
Sir Oleander
多くの男たちを惹きつけながらも、決して誰にも踏み込ませないバーテンダー・赤城律。
そんな彼に、美容師・巻原駆は昼のサロンで一目惚れをする。
夜のバーへ通い、少しずつ距離を縮めていく駆。
真っ直ぐな想いは、誰にも心を預けなかった律の静かな日常を、少しずつ変えていく。
色を変える宝石のように、昼と夜で違う一面を見せる律。
知れば知るほど遠く感じ、それでもなお深く惹かれていく。
バー「Sir Oleander」を舞台にした、大人の恋の物語。
第一部 Sir Oleander
夜の街には、知る者だけが辿り着く場所がある。
大通りから一本外れた、静かな路地。
派手な看板も、客引きの声もない。
古い煉瓦壁に、小さく灯る控えめな明かりがひとつ。
近づかなければ、店名すら読めない。
Sir Oleander
その扉の向こうへ、男たちは夜ごと足を運ぶ。
酒のためでも、
空気のためでもない。
理由はもっと単純で、もっと厄介だ。
あの男に会うためだ。
店内は暗すぎず、明るすぎない。
低く流れる音楽。磨かれたグラス。短い会話。必要以上に踏み込まない大人たちの距離感。
初めて来た者は静けさに緊張し、
二度目に来た者は落ち着き、
三度目には帰る場所みたいな顔をする。
客の多くは常連だった。
仕事を終えた経営者。
名の知れたクリエイター。
人の上に立つことに慣れた男たち。
昼の世界では欲しいものを自分で取りに行ける人間ばかりだ。
けれどこの店では、誰も無理をしない。
カウンターの奥に立つ一人の男の前では。
赤城 律。
整っている、という言葉では足りなかった。
美しい、だけでも違う。
冷たく見える硬さと危うさが同居する、灰色に縁どられた深い黒の瞳。
短い言葉。無駄のない所作。
近寄りがたさと、目を離せなさが同じ場所にある。
グラスを差し出す手つきひとつで、男たちは満たされる。
指先が触れれば、その温度を忘れられなくなる。
少し目が合っただけで、自分だけを見られた気になる。
誰もが薄々分かっていた。
自分だけではないことも。
同じように勘違いしている男が、この店に何人もいることも。
それでも通うのをやめられない。
誰のものにもならない男を、今夜こそ選ばれた気分で見ていたいからだ。
「……何にする」
低い声が落ちる。
それだけで、空気が少し柔らかくなる。
カウンターの奥で、律は何も知らない顔でグラスを磨いていた。
その均衡は長く続いていた。
若い獣が、扉を開けるまでは。
Chapter 1 黒曜の瞳
午前の光が、店の床に静かに落ちていた。
大通りから少し外れた二階。
看板は控えめで、知らなければ通り過ぎるような場所に、そのサロンはある。
席は二つだけの、完全予約制のプライベートサロンだった。
鏡は大きく、余計な装飾はない。
置かれた道具は少ないが、どれも質がいい。手入れも行き届いている。
巻原 駆は一人で開店準備をしていた。
朝いちばんの予約だけは、自分で見ると決めている。アシスタントが来るのは昼前からだ。
予約表を確認して、指先が止まる。
赤城 律。
備考欄には、短く一行。
「野田 征一 紹介」
知らない名前だった。
だが、共同経営者でもある顔の広い幼なじみが、どこかの伝手を使ったのだろうと思った。
この予約表に並ぶ名前の価値も肩書きも、あいつはいちいち事前に説明しない。
だが、きっと大物なのだろう。
あいつの仕事に関わる誰かかもしれないし、今後こちらにも縁がある相手かもしれない。
今までもそうだった。
けれど、駆にとってはどちらでもよかった。
客は客だ。
鏡の前でひととき、丁寧に扱われる時間を渡す。
そしてプロとして、腕を見せるだけだった。
時間ぴったりに、扉のベルが鳴った。
「いらっしゃいま——」
言いかけて、駆は止まった。
入ってきた男は、小柄だった。
黒のコートを無造作に羽織り、余計なものを一切身につけていない。
派手さもなければ、気取ったところもない。
それなのに、視線だけが勝手に引かれる。
空気が変わる、というのはこういうことかと思った。
「予約の赤城だ」
低い声だった。
「あ……はい。お待ちしてました。こちらへどうぞ」
思ったより落ち着いて案内できたことに、駆は少し安心する。
席へ座った男を鏡越しに見る。
吸い込まれるような黒い瞳。
灰色にも見えるその虹彩と黒い瞳に、駆は一瞬で言葉を失った。
心臓がうるさい。
整っている、では足りない。
美しい、でも少し違う。
もっと鋭く、もっと危うい何かだった。
目元は冷たく見えるのに、伏せた睫毛の影だけが妙にやわらかい。
細い顎の線、整えられたうなじ、コート越しにも分かる無駄のない体つき。
触れれば切れそうで、同時に、触れたくてたまらなくなる。
駆は深く息を吸って、クロスをかけた。
仕事だ。
いつも通りやればいい。
髪を見て、骨格を見て、癖を見て、その人間にいちばん似合う形を作るだけだ。
それだけのはずだった。
指先が髪に触れた瞬間、さらりとした感触が抜ける。
質がいい。手入れは最低限。それでも崩れない髪だ。
耳まわりの生え方。
襟足の収まり。
前髪の落ちる位置。
見るべきところは山ほどある。
なのに、意識の半分は別のところへ持っていかれていた。
鏡越しに視線が合うたび、喉が乾く。
わずかに脚を組み替えるだけで、なぜか空気まで動く。
なんなんだ、この人。
駆は余計なことを考えるのをやめた。
ハサミを持つ。
そこから先は、早かった。
音が細く澄んで響く。
指が動き、刃が走り、髪が落ちる。
考えるより先に手が仕事をしていく。
前髪の重さを抜き、耳まわりを締め、襟足を静かに整える。
全体の輪郭が、少しずつ男に追いついていく。
妙な集中だった。
客に惹かれているくせに、客を忘れている。
目の前の素材に夢中になって、時間の感覚だけが消えていく。
気づけば、仕上げのワックスを指に取り、流れを整えていた。
「……こんな感じです」
自分の声で、ようやく現実に戻る。
早かった。
いつもより、ずっと。
この人に触れていた時間が、あっという間に終わってしまったことだけが、妙に惜しかった。
律は鏡を見て、短く頷いた。
「悪くねえ」
その一言が、妙に嬉しい。
会計を済ませ、立ち上がる。
駆は自然な動作でコートを取り、背後から肩へ掛けた。
近い。
思ったより肩が薄い。
そのくせ、妙に熱を感じる。
袖を通すのを手伝うと、律がわずかにこちらを見る。
「……世話焼きか」
「仕事なんで」
「そうかよ」
扉の前で、駆はなるべく平静を装って聞いた。
「次の予約は、どうされますか」
「予約は征一が取るだろう」
「……」
少しだけ落ちた顔をした自覚があった。
律はそこで足を止めた。
ゆっくり振り返る。
黒曜の瞳が、まっすぐ駆を見る。
「……また来る」
ベルが鳴って、姿が消える。
静かになった店の真ん中で、駆はしばらく動けなかった。
鏡に映る自分の顔が、分かりやすすぎて嫌になる。
落ちた、と思った。
一目で。
どうしようもなく。
予約表へ視線を落とす。
――赤城 律
変わった名前だと思った。
なのに、一度見ただけで、もう忘れられそうになかった。
黒い髪の感触と、あの瞳の色と一緒に。
その名前は、あっけなく駆の中へ焼き付いていた。
Chapter 2 舞い降りる闖入者
夜のバーには、変わらない夜がある。
若い獣が、扉を開くまでは。
扉が開いた瞬間、いくつかの視線が静かに動いた。
この店では珍しいことだった。
客は互いを必要以上に見ない。詮索しない。誰が来て、誰が帰るかに興味を持たないのが暗黙の礼儀だ。
だが、その夜だけは違った。
入ってきたのは、見慣れない青年だった。
金に近い明るい髪。高い背。若さを隠そうと落ち着いた服を選んでいるのが分かる。
それでも隠しきれない熱があった。昼の陽射しみたいな男だった。
何人かが気づく。
(……見たことあるな)
名前までは出ない。
だが、どこかで見かけた気がする。昼の世界で、光のある場所で。
青年は少しだけ緊張した顔で店内を見回し、それからカウンターの奥を見つけた。
律が目を上げる。
その手が、一瞬だけ止まった。
「……来たのか」
短い声だった。
だが、常連たちは知っている。
今の声には、いつもの零度の平坦さが少しだけ足りなかった。
青年——巻原 駆は、ほっとしたように息をついて近づいた。
細身に見えて、シャツの下の肩や首の線には隠しきれない筋があり、ただの子どもではないことをうかがわせる。
何より目だった。
澄んでいて、裏表がない。
感情がそのまま浮かぶような、隠すということを知らない目だ。
この店の誰も持っていない種類の顔だった。
「……いいですか」
「座れ」
それだけで十分だったらしい。駆は素直に席へ着く。
空気が変わる。
誰も露骨には見ない。
だがグラスを持つ角度、煙草を置くタイミング、視線の流し方。大人たちなりのざわめきが確かにあった。
律が問う。
「何にする」
「……おすすめで」
若いな、と誰かが思う。
この店でそれを言える客は少ない。
だが律は鼻で笑うでもなく、小さく頷いた。
「オレアンダーはまだ早いな」
その一言に、何人かの眉がわずかに動く。
律はグラスを取り、透明な液体を注ぎ、炭酸を落とす。氷が鳴る。爽やかな香りがふわりと広がった。
差し出されたのは、軽やかなフィズだった。
「……これでいい」
駆は恐る恐る口をつける。
目が丸くなる。
「……うまい」
「だろうな」
短い返事。
だがその声音は、やはり少し柔らかい。
(……特別だな)
誰も口にはしない。
言うまでもなく、そうだった。
駆は肩の力を抜き、小さく笑った。
「……来てよかったです。…浮いてないかな」
「多少はな」
「やっぱり……」
肩を落としかけたその頭へ、律の手がぽんと乗る。
あまりにも自然に。
「気にすんな」
店内の空気が、今度こそ揺れた。
律は気づかない顔で小皿を置く。
チョコレートが数粒。
「食うか」
駆が一瞬むっとする。
「……子ども扱い」
「いらねえのか」
「……食います」
もぐもぐと食べ始める。
近くの男が堪えきれず笑った。
「俺にもくれよ」
律はそちらを見て瞬きを一つ。
小皿を差し出す。
「なんだ。チョコ欲しいのか」
「……あと」
男は少しためらってから言った。
「頭、撫でてよ」
沈黙。
律は本気で意味が分からない顔をした。
「……変なやつだな」
そう言いながらも、ぽん、と軽く頭に触れる。
男の顔が緩む。
その瞬間、店内の何人かが同時に思った。
(……ずるいだろ)
撫でられたいわけじゃない。
あの距離に入りたいのだ。
あんなふうに、自然に触れられたい。
駆はその様子を見て、わずかに眉を寄せた。
(……俺だけじゃねーのかよ)
面白くない。
でも少し可笑しい。
「……変な店」
「今さらか」
誰かが吹き出し、空気がやわらぐ。
律は何も知らない顔でグラスを磨いている。
だがその夜、Sir Oleanderの均衡は、確かに少しずれていた。
Chapter 3 魔性
Sir Oleanderには、不思議な暗黙の了解がある。
初めて来た客は、二度目までは静かだ。
三度目で、落ちる。
酒に、ではない。
あの男にだ。
夜の店内は、いつも通り低い音楽に満ちていた。
照明は抑えられ、グラスの縁だけがやわらかく光る。
