
私訳源氏物語<賢木>その六
朱雀の主上は、故・桐壺院の遺言を守り、源氏の君を大切に遇していた。
されど、御若い上に性質があまりにも穏やかで、いささか毅然としたところに欠けておいでである。母である弘徽殿の大后や祖父・右大臣の意向に逆らうことができず、ただうなずくほかない。政のすべてが思うにまかせぬようであった。
こうして源氏の君にとっては煩わしいことが多かったが、朧月夜の君とは人知れず心を通わせ続けていたゆえ、
(無理を押してでも、会わずに済ませるというわけにはいかぬ)
とお思いになる。桐壺院亡き後は御忍び歩きも控えておいでだったが、朧月夜の君との逢瀬はまた別の話ということであろうか。
いずれにせよ、五壇の御修法が始まり、朱雀の主上が慎んでおられる隙をねらって、例のごとく夢のようにお忍びで迫られたのであった。まことに畏れ多い事であると申さざるを得ない。
源氏の君はかつて出会った細殿の局へ、女房・中納言の君の手引きで御入りになる。人目多き折でもあり、殊に端近い所ゆえ、そぞろに恐ろしく思われるほどであった。
源氏の君の御姿は朝に夕に見ても決して飽くことのない美しさである。ましてやめったに御目にかかれぬ身にとって、粗略に扱うはずもない。
朧月夜の君もまた美しさ盛りにて、重々しさはさて置きながらも、実に艶やかで若々しく、人の目を奪うばかりであった。
瞬く間の短い夜が、いよいよ明けようかというころ、ほど近くより、
「宿直の御報告を申し上げます」
と声が聞こえる。
(わたしの他にも、この辺りの局に忍び込んだ怪しからぬ奴がいるのだろうか?近衛司あたりの者だろうか?。ははぁ、意地の悪い同輩らが逢瀬を邪魔しようと、わざと宿直番に居所を告げて騒がせておるのだな……それも面白きことではあるが、いささか厄介よな)
と源氏の君はお思いになる。
宿直番は方々探し歩き、
「寅一つ」
と繰り返している。
「『心から かたがた袖を濡らすかな 明くと教ふる声につけても
――恋しさゆえ袖は涙に濡れております。夜明けを告げられ、あなた様に飽かれてしまいはせぬかと……』」
と、朧月夜の君の物柔らかに詠ずるさまは、心細げでいっそう愛らしい。
源氏の君も応じて、
「『嘆きつつ わが世はかくて過ぐせとや 胸のあくべき時ぞともなく
――嘆きつつ生涯を過ごせと仰るのですか。夜明けたとて、恋しくて胸の晴れる時などありはしないのに』」
と言い残し、あわただしく内裏を御出ましになる。
まだ夜は深く、暁月夜の霧が美しくたなびいている。
その中を質素な御忍び姿でそっと立たれる気配は、かえって比類なき美しさを際立たせ、隠れようにも隠れ難い。
急ぎ出られたためか、月影が立蔀の陰に人の姿をわずかに浮かび上がらせていることに、御気づきにならなかった。
その人影こそ、朱雀の主上の女御の一人・承香殿の女御の兄、藤少将である。
――これは後の世に、いかなる非難の種となることか。
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(※1)五壇の御修法(ごだんのみすほう)・・・真言密教において、五大明王(不動明王・降三世・軍荼利夜叉・大威徳・金剛夜叉)をそれぞれ別の壇に祀り、国家の安寧や息災・調伏などを祈願して行う大規模な加持・祈禱。
(※2)近衛司(このえづかさ)・・・近衛府(天皇の警護を担う官司)の職員のこと。
(※3)藤少将・・・後の帖に出てくる髭黒の大将の弟