をした。

    「ようやく志望校を絞り込んでね」

    「どこにしたの?」

    「A大とS大よ」

    「すごいね。去年の夏、オープンキャンパスがあったよ。私、関係ないけど、ついてった」

    「八月のオープンキャンパスね。A大とS大のキャンパスに行ったね。土日連続で」

    「うん。授業とか難しそうだった」

    「模擬授業のことね。入試説明は配付資料に書いてあった通りだった。私個人としては、A大の方を気に入ったわ。広くて緑が多いのと学食がおしゃれな点で」

    「A大かS大に行くの?」

    「うん。たぶんね」

    「だいじょうぶ。カナエの力なら、志望校に行けるよ」

    「ありがとう。今、過去問を解いてるけど、けっこうたいへんでさ。時間が足りないの」

    「私なんて、問題文読んで、すぐあきらめるけどね」

    「私もそうしようかな」

    「ええ? ホントに?」

    「うん。数学の話だけどね。満点はいらないの。合格ラインを、六問中四問とすれば、見てすぐに捨てる二問を選ぶでしょ。制限時間をいっぱい使って、残った四問を完璧に解くの。そうすれば、合格できるわ」

    「うへー。すごい。ハイレベルの世界」

    「予備校の先生もそう言うんだよ」

    「試験って、冬でしょ? 冬の寒さ対策や体調管理とかも大事そう」

    「それよね。つまらないことで人に遅れを取ったら、もう最悪だわ」

    「私、お守り、買ってきてあげようか」

    「ホント? 助かるわ。お金、渡すから、買ってきて」

    彼女は両手を合わせ、ウインクした。

    「まかせてよ。留学するだけの私だから、身軽よ。どこの神社がいい?」

    「リクエストしてもいいの? じゃあ、湯島天神に行って来て。お願い」

    「いいよ。お安いご用」

    私は胸をポンとたたいた。
    秋になってから、東大見物がてら、湯島天神に寄った。
    夏菜絵の合格を祈願し、社務所で学業成就の赤いお守りを買い求めた。
    お守りには、梅の花があしらわれていた。

    その日の夏菜絵はことのほか冗舌だった。
    勉強で黙る時間の多い反動か、女子高生らしくいろいろと喋った。

    「春のライブ、よかったね。私、クールヒーローの東京ドームライブでHの姿を見て、とっても気に入ったわ」

    夏菜絵が顔をほころばせた。

    「とってもよかったよね。ホント、推し活をしていてよかった。ファン冥利に尽きるステージだった。Kは恰好よかった」

    「Kもよかったし、Hもよかったよね。大学入ってもスシローのバイトを続けて、貯めたお金でクールヒーローのライブ、行こうっと」

    「もしかして、クールヒーローもプライベートでスシローにお寿司を食べに来たりして」

    「きゃー、うれしいわ。あるのかな? だとしたら、けっこうドキドキものね」

    「まだ、家にとってある? Hのうちわ」

    「ある、ある。もちろんよ。東京ドームでさんざん振ったし、大切に保管してあるわ」

    「クールヒーローの若いパワーで、受験を乗り切ってね」

    「うん、乗り切るよ。ありがとう、マイ」

    夏菜絵は自分の手を、私の手にそっと重ねた。

    「私は家にいるとき、Kのうちわで体を扇いでるのよ」

    私は秘密を漏らした。

    「えー、そうなのね。毎日、暑いもんね」

    「家に帰ると、毎日、うちわのKに挨拶してさ。パタパタって、エアコンの冷気をKのうちわで体に送るの」

    「ええっ。ちょっと、エッチなこと、考えちゃう」

    夏菜絵は笑った。

    「やっぱり、そう? めっちゃ暑いときにさ。部屋で下着姿の私に、Kのうちわが、パタ、パターって。それはエッチな絵面かも」

    二人は顔を見合わせ、ハハハと屈託なく笑った。

    どこかでセミの鳴き声がする。
    校舎の白い壁に止まったのか。やたらとやかましい。

    「セミ、うるさいね」

    私は言った。

    「私たちを妬いているのかも」

    夏菜絵は面白がって言った。

    「まさかね。でも、夏休みもあと一月。短いね」

    「そうよ。高校最後の夏休みよ」

    「カナエ、何かするの?」

    「別に、何にもしない。学校と予備校に通うだけよ。マイは?」

    「私? そうね。何かしたいな。思い出になるようなこと」

    「じゃあさ。夜、家に来ない? 庭で花火、しようよ」

    「それ、いいね。浴衣着て、線香花火。夏の絵になる」

    「私、もっとすごい花火がしたい。筒に入ってて、ヒュー、パッカーンって鳴るヤツ」

    「打ち上げ花火ね。いろいろあるよね。花火やるとき、誘ってね」

    私は彼女の腕に手を置き、同意を求めた。
    夏菜絵はこちらを見て、ゆっくり頷いた。
    女の友情は尊い、と思った。

    でも、現実は違った。
    その夏も、次の夏も、二年後の夏も、私たちが揃って花火をする機会はなかった。
    残念である。

    長く喋っていると、昼休みは終わった。
    夏菜絵は午後も学校に残って夏期講習を受けると告げた。

    暑くても寒くても、大学生になるまでは勉強ばっか。
    学生の身分である以上、しかたのない宿命であっても、可哀想だなと親友を思いやった。

    元来、何の用事もなく学校に来た者にとって、ダンススタジオのレッスンが始まる夕方まで、何もすることがない。
    勝手にトレーニングルームに行って筋トレしてもいいが、鍵もないし、許可してくれないのがおちである。
    校庭はギラギラした太陽が照りつけ、危険だ。プールでバシャバシャと水をかき、遊びたかった。水着もないけれど。

    受験組と就職組に明確な線が引かれている現実は重い。
    何年かすれば、大人になってみんな働く。
    働けば、どちらも同じ立場になるのに。
    心の中に小さなわだかまりが残った。

    しかたなく、図書室に行った。
    涼しくて、生徒を受け入れてくれる場所として、重宝している。

    借りる本を決めず、読みたくなるような本を探した。
    ここにも勉強する生徒がちらほらいて、みんな熱心なんだなと感心する。
    私の脳の中にそういう遺伝子や細胞は少なく、もっぱら運動系専門であるのが恥ずかしくなってくる。

    ふと、目がとまった。
    それは、文学の本でも、「◯◯学」の小難しい本でもない。
    西洋の写真集だった。
    高校の図書室に現代写真家の本が置かれているのに驚いた。
    ひとつの発見だった。

    「まぁ、写真部が銀空高校にある以上、こういう、文字の少ない読み物もアリなのかな」

    パラパラとページをめくった。
    解説文は読めない。小さな英語の文字で書かれてあった。
    それは動物写真だ。
    動物と思ったが、最初から最後まで、鳥の写真である。
    野鳥を撮影した写真の数々。羽を休めた鳥。水面から飛び立ち、水しぶきをあげる鳥。日本では見かけない鳥。ペンギンは知っている。フラミンゴやクジャクもいる。
    きれいな色の鳥。緑色した鳥。その緑の鳥は、大晦日の歌手のような恰好の鳥だった。その鳥が羽を広げた写真もあった。紅白歌手以上の見事さに、目を見開いた。

    「へぇ。きれいだわ。すごいね、この鳥」

    写真集を閉じても、その緑の鳥が残像として瞼に映った。

    「あの鳥の羽のイメージ。そのイメージで衣装を作ったら、案外面白いかもしれないわ」

    私は半分乗り気だった。
    図書カードを取り出し、その写真集を借りた。

    夏の夜、入浴後にエアコンをつけ、ベッドの上で涼んだ。
    借りた写真集を取り出した。
    鳥の写真を携帯で写し、どこかで人に見せたいなと思っているうちに、気づいたら灯りをつけたままベッドで眠っていた。

    木の葉が色づき、落葉した。
    道に落ちた葉は木枯らしに吹かれ、いつしか消えた。

    私は、冬に開かれるダンスコンテストを目指し、練習に明け暮れた。
    どんな相手にも勝てるよう、得意のウインドミルからのコンビネーションに磨きをかけた。
    それはもちろんのこととして、得意技にしていないヘッドスピンに意識を集中して取り組んだ。
    頭できれいに高速回転するために、足先から頭のてっぺんまでの軸がまっすぐでブレないように気をつけた。
    以前なら、数秒で回転が止まってしまい、物足りなさがあった。技の見栄えも劣っていた。

    ヘッドスピンを基礎からやり直した。
    最初は足を広げずに、体のひねりを使って頭で回転する。次に、上に伸びた足を広げての回転に移る。最後に足を折り畳んで回転する。

    今回から、ヘッドスピンのさまざまな派生形を意識して練習した。私の演技にそれらを組み入れて、複合的に見せるように工夫した。

    「これで、相手が先にヘッドスピンを仕掛けてきたら、同じヘッドスピンで返せるわ。逆に、自分から始めるのなら、私がヘッドスピンをかまして行けるよね」

    由理さんの前でそう語り、彼女のコメントを待った。

    「それはいい作戦ね。マイのダンスに抽斗が増えるのはいいことよ。踊るときに自信を持って挑むと、もっといい演技ができるわ。ひいては、いい結果につながるのよ」

    由理さんは太鼓判を押した。
    私はスタジオの生徒とヘッドスピンを競い、回転数と回転時間の二つで争った。回転数こそ中学生の子に負けたが、回転している時間は〇・五秒ほど長く、勝ることができた。そこは、年長者の貫禄と言えよう。

    十二月まで、得意のウインドミルはもちろん、秘密兵器のヘッドスピンも充分に時間をかけて練習し、ものにした。
    意識してヘッドスピンに力を入れた理由の一つに、優の存在がある。
    私のウインドミルに対抗し、優はヘッドスピンで攻めてくる。
    ならば、同じヘッドスピンを見せつけて相手を脅かせないか。
    同レベルの力を持つライバルの優を意識して、ヘッドスピンを練習した。彼女の繰り出す技はさんざん研究した。

    十二月の大会はコンテストであり、審査員の点数で優劣が決まる。
    順番にもよるが、私が先にヘッドスピンを見せてからウィンドミルに移行したら、高得点が出て優にプレッシャーを与えるかもしれない。
    優の得意技をあえて私がやることで、彼女になんらかの精神的な揺さぶりをかけることもできるだろう。

    とにかく、どうにかして、優よりも上位に行きたかった。
    ユーチューブの動画を何回も再生してコツをつかみ、ダンススタジオや自宅のカーポートで、一生懸命に練習を重ねた。

    待ちに待った、十二月のコンテストの日が来た。
    いつもの心理状態のつもりでいたが、父の車に乗ると、緊張は隠せなかった。喉が渇き、ペットボトルのお茶を何度も口にした。
    何とか優に勝ちたい。その気持ちは強かった。

    ダンサー全員による予選が行われ、決勝には八名が進む。
    かかった音楽とシンクロし、自分の持てる力を充分に出し、ブレイキンを表現した。
    予選ラウンドを勝ち進み、上位八人による決勝ラウンドとなった。
    決勝も予選と同様に、八人の演技に共通した音楽をかけ、一人ずつ順にダンスを披露する。
    そして、ジャッジの点数によって順位が決まる方式である。

    私は六番目に踊り、ヘッドスピンからのウインドミルを決めた。
    かなりの高得点を期待した。ミスはなかった。
    八番目に優が登場し、彼女の代名詞である多彩なヘッドスピンで会場を沸かせた。

    十分間の審査が行われ、得点が読み上げられた。
    私は二位の九十五点。優が九十八点で、彼女が優勝を飾った。
    優を上回るためには、あと四点以上の得点がいる。ほぼ満点の演技が必要だったのだ。

    正直なところ、かなり悔しかった。
    あれほど対策を練って練習したにもかかわらず、あと一歩及ばなかった。
    心が打ちのめされた。

    優は、これまで私に立ちはだかる壁となった。
    なんとか上回りたいのに、どうしても勝てない存在。
    今回もそれを覆せなかった。
    私は準優勝という結果に甘んじることなく、いつか優を越えてみたい、一位の座をつかみたい、と深く心に刻んだ。

    その翌日だった。
    夜のニュースで、優が画面に大きく映し出された。
    彼女は私より一つ年上の十九歳である。
    高校を卒業しており、この優勝をきっかけにプロデビューを果たした。
    それから、連日のように民放で取り上げられ、優は一躍時の人としてメディアに出まくった。

    羨ましくないといえばウソになる。私も彼女に次ぐ成績であり、同じくらいのブレイキンの実績がありながら、一位になれないというだけで、メディアが取材に来ることはなかった。
    残酷な現実を見せつけられ、涙が頬を伝った。

    ダンススタジオの由理さんに私の胸の内を話した。
    由理さんは、こう言って私の肩をやさしく抱いた。

    「マイ。マイは、やれるだけのことをやったのよ。堂々と胸を張りなさい。がっかりしなくていい。しっかり前を向いて、次の課題に取り組むことね」

    「次の課題に取り組む」

    私はオウム返しをした。

    「そうよ。取り組むしかないでしょ。メディアに出ることやコンテストの優勝以上に大切な夢、あったでしょ? あるんじゃなかったの?」

    「そうだわ。AMIさんみたいに、オリンピックや世界大会に出て金メダルをとること。プロデビューすること。それと、マイク・ガブリエルと競って同じステージで踊ること。その三つが私の夢」

    「そう。その夢、忘れちゃ、ダメよ。自分で決めたのだから」

    「わかりました。私、頑張ります」

    クリスマスが来て、心は浮かれた。
    それでも、準優勝に終わり、優を上回れなかった現実が心を締めつけた。

    「まだまだよ。ヘッドスピンの完成度が足りないんだわ。今以上に練習して、ヘッドスピンからウインドミルへつなげ、私の持てる力をもっともっと引き出そう」

    クリスマスのケーキを食べた翌日から、さっそく自宅のカーポートにマットを敷き、ワイヤレスイヤホンで音楽を聴きながら、ダンス練習の虫になった。
    父も、私の動画を撮ってくれたり、物足りないところに対して意見を出してくれたりした。

    年末年始には、近くのジムへ出かけた。
    義男がそこの会員になっていて、ときどき利用していた。
    学割がきいた。利用料はかからない。
    一日おきに通った。

    お洒落な音楽の流れる中、筋肉自慢の大人やスポーツをやっている若者に混じり、体幹トレーニングから入った。
    体幹が終わると、ウォーミングアップをしっかりとやり、マシンのエリアに移動した。

    足で重りを押すマシン。腹ばいに寝て足首で重りを巻き上げるマシン。肩の上にあるバーを後ろに引いて背筋を鍛えるマシン。いろいろ試した。
    残った時間でエアロバイク。軽めのメニューを終え、六十分が過ぎた。
    ジム通いを継続することで、休みのあいだに体がなまらないように、いい状態をキープした。
    おかげで太ることなく、身の締まった体つきでダンスに取り組めた。

    年齢やダンス歴から考えて、もうコンテストに出るのは先だってのヤツで終わりにする決断をした。
    複数人を同じ線上に並べる点数評価よりも、一対一でトーナメントを勝ち抜くバトル形式に思いは傾いていた。
    これまで、コンテストとダンスバトルの両方に出場したけれど、これからは一対一か三対三のダンスバトルのみに出ようと決心した。
    正直、コンテストに出て九十九点をとれる自信はない。

    十六歳以上の女子でブレイキンを続けているのは、私と優くらいだ。
    その優が優勝してプロデビューし、脚光を浴びている。
    もはや、牛野優をライバルと呼ぶのはおこがましい。
    彼女がコンテストやバトル、オリンピックに出るとして、よほどの賞金が出るか有名な大会でないと、出て来ないだろう。
    そうでないと、プロダンサーとして出場する価値も意味もない。