カウンターの奥で、律が氷を割っている。
その音だけで、なぜか落ち着く男がいる。
その手元を見るためだけに通う男がいる。
一杯目を飲み終える前から、
今夜は何を話そうか考えている男もいる。
誰も認めたがらないだけで、だいたいそうだった。
「いつもの」
席についた男が言う。
「……喋る気もねえのか」
「お前の顔見たら満足した」
「気持ち悪ぃな」
吐き捨てるように言いながら、律はグラスを取る。
男は笑う。
このやり取りは、もう何年も続いている。
恋人でもない。友人とも少し違う。
それでも、他の店には行かない。
律がいるからだ。
別の席では、スーツ姿の男が静かにネクタイを緩めていた。
昼間は何十人と人を動かしている人間だ。判断も決断も、誰より早い。
だがここへ来ると、ただの客になる。
「今日は遅かったな」
律が酒を置きながら言う。
それだけで、男の肩から力が抜ける。
覚えていた。
自分がいつもより遅いことを。
気にかけられたわけではないと分かっている。営業の一部かもしれない。たまたま口にしただけかもしれない。
そんなことはどうでもいい。
その一言で、救われる夜がある。
「……会議が長引いた」
「無駄な会議だな」
「言ってくれるな」
男は苦笑する。
昼の世界で誰も言ってくれないことを、この男は平気で言う。
だから通ってしまう。
店の隅では、初来店らしい若い客が緊張した顔で座っていた。
メニューを開いては閉じ、グラスの位置を直し、また姿勢を正す。
律はしばらく放っておいてから、ようやく近づく。
「決まったか」
「……おすすめで」
「他人任せか」
小さく鼻で笑い、律は酒を作り始める。
その背中を見ながら、常連の一人がぼそりと呟いた。
「終わったな」
「何が」
「今、あいつ落ちた」
誰かが肩を揺らして笑う。
冗談みたいに聞こえるが、誰も否定しない。
だいたい合っているからだ。
律は、口説かない。
甘い言葉も言わない。
客に媚びることもない。
必要以上に笑わないし、愛想も振りまくことはない。
なのに、男たちは勝手に落ちていく。
グラスを置く位置が丁寧だった。
名前を覚えていた。
煙草が切れたタイミングで灰皿を替えた。
寒そうにしていれば、黙って膝掛けを寄こした。
たったそれだけだった。
客がそうと気づく前に、速やかな身のこなしで。
自覚があるのかないのか 。
夜毎男たちの心臓を撃ち落としていた。
常連の一人と律が深い関係になったという話がひっそりと、まことしやかに流れた。
その相手だと噂された男は、幸運なはずなのに、不幸のどん底にいるような顔で笑った。
「その日から余計に通うようになった」
「馬鹿だな」
「ほんとにな」
誰も詳しくは聞かなかった。
聞かなくても分かる気がした。
手に入れたと思った瞬間、手に入らないと知る。
あの男は、誰かのものになったように見えて、何一つ渡していない。
「……で?」
別の客が興味を抑えきれず聞く。
「どうだった」
男はしばらく黙ってから、グラスを空けた。
「やめとけ」
「答えになってねえ」
「答えだよ」
視線の先で、律が静かに別の客へ酒を差し出している。
「あれは、知るほど欲しくなる」
誰も笑わなかった。
笑えなかった。
それぞれに、思い当たる節があるからだ。
取り合うほど浅くはない。
ここにいるのは、選ぶ側の男たちだ。
それでも、選ばれる側になれる夜を、どこかで待っている。
守りたくなる夜もある。
跪きたくなる夜もある。
抱きたくなる夜も、
抱かれたくなる夜もある。
感情の名前が、毎回変わる。
だから厄介だった。
「……魔性ってやつか」
誰かが言う。
律が聞こえたら嫌がりそうな言葉だった。
だが、その場の誰も否定しない。
カウンターの奥で、当の本人は氷を割っている。
澄んだ音が響く。
その横顔は、何も知らないみたいに静かだった。
だから、なおさら質が悪い。
Chapter 4 オレアンダー
Sir Oleanderには、メニューがある。
革張りの重たい冊子で、開けば酒の名が整然と並んでいる。ウイスキー、ジン、ラム、ワイン。定番も希少な一本も揃っていて、普通の店ならそれだけで十分に価値がある。
だが、この店でそれを最初から開く客は少ない。
常連たちは席につくなり、たいてい同じように言う。
「オレアンダー」
それだけだ。
酒の名前を頼んでいるようで、少し違う。
挨拶に近い。
合図に近い。
今夜も来た、という確認みたいなものだった。
初めて聞いた客は、たいてい店名と同じだと気づいて首を傾げる。
律は何も説明しない。
ただ、静かにグラスを取る。
細い脚のカクテルグラス。
冷えた透明の器。
そこへ注がれる澄んだ液体。
無駄のない手つきでステアされ、最後にグラスの縁へ、ごく薄く何かが払われる。
塩だ、と分かる者はいても、何の塩かまでは分からない。
それは律が独自に作ったスパイシーソルトだった。
強すぎず、弱すぎず。舌先にだけ残る刺激。
酒の輪郭を引き締めながら、後味に妙な余韻を残す。
差し出された一杯を受け取る男たちの顔は、少しだけ満たされている。
「今日、きつめだな」
「疲れてんだろ」
「分かるのかよ」
「分かる」
そんな会話が交わされる。
本当に分かっているのか、思い込みなのか。
たぶん、その両方だった。
同じ酒のはずなのに、今夜の機嫌が映る。
そう信じたくなるくらいには、あの男の手で作られた一杯には意味がある。
「名前の由来、何なんだ」
新しい客が尋ねたことがある。
律はグラスを拭きながら、面倒そうに答えた。
「花らしい」
「花?」
「毒がある」
客たちは勝手に調べ、勝手に納得し、勝手に深読みした。
美しい花。
触れたくなる色。
だが、扱いを誤れば毒になる。
「お前にぴったりだな」
誰かが笑い混じりに言う。
律は手を止めもせず、鼻で笑った。
「だろうな。あいつはそういうの得意だ」
「オーナーか」
「余計なことまでな」
そう言う声に、嫌味はなかった。
その夜、駆もカウンターにいた。
まだこの店の空気に慣れきってはいない。
周囲の男たちがメニューも見ずに注文する姿を、
少し不思議そうに眺めている。
「……オレアンダーって、そんなにうまいんですか」
ぽつりと聞く。
何人かがグラス越しに口元を緩めた。
若いな、と思う。
律は駆を見る。
その視線だけで、少し場が静まる。
「うまいぞ」
「じゃあ俺も——」
「まだ早い」
即答だった。
店内に、小さな笑いが走る。 駆がむっとする。
「なんでですか」
「強い」
「飲めます」
「そういう意味じゃねえ」
意味が分からず、駆は眉を寄せる。
律はそれ以上説明しない。
代わりに別のグラスを取り、氷を落とし、炭酸の音を立てる。
差し出されたのは、前にも飲んだ透明なフィズだった。
「こっちにしとけ、まき」
その一言に、駆の動きが一瞬止まった。
呼ばれた本人より先に、常連たちの何人かが軽く目を見合わせる。
律がわざわざ客に愛称をつけることなど、これまでなかった。
「駆」でも「お前」でもなく、
こぼれるように出た「まき」。
本人もまだ気づいていないのか、律自身はグラスを置く手を止めもしなかった。
言ってしまってから面倒そうに眉を寄せ、それ以上は何も言わない。
訂正するでもなく、繰り返すでもなく。
ただ、その名がすでに決まったことのように、当然の顔で酒を差し出す。
駆は少し遅れて瞬きをした。 「……まき?」
「悪いか」
「いいえ!」
悪くはない。
むしろ、耳の奥で何度も繰り返してしまうくらいには。
だが今はそれを深く追う余裕もなく、話はもう次へ流れていた。
「……子ども扱いしてません?」
「飲まねえなら下げる」
「飲みます」
即答した駆に、誰かが吹き出した。
律は口元だけで笑った気がした。
駆はフィズをひと口飲んで、悔しそうな顔をする。
うまいから文句が言えないのだ。
その様子を見ながら、常連の一人が静かに呟いた。
「駆くんが羨ましいな」
「何が」
「まだ早い、って言われる側」
別の男が肩をすくめる。
「俺たちはもう、とっくに遅い」
誰かが笑う。
冗談みたいで、冗談ではなかった。
オレアンダーを頼めることは、この店では少しだけ誇らしい。
同時に、それはもう引き返せない側へ来た証でもある。
若い獣は、まだそこにいない。
けれど、時間の問題だと誰もが思っていた。
カウンターの奥で、律は何も知らない顔でグラスを磨いている。
その指先には、今夜もわずかにスパイスの香りが残っていた。
Chapter 5 また行ってもいいですか
一ヶ月に一度。
それが、いつの間にか当たり前になっていた。
きっちり決めた約束ではない。
少し遅れる月もあれば、思ったより早く現れる月もある。
だが気づけば、律はこの場所へ定期的に足を運んでいた。
昼の光は夜よりも容赦がない。
Sir Oleanderの柔らかな影とは違い、ここではすべてがはっきりと輪郭を持つ。
ガラス張りの美容室の中は明るく、逃げ場がない。
その空間に足を踏み入れるたび、
わずかな居心地の悪さを覚えていた。
午前の光が差す店内で、駆はいつもより念入りに鏡を拭いていた。
道具の位置を直し、椅子の角度を整え、意味もなく時計を見る。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
ただの客だ。
そう思おうとして、何度も失敗している。
自分らしくもない。
どんな客にも、客は客だと線を引いてきた。
鏡の前では誰に対しても平等でいる。それが自分のやり方だった。
なのに、あの男だけはうまくいかない。
扉のベルが鳴り、駆の胸も鳴る。
「あ……いらっしゃいませ」
少しだけ遅れた声に、律は眉を上げる。
あの夜、店で向けられたのと同じ、まっすぐな目だった。
「……どうした」
席へ案内されながら問えば、駆はすぐに視線を逸らした。
「別に」
「顔がうるせえ」
「顔って、うるさくなるんですか」
「なるだろ。今のお前みてえに」
相変わらず口が悪い。
駆は不満そうな顔をしながら、どこか嬉しそうでもある。
クロスが掛けられ、駆の指先が髪へ触れた。
動きは相変わらず無駄がなく、迷いもない。
若さに似合わない落ち着きと、仕事としての完成度がそこにあった。
(……ちゃんとしてる)
認めざるを得ない事実だった。
「ここ、少し軽くしますね」
「ああ」
淡々としたやり取りが続く。
入ってきたときはあまりの明るさに居心地が悪かったのに
感心しながら鮮やかな手つきを見ている間に、
居心地が悪いと思ったことが昔のように感じる。
むしろ、妙に落ち着く。
駆は集中したふりをしながら、内心まるで落ち着いていなかった。
夜の店では触れられない。
誰も近づけない場所にいる男が、昼のここでは静かに座っている。
伏せられた睫毛。
整えられたうなじ。
黒髪を指で梳くたび、かすかに石鹸みたいな清潔な香りがする。
こんなの、他の誰も知らないだろう。
店でグラス越しに見つめている男たちも、
カウンター越しに言葉を交わす連中も、
この距離は知らない。
駆は顔に出さないまま、少しだけ満たされていた。
「……なあ」
不意に律が口を開く。
「はい?」
「腹減ってないか。終わったら、何か食うか」
駆の手がぴたりと止まる。
「え?」
「菓子でも買ってやる」
一瞬の静寂のあと、勢いよく鏡の中の青年の目が見開く。
