
ゆるめな映画感想雑記 〜「フランス映画?」の終焉を看取る3時間 「急に具合が悪くなる」
ども、はざまです。
フランスが憧れだったのはいつの時代でしょうか。
ワタクシの親世代は、飛行機こそあったものの海外旅行は高嶺の花で、そういう時代に輸入されたフランス映画を見て、アランドロンがどうの、とかカトリーヌ・ドヌーヴがこうのとか言っていた。
ところが、ワタクシがもの心つく頃には既に誰もがサクッとパリに行ける時代になっていて、徐々に日本人のフランスへの憧れも落ち着いていったのではないでしょうか。
この映画は大部分がフランスのロケで、言語はほとんどフレンチ、テイストもまんまフランス映画のそれです。
パリにトラムあったのね、昔行った時なかったはず、とか無知丸出しの発見もあったのですが、大部分は実体験や映画で知ったパリ。
そして、舞台は認知症患者中心の介護施設で、人生の終焉を静かに映し出す作品となっているわけです。
劇中では死を前にした主人公がマルクスについて語ります。
人文学徒である以上、心酔するにせよ批判するにせよ、マルクスは避けて通れない。
その姿を見ていると、ワタクシの思考もまた、資本主義や世界の終わりという、現代人が抱え続ける大きな問いへ自然と向かっていきました。
マルクス生誕208年の今日ですが、資本主義はいよいよ終焉に近づいているように感じられる。
そして、資本主義の終焉は、世界の終わりのようなとても大きな事件のように思えます。
けれど、その感覚は公害問題以降散々語られてきたことで、今に始まったことではありません。
自分の人生が終わるなら世界も終わるだとろう、という感覚は、肥大した自意識の希望的観測であって、例えば今風に言うと、量子論を引き合いに「世界とは自己が投影している幻想だ」、といくら言い張ってみても、肌感覚として世界は(自然は)厳かに現存し、「肌感覚で理解できないのが量子論だ」といくら強弁してみたところで、人文学徒には最先端科学はわからないので議論は並行線で終わります。
人生の儚さは、実感としては、かの天才、ピノキオピー様のありがたきお言葉、
「超健康 健康 言い張って くたばっていく感じ。」
これに近いです。
人生には終焉がある、は圧倒的な真実で、資本主義が終わるかどうかはともかくとして、世界に終焉はない、少なくとも人間一人の死とは無関係に、自然そのものは淡々と存在し続ける。
本編の主人公は、世界が終わる終わると言いながら、そこまで悟っていたとしたら、故郷の京都の丘の上に散骨をしてもらう、は、実にピュアな精神的態度です。
濱口監督の作品は、変わらず、ドキュメンリー風の、現実とフィクションの境界を曖昧にする作風。
劇中劇も、特に気を衒っているようには感じられず、欧州の雰囲気が感じられるすこぶるナチュラルなものです。
今世紀に入り、物語の詭弁が誰の目にも明らかになったところで、芸術全般はついに語るのをやめるのか、と思ってみても、人類史と同じくらい長い歴史のある語りの力は強烈で、市場が大きいので資本主義が語りを放棄するはずもなく、耳触りのいい物語を大量消費させ続けている状態と言えるでしょう。
その中で、良質の芸術だけは語ることを静かに手放し、世界をそのまま提示することを淡々と続けています。
この作品においては、提示されているのは、人生の終焉なのですが、希望はない。
「不可能は不可能」なのです。
自らの人生の終焉を悟り、何も残せなかった、という演出家の主人公に対し、御年80歳の長塚京三演じる舞台役者が稽古場での時間が全てだった、何も残せなくてもいいじゃないですか、と慰めます。
家族や関係者の記憶に残る人生はまだ、幸福なほうで、それこそ何も残らない人生も多い。
そこに一切の奇跡は起こりません。
余談ですが、長塚京三さんは早稲田一文の時は木霊に所属していたバリバリの早稲田演劇人の大先輩です。
息子さんも著名な劇作家演出家。
そこからパリ大学留学6年間ですから、フランス語が流暢なのも納得。
3時間以上の本編は確かに長尺ですが、そこに何を観るのも、観客の自由です。
ワタクシの場合、人生の終焉に合わせて、映画も、そしてこの場合、日本人が思うフランス映画も、静かに終焉に向かっている、そんな感覚でした。憧れだったパリも、今では避けようのない現実の一部です。
いずれにせよ、重ね合わせのレクイエム、ノスタルジーに近い感覚の厳かな時間は、開演前の想像に反して、3時間超にも関わらず、あっという間でございました。
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