    私にとっての励みであり、壁であり、ライバルでもあった仲間の優。彼女にプロダンサーの道を先行され、私は苦しい立場に追い込まれた。

    正月になり、一人で初詣に行った。
    去年とは全然違った。
    夏菜絵は勉強で疲れていたらしく、二日に行くわと弱々しく言った。
    それに影響を受けたわけではなかろうが、私が誘ったのに、智は「一人で別の場所へ行く」と私の申し出を断った。
    俊ははじめからあてにしておらず、仲よく看護師と別の日に別の神社に行った。

    たった一人の初詣の帰り、犬飼さんちを見た。
    ミルクが幸せそうに、エアコンの室外機のそばで暖をとっていた。

    「ミルク。おいで」

    私はかがんでミルクを呼び寄せた。
    ミルクは喉を鳴らして近寄って来た。
    私は手で抱き上げ、白い毛で覆われたミルクの顔に頬ずりした。

    「ミルク、ミルク」

    ミャアーン。
    ミルクは抱かれながら、やさしい声で鳴いた。
    私の気持ちを受け止めてくれたのだ、と勝手に想像してうれしくなった。

    「ミルク。ひとりぼっちの私を慰めてくれてありがとう」

    頬ずりしたまま、その小さな体を抱き締めた。
    猫の温かい体が私の熱の一部となり、私の体熱が猫の体にいくらかの熱を与えた。
    ミルクは体を伸ばして、私の手から逃れようとした。
    ミルクを地面に置いてやった。
    ミャア、ミャア、ミャア。ミルクが三度鳴き、背を向けて犬飼さんちの車のボンネットにぴょんと飛び乗った。
    そこで体を丸めた。その車上がミルクの安息の場所らしい。
    ミルクと別れを告げ、家に入った。

    「おお、姉貴。初詣に行ったのか」

    弟の英徳が居間から顔を見せた。

    「そうよ。去年も一月一日に行ったしね。せっかくの大吉の年だったのに、優勝を飾れなくて残念だったわ」

    「そうか」

    「そうよ。今年こそいい一年になるよう、祈ったわよ」

    「それはそうと、おみくじ、引いたのか」

    「引いてないよ」

    「俺はさっき行って来て、引いたよ。中吉だったぜ」

    「そう。よかったね」

    「今年は高校受験の一年だし、頑張るぞ」

    「どこに行っても頑張りなさい。勉強はたいへんよ」

    「俺は心配してないよ。姉貴より、おつむはいいからね」

    英徳は頭を指でさし、威張った。
    その態度に少しむかついた。

    「せいぜい、テストでいい点、取りなさい」

    「姉貴、今年はニューヨークに行くんだろ?」

    「そうよ。それが、どうかしたの?」

    「ニューヨークの写真を撮ったら、俺に見せてくれよ」

    「いいよ」

    「それと」

    「まだ、何かあるの?」

    図々しい弟に、私の口調もぞんざいになった。

    「それと、俺へのお土産は、ニューヨーク限定モデルのナイキの靴にしてくれ。あとで、携帯の写真を見せるよ。サイズは26・0だからな」

    「はい、はい。横柄なこと。私はしがない、靴の運び屋ってわけね」

    面倒な注文だ。
    でも、弟のお土産に悩まずにすんだ。
    両親のお土産は、何を買って帰っても、文句は出なさそうだった。

    憧れのニューヨーク行きは三か月後に迫っている。
    おみくじを引いて凶でも出たら、とビビって引かなかった。

    三月に卒業し、その翌日くらいにスノボ旅行に行くのは、すでに仲間と約束し、決めていた。

    年明けに学生ビザを申請する予定である。手違いがあると嫌だから、一月あたりにもらうのがいちばん適当か、と考えた。
    出発日はすでに四月某日に決めていた。パスポートは先月取得ずみである。語学留学になるため、すでに選んだ語学学校に半年分の学費を前納し、入学許可証を取得していた。

    「ビザを取れたら、あとは航空券を取る段取りだね」

    本を見て、なんども確認した。
    初の海外旅行であるアメリカ行きを数か月後に控え、年明けからソワソワした。

    夏菜絵は受験である。共通テストのことで頭がいっぱいの様子だった。
    イスに座っていれば参考書を開き、立っているときは携帯の動画を見つめて何やらブツブツと唱えていた。
    たえず、その目は文字や表やグラフの情報を拾い、頷いたり、小首をかしげたりしていた。
    真剣なので、私も遠慮した。

    三月になり、やっと話らしい話ができた。
    スノボ帰りのバス内で話しかけた。

    「カナエ、ご苦労さま。疲れたでしょ?」

    「入試のこと? 疲れ果てたわ」

    「実力、出し切った?」

    「もちろんよ。あとは幸運を祈るのみね」

    「いい結果が届くよ。きっと」

    私は彼女の横顔を見て、そう言った。

    「A大とS大を受けたんだっけ?」

    「そう、その二つよ。どちらも法学部。国立と私立」

    「合格発表は?」

    「S大が二月にあったわ。そっちは合格よ」

    「よかったじゃん」

    「うん。浪人しなくてすむ。でも、本命の合格発表がまだなのよね。三月十日よ」

    「じゃ、もうすぐだね。A大に受かったら、そちらに行くの?」

    「もちろんよ。そうするわ。A大が本命だからね」

    「ドキドキしてる?」

    「そうでもないわ。試験のできには満足してる。きっと合格するだろうなと予想してる」

    「さすがだね。でも、カナエは頑張ったもん。卒業式も終わってスノボも楽しんだけど、遊び足りない。また、遊びに行こうよ」

    「そうだね。ディズニーでも行こうか」

    「うん。それがいいよね」

    「春は楽しみが多いね」

    実際、どうなったか──それは、予想を裏切らなかった。
    スノボ旅行後、夏菜絵はA大に合格した。
    俊と智を誘い、合格祝いもかねて、ディズニーランドの園内で一日遊んだ。

    卒業式の朝は穏やかに晴れた。
    家のカレンダーを見る。三月一日、月曜日。
    晴れても、今日は歩くことに決めていた。

    家を出た。
    雲の隙間から春のうららかな陽光が地上に降り注ぎ、風景を明るくしていた。
    いつもと違う一日を意識し、何だか落ち着かなくなってきた。

    高校に着いた。
    通い慣れた銀空高校とも、この日でおさらばである。

    体育館が式典の会場だった。後ろに父兄らが座った。高三の生徒が入場し、胸元につけた花飾りが誇らしげに揺れる。卒業生は着席し、前を向く。

    校長の式辞のあと、国歌や校歌を斉唱し、涙を流す人もいた。
    私ももらい泣きしそうだった。どうにかこらえた。
    夏菜絵と違う道を歩む別離よりも、同じ場所で三年間学べた日々をありがたく思った。
    もちろん、それを支えてくれた家族にも、感謝の気持ちを持っていた。

    式典が終わるとクラスに戻った。
    最後のホームルームで、担任の鷺沼先生から個別に卒業証書を受け取った。

    前の黒板には、「祝、卒業」の大きな文字がチョークで書いてある。
    証書を受け取る番が来た。卒業証書を受け取り、みんなの方を向いて挨拶した。

    「高校生活を無事に送れたのは、みんなのおかげです。どうもありがとう」

    そこで涙が出そうなのをこらえ、続きを喋った。

    「ダンスが好きで、この先もダンスをすることで人と関わりたいです。苦しいときも、友だちや仲間の笑顔に励まされました。社会に出たら、銀空高校の卒業生として、ダンスで貢献したいです。みんな、さようなら。そして、いつか会えるとき、また会いましょう」

    私の方を向いて涙する人の顔を何人も見た。夏菜絵も泣いていた。
    それを目にした途端、目から鼻にかけて、熱い涙が滑り落ちた。
    これがほんとうの意味で、巣立ってゆく別れなのだ、と天井を仰いだ。

    卒業証書を全員に渡し終わると、鷺沼先生はいつになくまじめな顔で、こんな風に訓辞を垂れた。

    「三年D組のみんな。卒業、おめでとう。全員が無事に卒業できて、私はうれしいです。この三年間、楽しいとき、辛いとき、悲しいときやうれしいとき。いろいろあった。私は時に励まし、時に厳しく叱り、時に見守りながら、ずっと教壇に立ってきた。
    みんなは、私の財産です。たくさんの宝です。それを抱え、私はそれぞれの宝一つひとつに語りかけます。頑張れよ。くじけるなよ。楽しいときを仲間と共有しろよ。辛いときでも、仲間を思い出せ。仲間に話して助けてもらえ。
    今日で、私と会う機会はしばらくないかもしれません。でも、卒業して社会の壁にあたり、苦しみ、悩んだならば、そのときはいつでも私のところへ来なさい。私も先生としてではなく、一人の大人として、とことん話を聞きます。抱えた思いに付き合いますから。
    最後に言わせてください。あっぱれ、三年D組。あっぱれ、銀空高校」

    担任の言葉を今も覚えている。生徒から拍手が起きた。ホームルームはみんなの拍手で幕を閉じた。
    担任も含め、生徒らで記念写真を撮った。

    教室を出た。
    校門に来た。夏菜絵がそばにいた。隣のクラスの俊が遅れて来た。
    三人揃って、校門の前で記念写真を撮った。

    卒業の日は自転車を使わず、時間をかけて歩いた。
    三人で、名残を惜しむように帰りの道を踏みしめた。

    「とうとう最後だね」

    私はしみじみと言った。

    「そうよ。もう、制服を着なくてもいい。学校に通わなくてもいい」

    夏菜絵はどこか寂しそうだった。

    「担任の鷺沼先生、いいこと、言ったよね。『悩んだときは、私のところに来なさい。抱えた思いに付き合います』って」

    私はしみじみと言った。

    「うん。担任にしては、よかったね。大人だよ、大人。私たちが卒業しても一人前の大人として扱ってくれるのよ。心強いわ」

    「じゃあ、ここで。バイバイ」

    夏菜絵と俊の二人とは、四つ角で別れた。
    家まで歩いた。この景色も、半年は見られなくなる。
    そう思うと、赤い花や隣の白猫がやけに愛おしかった。

    四月にアメリカへ旅立つ。その準備はほぼ整っていた。パスポートもビザも持っている。
    その前に、遊び倒すのだ。

    自宅に着いた。
    自室でスノボの準備をした。
    現地で一式を借りられる。帽子とゴーグル、グローブだけをメルカリで購入しておいた。それらをカバンに詰め、あとは着替えを入れておくだけで終わった。

    あっという間に翌日となり、二泊三日の楽しい旅が始まった。
    東京から早朝出発のバスは、私たちを乗せて信州のスキー場まで連れて行った。

    お昼にスキー場に着いた。
    昨日、卒業式やホームルームで泣いたのをけろっと忘れていた。
    私と夏菜絵、俊、智の四人は、銀世界で白銀の虜になった。

    「うわぁ。きれい。まっ白だね」

    私は子どものようにはしゃいだ。
    一日目からスノボを履いて、ゲレンデに出た。
    雪原はところどころ太陽を受けてまばゆく輝き、白一色の周囲が私を魅了した。

    一日目は転びまくった。
    二日目でやっと立ち、少し滑れた。
    夏菜絵も派手にこけていた。でも、彼女は違った。三日目の彼女は、ボードに体が乗り、上手にコントロールできていた。羨ましい。

    私はターンまで行かず、斜めに滑っては止まるだけで精いっぱい。三日目にスキースクールに入り、最初からやり直した。

    俊と智は自己流で、滑ったり、転んだりの繰り返し。それでも、スノボと冬山の醍醐味や雰囲気を満喫できた。

    夜になると、カードゲームなどに興じ、楽しい夜は更けていった。

    二日目の夜、私は相部屋の夏菜絵と布団にくるまり、話し込んだ。

    「カナエ、スノボ、上手だね」

    「上手とは言えないけどね。体をボードより前に出すのは、恐くないよ」

    「すごいよ。それがすごい。やっぱ、運動神経のよさかな。私、こけまくってる」

    「ねぇ、ねぇ、マイ」

    「何よ?」

    「私の知り合いが、クールヒーローの人と付き合ってるよ」

    「ええ! 初耳。アイドルが一般人と?」

    「そんな大きな声、出さないでよ。驚きすぎよ」

    「ごめん、ごめん。でもさ。それが事実なら、幻滅だわ。私たちの推しが」

    「けっこう、遊んでるらしいよ。クールヒーローのメンバーは」

    「そうなのか。それが現実かもね。でも、もうしばらく推しでいたい」

    その後も、いろいろと真偽の定かでない噂を語り合い、女子トークが炸裂した。話は深夜の日付をまたいで、延々とつづいた。

    三日目の朝に口からタラリと垂れたよだれが、夢の中で妙な考えがもつれたのを物語っていた。
    無性に眠かった。

    三日目の夕方にバス乗り場に行くと、スキーバスがとまっていた。またバスに揺られた。東京に着く頃には、春の夜のけだるい暖かさで眠気を催した。

    スノボの銀世界から都会に戻り、暖かい日が多くなった。
    都内のあちこちで花の便りが聞かれ、ダンススタジオの窓から桜のつぼみがふくらむのを眺めた。

       @

    四月になり、私はアメリカへ出発した。
    智や夏菜絵に連絡すると後ろ髪をひかれそうで、一人で空港まで行った。
    昼前に日本を出発し、日付が変わった昼にニューヨークに到着した。

    地理や英語にすごく不安があった。
    携帯に頼り、地図や翻訳アプリを駆使して、どうにか学生寮に辿り着いた。
    古びた外壁の十階建ての建物だった。
    階段を上がり、寮の門扉を開けて中に入った。
    女の人が受付に座っていた。

    「こんにちは。私は四月から世話になる、寮生の円道です」と告げた。

    その台詞は事前に調べ、握り締めたメモに書いてあった。

    「あなたは八〇七よ」

    女はこちらを値踏みするようにジロジロと眺め、部屋の鍵をポーンとこちらに放った。
    古びたエレベーターに乗り、八〇七のドアの前まで来た。
    部屋に入り、腰高窓を開けた。

    「ニューヨークの空気か。これからこの空気を半年間、吸うんだわ」

    窓から町並みを見渡した。
    通りを挟んで、向かい側の建物も高いビルである。

    あらかじめ、ダンススタジオは目星をつけていた。
    明日から通う語学学校の名前を覚え、何度か声に出してみた。
    たとえ通じなくても、それを口にすれば何とかなるだろう。

    ダンススタジオを押さえるため、旅行ガイドを出した。そこに記された番号に電話した。

    「ダンスのレッスンを受けたいのですが」

    「シングルクラスでいい?」

    「それでいいです。何曜日ですか」

    「知らないの? 火曜と金曜よ」

    どうにか私の英語が通じた。名前と年齢を伝えてブレイキンの予約を入れた。

    本来なら、ウェブサイトでスケジュール表を確かめてから電話すべきだろうとは思った。英語が難しくて調べるのを断念した。
    電話口の女はぞんざいな口調でレッスン受講を承諾し、電話を切った。
    その日は、旅の疲れをとるので精いっぱいだった。

    ニューヨーク二日目、たいしたトラブルもなく、語学のレッスンを受けた。
    明日からダンスのレッスンも始まる。
    英語云々ではなく、インストラクターの手本をよく見ようと決めた。

    ダンス初日から、そのスタジオのブレイキンのレベルがわかった。
    私より下手な生徒が多く、私はほめられた。

    一か月が過ぎ、得るものがなかった。
    見限って、別のレッスンに変更した。
    ブレイキンを深く極めるよりも、他のジャンルのダンスを学び、ブレイキンに採り入れることでダンスの幅を広げようとの狙いだった。

