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【エッセイ】 海中道路に埋もれた鍵と骨

    小さな離れ小島から
    目と鼻の先にある沖縄本島が、かつては遙か遠い異国のように見えた時代がある。

    勝連(かつれん)から平安座島(へんざじま)へと続く海中道路が整備されるまで、その間に広がる広大な遠浅の海は、島民にとって「鉛の足かせ」そのものだった。
    大潮の干潮ともなれば海はすっかり干上がり、歩いて渡れるほどの浅瀬が現れる。しかし、その距離は五キロ近く。砂に混じる尖ったサンゴ礁の道程は、老人や女、子供の足を容赦なく傷つける険しい行程だった。歩けるのに、遠い。渡れるのに、あまりに過酷。当時の人々が抱えたであろう、海の向こうの本島を眺める歯痒さはどれほどだったか。

    いつ頃から、誰が始めたのかはわからない。
    島民たちは、本島に向かって黙々と石を運び、海へ撒き始めた。少しでも容易に行き来できるように。少しでも豊かな明日へ近づけるように。喘ぎ、もがきながらも、自らの手で海を埋め立てようとした人の、執念とも言える記録が残されている。

    私の記憶の底には、その執念の「続き」が微かに眠っている。
    うっすらとした幼い記憶の中で、私は米軍払い下げの無骨な大型トラックの荷台に揺られていた。母の実家がある平安座島へ渡るため、水しぶきを上げて海を進むトラック。あれもまた、本島にしがみつこうとした島民たちの、生きるための知恵と努力の一つの形だったのだろう。

    そんな島に、やがて石油基地誘致という、巨大な時代の波が持ち上がる――。

    石油基地の誘致。それは島を豊かさの絶頂へと導く希望の光であり、同時に、平穏だった共同体を真っ二つに引き裂く鋭利な刃でもあった。

    「海を売るな」と叫ぶ声と「いつまでこの不便に耐えればいいのか」という悲痛な訴えが、狭い島内で行き交う。昨日までの隣人が、親戚が、互いに目を背け合う日々。どちらの主張も、この島で生き抜くための、血を吐くような正義だった。激しい揺れの末に島は誘致を受け入れ、引き換えに、本島へと駆ける一本の確かな「海中道路」を手に入れた。それこそが、島民が渇望した、不便という鉛の足かせを外すための鍵だったのだ。

    ここに、幼少期の記憶がない私にとって、一つの、あまりに不可解な事実が横たわっている。

    先日、墓守である叔父から「今の墓に古い先祖の骨壺は入っていない」と告げられた。南米へ移民した祖父の兄(伯祖父)が、すべて海外へ持ち去ったというのだ。故郷を捨てる覚悟だとしても、先祖の骨まで持って行く理由がどうしても分からない。

    「海中道路」と、この骨の消失には、何か関連性があるのではないか。そう思い叔父に尋ねてみたが、叔父は激しい剣幕で会話を遮り、それ以上何も語ろうとはしなかった。

    叔父の尋常ではない拒絶のなかに、私は確信に似た何かを感じてしまう。海を売り、道路を得たあの狂騒のなかで、先祖の骨はなぜ消えなければならなかったのか。激動の島を去った伯祖父の想いと、固く口を閉ざす叔父の横顔。釈然としない謎だけが、私の心に重くのしかかった。

    海を売り、先祖の眠る海を汚してまで得る豊かさに、伯祖父は絶望したのだろうか。あるいは、共同体が引き裂かれる前に、一族の根拠地を完全に移そうとしたのか――。



    貧しい村落や離れ小島に暮らす人々を目にするとき、いつも私の胸をかすめる問いがある。「なぜ、彼らはそこに居続けるのだろうか」と。
    平安座島の周囲には、さらに小さな島々が点在している。サンゴ礁が隆起して生まれたこの地域ではありふれた風景だが、平安座島からわずか数百メートルしか離れていない目と鼻の先の島々にも、確かに人の営みがあった。

    なかでも、最奥に位置する伊計島(いけいじま)に残る、数千年前の縄文時代の集落跡(仲原遺跡)が復元され、いまや観光地となっていることには驚かされる。それほどまでに気の遠くなるような大昔から、豆粒ほどの小さな島で、人々は肩を寄せ合うようにして生きていたのだ。