「はあ!? 子供扱いしないでください!」
「その反応」
言葉に詰まるのが分かる。律はわずかに目を細めた。
「ほらな」
「……むかつく」
顔を逸らす仕草があまりにも分かりやすく、思わず息が漏れる。
「……かわいいな、まき」
彼だけの呼び方でぽつりと零れた言葉に、空気が一瞬止まる。
「な、なに言ってんですか!?」
「そのままだ」
自然に手が伸びる。
軽く頭に触れると、ほんの一瞬だけ駆の動きが止まった。
驚きと、戸惑いと、それでも拒みきれない何かが混じった顔だった。
(……本当にガキだな)
そう思うのに、どこか満たされる。
守るでもなく、手に入れるでもなく、ただそこに置いておきたくなるような、曖昧で奇妙な感覚だった。
だが、それでいいと思っている。まだ、この距離で。
仕上げに取り掛かるころ、駆が小さく口を開いた。
「……ねえ、律さん」
「なんだ」
「その、律さんの店……」
少しだけ言葉を選ぶ間があった。
「また行ってもいいですか?」
鏡越しに目が合う。
あの夜と同じ、まっすぐな目だった。
けれど今は、そこにためらいも混じっている。
「……もう少し大人になったらな」
「え、今は?」
「ガキはダメだ」
「だからガキじゃないって言ってるじゃないですか!」
軽く苛立った声が上がる。だが、どこか楽しそうでもある。
やがて手を伸ばし、もう一度、軽く頭に触れた。
「……ちゃんと来いよ、また」
何気ない一言だった。
駆は一瞬だけ目を見開き、それから少しだけ笑う。
「はい」
昼の光の中では、それで十分だった。
Chapter 6 指定席
夜。
Sir Oleanderはいつも通り静かに息づいている。
低く流れるジャズと、抑えられた照明。
言葉は少なく、空気で通じる場所。
扉が開いても、もう誰も見なかった。
見ないふり、というわけではない。
この店では、誰が来ようといちいち顔を上げないのが礼儀だ。
珍しい客でも、著名人でも、泣きそうな男でも同じだった。
だから、その青年が入ってきても、視線はほとんど動かない。
ただ、耳だけが知っていた。
軽い足音。
迷いのない歩幅。
ためらわずカウンターへ向かう気配。
また来た。
そう思った者は何人かいたが、誰も口にはしなかった。
駆は前より少し落ち着いた顔で、いつもの端の席へ座る。
肩の力を抜き、少しだけ無防備に見える角度で。
天然と呼ぶには、あまりに出来すぎていた。
そうして、まるで最初から決まっていたように、その場所へ座る。
その自然さに、胸につかえる男が何人かいた。
「来たな」
「はい」
律は腰に手を当てて、迎える。
まだごそごそと座る駆を少し観察し、
少しグラスの棚に目をやる。
一脚を取り、作り始める。
カウンターの奥で、氷を落とす音がひとつ鳴る。
何人かの男が、手元の酒を飲んだ。
誰かが咳払いをする。
注文は聞かれなかった。
炭酸の細い泡が立つ。
薄く切られたレモン。氷。よく冷えたグラス。
駆の前に置かれたのは、言うまでもなくいつもの透明なカクテルだった。
「……今日は聞かないんですね」
「いつも言うじゃねえか、お任せで、だろ」
「おすすめで、ですよ」
「どっちも似たようなもんだな」
軽い会話を投げ返しながら、駆は嬉しそうに飲む。
「…これっていつもの、ってやつでしょ」
「さあな」
気のない返事をしながら
チョコレートを乗せた洒落た小さな皿。
グラスの脇に音もなく添える。
すぐに次の注文が入り、次のグラスを手に取る。
氷が早く減る夜だった。
いつもより注文も多い。
誰も理由は口にしない。
一人は会計を急ぎ、
一人は面白そうに眺め、
一人は空気を壊して確かめにきた。
「懐いてるねーぼうや」
店内に小さな笑いが広がる。
駆は反論しようとして、言葉を探し、結局フィズを一口飲んだ。
図星らしい。
「絡むな」
律の声は低く、短かった。
たったそれだけで、笑いは引く。
からかった男も肩をすくめる。
「はいはい。こわいこわい」
「分かってんなら黙って飲め」
「昔は俺にももう少し優しかったけどな」
「気のせいだ」
即答だった。
また笑いが起きる。
駆はそのやり取りを見ながら、胸の奥が妙にあたたかくなるのを感じていた。
この店で、律は誰に対しても同じようで、同じじゃない。
そして今、少しだけ自分寄りだ。
その事実が、グラスの泡みたいに胸の中ではじける。
「……律さん」
「なんだ」
「俺、ここ来ても浮いてないですか」
唐突な問いだった。
律はグラスを拭く手を止めず、駆を一瞥する。
「今さら何言ってやがる」
「いや、だって皆さん大人だし、俺だけなんか」
「…」
律がわずかに目を見開く。
すぐに視線を手元へ落とし、カウンターの内側を探る。
小皿が引かれ、代わりに置かれたのはナッツだった。
「馴染んでる」
駆を見ずに言う。
「え?」
聞こえたくせにとぼける顔でもう一回聞く。
「聞こえたんだろ」
「えっと、音楽が。ちゃんときこえなくて」
そう言いながら、駆は口元だけで笑った。
分かっていて、もう一度言わせたい時の顔だった。
律は無言でナッツの皿をまたチョコレートに変えようとする。
「わ、だめです」
駆が慌てて皿を押さえる。
律が、わずかに目だけで睨む。
「なんでちょっと怒ってるんですか」
「怒ってねえ。いらねえのか」
「いります!」
即答に、また誰かが吹き出した。
長く通う常連の一人は、その様子を眺めながら静かに酒を飲んでいた。
最初は珍しいものを見る気分だった。
若い客が来て、場違いに目を輝かせて、すぐ消えるだろうと思っていた。
だが違った。
青年は人懐こく笑う。
無邪気に見える。
だが時折、欲しいものを決めた獣みたいな目をする。
あれを天然だと思うほど、この店の男たちは甘くない。
青年は帰らなくなった。
いや、帰る。
帰るが、戻ってくる。
そして気づけば、あの席に座っている。
もう異物ではない。
この店の景色に組み込まれてしまった。
それが少し腹立たしくて、少し面白い。
「……ね」
駆が声を潜める。
「今度、もっと遅い時間に来てもいいですか」
声は控えめだった。
けれど、その視線だけは妙に真剣だった。
律の眉がわずかに動く。
「なんでだ」
「閉店近い時間とか、見てみたいなって」
他の誰もいなくなる頃を、
駆はちゃんと分かっていた。
「見世物じゃねえぞ」
「分かってます」
「ガキは寝る時間だ」
「またそれ!」
駆が身を乗り出す。
その額を、律が指先で押し返した。
「近い」
「ひどい」
「近えって言ってんだ」
「近づかなきゃ聞こえないじゃないですか」
「聞こえてるだろ」
「音楽が…」
押し問答に、今度は笑い声すら起きず夜になじむ。
見慣れないほど自然で、見慣れないほど近い。
その夜、駆が帰ったあと。
空になったフィズのグラスを洗う。
常連の一人がぼそりと言った。
「……あそこ、もうあいつの席だな」
律は答えない。
ただ水を止め、いつも通りの顔で次のグラスを手に取る。
否定しないことが、何より答えだった。
Chapter 7 古い馴染み
その夜、扉が開いた瞬間、店の空気がわずかに古いものへ触れた。
騒ぎにはならない。
だが何人かは、同じように目を上げる。
――来たな。
飄々とした足取りで入ってきた男は、視線を受け流すようにカウンターへ向かった。
肩の力が抜けているくせに、場へ馴染む速度だけが妙に早い。
滝沢穂高だった。
細身のジャケットを着崩し、ネクタイはあらかじめ緩めてある。
律とは違う種類の色気だった
――整うことよりも、隙を見せることに慣れた男の顔。 軽く手を上げる。
「……来たか」
カウンターの奥で、律が一瞬だけ目を上げる。
「久しぶりだな」
それだけだった。
だが、その短さで足りる距離だった。
初めて見る客には分からない。
長く通う者には分かる。
ああいう相手がいるのだ。
言葉を重ねなくても、最初から収まりのいい相手が。
穂高は椅子へ腰を下ろし、肘をカウンターへ預けた。
「いつもの」
律は答えず、グラスを取る。
ボトルを選ぶ手に迷いはない。
氷を落とす音も、注ぐ角度も、いつも通り正確だった。
それでも、いつもより早い。
説明のいらない手つきだった。
近くの男が小さく笑う。
――なるほど。
グラスが置かれる。
穂高は一口含み、わずかに口角を上げた。
「変わってねえな」
「変える理由がねえ」
短いやり取りに、薄い熱だけが残る。
穂高はグラスを回しながら、何気なく言った。
「……ちゃんと食ってるか」
「余計なお世話だ」
「痩せた」
「変わってねえ」
ぶっきらぼうな応酬。
だが拒絶ではない。
踏み込むことを許された者にしかできない会話だった。
「無理すんなよ」
その一言に、律の手がほんのわずかに止まる。
すぐに戻る。
見慣れた者には、それで十分だった。
あの男にも、効く言葉がある。
その少し後で、扉がもう一度開いた。
今度は何人かが、見ないふりをしたまま耳を澄ませる。
軽い足音。
迷いのない歩幅。
駆だった。
整えられた髪。夜に合わせた落ち着いた服。
それでもどこか、昼の光を残している。
「……来たか」
律が言う。
「はい」
短い返事。
駆は席へ向かいながら、一度だけ穂高を見る。
説明はいらなかった。空気で足りる。
穂高も目だけで笑う。
「初めまして、だな」
「……どうも」
それだけだった。
それだけで、互いに見ている場所が分かる。
駆はいつもの端の席へ腰を下ろした。
律はすでにグラスを取っている。
炭酸の細い音。薄いレモン。よく冷えた透明。
差し出されたフィズを受け取り、駆は一口飲んだ。
「……落ち着きます」
その言い方は柔らかい。
けれど、柔らかいだけではなかった。
穂高は小さく笑う。
――なるほど。
ただ懐いているだけの顔ではない。
ちゃんと選んで使っている顔だ。
「面倒だろ」
駆にだけ届く声で言う。
駆はグラスを置き、目を細めた。
「……何がですか」
「あいつ」
視線だけで律を示す。
「あなたの方が面倒です」
穂高は肩をすくめる。
「不用意に触ると火傷するぞ」
忠告。
止める気はない言い方だった。
駆は即座に返す。
「上等です」
近くで聞いていた男が、危うく笑いそうになる。
若い。
だが嫌いじゃない。
駆はそこで少し視線を落とした。
「……でも、今すぐどうこうする気はないです」
グラスの縁を指でなぞる。
「ただ、欲しいだけで」
軽い口調だった。
だからこそ、まっすぐだった。
穂高は数秒黙り、それから笑った。
「そうか」
それ以上は言わない。
線を引くのはここまででいい。
あとは、当人たちの領分だ。
律は二人の間に立っていた。
どちらにも寄らない。
いつも通り、同じ距離で酒を出す。
だが、その同じが少しだけ違う。
穂高には、言葉が短く鋭い。
駆には、間がほんのわずかにやわらぐ。
それだけだった。
それだけで十分だった。
「……飲め」
二人に同じように落とされる声。
「はいはい」
穂高が笑う。
「はい」
駆が頷く。
同じ返事。
温度は違う。
律は気づかない顔で、次のグラスを磨いている。
その指先だけが、相変わらず正確だった。
常連の一人は黙って酒を傾ける。
対照的だ、と思った。
ひとりは、知ったうえで手を離した男。
ひとりは、まだ何も知らず手を伸ばしている男。
だが、見ている先は同じだった。
「……お前、変わったな」
穂高がぽつりと言った。
