
小説「神様」
★
リョウジくんに500円玉を貰って、家を出た。
リョウジくんは、最近できたお母さんの新しいカレシだ。
「ミズキちゃんさ。500円玉あげるから、ちょっと二時間くらい、外に行っててよ」
リョウジくんの髪の毛は茶色くて、肩まで長い。顔はよく日に焼けている。リョウジくんは、八重歯がチャーミングな笑顔でニッと笑って、わたしの手に500円玉を握らせた。わたしも、ニッと笑いかえした。
路地を抜けて、公園がある方まで歩いて行く。
九月になって、朝はだいぶ涼しくなったけれど、夕方のこの時間は、まだ暑い。
今日は木曜日だから、リョウジくんが家に来る日ではない。ときどき、リョウジくんは気まぐれで、いつもの水曜日以外にもお母さんに会いにやってくる。
こんなことなら、学校でみんなとおしゃべりしてから帰ってくればよかった、と思う。
スカートのポケットの中を探ると、さっきもらった500円玉があった。500円玉は好き。大きくて、外国のコインみたいで、持っているとお金持ちになった気分になる。
リョウジくんにもらった500円玉は、使わないで、とっておこう、と思う。わたしは、ひそかに500円玉貯金をしているのだ。
大きくなったら、その500円玉をもって、どこか遠いところへ行きたい。行き先は、フランスがいい。世界名作劇場に出てくるような、ドレスを着た本物の貴族がいるんだ、きっと。
ひらひらのドレスを着る自分を想像しながら、ぼんやり歩いていたら、いつもの公園に着いた。お母さんのカレシが家に来た時には、いつもここで時間を潰して過ごす。
この公園は小さいから、あんまり子どもが遊んでない。近くにもっと面白い遊具のある大きな公園があるから、大抵はみんなそっちで遊ぶ。
だから、わたしはこの公園が好きだ。いつも、ぼーっとベンチに腰掛けてすごしたり、図書館から借りた本を読んだりして過ごす。
誰にも何も言われないし、かまわれることもない。ベンチは日陰になっているから、夏でもすごしやすい。
今日は、わたしがいつも座るベンチに、知らないおじさんが座っていた。
みためは、リョウジくんと同じ歳くらい。だから、三十歳くらいだろうか。Tシャツに、ジーンズのズボン。黒いビーチサンダルを履いている。黒くて長い髪を後ろでひとつにしばっている。
おじさんは、ぼんやり遠くを見つめ、タバコを吸っていた。
この小さな公園で、昼間からこのおじさんは、なにをしているんだろう。このへんでは、見たことがない人だ。雰囲気も、なんとなくうさんくさい感じがする。
「へんしつしゃ」という言葉が、頭に浮かんだ。
担任のサイトウ先生がときどき、帰りの会で「へんな人に声をかけられても、ついていっちゃ、ダメですよ」と言う。
世の中には、女の人に、自分のおちんちんを見せて喜んだり、小さな子どもを誘拐して監禁して楽しむ、頭のおかしな大人がいるのだ、と先生は言っていた。
お母さんの昔のカレシは、わたしの平たいおっぱいを見たがったけれど、あれは「へんしつしゃ」だったんだ、と思う。
おじさんを遠くからじろじろ眺めていたら、目が合ってしまった。
にげよう、とわたしはくるっと、方向を変え、家に向かって走りだした。
後ろで「あ」と声が聞こえたけれど、こわくて振り向けなかった。走っているあいだ、蝉の声が頭でわんわん鳴り響いていた。
家の前まで走る。玄関の前で立ち止まった瞬間、汗がふきでてきた。
ぜいぜいと息をきらせて、玄関の扉をガラガラと音を立てて開けると、お母さんとリョウジくんが、すっぽんぽんで組み合っていた。
「あっ、ミツキちゃん」
リョウジくんがこちらを振り向く。「え、ミツキぃ?」お母さんも体を起こした。
「ごめんなさい!」
あわてて玄関の扉を、びしゃんと閉める。
しまった。カレシが家にいる間、外にいないといけないのは、こういうわけなのだ。
ほかに行くところもないので、しょうがなく、さっきの公園までぶらぶら歩いて戻った。ユカちゃんの家に遊びに行こうかな、と思ったけれど、ユカちゃんは、ソロバン塾の日だ。
みんな、学習塾やソロバン教室に通ったり、ピアノ教室に通ったりしている。なんの習い事もしておらず、毎日ひまなのは、わたしくらいなのだ。
公園に戻ると、まだ、おじさんがベンチに座ってタバコを吸っていた。
「あ」と言って、わたしに気がつくと、タバコを地面に落としてふみ消し、「これ、さっき、落としたよ」と言って、なにかをさし出してきた。
500円玉だった。さっき、走り出したときに、ポケットから落ちたのだ。
「あ。ありがとう、ございます」
500円玉を受け取るとき、おじさんの顔をまじまじ見た。近くでみると、おじさんと言うよりも、お兄さん、という感じだ。
「お金は、大事にしないとね」
そういうと、おじさんは、にっこり笑って、ベンチから立ち上がった。横に停めてあった黒い自転車には、木の箱みたいなものが積んである。
おじさんは、その自転車を押して、公園を出て行った。
家に帰ると、お母さんが鼻歌を歌いながら、鏡台の前でお化粧をしていた。リョウジくんは、もう帰ったみたいだ。
「あ、ミツキぃ、おかえりぃ」と鏡越しに私を見ながら、お母さんが言う。
さっき、リョウジくんがいるときに家に帰ってきてしまったことを、怒られるかと思ったけれど、お母さんは上機嫌だった。
「リョウジが、あんたにって、コンビニのプリン買ってきてくれたよ。冷蔵庫に入ってるから、食べなね。晩御飯は鍋にカレー作ってあるから」
「うん」
お母さんは、今から近所のスナックへ働きに行くのだ。毎日夕方に出かけて、わたしが寝たあと夜遅くに帰ってくる。
お母さんはいつも朝遅い時間まで寝ているから、わたしとお母さんが話せるのは、わたしが学校から帰ってきてお母さんが出勤するまでの、夕方のこの時間だけだ。
今なら、お母さんの機嫌がいいから、言い出すチャンスかもしれない。
「お母さん、これ」
と学校のプリントをわたした。
「え、なに」
お化粧の途中、片方の目だけが大きくなった顔で、お母さんはプリントを見る。
「授業参観」
「うん、来月。算数の授業」
「四年生の算数って、かけ算とかやるの」
「うーんと、分数の計算かな」
「そっか」
お母さんは、少し考えた様子で、
「ミツキは、お母さんに、来て欲しい?」
と言った。片方のまつ毛だけが長くなった目で私をじっと見る。
「うん。来て欲しいけど」
「お母さん、浮かないかなあ」
「浮く?」
「うん。私みたいな人が、教室の後ろに立っていて、ミツキ、恥ずかしくない?」
「恥ずかしくないよ!」
とっさに、わたしは言った。たしかに、お母さんは、他の子のお母さんとは少し違う。髪の毛もすごく茶色いし、ちょっと派手だけれど、美人だ。
「竹中くんのところも、お母さんが仕事で忙しいか
ら、いつもおばあちゃんが来るんだけど、そのおばあちゃんは、髪の毛が紫色なんだよ。だから、お母さんも大丈夫だよ」
竹中くんの、すこし背中が曲がっているけれど、竹中くんを「さとしぃ、ちゃんと勉強してるかぁ」と言って可愛がっている、とっても元気なおばあちゃんを思い出して言った。
お母さんは、あはは、と笑って、
「わかった。じゃあ、行くようにする。一年生の時以来だもんね、授業参観に行くのは」
「ほんとう?やったー」
わたしはバンザイした。運動会の時も合奏会の時も、お母さんは来ない。お母さんは、自分の見た目が少し派手で、他のお母さんたちと違うことを気にして、学校行事になかなか来てくれない。
お母さんは、したくを終えると、
「じゃあ、行ってくるね。だれかが来ても、玄関を開けちゃだめだよ。鍵をしっかりかけてね」
と言って、わたしの頭を撫でた。ふわり、と香水の匂いがした。
玄関がぴしゃ、と音をたてて閉まる。コツ、コツ、コツとヒールの靴音が玄関の前から遠ざかっていく。玄関の鍵を中から閉めると、家の中にわたし一人だけになった。
ちゃぶ台の上のリモコンを取って、テレビをつける。教育テレビにチャンネルを合わせると、ちょうど番組が終わるところで、ピッコロやポロリが手を振っていた。
これから、「一人でできるもん」と「天才テレビくん」を見ながら、算数と漢字のドリルをやらなくてはいけない。
★
学校のお昼休み、わたしはいつも、友達のユカちゃんと教室で絵を描いて過ごす。男子たちと、一部の活発な女の子たちは、校庭でドッジボールや長縄跳びで遊んでいる。
わたしが描くのは、ドレスを着たお姫さまだ。わたしがこういう絵を描いていると、時々、男子がのぞきこんできて「なんだこの絵、きもちわるー」と言って立ち去っていく。
将来は、お姫さまになりたい。お姫さまになって、毎日きれいなドレスを着て、美味しいものをたくさん食べて、すてきなお城で暮らしたい、とちょっと本気で思っている。
ユカちゃんが描いているのは、セーラームーンの絵だ。すごく上手に描いている。ユカちゃんは将来、アニメを作る人になりたいのだと言う。
