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黄金の檻、渇きの恋歌

    第一章 二つの国、二人の継承者

    かつて、果てしない砂漠の中に「黄金の都」と謳われた大国があった。その名は、ザハバーラ王国。
    世界最大級の金鉱を有し、溢れる富を求める諸国がこぞって国交を望んだが、この傲慢な大国が相手にするのは、自分たちと同等に豊かな国だけだった。
    そんな富の象徴たる王宮に、一人の王女がいた。
    陽の光を溶かしたような美しい金髪に、勝ち気な琥珀色の瞳を持つ少女。国王と王妃の寵愛を一身に受け、欲しいものは何でも手に入る環境で、彼女は甘やかされて育った。名は――ライラ。
    すべてが完璧に見えたザハバーラ王国だったが、この国には致命的な欠点があった。夏を迎えるたび、国中が深刻な「渇き」……すなわち、水不足に陥るのだ。
    これまでは親しい隣国から水を融通してもらっていたが、それももう限界を迎えていた。農作物は枯れ果て、大国としての威信が根底から揺らぎ始める。
    追い詰められたザハバーラ王国は、ある非情な決断を下した。
    ――水のためなら、どんなに貧しい格下の国とも手を結ぶ。
    黄金の国の隣には、無数の湖を持つ「水の都」……シャハルマ国があった。
    しかしシャハルマは、水以外の資源を持たない極貧の国だった。周囲の大国から足元を見られては水を安値で買い叩かれ、インフラを整える資金もない。民たちは毎日泥にまみれ、人力で水を運ぶしかない原始的な暮らしを強いられていた。
    当然、プライドの高いザハバーラの国民は、そんな貧民の国との国交に激しく反対した。そこでザハバーラ国王は、反発する国民を黙らせるためにこう宣言したのだ。

    『シャハルマ国を我が国へ吸収し、完全な統合を果たす』

    その証として、王女ライラの婚約者を、シャハルマ国から「有能な人材」として召し抱えることになった。
    困窮を極めていたシャハルマ国は、この救済措置に二つ返事で承諾する。シャハルマ国王は、苦渋の末に自らの愛息であるハセンを、ザハバーラへと差し出すことに決めたのだった。

    「いいか、ハセンよ。ザハバーラ王国の王子として、お前をあの大国へ差し出す」

    シャハルマ王宮の重々しい謁見の間で、年老いた国王は静かに、しかし断腸の思いで息子に告げた。

    「この統合により、シャハルマの名は歴史から消える。だが、我が民は飢えから救われ、国は豊かな水に守られて栄えるはずだ。……決して、しくじるでないぞ」

    「……はい、父上。この身、すべては国民のために」

    ハセンは気高く、真っ直ぐに父を見据えて答えた。
    国王は息を吐き、傍らに控える男に目を向ける。

    「うむ。……イシダはいるか」

    「はっ、ここに」

    一歩前に出たのは、ハセンの教育係であり、参謀のイシダだった。

    「ザハバーラ側から届いた、条件通知の書面。……ハセンの待遇は、どうなっている」

    その問いに、イシダは一瞬言い淀んだ。その拳は固く握られており、苦渋が滲んでいる。

    「……ハセン様を王女の婚約者として受け入れる条件は……『シャハルマ国王の王子』としての身分を、一切公表せぬこと、でございます」

    「何だと……?」

    「あちらの富裕層のプライドを傷つけぬため……王位ではなく、あくまで『シャハルマから買い上げた有能な人材との婚姻』という形にしたい、と。要するに、統合が完全に完了するまでは、名目上『平民』として扱えという要求でございます」

    国王は怒りを堪えるように拳を握り締め、深くため息をついた。

    「……国を救うためだ。致し方、なし」

    「……私は、納得がいきません!」

    イシダは激しい悔しさに声を震わせ、一歩前へ出た。

    「ハセン様はこの国の正統なる後継者として、これまでどれほど厳しい教育に耐えてこられたか! ハセン様の教育係として、私情が混じる無礼はお許しください! ですが……我が国の未来であるハセン様から、王位継承権まで奪うなど、あまりにも……!」

    「……ハセンよ。お前はどうだ。この屈辱、受け入れ難いか?」

    父の問いかけに、ハセンは静かにイシダを一瞥し、穏やかだが芯のある声で返した。

    「いいえ。私はいついかなる時も、我が国の民のために生きると心に誓いました。国が救われるのであれば、名誉も、王位継承権も、喜んでここに置いていきます」

    「ハセン様……っ」

    イシダが声を詰まらせる。国王は少し寂しげに微笑んだ。

    「流石は我が息子だ。……ではハセンよ。お前は我が国の法に則り、本日をもってシャハルマ国の王位継承権を喪失させる。これよりはザハバーラ王女の婚約者として生きよ。あちらの王女に見放されぬよう、細心の注意を払うのだぞ」

    「はい。必ずや」

    「お前にこれまで、厳しい帝王学を授けてきた甲斐があった。……ハセン、いつも『誠実』であれ。泥をすする我が国の民がこれまで耐えてこられたのは、互いへの誠実さがあったからだ。人の心を動かすのは、いつだって誠実さなのだぞ」

    ハセンは胸に手を当て、深く頭を下げた。

    「――肝に銘じておきます、父上」

    国王との謁見を終え、ハセンの私室へと戻った二人は、張り詰めた空気を少しだけ緩めた。

    「……イシダ。先ほどは父上にあそこまで言ってくれてありがとう。君の気持ちは、本当に嬉しかった」

    「……お戯れを、ハセン様。私はあなたの参謀。お国のため、そして未来の王であるあなたのためなら、国王陛下に首をはねられる覚悟など、とうにできております」

    「だが、父上の言う通りだ。我が国がザハバーラに呑まれ、歴史から名前が消えようとも、民が飢えずに生きていけるのなら、私のプライドや王位継承権など安いものさ」

    「……ハセン様。あなたは本当に、お優しい。ですが、あちらの要求はあまりにも身勝手。すべてはザハバーラ王室の『名誉』のためでございます」

    「名誉、か」

    「はい。あちらの国王は、噂では大変な肥満体で、いつも温和な笑みを絶やさない男だそうですが……その実、大変なキレ者。大国ザハバーラが、水欲しさに貧しい我が国の王子をそのまま迎えたとなれば、富裕層のプライドが許さない。だから『王子』としての身分を隠させ、『シャハルマから優秀な人材を厳選して、王女の婿に選んだ』という体裁にしたいのです。我が国では成人の儀を終えてようやく王子と名乗れるため、その法を逆手に取られたようですな……」

    「なるほどな。私たちはザハバーラの面子を保つための生贄というわけだ」

    「しかも、あの男が一際溺愛しているという一人娘のライラ王女は、目も眩むような贅沢のなかで育てられた、いささか世間知らずな姫君だとか。……そのお二人が、間もなくこのシャハルマへ、視察という名の品定めにやって来られます」

    ハセンは窓の外へ目をやった。そこには、民が人力で水を運ぶ、泥まみれの景色が広がっている。彼は静かに拳を握りしめた。

    「……分かっている。大国を迎え、ペコペコと肩書きを恵んでもらう立場だ。どれほど蔑まれようと、私は『誠実な婚約者』を完璧に演じきってみせるよ」

    「……そのお覚悟があるならば、このイシダ、どこまでもお供いたします。あちらがどのような目で見下そうとも、私があなたの影となり、盾となり、必ずやその道を支えてみせましょう」

    第二章 邂逅、そして泥に咲く笑顔

    それから数ヶ月後。ザハバーラ王国の国王と、その一人娘であるライラ王女が、ついにシャハルマ国へと訪れた。シャハルマ国王は、大国の一行を出迎える大役を、ハセンとイシダの二人に託した。
    歓迎の宴が催され、シャハルマの伝統的な踊りや料理が、異国の賓客をもてなしていく。

    「おぉ、これはこれは……。盛大なお出迎えをどうもありがとう。して、そなたたちは?」

    ザハバーラ国王が温和な笑みを浮かべて問いかける。イシダは恭しく一礼した。

    「私はシャハルマ国の参謀、イシダと申します。そして、こちらがハセンにございます」

    「お目にかかれて光栄に存じます、ザハバーラ国王陛下」

    凛とした態度で深く一礼するハセンに、ザハバーラ国王は声を弾ませた。

    「おぉ、そなたがハセンか! 会いたかったぞ」

    「遠路はるばる、我が国へようこそお越しくださいました」

    「ハッハッハ、そんなに畏まらんでもよい。馬を数刻走らせればすぐであった。……ところで、少し喉が渇いたな。水はあるか?」

    「はっ、すぐにご用意いたします。どうぞ、お飲みくださいませ」

    差し出された水を、ザハバーラ国王は美味そうに一気に飲み干した。

    「……うまい。やはり『水の都』と呼ばれるだけはあるな」

    「お褒めいただき、恐悦至極に存じます。我が国には広大な湖に加え、水を絶やさぬ貯水庫が複数ございまして、その清冽な水質には絶対の自信を持っております」

    「素晴らしい、そなたの国と国交を結べて、余は本当に嬉しいぞ。……ライラ! こっちに来なさい。一緒にこの水をいただこう」

    国王の呼び声に応じるように、従者たちの一列が割れ、そこからライラが歩み出てきた。
    陽の光を浴びて輝く金色の髪。吸い込まれそうな琥珀色の瞳。ハセンは一瞬、その圧倒的な美しさに息を呑み、小さく呟いた。

