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母と祖母から聞いた東京大空襲― 五歳の少女が生き延びた夜 ―


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    【はじめに】

    母は、終戦記念日になると、
    東京大空襲の夜の話をしてくれた。

    そのとき母は、まだ五歳だった。

    私が聞いてきたその記憶を、
    ここに残します。

    【第一章 本所の長屋の暮らし】

    かよは、当時の本所区菊川(現在の東京都墨田区あたり)の長屋で生まれた。家族は五人。
    父、母、祖父、そして三つ年上の姉のなみ。

    長屋の家々は壁一枚でつながっていて、隣の家の声もよく聞こえた。

    朝になれば、味噌汁の匂いが漂い、
    夕方には子どもたちの声が路地に響いた。
    そんな下町だった。

    なみは、近所でも評判の美人だった。
    細くて、目がくりっとしている。
    けれど、性格は見た目とは少し違っていた。
    男の子のように元気で、気も強く、口も達者だった。

    その反対に、かよはおとなしい子だった。
    ただ、おとなしいだけではなかった。
    芯が強く、賢い子だった。

    近所の男の子にからかわれることもあった。
    そんなとき、かよは家に帰ると泣きながら叫ぶ。

    「わーん……お姉ちゃーん」
    「あの子にいじめられたー」

    すると、なみが飛び出してくる。

    「どこのどいつだ?!」

    なみはそのまま外へすっ飛んでいく。

    なみは口喧嘩でも負けない。

    相手の子どもたちは言い返せなくなり、
    しまいには逃げ出してしまう。
    そんなことが何度か続いた。

    そのうち近所の子どもたちの間で
    「かよには強い姉がついている」という噂が広まった。
    それからは、かよがいじめられることはなくなった。

    なみは、妹のかよをとても可愛がっていて、かよは、姉のことを慕っていた。

    家の近くには、三味線や日本舞踊の稽古場があった。
    母は、なみとかよをそこへ連れて行った。

    部屋の中では、三味線の音がしていて、
    ほかにも習いに来ている人たちがいた。
    子供たちは、並んでお稽古にはげんでいる。

    なみも最初は、並んでお稽古をしていたが、
    男勝りのなみには、日本舞踊はとても退屈だった。

    「つまんない!」

    そう言って、習い始めて間もなくやめてしまった。

    一方、かよは静かに稽古を続けていた。
    そのとき習った日本舞踊が、やがて後の人生へとつながっていくことになる。


    長屋から少し歩いたところに、神社があった。
    町の人たちにとって、ごく身近な場所だった。
    神社のそばには、大きな木が一本立っていた。
    目印になるような、大きな木だったという。
    この木もまた、のちに家族の運命と深く関わることになる。
    しかし、そのときはまだ、そんなことを想像する人は誰もいなかった。

    かよの家の台所には、氷を入れて冷やす冷蔵庫があった。
    当時としては珍しく、近所でも少し目立つ家だったという。
    近所の人に頼まれて、他の家の食べ物も入れてあげることもあった。

    そんな穏やかな日常の中で、日本は少しずつ戦争へと向かっていった。

    町の空気も、次第に変わっていった。

    そして、いつのころからか、
    かよの父は戦地へ行き、家にはいなくなっていた。

    まだ幼かったかよは、
    その詳しい時期や別れの場面までは覚えていない。

    ただ、父がいなくなったことだけは、
    幼い心に残っていた。


    本所の町にも、戦争の影は少しずつ近づいていた。

    夜になると、空襲警報のサイレンが鳴ることがあった。

    ウーーー……という高い音が町中に響く。

    それは危険を知らせるサイレンだった。
    その音を聞くと、家の明かりをすぐに消す。
    家族は急いで身支度をした。

    かよも、なみも、祖父も、母も、綿入りの防災頭巾をかぶる。服装はモンペ姿だった。

    そして家を出て、近くの防空壕へ向かった。
    遠くで焼夷弾の音が聞こえる夜もあった。

    しばらくすると町は静かになり、家族はまた家へ戻る。
    しかし家の中でも明るい灯りは使えなかった。
    ろうそくを灯すときも、外に光が漏れないように気をつけながら過ごした。