でも、ユカちゃんのお母さんやお父さんは、ユカちゃんにお医者さんになってほしい、と思っているみたいだ。ユカちゃんのうちは、耳鼻科のお医者さんなのだ。
絵を描きながら、ユカちゃんに、昨日公園で知らないおじさんに会ったことを話した。シャー、シャーっと鉛筆の線を走らせながら、ユカちゃんは、うへぇ、という顔をして、
「ミツキちゃん、その人、絶対変な人だよ。先生に言ったほうがいいよ」
と言った。
「うーん」
おじさんの顔を思い出してみる。そんなに変な人には見えなかった。日に焼けた肌に、キリッとした眉毛。実は、ちょっとかっこよかったかも。と思っている。
「でも、500円玉を、ちゃんと返してくれたよ」
「そぉんな、500円なんて」
ユカちゃんはおおきく、首を横にふり、
「世の中、お金を渡しても、女の子といろいろしたいオッサンがいっぱいいるんだから。ミツキちゃんて、ちょっと、ぼーっとしてるから、気をつけなくちゃだめだよ」
ユカちゃんが、一重まぶたのキリッとした目つきで言った。
「えー、そうかなあ」
「そうだよ。・・・あ」
「なに」
「もしかして、今日その公園に行ったら、また変なおじさん、いるのかな」
ユカちゃんが、いいことを思いついた、というようなで目をして言った。
「ねえ、今日の放課後、その公園行ってみようよ。私、今日塾ないからさ。ね」
「え、別にいいけど」
「じゃあ、学校帰りに駄菓子買ってから、行こう」
ユカちゃんは、怖いものみたさでノリノリだ。絵もいい感じに仕上がっている。アニメそっくりの、セーラームーンがポーズを決めている絵。
ほんとうに、上手だなあ、と思う。わたしのお姫さまの絵なんて、幼稚園の子が描く絵みたい。キラキラした目の、金髪の女の子が、ふりふりのついたドレスを着ている絵。
駄菓子屋で何を買おうかな。さっそく、今日の放課後のことを考えながら、暑そうに照り付けられたグラウンドで、ドッジボールをやるクラスの子たちを眺めた。
★
「そろそろ、帰らないとな」
ユカちゃんは、ガリガリ君をかじりながら、「りぼん」を読んでいる。
少し小声で話しているのは、隣の部屋でお母さんが寝ているからだ。「強」の扇風機の風で、ユカちゃんのまっすぐなショートカットの髪の毛が、逆立っていた。
「うん」
わたしは、いか太郎をしゃぶりながら、「特捜最前線」を、小さな音量で観ていた。今日は、わたしの好きな吉野刑事が、活躍する回だった。
公園に、昨日のおじさんはいなかった。いなくてよかった、と思った。そのおかげで早く帰って、吉野の活躍を観ることができたから。
ユカちゃんが立ち上がって帰るしたくをはじめた。ガリガリ君の袋をゴミ箱に入れ、服に落ちたお菓子の食べかすも床に落とさず、ちゃんとごみ箱に捨てる。前に、ユカちゃんのその様子を見て「やっぱり育ちがいいからなのよね」と、お母さんが感心していた。それ以来、わたしもまねをするようにしている。
「今日、なんか、ごめんね」
「え、ミツキちゃんが謝ることじゃないよ。私が誘ったんだしさ。あ、これ借りてっていい?」
最新号の「りぼん」を手に取って、ユカちゃんが言った。
「うん、返すのはいつでもいいよ」
「やったー、今月は『なかよし』買っちゃったから、『りぼん』買えなくてさぁ」
そのとき、隣の部屋で、がさごそと、お母さんが起きる気配がした。
「じゃ、またねミツキちゃん。明日学校で」
ユカちゃんは小声でそう言うと手を振り、玄関をそっと閉めて出ていった。
わたしが、麦茶のコップを片づけていると、ふすまが開いた。
「お友達が来てたの?」
お母さんが、下着の上にスリップ一枚、という恰好で、あくびをしながら部屋から出てきた。お母さんは、カーディガンを羽織り、ベランダのそばまで行くと「この時間になっても、あっついねぇ」と言って、煙草を口にくわえ、火をつけた。
「ミツキ、お母さんにも、麦茶ちょうだい」
わたしは、氷をいれたコップに麦茶を注いで、お母さんに渡す。お母さんはそれを、ごく、ごく、と美味しそうに飲んだ。首に長い髪が汗ではりついている。
煙を吸って吐いて。ぼんやりと遠くを眺めたまま、お母さんは、何も言わない。
寝起きは、お母さんの機嫌があまりよくない。わたしは「特捜最前線」の「私だけの十字架」が流れているテレビを消して、ランドセルから、国語のプリントを出した。
「ミツキ、洗濯物、とりこんどいてね」
お母さんはそういうと、シャワーをあびるためにお風呂場へ行った。
「はい」
軒先に干してあった、洗濯物をとりこむのをすっかり忘れていた。朝、お母さんが干した洗濯物を、夕方、わたしがとりこむのが決まりなのだ。
洗濯物をとりこんでたたみ終わると、お母さんは、鏡台に座ってお化粧をしはじめていた。
「千円置いておくから、それで好きなもの食べて、ね」
と鏡越しに言う。
「うん」
今日の宿題は、国語のプリントと、本読みだ。
本読みは、国語の教科書を音読して、それをお母さんかお父さんに聞いてもらう、という宿題。
宅配便が届いたときに推すハンコを持ってきて、それを本読みカードの、保護者欄に押した。
「行ってきます」の声が聞こえた。少しだけ、玄関にのこる香水の匂い。ちゃぶ台の上の千円を、わたしはそっと貯金箱に入れた。
★
今日は、いつもの帰り道を、すこし遠回りして帰った。あの公園に寄ろうと思ったのだ。別に、特にこれと言って用があったわけじゃないけれど、すこし、あのおじさんのことが気になったから。
蝉の鳴き声がそこらじゅうに響いている。歩いていると、汗がたらたら垂れてくる。ああ、アイスがたべたい、と思う。
公園の入り口の前を通り過ぎる。遊具なんて、ブランコと滑り台くらいしかない、小さな公園。すみっこに、ちょこんとおかれたベンチ。
そこに、あのおじさんがいた。前に会った時と同じように、煙草のけむりをふうーっと吐いて、足を組んで座っている。
わたしがじっと見ていると、おじさんがこちらに気がついて、「や」と手を挙げた。わたしも、会釈をして返す。
そのまま、通り過ぎてもよかったけれど、おじさんに興味があった。
こんなところで、なにをしているのか。その自転車に載っている、木箱みたいなものはなんなのか。「へんしつしゃ」の疑いが消えたわけではないけれど、好奇心のほうが強かった。
公園の中に入り、おじさんに近づいていった。「こんにちわ」とわたしが言うと、「こんにちは」とおじさんが返す。少なくとも、頭のおかしな人には、見えない。
おじさんは、煙草を踏み消して、ベンチの端に座り直し、わたしのスペースを空けてくれた。
「このあいだは、お金を拾ってくれて、ありがとうございました」
そういうと、
「いえいえ。なんか俺の方が、驚かせちゃったみたいだから」
と笑った。
おじさんの隣に腰掛ける。ベンチの下は、木陰になっていて少し涼しい。
「飲む?」
と、おじさんは、コーラの入った瓶を一本くれようとした。おじさんの足元には、コーラの空き瓶がすでに一本あった。おじさんは、飲んだあとのようだ。
「あ。わたし、コーラが飲めないんです」
わたしは、炭酸の入ったジュースが飲めない。舌がピリピリするのが苦手なのだ。
「そうか」
といって、おじさんは、瓶をクーラーボックスに戻す。クーラーボックスの中には、コーラの瓶が数本と、氷が入っていた。
「あのー、おじさんは、こんなところで、なにやってるんですか」
とおそるおそる、聞いてみた。
「俺?」
「はい」
「これだよ」
おじさんはそう言って、横に止めてあった黒い自転車を指さした。
荷台には、木の箱。
「なんですか、それ」
と聞くと、
「あれ、知らない?」
おじさんは、立ち上がって、木箱のなかから、画用紙くらいの紙の束を取り出して見せてくれた。
「あ、かみしばい」
「そう、かみしばい」
おじさんは、そう言って、にやりとした。
「今、ここにあるのは、桃太郎、シンデレラだね・・・・と、これはちょっと見せられないな」
と、桃太郎とシンデレラのやつとはちがう、ちょっと紙の質がぺらぺらで、しかも絵が手書きのものが、ちら、と見えた。
「それ、おじさんが、描いたもの?」
「うん。オリジナルストーリーってやつ」
「へー、どんなのですか」
「それは、ひみつ」
「ふーん」
それなら、別にいいや、と思った。特に興味も無いし。かみしばい屋なんて、「ちびまる子ちゃん」の中でしか見たことがない。
「それで、おじさんは、かみしばい屋さんなの?」
「そ」
「でも、この公園、人が来ないよ」
公園には、子どもどころか、猫も、鳥もいない。
数本植えられた桜の木と、蝉がやかましく鳴いているだけだ。
「今は休憩中。かみしばいは、そっちの大きな公園でやってるよ」
「ふうん」
「ま、よかったら、今度観に来てよ」