    「……美しい」

    「お父様、私もう疲れてしまったわ! 長旅なんて大嫌いよ!」

    ライラは不満げに頬を膨らませていたが、国王に促されるまま水に口を付けた。

    「……あ、本当。美味しいわ」

    「そうであろう? ほら、こちらの珍しい料理も食べてみるか?」

    勧められた料理を一口かじり、その美味さに目を丸くする。周囲の華やかな宴を見渡して、すっかり機嫌を直したように微笑んだ。

    「……美味しい! 踊りも綺麗だし……ふふ、私、この国好きかもしれないわ」

    「ハッハッハ! それはよかった! ほら、ライラ。彼がお前の婚約者になる男だ」

    「えっ……彼が?」

    ハセンはライラの前に進み出て、片膝をつき、厳粛に頭を垂れた。

    「お初にお目にかかります、ライラ王女殿下。ハセンと申します。若輩の身ではございますが、今日まで政治、法学、そしてこの国を支える建築の技術を学び、修めてまいりました。いつの日か、偉大なるザハバーラと、何より気高き殿下の歩みを支える最良の伴侶となれるよう、誠心誠意、その道を尽くす所存にございます」

    ザハバーラ国王は、値踏みするようにその姿を見つめている。ライラは屈託なく笑った。

    「……ハセンね。よろしく! ねぇ、ハセン。私、この国のことをもっと知りたいわ。案内してくれない?」

    「喜んで。我がシャハルマの街をご案内いたします、殿下」

    華やかな宴を後にし、二人はシャハルマの街へと歩みを進めた。だが、そこに広がっていたのは、黄金の国のような絢爛たる都城ではなかった。乾いた平民街のなか、泥にまみれ、人力で必死に水を運ぶ民たちの泥臭い営みだった。

    「え……これが、この国の街……? ねぇ、宴の料理は? 踊りは? 街の人たちは、みんな何をしているの?」

    「これが、我が国の本当の姿です。きらびやかなおもてなしはできませんが、皆、この国を支えるために汗水を流して働いています。年に数回、街を挙げての祭りがございますので、本当はその時にお呼びできればよかったのですが」

    「そ、そうなんだ……。美味しいものとかは、無いの?」

    「ございますよ。お気に召すかは分かりませんが、この街ならではの名物がございます。ご案内しましょう」

    活気あふれる大通りを外れ、路地裏へと進んだハセンは、一軒の古びた食事処の前で足を止めた。そこは土のない、無機質なコンクリートの路地だった。

    「こちらです、殿下」

    「ここが……? なんていうか、その……ずいぶん、ボロっちいというか……あ、ごめん! 私、失礼なこと言っちゃった……!?」

    「いえ、気になさらないでください。この街は、長い歴史を持つ古い街ですから。綺麗ではありませんが、ここには沢山の『生きた証』が刻まれているのです。建物の壁に残る数年前の子供たちの落書きから、何十年も前の戦争の傷痕まで……」

    ただ古びて見えた街並みを、愛おしそうに語るハセン。ライラは、彼の静かで深い瞳に、知らず知らず目を奪われていた。

    「……」

    「……殿下? どうかされましたか?」

    「あ……ううん、なんでもないわ! 気にしないで!」

    「ふふ、そうですか。……ここのお店のスープは、本当に絶品なんですよ。良ければ、ご一緒にいかがですか?」

    「ええ……ぜひいただくわ!」

    古びた木の扉を開けて店に入ると、香ばしいスープの香りと共に、気取らない笑顔の店主と、明るい奥さんが出迎えてくれた。

    「はい、いらっしゃい! どこでも好きなところに座っておくれ!」

    ハセンが丁寧に椅子を引き、ライラを席へと促す。初めて見る大衆食堂の雰囲気に緊張しつつも、ライラはちょこんと腰掛けた。

    「何にしようかね?」

    「こちらの名物である、スープを二つ頂いてもよろしいでしょうか」

    「はいよ、スープ二人前ね! ……それにしてもお兄さんたち、ずいぶん上等で綺麗な服を着てるねぇ。もしかして、どこかの上流階級のお偉いさんかい?」

    「……いえ、ただの観光客ですよ。この街に素晴らしい名物料理があると聞いて、遠方から足を運ばせていただいたのです」

    「おや、嬉しいこと言ってくれるじゃないの! じゃあ、とっておきの美味いやつを頑固親父に作らせるから、ちょっと待ってておくれね!」

    奥さんが笑いながら厨房へと戻っていくのを見送ってから、ライラは声を潜めてハセンに問いかけた。

    「……ねぇ、ハセン。あなたは、この国の王子様じゃないの? なぜ、さっき『ただの観光客』なんて言って身分を隠したの?」

    彼女がザハバーラ側の提示した条件――『ハセンを平民扱いにする』という政治的都合を何も知らされていないのだと、ハセンは瞬時に悟った。

    「……私は、まだ正式な後継者というわけではないのですよ、殿下。我が国の王位継承の決まりは……少しばかり、複雑なのです」

    「ふーん、そうなんだ……。でも、ハセンならきっと大丈夫よ! 応援してるから、早くなれるといいね、正当後継者に!」

    彼女の無邪気な純粋さに、ハセンは優しく微笑んだ。

    「――はい。ありがとうございます、殿下」

    「はいよ、お待たせ! 特製スープ二人前、一丁上がり!」

    目の前に置かれたのは、飾り気のない木のお椀に入った、ごく平凡なスープ。宮廷の豪華な料理に慣れたライラは、内心少しがっかりしたように肩を落とす。

    「見た目は派手ではありませんが、味は一級品です。よければ、冷めないうちに一口どうぞ」

    「う、うん……。いただくわ」

    恐る恐るスープを口へと運んだライラだったが、スープが舌に触れた瞬間、その琥珀色の瞳が大きく見開かれた。

    「これ……美味しい……! 凄く美味しいよ、ハセン!」

    「それはよかったです。お口に合いましたか」

    「うん! なんだろう……喉を通り抜ける時に、ふわっとすごく良い香りがして。それに、雑味がなくて、すっごく透き通った味がする。……やっぱり、この国の水が綺麗だから、こんなに美味しいの?」

    「私も料理の詳しいことは分かりませんが……水の清らかさは、我が国が世界に誇れる宝です。それが美味しさの秘訣なのは、間違いないでしょうね。……気に入っていただけて、本当に安心しました」

    肩の荷が下りたハセンは、ふっと、今日一番の、心からの柔らかい笑みを浮かべた。それを見たライラも、つられるように嬉しそうな笑みをこぼす。

    「ハセンはさ、そうやって笑ってる方がずっといいよ」

    「え……?」

    「なんかさ、ここに来るまでずっと仏頂面で、真面目すぎてつまんない人かと思ってたの。でも……ふふ、今ので少し見え方が変わっちゃった」

    予想外の指摘に、ハセンは少し耳を赤くして慌てた。

    「あ……す、すみません。愛想がなくて、不快な思いをさせてしまっていたなら――」

    「いやいや! 嫌味で言ったんじゃないってば! ほんとに、今の笑顔が素敵だなーって思ったんだよ!」

    「しかし、殿下……」

    「あー、それも! その『殿下』っての、もうやめようよ! 私の名前はライラ。ライラって呼んで」

    「ほ……本当に、よろしいのですか? 私のような者が、そのような……」

    「いいの! ほら、練習! 呼んでみて?」

    「えっと、その……ラ、ライラ……様」

    「……ぷっ、あははは! ハセンって、本当に大真面目なんだね! 私の国には、そんなにガチガチに硬い人いないよー?」

    「そ、そうなのですか……?」

    「うん。みんなもっと気楽に楽しそうにしてるよ。街も娯楽に溢れてて、みーんな遊んでるし。……あ、でも、この国が退屈って言ってるわけじゃないからね! この国も、踊りとか、このスープとか、素敵なところがたくさんあって私、大好き!」

    彼女の裏表のない言葉に、ハセンは胸のつかえが取れるのを感じた。

    「……ふふ。そう言っていただけると、この国の人間として、本当に光栄です」

    「あ、今また笑ったー! 絶対その方がいいよ! ハセンって、そうやって笑ってた方が、ずっと可愛いんだから!」

    「はは……ライラ様には、本当に敵いませんね」

    「あーっ! 今の、ちょっと愛想笑いが入ってるでしょ! ハセンは私の婚約者になるんだから、もっと心から笑って! ほら、えいっ!」

    衣服が擦れる音と共に、ライラが不意にハセンの顔に触れた。急に顔を近づけられ、両手で頬をムギュッと挟まれたハセンは、大いに狼狽した。

    「ちょっ……!? ら、ライラひゃま、なにを……っ!?」

    「えへへ〜! ほら、無理やりにでも笑ったら、なんだか楽しくなってくるでしょ? ……あ、耳まで真っ赤! ハセンって、意外と照れ屋さんなんだね!」

    満足そうに手を離すライラの眩しい笑顔に、ハセンもゆっくりと表情を和ませていく。

    「……ライラ様、からかいすぎです……」

    「えへへ!」

    「……ふふ。……ライラ様のおかげで、今日の私は本当に笑ってばかりです」

    「えへへー! よきにはからえ〜!」

    その無邪気さに堪えきれず、ハセンは声を上げて笑った。下町の小さなスープ屋に、二人の弾んだ笑い声が響き渡る。
    スープを飲み終え、店を出た二人は、心地よい風に吹かれながら歩き出した。

