
中学受験のトイレで気づいた、「無意識的ポジティブ」という最強の武器。
前回の記事で「ポジティブであることを母の指摘で気がついた」と書きましたが、その原点になったエピソードがあります。それは中学受験の真っ最中、トイレの列での出来事でした。
後ろに並んでいた二人組が、試験の「作文」の内容を楽しそうに話していました。受験界では、試験の合間の休み時間、試験内容の話をすることはタブーです。しかし、一定数、優秀な塾に通う生徒たちは友達同士で試験内容をぺちゃくちゃと喋り周囲を焦らせようとします。
私は中学受験を親に「させられている」感覚であったので、合格不合格に関わらず小学校の友達が沢山いる公立中学に通いたいと思っていました。それゆえの心の余裕もあったのでしょうか。この出来事は今も、私にとっては大したことはありません。
何が起きたのか。
それは、ある作者の文章を自分で抜粋して書く作文の問題の話でした。そこで、私が抜き出した部分も書いた内容も全く違うということが分かりました。
その瞬間、私は「不安」になるのではなく、「あ、こいつら落ちたな。私が受かるわ」と確信しました。そして結果、私は合格しました。
なんでそんな自信があるのか、一般論であれば、「自信が湧くまで努力しました。」とか「こう思うことで、その後のテストを乗り切りました。」程度のことを書くのが無難でしょう。これを私は「意識的ポジティブ」と定義します。
しかし、母に指摘された私が気づいたことは、ポジティブとは「きっと大丈夫」と自分に言い聞かせることではない、ということです。
自分の出した答えを「これが正解だ」と一点の疑いもなく信じ切る、一種の「傲慢なまでの自己信頼」こそが現代社会を生きる我々に必要なポジティブシンキング、「無意識的ポジティブ」であると思います。
周りと違うことに不安を感じる必要はありません。むしろ「周りと違うからこそ、自分だけが勝てる」と捉えるのが、私のポジティブの正体なのです。
多様性の時代はもう訪れています。この考えも一種の多様性の時代に乗っ取ったものではないでしょうか。
「みんなと同じ」では、何も得るものはありません。たとえ自分が信じた自分が間違えだと思ったとしても、それを失敗だと誰が決めるのでしょうか。自分の人生、行動を起こすのも判断を下すのもすべて自分なのです。
自分よがりで何が悪い。
法律や常識など、守るべきルールさえ守っていれば、他人の考えに従うなどしなくて良いのです。「意識的ポジティブ」は辛いです。だって自分の考えを無理やり曲げてるだけですから。
「無意識的ポジティブ」は、無謀だと思う人もいるかもしれません。簡単に出来ることでもないと思います。ただ、小さなことでも良いのです。少し傲慢になってみませんか?