おじさんは、そう言うと、立ち上がって、コーラの入ったクーラーボックスを肩にかけた。
「よっこいしょ」
かみしばいの箱の乗った、黒い自転車を起こすと、
「じゃあね」
と言って、おじさんは去っていった。ベンチの上には、空のコーラ瓶が残った。
「かみしばい?」
いぶかしげな顔でユカちゃんが言う。
「うん」
「えー、私、時々あの大きな公園の前通るけど、そんな人、見たことないよ」
「毎日じゃないのかも」
「うーん」
ユカちゃんには、一人部屋があってうらやましい。ユカちゃんの好きな、水色のベッドカバーや、カーテン。わたしなら、ピンクを選んで、もっと可愛い部屋にする。
ユカちゃんと遊んだあと、たまに、ユカちゃんのおうちで晩御飯を食べることがある。今日は、ハンバーグをごちそうになった。
わたしのお母さんが夜働きに出ていて、わたしが一人で家にいることを、おばさん・・・ユカちゃんのお母さんが、気にかけてくれているのだった。
今日のハンバーグは、デミグラスソースのとっても美味しいハンバーグだった。おばさんは、料理が上手だ。
「でも、思ったより、おじさんではなかったよ」
「じゃあ、なに」
「お兄さんかなぁ。ちょっと若かった」
やっぱり、あらためておじさんを見て、ちょっとかっこいい。と思ったのだ。
コンコン、とノックの音がして、おばさんが部屋に入ってきた。
「ユカ、あんたお風呂に入っちゃいなさい。ミツキちゃん、そろそろおうちに帰る時間でしょ?おばさんが、車で送ってあげるから」
「あ。ありがとうございます」
「うわー、もう八時かあ。明日も学校だあ」
ユカちゃんが絶望の声をあげる。
「ミツキちゃん、これ、持っていくでしょ」
おばさんが、残ったハンバーグが入ったタッパーを渡してくれる。
「冷凍しておいて、食べたい時はチンしてね」
「あ。いつも、ありがとうございます」
まだ、すこしだけ温かいタッパーを、手提げ袋に入れた。
「じゃあ、またね、ミツキちゃん」
ユカちゃんが手を振る。
「うん、また明日」
外に出ると、外は空気がひんやりしている。そこかしこで、りりりり、と虫の声が聞こえた。もう秋なのだ。
玄関の前で、おばさんの車を待っている間、あらためてユカちゃんの家を眺めた。大きくて立派なおうちだ。クーラーが効いていて、ユカちゃんの家に遊びにきた後は、いつも、自分の家に帰りたくなくない、と思う。
車庫からヴィッツを出してきたおばさんが、運転席の窓を開けて、「じゃ、ミツキちゃん、乗って」と言った。ヴィッツの中は乗るといつも、お花のいい香りがする。
「ミツキちゃんのお母さん、今日は、何時頃帰ってくるの?」
「うーん、夜中すぎです」
「そう・・・。戸締りはしっかりしないとね」
「はい」
ユカちゃんの家から、私の家まで、車だと五分もかからない。わたしの家がある通りは狭いので、手前の通りでおろしてもらう。
「おやすみなさい」
「留守番、気をつけるのよ」
おばさんは、わたしが路地を曲がるまで、ヘッドライトをつけたまま、見守ってくれる。
おばさんは優しいけれど、ときどき息が詰まるときがある。わたしを「お父さんのいない可哀そうな子」と見ている感じが、少しだけするのだ。
おばさんには、ご飯をごちそうになったり、こうして家まで送ってもらったり、よくしてもらっているのに。そういう自分が、ちょっと嫌になる。
鉢植えの底にある鍵をとって、玄関を開ける。家の中は、真っ暗だ。
手探りで電気をつける。ちゃぶ台の上に1,000円が置いてあって、横にお母さんの手書きのメモがあった。
「ミツキへ。これで晩ごはん買ってね。お母さんより」
おばさんにもらった、ハンバーグを冷凍庫に入れて、ちゃぶ台の上の1,000円を貯金箱にしまう。洗濯物をとりこまなくちゃ、とベランダの窓を開けた。
軒下にぶらさがっている洗濯物は、夜の湿気を吸って、少し、しめっぽくなっていた。
ふいに、明日はクラブ活動の日だと思い出した。料理クラブの、果物ナイフと、エプロンと、りんご1個、という持ち物を思い出す。
りんご、家にあったかな。洗濯物をとりこみ、台所へりんごを探しにいく。
★
「指を切らないように、気をつけて。親指を上手く使って、ナイフを滑らせるように、皮をむいていきましょう」
今日の料理クラブの活動は、「りんごの皮むき」だ。
家庭科室には、エプロンをつけた四年生が二十人くらい、各々テーブルに座っていた。「うち、りんごは皮ごと食べるんだよね」と同じグループの田代さんが、ぼそっと言った。
ほんの少し、表面に油分がのこっているりんごを左手に、まだ、持ちなれない果物ナイフを右手に持って、先生のいうとおり、指を切らないように、ゆっくりとナイフを動かしていく。
皮だけをむくのは、けっこう難しい。りんごの実のほうまでナイフで削りとってしまう。
「あら、キタノさん、上手にむけてるじゃない」
先生に褒められて、少し恥ずかしくなった。
「りんごの皮がむけるとね、じゃがいもとか大根とか、他の野菜や果物の皮むきもできるの。覚えておいてソンはないのよぉ」
と、先生は田代さんに向かって言った。田代さんは、はあ、と気まずそうにうなずいた。
皮をむきおわったあとのりんごは、実がまるだし、という感じでなんだか痛々しかった。それを八等分にして切っていく。
「芯も、こんな感じで取り除いてね」
先生のお手本を真似して、ナイフで芯の部分を実から切り離す。八等分したりんごは、変色しないように、塩水につけた。
りんごを、その場で食べてしまう人もいたけれど、わたしは、りんごがあまり好きじゃない。あの酸っぱいかんじが、どうも苦手なのだった。りんごは、タッパーに詰めた。
クラブが終わると、家庭科室の外でユカちゃんが待っていた。ユカちゃんのクラブは、漫画クラブだ。仮面をつけた女の子の戦士が、悪いやつをやっつける漫画を、せっせと描いている。
「りんごかあ、いいなあ。わたしも五年生になったら、料理クラブに入ろうかな」
りんごの入ったタッパーを見て、ユカちゃんが言った。
「ユカちゃん、りんご食べる?よかったらあげる」
「え、いいの」
やったー、というとユカちゃんは手提げにタッパーを入れた。
下駄箱までの長い廊下を、ユカちゃんとだらだらと、おしゃべりをしながら、歩いた。
次の日の朝、教室に入ると「ミツキちゃんこれ」と、ユカちゃんがヒソヒソと小声で、小さな紙袋を渡してきた。「なに、これ」と小声で返すと、「お母さんが、昨日のミツキちゃんにもらったりんごを使って、アップルパイを焼いたんだよね。」と言った。
「え、すごい。うれしい。ありがとう」
アップルパイなんて、菓子パンのやつしか、食べたことがない。
「家、帰ってから食べてね」
そういうとユカちゃんは、朝の会がはじまるまえに、席に戻っていった。
学校が終わり、家に帰って紙袋をあけると、透明な袋に入ったアップルパイが二つ入っていた。綺麗な編み目もようのついた、ケーキ屋さんでみるようなアップルパイ。「レンジで少しだけチンして食べるとおいしいよ!」と、おばさんのキレイな字書かれたメモが入っている。
お皿に出して、レンジに入れて五十秒ほどあたためる。家じゅうに美味しそうな、甘い香りが漂った。
レンジから取りだして、フォークをいれると、さくっというパイ生地の音がして、りんごの煮汁がじゅわっとあふれた。口に入れると、りんごの甘さが口いっぱいに広がる。りんごは酸っぱくて苦手だったけれど、これならたくさん食べちゃうな、と思った。
あとで、お母さんにも食べさせてあげよう。もう一つのアップルパイは冷蔵庫にしまった。
隣の部屋のふすまを眺める。まだ、お母さんは起きてくる気配はない。
★
リョウジくんが家に来る日。わたしは、学校から家に帰ると、お母さんに500円玉をもらって、また、あの公園に行った。
ほんとうは、あのかみしばいのおじさんが、かみしばいをやっている、という大きな公園へ行こうかな、と思ったけれど、そこは、クラスの男子たちが、よくサッカーをやっているから、行きたくなかった。
公園の入り口に行くと、おじさんが、ベンチに座って、タバコをふかしているのが見えた。
「こんにちわ」
そういうと、おじさんは、「おう」とタバコを口にくわえたまま、手を挙げてこたえた。
「飲む?」
とジュースの瓶を1本くれた。きんきんに冷えた、オレンジジュースだった。
「ありがとう」
おじさんが栓抜きで栓をあけて「ほらよ」と渡してくれる。よく冷えた甘いジュースが、汗をかいた体に染みわたる。
「おいしーい」
おじさんも自分の分のジュースをクーラーボックスから取りだし、栓をあけて、ジュースをゴクリ、ゴクリ、と飲んだ。飲んだ後、「染みるねぇ」と言った。
「おじさんは、もう、今日のお仕事は終わったの?」
「まあね」
「ふうん」
おじさんの隣に停められた、黒い自転車の上に載った木箱。
「今日は、何のお話しをしたの」