    「はあ〜、美味しかったぁ! ねぇねぇ、次はどこ行こっか!」

    「ライラ様。そろそろ戻らねば、ザハバーラ国王陛下がご心配されるのでは……」

    「え? 大丈夫だよ、お父様も今頃どこかを見て回ってるだろうし。それに、ハセンが一緒にいてくれるんだから、心配ないよ!」

    「……私の身に代えても、あなたをお守りいたします」

    ハセンの真剣な眼差しに、ライラは一瞬ドキッとして、頬を染めながら「……うん。よろしくね!」と答えた。

    「あ! ねぇハセン、あそこで踊ってる子たちがいるよ!」

    「あぁ、祭りの練習をしているようですね。次の祭りは二ヶ月後に――」

    「楽しそう! 私も混ぜてもらっちゃお!」

    ドレスの裾を持ち上げて走り出すライラ。

    「ちょっ……ライラ様!?」

    「ねぇねぇ! 私にもその踊り、教えて!」

    「え、お姉ちゃん誰?」

    「私はザハバーラ王国の……じゃなくて、旅行でこの街に来たの! どうやって踊るの?」

    「こうだよ! つま先で立ちながら、ぐるっと回るの!」

    「ええっと……こう?」

    ライラが華麗にクルリと回る。

    「すごーい! お姉ちゃん、踊りすっごく上手だね!」

    「えへへ……実は昔、ちょっと習ってたんだよね」

    「じゃあ、これは? こうやって、せーのでジャンプするの!」

    「わぁ、楽しそう! 私もやってみる……それっ! ……あ、キャッ!?」

    慣れないコンクリートの地面に足元をすくわれ、ライラが体勢を崩した。

    「ライラ様!」

    地面に落ちる寸前、ハセンの腕がライラをしっかりと抱きかかえていた。恐る恐る目を開けたライラは、自分がハセンの胸の中にすっぽりと抱きしめられていることに気づき、顔を真っ赤に染める。

    「危ないですよ……。どうか無理はなさらないでください」

    すぐ近くで心配そうに見つめるハセンに、ライラは高鳴る鼓動を隠せず、蚊の鳴くような声で「は……はい……」と返すのが精一杯だった。
    そっと地面に降ろされたライラを見て、子供たちが冷やかすように声を上げる。

    「あー! お姉ちゃん、お兄ちゃんに抱っこされてるー! なんか、お姫様と王子様みたい!」

    「あ……あははは! そ、そうかなぁ? お姫様みたいなんて、嬉しいなぁ! さ、さぁ、ハセン! そろそろ行こっか!」

    照れるライラの姿に、ハセンは安堵の笑みをこぼした。

    「はい、ライラ様」

    「またねー! お姉ちゃん!」

    「うん! またねー!」

    遠ざかる子どもたちの元気な声を聞きながら、二人は再び歩き出す。

    「ライラ様、そろそろお戻りになりますか」

    「うん……ごめんね、振り回しちゃって。迷惑だったよね……?」

    「そんなことはありませんよ。あなたが元気で楽しそうにしてくれているのは、良いことです」

    ライラは嬉しそうにハセンを見上げ、心からの笑みを浮かべた。

    「……うん! ありがとう、ハセン。私、この街が大好きになっちゃった!」

    「……そう言っていただけて、本当によかったです。さぁ、戻りましょう。皆様がお待ちです」

    「はーい!」

    大国の思惑に縛られた冷徹な統合劇の裏で、二人の心は、確かに少しずつ重なり始めていた。

    第三章 引き裂かれる糸、流刑の王子

    それから数日後。ザハバーラ国王とライラ王女はすべての視察を終え、自国へと帰っていった。
    王宮の私室。帰国したライラに、ザハバーラ国王が温和な笑みを浮かべて語りかける。

    「ライラ、視察はどうだったかね? あの国は、お前の目にどう映った?」

    「うん、凄くいいところだと思ったよ!人も街も、みんな一生懸命で……すごく素敵だった」

    「そうか、それならよかった。……して、婚約者となるハセンのことは、どう思ったかね?」

    「……なんていうか、とっても真面目、かな。誠実で、すごくいい人だと思ったよ。国民にもね、自分の身分を隠してて偉ぶったりしないの! 笑顔で、誰にでも『ありがとう』って言える人だった。……その、あの笑顔は、私も素敵だな、なんて……。って! まだ完全にいいなって思った訳じゃなくて! ほら、初対面にしては、悪くないかなって感じ……だよ?」

    「はっはっは、そうかそうか」

    「だって、まだ会って初日だもん。もっとよく知り合わないと、何も分からないから……でも、分かっているよ。国が水不足で苦しんでいて、早く決めなきゃいけないってことは。だけど……」

    「いやいや、いいんだよ。ゆっくり考えればいい。この国はいずれ、お前のものになるんだ。お前が心から納得して決めれば、私はそれでいいんだよ」

    「……うん。ありがとう、お父様」

    だが、ザハバーラ国内における「弱小国との統合」への反対の声は、国王の予想を遥かに超えて大きかった。
    富裕層や貴族たちにとって、貧民の国を吸収することは、大国の威厳を損なう一大事。国中の至る所で激しいデモが巻き起こり、王室への反発は無視できない規模へと膨れ上がっていた。
    暴動寸前の情勢を前に、ザハバーラ国王は苦渋の決断を下し、再びライラの元を訪れた。

    「……ライラ、ちょっといいかね」

    「お父様? どうしたの、そんなに険しい顔をして」

    「お前も耳にしているだろう。シャハルマとの統合に対し、国内の反発が強まっていてね……このままでは国を揺るがす暴動が起きかねない。至急、対策を練らなければならなくなった」

    「そんな……。じゃあ、シャハルマとの話はどうなっちゃうの?」

    「あぁ、そこでなんだが……。実は、遠方に豊かな水源を多く持つ、別の発展国がいくつかあってね。……そこの王子たちと、一度会ってみてはくれないだろうか?」

    「え……? でも、それじゃあハセンは……?」

    「それは、あくまで最後の手段として残しておく。もし、他の国の王子たちと会ってみて、お前がどうしても『嫌だ』と言うなら、その時は反対派を力尽くで抑え込んででも、シャハルマとの統合を決めよう。だが、もし……新たな国の中に、お前が見初めるような良き王子がいれば、そちらと縁を結んでほしいのだ」

    「それは……」

    「もちろん、お前が嫌だと言うなら、この話は今すぐ白紙に戻す。どうだね……?」

    「それは……じゃあ、会う、だけなら……」

    「あぁ……ありがとう、愛しの我が娘よ。ザハバーラの未来を背負わせるのは大きな重荷だろうが……国のことは一旦忘れて、お前自身の目で、良い人を見つけておくれ」

    「うん……わかったわ」

    こうして、大国ザハバーラは一方的な都合により、シャハルマ国との国交交渉を「一時中断」とした。
    事実上の決裂を告げられたシャハルマ王宮。謁見の間には、国王の凄まじい怒号が響き渡っていた。

    「ハセン! お前には、心底がっかりしたぞ……!」

    ハセンは何も言わず、ただ頭を垂れていた。

    「まさか、あちらから一方的に国交を断絶されるなど! 無礼のないよう、完璧にもてなせと言ったはずだ! お前は一体、どのような不手際をやらかしたのだ!」

    「国王陛下……! どうか落ち着いてくださいませ! ハセン様は何一つ不調法など働いておりません! お目付け役として同行していたこのイシダが、しかと確認しております! あちらの王女殿下も、大変お喜びのご様子で――」

    「黙れ、イシダ! 結果がすべてだ! このまま国交を断たれては、我が国は遠からず滅びる! 民を、国を守るための唯一の希望だったというのに……っ!」

    激しく咳き込む国王に、イシダが「陛下! どうか御身を第一に……!」と駆け寄る。しかし国王はそれを拒み、冷酷な眼差しを息子に向けた。

    「構うな、下がっていろ! ……ハセン、お前に罰を言い渡す」

    「……はい」

    「これより数ヶ月の間、城を出て、下町で民と全く同じ生活を送れ。泥にまみれ、汗を流し、我が国の底辺にある現状をその目に焼き付けるのだ。それが出来ぬのなら、二度とこの城の敷居を跨ぐことは許さん!」

    「国王陛下……! 継承権を失ったハセン様に、それ以上の仕打ちはあまりにも苛烈にございます……!」

    「いいんだ、イシダ」

    ハセンはイシダを制し、静かに父を見つめた。

    「父上。この度の私の至らなさ、身を以て受け入れ、罰に服そうと思います」

    「……フン。言うようになったな。お前が住まう、下町の荒れ果てた家は、こちらで用意させておく。しっかりと、我が国の冷徹な『今』を、その目に焼き付けてくるがいい」

    「はっ。しかと、この胸に」

    こうして、ハセンはシャハルマの下町で、王族の冠を隠し過ごすこととなった。
    国王が用意したのは、かつて城の庭師を務めていた老婆の家だった。高齢を理由に引退したものの、現国王の幼少期から城を支え、今なお王室と密かな繋がりを持つ、信頼の厚い人物である。老婆はハセンの身分を伏せるよう命じられており、家族たちには、ハセンを「ただの青年」として紹介した。
    コツコツと杖を突く音が、下町の古びた家の前に響く。