    思うに、当時の海はよほど豊かだったのだろう。さらに、集落のすぐそばにはこんこんと湧き出る水場があった。水と食べ物に困らないこと――これこそがいつの時代も生きるための絶対条件であり、そこに文化が芽吹くすべての理由があった。

    遠い過去へと想像力の翼を広げると、尽きることがない。

    しかし、こうした離れ小島の出身者は、本島の人々から見れば、古くから決して好意的な目で見られてきたわけではない。沖縄本島から見た宮古島などの歴史を紐解けば、それがよくわかる。かつてそこは、罪人の幽閉地としての歴史を背負わされてしまっていた。

    小さな島々に生まれ育った先祖たちが、時代の大きな波に揉まれながら「この場所に居続けるべきか否か」を瀬戸際で迷い続けていたであろうことは、想像に難くない。
    どれほど暮らしが貧しく、惨めさに打ちひしがれようとも、当時、世界を知るためのテレビもラジオも新聞もなかった。あるのは、口頭で引き継がれてきたしきたりや、風の噂だけ。未来を占う確かな判断材料など、何ひとつ持ち合わせていたはずもない。

    生まれた場所を飛び出すということは、共同体の秩序を乱すことを意味し、二度と故郷の土を踏めないよほどの覚悟を強いるものだったに違いない。それでもなお、島に踏みとどまった者と、海を渡った者。

    私には、その壮絶な歴史を負い、近代にさしかかった頃、耐え難い選択をした祖父と伯祖父の辿った決別の形が、何かしら先人達とリンクしてしまう。


    あれから時代は移り変わり、現在の沖縄本島と平安座島を結ぶ海中道路の途中には、潮の流れを健やかに通す、赤いアーチを描く美しい橋が架かっている。夜になればライトアップされ、遠くからでも目を引く夜景の一部として、地域の新たな景観美を創り出している。

    だが、この平穏な景色に至るまでには、自然と人間との間に小さからぬ紆余曲折があった。

    石油基地建設のため、この遠浅の海を一気に埋め立てたのは、外資系の石油会社だった。ブルドーザーとダンプカーによる物量作戦は、わずか一年足らずで道路を完成させた。しかし、そこに潮の干満という自然への配慮はほとんどなかった。

    堤防を築くように土手を盛り、その上にただアスファルトを敷き詰めただけの道。

    道路の途中に、申し訳程度に設けられた水路。それだけでは、豊かな潮の流れを十二分に行き交わせられるわけもなく、流れを失った干潟の砂はドブのように腐り、やがて悪臭を放ち始めた。

    幼い頃、私はその海中道路の脇で海水浴をした記憶がある。
    エメラルドグリーンに澄んだ見た目とは裏腹に、不意に口に飛び込んできた海水は、なぜか澱んだドブの味がした。あの奇妙な苦みの理由を、私は今になってようやく思い巡らせている。島民達が手に入れた「豊かな明日」の代償を、あの海は静かに呑み込んでいたのだ、と。
    利便性や観光のシンボルとなった海中道路の陰で、過去数十年の埋め立てによる泥の堆積は、いまだ完全には解消されてはいないのだという。

    母が亡くなった年に産まれた息子が20歳になる。
    うっすらとした記憶の中でおぼろげだが、母は遠い異国の優しい叔母の話を私にしてくれた事がある。
    出来ることなら、その細い糸をたどり当時の時代を映した縮図のような家系の歴史を、そして先祖の骨の行方を、ひそかに紐解く事ができたなら――。  そう考えている。

    太古から、青さだけは変わらぬ空のもと、先祖の骨は遠い異国の見知らぬ墓に眠る。
    幼かった頃の祖父と伯祖父も遊んだであろう海に、
    足かせを外したはずの鍵は、島の波と砂に揉まれながら今もなお、海底に埋もれている。






    #創作大賞2026 #エッセイ部門

     
     
    沖縄県出身 作品の保管場所として始めましたが どうせなら、読んで貰いたいと 新参者でなかなか、ここの活用方法が良く分かっていません。 私の失礼な対応があれば、お詫びします。 宜しくお願い致します。 追記になりますが、私が創作する作品の中には完全なフィクションもあります。ご注意を。

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