「今日は、女の子のお客さんが多かったから、シンデレラだね」
おじさんが、木箱を開けて、「シンデレラ」と書かれたかみしばいを見せてくれた。
「シンデレラ。わたし、お姫さまが出てくるお話が大好きなんだ」
「へえ。それは、また、どうして」
「どうしてって・・・」
どうして、と聞かれると困ってしまう。お姫さまに憧れをもつことに、疑問をもったことはなかった。
「うーん。みんな美人で、可愛くて、お金持ちで、幸せそうだから・・・?」
「そうか?」
「うん。悪いやつが出てくることもあるけど、王子様がやっつけてくれるでしょ」
「まあ、そういう話もあるかな」
「だから、いいなあって。なりたいなあって」
シンデレラ、白雪姫、眠れる森の美女。みんな美人で幸せそう。すると、
「お姫さまは、幸せそうに見せているだけだよ」
とおじさんは言った。
「たぶん、きみに見えてないところで、嫌な思いや、辛い思いはしているよ。ただそれを、見せてないだけだ」
おじさんは、そういうと、オレンジジュースの瓶を横に置いて、煙草に火をつけた。
「えー、そうかな」
「考えてみてごらん」
そういうと、煙草の煙をふーっ吐いて、おじさんは続けた。
「シンデレラは、舞踏会に行って、ちょっと一緒に踊っただけの王子様と結婚したんだ。王子様はシンデレラのことをほとんど知らない。彼女の見た目が美人だったっていうだけで結婚したんだ。さあ、二人の結婚生活はうまくいくかな?」
「うーん」
「これは、かみしばいの最後に、みんなにクイズで出すやつだけどね」
「・・・わかんない」
「そう。わからないんだ。本当の事は、誰にもね。でも、周りはこう言うんだ。『美人だから幸せに違いない』『お金持ちと結婚したから幸せに違いない』。でも、わからないんだよ、実際のところは」
おじさんは、わたしのほうを向くと、
「それでも、お姫さまになりたい?」
と聞いた。
「うーん」
そういわれると、考えてしまう。ときどき、お母さんと二人だけの生活から逃げて、遠い国のお姫さまになることを、夢想することがある。素敵なおうちに住んで、なにも不安に思うことがなくて。
でも、それが違うのだとしたら。
「お金がなくたって、小さな家だって、美人じゃなくたって、幸せな人はたくさんいる。幸せかどうかの判断を、他人に任せちゃだめだと、俺は思うね」
「・・・わかんない」
「ちょっと、難しいかな」
おじさんは、そう言うと、一枚の絵をわたしにくれた。まえに、「これはオリジナルストーリー」だと言って、みせてくれなかったやつだ。
わたしと同じ年くらいの女の子が、えんぴつと水彩絵の具で描かれている。
肩までのまっすぐな髪。白いワンピース。昔絵本で見た、いわさきちひろ、という人の絵に似ていると思った。
「これ、おじさんが描いたの」
「そう、なかなか、かわいいでしょ」
「うん、上手」
「その子、どんなふうに見える」
「どんなふう・・・」
まっすぐにきりっとした顔の女の子は、可愛らしい顔をしている。
「なんか、ちょっと悲しそう、かなあ」
「そうみえる?」
「うん」
「・・・さて、お嬢ちゃんに宿題をあげよう」
「え、宿題?」
今日やらなくてはいけない、算数と漢字のドリルを二ページずつの宿題が、頭の中にちら、と浮かんだ。
「その子が、笑顔になるには、どうしたらいいと思うか、考えてみて」
「えー、なにそれ」
「正解したら、うまい棒を三本進呈」
おじさんは、指を三本だした。
「え、本当」
「なに味でもいいぞ」
わたしは、うまい棒の納豆味が大好きなのだ。
「納豆味、三本でもいいの」
「もちろん」
おじさんは、笑った。
「さて、そろそろ行くよ」
よっこらしょ、とおじさんは立ち上がった。
「またね、その絵はあげるよ」
おじさんは、にっと笑うと、自転車のスタンドをガシャンと足で外すと、自転車をおして公園を出ていった。
公園の時計は六時まえを指している。空の色が、オレンジからうすむらさき、紺色にすこしずつ変わっていく。これを、たしかマジックアワー、というのだっけ。
家に帰ると、お母さんが鼻歌をうたいながらカレーを作っていた。
わたしは、500円玉を貯金箱にそっと入れ、おじさんからもらった女の子の絵をじっと眺めた。
★
夏休み明けにあった、実力テストの結果が返ってきた。算数は七十六点、国語は九十六点だった。ユカちゃんが、わたしのテストの結果を見て言う。
「ミツキちゃんすごい。私なんて、国語、八十四点だよ」
わたしの解答用紙を、ユカちゃんがまじまじ眺める。
「しかもさ。ミツキちゃん、間違ってるの漢字のケアレスミスだけじゃん。長文読解は満点!」
「しーっ。あんまり大きな声、ださないでよぅ」
他のグループの女の子たちが、こちらを、ちらちら見た。
「あ、ごめんごめん、つい」
ユカちゃんが、しまった、というように口を手でおさえて言った。
「ユカちゃんは、算数、九十二点でしょ。さすがだよね」
たくさんのマルがついた、ユカちゃんの解答用紙を見た。
「まあ、ほぼ毎日、ソロバンと学習塾通ってますから。でも私、国語はだめなんだよなぁ。本とか読んだ方がいいんだと思うんだけど」
わたしは、算数はダメだけれど、国語は得意だ。たぶん、家にリョウジくんや、その前のカレシたちが家に来ている時に、外で本を読んでいるからだと思う。
「ミツキちゃん、今度なにか本貸してよ」
「わたしが読んでるの、ぜんぶ図書館の本だよ。ユカちゃんもなんか借りてきなよ」
「図書館の利用者カード、どこにやったっけ・・・まあ、あんまり読んでる時間もないんだけどさ。」
「でも、漫画はよく読んでるよね」
「まあね・・・あ、こないだの『りぼん』今度、返すよ」
「うん」
ふと、ユカちゃんも、つらいことってあるのだろうか、と思った。明るくて、友達も多くて。お父さんがお医者さんで、お金持ちで。わたしから見たら、うらやましいことばかりだけれど。
「ユカちゃんさ、つらいことある?」
「え、なにいきなり」
「・・・なんでもない」
すこし離れた席で、高らかな笑い声をあげながら話をしている、女の子たちをちら、と見る。
彼女たちはときどき、男子のグループと一緒に帰ったり、映画を観にいったりしている。わたしは、ちょっと苦手な雰囲気だ。あの子たちにも、悩みとか、あったりするんだろうか。これからが、不安になったりすることが、あるんだろうか。
「親が医者になりなさいってうるさいこと、かな」
ユカちゃんが、ぼそっと言った。
「え、急にどうしたの」
「いや、つらいことあるか、って聞くから」
「ユカちゃんは、お医者さんになりたくないんだ」
「うーん。なりたくないわけじゃない。人の病気を治す仕事はかっこいいと思うし、算数好きだし、多分、むいてると思うし、なれると思う」
「うん、わたしもそう思う」
ユカちゃんがお医者さんになっている姿を想像した。とてもカッコよくて白衣が似合っている。
「でも、今は、逆らいたい」
「なんで?」
「医者なんて、なろうと思えば誰でもなれると思う。勉強さえすれば。でも、アニメを作る仕事は、才能がなければできない。だから、あたしはギリギリまでアニメの世界を目指したいと思う。それが、あたしの挑戦」
お医者さんになりたくても、なれなかった人が聞いたら怒りだしそうな言葉だけど、実際、ユカちゃんのおうちはお医者さんで、ユカちゃんの環境はそういう環境なのだから、しょうがない。
「それに、うちにはアニキもいるしさ。うちの病院の跡継ぎは、アニキでいいよ」
ユカちゃんには、高校生のお兄さんがいる。高校は有名な進学校で、眼鏡をかけてひょろっと背が高く、気が弱くて優しそうなお兄さん。
「ユカちゃんなら、アニメを作る人になれるよ」
「ミツキちゃんは、何になりたいの、将来」
「うーん、なんだろ」
将来は、お姫さまになりたい、なんて言えない。
「あ、そうだ」
ふと思い出して、昨日おじさんからもらった絵を、ユカちゃんに見せてみる。
「なにそれ」
「昨日、例のかみしばいのおじさんに貰った」
「えー、みせて・・・ってなんか、この女の子、ミツキちゃんに似てるね」
「え、そう?」
「うん、なんか髪型とか、雰囲気とか。似てる」
「そうかな」
その時、ガラガラっと扉を開けてサイトウ先生が教室に入ってきた。「はい、席につきなさーい。休み時間はとっくに終わってますよー」
わたしは、掲示板に貼ってある、来月の予定に目をやった。来月の授業参観日。お母さんは、来てくれるのかな。
先生が「はい、教科書七十八ページを開いて」と言う。退屈な社会の授業。窓の外をみると、雨がしとしとと降りはじめていた。
あ、洗濯物。お母さんが外に干していたら、洗濯物、濡れちゃってるなぁ。そんなことを思いながら、のそのそと教科書を開いた。
雨のかえり道。雨が降るたびに、秋に近づいていく。