    町は暗かった。

    灯りを外へ出さないことが、空襲から身を守るための決まりだった。

    【第二章 三月九日の夜】

    その夜は、3月9日の深夜だった。

    日付が変わろうとしているころ、
    空襲警報のサイレンが鳴った。

    ウーーー……
    高い音が町中に響いた。

    かよの家でも、急いで身支度をはじめた。

    かよも、なみも、祖父も、母も、
    綿入りの防災頭巾をかぶった。

    そして家を出て、近くの防空壕へ向かった。

    しかし、その夜はいつもと様子が違っていた。

    空から飛行機の音が聞こえてきた。
    低く、重い音だった。

    さらに遠くの方から、
    ドン……
    ドン……
    という爆発の音が聞こえ始めた。

    焼夷弾が落とされている音だった。

    爆撃の音は、
    だんだん近づいてきた。

    やがて町のあちこちで火の手が上がり始めた。

    防空壕の中にいても、
    もう安全とは思えなかった。

    家族はいったん家へ戻った。

    家の中には、まだ少し食べ物が残っていた。
    貴重なお米と、お芋。

    母はそれを鉄鍋に入れた。
    それは当時、何より大切な食べ物だった。

    その鍋を持って、家族は外へ出た。

    町はすでに燃えていた。
    空は赤く染まり、
    あちこちで火の手が上がっていた。

    周りでは、多くの人が必死に逃げていた。

    家族はあの神社の方へ向かった。
    そばに立つ大きな木の下に、
    母は急いで穴を掘り、米とお芋の入った鉄鍋を埋めた。

    そして母が言った。

    「ここに埋めたから、ちゃんと覚えておくんだよ」

    その言葉を聞きながら、
    かよは母の背中におぶわれていた。

    防空頭巾をすっぽりとかぶり、
    目だけを出して、母にしがみついていた。

    何が起きているのかもわからないまま、
    ただ、怖さをこらえていた。

    町はすでにかなり燃えていた。
    空は赤く染まり、
    あちこちで火の手が上がっていた。

    家族が逃げ始めたとき、
    近所に住んでいたせいちゃんの家族に会った。

    せいちゃんの母が声をかけてきた。

    「どこへ逃げるの?」

    母は答えた。

    「小学校へ行こうと思う」

    小学校は、避難訓練でいつも逃げていた場所だった。

    すると、せいちゃんの母は言った。

    「私たちは海の方へ逃げる」

    そして、必死な様子で続けた。

    「お願いがあります」

    「せいちゃんだけ、小学校へ連れて行ってもらえませんか」

    「私と下の子は海の方へ逃げます。
    どちらかに分かれれば、どちらかが助かるかもしれない」

    その声は、追いつめられていた。

    しかし母には、
    自分の家族を守るだけでも精一杯だった。

    幼い子どもを二人連れ、
    祖父も一緒だ。

    母はその願いを断った。

    そして、家族は別々の方向へ逃げることになった。

    せいちゃんの家族は海の方へ。
    かよの家族は山側の小学校へ向かった。

    小学校にたどり着いたとき、
    体育館にはすでに多くの人が逃げ込んでいた。

    中はびっしりと人で埋め尽くされていて、
    とても入れる状態ではなかった。

    仕方なく、かよの家族は
    体育館の入口のところで立ち止まるしかなかった。

    そのときだった。


    バリバリバリ……

    次の瞬間、

    地面まで揺れるような、
    ものすごい音が響いた。

    ドオオオン――
    体育館の屋根が一気に崩れ落ちた。

    屋根の上には、
    焼夷弾が落ちていたという。

    その重さに耐えきれず、
    屋根がつぶれてしまったのだった。

    さっきまで人で埋め尽くされていた体育館は、
    一瞬で押しつぶされた。

    中にいた人たちは、ほとんど助からなかった。

    入口のところにいた、
    ほんの数家族だけが外に飛び出し助かった。

    かよの家族も、その中にいた。


    【第三章 火の中の逃げ道】

    体育館の屋根が崩れ落ち、
    母たちは一瞬の隙で外へ飛び出した。

    校庭には逃げ場を失った人たちが、
    あちらこちらにいた。

    家族で身を寄せ合いうずくまっている人たち。
    すでに命を落としている人たちもいた。

    まるで、最後の瞬間を一緒に迎えようとしているかのようだった。

    あんなに大勢の死体を見たのは、
    そのときが初めてだった。

    まだ五歳だったかよも、
    その光景は鮮明に覚えていたという。


    やがて母たちも、行き場を失った。
    もう逃げられない。
    そう思った母は、破裂した水道管から流れている水を見つけた。

    母はガーゼにその水を含ませた。
    そして、その濡れたガーゼを子どもたち、祖父、母と、順番に口元に当てていった。

    それは、最後の水――
    死を覚悟したときに口元を潤すための水、
    いわゆる「死に水」だった。

    そして家族は、丸くなって身を寄せ合った。
    火が直接当たらないように。
    なるべく熱い思いをせずに死ねるように。

    かよと姉のなみを内側に入れ、
    母と祖父が外側でかばうようにしてしゃがんだ。

    そのときだった。
    突然、なみが、泣きながら大声で叫んだ。

    「死ぬのやだ!」
    「死にたくない!!」

    その声は、火の海の中に響いた。
    その場にいた人たちは、
    一瞬、はっとした。
    その声を聞いて、周りには三家族、二十人ほどいただろうか。

    その中に、偶然兵隊さんもいた。

    なみの声で、皆の中にもう一度生きたいという思いが湧き上がった。

    そのとき、兵隊さんが言った。


    「逃げ道を探しましょう」
    「ついてきてください」

    その言葉に、何組かの家族が立ち上がった。
    みんな、必死だった。
    火はすぐそこまで迫っていた。


    兵隊さんは周囲を見渡し、近くにある建物の方を指さした。
    小学校のすぐ隣には、中学校らしき建物があった。
    当時では珍しい鉄筋コンクリートでできてい
    たため、まだ焼けずに残っているように見えた。

    「そこへ行きましょう」

    兵隊さんはそう言って、先に立って走り出した。
    母たちも、そのあとを必死についていった。
    火の中を抜けるようにして、
    その建物へ向かった。

    建物の入り口には階段があった。
    その先には、
    中二階のような場所にある音楽室があったという。
    しかし、そこへ向かう通路には、火が迫っていた。