    「坊ちゃん……いや、これからはハセン、だね。今日から私の家で、私の家族と共に仕事をしながら暮らしてもらうよ。城とは比べ物にならないほど質素な暮らしになるだろうが、困ったことがあったら何でも言いな。力になるからね」

    「感謝いたします、お婆様」

    「おっと、話し方も、もう少し砕けた方がいいね。下町の人間はそんな高貴な話し方はしないものだよ」

    「は、はい。分かった……あ、分かりました」

    「ふふ、それでいい。気楽にね、人生は楽しまなきゃ損だよ。それじゃ、私の家族たちを紹介するよ」

    古い木製の玄関扉がギィと開く。中には老婆の家族たちが待っていた。誰もが素朴で、優しい顔をしていた。

    「お前たち、昨日話していた子が来たよ。今日から数ヶ月、ここで一緒に生活してもらうからね」

    「よろしくお願いします」

    「まず、これが私の息子とその嫁だよ。二人とも、昔の事故で足が悪くてね。でも、字が書けるから、下町の人たちのために手紙を代筆する仕事をしてるんだ。安月給だけどね」

    「よろしくね、ゆっくりしていって」

    「ありがとうございます、数ヶ月間、お世話になります。よろしくお願いいたします」

    「ところで、何故ウチに来ることになったんだい? まだ、母さんから詳しいことを何も聞いてなくてね」

    その問いにハセンが答えに詰まると、老婆がすかさず助け舟を出した。

    「あぁ、それはね、ハセンの両親がちょっと事故で入院しちまってね。退院するまでの間、ウチで預かることにしたんだよ。庭師時代の古い仲間から頼まれてね、断れなかったんだ」

    「そうだったのか。ウチは母さんがいいって言うならそれで大歓迎さ。自分の家だと思って、気を使わずに過ごしてくれればいいからね」

    「ありがとうございます。御無礼のないよう、これよりは誠実に努めま――」

    パシッと、老婆の杖がハセンのお尻を小気味よく叩いた。

    「あいたっ……!?」

    老婆がハセンの耳元で小声で話す。

    「かしこまらないようにと言ったはずだよ。自分が元・王子だってバレたいのかい?」

    「す、すまん……じゃなくて、すみません……! えっと……私、じゃなくて僕は! 出来ることを、なんかこう、がっ、頑張る……ます!」

    不慣れな平民言葉にドギマギするハセンを見て、息子は声を上げて笑った。

    「ハハハ、ありがとうね。出来ることと言えば、娘の仕事の手伝いをお願いしたいかな。水運びをやっていてね、もうすぐ帰ってくる頃だけど……」

    その時、バタンと勢いよく玄関の扉が開いた。そこには、汗だくで健康的な褐色肌の、ポニーテールをした女の子が立っていた。

    「ただいまー!」

    「おかえり、カリア。お疲れ様」

    「うん、今日は一段と暑くて参っちゃったよ! もうヘトヘト! アハハ……って、そちらの人は誰?」

    「ちょうど今、お前の話をしていたところなんだよ。この子はハセン。私の庭師時代の仲間の孫さ。ほら、昨日話しただろ?」

    「あー! 今日からだったんだ! ごめんね、狭いところで! ゆっくりしてってよ、私、先にシャワー浴びてくるからさ!」

    カリアは風のようにサッと奥のシャワー室へと入っていった。

    「あれが、私の孫娘のカリアさ。明るく元気なのが取り柄で、本当にいい子なんだよ」

    「そうですね……大変気さくで、お人柄の良さが伺えます」

    再び、お尻に容赦なく杖が飛んでくる。

    「いたっ! ……え、ええっと! 凄く気立てが良さそうで、その、めっちゃ美人ですね……!」

    「ひっひっひ、そうだろう、そうだろう。私の自慢の孫娘さ」

    数分後、シャワーから上がってきたカリアが、濡れた髪をタオルで拭きながら戻ってきた。

    「ふぅ〜、サッパリした! ……って、ハセン、まだそんなガチガチに座ってるの? 君もシャワー浴びてきなよ、外、凄く暑かったでしょ?」

    「え? あ、そ……そうですね。お言葉に甘えて、お借りしてもよろしいでしょうか」

    「あはは! だから、そんなに畏まらなくて大丈夫だってば! ウチはみんなのんびりしてるからさ、もっと気楽にいきなよ」

    「は、はい。感謝しま……あ、いや、ありがとう」

    「うん、その調子! じゃあ、サッと汗を流しておいで!」

    「では、失礼します」

    ハセンが少しぎこちない足取りでシャワー室へと入っていく。その背中を見送ってから、老婆がカリアにいたずらっぽく声をかけた。

    「どうだい、カリア。悪い子じゃないだろ? 少しばかり堅物だけどね」

    「うん。なんていうか、礼儀正しすぎて……まるでどこかの王室の人みたい」

    「ハッハッハ! そりゃあ買い被りすぎだよ。まさか本物の王子様が、身分を隠してこんな下町のボロ家に転がり込んでくるわけなかろうて」

    「あはは、確かにね! そんなの物語の読み聞かせじゃあるまいし、ある訳ないか!」

    こうして、ハセンのおおらかな家庭での共同生活が始まった。

    第四章 心の重荷、分かち合う温もり

    次の日の早朝。まだ薄暗いうちから、人々は水を運んでいた。ハセンも、カリアの仕事を手伝うために外へと出ていた。

    「それじゃハセン! 今から基本の仕事を教えるから、しっかりついてきてね!」

    「はい、よろしくお願いいたします! ……あ、じゃなくて、よろしく」

    「あはは、無理しなくていいよ。……と言っても、やることは至ってシンプルなんだけどね。そこにある水の入った桶(おけ)を、指定の中継所まで運ぶだけさ」

    目の前にあるのは、並々と水が注がれた木製の大きな桶。ゆうに30リットルはあるその重量を前に、ハセンは意を決して持ち上げようとした。

    「ぐっ……! う、うぐぐ……っ、はぁっ! ……っ、お、重い……!」

    「アハハ! 初めての人はみんなそうなるよ! 大丈夫、これにはちょっとしたコツがあるんだ。こうやって、腕とか腰の力だけで無理に持ち上げようとしたらダメ。体幹を意識して、足の踏み込みの力で一気に押し上げるの……せーの、こう!」

    カリアがドサッと重い桶を軽々と持ち上げてみせる。

    「おぉ……! 素晴らしい……すごい力ですね」
    「毎日のことだからね。ハセンだってコツを掴めば、すぐに慣れるよ。でも、慣れるまでは絶対に無理しちゃダメだからね? 体を壊したら元も子もないんだから」

    「はい……。よし、やってみます。……ぐっ、ぬうぅ……よい、しょおぉっ……!」

    ズズッと、重い桶が地面から離れた。

    「おー! ちゃんと持ち上がったじゃん! 筋がいいよ、ハセン! じゃあ、その状態をキープしたまま、ここから3キロ先の中継所まで持っていこう!」

    「え。……さ、3キロ……!?」

    普段王室で執務ばかりをしていたハセンにとって、それは過酷な重労働だった。しかし、根からの努力家であるハセンは、必死にカリアの後を追った。

    「はぁっ……はぁっ……」

    「ちょっと、無理しちゃダメだって。少し休もう?」

    二人は桶を置き、建物の壁が作るわずかな日陰へと腰を下ろした。

    「ふぅ〜、今日も一段と暑いね。はいこれ、水筒。いっぱい飲んで」

    「あ……ありがとうございます!」

    ハセンは受け取り、ゴクゴクと勢いよく水を飲んだ。

    「ひひ、やっぱり喉カラカラだったんじゃん。無理しなくていいからさ、自分のペースでゆっくりいこうよ。でもさ、水運びをしたことがないなんて、この国では珍しいよね。今までは何の仕事をしてたの?」

    「え? それは……その、王室で働くための勉強……というか」

    「え! 王室で!? それは凄いね……あ、でもおばあちゃんが昔王室で働いてた時の仲間の孫……だっけ? だから王室と繋がりがあるのかぁ。いいなぁ、ウチもそういう繋がりがあればなぁ。って言っても、私は勉強苦手だから無理かぁ、アハハ!」

    「……でも、女性なのにこんなに力があって、凄いと思います」

    「私はこれしか出来ないからさ。でも自慢でもあるんだよ。この国の水質は、私達が守ってるんだってね。この国の貯水庫も、私たちのおじいちゃんたちが、国の命で作ったらしいんだ。それが今の時代まで、私たちの仕事として生きてくれてることには感謝しなきゃね」