    インストラクターにそんな風に相談すると、彼はにこやかな顔でこう言った。

    「マイ。それは正しい道だね。俺も、同じ立場ならば、マイと一緒のことをするよ」

    かくして、私はモダンダンスとサルサのレッスンを受けるため、別のダンススタジオに通い出した。
    二つとも初心者であり、数か月は習った。
    ダンスのメッカニューヨークだけあって、雑多な人たちが一流のインストラクターのもとでダンスを学べる。
    その最高の環境を選択した判断は、間違いではなかった。

    私の場合、語学の方がたいへんだった。
    わからないことだらけで、最初は戸惑いしかなかった。
    一か月が過ぎ、ようやくいくつかの単語が聞き取れる程度にはなった。
    日本で耳にした発音とはかなり違う。
    ちょっとした発音やイントネーションの違いだけで、何度も相手に変な顔をされた。
    身振りをまじえ、伝えたり、聞いたりの会話に四苦八苦した。

    テレビは見た。大半は意味がわからない。スポーツ、とりわけダンスなど、見てすぐわかるものを選り好みした。テレビでは、マイク・ガブリエルが華麗なブレイキンを踊っていて、夢のようだった。

    彼に会いたい。会って話をしたい。その気持ちは募った。
    ブレイキン界を引っ張る、若手のスター。
    彼がニューヨーク在住なのは、承知している。
    どうにか彼と会い、何かしらのアドバイスをもらえることを期待した。

    会いたい、会いたいと毎晩祈っていた。
    ついに、その願いがかなえられる日が来た。

    偶然にも、休日の町中で彼の踊りを目にした。
    何かの屋外イベントで、マイクが観衆を前にしてブレイキンを披露していた。

    私は観衆を押しのけて前に行き、かぶりつきでダンスに見入った。
    ダンスが終わり、MCのインタビュー中、彼がチラリと私の方を見た気がした。
    思わず、手を振った。

    ブレイキンのコーナーが終わり、彼が袖にはけた。
    図々しいのは承知の上で、控え室を訪ねた。

    「マイク。私はマイ。あなたのファンです」

    「初めまして。うれしいね」

    マイクは握手してくれた。

    「踊りを見て」

    マイクの前で、前置きもなしに、いきなりステップとチェアーを見せた。
    マイクは首を振り、手をたたいて拍子を取ってくれた。
    私はウインドミルからのフリーズを見せた。

    「なかなかいいじゃないか、マイ。体全体を使え。それを意識するとさらによくなる」

    マイクはシンプルなアドバイスをくれた。

    「もう、そのへんにしてくれ」

    マイクのマネージャーが制した。手を振り、控え室から摘まみ出された。

    たった十五秒あまりの短い面会だったが、とても感動した。
    そのアドバイスを心に刻んだ。
    気持ちは舞い上がり、マイクのダンスを間近で見られてとても満足した。

    「マイクのダンスはとてもいい。自分のダンスとは天地の差がある」

    現実に直面し、持っているものの違いを痛感させられた。

    一か月はおとなしく、語学学校とダンススタジオ、学生寮を往復した。
    だんだん慣れてくると、周囲に目が行く。
    ニューヨークでは未成年の飲酒や夜の施設への入場は制限されている。
    それでも、抜け道はあった。

    未成年でも入れる、唯一のダンスクラブを見つけた。
    週末の夜、そこに入店してみた。

    年齢を訊かれ、答えた。
    若く見えたらしく身分証の提示を求められ、パスポートを見せた。

    店の中に入る。
    周囲には、喫煙したり、酒を飲んだりする若者がいた。
    何も知らないフリをし、お酒を飲もうとした。
    相手が年齢を訊くので正直に言うと、断られた。

    「お嬢ちゃん。この国じゃ、二十一にならないと酒を飲めない。タバコも吸えないんだよ」

    「堅いこと言うわね」

    「法律で決まってるからね。捕まりたくはない。従ってくれ」

    相手は肩をすくめた。
    私はすねた。
    もっとも、酒を飲みに来たわけではない。
    十八なのはしょうがない。
    踊りたかったから来たのだ。

    音楽に合わせてブレイキンのステップを踏んだ。
    フットワークを始めたとき、靴に違和感を覚えた。
    そこへ、一人の黒人が声をかけてきた。

    「ベイビー。靴紐がほどけてるぜ」

    「そのようね」

    私はフットワークを中断した。
    そのまま踊ると靴が脱げそうだった。
    紐を結ぼうとして、先にかがんだ彼が結んでくれた。

    「優しいのね」

    「レディーに優しくなけりゃ、男じゃないよ」

    彼はキザな台詞で笑った。

    「こんばんは。今宵はこのクラブに踊りに来たのか」

    「もちろんよ。私、こう見えて、ブレイキンが得意なのよ」

    「ほう、面白い。友だちになろう。じつは俺もブレイキン、大好きなんだ」

    「そう。じゃ、踊ろうか? 一緒に」

    相手の男はパトリック・ポーターと名乗った。
    私も名前を告げた。

    「パトリックのダンス歴は?」

    「俺のことか。俺はこの町で十年以上踊ってるよ」

    「年はいくつ?」

    「二十一だ」

    「そう。私は十八よ。三つの頃からダンスを習い、踊ってきたのよ」

    「それはベテランだ。期待できるな」

    二人は同時に踊った。
    まるで、ブレイキンで会話するかのように、ダンスフロアの一郭を占有した。
    周囲の客も私たちに注目した。
    夜のクラブで踊れて興奮気味だった。
    大音量のラップが耳から入り、音に反応して体がしなやかに動いた。

    「いいね。そのウインドミルは」

    「ありがとう。パトリックの力強いヘッドスピンからのフリーズ。最高じゃん」

    踊りを中途で終わらせ、飲み物で喉を湿らせた。
    会話をかわすうちに、パトリックと打ち解けた。

    「マイも、人前でブレイキンを見せたいだろ?」

    「そうね。せっかく日本からやって来たもの」

    「来月、ダンスのイベントがある。一緒に出ないか」

    「いいの? 喜んで出るわ」

    「よし。じゃあ、決まりだな」

    お酒を飲める年齢に達した彼は、ビールのグラスを私のグラスにこちんとぶつけた。私はジンジャエールだった。
    早く大人になりたいとは思わないが、アルコールを堂々と飲めるようにはなりたかった。

    その場に居合わせた彼の友人とも喋り、来月のダンスイベントを見に来てくれと宣伝しておいた。

    別れ際に、パトリックは言った。

    「マイ。俺はマイの友だちだ」

    そう言ったのは聞き間違いではない。彼は、マイフレンドと言った。
    名前が舞だけに、英語にするとややこしい。
    ダンスクラブでの楽しい一夜は、ニューヨークに来て感じた幸せの一コマとなった。

    イベントに出場した日、行く前と行ったあとでは気持ちが大きく変化した。

    イベントにはたくさんの精鋭がつどっていた。
    男のダンサーが多かった。
    みんな輝いていた。それで臆した。
    ビビって失敗したわけではない。そのときできるベストは尽くした。

    それなのに、人のダンスは上手に見えた。
    華やかなパフォーマンスの連続で、自分のダンスが見劣りした。
    レベルの違いを思い知らされた。
    首を折り、項垂れた。はっきりいって落胆した。

    パトリックが心配そうに近寄って来た。
    その手をはねのけ、会場を飛び出した。
    通りを疾走した。
    だれにも会いたくない。
    景色がぼやけた。走って、走って、寮のエレベーターに駆け込んだ。ドアが閉まると、壁を手でたたいた。

    自分の部屋に入ると無性に悲しくなった。
    靴を履いたままでベッドにダイブした。
    枕に顔を埋めた。
    目をつむると、小さな栄光は真っ黒の失望に暗転した。
    目にたまっていた涙が頬を伝い、枕を濡らした。
    枕に顔をつけていると、妙に顔が冷えた。

    顔を上げた。
    窓から夕陽が見えた。とてもきれいで、思わず携帯で写真を撮った。
    夕陽は摩天楼を赤く染め、沈んだ心を明るく照らした。
    思い出深い写真を携帯フォルダに保存した。

    少し優越感を得て、機嫌が直った。
    冷蔵庫のサイダーを飲み、テレビをつけた。
    映画をやっていて、何の気なしに眺めた。
    携帯を見た。
    だれからの連絡もなく、寂しさを感じた。
    パトリックにメルアドを教えておけばよかった、と後悔した。

    語学学校でレッスンを受けてもどこか上の空だった。
    ダンスのレッスンでは気を取り直し、大きな鏡の前で必死にモダンダンスの振付を踊った。
    バレエのように足を広げて飛んだり、手足をきれいに伸ばしたりする優雅な動きは、ブレイキンと対極の動きだ。体の美しさに重点を置き、体全体のバランスをきれいに見せるダンスは、そのような表現法になる。
    勉強になった。

    パトリックが私を摩天楼に誘ったのは、上空を飛行機が横切る、平日の昼過ぎだった。
    メルアドを知らない彼は、私が馴染みのカフェにいるところを見つけ、声をかけてきた。

    「マイはニューヨークの高層ビルに上った?」

    「いいえ」

    「じゃ、エッジへ行こう。あそこの展望台はちょっと変わってるから」

    エッジというのはニューヨークの高層ビルの一つだ。
    なんでも、展望台が三角になっているらしい。

    「私、高いところは平気よ。空が近いとうれしくなる」

    「そうかい。それはよかった。今日はよく晴れて見晴らしがいいぞ」

    私は大柄のパトリックについて行った。
    エレベーターに乗り、百階で下りた。
    百階である。めっちゃ高い。
    エレベーターを下りると、展望台には人がいっぱいいた。

    「ほら。あっちから下が見えるぞ、マイ」

    パトリックと二人で摩天楼の景色を楽しんだ。
    下を見ると果てしない透明な空間で、他の高層ビルのてっぺんが見えた。
    自分たちがいちばん高いところにいるのを肯定し、いい気でいられた。 

    帰りに、喉が渇いた。
    スーパーで飲み物を買った。飲み物に口をつけた。

    「うぇ。まずい。なに、これ?」

    「え? ドクターペッパーがまずいのか? 普通だけどね」

    パトリックはバカにしたような表情を浮かべた。
    二人はメルアドを交換し、別れた。

    次の日、語学学校をさぼってハドソン川を眺めた。
    別の日には公園の噴水をぼーっと見て時間を潰した。

    どんなときでも、ニューヨークはニューヨークであり続けた。
    他の都会にはない、ニューヨークらしさがあった。
    それなりの象徴的な景色と、人を憩いこわせてそこから去らせないだけの魅力が、それぞれの地区にはあった。

    やがて、ニューヨークに夏が来た。
    それに合わせるようにして、瑛斗がニューヨークへやって来た。
    彼も私同様、ダンスの留学である。
    違いはビザだ。彼の場合、三か月以内の滞在ゆえの観光ビザである。
    要するに、語学は学ばず、ニューヨークに三か月いて、主に観光する。私もだが、働くことはできない。

    バイクの好きな彼は、自転車も好きだ。
    レンタサイクルでセントラルパークまでサドルにまたがり、風を切った。
    とても気持ちよかった。
    瑛斗は私にそう言って笑った。

    セントラルパークに着いた。

    「俺、踊ってみるよ」

    さっそく瑛斗は公園の一郭で、音楽もかけずにブレイキンを踊り出した。私はそれを見ていた。

    「マイも踊れよ」

    瑛斗に命じられ、肩をすくめた。
    私も、芝生の上でウインドミルを披露した。

    のんびりと芝生に座ってくつろぐ人たちは、こっちを眺めたり、一緒に踊ったりした。反応はまちまちといったところだ。

    しばらく踊り、体を起こして足で着地した。
    買っておいたミネラルウォーターを飲んで、少し休んだ。

    「よう、マイ。また会ったな」

    そこへ、パトリックの声がした。だだっ広いセントラルパークで、よくぞ見つけたもんだ。

    「彼も仲間?」

    黒人のパトリックは私の方を見る。
    私が答える前に、瑛斗がすぐに応じた。

    「うん。俺は日本から来た瑛斗。ニューヨークに着いたばかりさ」

    少し下手な英語で、瑛斗はパトリックに自己紹介した。

    「マイのことだ。セントラルパークでブレイキン、してたんだろ?」

    「ヘヘヘ。バレたか」

    私は舌を出した。

    「俺も踊ろうかな」

    パトリックが長袖のシャツをまくった。黒い腕がニョキッと突き出た。

    「じゃ、バトルみたく、踊ろうよ」

    瑛斗の提案に、私とパトリックは快諾した。
    三人のかけあいで、ブレイキンを披露した。
    観客は歓声を上げ、大きく手ですくい上げるような仕草で煽った。もっとやれ、もっと踊れ。もっと、もっと、とことん踊れ。
    はやし立てた。
    汗だくになり、三人のブレイキンは数分の見せ場を作って終わった。

    「ラップがかかれば、もっとノレたのにね」

    「マイ。次回にストリートで踊るときは、ひと声かけてくれ。小型のスピーカーを持って行くから」

    「ありがとう。パトリックはやさしいね」

    二人の会話を聞いて、瑛斗は照れた。

    「マイはニューヨークでいい人に出会えたな。頑張れよ」

    その頑張れよ、は何を意味するのか。


    「腹、へったぞ」

    パトリックが大きなお腹をさすった。

    「じゃ、食べに行こうよ」

    私はそう答えた。
    三人はセントラルパークの東にあるカフェに行き、テラス席に陣取った。
    三人でサンドイッチを摘んだ。

    サンドイッチといっても侮るなかれ。
    ハムやパストラミはどの店でもやたらとぶ厚くて、お腹いっぱいになる。最初はわからず、ハムばかりをオーダーした。友だちと行って食べるうちに自分の好みがいくつかでき、カスタマイズする楽しみを覚えた。

    「マイ、ニューヨークには慣れたのか」

    瑛斗が訊ねる。

    「慣れたわ、エイト。ここは大都会。どれほどいても飽きないわ」

    私はサンドイッチを頬張り、カフェオレを流し込みながら話した。

    「マイはね。ドクターペッパーが苦手なんだ」

    パトリックはおかしそうに笑い、私の弱点を暴露した。

    「もう。内緒にしてよね」

    「そうなの? マイ」

    瑛斗はちんぷんかんの表情だった。

    「だってさあ。味は……。ま、一度飲んでみなよ。エイトも」

    「アメリカでしか飲めないものは、試す価値ありだ」

    瑛斗は笑って私の肩をたたいた。

    「挑戦者ね」

    私は彼をそんな風に評した。

    その後、瑛斗は一人で行きたい場所へ行った。
    瑛斗と別れ、パトリックと二人きりになった。
    彼と並んで歩いた。

    歩き始めてしばらくすると、彼は私の腰に手を回してきた。
    外国人は手が早い。
    でも、メルアドを交換したのだ。拒みはしない。

    「マイ。きみは、とってもいい女だよ」

    「それはどういう意味で?」

    「つまり、その、今好きな人がいないのなら、俺と付き合え。俺はマイを愛してる」

    「ほんとうに?」

    「もちろんさ。絶対にマイを幸せにする」

    パトリックは私に愛を告白した。
    このへんは日本人の男と違う。いかにも欧米人らしい。率直に気持ちを伝えてきた。
    本心では、うれしかった。

    「私、日本に恋人がいるわ。長くは付き合えないのよ」

    「それでもいい。俺はマイを深く知りたいんだ」

    女を深く知る。
    深い関係ということか。
    ま、寂しいときもあるから、このダンスの上手いアメリカ人と仲良くなっておこう。
    多少の打算はあった。