今日は、かみしばいのおじさん、いるのかな、と公園の前を通って、のぞいてみたけれど、誰もいなかった。雨の音だけがして、公園はとても静かだった。
家の中も静か。古い平屋には、雨粒が屋根をたたく音が、タタタタン、と響く。玄関を開けて、ランドセルを下ろし、うがいと手洗いを済ませてから、冷蔵庫の麦茶をコップに注いで飲んだ。
テレビをつけて、宿題の算数と漢字のドリルをちゃぶ台の上にだす。
おじさんにもらった女の子の絵が目に止まった。そんなに、わたしに似てるかな。
この子が笑顔になるようなことを考えてみて、とおじさんは言っていた。笑顔になるのは、なにか嬉しいことがあったってことだろうか。
たくさんうまい棒をたべる。学校がお休みで宿題も無くて一日ユカちゃんと遊ぶ。新しいお洋服を買ってもらう。特捜最前線の吉野に会う。最後の吉野に会う、という想像をしたところで、少しだけ、ふふ、と笑ってしまったけれど、どれも、しっくりこないな、と思った。
ふすまが閉じられた隣の部屋を見る。まだ、お母さんが寝ている。タタタタン、タタタタン、雨が屋根をたたく音がさっきより、強くなっているみたいだ。
ふいに、一年生のときのことを思い出した。
昔、団地に住んでいた時のことだ。その頃は、まだお父さんがいて、お母さんは、まだスナックでは働いていなくて、近くの工場へ、パートに出ていた。
パートは、水曜日と土日がお休みで、わたしは、水曜日に学校から帰るのが楽しみだった。お母さんに「ただいま」が言えるから。
十一月の、雨が降っていて、とても寒い日だった。学校から帰るとき、すでにおしっこに行きたかったけれど、早く家に帰りたい、とトイレを我慢して学校を出た。
やっと家について、玄関のドアチャイムを鳴らしたところで安心して、おしっこを漏らしてしまった。怒られる、と思ったけれど、お母さんは「寒かったから、しょうがないね」と言って、汚れたパンツを洗って、あったかいココアを入れてくれた。失敗しても怒られなくて、優しくしてもらえて、嬉しかった。
次の水曜日も雨で、わたしはもう一度、お漏らしをした。また、お母さんに優しくしてもらえると思って。でも、お母さんは「あんた、また漏らしたの!」と言って怒った。結局、わたしは自分でパンツを洗って干した。
そんなことを思い出していたら、ふすまの向こうで人が動く気配がした。少しだけ身構える。絵の中の女の子みたいに、きゅっと顔が緊張した。
★
図書館で「簡単お菓子作り」という本を借りた。この本のなかに、アップルパイの作り方が載っている。
アップルパイの他にも、クッキーやシュークリーム、デコレーションケーキなど、色とりどりの、おいしそうなお菓子の写真と作り方がたくさん載っていて、見ているだけで、うっとりするような本だ。
今日は、水曜日ではないけれど、リョウジくんが家に来た。お母さんは、出かけていて、家にいなかった。
「今、お母さんいないけど」
と言ったら、
「仕事が早く終わって、ちょっと寄っただけだから。ほら、ケーキ」
リョウジくんは、苺のショートケーキが三つ入った箱を、差し出した。
「あ。ありがとう。たぶん、お母さん、すぐ帰ってくると思うよ」
「おう、じゃあ俺、そっちの部屋で雑誌でも読んでるわ」
と、リョウジくんはお母さんの部屋に入り、畳の上であぐらをかいて、雑誌を広げた。
ケーキを冷蔵庫に入れて、冷たい麦茶を自分の分、とリョウジくんにもいれてあげる。
「お、サンキュー」
と美味しそうにのどをゴク、ゴク鳴らしながら、リョウジくんは麦茶を飲んだ。リョウジくんは、ますます日に焼けたみたいだ。
「日に焼けたね」
と言うと、
「まあ、外で体つかう仕事だからね」
と言って笑った。
「簡単お菓子作り」のページをめくりながら、テレビで「特捜最前線」を観ていた。
アップルパイの作り方は、なかなか難しい。まずはパイ生地をつくらなくてはいけない。生地を何度も折り込んだり、冷蔵庫で一日寝かさなくてはいけなかったりと、手間がかかって大変そうだ。最後は、オーブンレンジで焼くのだけれど、家には電子レンジとトースターしかない。
自分でアップルパイを作るのは、ちょっと無理かなあ、とがっかりして本を閉じ、「特捜最前線」を観ていると、お気に入りの吉野刑事が、死んでしまった。殉職、というやつらしい。すごくショックだった。
泣きながら、ティッシュで鼻をかんでいたら、リョウジくんが様子を見に来た。
「ミツキちゃん、なんで、泣いてんの」
「吉野が、吉野が、死んじゃったぁ・・・」
言葉に出したら、よけいに涙がとまらなくなって、おうおうと泣いてしまった。
「よしの?あー、お気に入りの刑事さんか。まあ、人が死ぬ場面はショックだよなあ、よしよし」
と、リョウジくんは、優しく頭を撫でてくれた。リョウジくんは優しい。リョウジくんがお父さんだったら良かったのに、と思う。リョウジくんは、お母さんがお父さんと別れてから、五人目くらいのカレシだけど、わたしとよく遊んでくれる。お母さんも、リョウジくんが来た日は、優しくなる。
「あ、そうだ、ケーキ、食べようぜ」
「お母さん、待たなくていいの」
「そのうち帰ってくるでしょー」
冷蔵庫からケーキを取りだして、ティーバックの紅茶を淹れて、リョウジ君と二人で仲良く食べた。
リョウジくんに、
「ねえ、オーブンて、高いのかな」
と聞くと、
「おーぶん?ああ、お菓子とか作るやつ?うーん、どうだろう。数万円ってとこかな」
と、いちごを一口で頬張りながら、リョウジくんが言った。
「数万円・・・」
お年玉で買えるだろうか。いざとなったら、500円玉貯金を崩さなくてはだめかもしれない。
ケーキも食べ終わって、「お母さん、遅いね」と言うと、リョウジくんは、
「ミツキちゃん、おれ、いったん帰るわ。また電話するって、お母さんに伝えて」
と言って、家から出て行った。
わたしは、ひとしきり泣いた後だったし、ケーキも食べて眠気を感じた。少し横になると、そのまま眠ってしまった。
人の気配がして目を覚ますと、お母さんが、すごく怖い顔で、わたしのことを睨みつけていた。
「おかあさん?」
なぜ、お母さんがそんな形相でいるのか、わからない。
「あんた。なにやってんの」
お母さんが、仁王立ちになって震えている。
「え?」
「なにやってたのって、聞いてるの!」
その瞬間、頬に激痛が走った。頬をぶたれたのだ。
「なにって・・・」
起きたばかりの頭を起こして、必死に思い出す。さっきまで、リョウジくんが来ていて、ケーキを買ってきてくれて、わたしは特捜最前線を観て、吉野が死んで、ショックで泣いて、そのあと、リョウジくんとケーキを食べたのだ。
お母さんこそ、今まで、なにをしていたんだろう。お母さんの足元には、デパートの紙袋が置いてあった。ああ、また洋服を買ったんだ、と思う。
「洗濯物も取りこまずに昼寝して。雨が降ってるじゃない」
お母さんが、ガラガラ、ぴしゃん!とベランダの窓を勢いよく開ける。
わたしが寝ちゃったときは、雨は降ってなかった。
「ごめんなさい。寝ちゃってたから、雨に気がつかなかった」
慌てて、わたしも手伝おうとしたけど、手を払われた。
「だいたい、あのケーキはなに。リョウジが来てたの?二人でコソコソ会って何してたの?」
お母さんは、何かを勘違いしている。
でも、こうなったお母さんに、何を言っても無駄だ。お母さんの中で、ストーリーが出来てしまっていて、それがお母さんにとって、本当のことだから。
それが、どんなに「リフジン」であっても、わたしは、お母さんの怒りがおさまるのを、じっと待つしかない。
お母さんは、わたしに投げつけるように洗濯物をとりこむ。
「冷蔵庫に、おかあさんの分のケーキ、入ってるよ」
わたしは、それだけ言うと、ちゃぶ台の上で算数のドリルを開く。ひたすら、分数の計算問題を解いて、何も聞こえないようにした。
しばらくして、びしゃん、と玄関が閉まる音がして、ハイヒールの音が、遠ざかっていくのが聞こえた。
★
十月になった。家から外に出ると、空気がしんとして甘い花の香りがする。これは、なんという花の匂いだったかなぁ、と思い出せそうで思い出せない。
今日は、お気に入りのカーディガンを着て、家を出た。授業参観の日なのだ。お母さんはきっと来てくれる、と思う。
授業参観は、五時間目の算数の時間だ。昼休みは、みんな少しソワソワしていた。緊張して給食を残してしまう子もいた。いつもは外で遊ぶ子たちも、今日は、教室の中で遊ぶ子が多かった。五時間目がはじまる、少し前から来るお母さんもいて、教室の雰囲気が、いつもと違う。
チャイムが鳴り、サイトウ先生が「はい、授業はじめるよー、席についてー」と声をかける。教室の後ろや廊下には、二十人くらいのお母さんやお父さんたちが立っていて、竹中君の、髪が紫色のおばあちゃんも、にこにこ笑って、竹中君に手を振っていた。