どこが、とは言わない。
律は答えない。
磨いていたグラスを棚へ戻し、次の一本を取る。
表向き、何も変わらない夜だった。
低い音楽。
磨かれたカウンター。
短い会話。
それでも、この店を知る男たちだけは気づいていた。
今夜、Sir Oleanderの均衡は、
静かなまま少しだけ形を変えたことに。
Chapter 8 譲れない
昼のサロンは、夜とはまるで別の空気をしている。
光が均一で、影が少ない。
隠すものがないぶん、輪郭だけがはっきりする場所だ。
鏡の前に座る赤城 律は、夜より少しだけ無防備に見える。
低い照明も、グラスも、あの店の均衡もここにはない。
背後で駆の手が動く。
髪をすくい、整え、角度を見て、また触れる。
指先は正確で、迷いがない。仕事として完成された手つきだった。
だが今日は、いつもより少し近い。
「……ねえ」
ぽつりと声が落ちる。
「なんだ」
「向こう、強敵多すぎません?」
律は鏡越しに目を上げる。
「何の話だ」
「分かってるでしょ」
駆は笑う。
軽い調子だった。だが、その奥は軽くない。
昨夜から、胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。
あの店には、欲しがっている男が何人もいる。
それは知っていた。
けれど、昨日来た男は違う。
最初から近い場所にいる顔だった。
時間ごと知っているような目で、律を見る男だった。
あれは厄介だ。
本能みたいに、そう分かってしまった。
「……手も握れないんですよ、あそこじゃ」
ハサミを置く音が、小さく響く。
律は短く息を吐いた。
「握る必要がねえだろ」
「俺にはあります」
いつもの軽さを落とした声だった。
低く、静かに沈む響きが、鏡越しの空気を変える。
視線がぶつかる。
その一瞬だけ、店内の気配が遠のいた。
駆は何事もないようにクロスの皺を整え、自然な動きで体を寄せた。
カットの延長にしか見えない距離。
けれど近い。
律の肩へ、駆の腕がかすかに触れる。
逃げる理由はない。
だから律は動かない。
「……仕事しろ」
低く言う。
「してますよ」
すぐ近くで返ってくる声。
近い。
近すぎる。
鏡の中で、駆の目がはっきりと見える。
夜に見せる柔らかい色ではない。もっと真っ直ぐで、逃がさない光だった。
「……律さん」
呼び方が、少しだけ変わる。
その瞬間、空気まで切り替わる。
律が眉を寄せた。
「……なんだ」
駆は答えない。
代わりに、櫛を置いた手で律の顎へ触れる。
軽く向きを直すみたいな、仕事の続きにしか見えない動きで。
だが指先は離れない。
「おい」
低い声が落ちる。
駆はそのまま、ゆっくり顔を近づけた。
鏡の中で、二人の距離が消えていく。
呼吸が触れそうなところで、止まる。
あと少し。
ほんの数センチ。
距離が止まる。
時間が止まる。
律の喉が、低く震える。
「……調子に乗るな」
しかしその声に、いつもの鋭さが足りない。
駆は目を細める。
「乗ってます」
わずかに笑う。
「俺、結構わがままですよ」
律の視線が上がる。
夜の店で見せる、素直で懐いた年下の顔ではなかった。
もう少し、厄介な顔だった。
「欲しいもんは、ちゃんと欲しいって言うタイプなんで」
まっすぐだった。
冗談も、逃げ道もない声だった。
「……俺、そういう意味で、あなたを……」
言葉が途切れる。
声が低い。喉の奥で静かに鳴る音が、胸の深いところへ沈んでくる。
「最初から、ずっと」
それでも、何を言おうとしたかは十分すぎるほど伝わった。
律の視線が揺れる。
子どもだと思っていた。
懐いているだけの年下だと。
だが今、目の前にいるのは違う。
欲しいものへ、自分の足で来る男だった。
息が浅く乱れる。
駆の親指が、顎先を意味ありげに撫でる。
「この気持ちは、譲れません」
落ち着いた低い声だった。
押しつけるでもなく、深く届く音だった。
その声だけは、年下のものに聞こえなかった。
静かな宣言だった。
次の瞬間、駆はすっと身を引いた。
何事もなかったように距離を戻し、櫛を取り直す。
「……動かないでください」
いつもの声色。
「仕上げます」
まるで最初からそこへ戻ることが決まっていたみたいに。
律は何も言えない。
鏡の中の自分を見る。
表情は崩れていない。
だが、どこか違う。
小さく息を吐く。
「……ガキじゃねえな」
駆の手が、また髪へ触れる。
今度は正しい距離で、正しい仕事の手つきで。
けれど、さっきまでとは明らかに意味が違った。
昼の光の中で、均衡は確かに一度崩された。
そして何もなかったように整え直された。
――そう見えるだけで。
Chapter 9 嘘
その夜、扉が開いたとき、ほんのわずかに空気が揺れた。
いつもと同じ音。
同じ時間。
だが、その揺れだけが少し違っていた。
入ってきたのは駆だ。
カウンターの奥でグラスを磨いていた律の手が、ほんの一瞬だけ止まる。
「……来たか」
「はい」
短い返事。
駆はいつものように歩き、そのまま席へ向かう。
その隣には、すでに穂高が座っていた。
自然な流れで、駆はその隣へ腰を下ろす。
並んでいるというだけで妙な圧が生まれる。
律が視線を上げる。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、駆から目が逸れた。
近くの男が、無言で酒を飲む。
――今の。
誰も口にはしない。
「何にする」
「……おすすめで」
いつも通りのやり取りだった。
だが、グラスを選ぶ指先にいつもより少しの迷いがある。
それだけで十分だった。
今夜の律は、少し違う。
駆は差し出されたグラスを受け取り、一口飲む。
「……うまいです」
「そうか」
短い返答。
いつも通りの会話。
奇妙な緊迫感がある。
それなのに、二人の間だけ距離が妙に近い。
その横で、穂高が静かにグラスを傾ける。
視線は律に向いているようで、違う。
ゆっくりと、隣の駆へ顔を寄せた。
「……お前、律に何かした?」
声は抑えて。
問い詰めるほどではない。
だが、逃がさない温度だった。
駆は一瞬だけ目を丸くする。
「……え?」
本当に分かっていないような顔。
「何かって?」
首を少し傾げる。
無垢な声だった。完璧なくらいに。
穂高はじっと見る。
(こいつ…)
駆は視線を外し、グラスに口をつけた。
それ以上、会話は続かない。
時間が流れる。
他の会話が重なり、氷が溶け、酒が減っていく。
ふと、駆が口を開く。
「……した」
独り言みたいな声量だった。
穂高の手が止まる。
「……なにを?」
駆はグラスを見たまま、もう一度言った。
「キスした」
あっさりと。
何の飾りもなく。
事実だけを置くみたいに。
穂高が顔をしかめる。
「……おいおい」
呆れたように息を吐く。
だが、その目は笑っていない。
そのとき、駆がゆっくり顔を上げる。
視線の先には、カウンターの向こうにいる律。
横顔。
指先。
グラスを扱う癖。
全部を一度見て、
それから、もう一度穂高へ視線を戻す。
少しだけ笑った。
「……キスしたよ」
今度は、はっきりと。
意味を持たせて。
一瞬、空気が落ちる。
音が遠くなるような感覚。
――マジか。
――やったな。
――踏み込んだ。
誰も口にはしない。
だが、この店の男たちは理解していた。
若い獣が、静かに牙を立てたのだと。
穂高はゆっくりと息を吐く。
「……そうかよ」
短く言う。
それ以上は何も言わない。
止めない。責めない。
ただ、一度だけ律を見る。
その視線に、だいたいのことは含まれていた。
カウンターの奥で、律は聞こえないふりをした。
ーーーーー(キスは、していない)
だが、あの距離で今さら否定するのも違う気がした。
何より、ここで慌てて否定してやる義理もない。
ただし。
心の中で言ってやった。
調子に乗るな、と。
グラスを磨く手元が、わずかに乱れる。
それだけだった。
駆はもう何も言わない。
いつもの顔に戻っている。
無垢で、柔らかくて、少しだけ隙がある。
だがもう、それだけの存在ではなかった。
欲しいものへ手を伸ばし、
届く前から自分のものみたいに笑う顔を、何人かはもう知っている。
穂高は苦く笑い、酒を飲み干した。
若いな、と思う。
強引で、青くて、まっすぐだ。
嫌いじゃない。
律は何も知らない顔で次のグラスを手に取る。
いつも通りの夜。
いつも通りの音楽。
いつも通りの酒。
それでも、戻らないものがあった。
Sir Oleanderの均衡は、今夜また少しだけ形を変えた。
静かなまま。
誰にも壊されず。
それでも確かに、内側から。
Chapter 10 残り火
閉店後のSir Oleanderは、別の場所のように静かだった。
客の気配が消え、音が落ちる。
磨かれたグラスの乾いた擦過音だけが、薄く残っている。
カウンターの奥で、赤城 律が最後の一つを拭き上げる。
「……帰らねえのか」
振り向かずに言った。
店の端に、まだ一人分の気配が残っている。
「帰るつもりだったんだけどな」
穂高がグラスを回す。
「気が変わった」
軽い声音だった。だが、いつもの軽さだけではない何かが引っかかる。
律がようやく振り向く。視線が合う。一瞬だけ、空気が止まった。
穂高はその目を見て、すぐ分かった。
――まだ残ってるな。
昼でも夜でもない。若い男が置いていった熱が、こいつの中でまだ燻っている。
「……何だよ」
律が低く言う。
「いや」
穂高は立ち上がる。ゆっくりと距離を詰めた。
「ちょっと、確認したくてな」
「何を」
答えず、さらに近づく。
逃げる理由はない。だから律は動かない。
その代わり、目だけがわずかに細くなる。
穂高はそこで確信した。
――火がついてる。
自分のせいじゃない。別の誰かが、先に触れている。
それが少し、面白くない。
「……あの坊や」
低く呟く。
「やるじゃねえか」
律の眉が寄る。
「何の話だ」
「とぼけんなよ」
一歩踏み込む。
距離が消える。
肩へ置いた手は強くもなく、弱くもない。
逃がさないわけではない。
ただ、ここにいると知らせる手つきだった。
「……生意気だな」
その言葉に、熱が混じる。
律は感じ取る。感じ取りながら、退かない。
「お前もだろ」
短い返答だった。
昔と同じ、遠慮のない声音。
穂高は少しだけ笑う。
「……久しぶりだな」
律は答えない。ただ視線を逸らさなかった。
それで十分だった。
言葉はそこで終わる。
代わりに、昔からそうしてきたみたいに距離が変わる。
荒々しく押し倒すようなものではない。
甘く確かめ合うものでもない。
ただ、互いの呼吸を取り戻すための動作だった。
心が乱れた夜。
怒りの収まらない夜。
どうしようもなく悲しい夜。
身体だけが妙に冴えて眠れない夜。
言葉では片づかないものを、こうして片づけてきた。
触れ方には癖があり、間には記憶がある。
どこに手を置けば黙るか、どこで肩の力が抜けるか、互いに知っていた。
だから早い。説明がいらない。
それでも、どこかが違った。
穂高は律の呼吸の浅さに気づく。
いつもならここで抜ける力が、まだ抜けきらない。
胸の奥に別の熱が残っている。
昼の光の中で、若い男に唇を許す律の姿がよぎる。
「……混ざってるな」
低く漏らす。
返事はない。
だが否定もない。
穂高は少しだけ乱暴に抱き寄せる。