    「わかったわ。八月いっぱいの条件付きで交際するわ」

    彼は私に惚れた。
    他の友だちにもやさしい人だった。
    なかんずく東洋人の私を恋人に選び、最高にやさしく扱った。

    「マイはニューヨークに住みたいか」

    「実際、住んでいるわ」

    「そうだったな。この先、一年後、五年後、十年後と住み続けたいか」

    「むりね。いい町だけど、ブレイキンをやるには競争相手が多すぎる」

    「そうかもしれないな」

    「私からブレイキンをとったら、何も残らないわ」

    「なるほど」

    「私、九月にビザが切れて日本に帰るのよ」

    「マイはダンス留学だろ?」

    「違う。語学留学よ」

    「そうか。俺のことは忘れていい。ただ、これだけは忘れるな」

    「何?」

    「夢を追うことのできる人間は、最高の幸せ者なんだ。どの国にいても、それを忘れるな。夢は大きな力になる」

    パトリックは私の肩に、スコップのような大きな手をのせた。
    彼は学生寮の前まで送ってくれた。二人はハグして別れた。

    ニューヨークで、私たちは夏の日の恋を楽しんだ。
    交際を許したからには、それを楽しまないともったいない。
    その当時、ブレイキンは中途半端になっていた。
    大会に出る金も底を尽き、学生ビザではバイトもできない。
    学生寮の家賃と日々の生活費が重くのしかかり、生活は困窮していた。
    パトリックとの逢瀬が唯一の楽しみになった。

    「マイ。愛してるよ」

    「パトリック。私もよ」

    二人は、自由の女神像のある島へ向かうフェリーの上にいた。フェリーのデッキでキスをし、抱き合った。限定恋愛なのに、彼はほんとうにやさしくしてくれた。

    「ねぇ、パトリック。ふだんは何してるの?」

    「日中はストリートでブレイキンをして遊んだりしてる。仕事は夜だ。週五日のゴミ収集。夜に肉体を使う」

    「ゴミを車に積み込むヤツ?」

    「うん、そうだ。どのゴミ袋も重くてね。キツい仕事だ」

    「何時から何時まで働くの?」

    「ゴミの量によるけど、だいたい夜の七時から朝の六時までだよ」

    「それはたいへんね」

    「まあ、慣れたけどね」

    「何年してるの?」

    「かれこれ三年になる」

    「今、いくつ?」

    「前に言ったろ? 二十一さ」

    「ダンスでは食べられないの?」

    「むりだな。有名なダンサーがたくさんいる。その下に、俺より上手い人たちがごまんといる」

    「ふーん」

    少し間があいた。
    彼の顔が近づき、口と口が重なった。
    ぶ厚いパストラミのような唇は、ねっとりして熱を帯びていた。
    柔らかい焼き菓子を覆う包装紙のようにして、彼は私をそっと抱いた。
    もっと楽しみたかったが、フェリーが島に着いて終了となった。

    夜勤明けのパトリックは眠そうな素振りを見せず、私をお姫様のようにエスコートした。
    二人で自由の女神像を見学した。
    パトリックと私は島に上陸した。
    彼は女神像を見上げ、隣の私にこう説明した。

    「この国にいるすべての人種は──俺も含めてだが──抑圧から解放され、平等なんだ。その象徴が自由の女神さ。俺にとっては希望の証だ」

    「平等の象徴」

    「そうだよ。気高いだろ?」

    「たしかにね。気づいたけど、自由の女神と日本の鎌倉の大仏は、同じ緑色をしてるわ」

    「大仏?」

    「そう、大仏。日本の宗教を象徴する大きな像よ」

    「それはどうして建てられた?」

    「昔、病や地震が起きて民衆は苦しんだ。昔の天皇が、国民をそれらから守るために大仏を作らせたの」

    「ふーん。日本は歴史が古いらしいが、やはり大きな像を必要としたのか。その像はそこに住む人々の幸せを願い、勇気と希望を与えたんだろうな」

    「そうね。もし、日本に来ることがあれば、鎌倉か奈良の大仏を見るといいわ」

    「像は立ち上がってるのか」

    「いいえ。その二体は座ってるわ。どっしりとね」

    「女の像?」

    「さー、難しい質問ね。考えたこともないわ」

    私は思わず笑ってしまった。
    日本人なのに、大仏すらよく知らない。
    パトリックがそばにいた観光客に話しかけ、携帯を渡した。
    女神像を背景にして、二人の記念写真を撮ってもらった。
    彼はチップを渡した。こんな場合でも、サービスの対価はいるのだと勉強になった。
    二人は、自由の女神像をしばらく見上げていた。

    「女神像の中に入りたいか」

    パトリックが訊ねた。

    「いいわ。遠慮する。外からで充分よ」

    「それでいいのか」

    「うん。だって暑いし、中は階段でしょ? 上まであがる頃には汗をかくだけよ」

    「なるほど。そういう考えもあるな」

    パトリックは私の腰に手を回した。
    二人は一緒にいられる時間を満喫した。
    いつものように、パトリックは学生寮まで私を送ってくれた。寮の前でキスし、二人は別れた。

    一人になると、やけに虚しくなった。
    瑛斗が渡米した。彼はニューヨークを楽しんでいる。
    自分はどうだろうか。ここ数か月で何か変わったのか。胸に手を当て、振り返ってみた。
    とにかく夢中でダンスに取り組んだ。体力には自信があり、ダンスの基礎もできていたし、新しいダンスを覚えてダンスの幅を広げられた。
    そういう面では収穫があった。
    異国の地で恋を経験した。それは、精神面の安定をもたらした。

    しかし、多様な人種と文化に圧倒された。
    たとえば、食事中に席を外し、別の小部屋で地面に頭をこすりつける人(あとでイスラムの人と知った)を見て驚いた。エレベーターで老人に場所を譲ったとき、黒人が隣に来るとその老人が嫌な顔をする場面にも出くわした。日本人なのに、「中国人は嫌い」と露骨に不愉快な顔を向ける人もいた。

    たくさんのアメリカ人を前にして、きちんとアピールできずにうろたえる私がいた。日本人らしさや女としての良さ、異文化の国から来た自分という存在を。

    それで自我を忘れたわけではないが、自慢のブレイキンも躍動感がなく、やっていて張り合いがなかった。
    コンテストに出たものの、評価は低い。
    せっかくダンスを学びに来たのに不完全燃焼。
    私のダンスは間口が広がった分、高さが減った──忸怩じくじたる思いがした。

    心のモヤモヤを払拭したくて、ストリートで踊ってみた。
    携帯で音楽をかけ、ラップに合わせてステップを踏んだ。
    フットワークからチェアーへ、チェアーからウインドミルへ移行した。ウインドミルとヘッドスピンのコンビネーションなどで、見せ場を作った。

    「おい。あそこで茶色い髪の女が踊ってるぜ」

    「ブレイキンか。ありふれてるな」

    なぜだろう。
    なんとなく、上手く行かない気がしていた。
    やはり、通行人の反応は極めて薄い。
    十五分ほどその構成で繰り返し踊り、中止した。
    だれも足を止めてくれない。

    私はここへ何をしに来たのだろう。
    そこを去った。
    公園まで歩いた。公園の池のほとりで小石を拾い、池の中央に投げ入れた。

    学生寮までとぼとぼと歩き、大きなゴミ箱を腹いせに蹴飛ばした。
    寮に着いた。
    部屋に籠もり、布団をかぶった。
    冷蔵庫にあったワインを飲んで眠った。
    夜中に目が覚めた。シャワーを浴び、髪をかきむしった。

    あと少しで帰国の期限が来る。もう九月になっていた。
    ダンスのレッスンはだいたい終了した。
    学ぼうとする意欲も低下した。
    経済的に苦しい生活で、それ以上ニューヨークにはいられなかった。

    留学という名前だけが一人歩きし、その目的はブレてきた。
    早く帰国したくて、やる気がうせた。
    アメリカに来て、半年がたとうとしていた。

    帰国日が迫る中、私は一人でタイムズスクエアに行った。
    その日は土曜日だった。

    交差点の歩道でダンスを踊る目的で来たのだ。
    これまでの集大成のつもりで、道行く人にブレイキンを見せた。

    携帯で音楽をかけた。最初は普通にラップやヒップホップを選曲した。
    思い切って、呼び込みをした。

    「さあ、みんな、私に時間をください。私を見てよね。素敵なダンスの始まりよ」

    人が集まるまでは、ずっとステップを踏み続けた。
    一か八かだとふざけ、阿波踊りを混ぜた。
    手をくねらすと、指をさして立ち止まる人もいた。
    気をよくして阿波踊りのステップを踏み、前へ前へと進み出た。心もち内股で、足を交差するようにして。

    「ブレイキンの日本版よ」

    調子づいた。
    阿波踊りの要領で手足を動かす。
    妙にウケた。
    反則技ね。私は舌をペロッと出した。

    阿波踊り風ブレイキンで人が集まり出し、さらに図に乗った。
    音楽をラップから阿波踊りの動画に切り替え、完全に阿波踊りになった。
    前で見る人の中には、手つきをまねする人までいた。

    阿波踊りのステップからのフットワーク、チェアーと流れ、ヘッドスピンを見せた。
    数周回ってから回転を止め、反動をつけて両足で立った。
    バク宙を数回見せ、再びのフットワークからフリーズ技に移行。着地しての阿波踊りステップ。

    その間はずっと阿波踊りの曲がかかっていた。

    「踊る阿呆に見る阿呆。同じ阿呆なら、踊らにゃソンソン!」

    聞きなれない歌声にアメリカ人は目を丸くした。
    独特の節回しと奇妙なステップに、私も観客もノリノリになった。

    「ヤットサー!」と携帯からかけ声が流れ、「あ、ヤット、ヤット」で返す。
    繰り返すうちに、立ち止まったアメリカ人が面白がり、「ヤット、ヤット」と返してくれた。
    なんだか楽しい。ダンスは楽しくなくちゃ。

    その群衆に見知った仲間がいた。
    瑛斗にパトリックだ。
    どこで聞きつけたのか、ダンスの終盤に彼らも加わった。
    阿波踊り以外は純然たるブレイキンで、和洋折衷だった。
    レッスンを受けたインストラクターが見たら、顔をしかめるだろう。

    でも、もう私は帰国する。
    最後くらいは規格外のダンスでよいではないか。
    ブレイキンより阿波踊りの方がはるかに歴史が長い。
    日本人なら、みな知っている。

    めくるめく楽しい時が過ぎ、私たちはダンスを終えた。
    観客から拍手をもらい、一礼してその場を去った。
    タイムズスクエアの土産話ができて満足だった。
    日本に帰って話したら、大爆笑された。

       @

    「皆様。機長でございます。当機は現在カナダ上空を順調に……」

    地下鉄に乗り、JFK空港に着いたのが遠い昔のようだった。
    今、東京直行便の機内でぐっすり寝ている。
    夢の中の地下鉄内で不良外人にからまれ、パトリックが助けてくれた。現実にはそういう危険はなかった。
    あくまで夢だったが、現実にもし起きれば、彼はきっと追い払ってくれたことだろう。

    パトリックは朝まで仕事をして、空港の見送りには来られなかった。
    それが心残りだった。
    アメリカに夢を抱き、それは思い描いたようには実らなかった。

    でも、気持ちを切り替え、日本で成功することをもう一度夢に描いた。
    プロダンサーの優から見れば、私なんて遠回りしているおバカなのだろうが、これが私の生き様だと思った。

    メールで空港に着く時間を家族に知らせた。

    九月の平日、家族三人が羽田空港で私を待っていた。
    少し涼しい夕方、大きなスーツケースを引いて歩いていると、向こうから手を振ってきた。

    「マイ。長旅、お疲れさん」

    義男が心配そうに私を見る。

    「お父さん。出迎え、ありがとう。やっと日本なのね」

    「姉貴。土産は?」

    背の伸びた英徳が私を見下ろす。

    「シューズなら、ちゃんとナイキの靴を買ったから。ニューヨーク限定モデルね。家に着いたらあげるよ」

    帰国したばかりの姉に言うべきことか。口を尖らせた。
    英徳の土産はナイキの靴で、サイズは26・5だ。
    手紙を何度も読み返し、携帯に保存してある写真と店の型番を比較したので間違いはない。

    「そっか。シューズのサイズ、合ってるかな。俺、身長が伸びて、足のサイズも大きくなったんだぜ」

    「知ってるよ。寮に届いた手紙を読んだよ」

    学生寮に家族からの手紙が届いた。
    義男、咲良の文があり、最後に英徳の汚い字で、身長と体重、足のサイズが書いてあった。靴の銘柄も付記してあった。

    「土産はよかろう。心配したぞ。初の海外で半年。それもアメリカだ」

    義男の声がいつもより大きかった。

    「お腹、すいてない? 近くで食べようか」

    咲良は心配そうに私の顔を覗き込む。

    「羽田で軽く食べたい。夕方五時だけど、いいでしょ? 荷物は重いし、体力つけなきゃ」

    「うむ。そうするか」

    家族四人で羽田空港のレストランで軽食をとった。
    私はパンケーキを食べ、三人はアイスコーヒーにサンドイッチを摘んだ。パンケーキもそうだが、日本のサンドイッチはアメリカに比べ、ぺしゃんこだ。

    空港から、義男の運転で都内の自宅に帰った。

    車窓から町の景色が流れた。夕陽に染まっていた。
    通い慣れた道に入り、見慣れた庭が見えた。
    車はとまった。
    隣のミルクがカーポートの屋根に上り、こちらを見ている。
    半年前の風景がまた日常になる日が来ると思うと、感慨深かった。

    夏菜絵にメールを送った。二日後に返信が来た。無事に帰って来られてよかったね。こちらはなにも変わりはないよ。短い内容だった。

    働こうとパートを探し、近くの工場で働き始めた。場所は、自宅からそう遠くない都内某所。

    十月になり、私は一つ年をとった。

    「こら。そこ、よそ見しない」

    「すみません」

    工場の上司が怒った。男の上司だ。
    私は首を下げ、恐縮した。

    作業中は、みんな黙々と作業の手を動かした。
    昼に一時間の休憩がある。
    食事を終えて休んでいると、おばさんがこっちに寄って来た。

    「あんた、いくつ?」

    「十九」

    「ねぇ。なんでここに来たの?」

    「工場で検品がしたかったから」

    「ウソでしょ」

    「ホントです」

    「退屈だろ? 化粧品の検品なんて」

    「それは個人の考えしだい。私は平気」

    「なにそれ。いい子ぶるなよ。急に辞めますなんて言っても、あたしが許さないから」

    「そうですか」

    おばさんはムスッとして、向こうへ行った。
    午後からも、午前と同じ作業が始まった。
    通路には化粧品の入ったカゴが積まれている。それを一つひとつ手でテーブルに運び、検品する。立ったままで作業は続いた。

    化粧品の色や漏れなどの不備がないか。異物の混入がないか。破損はないか。
    そうした点をチェックする。
    ときどき手に取ってパッケージのラベル番号が合っているかも確認する。
    それらのチェックが終われば、カゴに戻す。

    単調な仕事なのは、働く前から予想していた。
    それより、パートの先輩がうざかった。
    周りは黙々と作業しているのに、この先輩のおばさんだけは、ときどき私の方を睨む。
    あまつさえ、休憩時間になると、やたらとちょっかいをかけてくる。

