理由
かつて教わったことに
演技において「どうしてそうしたか」を
話せるように、ということがあった。
脚本の何を
どう読み取って
どういう理由で
そう演じたのか。
言葉にすると、そうなる。
「どうして、何故」
「そうしたのか」
演じるとき、感情や想像力を沢山使う。
使う中で「どうして、何故」を
冷静に言える力を
見失ってしまうときがある。
だから、思い出せ。
理性的であれ、と教わった。
今歌や踊りをやるとき
同じだと気づく。
ひとつの音、フレーズ
ひとつの振り付け、センテンス
それがどうしてなのかに
集中せずに
「見え方を気にしてしまう」
「焦って次に移動してしまう」と
密度の低いものになる。
いま世界は「反知性」という言葉に向き合っている。
それは「理由」を必要としない
新しい生き方の名前のように思うのだ。
知性も理性もいらない。
理由なんかどうでもいい。
結果だけがある世界。
知性とは
どうして、何故
ひとりずつの人間がそう生きたのかを
知ることを求めずにはいられない、
それがどんなに手間のかかる
忍耐のいる作業だったとしても。
そういう生き方を指すのだと思うから。
演じるときも
歌うときも
踊るときも
そして生きるときも
「どうして、何故」を
問い続ける人間でありたい。
AIはきっと
問わないだろうと思うから。