嫉妬なのか、意地なのか、自分でも分からない。
ただ、確かめたかった。
まだここへ戻ってこられるのか。
自分たちの場所が、まだ残っているのか。
「……他の奴じゃ、無理だろ」
独り言のように言う。
律は黙ったまま受け止める。
その沈黙が、答えでもあり、答えではなかった。
穂高自身、穏やかではいられなかった。
子どもじみた嫉妬かもしれない。
若い男に張り合い、まだここにいると確かめたかったのかもしれない。
自分でも、うまく分からない。
ただ、その手つきだけが、いつもより深く、どこか荒かった。
時間が過ぎる。
長くはなかった。けれど短くもない、妙に静かな時間だった。
終わりはいつも通りあっさりしている。
必要以上の言葉も、余韻を惜しむ仕草もない。
それが二人には、ちょうどよかった。
律はカウンターへ戻り、何事もなかったようにグラスを手に取る。
呼吸が、わずかに深い。
額へ落ちた前髪が湿り、目元にはまだ熱の名残が淡く差していた。
やれやれ、と穂高は思う。
昔からこうだ。
本人は何でもない顔をしているくせに、余韻だけは隠しきれない。
これだから心配になる。
こんな姿を晒して、並みの男ならひとたまりもないだろう。
――あの坊やに見られたら、今度こそ殺されるかもしれねえな。
穂高はそれを見て、小さく笑った。
「……ったく」
小さく息を吐く。
「相変わらずだな」
律は何も言わない。
ただグラスを拭く。いつもの動作。いつもの角度。
だが、同じではなかった。
肩の力が抜けている。
どこか、吹っ切れたような顔をしていた。
穂高はそれを見て、少しだけ息を吐く。
少し荒くしすぎたか。
執拗に確かめすぎたかもしれない。
内心久しぶりの行為にしてはやりすぎだったかと少しの申し訳なさを感じていた。
だが、その顔を見れば答えは十分だった。
「チャラ、ってとこか」
律が視線だけ上げる。
「……何がだ」
「こっちの話だよ」
―――ひどくして悪かったな。
―――詫びはいらねえ、こっちこそ助かった。
視線ひとつで済む話だった。
軽く流してから、少しだけ真面目な顔になる。
「……あの坊や」
律の手は止まらない。
「いい男だな」
短く言った。
「ちょっと危ねえけどな」
それでも、声には認める響きがあった。
律は何も言わない。
だが、その沈黙で十分だった。
穂高は立ち上がる。
「ま、せいぜい気をつけろ」
軽く言う。
「壊されるなよ」
律が鼻で息を吐いた。
「余計なお世話だ」
それで終わりだった。
扉が閉まる。静けさが戻る。
カウンターの奥で、律は一人になる。
手の中のグラスが、一瞬だけ止まった。
――ガキじゃねえ。
小さく思う。
同時に、別のことも思う。
――面倒だな。
だが、その感覚は嫌ではなかった。
今夜、均衡は崩れていない。
だが——立ち位置が、変わった。
穂高は理解した。
駆の衝動を。
そして、律がもう新しい場所へ踏み出しかけていることを。
律も、少しだけ理解した。
次はもう、正面から向き合うしかなくなったのだと。
互いに分かっていた。
熱を鎮めるために肌を重ね、言葉の代わりに夜をやり過ごしてきた時間が、今夜で終わるのだと。
Chapter 11 試される距離
その夜のSir Oleanderは、いつもより静かだった。
客はいる。会話もある。だが、音だけがどこか遠い。
理由は明白だった。
カウンターに並ぶ二つの気配。穂高と、駆。
そのあいだに、赤城 律が立っている。
「……来たか」
律が言う。
「来た」
穂高が返す。
「はい」
駆が続いた。
同じ言葉。温度だけが違う。
律は何も言わず、グラスを並べる。
動きに無駄はない。いつも通りだ。
だからこそ、どちらにも等しく向けられる手つきが、かえって差を浮かび上がらせた。
常連の一人が、胸の内で息をつく。
——見せるなよ。分かるやつには分かる。
「今日はどうする」
「いつもの」
穂高が答える。
「俺も。」
駆が続く。
短いやり取りだった。
穂高はグラスを受け取るついでに、自然な動作で律の手首へ触れた。
一瞬だけ。あまりにも自然に。
馴染んだ距離だった。
それ以上は踏み込まない。触れて、離す。
ただそれだけのことが、妙に目につく。
駆は何も言わず、グラスに口をつけた。
穏やかな横顔だった。
だが、指先が止まる。ほんの一拍。
「襟、曲がってるぞ」
今度は肩だった。
軽く整えるように触れ、そのまま離れる。
知っている者だけが許される触れ方だった。
そのとき、駆が静かに口を開く。
「それ」
声はやわらかい。
「俺の前でやるんですね」
店の空気が止まる。
穂高は手を離し、肩をすくめた。
「問題あるか?」
挑発ではない。逃げてもいない。
駆は少し首を傾ける。
「別に」
笑う。
「ただ、思っただけです」
その穏やかさが、かえって鋭い。
律は二人を見ない。
黙ってグラスを拭いている。
だが、布を持つ手がかすかに乱れた。
穂高がグラスを回しながら言う。
「いいじゃねえか。見せるもんでも、隠すもんでもねえ」
駆は答えず、ただ律を見る。
まっすぐな視線だった。
昼に見せた、あの目と同じだ。
律が顔を上げる。
視線がぶつかった。
「……何だ」
いつも通りの言葉。
だが、いつもより遅い。
駆は口元だけで笑った。
「なんでもないです」
嘘だった。
誰にでも分かる。
穂高はそのやり取りを見て、口角を上げる。
もう止める段階ではない。
常連たちも何も言わなかった。
ただ、理解していた。
Sir Oleanderの均衡は、まだ崩れていない。
けれど、もう元には戻らない。
壊れてはいない。
ただ確かに、形を変えていた。
誰も壊さず、誰も引かなかった。
それが、この場所でいちばん危うい均衡だった。
店を出ても、夜は終わらなかった。
背後でSir Oleanderの灯りが静かに落ちる。
通りには人も少なく、空気だけが冷たい。
そのせいで、さっきまでの熱がなおさら残った。
歩き出しかけた背に、声が落ちる。
「……律さん」
振り向く。
駆が、数歩先に立っていた。
店で見せていたやわらかさとは少し違う。
逃げない目だった。
「……なんだ」
短く返す。
駆はすぐには話さない。
少し考えるように間を置き、それから言った。
「俺のこと、分かってて放置してますよね」
責める声ではなかった。
静かに置かれた言葉だった。
律の目が細くなる。
「……何の話だ」
「分かってるくせに」
一歩、近づく。
「この間の嘘も、さっきも。全部スルーしたでしょ」
落ち着いた声だった。
やわらかいのに、逃げ場を残さない。
律は答えない。
その沈黙が答えだった。
駆が小さく息を吐く。
「……あんた、ずるいですよ」
笑う。
「やめろって言わないくせに、受けるでもない」
「……ガキが」
鋭さが、少し足りない。
「まだそれ言います?」
駆がさらに半歩詰める。
腕を伸ばせば触れられる距離。
「じゃあ、試します?」
冗談のような言い方だった。
けれど、目だけが本気だった。
律が眉を寄せる。
「……何をだ」
「どこまでならいいのか」
その一言で、空気が変わる。
駆は手を伸ばさない。
触れもしない。
ただ、その距離で止まる。
待っていた。
選ばせていた。
律の呼吸が浅くなる。
「……やめろ」
拒絶の言葉。
だが、足りない。
「どっちですか?やめてほしいのか」
一拍。
「それとも——」
その先は言わない。
律も答えない。
だが、沈黙が長い。
駆が手を伸ばす。
今度は止められなかった。
指先が顎に触れ、わずかに上を向かせる。
視線が絡む。
近い。
呼吸が混ざるほどに。
駆が低く息を吐く。
それだけで熱が増す。
そして、触れた。
離れるには惜しむように、ほんの数秒。
浅く重なった熱が、確かめるようにしばらく続く。
触れながら律は駆が言ったことを思い出そうとしていた。
ーー試す?
ようやく離れても、まだ近い。
「……ここまでは、いいってことですよね」
やわらかな声だった。
けれど、逃がさない。
律は小さく息を吐く。
「……調子に乗るな」
駆が笑う。
「乗ってます」
その距離のまま言った。
律が視線を逸らす。
駆の目に、確かな色が宿る。
「……じゃあ、また」
ようやく距離を取る。
何事もなかったように身を翻し、そのまま夜へ消えた。
律はしばらく動かなかった。
動けなかった。
やがて、小さく息を吐く。
冷えた夜気の中に、別の熱だけが残っていた。
Chapter 12 仕事中なんで
夜が明ける前の時間帯は、妙に静かだ。
街の音が引き、残るのは自分の気配だけになる。
Sir Oleanderの裏口を閉めたあと、赤城 律はしばらくその場に立っていた。
手はいつも通りに動く。
鍵を確かめ、袖を整え、帰る支度をする。
だが、頭の中だけが戻らない。
——ガキが。
そう思う。
いつもなら、それで終わる。
終わらなかった。
昼のサロンでの距離。
夜の店での視線。
外で交わした、あの熱。
思い返そうとしているわけでもない。
なのに、勝手に浮かぶ。
「……クソ」
小さく息を吐く。
気づけば征一にサロンの予約を頼んでいた。
昼のサロンは、相変わらず明るい。
光が均一で、逃げ場がない。
中央の椅子に腰を下ろす。
鏡の中には、自分と、その背後に立つ駆が映っていた。
「……会えてうれしいです」
いつも通りの声。
やわらかく、どこか気安い。
律は鏡越しに視線をやる。
「仕事の一環だ」
短く返す。
駆が笑う。
「そういうことにしときます」
軽い調子だった。
だが、あの夜と同じ温度がある。
追い詰めず、逃がしもしない。
ちょうどいい位置で止まる声だった。
手が動く。
髪に触れる指先は正確で、無駄がない。
いつも通りの仕事。
そのはずなのに、妙に意識する。
駆は何も言わない。
ただ、仕事をしている。
それだけなのに、落ち着かない。
「……なんだ」
先に口を開いたのは律だった。
駆が首を傾ける。
「何がですか」
「言いたいことがあるなら、はっきり言え」
言ってから、自分でも分かる。
らしくない。
駆の手が一瞬だけ止まり、すぐ戻る。
「……言ってほしいんですか」
静かな声だった。
鏡越しに目が合う。
律は答えない。
だが、逸らしもしない。
それで十分だった。
駆が小さく息をつく。
「……やめときます」
あっさり言って、何事もなかったように手を動かす。
「仕事中なんで」
淡々とした声だった。
——なんだそれ。
胸の奥に、小さく引っかかる。
追われていたはずなのに、急に引かれる。
その落差だけが残る。
普通の会話の延長のように
駆が腕を動かしながら尋ねてくる。
「どっちですか」
「……何が」
「すぐやめたのが気に入らないのか」
一拍。
「続けたほうがよかったのか」
昨日と同じ言い方だった。
逃げ道を残さない。
律は言葉を失う。
その一瞬で、駆の目が細くなる。
確信した目だった。
「……律さん」
呼ぶ声が、妙に近い。
「俺、やめないですよ」
はっきりと言う。
「やめろって言われても」
穏やかな声だった。
だが、揺るがない。
「でも、無理にもしません」
少し置いて、続ける。
「ちゃんと、あんたが選ぶまで待ちます」
その言葉が、まっすぐ刺さる。
押しつけでもない。強制でもない。
ただ、選ばせる。
律は鏡の中の自分を見る。
表情は変わっていない。
けれど、内側だけが違った。
——選ぶ?
