【radiko✕noteコラボ】声を届けて、声に救われた「わたしとラジオ」
「5年生のわたし、元気?
未来の私はラジオに出て、みんなを楽しませています」
これは11歳の誕生日に「未来の私」からと称して書いた手紙だ。
「未来の私」が一体どれくらい先の未来だったのかは覚えていない。
20数年後、私はホントにラジオパーソナリティとなって、マイクの前でしゃべっていた。
きっかけは37歳で作家になったこと。
初めて商業出版されたミステリーを手に、地元メディアを営業行脚していたら、RNB南海放送の田中和彦プロデューサー(現最高顧問)が会いに来てくれて、『開局50周年記念・私の〝坂の上の雲〟夢を語ろう』に出演することになった。
人気パーソナリティが10人ほど集まる、生放送の討論番組のような企画。
放り込まれたものの、何をしゃべればいいのか、隣にいるのが誰かもわからない。
進路に悩んでいるという中学生からのメールに、皆さんが口々に答える。
「将来やりたいことにあった高校を選んだほうがええ」
「自分に合った高校があると思う」
新参者の私はずっと黙っていたけれど、CM中に思わず言った。
「そんなん、きれい事でしょ。行きたい高校じゃなくて、行ける高校。どこを受験できるかは成績でほぼ決められる。悩む選択肢があるのは、勉強ができる子だからですよ」
全員、シーン。ひとりだけ、「カカカ」と笑ってくれた。
「ええなあ。CM中のほうがおもしろい。そのまま、しゃべったらええよ」
その後は司会の永野彰子アナが、やたらとフッてくれて、忖度ゼロで思ったまましゃべった。
田中プロデューサーも面白がってくれて、冠番組がスタートした。
毎週30分。録音だけれど生っぽくするため、録り直しは、なし。
4年くらいは続けたと思う。
私は、とってつけたような企画やコーナーが苦手だったから
基本的には、30分しゃべり倒す。
間に3曲くらい流すから、実質20分ちょい。すぐ終わる。
マイクの向こうに何百、何千というリスナーがいる。
メールもたくさんくる。
でも、ブースの中には私ひとり。
想いがつながっているのか、いつも不安だった。
私のおしゃべりで、ちょっとでもいいから笑ってほしい。
こんなあほな作家でもやっていけるんやから、もうちょい頑張ろか。
そんなふうに思ってほしいと願いながら毎週マイクと向き合った。
最初の頃は、反省ばかりが先に立った。
人気パーソナリティの「はるさん」がいつも声をかけてくれた。
「次よ、次。毎週あるんじゃけん、いちいち落ちこんだらいかん。来週うまくいけば、それでええけん」
切り替えるスイッチを教わって、すごく楽になったし、図太くもなった。
家族のひとりが急逝し、すべてのメディアや仕事から離れた。
それから18年、私は長く引きこもっていた。
ときどき、深夜にラジオをつけた。
はるさんの懐かしい声が聴こえた。
あの頃の私に声をかけてくれた人たちが、元気にしゃべっていた。
それだけで、いつかまた頑張れる気がした。
ああ。ラジオって、聴く側になると、こんなに励まされるものなんだ。
初めて知った。
20年もの時の流れに消えてしまったけれど、
私の声も、ラジオの向こうの誰かと、ちゃんと、つながっていたのかな。
そう思うと、私は今日も頑張れる。
うずくまっていた場所から立ち上がって、もう一度、歩き出す。
この記事は 「#わたしとラジオ」に参加しています。
ステキな企画のおかげで、ラジオとの関係を思い出しました。
ありがとうございます。