    ゴーッ……
    という風の音が聞こえた。
    風が吹くたびに、火は大きくなったり、小さくなったりしていた。

    兵隊さんは、
    風向きの様子をじっと見ていた。
    火が弱くなる瞬間を待っていたのだった。

    そして――
    「合図をしたら、一人ずつ順番に駆け上がれ!」


    兵隊さんが大きな声で叫んだ。

    「いまだ!!いちにのさん!!」

    【第四章 逃げ場のない音楽室】

    号令に合わせて、
    人々は一人ずつ階段を駆け上がった。

    階段は狭く、一度に何人も上がれる広さではなかった。

    「いまだ!!いちにのさん!!」

    祖父、なみが駈け上がり、母はかよを背負って、必死で階段を駆け上がった。

    火はすぐそこまで迫っていた。
    背中まで熱さが伝わってきていた。

    少しでも遅れれば、火に包まれてしまう。

    そのときだった。

    熱さに耐えられなくなったのか、
    号令を待たずに階段へ走り出した人がいた。

    次の瞬間、
    階段を上がる途中でその人は火に巻かれ、そのまま倒れた。

    かよは母の背中におぶわれていた。
    頭には綿入りの防空頭巾をすっぽりとかぶり、
    目だけが、その様子を見ていた。

    その目の前で、人が焼け死ぬのを見た。

    なんとか階段を上りきると、そこには音楽室があった。

    母たちは、その部屋の中へ逃げ込んだ。
    中にいたのは、三、四家族二十人ほどだった。


    みんな、立ったまま身を寄せ合っていた。
    座る余裕などなかった。

    階段の下を見ると、
    さっきまで自分たちがいた場所は
    すでに炎に包まれていた。

    もし、
    二階へ上がるのが少しでも遅れていたら――
    最後に残っていた家族は、
    間違いなく助からなかっただろう。


    しかし安心する暇はなかった。
    火は、少しずつ二階にも迫ってきていた。

    この音楽室には、もう逃げ場はない。
    誰もがここで終わりだと思った。


    【第五章 音楽室からの脱出】

    人々は窓の方へと追いやられていった。

    兵隊さんが窓から下をのぞいた。
    下には、火が燃え尽き、わずかに逃げ込めそうな場所があった。

    兵隊さんは言った。

    「順番に飛び降りましょう」

    そして、
    まず兵隊さん自ら窓から飛び降りた。

    下に降りると、手を広げて上を見上げた。

    「子どもから降ろしてください!」

    上にいる人たちに向かって叫んだ。

    子どもたちから先に窓へ運ばれた。

    なみくらいの大きい子は、自分で飛び降りた。

    下では兵隊さんが、
    けがをしないように受け止めていた。

    まだ小さかったかよは、上から落とされた。

    体がふわりと浮くような、
    あの瞬間の怖さを、
    母は今でも覚えていると言っていた。

    兵隊さんは、しっかりとかよを受け止めた。

    そして、
    一人、また一人と
    全員が窓から飛び降りることができた。

    音楽室から飛び降りたとき、
    そこにあったのは、昨日までの町とは思えない光景だった。

    あちらこちらで木や建物が燃え続け、
    町はすでに原形をとどめていなかった。

    そして地面には、真っ黒に焼けた人々が
    あちこちに倒れていた。

    その中を、
    人々は必死に逃げていた。

    その時、兵隊さんが声を上げた。

    「みなさん、一列に並んでください!」

    「塀の横を歩きます」

    「前の人の頭や背中に火がついたら、
    すぐ手で叩いて消してください!」

    そして兵隊さんは、一番後ろに立った。

    みんなを守るようにして、最後尾に回ったのだった。

    人々は言われるまま、一列に並んだ。
    そして歩き始めた。

    まだ夜だった。