わたしは後ろを振り返って、お母さんの姿を探したけれど、教室の中にはいなかった。おばさん・・・ユカちゃんのお母さんは、廊下に立っていた。わたしにも手を振ってくれて、わたしは軽く頭を下げた。
算数は得意じゃないから、普段は積極的に手を挙げて発表しないけれど、今日は、簡単な計算問題ならやってもいいかな、と勇気を出して手を挙げて、答えを黒板に書いた。ユカちゃんはいつも通り、前に出て難しい文章問題を解いて、先生に解き方の説明をしていた。
お母さん、さっきのわたしの発表、見ていてくれたかな。そればかりが気になって、授業の後半、全く先生の話が、頭に入ってこなかった。
授業が終わると、おばさんが「ミツキちゃん、積極的に発表してすごいじゃない」声をかけてくれた。ユカちゃんが、
「ねえねえ、私も、発表したけど。難しい文章問題、解いたんだけど」
というと、
「ユカは塾で勉強しているんだから、解けてあたりまえでしょう」
とおばさんはぴしゃり、と言った。
ユカちゃんが、ちぇーっという感じで口をとがらせて「これだから、いやになっちゃうな」と席に戻っていく。
「ミツキちゃんのお母さん、来てなかったみたいだけど、今日はお仕事かしらね」
「え」
廊下の後ろの方で、見てくれているのではないか、と思っていた。そっか、来ていなかったのか。期待していた分、がっかりした。
「保護者会に参加される方は、こちらの教室にいらしてくださーい」
という先生の声が聞こえて、おばさんは、
「ミツキちゃんごめんね。おばさん、もういくわ。またね」
と言って、別の教室へ向かって行った。
教室では、帰りの会がはじまろうとしていた。日直が「帰りの会をはじめます」と号令をかけている。
お母さんは今、なにしてるんだろう、と思った。
「ミツキちゃん、元気出しなよ」
落ち込んでいる様子の私を見て、ユカちゃんが帰り際、声をかけてくれた。
「うちなんてさあ。ミツキちゃんも聞いてたでしょ。結構むずかしい問題解いたのに、あれだもん。できてあたりまえって、やんなっちゃう」
「うん・・・・」
お母さん、どうしたのかな。気持ちがぐるぐるして、ユカちゃんに上手く返せない。ユカちゃんは、そんな様子の私を見かねてか、
「ミツキちゃん、今からウチに来ない?私、塾ないし。遊ぼうよ」
と言った。今は、お母さんに会いたくない気持ちだったから、
「そうしようかな」
と、わたしがそういうと、
「そうこなくちゃ!」
ユカちゃんは、はじけるような笑顔で言った。
家には帰らず、ランドセルをしょったまま、ユカちゃんの家に行った。
保護者会で、おばさんはまだ家に帰ってなかった。ユカちゃんはここぞとばかりに、「ミツキちゃん、食べよう!」とお菓子をたくさん持ってきた。
「いいの?あとでおばさんに怒られないの」
と聞くと、
「いいの、いいの。あとでアイスも食べよう」
と楽しそうに言った。
ポテトチップスやチョコレートのお菓子をユカちゃんの部屋に持ちこんで、二人でむしゃむしゃ食べながら、ゲームボーイで遊んだり、漫画を読んだり、トランプをしたりして遊んだ。
五時くらいになって、おばさんが「遅くなってごめんねえ」と、スーパーの袋を二つ手に提げて、帰ってきた。
「あ、ミツキちゃん、来てたのね。いらっしゃい」
というと、
「あ!ユカ!お菓子こんなにいっぱい食べて。晩御飯が食べられないじゃない!」
と言って怒った。ユカちゃんは、食べれるもーん、と全く気にしていない。
もう五時なら、わたしも、そろそろ家に帰らなくてはいけない。
「ユカちゃん、わたし、そろそろ帰るね」
「お、そうか。お母さん心配するもんね」
「ミツキちゃん、今日はどうする?晩御飯食べてく?カレーだけど」
おばさんが、晩御飯のしたくをする手をとめて、聞いてくる。
「いえ、まだ家に一回も帰ってないから、今日は帰ります」
わたしがそういうと、
「そう、気をつけてね。外はもう真っ暗だから」
とおばさんが、心配そうな顔で言った。
玄関のドアをあけて、ドアポーチにでると、本当に外は真っ暗だった。ぽつぽつと灯った街灯の中を、なるべく早足で家に帰る。
その道のりは、とても心細く感じた。
家の玄関の前まで来て、へんだな、と思った。家の電気がついていない。お母さんがいるのなら、電気がついていて、玄関から明かりがもれているはずだ。
鍵をあけて、「ただいま」と言いながら、ガラガラと玄関をあけると、中は真っ暗だった。怖いので、すぐに玄関の電気をつける。玄関には、お母さんの靴があった。
「お母さん?」
寝ているのだろうか。居間のちゃぶ台の上をみたけれど、リモコンしか置いてない。洗濯物が、脇にたたんで置いてあった。
お母さんの部屋のふすまを開ける。部屋の中は暗くてよく見えない。
お酒のにおいと、すこし酸っぱいにおいがした。布団の上にお母さんが寝ているみたいだけど、様子が少し変だなと思った。
「お母さん?」
蛍光灯の紐をさがしてひっぱる。蛍光灯が点滅し、部屋が明るくなった。
眠っているお母さんが、薄目をあけてこちらを見た。
「ミツキ・・・?」
お母さんの顔の周りには、吐いてしまったと思われるものと、ビールの空き缶がたくさんと、風邪薬の箱が二つ。
お母さんの顔は白くて、目がうつろで、生きていないみたいだった。
「お母さん、お母さん!」
お母さんの身体をゆすってみたけれど、お母さんは、苦しそうにするだけで、起きることができないようだ。
わたしは、あわてて電話のところへ行き、壁に貼ってある連絡網の一覧表をみながら、ユカちゃんの家の電話番号を探す。
プルルル、プルルル、のコール音が二回鳴って、「はい、フカヤでございます」とさっき別れたばかりのおばさんが電話に出た。
「あの、わたし、ミツキ・・・キタノミツキです」
「ああ、ミツキちゃん、どうしたの?忘れ物?」
「いえ、あの・・・。お母さんが、お母さんが・・・どうしよう、どうしたらいいか」
「え?」
声が震えて、上手く説明できない。
「お母さんが、お酒をたくさん飲んで、顔が真っ白なんです。薬も飲んでるみたいで・・・・。お母さんが、死んじゃう。どうしよう」
誰か助けて、と叫びたかった。
「わかった、ミツキちゃん、落ち着いて。おばさん、今からそっちに行くから。救急車は?救急車は呼んだの?」
「あ・・・まだです」
「わかった、まずね、救急車を呼んで。救急の電話のかけ方わかるよね?そしたら、出た人に、お母さんの状態と、ミツキちゃんの家の住所を言うのよ」
「わかりました」
「じゃ、今からそっちに行くから、待ってて」
そういうと、おばさんは、電話を切った。
一度、ユカちゃんの家に電話をしたせいか、少し気持ちが落ちついていた。救急の番号に電話をかけて、お母さんがお酒をたくさん飲んで、意識がないことと、家の住所を伝えた。
電話を切り、何をしたらいいのかと思っていると、玄関の扉が勢いよくガラガラッと開いて、バイクのヘルメットをつけたままで、おばさんが「ミツキちゃん!」と言って入ってきた。
「スクーターを飛ばしてきたわ。ここ、道が狭いから車だと入れないのよ」
おばさんはそう言うと、ばたばたと靴を脱いで、お母さんが寝ている寝室まで行き、「キタノさーん、キタノさーん、大丈夫?」と声をかけ、私のほうを振り返って「大丈夫、意識はあるよ」と言った。
おばさんは、持ってきたペットボトルの水をお母さんに飲ませ、お母さんが気持ち悪そうにすると、背中をさすってビニール袋のなかに吐かせた。
スリップを一枚だけ着てやせた体でげえげえと吐くお母さんを、わたしは少し恥ずかしい、と思ってしまった。
お母さんの背中をさすりながら、おばさんはわたしに、「空になったビールの空き缶の数を数えて、風邪薬の名前のメモを取って」と言った。
わたしが数を数えて、メモを取っている間も、おばさんは、お母さんの背中をさすり続け、お母さんが吐くと、「水を飲んで」と水を飲ませた。
わたしはその間に、空き缶を片づけたり、汚れたシーツを外したりした。
救急車がやってきて、おばさんが救急隊員の人に、メモをわたして、お母さんが何を飲んでこうなったのか、の状況を説明していた。そういえば、おばさんは昔看護師だった、というのをユカちゃんから聞いたことがある。
「ミツキちゃん、あなたはおうちの戸締りをして、一度私の家に行きなさい。後で連絡するから、そこで待っていて」
「でも」
「お母さんには、私が付き添うから。大丈夫、助かるよ」
近所の人が、様子を見に来た。野次馬が、救急車の赤いランプに照らされている。まるで「特捜最前線」でよく見る、殺人事件の現場みたいだ、と思った。
隣の家の人が、「ミツキちゃん、何かあったの」と声をかけてきたけれど、おばさんが間に入って「ちょっと、気分が悪くなって倒れてしまって。大事をとって救急車を呼んだんです」と答えてくれた。