    ある日、食事を終えて休憩室にいた。

    「この化粧品、家で使ってるの?」

    おばさんがうれしそうに訊ねる。

    「そんなわけ、ないでしょ。もっと安いのです」

    「彼氏とデートのときは、使うんじゃない?」

    おばさんの口調がいやらしく聞こえる。

    「彼氏なんていません」

    「ウソだー。若くて別嬪べっぴんなのに。宝の持ち腐れだわ」

    「どういたしまして」

    「あっちにローション、あるじゃん」

    まだ絡むおばさんは向こうを指さす。

    「セックスするときに、あれを使うのよ」

    おばさんは小声で囁く。

    「知りません」

    「それもウソよ。いろいろ経験ずみなんでしょうが」

    「もういい加減にしてよ」

    私は怒って立ち上がり、トイレに行くフリをして休憩室を出た。
    背後で下品な笑い声が聞こえた。

    その後、検品する静かな作業部屋の中で、ときどき「ローション」だの「セックス」だのという単語が飛び交い、ひそひそ声と嘲りが耳についた。

    「もう、あのババアのせいだ。頭にくるわ」

    心の中は荒れていた。
    休憩室では、女たちが固まってこちらをチラ見する。
    ローション女と囁かれた。
    ガンを飛ばしてケンカしてやろうかとまで考えた。
    長く働きたいから、それは思いとどまった。

    工場で働きながら、ダンスを続けた。
    アメリカにたつ前に、ダンススタジオは退会した。
    ダンスコンテストへの連続出場はすでに途切れた。
    昨年の十二月、優に負けて主なコンテストは卒業したけれども、大きなコンテストが一つ残っていた。それには参加した。

    修や帰国した瑛斗はダンスインストラクターになり、二人も私と同じだった。
    すでに全日本のランキングポイントは稼いでおり、年に一度開かれる「全日本ブレイキン選手権」のみに目標を絞った。
    その大会は年齢に応じたクラスにわかれており、ランキングポイント上位者だけが出場できる。
    私は充分なポイントを得ていて出場可能だった。
    その大会にプロダンサーの優も出場するのは、知っていた。

    年明けに大会が行われた。
    決勝まで進み、雪辱を果たしたい気持ちは大きかった。
    更衣室で久しぶりに優と会い、二言三言、言葉をかけ合った。
    優の立ち居振る舞いには、どことなくプロの風格が漂っていた。
    自信がみなぎっているのだ。

    大会が始まった。私は準決勝まで順当に勝ち進んだものの、そこで敗れて四位に終わった。
    優勝したのは実力者の牛野優だ。またしても、彼女に優勝をさらわれた。
    四位では表彰されないし、メデイアに名前も掲載されない。
    それでは意味がないのである。
    苦杯をなめ、とても悔しくてしょうがなかった。
    「全日本ブレイキン選手権」はプロアマ関係ない、いちばん大きな大会である。プロになっても出る価値があった。

    大会後、一人で駅までバスに揺られた。
    最寄り駅から寄り道し、公園に来た。
    ベンチに座り、景色を眺めた。
    暦の上では冬真っ盛りだが、寒くない。

    「はー、もの悲しいわ。日本の冬は寂しく、虚しい。春はまだかな」

    「マイちゃん。こんにちは」

    明るく高い声のする方に視線を向けた。
    犬飼佳乃。お隣さんである。

    「ヨシノさん」

    「マイちゃん、元気がないね」

    「そう見えますか」

    「うん、見える。何かで悩んでるの?」

    「え、ええ」

    「よかったら話してみて」

    「ちょっと、ダンスで思うように行かなくて」

    「そう。行き詰まったのね。たいへんね」

    「もうやんなっちゃう」

    「どこか近くへ旅行でもして、気分転換したら?」

    「気分転換か。今年、初詣は行ったけど、昨年と同じことしか祈ってないな」

    「マイちゃん、十九なの?」

    「はい。十九」

    「じゃ、厄年か」

    「あ、そっか。アメリカに行ってたんです。向こうでも、思うように行かなかった」

    「クヨクヨしない方がいいわよ。厄年には、遠方の旅行や転職はしない方がいいのよね。ほんとうは」

    「へー。知らなかった」

    「今からでも神社に行って、厄除けのお守りでも買ってみれば?」

    「そうします。ありがとうございます」

    佳乃さんは手を振って歩き去った。

    「そっか。失敗したのは、厄年のせいか。しょうがないわ。厄には逆らえない」

    公園での会話で少し吹っ切れた私は、仕事の悩みを忘れようと思った。
    もうしばらく辛抱し、このまま工場で働く日々を送ろうと考え直した。

    秋から冬、冬から春へ。
    日にちが過ぎるにつれ、しだいに工場のパートさんとも少しずつ会話のキャッチボールが続くようになってきた。
    やはり、入り立ての新人というのは、すぐに仲間の輪に入れてもらえない運命だったのだろう。

    話してみれば、だれも悪い人はいなかった。
    昨日食べたものやふだんの生活、芸能人のゴシップなどを、気軽に話して笑い合える気楽なおばさんたちばかりだった。

    仲良くなると、こちらのミスを指摘してくれたり、検品のコツや他の作業、製品のミニ知識なども教えてくれたりした。
    ずいぶんと助かるような間柄になった。

    「マイマイ。ダンス、してるんだって?」

    工場の休憩室は今日も賑やかだ。

    「ええ。知ってると思うけど、ブレイキン」

    「ああ。頭や手をついて、クルクル回るヤツ?」

    「その通り」

    「クルクル回るなんて、鉄棒とかしかなかったよね」

    「運動神経、ええねんなぁ」

    みんなが私のダンスの話に耳を傾けている。

    「いつかはプロになりたいのよ。プロのダンサーに」

    「マイマイなら、なれるよ」

    「そうよ。頑張りなよ。応援するわ」

    「ええ、ありがとうございます」

    「今でも、ブレイキン、やってるの?」

    「はい、もちろん」

    「どこで?」

    「高校までは、ダンススタジオに通って。今は、通ってない。大会前は、自宅のカーポートにマットを敷いて練習するわ」

    「賞金出たら、ウチらにおごってぇな」

    「ほんとうね。高いフレンチのコース、食べに行きたいわ」

    「それはちょっと」

    私は手を突き出し、拒絶した。

    「それじゃあ、三月で辞める人もいることだし、送別会を開かない?」

    「それ、いいわね。マイマイも来るでしょ?」

    「ええ。参加していいのなら」

    「じゃ、決まりね。日程決めて貼り出すから、みんなはダメな日をバツ印で書いてね。三月半ばまでに」

    「わかったわ」

    工場での仕事と人間関係を維持し、私は働いた。
    働いている間に、ダンスの経験と実績を積んで工場を辞めた。
    工場を辞めるときは、仲間に惜しまれた。

    私には夢があった。大きな力になると人に諭され、信じていた。
    工場のパートを辞め、隣県のダンススタジオで職を得た。
    そこで、正式なダンスインストラクターになった。

     

    「ファイブ、シックス、セブン、エイト」

    「なめらかにー。シュッ、ズーン」

    踊り始めのカウントや、体重移動の感覚を言葉と擬音で、私は生徒に伝える。
    『クールダンスジャパン』に私の声が響く。ここは川崎市のダンススタジオ。インストラクターの仕事に生きがいを感じ、働いている。

    生まれて初めて得たお金は、親からもらったお年玉。それは近所のコンビニでお菓子に化けた。チョコレートかガムだったと思う。お菓子の味は覚えていない。

    就職して初めてもらった月給が、自分名義の銀行口座に振り込まれた。その一部で母親に折り畳み傘とスカーフ、エプロンの三点を買った。

    「まあ、これを私に?」

    母の咲良は目を見開いて、驚いた。

    「そうよ。初月給で買ったわ。少ない手取りだけど、お母さんのためにと、選んだの」

    母はエプロンで目頭を押さえ、部屋を出て行った。寝室のクローゼットにしまったという。そんなに大切にしなくても、と思ったが、よほどうれしかったらしい。
    傘とエプロンとスカーフ。三越百貨店で購入した。銀行口座のお金を引き出し、同じデザインの品々を選んだ。仕事のない日に三越へ出かけ、帰宅してから母に贈った。

    英徳は、「大嵐が来るぞ」と冷やかした。

    「あんたも若いうちに親孝行するのよ」と姉らしく自慢した。

    親孝行の自慢くらい、いくらしても減るもんではない。
    結局、咲良が赤とオレンジの水玉の傘を使ったのを見たことはない。同じデザインのスカーフも、エプロンも、同様の運命を辿った。

    父の義男はそれを知っていて、私にそっと教えてくれた。

    「母さん、よほどうれしいんだろう。ときどき、クローゼットを開けては、大事そうに取り出して見ているよ。そして、見たら、元に戻してる。ありがたいお守りみたいにして」

    私の心にじわじわと感動の輪が広がった。ダンス一筋に打ち込み、それを仕事にしている現在。私に対する母の気持ちを一部しか理解できてない。

    でも、小さい頃からダンスを習わせてもらい、留学の費用も出してもらった。親の恩を胸にひめていた。

    ちゃんと仕事をして社会に認めてもらえた対価が、給料である。その大切なお金を親に還元できたのは、ほんとうによかった。父には運動靴と電動シェーバーを贈った。

    職場のダンススタジオには、私の他に二人のインストラクターがいる。一人は女で、もう一人は男。私も含め、みんな二十代である。いちばん古株の女の人がメニューを決め、それに沿ってプログラムを組んでいる。
    三人が交代で休みを取り、日曜と水曜がスタジオの定休日である。

    「円道先生。このフットワークがわかんない。難しいよ。どうしたら、いい?」

    「どれ、どれ。やって見せて」

    休み時間に、自分から訴える生徒はまだ救いようがある。
    問題になるのは、小学生で自分の殻にこもる子。黙って下を向き、レッスンになっても動きがおかしかったり、途中でダンスを止めてしまったりする子。

    そうした問題のある子の指導は、いちばん厄介と感じるようになった。
    そんな生徒の親に限って、「ウチの子が楽しめないのは、あなたたちのせいよ」とか、「お金を払って教わりに来ているのに、ちっともダンスが上達しないそうじゃない。どうなってるの?」と厳しいクレームを入れてくる。

    子どものことを一から知ってるわけではない私は、子どもの扱いも、モンスターペアレントの扱いも、初心者同然だ。いい餌食になりかけた。

    週末になると、ため息をつき、自宅でお酒を飲むこともあった。
    ある晩はお酒が、別の晩は夏菜絵や優のラインのメッセージが、私を慰めた。ときには、犬飼さんちのミルクがミャアオ、ミャアオと猫らしく鳴いて、私のことを気遣ってくれた。

    悩みくらい、だれにでもある。
    仕事をすれば、それが当たり前のように発生する。

    ダンスの悩みはダンスで解決しよう。
    手本の通りに踊れない小中学生は、みんなで手をつないで輪になり、簡単なダンスを踊るように仕向けた。

    できてほしいダンスは、また来年踊れるという希望がある。
    そうではなく、来年を待たずして中途でダンススタジオを去ってしまう子がいたら、ここに来てダンスが嫌いになってしまう子が出るとしたら、それは悲しい。
    私たち大人のインストラクターの責任である。
    私たちを嫌いになっても、ダンスまで嫌いにならないで、と伝えたかった。

    それでも、素直で快活な多くの小中学生に恵まれた。
    彼らは元気に楽しくダンスを覚え、難しくて踊れなくても、丁寧に時間をかけて学ぶ。繰り返し練習すれば、ある程度のレベルに達する。

    「先生、できたよ」

    その元気な声が私の活力に火をつける。
    大きくなってダンスの道に進まなくても、このスタジオで過ごす意義は大きいと思う。
    礼儀や作法の大切さ。大人の決めたルールを守ること。生徒全体で決めた規則に従うこと。間違ったことをしたときにごめんなさいと謝ること。

    学校以外でそれらを体で覚えるのは、大人になってきちんと働く基礎と訓練になる。
    けっして優等生ではない私だが、目下の者に教える立場になり、そうした意識を持つようになった。今では、心身に浸透した理念が自然と言動に滲にじみ出る。

    「今日はこれまでよ」

    私は言った。

    「ありがとうございました」

    みんなはその場で一礼した。

    「円道先生、相談があります」

    スタジオでぐずぐずしていた男の子が呼び止めた。

    「なあに?」

    「学校に嫌なヤツがいて」

    「何があったの?」

    「ふざけて、僕のズボンをパンツごと下ろしてくるんだ」

    「そうなのか。嫌がらせね。担任の先生に相談した?」

    「相談した。担任の先生もそいつに注意したよ。でも、反省しない。その後も、何度か同じことをするんだ。そいつ、しつこくて」

    「困ったわね。嫌なんでしょ?」

    「うん」

    「『嫌なこと、するな。仕返しするぞ』ってすごんだらどう?」

    「仕返しか」

    「そうよ。『今度やったら、みんなの前でおまえを素っ裸にしてやるぞ』くらいのことは言いなさい。脅しも少しは有効よ」

    「うん。言うだけ、言ってみるよ」

    その子は明るく返事した。

    その後、どうなったのか。
    その生徒からの報告はない。解決したんだろう。
    スタジオの生徒同士のトラブルはないが、学校の問題を持ち込む子はときどきいた。
    ここは第二の学校だと思った。

    曲がりなりにもダンスの仕事をするようになった私は、週に二回、銀空高校を訪れていた。
    「部活指導員」として、ダンス部員を指導する立場になった。
    OGであり、ダンス経験者で、ダンススタジオのインストラクターを仕事にする身分ゆえに、白羽の矢が立った。

    当時サボりがちだった私の姿を重ね、部員たちの面倒を見た。振付を行い、生徒の悩み相談にも応じた。後輩育成のため、精力的に指導に取り組んだ。

    生徒たちを前にして、大会に出る大切さを説いた。

    「みんな、いいこと? 大会に出る意義は、実力をつけること。そして、調子を上げること。大会に合わせて体調管理を行って、状態を一番上に持って行く。そうすると、上位に行けるわよ」

    「先生は、何度か大会に出たんですか」

    よく喋る女の生徒が発言した。

    「もちろん。出て力をつけたわ。大会に出ることで、自分以外の人のダンスを冷静な気持ちで観察できたし、ダンスの楽しさを知ったわ。度胸をつける意味でも、オススメね」

    「先生、次の新人戦に向けて、ダンスの振付で相談があります」

    ダンスリーダーが発言した。
    彼女は、私と一緒に練習メニューを考える子だ。

    「わかったわ。ストレッチが終わってから話そうか」

    全体のストレッチが終わり、アイソレーションをする間、私はダンスリーダーと話し合った。

    「率直に言って、私も含めたみんなは、今の振付に不満なんです」

    「何が不満?」

    「テーマのとらえ方や動きそのものはいいけれど、体の大きい子と小さい子がいて、なんかバランスが悪くて」

    「なるほど。たしかにそうね」

    私はダンスリーダーの指摘に納得した。そして、あえて訊ねた。

    「じゃあ、どうすればいいと思う?」

    「小さい子を前にして、その子たちにコミカルな振付をさせ、後ろの大きい子たちは従来の振付にすればどうですか」

    「そうね。そうした方が全体の見栄えはよくなりそうね。そうしようか」

    「はい。じゃ、新しい振付を考えて、来週からやります」

    「楽しみにしてるわよ」

    「フォーメーションはどうしますか」

    「とりあえず、シンプルな形で行こうか。たとえば、一直線に横並びして、真ん中が前に出る三角形から始めてみて。また不都合や不満が生じたら、相談しましょう」

    あるときは小中学生に、別のときは高校生に、そして同年代の仲間に、私は接する。
    いろんな顔を使い分け、どこでも上手く人間関係を作るには、元気がいる。私の元気の源は、アイスクリームと甘いパフェである。

    高校を卒業して三年がたっていた。
    夏菜絵とラインはする。顔を合わせる機会はなかなかない。
    とくに今年は、夏菜絵も大学四年生で、就活がピークを迎えている。

    その年の夏、高校時代の四人組が一堂に会するときが訪れた。
    夏菜絵の発案で、飲み会が開かれた。
    俊と智も来るという。
    帰国して三人と会えないでいた私は、喜んだ。