    炎の明かりだけが、あたりを照らしていた。

    【第六章 奇跡の夜明け】

    あちこちで火が燃えていた。
    火の粉が、空からひっきりなしに降ってきていた。

    人々の頭や服には、次々と火の粉が落ちた。
    後ろの人は、前の人についた火を、手で叩いて消し続けた。

    兵隊さんは、みんなの様子を見ながら声をかけ続けた。

    「大丈夫だ!」

    「このまま進め!」

    「もう少しだ!」


    前へ行ったり、後ろへ回ったりしながら、人々を励まし続けていた。 


    誰も、何も言わなかった。
    ただ、黙って歩いた。

    しかし地面は、とても歩けるような温度ではなかった。

    焼けた地面は、まだ熱を持っていた。

    焼け死んだ人たちが、
    あちらこちらに倒れていた。

    人々は、その上を歩くしかなかった。

    気持ち悪かった。
    それでも、助かるためには仕方がなかったと、祖母は後になって話していた。

    人々は黙ったまま、
    夜が明けるまで歩き続けた。


    そして――

    ようやく空が明るくなり始めた。
    人々は歩くのをやめ、周りを見渡した。

    そこには、
    見たことのない光景が広がっていた。


    町はすべて焼け野原になっていた。
    昨日まであった家も、建物も、
    何も残っていなかった。

    あたりには、
    まだたくさんの煙が立ちのぼっていた。

    焦げたにおいが、辺り一面に漂っていた。

    人々の顔や体は、火傷と煤で真っ黒だった。

    髪の毛は焼けて、チリチリになっていた。

    母たちも、同じだった。
    顔も体も、真っ黒だったという。


    それでも――

    生きていた。


    母は後になって、こう話していた。


    「生きていてよかった」

    「あれは、本当に奇跡だった」


    【第七章 黒く焼けた線路を歩いて】

    夜が明けると、
    母たちは自分たちの家があった方へ歩き始めた。

    町は、すべて焼け野原になっていた。

    昨日まで家が並んでいた場所も、
    もう何も残っていなかった。


    目印になるようなものは、ほとんどなくなっていた。


    遠くには隅田川が見えた。
    川の方にも多くの人が逃げており、
    たくさんの遺体が浮かんでいた。

    近くの防空壕に逃げた人たちも、
    助からなかったと、あとから聞いた。


    母たちは、自分の家があった場所を探した。

    しばらく歩いていると、
    ぽつんと黒く焼けたものが立っていた。

    それは、家にあった氷の冷蔵庫だった。

    それを見て、母たちは、
    そこが自分たちの家のあった場所だと気づいた。

    家は、跡形もなく焼けていた。

    そして、
    母は、神社の大きな木の下に米とお芋を埋めたことを思い出した。

    家族は神社の方へ向かった。

    あの大きな木も、焼けていた。
    それでも、焼けた幹が残っていて、場所はすぐにわかった。

    母たちは、急いで土を掘った。
    鉄鍋を取り出した。


    しかし――

    中に入っていた米と芋は、
    すべて黒い墨になっていた。

    家はなくなり、米もすべて墨になっていた。

    それでも、
    立ち止まっているわけにはいかなかった。


    母たちは、隣町に住んでいる親戚の家を訪ねることにした。

    しかし町は焼け野原になっていた。
    道も、目印になる建物も、ほとんどなくなっていた。

    そこで頼りになったのは、線路だった。

    家族は、その線路づたいに歩いた。

    黒く焼けた線路が、
    まっすぐ遠くまで続いていた。

    どれほど歩いたのか、母にもわからなかった。
    何駅分だったのかも、覚えていない。

    ただ、必死に歩いた。


    【第八章 命はつながっていく】