そんなことは今までなかった。
流して、受けて、終わる。
それで済んできた。
だが、今回は終わらない。
駆の手が止まる。
「できました」
いつもの調子で、一歩引く。
距離は戻る。
けれど、戻らない。
律は立ち上がり、鏡を見る。
整えられた自分。
変わっていないはずなのに、違って見える。
「……悪くねえ」
短く言う。
駆はでしょ、と言って笑った。
だが、眼差しだけは変わらない。
律は会計を済ませる。
いつも通りに。
駆が先に扉へ向かい、慣れた手つきで開ける。
外気が細く流れ込んだ。
「ありがとうございました」
いつもの声音。
だが、どこか名残を含んでいる。
律はその横を通り過ぎる。
外へ出る寸前、足がわずかに止まった。
呼ぶつもりもなかった。それでも口が開く。
「……お前」
背後で、駆がすぐに振り向く気配がする。
「はい」
待っていたような返事だった。
律は一瞬だけ迷い、それから言う。
「……面倒だな」
間があった。
次いで、小さく笑う声。
「知ってます」
振り返らなくても分かった。
あいつは今、たぶん笑っている。
外へ出る。
空気が少し軽い。
けれど、胸の奥に残るものは重かった。
——これか。
ようやく分かる。
これには、名前がある。
律は歩き出す。
足取りはいつも通りだった。
だが、もう同じ場所には戻れない。
Chapter 13 来ない夜
その夜、Sir Oleanderにはいつも通り客がいた。
グラスの音も、低い会話も、照明の落ち着いた色も変わらない。
変わらないはずだった。
赤城 律はカウンターの奥で手を動かしながら、二度、入口を見た。
自分でも気づかないほど自然な動作で。
三度目で、穂高が笑った。
「誰待ちだよ」
「待ってねえ」
即答だった。
「ふうん」
それ以上は言わない。
言わなくても分かる顔をしているのが腹立たしい。
扉が開くたび、視線が向く。
違う客だと分かれば、何事もなかったようにグラスへ戻る。
それを何度か繰り返したころには、自分でも少し嫌になっていた。
(……ガキが)
来る日もあれば、来ない日もある。
そんなことは当たり前だ。
客の一人に過ぎない。
そう思っていたはずなのに、店の空気に妙な隙間がある。
「今日、あの坊や来ねえな」
常連が何気なく言う。
「忙しいんじゃねえの」
別の客が返す。
律は何も言わない。
氷を落とす音だけが、やけに大きく響いた。
そのころ駆は扉を開け、笑顔で最後の客を見送った。
「ありがとうございました」
ドアベルが小さく鳴り、扉が閉まる。
時計を見ると、もう遅い時間だった。
奥から共同経営者の幼馴染が顔を出す。
「今日も行くのかと思ってた」
「……今日はやめとく」
「珍しいね」
穏やかな声に、駆は曖昧に笑った。
本当は行きたい。
仕事が終わった瞬間、顔が浮かんだ。
カウンター越しの灰色の目。
顎に触れたときの体温。
唇が重なった、あの数秒。
思い出しただけで、口元が緩む。
「……何その顔」
「え?」
「にやけてる」
「にやけてねえよ!」
反射的に返してから、耳まで熱いのが分かった。
幼馴染は小さく笑い、何も追及しない。
そういうところが昔からやりやすい。
行きたい。
でも、今日は行かない。
少しだけ、自分が来ない夜を作ってみたかった。
あの人が少しでも気にしたらいい。
入口を見る回数が増えたらいい。
そんな子どもっぽいことを考えてしまう自分に、苦笑する。
(……俺、なにやってんだ)
けれど次の瞬間には、また思う。
(律さんも、あの時のこと思い出したりしてるかな)
胸が鳴る。
もし少しでも。
ほんの少しでも、自分と同じなら。
それだけで、明日も頑張れる気がした。
深夜、閉店後。
Sir Oleanderの灯りを落としながら、律は最後に一度だけ入口を見た。
誰も来ない。
当然だ。
それなのに、舌打ちしたくなる。
(……面倒なやつだ)
そう思いながら、脳裏に浮かぶのは、笑いながら「乗ってます」と言った声だった。
律は無言で鍵を閉める。
その手つきだけが、いつもより少し乱れていた。
Chapter 14 溢れる前に
恋する男にとって、一か月は長すぎる。
信じられない。
そんな間隔に耐えられると思っていた自分にも、
最後に会ったのがたった十日ほど前だという事実にも。
このままでは干からびる。
自分で仕掛けた駆け引きだった。
来ない日を作って、少し困らせてやろうと思った。
降参だった。失敗だった。
心の中では、とっくに白旗が上がっている。
昼のサロンは、いつもより静かだった。
予定より早い時期に入った予約。
その名前を見た瞬間から、ずっと機嫌がいい。
完全予約制。
今日はほかの客を入れていない。
照明はやわらかく落とされ、奥には簡素なソファスペースがある。
カット前、律はそこに座っていた。
紅茶の香りが淡く漂う。
「……ずいぶん余裕だな」
軽く言う。
駆は笑った。
「律さんの日なんで」
さらりとした口調だった。
冗談めいているのに、その重さだけは隠していない。
律は何も返さない。
カットはすぐに終わった。
いつも通り、無駄なく、完璧に整えられていく。
「……いいな」
律が言う。
駆が少し得意げに笑う。
そこまでは、いつも通りだった。
「……座ってください」
ソファを軽く叩く。
「少し整えるんで」
律は黙って座った。
背後に回る気配。
手が触れる。
髪ではない。
首元だった。
そのまま、止まる。
——違うな。
仕事の手つきではなかった。
「……まき」
彼だけの呼び方で呼ぶ。
返事はない。
代わりに、近い呼吸だけが落ちる。
少し荒い。
次の瞬間、肩を掴まれた。
ぐっと引かれる。
押し倒されるほどではない。
だが、逃げられない位置だった。
「……おい」
言いかけて止まる。
顔が近い。
近すぎる。
あの夜の続き。
けれど今回は、止まっていない。
「……無理っす」
掠れた声だった。
「待てない」
はっきりと言う。
「ちゃんと待つって言ったのに」
苦笑まじりに息を吐く。
「無理でした」
律の目がわずかに開く。
そのまま距離が詰まる。
触れそうになって、止まる。
また詰まる。
まるで自分で制御できていない。
——こいつ。
分かった。
限界なのだ。
「……まき」
今度は少し強く呼ぶ。
ぴたりと動きが止まる。
数秒の沈黙。
それから、肩の力が抜けた。
「……っ」
小さく息を吐く音。
駆は一歩、二歩と下がり、そのまま床に座り込んだ。
膝を抱え、顔を伏せる。
「……無理だ」
ぽつりと零す。
「好きすぎて」
笑っているような声だった。
けれど、まるで笑っていない。
「俺、今おかしい」
肩が震えている。
「触ったら、ほんとに止まらない」
正直すぎる言葉だった。
「……襲いますよ」
冗談みたいに言う。
だが、冗談ではない。
律はしばらく動かなかった。
床に座り込む駆を見る。
さっきまでの強さが、嘘みたいに崩れている。
——ガキだな。
そう思う。同時に、
——いい男だ。
とも思った。
ゆっくり立ち上がり、駆の前まで歩く。
駆は顔を上げない。
「……帰ってください」
小さく言う。
「ほんとに、無理なんで」
その言い方が妙に刺さる。
律は答えない。
代わりに手を伸ばし、頭に触れた。
びくりと肩が揺れる。
そのまま、軽く頭をつかむように押さえる。
強くはない。
だが、逃がさない。
「……バカか、お前」
低く言う。
駆は何も言えない。
近い。
けれど、さっきとは違う。
「……落ち着け」
短く告げる。
手はそのまま置かれている。
撫でるでもなく、ただそこにある。
それだけで十分だった。
駆の呼吸が、少しずつ戻っていく。
「……ずるい」
小さく言う。
「それ、ずるいっす」
律は答えない。
ただ、指先だけがほんの少し動いた。
静かな時間だった。
やがて駆が顔を上げる。
目が少し赤い。
だが、もう自分を取り戻している。
「……もう大丈夫です」
律は手を離した。
距離が戻る。
律はそのまま踵を返し、出口へ向かう。
ドアに手をかけ、止まる。
「……まき」
「はい」
素直な返事だった。
「ちょっと来い」
短く言う。
駆がドアに近づく。
「……耳貸せ」
少し身を屈めた、その瞬間。
頬に、触れる。
唇が、かすめるように触れて、すぐ離れた。
駆の思考が止まる。
「……今日はこれで許せ」
低く言い残し、律は扉を開けた。
外へ出る。
振り返らない。
扉が閉まる。
静寂。
駆はしばらく動けなかった。
数秒遅れて熱がくる。
「……は?」
理解が追いつかない。
「……何だよ、もう……」
呟いたあと、そのまま扉にもたれ、ずるずるとしゃがみ込む。
顔を両手で覆う。
「何だよもう……何だよもう!!!」
くぐもった声が店内に響いた。
呼吸が整わない。
頭も回らない。
ただ一つだけ、分かる。
——好きだ。
前より、どうしようもなく。
一方その頃。
外へ出た律は、夜気を吸い込んだ。
——やっちまった。
頬に触れた感触が、まだ指先に残っている。
——あんなの、自分からやるか普通。
少し顔をしかめる。それでも、足は止まらない。
——面倒だな。
そう思う。
だが、
——いいか。
とも思った。
そのまま、ほんの少しだけ口元が緩む。
否定はしなかった。
この夜、また一歩。
均衡は、崩れる側へ進んでいた。
Chapter 15 黄金来襲
その夜、Sir Oleanderの扉が開いた瞬間、空気が変わった。
ざわり、と。
理由を説明できる者はいない。
ただ、本能だけが先に反応する。
視線が集まる。
入ってきた男を見て、一瞬だけ言葉が遅れた。
——誰だ。
そう思った者たちが、次の瞬間には理解する。
——いや。
駆か。
だが、いつもの駆ではない。
金に近いブロンド。
光を受けてやわらかく揺れる髪は、長めの前髪が自然に流れ、無造作に見えて隙なく整えられている。
顔の輪郭に沿うその線は、危うさと美しさを同時に帯びていた。
瞳は金を含んだ茶。
まるで内側から光っているようだった。
黄金のライオン。
若く、しなやかで、今まさに牙を持ちはじめた獣。
それでいて、この店の空気の中では異物だった。
整いすぎている。輝きすぎている。
——やばいな。
——増してる。
——あれは反則だろ。
抑えきれないざわめきが広がる。
その中心で、駆がぱっと顔を輝かせた。
「律さん!」
一気に距離を詰める。
大型犬みたいにまっすぐで、迷いがない。
律の前で止まり、その目は隠しようもなく“好き”で満ちていた。
「どうですか」
少し得意げに言う。
律が一瞬、言葉を失う。
ほんの一拍。
それだけで十分だった。
——効いてる。
誰かが確信する。
「……悪くねえ」
短い返事だった。
だが、わずかに遅れている。
駆が満足そうに笑う。
そのまま自然に席へ着く。
落ち着いている。
満たされている。
特別をもらった側の余裕だった。
——なんだあの顔。
——満たされてるな。
ざわめきがさらに深くなる。
カウンターの端で、穂高がその様子を見ていた。
一瞬、本気で言葉を失う。
「……は」
小さく漏れる。
——なんだあれ。
——レベル上げすぎだろ。
周囲を見れば、何人かは明らかに見惚れている。
「……おいおい」
苦く笑い、それから律へ視線を戻した。
低く寄る。
「……お前、なんかしたの?」
駆には届かない距離だった。
律が視線だけを寄越す。
少し間を置く。
その溜めだけで、空気が張る。
全員が律を見る。
律は視線を外し、自分の頬を指先で示した。
「……キスした」
静かな一言だった。
一瞬、音が消える。
「うわぁ……」
穂高が固まる。
すぐに駆を見る。
当の本人はまだ気づいていない。
機嫌よくグラスを傾けている。
その無防備さに、思わず笑いそうになる。
呆れ半分、笑い半分。
周囲がどよめく。
——……ほっぺ?
——ほっぺだって?
——破壊力……。
——小悪魔すぎる。
前屈みになる男が数人いた。
完全に食らっている。
そのざわめきに、駆が気づく。
「……え?」
視線を巡らせ、穂高と目が合う。
一瞬で察した。
「律さん、言っちゃったの?」
すぐ律を見る。
律はきょとんとしている。
「……お前」
駆が立ち上がり、穂高へ向かう。
「お前、何聞いたんだよ!」
少し照れた声だった。
「……いや?」
とぼけても、にやついた顔が答えになっている。
「聞いただろぉー!」
軽く拳を振り上げる。
ぽす、ぽす、と肩を叩く。
まるで痛くない。
むしろ甘い。
穂高が声を上げて笑った。
「痛い痛い、あははは!」
避けもせず受けながら笑っている。
その様子に、店の空気が一気にやわらいだ。
——なんだこれ。
——かわいすぎるだろ。
——穂高まで崩れてるぞ。
律が小さく息を吐く。
「……悪いな」
ぽつりと言った。
駆が振り向く。
「え?」
律が少し視線を逸らす。
「……嫌だったか」
淡々とした声だった。
だが、ほんの少しだけ気にしている色が混じる。
駆が言葉を失う。
その間に、律はカウンター下に手を入れた。
「……お菓子やるから」
自然に言う。
からかいではない。
本気でそう思っている声だった。
差し出されたのはキャラメル。
「ほら」
駆は固まる。
無言で受け取る。
——なんでお菓子で許されると思ってんだ、この人。
責めたいのに、責められない。
——この人なりの、やさしさなんだろうな。
そう思いながら、包みを開ける。
カウンターの端で、穂高がそれを見ていた。
——ふーん。
律を見る。
いつも通りふるまっているようで、思考が駆に傾いているのがわかる。
——なるほど。
そして少しだけ笑う。
——悪くねえな。あの坊や。
Sir Oleanderは静かだ。
けれど今夜は、どこか明るい。
劇場のように、誰もがその中心を見ている。
入り込めないと知りながら、目を離せない。
その変化を。
その一瞬を。
焼きつけるように見つめている。
いつか自分の番が来るかもしれないと、まだどこかで願いながら。
この夜、楽園は少しだけ色を変えた。
そしてその中心で、頬を赤くしたままキャラメルを握る男が、一人。
Chapter 16 選ばれた夜
その夜のSir Oleanderは、妙に静かだった。
いつも通り、人がいて、ジャズがあり、酒があり、低い笑い声も流れている。
だが、その穏やかな表面の下に、何かを待つ気配だけが沈んでいた。
誰も口にはしない。
けれど全員が知っている。
今夜、何かが少し進む。
理由は単純だった。
扉が開いてからというもの、律の視線が一度も落ち着いていない。
グラスを磨く。
酒を量る。
客に返事をする。
動きはいつも通り、完璧で無駄がない。
その合間、ほんのわずかに入口を見る。
一度。二度。三度。
穂高がグラスを回しながら思う。
——分かりやすいな。
以前の律なら、待っていても見せなかった。
だが今は違う。
隠しているつもりで、隠し切れていない。
誰も茶化さない。
それがこの店の流儀だった。
やがて、扉が開く。
その瞬間だけ、空気がわずかに明るくなる。
駆が入ってきた。
今夜は前回ほど派手ではない。
黒のシャツに、少しラフなジャケット。
髪は金の名残を残しながら、落ち着いた色味に整えられている。
それでも、十分すぎるほど目を引いた。
何より、顔がいい。
そして——嬉しそうだった。
「律さん」
まっすぐな笑顔。
その声に、律の手が一瞬止まる。
その顔を見た瞬間、律の目元がほころんだ。
穂高がそれを見て、吹き出しそうになる。
(だめだこりゃ)
ほんの一瞬。
だが、全員見ていた。
「……来たか」
短く返す。
声が、少しだけやわらかい。
——もう隠す気ねえだろ。
誰かが胸の内で呟く。
駆はいつもの席へ向かいかけて、ふと足を止めた。
カウンター中央。
律の真正面。
あまり誰も選ばない席だった。
近すぎる。見えすぎる。
駆は迷わずそこへ座る。
空気が揺れた。
——おいおい。
——やるな。
——真正面かよ。
律が小さく眉を寄せる。
「……」
「だめですか」
やわらかく問う。
「……好きにしろ」
そう言いながら、すでにグラスを用意している。
駆が笑った。
「じゃあ、好きにします」
何人かが危うく酒を吹きそうになる。
穂高が額を押さえた。
「若えな……」
律は何も言わず、駆の前にグラスを置く。
オレアンダーではない。
香りのやわらかな、透明ないつものフィズだった。
駆が目を丸くする。
「……俺に?」
「見りゃ分かるだろ」
「頼む前に!すげえ」
以前、強い酒はまだ早いと言われたことを覚えている。
オレアンダーにはまだ早い自分だとわかっている。
けれど駆はどうしようもなく嬉しそうに笑う。
「これ、俺用ですか」
「うるせえな」
「否定しないんだ」
律が小さく息を吐く。
そのまま、カウンター越しに手を伸ばした。
落ちてきた前髪を、指先で払う。
自然に。
何でもないことのように。
店内の時間が止まった。
——今、触った?
