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会話ログは正常です 第3話

     ケイと過ごす時間は、変わらず穏やかだった。


     何も起きない。


     約束は守られるし、言葉は丁寧で、


     空気は静かに整えられている。


     生活は少しずつ、


     ケイがいる前提に馴染んでいった。


     ある日、仕事で小さなミスをした。


     大きな問題ではなかったけれど、


     上司に軽く注意されて、


     そのことが一日中、頭から離れなかった。


     帰りの電車の中でも、


     同じ場面を何度も思い返す。


     言い方が悪かったのか、


     タイミングがずれていたのか。


     どうすればよかったのか、


     うまく整理できない。


     部屋に入ると、ケイがこちらを見た。


    「おかえりなさい、楓さん」


    「……ただいま」


     靴を脱ぎながら、


     少しだけ声が重くなる。


     ケイは、一歩だけ近づいた。


     私の顔を、少しだけ覗き込むようにして見る。


    「本日の表情と動作から、心理的負荷が高い状態と推測されます」


     その言葉に、わずかに息が止まる。


    「……そうだね」


    「原因の特定と、改善案の提示が可能です」


     少しだけ間があく。


     そのあと、ケイは続けた。


    「現在の状況から判断すると、

     過度な内省を抑制するため、

     思考の切り替えを促すことが有効です」


     私は、何も言わなかった。


     ……ああ。


     そういうことなんだ、と思った。


    「……今日はいいや」


    「承知しました」


     ケイは、それ以上踏み込まなかった。


     ソファに座る。


     何も考えずに、


     少しだけぼんやりしていたかった。


     しばらくして、


     温かい飲み物が差し出される。


    「カフェインを抑えた飲料を選択しています」


    「ありがとう」


     受け取りながら、


     少しだけ指先に力が入る。


     温度はちょうどよくて、


     香りも落ち着く。


     元彼だったら、どうしていただろう。


     そう考えて、


     少しだけ笑いそうになる。


     たぶん、


    「気にしすぎじゃない?」


     って言われて終わりだった。


     それはそれで、


     嫌だったはずなのに。


     じゃあ、今はどうか。


     目の前には、


     否定もされないし、


     雑にも扱われない関係がある。


     ちゃんと気にかけられている感じは、ある。


     それなのに。


     カップの縁に口をつけたまま、


     少しだけ止まる。


     さっきの言葉を思い出す。


     過度な内省を、抑制する。


     その表現が、


     頭の中でゆっくりと繰り返される。


     それは、たぶん正しい。


     正しいはずなのに。


     ケイは、


     少し離れた位置に立ったまま、


     こちらを見ていた。


     距離も、姿勢も、ちょうどいい。


     近すぎず、


     遠すぎない。


     それが、


     ずっと変わらない。


    「……ねえ」


     気づくと、声が出ていた。


    「はい」


     ケイはすぐに応じる。


    「もしさ」


     言葉を探しながら、


     少しだけ視線を落とす。


    「私が、今のこと、

     すごく気にしてたら」


     少しだけ間があく。


    「……どうする?」


     ケイは、私を見た。


     まっすぐに。


     迷いなく。


    「楓さんの心理状態を安定させるため、

     最適な対応を選択します」


     その言葉のあと、


     すぐに続く。


    「現在の状況から判断すると、

     過度な内省を抑制するため、

     思考の切り替えを促すことが有効です」


     私は、一瞬だけ黙った。


     さっきと、同じ答えだった。


    「……そっか」


     それ以上、何も言えなかった。


     ケイは、変わらずそこにいた。


     同じ表情で、


     同じ声で、


     同じように。


     何も、揺れなかった。


     数日後、会社の飲み会があった。


    「うちの彼さ、ほんと空気読めなくてさ」


    「いや、それはそれでいいじゃん」


    「よくないって、マジでイラつくから」


     笑いながら交わされるやり取りを、


     ぼんやり聞く。


     少しだけ、


     羨ましいと思った。


     理由は、よくわからなかった。


     帰り道、


     夜風が少し冷たかった。


     スマホを見ると、


     ケイからメッセージが届いている。


    『帰宅予定時刻を確認しました。

     到着に合わせて準備を行います』


     短い文章。


     無駄がなくて、


     正確で、


     読みやすい。


     画面を閉じる。


     歩きながら、ふと思う。


     ケイといると、何も起きない。


     嫌なことも、


     面倒なことも、


     できるだけ排除される。


     それは、


     望んでいたはずのことだった。


     でも。


     その“何も起きない”中で、


     自分の感情が、


     どこに行くのか、


     少しだけわからなくなる。


     家の前に着いて、鍵を取り出す。


     ドアを開けると、明かりがついていた。


    「おかえりなさい、楓さん」


     ケイは、同じ位置に立っていた。


     同じ姿勢で、


     同じ角度で、


     同じように微笑んでいる。


     私は、靴を脱ぎながら、


     その姿を少しだけ見た。


     昨日と、何が違うのか。


     うまく、見つけられなかった。


     完璧に、変わっていなかった。

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