    「……素晴らしい考え方だと思います。僕も、この水で生かしてもらっているので」

    「ひひ。外を歩くとコンクリートの照り返しがキツくて本当に大変だけどさ、本音を言えばもっと給料の高い仕事があればって思うんだ。ほら、ウチは両親とも足が悪いし、ばあちゃんももう歳だし、もっと家のために働きたいんだ。だからさ、ハセンがもし王室で働けるようになったら、私を雇ってよ!」

    「え……?」

    少しの間、沈黙が流れた。カリアは慌てて笑った。

    「……なーんて、冗談だよ! 勉強ひとつも出来ない私に出来る仕事なんてないよね! アハハ!」

    「……そんなこと、ないですよ。カリアさんは頑張り屋で、本当に面倒見が良い。どこへ行ったって、立派に働けると思います」

    「やだなぁ、そんなに真顔で褒められたって、何も出ないよ〜?」

    「嘘じゃありません。僕は、カリアさんや……ここで泥にまみれて働く人たちを見て、本当に痛感したんです。自分には、まだまだ足りないところだらけだな、って」

    「そうかなぁ? 私から見れば、難しい勉強が出来るだけでも、ハセンは十分すごいと思うけどね」

    「環境さえ与えられれば、勉強は誰にでも出来るんです。ですが……いくら本を読んで言葉を並べても、人の心を動かすことは、決して簡単じゃありません」

    「あー、確かにね。誰かの心を動かすのって、すごく難しそう」

    「ええ……だから、それに関しては、僕よりもカリアさんの方がずっと長けていると思います」

    「私が!? アハハ、無理無理! 私なんて、せいぜいこの重い水を動かすのが精一杯だよ!」

    「国を動かすのは国王で、言葉を並べるのは王宮の人間です。ですが、現場を動かしているのは、いつだって現場の人たちだ。カリアさんのその明るく、優しい人柄は、教科書の言葉よりもずっと、誰かの心を動かす力があると僕は思います」

    真っ直ぐな言葉に少し照れつつ、カリアは嬉しそうに微笑んだ。

    「……そっか。なんか、ありがとね! でも、ハセンって本当にすごいね。なんだか言葉の重みが、本物の『国の人』みたい」

    ハセンはハッとして、慌てて不自然な平民言葉を取り繕った。

    「えっ……あ、いや! これは……その、ただ! 本で読んだ知識を、知った風に並べただけで……!」

    「ひひ、冗談だよ。でも、すごく育ちが良いんだなっていうのは伝わってくる。それもハセンの素敵な魅力だと思うよ」

    「……ありがとうございます。……それでも、僕はもっと変わらなければいけないと、そう思うんです」

    「そう?」

    「はい。ここではみんな、泥だらけになりながら、一生懸命に『今』を生きている。なのに僕は……机の上で言葉を並べるだけの生き方だったから、人と関わることも上手くいかない。現に、大事な人の心すら……」

    「そんなことないよ? 今は普通に話せてるじゃん」

    「ありがとうございます。……でも、もし僕がカリアさんみたいに頑張れていたら、もっとどうにかなったんじゃないかって……僕が、もっと出来た人間だったなら……」

    ハセンが拳をギュッと握りしめる。その目には、こらえきれぬ涙が薄らと浮かんでいた。

    「ハセン……。何があったかは知らないけどさ。ハセンは努力家だし、こんなに一生懸命なんだから、もっと自分に自信を持っていいんだよ。私は何も難しいことは知らないけど……ハセンが悪い人だなんて、これっぽっちも思ってないからさ」

    カリアがハセンの背中を優しく撫でる。国を背負う重圧の中で生きてきたハセンにとって、その何も求めない優しさが温かく、同時に胸を締め付けた。

    「……すみません、変な話をしてしまって。困らせるつもりはなかったのですが…………っ、そろそろ、行きましょうか」

    ハセンが立ち上がろうとしたその時、カリアが不意に彼の腕を引っ張った。

    「……ちょっと待って」

    「うわっ……!? カ……カリアさん!? なにを……っ」

    グイッと腕を引っ張られ体勢を崩したハセンを、カリアが正面から強く抱きしめた。

    「……私はさ、ハセンのこと何にも知らないよ? 昨日会ったばっかりだしね。でも、ばあちゃんが言ってたんだ。誰かが辛そうな時は、理屈抜きで、ギュッと抱きしめてあげな、って」

    「え……?」

    「そしたら、その人の重荷を、抱きしめた側がほんの少しだけ分けてもらえるんだって。ほんの少しだけだけどさ……だから、無理に格好つけなくていいよ。もうちょっとだけ、休もう?」

    「……っ」

    ハセンは戸惑いながらも、その嘘のない温もりに、張り詰めていた肩の力がゆっくりと抜けていくのを感じた。ずっと一人で耐えてきた心の糸が、下町の少女の腕の中で、静かに解きほぐされていく。

    「……少し落ち着いた?」

    「……はい。……でも、もう少しだけ──」

    「うん。いいよ、ゆっくり休もう。大丈夫だから。ゆっくりでいいからね」

    「ありがとう、ございます……」

    感情を押し殺し、我慢を続けてきたハセンにとって、それは生まれて初めて口にできた、小さな「わがまま」の瞬間だった。
    数分後。すっかり落ち着いたハセンは、地面に腰掛け、カリアと静かに言葉を交わしていた。

    「そっか……。大切な人をつなぎ止められなかったって……そりゃ辛いよねぇ……」

    「はい……自分の無力さを思い知らされました。ですが、ずっと思い悩んで、ここに立ち止まっていても仕方がないとも思っています。ここで汗を流す皆さんの姿を見て……僕も前を向いて、今自分に出来ることを精一杯やろうと、そう思いました」

    「いいじゃん! うん、スッキリした顔になったね、ハセン!」

    「はい。カリアさんのおかげです」

    「ひひ、いつでも頼ってくれていいからね。なんたって私は力が有り余ってるんだから!」

    「はい。頼りにしています」

    「よし! じゃあ、そろそろ水運びの続きといこうか! ハセン、もう足は動くかい?」

    「はい! 行きましょう!」

    こうして、ハセンの泥臭くも実直な日々が始まった。
    来る日も来る日も、肩に食い込む桶の重みに耐え、汗水を流して大地を踏みしめる。カリアの屈託のない明るさに支えられながらも、夜は泥のように眠り、朝はまだ見ぬ夜明けと共に起き上がる日々。毎日を共にするカリアとの絆も、日に日に強くなっていった。

    第五章 忍び寄る傲慢、玉座の覚悟

    そんな日々が数ヶ月続いたある日、ハセンの耳にある悲報が舞い込んだ。シャハルマ国王が、突然の病に倒れたのだ。ハセンは泥にまみれた衣服のまま、急ぎ城の奥深くへと駆け戻った。

    「おぉ……ハセン様! ご無事で……!」

    イシダが駆け寄る。

    「あぁ、私は大丈夫だ。それより、父上は……!」

    「先日倒れられてから、未だ意識が戻りません。度重なる国交交渉の心労が、御体に障ったものかと……」

    「そうか……」

    「国王陛下は……下町へ向かうハセン様の背中を、ずっと心配そうに見送っておられました。表面上はあのように峻烈に当たられていても、根はやはり、我が子を想う一人の父親なのだと……私は、そう信じております」

    「父上……」

    イシダは溢れそうになる涙を堪えるように、一つ小さく息を吐いた。

    「……ですが、悲しみに暮れている時間はありません。今、私たちがなすべきことをやらねば……」

    「……あぁ。ザハバーラとの統合交渉は、どうなっている」

    「未だ保留のまま、あちらからの音沙汰はございません。……結果として、完全に足元をすくわれる形になってしまいました」

    「そうか……だが、まだ破談になったわけではない。あちらの出方を待とう」

    「はい。……しかしハセン様、より差し迫った問題がございます。国王陛下がこのような状態である今、誰が国政の『代理』を務めるかです」

    「それは……」

    「ハセン様はすでに王位継承権を剥奪された身。公式に表に立つことは適いません。あぁ……こうなるのであれば、あのような理不尽な条約など結ぶべきではなかった……!」

    「落ち着いてくれ、イシダ。……君が、国王代理を務めるんだ」

    イシダは息を呑んだ。

    「わ、私が、ですか……!?」

    「あぁ。今、この国で父上の次に国政を理解し、民を想っているのはイシダ、君しかいない。頼む」

    「……しかし、私のような一介の臣下が代理など、他国の手前、示しがつきません」

    「私は君を誰よりも信頼している。イシダが決めたことなら、私はどんな決定にも従おう」

    イシダはハセンの真っ直ぐな瞳に圧倒され、深く一礼した。

    「……ハセン様。分かりました。国王陛下が目を覚まされるその日まで、このイシダ、一時代理を心して務め上げます」

    「あぁ。頼んだよ、イシダ」

    一方その頃、大国ザハバーラでは、遠方の発展国から集まった王子たちとライラ王女の面会が続いていた。しかし、どの王子も自国の利益や傲慢な態度を隠そうとせず、面会は難航を極めていた。

    「ライラ……あまり気負わなくてもいいのだよ。やはり、気が進まないかね?」

    ザハバーラ国王が心配そうに覗き込む。

    「ごめんなさい、お父様……。でも、心が通い合うような相手でなければ、どうしても私は……」

    「あぁ、分かっているとも。お前の気持ちが一番大事だ、事を急がなくてもいい」

    「うん……」

    「……まだ一人だけ、面会をしていない王子がいる。最後に彼と会ってみて欲しい。その王子との面会でもお前が首を縦に振らないのであれば、私は反対派を力尽くで抑え込み、シャハルマとの統合を正式に決定しよう。それでどうだね?」