おばさんは、「じゃあ、あとでね」と、救急車に乗って行ってしまった。ピーポーピーポーと音を立てて救急車が走り去ると、近所の人も、数人の野次馬も、去っていった。
家の中に入り、空気を入れ替えるためにベランダの窓を開けた。真っ暗な中で、風で木の葉が揺れる音と、虫の鳴き声だけがする。
さっきまでの、ざわざわとした野次馬や救急車の音が嘘みたいに、静かだ。
さっき、少し片づけたけれど、他にも片づけるものがないか、お母さんの部屋を、ひととおり、ぐるっと眺める。
洋服ダンスの取っ手に、グレーのスーツと、白いブラウスがかけられているのが目に入った。お母さんはふだん花柄のワンピースとか、派手な格好ばかりで、こんなスーツを着ているのは、見たことがない。
鏡台の上に置いてあるチェーンのついた黒いハンドバックの中を見ると、家の鍵と、口紅と、小さく折りたたまれた紙が入っていた。紙を広げて見ると、わたしが前に渡した「授業参観のお知らせ」だった。
小さくため息をついて、わたしは、それをもとに戻した。
ランドセルと手提げを持って、家を出て、玄関の鍵を閉め、一人、暗い夜道をユカちゃんの家まで歩いた。
ユカちゃんの家の晩御飯は、カレーだった。お母さんが作るのよりも上等な味がした。食欲がなかったから、全部は食べられなかったけれど、野菜も肉も柔らかく煮込まれていて、美味しかった。
ユカちゃんは、申し訳なさそうに「ごめん、わたしがミツキちゃんを、家に誘わなければ」と、しょんぼりしている。ユカちゃんも、お母さんのことにショックを受けているみたいだった。
ユカちゃんの家の中は、すごく静かだった。おじさんは、まだ病院で仕事をしていて、お兄さんは塾。ユカちゃんのおうちも、なんだかんだで、わたしの家とあまり変わらないのかもしれないな、と思った。
ユカちゃんと二人でオセロをやっていると、電話が鳴った。きっとおばさんからの電話だ、とドキッとした。
ユカちゃんと顔を見合わせる。「多分、お母さんかな」ユカちゃんが電話の子機をとる。しばらくして「ミツキちゃん、お母さんからだよ」と言ってユカちゃんが子機を渡してくれた。
「もしもし」というと、「あ、ミツキちゃん、私」と、おばさんの声。
「ミツキちゃんのお母さん、今眠ったところよ。飲んだもの全部吐いちゃったみたいだから、もう大丈夫」
「よかったぁ・・・・」
ほんとうに、よかった。
「でも、ちょっと状況が状況だし、一日、二日入院したほうがいいってお医者さんが言うから、私の方からもお願いしておいたの。ここ、私が若いころ勤めていた病院なのよ」
「あ、そうだったんですか」
「それでね、ミツキちゃん。お母さんが退院するまで、私の家から学校へ行きなさい。今は、一人にならないほうがいいと思う」
「・・・・ありがとうございます」
すごく、ありがたいと思った。今日、あの家に戻って、一人で寝るのは少し嫌だったから。
「それじゃ、また。私、今から帰るから」
おばさんはそういうと、電話を切った。
「なんだって?お母さん」
ユカちゃんが心配そうにこちらを見た。
「お母さん、もう大丈夫だって。で、しばらく、うちに泊まりなさいって」
「良かったねぇ。これで安心だね。うん、そうだよ、しばらくうちにいなよ」
ユカちゃんが、わたしをぎゅっと抱きしめた。ユカちゃんは普段、そういうことをしない子だったので、少し驚いた。
クラスのなかには、腕を組んできたり、意味もなく抱きついてきたり、ベタベタしてくる子たちがいて、わたしはそういうことが少し苦手だけれど、ユカちゃんのそれは、嫌だと思わなかった。
じゃ、先にお風呂入ってくるね、とユカちゃんは着替えをとりに自分の部屋へ戻っていった。
広いリビングに一人、ぽつんと取り残されたけれど、心細くはなかった。長い、一日だった。
★
次の日、わたしは熱を出した。
「そうだよねぇ。昨日は大変だったんだから。今日はゆっくり休みなさい。学校へは連絡をしておくよ」
とおばさんは、アイスノンを用意してお粥を作ってくれた。ユカちゃんは、朝、てきぱきとしたくをして、「じゃあ、プリントとかミツキちゃんの分も、持って帰ってくるね」と言って、学校へ行った。
ユカちゃんの部屋に敷かれた布団で寝ていると、今までのことが全部、夢のような気がした。おばさんが、わたしの本当のお母さんで、ユカちゃんは私のお姉さん。今までもこの家にいたし、これからもこの家から学校に行ったりする。そうだったらいいのにな、と思った。おばさんが、下の階で掃除機をかける音が聞こえて、水色のカーテンがかかった窓から、日が差しこんでくる。
でも、わたしはこの家の子じゃない。夏はしょっちゅうゴキブリがでるあの家がわたしの家で、お母さんは今、死にかけて病院にいるのだ。とりあえず、今は眠ろう。と、思った。
熱は、お昼過ぎには下がった。
布団から出て、服に着替えようと、バッグの中をあさった。よその家の匂いの中で、わたしの家の匂いがする。きっと、わたしにも染みついている家の匂い。
着替えて一階に降りると、おばさんがリビングの掃除をしていた。ユカちゃんの家がいつもピカピカなのは、こうしておばさんが、毎日丁寧に掃除をしているからなのだ。
「あら、もう起きていいの」
リビングのフローリングを、クイックルワイパーで磨きながら、ユカちゃんのお母さんがこちらを振り返る。
「はい。熱は下がりました」
「そう。あんまり無理しないで。テレビでも観ていたら」
「いえ、ちょっと気分転換に散歩してきます」
「散歩?今日は少し寒いわよ。家にいたほうがいいんじゃない?」
「教科書と、着替えの服を取りに行きたくて」
「そう?じゃあ、気をつけてね」
行ってきます、とドアを開けると、冷たい風が吹いていた。たしかに寒い。ジャケットを着てきて良かった、と思う。
自分の家の前まで来て、いつものように植木鉢の下から鍵を取りだし、ガラガラと玄関を開ける。
一晩よその家で過ごした後の自分の家は、いつもと違う不思議な感じがした。
教科書を、持ってきた手提げに入れていると、前に、かみしばいのおじさんにもらった、女の子の絵が目に入った。おじさんにも、しばらく会っていない。寒くなってきたけれど、おじさん元気かな、と思った。絵のなかの女の子は、変わらず口をきゅっと結んで、こちらをじっと見つめている。女の子の絵も、手提げの中に入れた。
お母さんの鏡台がある部屋に入る。昨日のにおいが少し残っていて、ちょっと気持ちが悪くなった。
掛けられたグレーのスーツを眺める。近くにデパートの紙袋が置いてあった。この間、お母さんが持っていたデパートの紙袋の中身は、このスーツだったのかもしれない。
お母さん、こんなスーツ、全然似合わないよ、と思う。いつもの、派手なワンピースでいいのに。ミツキちゃんのお母さんて派手だよね、ってクラスの子たちに、笑われてもいいのに。
帰りに、あの公園のそばを通った。かみしばい屋のおじさんは、ベンチに座って飲み物を飲んでいた。
わたしをみつけると、おじさんが「お」と手を挙げた。
「ホットココア、飲む?」
「あ、ありがとう」
おじさんは、大きい水筒を取りだすと、紙コップにココアを注いでくれた。
「まだ、温かいと思うけど」
「ありがとう。もう、ジュースじゃないんだね」
「そう。寒くなってきたからね。あったかい飲み物のほうがいいだろう、と思って」
おじさんのとなりに、静かに座る。甘いココアが身体に染みる。少し冷めていたけど、わたしは猫舌だから、ちょうどよかった。
「ひさしぶりだねぇ。元気だった」
とおじさんが言った。
「うん。いろいろとあって」
「いろいろ」
風がさあっと吹いて、赤茶色に染まった木の葉が音をたてた。そのとき、花の甘い香りがした。
「あ、この匂い」
「うん、金木犀だね」
「金木犀かぁ。いい匂い」
「もう、秋だねぇ」
「うん」
思い出せなかった花の名前は、金木犀。甘くて、少し切ない香り。
「お母さんがね」
「うん」
怖くて、口にすることが出来ない。
「死のうとしたの」
やっとの思いで、口にしたときには、私の目から涙がぽろぽろあふれていた。
「お酒とお薬をたくさん、いちどに飲んで、すごく苦しそうだった」
苦しんで真っ白い顔の、妖怪みたいになっていた、お母さんの顔を思い出した。おじさんは、ちいさく「そうか」と言った。
「わたし、これからどうすれば、いいんだろう」
シンデレラが、継母や意地悪なお姉さんたちのいじめに耐えたみたいに、いろいろなことを耐えれば、優しい魔女がやってきて、王子様がいるお城まで、カボチャの馬車に乗せてくれるんだろうか。
夢想の世界に逃げたい。遠くへ行きたい。と思った。
「それは、自分で考えなきゃダメだよ」
おじさんは、キッパリと、突き放すように言った。
「そんなあ」
絶望した。うちは、ユカちゃんちみたいに、ちゃんとした家じゃないのに。お母さんは、自分で死のうとしたのに。