    四人は民芸調の居酒屋に集まった。鵜飼智の名で予約していた。
    バラバラで来店し、一つのテーブル席に通された。
    夏菜絵は遅れてやって来た。
    席についている私を見て、いきなり声を弾ませた。

    「久しぶりー、マイ。その金色のネックレス、似合ってるよ」

    「久しぶりだね、カナエ。ありがとう」

    私は微笑んだ。
    夏菜絵は私の隣に座った。
    腰をおろし、掘りごたつに足を伸ばしてスカートの裾を引っ張った。

    店員が来て、注文を取った。
    店員が去り、私は夏菜絵に訊ねた。

    「ねぇ。みんな忙しそうで訊けてなかったから、近況を教えてよ。カナエは就活中でしょ?」

    「私はほぼ終わったわ。一社に絞った。それで決まりよ」

    「いつ決まったの?」

    「梅雨入り前に、某企業から内々定をもらった。みんな、そうみたい」

    「へぇ、なんていう会社?」

    私は訊ねた。

    「東京あんしん火災保険」

    「保険会社?」

    「そうよ。苦労の末に、なんとか決まった」

    「すげぇな。大手の損保なんて」

    俊は羨むように言った。智が深く頷いた。
    そこへ飲み物が来て、乾杯した。
    グラスをテーブルに置き、智が話した。

    「俺たち二人は、もう働いてるもんな」

    「俊は病院だっけ?」

    私は確認した。

    「ああ。純星じゅんせい病院で介護士として働いてる」

    「マイ。俺のことは知ってるか」

    智が私の方を見る。

    「サトシ? 教えてよ」

    私は素直に訊ねた。

    「俺は会社を辞めた。料理人になるため、料理店で板前の修行中だ」

    「そっか。サトシは転職して料理人の見習いか」

    「マイはどうしてる?」

    俊がお通しに手をつけ、私の方を見た。

    「私は工場でパートをしてたけど、ダンススタジオで働くようになったよ」

    「どのへんのダンススタジオで働いてる?」

    智が訊いてきた。

    「川崎市のダンススタジオ」

    「駅で言うと?」

    「鹿島田か新川崎よ」

    「なるほどな」

    「ダンスを教えてるなら、プロのダンサーか」

    俊が訊いた。

    「それがそうとも言えなくて。ダンサーとかダンスインストラクターって、いっぱいいるけど、真のプロダンサーは一握り。その人のダンスに払われたお金だけで生計を立てるのがプロダンサー。至難の業よ」

    「じゃあ、どうやって食べてるの? 実家にも多少」

    夏菜絵は言い淀んだ。

    「そうよ。実家に住んで家賃を浮かす。食費は家に入れるけど、残金が少ない月も多いわ」

    「働くってたいへんなのね」

    夏菜絵は生ビールを飲み干し、口に泡のヒゲをつけた。

    「仕事すればお金が入るって思うじゃん。でも、そんなに単純じゃないわよ。いろいろ引かれるし、出て行くものもある。あらためて保険料や消費税を恨めしく思うわ」

    「じゃあ、選挙に行かなきゃ。世の中をよくし、暮らしやすくするのは、政治だもん」

    夏菜絵は優等生の答えを返す。

    「そうね。そうなんだけど、そこまでまじめに考える気力もないわ」

    首から下げたネックレスを触り、私は口をすぼめた。

    「じゃあ、こうしているときだけでも、ぱーっと憂さ晴らしだ」

    智が生のジョッキを二つ、空にして笑う。

    「みんな、飲みたいものあるか」

    俊がメニューを見て、三人の顔を見る。

    「私はレモンサワー」

    「夏菜絵はサワーか。マイは?」

    「私は、赤ワイン」

    「じゃ、俺はビールでいいや。サトシはどうする?」

    「俺もビールがいい」

    「じゃ、男二人で瓶ビールにしようか」

    「ああ。それでいい」

    最初こそ、男たちと話に花を咲かせていたが、しだいに女同士、男同士にわかれた。二つのグループで積もる話になった。
    私は夏菜絵と横並びで座り、隣を向いて愚痴をこぼした。

    「カナエはまだ大学生で気楽なのよ。世の中、女に対する風当たりは強い」

    「たとえば?」

    「それ、やっといてって、言われるじゃん。パソコンの操作なんてタブレットしか触ったことないのに、いきなり、エクセルで表計算。生徒の出欠管理。インストラクターのシフト表。給与計算。その他もろもろ。
    できるかよ、ってことを平気でやってね、と冷たく言われる。あー、嫌いなの、パソコンって」

    「大学に行けば、パソコン作業は必須だけど、高卒はたいへんだろうね」

    「とにかくわかんないの。本屋で立ち読みしたくらいじゃ、トンチンカン」

    「それを言うなら、ちんぷんかんよ」

    「ま、どっちでもいいよ。世の中、パソコンできる人間がいるといないとでは、ずいぶんと違うわ。工場で、目と手と鼻を頼りに化粧品を検品していたのは、別世界だったかもね」

    「どっちも大事よ。アナログ作業はなくならないし、デジタルの便利さも捨てがたい」

    「カナエはどうするのよ。恋人選びもデジタル? マッチングアプリ?」

    「さあね。それだけは女の勘よ。アプリで見つかる子は羨ましい。私、実際に自分の目で見て確かめないと、気がすまないの」

    私は自分の恋バナを棚に上げ、もっぱら仕事や生活の愚痴ばかりを垂れ流した。

    ときどき隣の男たちの声が耳に混じる。

    「俺、ユミちゃんのことが、いつも気になるんだ」

    「へぇ。例の看護師か」

    「ああ。ユミちゃんといつか結婚したい。現実に、彼女と付き合い出して、もう長いよ」

    俊の恋は実りそうだ。
    そんなに板橋由美のことが好きなのか。羨ましかった。

    気づけば、二時間を超えていた。店員が声をかけ、テーブルを追われた。
    会計前にトイレに立った夏菜絵があとからレジで合流し、会費を払った。その場で智が精算し、会計をすませた。

    店を出た。二次会はなかった。
    夏菜絵と智が帰り、俊はトイレに行くと言い残し、三十分しても帰って来ない。
    一人取り残され、仕方なく、最寄り駅まで歩いた。
    途中、若い男に声をかけられたが、無視して歩き通した。

    一足早くプロダンサーになった優との交流を再開した。
    仕事のない日に、優の自宅を訪ねた。
    彼女は、都内某所で自身の配信動画を撮影し、遅くに帰って来た。

    近くのカフェで時間を潰し、あらかじめラインでやり取りした時間まで待った。優が帰宅したのを知ってから、彼女の住むマンションにお邪魔した。

    「汚い部屋だけど、入って」

    優は謙遜した。
    言葉の割に床はきれいだった。カーテンレールに服がぶら下がっているが、ものを置きっぱなしにはしていない。

    「今、夏だよね」

    優が切り出した。

    「そうだよ」

    「二年前の今ごろ、テレビ、見てた?」

    座布団に座る優は、身を乗り出す。

    「二年前というと、二千二十八年か。ああ、あの年ね」

    「オリンピックだったじゃん。すごかったね」

    「うん、うん。すごく熱狂した。私は働いていて、昼休みに工場のテレビにかじりついたよ。録画放送を見たわ。結果は携帯で知ってたけどね。オサムとエイトがブレイキンに出てさ。盛り上がったよね。ダンスの世界も」

    「入賞こそしなかったけど、恰好よかったね」

    「ユウは出てなかったよね」

    「うん。直前にケガして、代表のエントリーから外れたの。ま、私としては、オリンピックの金メダリストだけが世界一じゃないと思ってるし、別にいいかと割り切った」

    「もし、女子選手で入賞でもしたら、ユウのところに取材が来たかもね。『牛野さん、女子のブレイキン入賞をどう見ますか』とかって」

    「私たちはみんなまだ若いよ。二年後のオリンピックに全員出られるだけの体力と実力はある。二年後に私は二十五。他のみんなは」

    優の目は上を見た。

    「私とオサム、エイトの三人は、二十四歳ね」

    「エイトはバイクショップを継げるけど、オサムや私はダンスがダメになったら、一から考え直さないと。人生を」

    「若いうちは夢を追うべきよ。私、絶対にそう信じてる」

    「マイは熱いね。情熱の塊」

    「そう、情熱よ」

    「マイの夢って、なに?」

    「私の夢は、ブレイキンで世界一になって、プロデビュー。さらに、オリンピックに出て金メダルを取ることでしょ。それと、マイクともバトルで戦いたい」

    「世界的に有名なマイクか。マイク・ガブリエル。ブレイキンの大スター」

    「来年は、世界大会も日本で開かれるでしょ?」

    「そう、そう。ダンサーたちも注目してる『ブレイキン・トルネード』。もしかしたら、大物ダンサーも来日するんじゃないかって噂よ」

    「いつでも出られるように、練習はしてるよ」

    「来年の冬の『全日本ブレイキン選手権』はなしよ。『ブレイキン・トルネード』が開かれるから」

    「それは知ってる。国別のトーナメントなんでしょ? トルネードの方は」

    「うん。予選会は三人でエントリーよ。私と組まない?」

    「いいよ。ユウとなら百人力」

    「オサムも誘ってみる」

    「決まったら、連絡してね。三人で作戦を立てよう」

    「了解」

    優はニンマリと笑い、立ち上がった。

    「悪いけど、晩ご飯、食べさせて」

    「え? ユウ、まだなの?」

    「うん、まだよ。仕事が忙しかったから」

    「悪いね。私、帰るよ」

    「いい、いいって。携帯でも見てて。簡単な料理だから、すぐにすむ」

    優はなにかをチンした。すぐに、いい匂いが台所から漂ってきた。

    「美味しそうだね」

    「そう? 私の好物、担々麺」

    「私も今度、その冷凍の担々麺、買ってみる」

    「意外とハマるよ。オススメ、オススメ」

    優は遅い食事を始めた。ずるずると肉みそのついた麺を啜る。ずるずるという音と匂いと色味が、いかにも食欲をそそる。

    交流再開後、久しぶりに優の顔を見に来て、安心した。
    あらかた、用事はすんだ。
    これ以上、優のプライベートを邪魔しては悪い、と優に手を振って辞去した。

    ダンススタジオでは、生徒がケガしないよう目を光らせている。
    それはいいとして、私自身がケガを負ってしまった。あれをやりたいから教えてと生徒にせがまれ、ヘッドスピンの手本を見せたときのことだ。
    三点倒立したとき、首に鈍い痛みが走った。私は背中から崩れ落ちた。

    「だいじょうぶ? 先生」

    その場に居合わせた生徒が寄って来た。
    私は顔をしかめ、もう一人のインストラクターを呼んだ。
    その人の指示を仰ぐよう伝え、スタジオの壁にもたれて尻をついた。

    レッスン終了後に整形外科に向かった。
    痛みが体を苦しめ、不快でしょうがない。

    「これは捻挫ですね。首の捻挫」

    医者からそのように告げられ、コルセットを渡された。
    首にコルセットを巻いた。一週間ほどその状態を保ち、様子を見た。毎日、痛み止めの薬を飲んだ。
    一週間後にコルセットを取り外し、首の患部にマイクロ波をあてて、痛みを和らげる治療を始めた。
    そこの病院には二か月通った。

    その間もインストラクターの仕事は続けた。
    首を使う動作を避け、立ったままで指導した。
    マイクロ波をあてるリハビリ治療が日常の一コマになった。

    いちばん辛いのは、ダンスを踊れなくなったことだ。それが鬱屈した日々を生み出す最大の要因であるのは、明白だった。

    「あーあ。辛いわ。好きなことで体を痛め、苦痛の毎日を強いられるなんて。ひどいわ」

    みじめな気持ちは気分を一気に押し下げた。

    「どうしよう。どうしたらいいの?」

    答えの見つからない問いかけを自身に投げかけ、自宅の窓から秋空を見上げた。
    夜になると、月夜を見ては物思いに耽った。
    ミルクがミャア、ミャアと隣で鳴く声に、少しは心を和ませた。

    その晩も、開け放った掃き出し窓からミルクの姿が見えた。
    隣の窓の内側にいるミルクに話しかけた。

    「ミルク。私、ダンスを踊れないよ。辛いんだ」

    ミャオオ、ミャア、ミャア。
    そうなんだ。元気、出しなよ。
    そんな風に答えてくれている気がした。

    私が白猫になり、猫世界で暮らしたら、どんな日常が待っているのだろうか。
    もしかして、ちょっとした冒険が待ち受けていたりして。
    少しだけ空想し、楽しくなった。

    整形外科へ通院するのが当然になり、情けなさにほとほと嫌気がさした。
    ステップやフットワークならできる。
    倒立や回転技ができなくなり、気が重かった。

    そんな中、友だちが力になった。
    ケガしてリハビリを続ける私のことを知り、智が私をキャンプに誘った。

    「マイもたいへんだろう。俺が励ましてやるよ。ドライブをしよう。夜には、シュンとカナエも来る。四人でキャンプの夜を楽しもう」

    彼からの電話が私を元気にした。
    彼の仕事のない平日。
    智が車を運転し、私と彼は二人きりのドライブを楽しんだ。
    すでに日にちが経過し、首のコルセットはとっていた。

    その日、プライベートにつけるネックレスをなんとなく外し、家に置いてきた。

    「サトシ、ありがとう。私はうれしいよ」

    「病気で辛かっただろう。滅入った気分をドライブとキャンプで晴らせばいい」

    智は前を向き、ハンドルを握った。
    車は町並みを抜け、山へと向かった。
    紅葉の山並みは赤や黄色に色づき、じつに見事な美しさだった。
    帰って父に話したら、「そういう景色を錦秋きんしゅうと言うんだぞ」と難しい言葉で表現した。

    とにかく、色鮮やかな紅葉の中を、車は進んだ。
    助手席に座る私は窓から外を見た。
    山の紅葉が晩秋の夕陽によく映えていた。
    少し寒気を感じ、セーターの襟えりをつまんだ。

    やがて、展望台に着いた。二人は車から降りた。
    展望台でパノラマの景色を眺め、夕陽が山の端に沈むのを見送った。

    「とても、きれいな夕焼けだったね」

    私は展望台の手すりにつかまり、そう言った。

    「うん。きれいだね」

    智はうれしそうな顔をした。
    私には言葉では伝わらない思いがあり、態度で示した。
    隣にいる彼の肩にもたれかかった。
    二人でこうしていられる時間がいちばん尊く、美しかった。

    「見てごらん。あっちの空に一番星が光ってる」

    智が空を指さした。

    「星なんて、今はどうでもいい」

    甘えたい気分をひきずり、首を気にしつつ、ずっと彼の腕に頬をつけていた。

    彼はそういうのに慣れてないのか、私を抱き起こすようにすると、こう言った。

    「もう、そろそろ行かなくちゃ」

    「えー。もっとこうしていたかった」

    「また別の楽しみがある。夜は長い。賑やかになる。いちゃつくのは、いつでもできる」

    「もう。現実的ね」

    「じゃ、目的地のキャンプ場に行こう」

    二人は展望台にとめた車に戻った。
    彼は車を出した。
    しばらく山道を走り、川沿いの駐車場に車をとめた。

    懐中電灯で照らし、川べりへ続く階段を下りる。
    川のせせらぎと闇夜の静けさが妙に合っていた。

    「悪いけど、ここに荷物を置いておくから、留守番してくれるか」

    「いいよ。あとの二人を迎えに行くんでしょ?」

    「うん。ここは人気がなくて寂しいだろうけど、なんかあったら、携帯に電話してくれ」

    彼はそう言い残し、川から離れた。
    残された私はスエットのフードで頭を隠し、岩にシートを広げて座った。なにかが来たら逃げようと思った。

    実際には、人も動物も来なかった。
    野鳥が暗い空を飛んだ気がした。
    夜の川は不気味なほど黒光りし、速い流れで水を運んでいた。

    やがて、智の言葉を裏付けるように、俊と夏菜絵がやって来た。
    智が迎えに行き、二人を連れて来た。
    本音を言えるなら、俊と二人のキャンプでもよかった。
    でも、私を励ます目的ならば、そこはウェルカムである。