    「……うん。分かったわ、お父様。その最後の一人だけ……会ってみる」

    こうして、最後に残された豊かな水源を持つ大国――「アインザハル国」の王子・シリウスが、ザハバーラの王宮へと足を踏み入れることとなった。
    そんな折、シャハルマ国をさらなる悲劇が襲う。病床に伏していた国王が、ついに帰らぬ人となったのだ。偉大な長を失った悲しみは国中に広がり、下町からも哀悼の声が響き渡る。
    主を失った王宮の謁見の間で、ハセンとイシダは対峙していた。

    「ハセン様! 滅相もございません! 私がシャハルマの王位を継ぐなど、あってはならないことです!」

    「イシダ、他に道はない。国を揺るがさないためにも、君が立つんだ」

    「なりませぬ! 代理ならばともかく、私が玉座に就くなど……! 本来、この国を率いるべき正統なる血筋はあなたです、ハセン様! あなたが新国王になるべきです!」

    「無理だと言っているだろう。私には、すでに継承権がない」

    「ダメです、ハセン様……! どうしてもと仰るなら、私の首を撥ねてでも、あなたが国王になってください!」

    イシダは激しい悔しさと忠義の情に声を震わせ、一歩前へ出た。

    「私はあなたの教育係として、あなたが幼少の頃からどれほど厳しい試練に耐え、この国のために心を砕いてこられたかを誰よりも近くで見てきました……! 民のために生きるあなたのようなお方が国王になれず、なぜ私がその席を奪わねばならないのですか! 私は……私は悔しくてなりません……っ!」

    ハセンはイシダの肩に静かに手を置き、諭すように温かい声で語りかけた。

    「……イシダ。下町で泥にまみれて確信したんだ。民が求めているのは、王の血筋ではなく、今日を生きるための水と、明日を信じられる導き手だ。父上から授かった『誠実さ』を最も体現出来るのは、私ではなく、これまで国を支え続けてくれた君なんだ。世話になった君が国を背負ってくれるなら、私には一片の悔いもない」

    イシダは胸を突かれ、涙をこらえるように拳を握りしめた。

    「ハセン様……あなたというお方は、どこまで……これほどまでに高潔なお心を前にして、これ以上背を向けることは、臣下としての不忠。……本当に、私が国王の座に就いても、よろしいのですね?」

    「あぁ。シャハルマを、頼んだよ」

    「……謹んで、お受けいたします。ハセン様のお気持ちをこの魂に刻み、シャハルマ国王として、命に代えてもこの国と民を守り抜くと誓いましょう。ですが、もしザハバーラとの国交が結ばれ、あなたの身分が回復したその時は……必ずや、この玉座をお返しいたします。その時、またあなたのお側でお仕えすることを、お許しいただけますか……?」

    「あぁ、もちろんだ。その日を楽しみにしているよ」

    「ありがたき幸せ……」

    固い約束を交わす二人。そこには、何者にも引き裂けぬ確かな信頼が息づいていた。

    第六章 交錯する運命、大水路計画

    同じ頃、大国ザハバーラでは、ライラ王女の前に新たな婚約者候補が現れていた。

    「入りたまえ」

    国王の許しを得て、毅然とした足取りで歩み出てきたのは、一人の青年だった。夜空を溶かし込んだような漆黒の髪に、すべてを見透かすような冷徹な双眸。洗練された一挙手一投足、そして誰もが息を呑むほどの圧倒的な美貌を持つ男。

    「初めまして、ザハバーラ国王陛下。そして、美しきライラ王女殿下。アインザハル国が第一王子、シリウス・アル・ザハルにございます」

    ライラはその威圧的な美しさに思わず言葉を失った。

    「えっと……その、私は、ライラ。ザハバーラ王国の、王女です……」

    「ふふ、そう緊張なさらないでください、可憐な姫君。あなたにお目にかかるため、遠路はるばる馬を走らせてまいりました。……噂に聞いていた以上に、心惹かれる輝きを放つお方だ。国王陛下。我がアインザハルは、果てなき水源を抱く豊かな国。国民のほとんどは富裕層で飢えを知らず、渇きに怯えることもございません。貴国が抱える憂いを、我が国の水で潤し、共に手を取り合って歩んでいきたいと考えております。我が国との永きにわたる国交、そして何より――ライラ王女殿下との婚姻を、前向きにご検討いただけますと幸いです」

    ザハバーラ国王はシリウスの提案に深く感銘を受けた。

    「おぉ……素晴らしい。では、我が国の深刻な夏枯れの折には、すぐにでもその豊かな水源から、水を融通していただけるのですな?」

    「はっ。国王陛下のご期待に沿えるよう、万全の体制を整え、迅速に駆けつける所存にございます」

    「なるほど……。どうだ、ライラ。彼ほど頼もしいお相手なら、決して悪くないのではないか?」

    「え……? えっと……私は……」

    シリウスはすっとライラに一歩近づき、優しく、しかし真っ直ぐに彼女の瞳を射すくめた。

    「ライラ王女。我が国と国交を結べば、あなたの愛する国民を、飢えから守ることが出来ます。私はあなたに、そしてあなたの国のすべての人々に、決して渇きのない笑顔をお約束しましょう」

    「どうだね、ライラ……。アインザハル国との婚姻となれば、国内の反対派の貴族たちも、これ以上文句は言えまい」

    「で、でも……お父様、私は……!」

    胸のつかえが取れず、言葉に詰まるライラに対し、シリウスはあえて物腰柔らかなまま、逃げ道を塞ぐように告げた。

    「王女殿下。不躾ながら、我が国との国交を望み、首を長くして待っている国は、世界中に数多ございます。私たちの時間も、また貴国の国民が耐えている渇きも、決して無限ではありません。……お決めいただけるのであれば、どうか今ここで、ご決断を」

    「私は……その……っ……」

    「ライラ……どうする?」

    「ライラ王女殿下。どうか、賢明なご決断を」

    激しい動悸の中で、ライラはついに絞り出すように答えた。

    「私……私は……アインザハル国と、国交を、結びます」

    「……素晴らしい。流石はライラ王女、実に聡明で、気高き決断を下される。そのお心に、我がアインザハルは必ずや……最大級の誠意をもってお応えいたしましょう」

    ザハバーラ国王は満足そうに声を上げた。

    「よし……! 余はこれより、アインザハル国との国交樹立を正式に宣言する! シリウス王子。いずれ我が娘の婿となるにあたり、ゆくゆくは両国の完全なる統合も視野に入れ、まずは強固な同盟を結びたい。至急、アインザハル国王へその旨を通達せよ!」

    「はっ! 国王陛下、すべてこのシリウスにお任せください」

    自分の手を見つめながら、激しい動悸に呼吸を乱すライラ。押し寄せる大国の重圧と、王女としての責任。その濁流に呑まれるように、婚姻を受け入れてしまった。
    シャハルマの街で過ごした愛おしい時間、スープの味、そして、不器用に笑ってくれたハセンの瞳……。あらゆる想いが頭の中を駆け巡っては、冷たい現実の前に消えていった。
    その数日後。シャハルマ王宮へ、ザハバーラからの非情なる通達が届けられた。それは、国交交渉の「完全なる破棄」を告げるものだった。

    「国交断絶……!? そんな、まさか……! あぁ……恐れていた事態が現実となってしまった……」

    イシダが痛恨の声を上げる中、ハセンは静かにそれを受け止めた。

    「……っ! ……落ち着くんだ、イシダ。私は大丈夫だ。王子になれずとも、私は……平気だから。ザハバーラのことも、恨んではいないよ」

    「……ハセン様。なんとお労しい……ですが、ハセン様が平民扱いされたままという事以上に、問題は深刻です。国の貧困は解決されず、我が国民たちの期待も水の泡……今この国に必要なのは、民の信頼を回復するための『新たな道』を見つけることです」

    「あぁ……民は今この瞬間も、過酷な水運びの重労働に従事しながら、まともな給料さえもらえずに泥をすすっている。あの状況を根本から打破しなければ、我が国に未来はない……」

    「……しかし、我が国にある資源は水のみ。他国からは足元を見られ、常に安値で買い叩かれているのが現状です。もし、我が国から他国へ通ずる『水路』でもあれば、我が国の水源に、こちらから高い付加価値を付けられたのですが……」

    その言葉に、ハセンはハッとして目を見開いた。

    「……それだ、イシダ」

    「え……? と、申しますと……」

    「水路だよ、イシダ! 我が国から隣国へ、直接繋がる大水路を築くんだ! それがあれば、人力に頼らず他国へ水を効率よく大量に供給出来る。その水の使用料として、我が国は恒久的な資金を得られるはずだ!」

    「ハ……ハセン様。それは机上の空論にございます。我が国には、そんな巨大な水路を築く予算など、どこを探しても……」

    「予算は他国に出させるんだ! 水を欲している周辺国に『初期投資』として建築資金を提供させる。水路が完成したあかつきには、出資した国へ優先的に水を安く流す契約を結べば、乗ってくる国はあるはずだ!」