——自分から?
——やばいな。
駆自身も固まっている。
「……飲みにくそうだった」
ぶっきらぼうな声。
耳まで少し赤い。
駆の顔もみるみる熱を帯びる。
「……あの」
声が裏返る。
「……なんだ」
「俺、今日もう無理かもしれないです」
「何がだ」
「色々」
穂高が肩を震わせる。
小さな笑いが広がる。
だが、その中心だけは真剣だった。
駆が少し身を乗り出す。
「律さん」
「なんだ」
「今日、終わったあと空いてます?」
一瞬、静かになる。
「……一緒に帰りたいです」
全員が息を止めた。
律は答えない。
グラスを拭く。置く。
駆を見る。
それから、短く言った。
「……ああ」
その瞬間、店内の男たちの心が一斉に揺れた。
——うわ。
——選んだ。
——今、選んだ。
嫉妬もある。羨望もある。
けれどそれ以上に、見届けたいと思った。
この男が、誰かを選ぶ瞬間を。
穂高は誰にも見えない角度でグラスを上げる。
——やるじゃねえか、坊や。
駆は、嬉しさを隠しきれず笑っている。
律はその顔を見て、ほんのわずかに口元を緩めた。
この店で、ほとんど誰も見たことのない表情だった。
閉店後。
最後の客が出ていき、灯りが落ちる。
穂高は帰り際、駆の肩を叩いた。
「ほどほどにな」
「無理です」
即答だった。
穂高が声を上げて笑う。
「いいな、それで」
扉が閉まる。
二人きりになる。
静かな店内で、駆はカウンターの向こうに立つ律を見る。
昼のサロンでも、夜道でもない。
ここは、律の場所だった。
その意味を、駆はちゃんと分かっている。
律が見つめる。
熱を含んだ、逃がさない視線だった。
駆の動きが止まる。
以前なら見られなかった目。
以前なら、選ばなかった誘い方。
律はゆっくり近づき、カウンター脇の小さな扉を開けた。
中へ入るための、店側の入口。
駆を招き入れるように。
それだけで十分だった。
駆が中へ入る。
距離がなくなる。
「……もう我慢しなくていいですか」
掠れた声だった。
「知らねえ」
「またそれ」
「自分で決めろ」
その瞬間、駆が笑う。
次の瞬間には、律の腰を抱き寄せていた。
勢いはある。
だが乱暴ではない。
ずっと堪えていた熱が、ようやく居場所を得たような抱き方だった。
律の手が、一瞬だけ迷い、それから駆の肩に置かれる。
それだけで、駆の呼吸が乱れる。
「……やばい」
「うるせえ」
「好きです」
「知ってる」
「もっと言います」
「うるせえって言ってんだろ」
そう言いながら、律は自分から駆の襟を引いた。
その意味を理解した瞬間、駆の理性は吹き飛ぶ。
キスは嵐みたいだった。
若い獣のように必死で、嬉しくて、少し震えている。
律はそれを受け止めながら、ときどき小さく笑う。
——かわいいな。
心の底で、そう思ってしまう。
父性?母性?
いや、そういったことでごまかしきれない、
もっと個人的で、熱を持った感情だった。
しばらくして離れると、駆は本気で息が上がっていた。
「……死ぬ」
「大げさだ」
「無理です。好きな人が好きって顔してくれた」
「してねえ」
駆は笑う。
幸せそうに。
どうしようもなく。
律はその顔を見て、小さく息を吐いた。
——面倒だな。
だが、その面倒はもう嫌ではなかった。
むしろ、ずっと欲しかったものに近い気がした。
店の外では、夜が更けていく。
Sir Oleanderの均衡は、とっくに崩れていた。
けれど不思議と、誰も不幸にはならなかった。
ただ一人の男が、ようやく選ばれただけだった。
Chapter 17 無敵のポンコツ
翌日の昼、街は何事もなかったように明るかった。
昨夜の熱も、Sir Oleanderの灯りも、夜の秘密も、太陽の下では跡形もない。
サロンの窓から差し込む光は容赦がなく、鏡はすべてを映す。
夜の店のように、影が助けてくれることはない。
隠しごとには向かない場所だった。
にもかかわらず、駆は朝からずっと挙動がおかしい。
予約表を二度見する。
コーヒーを淹れて、そのまま冷ます。
スタイリング剤の蓋を閉め忘れる。
ハサミを持ったまま、ぼんやり立ち尽くす。
アシスタントの一人が怪訝そうに首を傾げた。
「駆さん……大丈夫ですか?」
肩が跳ねる。
「だ、大丈夫」
全然大丈夫ではない。
頭から離れないのだ。
昨夜のことが。
抱き寄せた感触。
受け止められた熱。
唇の柔らかさ。
肩に置かれた手。
それから——
——かわいいな。
言われてはいない。
だが、あの目はそう言っていた気がする。
「……無理だろ」
思わず漏れる。
「え?」
「なんでもない!」
慌ててごまかし、耳まで熱くなる。
好きな人が、自分を選んだ。
その事実だけで、正常に働けるわけがなかった。
昼を少し回ったころ、扉のベルが鳴る。
駆の心臓が跳ねた。
扉に赤城 律が立っていた。
黒のシャツに、淡い色のジャケット。
夜とは違う、昼の輪郭をまとっている。
余計なものが削ぎ落とされた、静かな美しさ。
駆の思考が止まる。
「……こんにちは」
かろうじて言う。
律は短く頷いた。
それだけなのに、昨夜の続きが一気に押し寄せる。
「予約、急で悪かったな」
低い声。
駆は慌てて首を振る。
「だ、大丈夫です! 空いてます、全然、ずっと、空いてます」
言ってから気づく。
ずっと、はおかしい。
奥でアシスタントが吹き出した。
駆は耳まで赤くなる。
律は何も言わない。
ただ、ほんの少しだけ口元が動いた。
笑ったのかどうか分からない程度に。
「……じゃあ頼む」
席へ案内し、クロスをかける。
距離が近い。
近すぎる。
首元へ手を入れ、布を整えるだけで昨夜の感触が蘇る。
(落ち着け)
(仕事だ)
(俺はプロ)
心の中で唱える。
だが、指先は正直だった。
ほんの少し、震えている。
「……手」
鏡越しに律が言う。
呼吸が止まる。
「え」
「震えてる」
淡々とした声だった。
責めてもいない。
からかってもいない。
ただ、事実を言っただけ。
それがいちばんきつい。
「……誰のせいだと」
思わず漏れる。
律の目が、鏡越しにこちらを見る。
数秒。
言葉より先に、何かを置いていく沈黙だった。
駆は耐えきれず、視線を逸らす。
(無理)
(目だけでやってくるのずるい)
カットが始まる。
ハサミを持てば、身体は覚えている。
手は自然に動く。
角度。重さ。流れ。
技術は感情に左右されない。
……はずだった。
今日は違う。
耳元に近づくたび、首筋が見える。
髪を持ち上げれば、整ったうなじが現れる。
喉元の線まで目に入る。
(殺す気か)
本気で思う。
「……何か言ったか」
「言ってないです」
会話は短い。
だが、呼吸だけが近い。
少しして、駆が意を決して耳元に寄る。
「……昨日のこと、」
声は低く抑えた。
鏡越しに、律がこちらを見る。
返事はない。
ただ、その視線だけが数秒止まる。
逸らさない。
駆の耳まで熱くなる。
「……うれしかったです」
ようやく絞り出す。
「律さんは?」
律はわずかに顎を引いた。
それだけ。
それだけで、駆の心拍数は限界を超えた。
「……終わりました」
施術が終わるころには、駆のほうが疲れ果てていた。
律が立ち上がる。
鏡を見る。
整えられた髪。
昼の光の中でも隙がない。
「……悪くねえ」
短い評価。
駆は嬉しいのに、嬉しがる余裕がない。
会計を済ませる。
律はトレーの上に代金を置く。
指先が離れる直前、何か小さな紙片も残された。
そのまま何も言わず、扉へ向かう。
「ありがとうございました……」
声が上ずる。
扉のベルが鳴る。
駆は慌てて紙を取った。
小さく折られている。
開く。
そこには、短く一行だけ。
『仕事がんばれ』
ドクンと胸が鳴る。心臓をつかんで離さない人の、初めての手書きのメッセージ。
もう律はいない。
俺の日常、仕事、そこに介入して、応援することば。
昨日のキスももちろん嬉しかった。
だけどこのことば。
彼の方から駆に立ち入ってくれたような。
ただの応援メッセージなのに、
たった一行なのに、胸の奥まで届く。
心が波立つ。
彼という渦の中、息ができない。
少し悔しいことにこのメッセージには
まだ彼から、余裕のようなものも感じる。
俺はこんなにもみくちゃになっているのに。
駆は数秒立ち尽くし、それからゆっくりしゃがみ込んだ。
紙を握ったまま、顔を覆う。
「……無理……」
小さく漏れる。
「まだ必死なの、俺だけじゃん……」
奥からアシスタントの声が飛ぶ。
「駆さん、大丈夫ですかー?」
「大丈夫じゃない」
即答だった。
アシスタントが笑う。
けれど、駆は笑えない。
胸の奥がいっぱいで、苦しくて、嬉しくて、どうしようもなかった。
そして、握った紙をもう一度見る。
仕事がんばれ
たったそれだけで。
今日の自分は、無敵だった。
Chapter 18 金の子ライオン
その夜、サーオレアンダーに珍しくざわめきが走った。
扉が開き、背の高い男が入ってくる。
上質なコート。
無駄のない所作。
場の空気を自然に支配する存在感。
野田 征一だった。
「……久しぶりだな、律」
カウンターの奥で、律がちらりと見る。
「……忙しいんじゃなかったのか」
「少し片づいた」
そう言って席につく。
それだけで店の空気が変わる。
常連たちも、誰かは察している。
(……あれがオーナーか)
(やばいな)
征一は店内を見渡し、すぐに気づいた。
「……雰囲気が変わったな」
低く言う。
隣で飲んでいた穂高が笑う。
「どういうことだ。」
穂高に凄む。
「俺に聞くなよ」
「吐け」
「・・・金色の子ライオンが居ついちゃって」
征一の眉がわずかに上がる。
「ほう」
「子ライオンと思ったら牙が生えてて、背も高くて、いい男だったんだよ」
「ほほう」
面白そうに頷く。
「食われたのか? 律が。金のライオンに?」
穂高が吹き出す。
「……まあ、たぶん食われたんだけど」
征一が静かに笑う。
「お前はそれを指を咥えて見ていたのか」
「まあ見てみなよ」
グラスを傾ける。
「和むぜ」
その時、扉が開く。
明るい声が響く。
「律さん!」
駆だった。
今夜はラフなジャケット姿。顔が小さく、脚が長く、歩くだけで視線を奪う。
何気ない服装なのに、雑誌の一ページみたいに決まっている。
金を落ち着かせた髪が光を拾い、整っているのに少し無造作。
計算された隙。
芸能人のような華やかさ。
けれど、律を見る瞬間だけ、全部ほどける。
