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サラリーマン・ナハトムジーク

    ある金曜、リサイタルは18時過ぎの開演。ひとり舞台に歩み出れば、演奏を始める前にと、深々とお辞儀をした。カッチリしたスーツに身を包み、しっかり上げて固めた前髪。パラパラと空席のあるホールには、まばらな拍手が響く。広い舞台のど真ん中に物言わぬグランドピアノ、そして、やけに熱く眩しいライト。



    未だにステージの記憶が交錯する。もう6年も前の記憶だ。今の時刻は18時、金曜。資料の再提出を食らい、上司に何度もペコペコとお辞儀をする。許してもらいたいポーズとして頭を下げるのがすっかり板についてしまった。キーボードに向かい、真っ黒になるまで書き殴った付箋だらけの見積もりを広げれば、フラッシュバックするのは楽譜。満員だったオフィスから次第に人がはけていく。時間に追われ冷や汗をかきながら、頭に連ねた表現を吐き出すように打鍵する。


    残酷だ。


    演奏で食って行きたかった。はじめてピアノを触ったのは3歳。はじめて四分音符の羅列ができたとき、母に褒められた。それからは時間をかけた。バイエル、ハノン、ソナチネ、ブルグミュラー。ツェルニーの100番、30番、40番、50番。金も、青春も、持てるものは注ぎ込んだ。しかし、現実は残酷だった。


    ピアノを辞めれば、一日は思っていたよりもずっと長かった。生きていけなくなるのが分かっていたので、すぐに仕事を始めた。長くなった一日も、仕事の前ではあっという間に過ぎていった。時間は重力、無慈悲だ。


    どうして、今こんなことを考える?どうして?


    必死に指で鍵盤を叩くとき、いつもこうなのだ。あのリサイタルの夜から何も変わっていない。考える、脳みそが暴れる。ワケが分からなくなって、必死にもがくように指を動かすうち、とちって、盛り上がりに欠け、終わりを迎える。


    ああ、もう!


    どうにでもなれ、なんて心の中で叫んだ。不自然なくらい何度も唱えた。うまく叫べるまで何度か叫び直したのは、もし聞いてる人がいたら、ダサい姿だと思った。


    足踏みをしたくなる、地団駄を踏みたくなる!左手が轟かせる低音とともに、ペダルを踏み込むような。眩ゆくも、深い。不思議と息継ぎも無く、目を見開いて、体温が高まる。ああ、ああ。クライマックス!


    あの日の閑散とした拍手を思い出す。時刻は19:37。灯りがぽつぽつと残る薄暗いオフィスには3人ほどが残っていて、みな生気の抜けたような虚なまなざしを、それぞれの方に向けている。ただそれだけだった。

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