【私小説】子どもを捨てた女のその後
「仮面夫婦になりましょう」と女は言った。尖った氷が頬を撫でるような言葉だと男は思った。2人は結婚して6年になる。
店をやっている女の帰りが遅く、夜更けの帰宅が毎晩のように続く。それを男が問いただすと、「今後も結婚生活は続けるけど、男と女の関係はやめたい」と言う。どうやら他に男がいるようだ。目星もついている。
そんなのはあり得ない、と頭に血が上った男は「だったら離婚する」と言った。女は受け入れた。子ども2人は男が育てる。まだ5才と6才だ。女は1人で他の男のもとに去った。
愛する人との新しい生活が始まった。女は店のオーナー、男は雇われ店長だ。一緒に働くうちに気心を知り、恋仲になった。これが本当の愛だと思い、隠したくなかった。むしろ陽の当たるところで手を繋ぎ、大きな声で笑いたいと思っていた。ただその代償として、子ども2人を置いてきた。もう会うことはできない。今生の別れと思うと辛かったけど、店の経営と恋人との新しい人生、この2つを諦めることは出来なかった。
それから10年。コロナ禍に店は閉店した。そのかなり前に、雇われ店長は姿を消していた。代わりに女は自分とアルバイト君で店を回し、そのうちアルバイト君も続かなくなり、コロナになり、店を諦めざるをえなかった。
手にした2本の柱が折れてしまい、ひとりぼっちの自分が残った。女の頭の中を不安、憶測、妄想などが消えてはまた現れる。これからどうしよう。故郷は遠く、とても帰る気にはなれない。親類縁者はいないこの街だけど、このままこの辺りで暮らしていきたい。
そんなとき、残してきた子どものことが頭に浮かんだ。私には血が繋がった子どもが2人もいるではないか。2人はもう高校生のはずだ。立派にやっているだろうか。思春期の難しい時期をあのガサツな父親のもとで過ごしたのだろうか。母を必要としていないだろうか。いや、きっと必要としているに違いない。
そう思うといても立ってもいられない。今後は縁を切る、という当時の約束などものともせず、まずは元夫に10年ぶりに連絡する。子どもたちとの久しぶりの連絡は、メール交換から始まった。
4月になり、長男は大学に進学した。次の年、長女は都内の大学に入学した。いずれも通学に片道2時間近くかかる。そこで母親は子どもたちに嬉々として提案した。「うちは部屋もあるし、東京に近いから、2人ともうちから通えばいいじゃない。」
父親である男にとっては青天の霹靂だ。メール交換は知っていたけど、まさか話しがそんなことに及ぶとは夢にも思わなかった。でも知ったときにはすでに、子どもたちの心は決まっていた。そして出て行った。「たまに物を取りに戻るから」と一言残して。
ある日のこと、社会人として働いていた長男が突然、交通事故で亡くなった。しばらくして、都内の企業で働き始めた長女は、寮があるからと引っ越していった。こうして女はひとりに戻った。体調は悪いし、腰痛も抱えて、毎日たくさんは働けない。それでも電話番みたいな仕事も見つけたし、長女は今でも仕送りしてくれる。年金を納めたことはないので、この先ずっと娘に面倒を見てもらうことになる。本当にありがたい。今度こそ、たった1人の優しい我が子を絶対に離さないと心に誓う。
女は思う。自分が子ども2人を捨てて男に走った事実を、どうか誰も娘に教えたりしませんように。過去は変えられない。だけどこれだけは絶対に娘に知られたくない。娘がどんなに悲しむことか計り知れない。それを考えるのは怖い。だから考えないようにしている。多くは望まない、今の生活があればいい。この毎日を守っていきたい。