    四人でテントを張った。
    食事の準備をし、たき火をした。
    四人のキャンプが始まった。

    「さて。たき火で温まったら、メシだな」

    智が言うと、みんなはイェーイと歓声を上げた。

    「ハムやチーズをかじりながら、適当に肉でも焼いてくれ」

    智以外の全員が缶ビールを飲んだ。
    智は車の運転をするのだろう。アルコールに口をつけなかった。
    みんなはチーズを食べ、飯ごうでお湯を沸かした。
    インスタントのスープやレトルトのハンバーグなどを湯につけ、ワイワイとキャンプのご飯を楽しんだ。
    飯ごうの隣で、切った肉を串に刺し、たき火であぶった。たき火に照らされた肉から肉汁があふれ、肉汁はおいしそうに油とともに光っていた。

    だれかが携帯で音楽をかけ、素敵な夜は楽しさに満ちていた。
    首を痛めた無念さやリハビリの倦怠感など、忘れてしまった。
    いい意味での刺激が何もかもを吹き飛ばした。

    「肉、焼けた?」

    夏菜絵が智に訊ねる。

    「もうちょっとかな」

    「暗くてもわかるの?」

    「わかる。匂いで。こう見えて板前の見習いだ。色でも、匂いでも、食べ頃は判断できる」

    「そうだった。大将、早く焼いてよ。客が待ってるよ」

    夏菜絵は笑って、マグカップに注いだスープを啜った。

    「サトシ、ビールがなくなったぞ」

    「買っておいたジュースがある。適当にあけてくれ」

    めいめいが飲み食いし、バーベキューは盛り上がった。
    楽しい宴が進むのとは対照的に、ある運命が迫っていた。キャンプの向こうで、山あいの川は増水していた。

    「はー、腹いっぱいだ。ゴミはあそこのビニール袋に入れてくれ」

    智は指示を出した。

    「汚れた食器と手を洗いたいんだけど」

    「ここに水場はない。川の水で洗ってくれ」

    「でも、なんだか、川は勢いが強くてちょっと危なそうよ」

    夏菜絵は頬に手を当てた。

    「心配ねぇよ」

    俊は残った串焼きを頬張りながら、ご機嫌だった。

    黒い流れは不気味に光っている。ランタンに照らされ、キラキラと筋を描く。勢いを増し、ごうごうと音を立てている。
    大きな流動は大きな獲物をほしがっているようだった。

    「俺が水をくんでやる。サトシ、バケツ、あっただろ?」

    俊が智に声をかけた。

    「ああ、ここにある」

    「準備がいいのね」

    私は言った。

    「地震とかの緊急トイレ用に、折り畳めるバケツを持って来た」

    「トイレに行きたいけど、どこ?」

    私は訊ねた。

    「俺たちは川だ。女の子は向こうのトイレを使え。あるだろ? あっちに公衆便所が」

    「わかったわ」

    私がトイレに行ってる間に、夏菜絵と俊は食器を洗い、智はゴミとたき火の始末をした。

    「さて、片付けもすんだ。どうする?」

    俊が言った。

    「俺は飲んでないから、夜のドライブに行く」

    「うん、おまえの気持ちはわかった。行って来いよ。二人で」

    俊はニヤニヤ笑った。

    「じゃ、マイ。行こうか」

    二人で夜のドライブに出かけた。
    夏菜絵と俊をテントに残したが、その二人に何かがあるわけでもないだろう。
    思い出話でもするんじゃないのか。

    なにせ、この前会ったとき、俊は看護師の板橋由美のことをとても気にかけていた。彼女と結婚したいとまで言い切った。
    この期に及んで夏菜絵に言い寄るような男ではない。

    智は、最初から、バーベキューのあとに私を車に乗せ、夜のドライブを計画していたのだろう。それなりの実利を計算し、今回のキャンプを思いついたとしたら、なかなかの策士──。

    山の夜道は対向車が来ない。
    ヘッドライトが曲がりくねる山道を照らす。
    計器のライトに照らされる彼の顔と窓の景色を交互に見て、密やかな期待をした。

    もう少しの辛抱よ。あのへんに車を停めて、彼とキスをしたいわ。
    そう思った矢先だった。前方を走る車が二度、三度とブレーキを踏んだ。

    「ちぇっ。何て無粋なヤツ」

    急ブレーキで、こちらもつんのめった。
    相手の車が路肩にとまり、こちらが抜かした。
    すると、その車が後ろから光で照らし、追ってきた。
    今度は車間距離を詰めて煽るように近づく。

    「また、煽り運転してきたよ」

    「わかってる。どうにか逃げ切るさ。こっちにはドライブレコーダーもある。いざとなったら、録画という証拠が物を言う。ドライブレコーダーの記録さえ持っていれば、恐くない。こっちが有利だ」

    智は車を走らせた。
    向こうも山道でスピードを出す。
    さながら、カーチェイスの様相だ。
    しばらくのあいだ、二台の車はけっこうなスピードを出し、くっついたり、離れたりした。
    智の顔も真剣そのものだった。
    危険な状況が続いた。

    やがて、煽った車は危険運転に飽きたのか、反対車線にはみ出して私たちの車を抜き去った。
    嫌な車は姿を消した。
    ほっとした。

    「やっと邪魔者がいなくなったな」

    「危なかったわね。ほんとうに嫌なヤツだわ」

    「なんだかいい気分が覚めたな」

    「楽しいドライブだったのにね」

    そこで二人は黙った。
    智は何かを考えているのか、ひたすら無言で車を走らせた。

    一難去ってまた一難。
    今度は、ゴロゴロゴロと音がした。上の方だ。
    「雷かしら」と思ったら、現実は予想をはるかに超えていた。

    いきなり大きな音が迫り、大岩が前ぶれもなく車の上にドスンと落ちた。避けようもなかった。
    車の天井はめり込み、岩の下敷きになった。
    智は気を失った。
    車は動かなくなった。

    「サトシ、しっかり」

    助手席の私は必死で、気絶した智の顔を引っぱたいた。

    「う、うー」

    智は目をつぶり、くぼんだ天井の下で呻うめいた。
    岩が天井を突き破り、彼の上半身は岩の下敷きになっている。

    彼が目を覚ます前に、第二弾の岩がやって来た。
    私は思わず、声に出した。

    「きゃー。助けてー」

    金切り声は岩の衝撃音にかき消された。

    次の岩は車体の横にぶつかった。
    天井の岩は下へ落下した。
    あまりのことに声を出す間もなかった。
    バカでかい岩はいとも簡単にガードレールを突き破り、へしゃげた車を崖下に突き落とした。
    ドライブレコーダーどころか、車もろとも真っ逆さまである。

    岩は崖の下に転がり落ちた。
    車は傾き、山肌を滑り落ちた。
    切り立った崖に根を張る木があり、幸いした。
    車体は木の枝に引っかかった。
    それでも車は不安定に傾き、揺れた。今にも落下しそうである。

    「お、お、お、落ちる」

    車体は大きく揺れ、車と人間の重みで木の枝がしなった。
    もはや、落ちるのは時間の問題。
    私の体は車体側面に貼り付いた。
    ガードレール衝突の衝撃で壊れた窓から、私の左腕がぶらんと飛び出た。

    「サトシ、助けて」

    気を失っていた智が目を開けた。

    「マイ。早く、俺につかまれ!」

    運転席の智が、不自由な体勢から、宙ぶらりんの私を上に引っ張り上げようとする。
    しかし、彼の力をもってしても、引き上げられない。
    私は右手を伸ばして智の首にしがみついた。

    ミシ、ミシ、ミシ。木の枝がより一層しなる。
    あ、ヤバい──。

    そう思った。
    須臾しゅゆを待たずに体がフワリと浮いた。

    枝が折れ、車は真下に転落した。
    暗がりでもがいたのは、ほんのわずかだった。
    川に落ちた。

    バッシャーン。
    落ちた衝撃で、二人は車から投げ出された。
    大きな音と同時に、体が水中に沈んだ。

    川の勢いには勝てなかった。
    私はずぶ濡れになり、あっという間に早瀬に飲まれた。
    水深はわからない。
    とにかく体がままならない。抵抗すらできない。
    暗い川は狂ったように私を押し流す。
    みるみるうちに増水した川の餌食にされ、ひたすらもがいた。むだだった。

    「このまま川の生け贄にえになる。死ぬわ」

    神様に祈り、我が身の不幸を嘆いた。
    無抵抗の私の頭は真っ白になり、意識が朦朧もうろうとした。
    束の間、心肺停止の四文字が頭をよぎった。

    川の水は冷たく、体が凍りそうだった。
    水を飲んでしばらく意識がなかった。

    気づかぬまま、川岸に引き上げられたらしい。
    数分、目が開かない。
    川岸には智がいた。彼が泳いで私を助けてくれ、救急車を呼んだ。

    救急車が到着した。
    その中に入り、智が必死に呼びかけ続けた。
    一連の状況は、あとで彼が教えてくれた。

    五分くらいして、私は目を開けた。
    智が両手をもみこすり、何かを祈っていた。意外と信心深い。

    私は毛布にくるまっていた。
    病院のベッドで寝ていた。
    彼の顔がそばにあり、安心した。
    安心すると、水の恐怖を思い出し、泣き出した。
    彼がやさしく慰めてくれた。

    ベッドから上半身を起こした。
    すすり泣く私の背中を、彼がさすった。
    私は素直な気持ちで甘えたかった。
    顔を彼の胸に埋めた。智は何も言わずに私の髪を撫でた。

    そうした態度に、しっかりと愛を感じた。
    それまでの智への愛が、堰せきを切ったように心の中いっぱいに広がった。
    病院の出来事は、ずっと思い出として残った。

    念のため、一晩入院した。
    すぐに病室は消灯になった。
    一人きりのベッドで、せっかくのドライブとキャンプが暗転した一夜を恨んだ。
    甘いひとときを過ごせたのに。もっと、智と二人でいたかったのに。

    「でも、よかった。命がある。好きな相手が救ってくれたわ」

    私は胸に手をあてた。心臓がしっかりと脈打っている。

    「これからも、あの人のそばにいたい。彼と暮らしたい」

    体を起こした。
    ふと、窓辺に行ってみた。
    病室のカーテンを半分開けた。
    おびただしい数の星が夜空を飾り付けていた。とてもきれいだ。きらきらとまたたいている。まるで、王妃が舞踏会に着るドレスのようだ。

    「星はすべてを知り、見るものに希望という名の輝きを与えてくれるのね」

    とても穏やかな夜だった。
    壊れたガラスの破片を拾い集め、一つひとつが組み合って元に戻っていくような気分に包まれた。
    静かにベッドに横たわった。

    翌日退院した。
    智は命の恩人である。彼を一生のパートナーとして強く意識するようになったのは、この事件がきっかけである。

    痛めていた首も完治し、ダンスを再開した。
    気づけば冬となり、クリスマスのダンススタジオの窓は、簡単なクリスマス飾りで飾り付けられた。
    生徒らにお菓子の袋を渡し、窓を見た。窓外の闇に白いものが混じっていた。雪だ。

    仕事帰りにコンビニに寄り、チキンを買った。
    自宅でチキンを食べた。
    雪はやみ、静かなクリスマスの夜は更けた。

    正月に夏菜絵と初詣に行き、健康と仕事の成功を祈った。
    夏菜絵の自宅に招かれ、彼女の自室でひとときを過ごした。

    「カナエ。今年は社会人だね」

    「そう、社会人だよ。初めて給料がもらえる」

    「大切に使いなよ」

    「うん、そうする」

    「あのさ。二月初めにブレイキンの世界大会が日本であるのよ」

    「もしかして、マイもそれに出るの?」

    「うん、出る。三人一組で予選を勝ち抜いた。一位になって、日本代表に選ばれたよ」

    「相変わらずすごいね、マイ。頑張って」

    「ありがとう。頑張るよ。スポンサーも多いし、テレビも来る。アピールしなきゃ。国別のトーナメント戦なのよ」

    「日本は一位になれる?」

    「さぁ、どうだろう。五分五分かな。アメリカは強いからね。なんとも言えないわ」

    「マイの力で、アメリカを倒しちゃえ」

    「ありがとう。精いっぱいの力を出す。あっ、そうだ」

    私はカバンからチケットを取り出した。

    「これ、観覧のチケット。関係者向けだけど、もらっちゃってさ」

    「三枚あるね」

    夏菜絵はチケットを見つめた。

    「カナエとサトシ、シュン。その三人に来てもらいたくて」

    「うん、わかった。配っておくよ。日曜の昼ね」

    「そう。来られたらでいいから。むりしないでいいよ」

    ブレイキンの世界大会「ブレイキン・トルネード」のチケットを夏菜絵に手渡し、その大会に照準を合わせると誓った。

    それからしばらくして、「ブレイキン・トルネード」のCMがテレビやネットで流れ出し、ニュースで衝撃の事実を知った。

    「えっ! あのスターが来日するのか」

    テレビで行われた「ブレイキン・トルネード」の告知で、ブレイキンの大スター、マイク・ガブリエルが来日し、大会への出場が正式に発表された。
    直前まで選手や関係者にも知らされてなく、大きなサプライズだった。

    大会の三日前にマイクは来日し、ニュースなどに大きく取り上げられた。

    「よし。このトーナメント表によれば、決勝まで勝ち残ると日米対決だ。マイクがアメリカ代表で出てきて、彼と戦えるのも夢じゃない」

    私はギリギリまでダンスインストラクターの仕事を入れ、夜に別のスタジオを借りて優や修と稽古に励んだ。
    国別のトーナメントは三対三のバトル形式である。
    それぞれの得意技はもちろん練習した。
    得意でない技でも、相手がそれで攻めてきたら同じ技で攻め返せるように、納得のいくまで練習と調整を繰り返した。

    決戦の日が来た。朝陽が窓を赤く染めた。
    日曜日の朝はことのほか静かだった。
    「ブレイキン・トルネード」が華々しく開催されるのに、いつも以上に落ち着いていた。
    身支度を整えて車に乗り込んだ。

    「今日は気合を入れるんだぞ」

    義男はハンドルを握り、助手席の私に話しかけた。

    「当たり前だよ。今日はスターを倒す日よ」

    「マイクなんとかだろ?」

    「マイク・ガブリエル」

    「そうそう。ガブな」

    車が会場に入り、私は目をつむった。
    頭の中で、マイクのダンスを思い浮かべた。あの技に勝つには、こうしなきゃ。
    イメージトレーニングは入念にできた。はやる気持ちを抑え、車から降りた。

    「観客席の後ろの方にいるからな」

    「わかった。応援、よろしく」

    私は控え室に急いだ。
    「ブレイキン・トルネード」には、国内外からブレイキンの有名選手が予選を勝ち抜いて国の代表となり、三人一チームでエントリーする。豪華な賞品も用意された。

    ただ一つ、懸念される材料がある。
    私のケガだ。
    首はもう治っている。じつは、前日に夜道を歩き、マンホールにつまずいた。つまずいて、足首を少しくじいた。
    体は万全なのに、こんなときに限ってヘマをする自分を責めた。

    「くっそ。足首がまだ少し痛む。痛いけど、我慢、我慢。他の演技でカバーするだけだわ」

    控え室で化粧を施し、私は鏡の私に呼びかけた。

    優と修は遅れて控え室に入った。
    男子は着替えるだけですむが、女子は化粧やトイレなどに時間をとられる。ステージに上がる時刻から逆算しなければならず、毎回ステージ前はヒヤヒヤする。