    ようやく、親戚の家にたどり着いた。

    玄関を開けて中に入ると、
    そこにいた親戚は驚いた。

    本所のあたりは
    もう全滅したと聞いていたからだった。

    母たちが生きているとは思っていなかった。

    それに、
    家族はひとりも欠けず、皆無事だった。

    だが、玄関に立っていた四人の姿は、ひどいものだった。

    髪は焼けてチリチリになり、
    体のあちこちに火傷を負い、
    顔も体も真っ黒だった。

    親戚はその姿を見て、
    幽霊と間違え、腰を抜かしたという。

    それから、だいぶ後のことだった。

    あの夜、せいちゃんの家族は海の方へ逃げた。
    海へ逃げた人たちは、
    多くの人が同じ方向へ押し寄せ、
    折り重なるようにして亡くなった人も多かったという。

    せいちゃんの家族も、その中にいた。

    その話を聞いたとき、母は言葉を失ったという。


    そして、
    もう一つの話があった。


    空襲のあとしばらくしてから、祖母の身に起きた出来事だった。


    祖母が夜寝ていると、
    枕元に人の気配を感じることがあった。

    目を開けると、

    そこには――
    せいちゃんのお母さんが正座して座っていたという。


    そしてこう言った。


    「どうして、うちのせいちゃんを連れて行ってくれなかったの」


    その姿は、毎晩、枕元に現れたという。


    祖母は次第に
    ノイローゼのようになってしまったと
    母は話していた。

    母はこの話を、私に残してくれた。
    だから今度は、私が残していきたい。


    【あとがき】

    母は、終戦記念日になると、この話を静かに語ってくれました。
    そして最後に、いつもこう言っていました。

    「東京大空襲の中心にいた人たちは、ほとんどが亡くなってしまった。
    だから、生き残った私が見たこと、体験したことは、後の世に伝えていかなければならない」

    そう言って、母は静かに話を終えるのでした。

    母は昭和十五年生まれで、東京大空襲のとき、五歳でした。
    幼いながらに見た火の海の光景や、逃げ続けた夜の出来事を、私は子どものころから何度も聞いて育ちました。

    祖母もまた、空襲を生き延びた一人でした。
    戦後もその記憶を抱えながら生き、晩年は認知症を患いましたが、九十八歳まで生きました。

    母はその後、日本舞踊の道に戻り、師範となって舞台に立ち続けました。
    そして母は、二〇二三年九月に亡くなりました。

    この記録を書き始めたのは、二〇二六年三月七日。
    ふと、母から聞いてきた話を形に残さなければならないと思い立った日でした。
    あとで気づいたのですが、その日は空襲を生き延びた祖母の誕生日でもありました。

    もしかすると祖母や母が、今こそ書き残しなさいと背中を押してくれたのかもしれません。

    祖母と母があの夜を生き延びてくれたから、今の私がいます。
    そして私には子どもがおり、先日、初孫が生まれました。
    命は、こうして静かに受け継がれていくのだと感じています。

    この記録が、東京大空襲という出来事を知る、ひとつの小さなきっかけになれば幸いです。


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    生前の母と祖母

    最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


    #創作大賞2026 #エッセイ部門


     
     
    母と祖母から聞いた東京大空襲の話を、記憶をもとに記録しています。 一部あいまいな部分もありますが、後の世に残したくて書いています。 東京大空襲実話シリーズ【全8話まとめ】公開中。

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