    「初期投資を他国に……! ……なるほど、筋は通ります。ですがハセン様、水路を造るための膨大な『労働力』はどうされるのです? 人件費こそ、我が国の一番の課題です。他国から労働力を雇う金など……」

    「それこそ、我が国の民に頼むんだ!」

    ハセンの瞳に強い光が宿る。

    「今のような、安い賃金じゃない。国が主導して、労働力に見合うだけの『高い給料』を民にしっかり支払う。我が国から高給の仕事として大募集をかけるんだ! そうすれば、他国から労働力を派遣する費用もかからない。民は自国のインフラになる水路を自分たちの手で造り、その労働によって生活を潤すことが出来る!」

    「……なんという、素晴らしい妙策でしょうか……! ハセン様! あなたは天才だ! 泥にまみれる民の強さを、そのまま国の力に変える……。試してみる価値は十分にあります! まずは現在、まだ小規模な協定を結んでいる隣国へ、至急使者を送りましょう! ハセン様……必ずや、この施策を成功させ、我が国を救いましょうぞ!」

    「あぁ……! やろう、イシダ!」

    こうして、シャハルマ国は隣国へと新たな水路建設の共同提案を提出した。水不足に悩んでいた隣国は、その画期的な提案に二つ返事で合意した。
    吉報を受け取ったハセンとイシダは、手を取り合い、抱き合って喜びを露わにした。そして、その知らせは瞬く間に国中へと行き渡り、下町には「国を救う高給な仕事がある」と、応募する民の声が後を絶たなかった。

    第七章 光溢れる現場、ささやかな誓い

    工事は異例のスピードで進められた。シャハルマの国民たちの労働力は、他国からも大きく評価されるほど、熱心で、よく働いた。
    そんなある日、ハセンは活気に溢れる工事現場へと赴き、ある人を探していた。
    カンカンと小気味良くカナヅチの鳴る音の向こうから、聞き覚えのある楽しげな笑い声が聞こえてきた。

    「アハハ、そこは私に任せてよ!」

    「……! あの声は……!」

    ハセンが顔を輝かせて駆け寄ると、工具を置いたカリアが驚いたように目を丸くした。

    「ん? ……あれ、ハセン!? どうしてここに……もしかして、ハセンもこの水路の仕事に応募したの!?」

    「あ……いや、実は、その……」

    カリアはハセンの上質な衣服に目を留めた。

    「あれ……? その格好、もしかして……ハセン、ついに王宮で働けるようになったんだね!」

    「え?」

    「すごい! 頑張ったんだね……! 私、ハセンのことずっと心配してたからさ……本当に嬉しいよ! よかったね!」

    「あ、あー……はい。そ、そうですね……! なんとか、勉強の甲斐あって……!」

    「よかったぁ〜! ……でも、ここで何してるの? 王宮の役人さんなら、現場の仕事じゃないはずでしょ?」

    「えっと……それは、ですね――」

    その時、遠くから「ハセン様! 探しておりましたぞ!」と大声が近づいてきた。新国王となったイシダだった。「隣国からの使者が来られまして、水路計画の詳しいお話を聞きたいと尋ねられ――」
    それを見たカリアは、息を呑んで硬直した。

    「えっ……! こ、国王陛下……!?」

    「えっ! あ、あぁっ! こ、国王陛下様ァーっ!?」

    ハセンは大慌てでイシダの前に滑り込み、大袈裟に頭を垂れた。その様子を見た周囲の民たちも次々とイシダに気づき、一斉にコンクリートの地面に膝をついて頭を垂れる。
    突然の事態に完全に困惑したイシダは、「あ、いや……み、皆の者、おもてを上げよ……!」と告げ、一同が立ち上がると、ハセンに詰め寄って大慌ての小声で囁いた。

    「ちょっと、ハセン様……!? 何故いきなり私なんかに跪いたりされるのですか……!」

    「諸事情だ……! お願いだから、今は私をただの部下として扱ってくれ……っ!」

    「は、はぁ……? 何故……?」

    二人の妙な様子をじっと見ていたカリアが、ぽつりと言った。

    「……ねぇ、ちょっと聞こえちゃったんだけど。この水路計画って……もしかして、ハセンが考えたものなの?」

    ハセンは観念してポリポリと頭を掻いた。

    「あ……いや、それは―─まぁ……実は、そうなんです」

    「えぇ……すっご〜い……スピード出世じゃん……」

    あまりの衝撃に、カリアは逆に冷静になっていた。

    「まぁ……その、ハハハ……」

    「……でも、夢が叶って本当に良かったね。ハセンの頑張り、ちゃんと足りてたじゃん」

    「あ……それは、カリアさんのおかげなんです。僕がこの計画を思いつけたのは、カリアさんの元気な姿や、『もっと稼ぎたい』って言っていた言葉があったからで……どうすれば皆が良くなるのか、僕なりに必死に考えて……だから……本当に、ありがとうございます」

    「え、いやいや! 私なんかにお礼言っちゃダメだって! 全部ハセンが努力した結果だよ」

    ハセンは真っ直ぐにカリアの目を見つめた。

    「カリアさんの明るくて、優しいところに、僕は何度も救われました。……だから、この人を幸せにしたいって、本気で思ったんです」

    「……え?」

    「あ……いや! これはそのっ、変な意味ではなく、つまり愛の告白とかそういうことでは決してなくて……!」

    ハセンの凄まじいうろたえっぷりに、カリアは思わず吹き出した。

    「……ひひっ。じゃあ何? 告白じゃなかったら、なんなのさ?」

    「えっと……その……っ、それは、つまり……」

    完全に言葉に詰まり、しどろもどろになるハセン。カリアはその頭を優しく、くしゃくしゃと撫でた。

    「……なーんてね、冗談だよ! アハハ! そうやってすぐガチガチになっちゃうところ、ハセンらしくて好きだよ! ……でも、ありがとうね。ハセンのおかげで、ちゃんとしたお給料をもらえて、家族を養えてる。……お礼を言うべきなのは、私のほうだったね」

    「カリアさん……。冗談ではなく、本当にカリアさんを幸せにしたいと、本気で思いました。カリアさんの温もりは、ずっと、僕の心の支えです。だから……その、どう言葉にすればいいか分からないのですが、えっと……つまり……」

    二人の初々しい様子をずっと後ろで見守っていたイシダは、笑みを噛み殺しながらそっと一歩前に出た。

    「……ハセン様。国王たる私の言葉で、差し出がましい一言をお許しください。――カリア殿」

    「は、はい……っ!?」

    「……この青年と、生涯を共にしてはくれませんか? 不器用で、生真面目なところもありますが……誰よりも誠実で、民の幸せを願える、私の誇りのような男です」

    「イ……イシダ!? ――じゃなかった、国王陛下……っ!? な、何を仰るのですか……!」

    大混乱するハセンをよそに、イシダは微笑む。

    「ふふ。……いかがでしょうか、カリア殿」

    カリアは顔を真っ赤にしながら、照れくさそうに頭を掻いた。

    「えっと……あ、アハハ。国王陛下の直々の命令とあらば、断るわけにはいかないよね……。でも、ハセン。本当に、私なんかでいいの……?」

    「あ……それは、こちらのセリフです。僕なんかでよければ……ずっとあなたの側にいさせてください」

    「……ひひっ。良いに決まってるじゃん!」

    カリアはハセンの体をひょいと豪快に抱き上げた。

    「う……うわあぁっ!? カ、カリアさん……っ!?」

    「……私、ハセンが好きだよ」

    真っ直ぐな言葉に不意をつかれ、ハセンは頬を赤らめながらも、しっかりと答えた。

    「……僕もです、カリアさん。……あなたを幸せにさせてください」

    「……うん!」

    こうして、ハセンはカリアと婚約することとなった。後ろ盾を失ったシャハルマ国であったが、民の力を結集した大水路事業により、自国の力だけで急速な発展を遂げていく。

    第八章 崩れ去る檻、渇いた涙

    その頃――大国との結びつきを選んだはずのザハバーラ王国では、深刻な問題が起きていた。

    「……これが、我が国と国交を結ぶ条件だと言うのか……?」

    ザハバーラ国王の前に、シリウスが完璧な微笑を浮かべて立っていた。

    「はい、国王陛下。ザハバーラという遠方へ水を運ぶというのは、同盟関係にあるとはいえ、我が国にとっても多大な負担となります。まずは先んじて、工事の初期投資として『3000リア』をご援助願いたく存じます」

    「3000リアだと……!? 地方の城が丸ごと一つ建つほどの巨費だぞ……! それを初期投資と言い張るのか。あまりに法外ではないか……!」

    「……国王陛下。お言葉ですが、我が国との国交を望む国は他にも数多ございます。ザハバーラだけに人員を割くわけにはいかないのですよ。ただ、相応の誠意をいただけるのであれば、私は率先して貴国へ水を運ばせていただこう、と考えているのです。……陛下、貴国は今、深刻な水不足に陥っています。国家の名誉を守り、水源をも確保したいのであれば、ここで出し惜しみをするべきではないと思いますが……?」