    トイレに行き、廊下で優とすれ違った。

    「ユウ。日本チームは勝ちに行くよ。ユウは切り込み隊長。頑張ろうね」

    「マイ、任せて。いっちょ、かましてやるよ。力を出し切ろうね」

    二人は手と手をパンと合わせ、士気を高め合った。
    日本代表の三人は控え室に集まった。
    ダウンジャケットに身を包み、トレーナーも加わって円陣を組み、声を出した。

    「『ブレイキン・トルネード』のてっぺんを取るよ。目指すは優勝。オー!」

    「オー」

    屋外ステージの袖で、出番まで大会の行方を見守った。

    「さあ、始まりました。『ブレイキン・トルネード』。三対三のバトル形式、国別のトーナメント戦です。観客の皆さんも、熱い応援をお願いします」

    MCの男は簡単に紹介し、さっそくトーナメントが始まった。

    選手が入れ替わり立ち替わりステージに上がり、制限時間内にダンスを披露する。
    トーナメントの試合が進み、日本は順調に勝ち残った。
    戦前の予想のとおり、アジア勢は日本を除いて苦戦した。
    やはり欧米勢が強く、順当に勝ち上がった。日本は三人の活躍で健闘を見せた。

    準決勝ではフランスと対戦し、激闘の末にポイントで上回る日本が決勝に駒を進めた。
    アメリカはマイクを温存して、余裕で決勝に残った。

    少し時間をおき、いよいよ世界一を決める試合となった。

    「さあ、『ブレイキン・トルネード』も熱狂の渦に飲み込まれてますね。残すはお待ちかねの決勝のみ。決勝に残った国は、下馬評通りのアメリカと、開催国の日本です。みなさんは、どんな試合を予想してますか。さあ、勝って笑うのはどっちの国だ?」

    MCが巧みな巻き舌で会場をさらに盛り上げる。
    冬空の下、会場は異様に盛り上がり、充分な熱気を帯びた。
    ときおり吹きつける北風も吹き飛ばすほど、屋外の会場は熱気に満ちていた。
    熱気以上に熱い観客は手を突き上げ、ニッポンコールが起きた。私たち日本代表を鼓舞する声援が響き渡った。

    そこへ、アメリカのマイクが登場した。
    割れんばかりの拍手が送られた。
    言わずと知れたブレイキンの若き大スター。
    彼は、満を持して決勝のみに出場した。
    別格扱いのスターに観客も惜しみない拍手を送り、彼の活躍を期待した。

    「ブレイキン・トルネード」の決勝戦は因縁の日米頂上対決となった。過去にはアメリカの三勝無敗の記録があった。過去はともかく、勝った国が世界大会の優勝国である。

    マイクはいったん、ステージから退いた。

    先攻はアメリカだ。トップバッターはラフな服で登場し、軽快なステップから無難に大技を繰り出した。大技は控え目で、こちらの出方をうかがう様相だ。

    日本のトップバッターは優である。彼女は、軽快なフットワークから、さっそく十八番のヘッドスピンへ持って行く。回転するにつれ、観客席から大きな声援が飛んだ。

    二番手のアメリカダンサーは、華麗なステップを見せた。チェアーで静止し、パッと起き上がってステップに戻った。最後にマイクが控えているので、むりはしない作戦か。思った以上に攻めてこない。

    日本は修が登場である。彼は、ステップからのチェアーで頭をつけた。上にある足を回してからのラビットで足をぴょんぴょんと突き上げ、終わった。

    これで日本はアメリカにかなりの差をつけたかと思われた。あえて不利な戦いを仕掛け、こちらのミスを誘うつもりなのか。
    いや、違う。
    最後のマイクにやりたいように踊らせ、一気に高得点で逆転を飾りたいのだろう。
    マイクはそれほど自信があり、みんなから信頼されもている。アメリカの絶対的なエースだ。

    二番目までの戦いを終えた。残るは、三人目のマイクと私だけ。泣いても笑っても、これが最後の戦い。

    やってやる。私はここでやるために、ニューヨークへ留学までしてきたのだ。顔をたたき、お尻をたたいて気合を込めた。
    ステージの袖にいた私は緊張し、掌に人の字を書いて舐めた。

    優、修と終わり、私が最後のバトンを任された。憧れのマイクとのラストバトルが始まる。夢にまで見た憧れのスターとあいまみえる。その瞬間が訪れた。

    まずは、マイクの登場だ。
    笑顔で出てきた彼は、ヒップホップのリズムを体で受け止め、ステップを踏んだ。
    いつもとは違う、彼独自の軽快なステップだ。
    それだけで会場はどよめいた。

    マイクは余裕があるのか、そこでいきなりのバク宙を決めた。これまた、いつもと違う構成である。
    続いてバク転をし、足を開いてフリーズ。いったん着地してからのウインドミルで終わった。

    よくある構成とひと味違う流れで、変幻自在に大技を決めてきた。
    観客は大いに沸いた。
    王者の貫禄か。何をしても、オリジナリティに溢れている。
    この人に勝てるのだろうか。いや、それでも勝つ。

    MCが私をコールした。私の番だ。

    ステージに飛び出し、音楽に体を預けた。あいにく、前日にくじいた足首が痛い。そのせいだろう。ステップに精彩を欠いた。あとでそう振り返った。

    「足首がダメなら、他の部分を使うしかない。そうだ。ニューヨークでマイクに助言されたんだっけ。『体全体を使え』って」

    歯を食いしばり、フットワークにつなげて何とか持ち直す。
    しかし、頭がまっ白になった。どうしよう。何をしたらいいの? 
    足の鈍い痛みが思考を一瞬だけ鈍らせた。集中。前を向く。

    そのときだった。観客席にぴんと伸びたスポーツタオルが目に飛び込んだ。

    「あっ。タオル」

    クールヒーローのタオルと、タオルに印字された「マイドオオキニ」の文字。
    それを掲げているのは、智だ。
    彼の存在とタオルの文字が私を奮い立たせた。

    ダンス魂に火がつき、返し技がひらめいた。
    ひらめくコンマ数秒前に体が動く。
    マイクのフリーズ技に対抗して、フリーズ技のマックス──側転を途中で止める技──を決めた。側転して離した片手で片足をつかみ、バランスをとって一瞬静止。静止の瞬間に頭を上げ、前を向く。
    観客の反応はいい。歓声も耳に届いた。

    足を床に着けると、床を蹴って、足を浮かせる。
    すかさず足を開脚してひねる、基本技のスワイプス。スワイプスからのウインドミル。最後にチェアー。

    ラスト二十秒で気力を振り絞り、一連のコンビネーションを決めた。
    これまでの経験で得た技。思うように行かなかった、ニューヨークでの葛藤。それらを一本の綱のように心と体でねじり込んだ。すべてをダンスに集約し、炸裂させた。

    一瞬だが、音がふっと消えた。

    「すごいぞ、マイ」

    観客席からか、ステージの袖からか。どこかで声がした。
    観客席はシーンと波を打ったように静まった。
    私も自身のダンスに驚いたが、鬼気迫る演技は会場の観客を唖然とさせた。

    万雷の拍手が送られ、ステージから袖に移動した。
    夢中だった。
    私は持てる以上の力を出し切り、マイクと渡り合えたことを喜んだ。

    演技が終わっても、「エンドウ、エンドウ、エンドウ」と私を呼ぶコールが響いていた。こんなすごいステージは、最初で最後かもしれない。

    「マイマイ、やったじゃん。すげぇ。感動した」

    修が私に近づいてハグした。

    「マイ、おめでとう」

    優は何かを悟ったかのように、私に賛辞を送った。
    優の肩は震えていた。
    抱き合うと、優の顔に涙が光った。
    優が泣き、私ももらい泣きした。

    MCですら言葉を失い、「日本の演技が終わりました」とだけ伝えた。

    審査に入った。
    「ブレイキン・トルネード」の会場はどちらの国が勝つのかで、ものすごく沸いた。

    審査の結果が出た。

    「日本が優勝です!」

    得点が示された。僅差の判定で日本が逆転優勝を飾った。

    日本代表の三人と米国代表の三人がステージに再登場した。
    日本を代表し、私が優勝のトロフィーを受け取った。
    修は副賞の賞品を受け取った。

    近くにいたマイクが英語で囁いた。

    「マイ、頑張ったね。おめでとう」

    「マイク、ありがとう」

    私が手を差し伸べて握手し、二人はステージの真ん中でハグした。
    アメリカの選手らはステージを下りた。

    私はテレビカメラを前にして、優勝のインタビューを受けた。

    「さあ、日本の優勝です。どんな気分ですか」

    「もう、ほんとうにうれしい。その一言です。みんな、ありがとう」

    私は観客席に向かい、手をあげて応えた。
    みんなが拍手を送り、会場は歓声に包まれた。

    「本場アメリカを敵に回し、僅差の逆転劇。いかがですか」

    「最高です!」

    「手ごたえはありましたか」

    「勝てるとは思ってもみなかったです。痺れましたー」

    「トップバッターがプロダンサーの牛野選手。次が男の光井選手。最後に円道選手。円道選手、緊張しましたか」

    「しました。でも、みんなの声援が届き、思ってもみない力が出せました。ほんとうに、ほんとうに、ありがとう。みんな!」

    「さて、円道選手。ダンサーとしてのキャリアは申し分ない。今後はどうされますか」

    「メディアに出て、私のダンスを多くの人に見てもらいたいです。よろしくお願いします」

    「わかりました。今後のご活躍を楽しみにしています。みなさん、円道選手と牛野選手、光井選手に温かい拍手を」

    場内に割れんばかりの拍手と声援が響いた。

    そんな中、私たちは控え室に戻った。
    控え室でダウンジャケットを羽織り、化粧を落とした。
    そこへ夏菜絵に智、俊が現れた。

    「マイ、おめでとう。とてもよかったよ」

    「ありがとう。カナエ」

    「俺のタオル、見えただろ?」

    「もちろんよ、サトシ。カナエから手渡されたんでしょ? あのスポーツタオルを」

    「うん、そうだよ。カナエ曰く、『マイの推しのタオルだから、苦しいときの励みになる』ってさ。実際、それでマイの動きがよくなったから、効果てきめんだな」

    「うん。あのタイミングはバッチリだったわ」

    「マイ。俺は何もしてないけど、カナエとサトシの付き添いで来て感動したよ。ブレイキン、いいね。職場の病院で老人たちに自慢する。俺のダチが世界一になったって」

    「少し照れるな。シュンまで、そう言ってくれて」

    「とにかく、日本が優勝を飾れてよかった。明日から、マイもプロのダンサーじゃん」

    智はそう言って、私の頭を撫でた。

    「そうだね。夢がかなってよかったわ」

    ダンスの結果に全員が満足し、喜んだ。
    みんなは日本の栄誉を誇り、なかんずく私の活躍をほめたたえた。

    日本の優勝を各メディアが取り上げ、優と修と私は有名人になった。
    とくに、私のインタビューはテレビで繰り返し流され、逆転を生んだ私のダンスは幾度も、テレビやネットの動画で流れた。

    「円道さん。みんなの前でブレイキンを踊ってほしい」

    「円道選手、みんなに勇気を与えてくれ」

    「円道さんにブレイキンを習いたい」

    「今度のイベントでぜひ踊ってくれ」

    たくさんの依頼が殺到し、私は一夜にしてシンデレラのように扱われた。
    そのお陰で、私はプロのダンサーになれた。
    夢にまで見たプロダンサーとしてデビューを飾れ、とても心が満たされた。
    マイク擁するアメリカに勝利してもう一つの夢がかない、大きな自信につながった。

    大会終了後、都内の高級中華料理店でダンス仲間と打ち上げをした。
    大勢で祝杯を上げた。
    世界一になれた日に食した麻婆豆腐の味は、極上のうまさだった。

    打ち上げを終え、智のところへ向かった。
    日曜の晩、彼は料理店に戻って閉店まで働いた。
    智は店の後片付けと掃除をし、店長に挨拶して店の外に出てきた。

    「マイ、お待たせ」

    「サトシ」

    多くを語りたくなかった。
    幸福感で胸がいっぱいだった。
    ビルの谷間でネオンに照らされ、二人は口づけをした。人目を憚はばからずに二人は抱き合った。

    「マイの唇、辛いよ。豆板醤の味だ」

    「ごめん。中華、食べたから」

    智の指摘に二人は笑い合った。

    ダンスでうまく行き、彼の愛を得た。言うことなしだった。

       @

    「海がきれいだね」

    「そうね。とっても」

    夕べ、夜遅くに智からラインの連絡があり、今日、こうして車の助手席に座っている。
    彼の運転する車は快適に道を走った。
    キャンプの事故があり、彼は新しい車に乗り換えた。
    新車特有の匂いや雰囲気に慣れないけれど、楽しいひとときを過ごした。

    「仕事はいいの?」

    「夕方から入る。朝と昼は特別に休んでいい。店長がそう言ったんだ」

    「私はダンススタジオに行くよ。遅れて行くと言っておいたわ」

    海が見えてきた。

    「きれいだな」

    「うん。そうね」

    防波堤のそばに車をとめた。
    人気のない冬の浜辺は、波の音が静かだった。

    防波堤を越えて、砂浜に来た。
    二人して冬の渚を歩いた。
    渡り鳥が砂浜の上を飛んでいる。
    冬の陽射しが砂浜に降り注ぐ。
    二人は並んで歩いた。

    潮風が乾いた空気を潤す。
    寄せる波は尽きず、潮騒が会話のBGMの役目を果たす。

    智がさりげなく手を握る。

    「マイ。これからの幸せを二人で共有しよう」

    「いいよ」

    私は誓った。
    誓った途端、くしゃみがでた。もう一つ出た。
    肝心なときにくしゃみの二連発。
    彼は笑った。

    「でもね。智と一緒になるのは難しいよ。一緒になる将来が描けない」

    「えー、何で? マイ、そんな……」

    「なーんちゃって。ウソだよ、ウソ。将来、結婚しようね」

    「ウソか。ウソはいらない」

    智が肩を小突いた。
    ウソを信じた彼は、正直者だ。
    私は、ストレートに好きと言うのが恥ずかしく、ワンクッションの冗談を挟んで反応を見たかっただけである。

    「俺も、マイと結婚したい。いずれ、ちゃんとプロポーズする。最初で最後の」

    「絶対だよ。約束だからね」

    隣にいる智のダウンジャケットの裾を軽く握った。

    やっとここまで来た。道のりは長かった。
    初めて出会ったのは、高二の正月だった。
    あれから五年。
    私の恋はようやく花開いた。
    両思いになれてほんとうによかった。

    しばらく二人は立ちすくんだ。
    私は黙って彼に寄り添った。

    おもむろに歩き出すと、困ったことが起きた。

    「あっ。まただわ」

    私は足を止めた。

    「ちょっと待って」

    彼は、私の靴紐がほどけたのに気づいた。

    「マイはいつまでたっても、しょうのないヤツだな」

    五年前と同じ状況だ。あのときは元日の初デートで、スカイツリーの前だった。

    そして、五年前を再現するように、智が片膝をついて靴紐をきゅっと結んでくれた。
    彼は少年のような澄んだ目で、私を見上げた。

    「ついでに二人の絆も結んでおいた」

    彼はゆっくり立ち上がり、笑った。

    「まあ、キザな台詞」

    私も微笑み、彼の肩を指で軽く押した。
    二人は自然に顔を近づけた。
    唇同士が重なる。キスをかわした。

    デートで靴紐がほどけるたびに、これまでも、これからも、胸がキュンとする。
    ああ、私という人間は、どうして懲りないのだろう。
    学習能力がない。
    おかげで、いい思いが長く続きそうだ。ずっと、ずっと、いつまでも。


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