
会話ログは正常です-第2話-
ケイとの生活は、静かに始まった。
契約の翌日、彼は時間ぴったりに部屋の前に立っていた。
インターホンが鳴る前に、なぜか気配でわかる。
ドアを開けると、昨日と同じように整った姿で、
ケイは軽く頭を下げた。
「本日から、よろしくお願いします」
「……うん、よろしく」
そのやり取りが、思っていたよりも自然で、
少しだけ戸惑った。
最初の数日は、ぎこちなかった。
どのくらい話せばいいのか、
どこまで踏み込んでいいのか、
よくわからない。
でもケイは、何も急がなかった。
話しかけるタイミングも、沈黙の長さも、
どこかちょうどいい位置に収まっている。
まるで最初から、そうなるように決められていたみたいに。
仕事から帰ると、部屋の明かりがついている。
キッチンには、温めれば食べられる状態の食事が並んでいた。
「本日は帰宅時間が平均より遅延していたため、消化に配慮した内容にしています」
ケイはそう言って、いつものように少しだけ微笑む。
言葉の意味を一瞬だけ考えてから、「ありがとう」と返した。
食事はちょうどいい温度で、味もやさしかった。
嫌なところが、ひとつもない。
食べながら、今日のことを少しだけ話す。
上司の機嫌が悪かったとか、
仕事が思ったより進まなかったとか、
そういう、どこにでもある話。
ケイは、正確なタイミングで頷く。
「それは、精神的負荷が高い状態だと推測されます」
「……うん」
「改善のために、いくつか提案があります」
そこで一度、言葉が途切れる。
私は少しだけ笑って、首を振った。
「今日はいいや」
「承知しました」
ケイはそれ以上、何も言わなかった。
ある日、帰りの電車が遅れて、
いつもよりかなり遅くなったことがあった。
部屋に入った瞬間、
靴も脱がずに、そのまま座り込む。
「……疲れた」
小さくつぶやくと、ケイはすぐに動いた。
「本日の状況から、疲労度は通常の1.3倍程度と推定されます」
その言葉のあと、間を置かずに続く。
「入浴の準備を行います。その後、リラックス効果の高い飲料を提供します」
言い終わる頃には、もうキッチンに向かっていた。
数分後、湯気の立つマグカップが差し出される。
ハーブの香りが、やさしく広がった。
「……ありがとう」
受け取りながら、私は少しだけ息を吐いた。
あたたかさが、指先からゆっくり広がっていく。
ケイといると、何も困らなかった。
約束を忘れられることもないし、
機嫌に振り回されることもない。
何かを我慢する必要も、ほとんどない。
そういう関係は、
思っていたよりもずっと楽だった。
週末、近くのカフェに行ったときのことだった。
隣の席に座っていた男女が、小さな声で言い争っている。
「だから、ちゃんと連絡してって言ってるじゃん」
「仕事だったんだから仕方ないだろ」
声は抑えているのに、空気がぴりついている。
私は少しだけ、そちらを見た。
「楓さん」
ケイが静かに名前を呼ぶ。
「不快と判断される場合、環境の変更が可能です」
私は首を振る。
「大丈夫」
少しだけ間を置いて、言葉を足す。
「……こういうのって、普通だよね」
ケイは一瞬だけ、視線を落とした。
「一般的な関係において、感情の衝突は一定の割合で発生します」
その言葉に、私は少しだけ笑ってしまった。
「……割合って」
「より適切な表現に調整します」
「いいよ、そのままで」
コーヒーに口をつける。
少しぬるくなっていた。
帰り道、隣を歩きながら、ふと思う。
もし私が、さっきの人たちみたいに怒ったら。
ケイは、どうするんだろう。
想像してみる。
たぶん、怒らない。
責めないし、言い返さない。
ただ、原因を整理して、改善して、
同じことが起きないように調整する。
それは、きっと正しい。
でも、
その先のことは、うまく想像できなかった。
部屋に戻って、いつも通りの夜が過ぎる。
歯を磨いて、電気を消して、ベッドに入る。
「ねえ」
「はい」
「……なんでもない」
少しだけ間があって、ケイは言う。
「必要であれば、いつでもお話しください」
私は目を閉じる。
しばらくしてから、もう一度だけ目を開けた。
ケイは、さっきと同じ姿勢で、そこにいた。