「こう生きたら、いい人生ですよ、幸せになれますよ、なんて他人がいうのを鵜吞みにしちゃだめだよ。自分で考えなきゃだめだ」
「でも、わたし、どうしたらいいかわからない」
おじさんはわたしを見た。おじさんの目は優しい目だった。
「自分がいい、と思うものを、大事にできれば、大丈夫だ」
「なにそれ」
「どんなに美人でも、お金持ちでも、素敵な旦那がいても、それを自分がいい、と思えなけりゃ全部ゴミだぞ」
おじさんは、続けた。
「自分にとって、いいもの、は自分にしかわからない。誰にも、わからない」
ココアは、すっかりぬるくなっていた。
「お母さんのことは、好きか?」
「好き。・・・でも、嫌い」
おばさんに背中をさすられながら、げえげえ吐いているお母さんを、なさけなくて、恥ずかしくて、うとましい、と思った。でも、無事でよかった、と思う。お母さんが死ななくて、本当に良かった、と思う。
「じゃあ、その気持ちを大事にしな」
「嫌いでも、いいの」
「嫌いでも、いいさ」
「好きでも、いいの」
「好きでも、いいさ。好きか、嫌いか、どっちかじゃなくていいんだよ」
おじさんは、胸ポケットに入っている煙草をとりだして、マッチで火をつけた。その姿が、ちょっと吉野刑事に似てるな、と思った。
ユカちゃんの家に戻って、玄関のドアを開けると、いい匂いが漂ってきた。
「ミツキちゃん、お帰りなさい」
おばさんが、キッチンで、何かを作っている。
「せっかく、ミツキちゃんが家に来ているから、おやつを作ろうと思って」
鍋の中をのぞくと、りんごが煮詰められていた。
「アップルパイ、作ろうかなって」
そう言うとおばさんは、にっこりした。
「わたしも、手伝っていいですか」
この間の、アップルパイを思い出した。
「もちろん」
おばさんは、「冷凍パイシート」と書かれた袋を取りだした。
「これを使うとね。簡単にできるのよ」
「なんですか、それ」
「パイ生地。生地をイチから作るのはすごく大変だから、これを使っちゃうの」
「へえ」
わたしはおばさんに言われた通りに、パイ型にシートを敷いて、フォークでぷすぷすと穴をあけた。おばさんが「もうりんご、冷めたかな」と、そこに甘く煮込まれたりんごを流しこんだ。細長く切ったパイシートを編み目にして飾り付け、その上に溶いた卵をハケで塗る。おばさんが、わたしがなにかをするたびに、「じょうず、じょうず」と褒めてくれるので、嬉しかった。
「さ、あとは焼くだけ」
オーブンで焼きあがったパイは、ジュージューと音を立て、きつね色に焼きあがって美味しそうだった。
「美味しそう」
おばさんもにっこりする。
「ユカがもうすぐ帰ってくるから。それまで少し冷ませて。後で一緒に食べましょう」
りんごの甘酸っぱい香りのする、見るからに美味しそうなアップルパイを作れたことに満足した。自分でも作ってみたいけど、わたしの家にはオーブンがない。
「オーブンがないと作れないかなぁ」
わたしがつぶやくと、
「アップルパイは、トースターでも作れるわよ」
とおばさんが、エプロンをはずしながら言った。
「え、そうなんですか」
「オーブンがなくてもね、電子レンジとかトースターで作れるお菓子はたくさんあるよ、えーと」
おばさんは、キッチンの片隅に積んである本の山から、一冊のレシピの本を取りだした。本のタイトルは「オーブンなしでもOK!簡単スイーツレシピ」だ。
「上の子が生まれる前から、こういう本をたくさん買ってたのよ。子どもが生まれたら、作ってあげたいなって。でも、二人ともスナック菓子のほうが好きみたいで作り甲斐がないわねぇ」
「この本、よかったら、ミツキちゃんにあげるわ」
「え、いいんですか」
「お母さんに何か作ってあげたら、喜ぶんじゃないかしら」
そう言って、おばさんは、使った調理器具の片づけにとりかかった。
わたしは、本を開いて、アップルパイの作り方が載っているページを探した。後ろから「お、さっそく熱心ね」というおばさんの声が聞こえた。
★
十二月になって、ずいぶん寒くなった。厚手のジャンパーとマフラーをつけて、学校に通っている。
最近、クリスマスツリーが学校の入り口に飾られた。もうすぐ、クリスマスなのだ。
サイトウ先生が、冬休みに入る直前の学活の時間に、クリスマス会をしましょう、と言った。クリスマス会は、わたしのお別れ会も兼ねている。わたしは、三学期からよその学校に転校をすることになった。
あれからお母さんは、三日後に退院した。お母さんが退院した日、わたしが学校から帰ってくると、家で待っていたお母さんは、わたしを抱きしめて、何度も「ごめんね」と言った。
お母さんは、今まで通り、また、スナックで働きはじめた。入院した時のお医者さんの薦めで、心療内科のカウンセリングも受けている。
いつもどおりの生活に戻った、はずだったけれど、近所の人が、お母さんの変な噂をたてたり、わたしも学校で、ほんの少しだけど、お母さんのことをコソコソ言われたりした。
そんな時、お母さんが、働いているスナックのママから、知り合いの店でママとして働かないか、と声をかけられたのだ。
「引っ越さなくてはいけないけど、お給料は、今よりずっといい」ということで、お母さんはすぐにオーケーした。お母さんは、「ミツキには、ちゃんと学校を出てほしいから、頑張って働かなくちゃ」と言った。わたしは、ユカちゃんと離ればなれになることや、学校が変わるのは嫌だったけれど、子どもは、大人の事情には逆らえない。
リョウジくんは、すっかり家に来なくなった。実はずいぶん前から、別に女の人がいたらしい。そのことも、お母さんが違う場所に行きたい、と思った理由のひとつなのかもしれない。
「私たちって、人権ないよね」
転校する話をしたときに、ユカちゃんが溜め息をついて言った。
「親の都合に振り回されて、仲のいい友達や、通いなれた学校と離れなくちゃいけないなんて」
早く、自立したいな、と思った。500円玉貯金のことを考える。まだ、お金は全然貯まっていないけれど、高校生くらいまで続けたら、一人で生きていけるだけのお金になるだろうか。それか、500円玉貯金がある程度貯まったら、そのお金でオーブンを買いたい。
ここのところずっと、ホットケーキミックスの粉を使って、クッキーやカップケーキを作っては、お母さんやユカちゃんに食べてもらっている。トースターでもいろいろ作れるけれど、やっぱりオーブンがあったほうが、作ることができるお菓子は、増えると思う。
これが自分にとって、いい、と思う事なのかはわからないけれど、お菓子を作ることに関しては、あれこれ工夫して、夢中になってやっている。べつに、お菓子屋さんになりたい、というわけでもないのだけれど。
終業式の日、「引越しの日には見送りにいくね」とユカちゃんをはじめ、仲の良かったクラスメイトたちに見送られ、学校をあとにした。
いつもの公園の前を通ると、やっぱり、おじさんはいた。
いつものように、ベンチに座って煙草を吸っている。ストライプのマフラーに、皮のジャケットを着て、缶コーヒーを飲んでいた。わたしを見つけると、「や」と手を挙げた。
「学校帰りか。今日は早いね」
「うん。今日は終業式だから。明日から冬休み」
「お。それはいいね」
と、おじさんは言った。
「わたし、引っ越すことになったの」
「そうか」
「だから、さようなら、を言いに来たよ」
「そうか、元気でな」
おじさんの目は、いつもと同じ、優しい目だった。前に本で読んだ、「慈愛」という言葉がぴったりだと思った。
「あと、これも」
わたしは、透明なラッピングの袋に赤いリボンがついたものを手提げから取り出した。
「これ、あげる」
「なんだい、これ」
「アップルパイ」
トースターでもできる、アップルパイ。
「おお、ありがとう。作ったの?」
「作った」
すこし誇らしい気持ちだった。納得がいくまで、五回も作り直して完成した、自信作だから。
「ほお、すごいな」
「えへへ」
「あ、笑ったね」
そういうと、おじさんが、自転車のカゴから、がさごそと何かを取りだした。
「はい。メリークリスマス」
うまい棒の納豆味が三本、袋に入ってリボンがつけられている。
「あれ。でもわたし、クイズの答え、まだ、わからないよ」
「いいのさ」
わたしは、おじさんにハグをした。それが、わたしの気持ちを伝えるのに、ぴったりだと思った。さようなら、元気でね、の気持ちを込めて。
「ありがとう」
と、わたしは言った。おじさんは、少しびっくりしたみたいだったけれど、わたしの背中をぽんぽん、としてくれた。おじさんの身体は温かかった。
「じゃあな」
おじさんはそういうと、自転車を押して公園を出て行った。
またどこかで、おじさんに会えるような気がした。胸の中が、ぽかぽかする。わたしの中で、あの女の子が、笑顔になった気がした。