    「ううむ……っ。す、少し、考えさせてはくれまいか……?」

    「陛下、時は一刻を争います。民の生活が干上がれば、国の質も落ちていく。今この瞬間にも農作物は枯れ、民は乾きに嘆き、いつ暴動が起きてもおかしくはない。ご決断を」

    「……っ! ……わ、分かった。そちらの条件を飲もう……」

    「……さすがは大国の国王陛下。英断です、恐れ入りました。では、これより水の配給を手配いたします。我が国王へこの素晴らしき締結を報告してまいりますゆえ、暫しお待ちを」

    シリウスは優雅にお辞儀をし、足早に城を後にした。その目は一切笑っていなかった。
    その夜。一人、窓辺に佇むライラは、自らが下した決断の重さに押し潰されそうになっていた。

    「……はぁ。……きっと、私の決断は間違っていたのよね。シャハルマのあのスープ……もう一度、飲んでみたかったな。子供たちが、お祭りで楽しそうに踊ってる姿も、見てみたかった……」

    ライラは目線を落とした。

    「ハセン……。ごめんね、ハセン……私は……あなたを選びたかった……っ」

    窓辺に映るライラの瞳から、涙が一粒、静かに零れ落ちた。
    決められた恋。その始まりが幸せだと気付いたのは、すべてを失った後だった。優しく、誠実な王子を想いながら、少女はまた、夜の闇に涙を零した。
    時は流れ、翌年の夏。ザハバーラは例年通り、過酷な夏枯れを迎えていた。ザハバーラ国王はすぐさまアインザハル国へ水の配給を要請した。しかし、待てど暮らせど、水はおろか連絡さえ返ってはこなかった。
    痺れを切らした国王はアインザハルへ使者を送るが、戻ってきた使者から告げられた報告は、驚くべきものだった。

    「……人員が足りないだと……!?」

    「は、はい……。アインザハルの内情は非常に厳しく、我が国への配給が見込めるのは、早くとも数ヶ月先とのことです……」

    「では、我が国が支払ったあの莫大な初期投資は何だったのだ! 我が国の国庫を、ただ騙し取られただけではないか……!」

    「……アインザハル国は、見栄えこそ華やかですが、その内情は酷い有様でした……。一部の富裕層だけが私腹を肥やし、貧困層には何の施しも与えない……もはや奴隷のような扱いでございます。民のほとんどが万年食糧難に陥っており、奴隷として生きるか、死を待つかという状況で……」

    「国民のほとんどが豊かだと聞いていたが……貧困層を見捨てて、国民の数を間引いていただけだというのか……!?」

    「……はい、そのようでございます……」

    「使者よ! 今すぐアインザハル国へとって返し、同盟の即時破棄を通達せよ! 見栄えだけのハリボテ国家など、金輪際、我が国とは無関係であると伝えろ!」

    アインザハルは、衰退していく国力を隠し、他国からの支援金と初期投資を毟り取ることで存続していた詐欺国家だったのだ。同盟は即座に破棄されたものの、ザハバーラ王国は再び、深刻な水不足へと突き落とされることとなった。
    追い詰められたザハバーラ国王は、最後の手段として、ライラの元へと向かった。

    「……え? シャハルマ国と、国交を結び直す……?」

    「あ、あぁ……そうだ。私が間違っていた。隣国であるシャハルマとの統合は、破棄すべきではなかったのだ。再度、シャハルマ国へと出向き、もう一度国交を結んでもらえるよう頭を下げに行こうと思う。ライラ……お前も、付いてきてくれるか?」

    「え……。また、シャハルマに、行けるの……?」

    「あぁ、そうだ! ハセンは実に良い青年だった。我が国の王子として、今度こそ快く迎え入れようではないか!」

    ライラはパッと顔を輝かせた。

    「ほんと……!? 分かった……! 私、行くわ!」
    (また、ハセンに会える……! 会いたい……ハセン! 私……私は、ハセンのことが好きだったんだ……!)

    ザハバーラ国王とライラ王女は、再びシャハルマへと馬を走らせた。ライラの心は、ハセンに会える喜びと希望で満たされていた。彼の誠実な声、はにかんだ表情、優しい仕草を一つ一つ思い出しながら、馬車を進める。

    最終章 届かぬ雨、それぞれの夜明け

    シャハルマ国へ到着したザハバーラ国王は、シャハルマ国王と話し合うこととなった。

    「お久しぶりでございます、ザハバーラ国王陛下。そして、ライラ王女殿下」

    「いやぁ、久方ぶりであるな! 国王陛下は元気であられるか!」

    「……残念ながら、前国王は数ヶ月前に病に倒れ、この世を去られました」

    「そ……それは、何とも痛ましい。心より冥福をお祈りする」

    「現在は、不肖ながらこの私が、シャハルマ国の国王の座を引き継いでおります。……さて、本日のご用件はなんでしょうかな」

    「うむ、単刀直入に話そう。我がザハバーラ王国は、再度シャハルマとの国交を結び、国家統合を図りたい! 一度はこちらから破棄してしまった国交だが、それが大きな過ちであったと気づいたのだ。我が国の非礼は、いくらでも謝罪しよう。本当に申し訳なかった……!」

    ザハバーラ国王が深く頭を下げる。ライラも祈るような想いでイシダを見つめた。しかし、イシダの表情は冷徹そのものだった。

    「……我が国は、ザハバーラ王国との国交交渉を、今後一切受け入れないことといたします」

    「なっ……何だと……!?」

    「え……?」

    驚愕する二人に、イシダは静かに、しかし容赦のない事実を突きつけた。

    「貴国が下した、あの一方的な国交断絶……それにより、正当な後継者であられたハセン様は、貴国との条約の縛りによって王位継承権を剥奪されました。それだけではありません。国交交渉の急激な破綻により、心労から前国王は病を悪化させて崩御された。ハセン様は、貴国の身勝手な振る舞いのせいですべてを失い、平民として生きることを余儀なくされたのです」

    「……そんな……っ」

    「貴国のあまりにも不誠実な外交は、到底許されるものではありません。なにより、我が国は現在、自力で築いた水路によって数ヶ国と正規の価格で取引を行っており、国は豊かさを取り戻しつつあります。すべては、ハセン様が残してくださった偉大な国政の成果にございます。貴国とこれ以上、お話しすることは何もありません。どうぞ、お引き取りください」

    「くっ……!」

    ザハバーラ国王が絶望に顔を歪める中、ライラは耐えきれずに一歩前へ出た。

    「……っ! イシダ様! ハセンは……ハセンはどこにいるのですか!? 一目でいいから、ハセンに会わせてはもらえませんか……! 一言、一言だけでいいんです……! 私の口から、ハセンにちゃんと謝りたいんです……!」

    「ライラ……」

    「……それは、不可能です」

    「どうして……!」

    「……ライラ王女殿下。あなたに罪がないことは重々承知しております。ですが、一つだけお教えしましょう。ハセン様は……婚約されました」

    ライラの思考が真っ白に染まる。

    「……え」

    「現在のハセン様は、守るべき家庭を持つ身。もし、あなたが本当にハセン様の幸せを願うとおっしゃるのであれば――どうかこのまま、二度と会わずに、お帰りください」

    「……ハセンが……婚約……」

    「……ライラ。すまない、すべては私の責任だ。……ここへ連れて来るべきではなかった。……帰ろう」

    国王がライラの肩を抱く。しかし、ライラの身体からは完全に力が抜けていた。

    「……ハセンは……私が……私が。……私が、全部壊したんだ。私が……私……が……っ。……あぁ……あああぁーーっ!!」

    ライラはその場に崩れ落ち、激しく泣き崩れた。
    国家という巨大な力に振り回され、ようやく自分の本当の想いに気づいた少女は、あまりにも深い、癒えぬ傷を心に負った。その後、ザハバーラ国王に支えられるようにして、ライラは静まり返るシャハルマの王宮を後にした。彼女の流した涙は、渇いた大国を潤す水には、決してなり得なかった。
    それから、しばらくの後。王宮の廊下を歩いていたハセンが、ふとイシダに声をかけた。

    「イシダ。先ほど、誰か城に来ていたようだが……何かあったのか?」

    イシダは振り返り、いつもの穏やかな表情に戻って微笑んだ。

    「……いえ。ハセン様が気になさる必要など何一つない、実に些細なことでございました」

    「……そうか。それならいいんだが」

    「さぁ、ハセン様。奥方様は今、身重のお体でいらっしゃいます。どうか早くお傍に戻り、支えて差し上げてください」

    「……あぁ、分かった。国の政治のことは、すっかり君に負担をかけるが……よろしく頼んだよ、イシダ」

    「ええ、ハセン様。……この身に代えても、このシャハルマは、私が必ずお守りいたしますよ」

    ハセンが愛する妻の待つ私室へと戻っていくのを見送り、イシダは静かに窓の外の空を見上げた。
    日は落ちかけ、厚い雲が空を陰らせる中、その僅かな隙間から、冷ややかな月が顔を出し始めていた。
    ――まるで、今にも雨が降り出しそうな、暗い天気であった。


    #創作大賞2026 #ファンタジー小説部門


     
     
    声劇台本をメインに書いている人です。 たまに一人称目線の小説も書きます。 未熟者ですが、誰かに読んでもらえればなと思います。

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