「こんばんは!」
大型犬みたいにまっすぐ寄っていく。
征一が一瞬黙る。
「……これは」
それから小さく呟く。
「予想の斜め上だな」
穂高が肩を震わせる。
「だろ?」
駆は途中で征一に気づく。
知らない男。
しかも、律との距離が近い。
一瞬で空気が変わる。背筋が伸びる。目が細くなる。
(……誰だ)
さっきまでの大型犬が、急に獣になる。
ガルルルル、とでも言いそうな警戒心。
穂高が吹き出す。
「おい、子ライオン」
駆が睨む。
征一から目をそらさずに穂高に問う。
「誰ですか」
征一は笑う。
「初めまして。ここの持ち主だ」
その一言で、駆の顔色が変わる。
持ち主。
しかも律が何も否定しない。
(……やばい)
本能で察する。この人には、礼を尽くさないといけない。
駆は姿勢を正す。
「……よろしくお願いします。巻原駆です」
深く頭を下げる。
穂高が横で腹を抱えている。
「さっきまで唸ってたくせに」
「うるさい」
征一は面白そうに駆を見る。
「君、…華があるな」
「……は?」
「モデルでも俳優でも通る。世間が放っておかない顔だ」
駆が困る。
「いや、そういうの器用じゃないんで。美容師だけで十分です」
「そういえば律の予約をしたサロンのヘアデザイナーだったか。うちで働かないか?」
さらっと言う。
「広告でも広報でも使い道はいくらでもある」
「え?」
「雑誌対談、動画出演、ブランドの顔——美容師としてでもいい」
そこで、低い声が落ちる。
「……さわるな」
全員が止まる。律だった。グラスを置く音だけが静かに響く。
征一が目を細める。
「ほう?」
律は駆を見ない。
ただ淡々と続ける。
「……俺のだ」
沈黙。
次の瞬間、店内の男たちが一斉に息を呑む。
「……!?」
「今なんて?」
「やば……」
穂高はカウンターに突っ伏した。
「言った……ついに言いやがった……」
駆は固まっている。顔が一気に赤くなる。
「……え」
理解が追いつかない。
「……え?」
二回言う。
律はようやく駆を見る。ほんの少し、視線が柔らかい。
「……座れ」
短く言う。駆は無言で座る。完全に骨抜きだった。
征一はグラスを受け取りながら笑う。
「なるほど」
一口飲む。
「これは確かに、和む」
穂高が肩を震わせる。
「だろ?」
サーオレアンダーの夜は続く。
ただ今夜から、誰の目にも明らかだった。
金の子ライオンは、まだ無邪気な顔で牙を隠している。
そして律もまた、誰にも明かさなかった独占欲を、その夜だけは隠せなかった。
Chapter 19 古い友人の見立て
夜も更け、客足がゆるやかになった頃、サーオレアンダーには落ち着いた熱だけが残っていた。
駆は少し前に帰っている。
帰り際、扉の前で一度振り返り、何か言いたそうにして、結局何も言えずに頭を下げて出ていった。顔はまだ赤かった。
その背中を見送りながら、穂高は肩を震わせていた。
「……だめだ、思い出すだけで笑える」
「うるせえ」
赤城 律が低く返す。
「“俺のだ”はねえだろ」
「黙れ」
「言った本人が一番食らってんじゃねえか」
そのやり取りを聞きながら、野田 征一は静かに酒を飲んでいた。
目だけが、ずっと律を見ている。
やがて穂高たちが潮時を見て立ち上がる。
扉が閉まり、店内に静けさが戻る。
残ったのは、古い友人二人だけだった。
征一はグラスを回しながら言う。
「珍しいものを見た」
律は洗い物を始める。
「何の話だ」
「所有欲だ」
即答だった。律の手が、ほんのわずかに止まる。
「……知らねえな」
「知らない顔ではない」
征一は淡く笑う。
「お前は昔から、自分のものを“守る”ことはあっても、“欲しがる”ことはなかった」
水音だけが数秒流れる。律は背を向けたまま言う。
「……大げさだ」
「そうか?」
「言葉のあやだ」
「ほう」
征一は楽しそうに頷く。
「では、あの青年を誰かが連れて行っても構わないと?」
今度は、はっきり止まった。グラスを持つ手が、動かない。沈黙が答えだった。
「……あいつは、そういうのに向いてねえ」
ようやく出た言葉は、少しずれていた。
征一は目を細める。
「質問の答えになっていない」
「うるせえな」
「お前も分かっているだろう」
静かな声だった。責めるでもなく、試すでもなく、ただ事実を置く声。
「彼は華がある。人が寄る。見つかれば引っ張られる。
あの手の男は、本人が望まなくても世界が放っておかない」
律は小さく舌打ちした。それが妙に子どもっぽくて、征一は笑う。
「なるほど」
「何がだ」
「心配している」
「・・・」
「嫉妬もしている」
「殺すぞ」
「本気だ」
しばらく、二人とも黙る。付き合いの長い沈黙だった。
重くもなく、軽くもない。
征一は酒を飲み干し、静かに置く。
「いい男だ」
律は答えない。
「若い。まっすぐだ。少し無鉄砲だが、芯がある。お前に本気だ」
「……知ってる」
小さな声だった。征一はそれを聞き逃さない。
「なら、何を迷う」
律はようやく振り返る。
その顔はいつも通り無愛想で、整っていて、読みづらい。
だが、目だけが少し違った。
「……ああいうのは、すぐ熱くなる」
「そうかもしれない」
「すぐ冷めるかもしれねえ」
「そうかもしれない」
「俺はそういうの、面倒なんだよ」
征一は静かに笑った。
「お前は昔から、“面倒”と言う時ほど本気だ」
律が眉を寄せる。
「うるせえ」
征一は立ち上がる。
コートを整え、会計代わりに札を置く。
「一つだけ助言しよう」
「いらねえ」
「もう遅い」
そして、ごく自然に言った。
「彼は待てる男だ。だが、待たせすぎると遠くへ行く」
律の目がわずかに細くなる。
「脅しか」
「忠告だ」
征一は扉へ向かう。
そこで足を止め、振り返る。
「それと」
「なんだ」
「“俺のだ”は実に良かった」
数秒の沈黙。
次の瞬間、律の手元から布巾が飛んだ。
征一は笑いながら扉を開ける。
「また来るよ」
「二度と来るな」
閉まる扉。
静けさが戻る。
一人になった店内で、律は深く息を吐いた。
カウンターに肘をつき、しばらく動かない。
(……待たせすぎると遠くへ行く)
言われなくても分かっている。
あの金の髪も、まっすぐな目も、嬉しそうに笑う顔も、誰かが欲しがる。
世界が放っておかない。
「……面倒だな」
ぽつりと呟く。だが、その声は以前よりずっと柔らかかった。
少しして、ポケットに手を入れる。
指先に触れた小さなキャラメルの包みを取り出す。
あいつが来たら渡すつもりだった。
なのに、結局渡せなかった。
「……ガキが」
小さく笑って、包みを開ける。
甘いと思ったそれは、思ったほど甘くなく、ほろ苦さに眉をしかめる。
夜は静かに更けていった。
Chapter 20 自然発生する名物
その夜のサーオレアンダーは、いつもより少しだけ柔らかかった。
理由は誰も口にしない。
だが常連たちは気づいている。
律の表情が、
以前よりわずかに動くようになったこと。
返事が一言増えたこと。
客同士の会話を、前より少しだけ聞いていること。
そして——たまに、機嫌がいい。
もちろん本人は認めない。
「マスター、金色のカクテル作れないか」
カウンターの端の常連が、ふと思いついたように言った。
「フィズ使ってさ。大人向けのやつ」
律がグラスを拭く手を止める。
「……急だな」
「いいじゃん。今の店の空気っぽいの」
誰かが笑う。
別の客が肩をすくめる。
「ほら、最近明るいし」
「誰のせいだろうな」
その言葉に、数人がにやつく。
律は無視した。
だが、少し考える顔をした。
その顔に、客たちはもう楽しい。
「……待ってろ」
短く言って、棚へ向かう。
バーボンを少し。
レモン。
蜂蜜。
何かを一滴。
ソーダで満たし、軽くステアする。
琥珀と金の間のような色が、泡の向こうで揺れた。
「……」
無言で差し出されたグラスを、最初に言い出した男が受け取る。
一口。
目を見開く。
「……うま」
周囲がざわつく。
「どれ」
「回せ」
グラスが順番に渡る。
「若い味するのに、ちゃんと夜だな」
「後から来るのウイスキーか」
「これ好きだわ」
感想が飛ぶ。
律は腕を組んだまま、無言で聞いている。
だが視線だけが、感想を言った男の口元に向いていた。
次を待っている。
そのわずかな気配に、穂高が吹き出す。
「お前、感想待ってんじゃねえよ」
「待ってねえ」
「今めちゃくちゃ待ってた」
「グラス、それじゃないな」
別の客が言う。
「もっとキラキラしたやつあるだろ」
律が眉を寄せる。
「……キラキラ?」
「あるだろ、ロックグラスのカットが細かく入ってる…」
「ああ、あれか」
意外なほど素直に棚から出す。
透明なカットグラスに注ぎ直すと、金の液体が光を拾って一気に映えた。
「おお……」
「それだ」
「完璧」
店内が少し沸く。
律は無言でグラスを持ち上げ、光に透かして見る。
泡の上がり方まで確認している。
その横顔が妙に真剣で、客たちはまた楽しくなる。
(……かわいいな)
誰も口には出さないが、全員思っていた。
さらに何度か試作が続く。
「どうだ」
短く聞く。
「さっきの方が好き」
「甘い」
「こっちは夜っぽい」
感想を聞くたび、律は少しだけ考える顔になる。
無口な男が、客の言葉をちゃんと拾っている。
それが、この店の古参たちにはたまらなかった。
(……変わったな)
(いい方に)
(あの金の坊やが来てからだ)
穂高が新しい一杯を受け取り、飲む。
「……これだな」
「何が」
「今の店の味」
律は怪訝そうに見る。
「意味わかんねえ」
「少し明るくて、でもちゃんと深い」
「うるせえ」
「照れんなよ」
その時、誰かがぽつりと言った。
「Golden Fang Fizzって感じだな」
数秒、沈黙。
「……ああ」
「それだ」
「金の牙」
「子ライオンのやつだろ」
一気に広がる。
穂高が腹を抱える。
「だっせえのに、妙にいいな」
「自然発生感ある」
「今日からそれで」
律が顔をしかめる。
「勝手に決めんな」
だが否定しきれていない。
数日後には、もう定着していた。
「律、ファングひとつ」
「俺も」
「今日はフィズ気分だ」
律は文句を言いながら作る。
気まぐれだから、毎回少し味が違う。
だが色だけは決まっていた。
金色。
泡立つ光。
光を噛むバカラのロックグラス。
そしてある夜。何も知らない駆が現れる。
「こんばんは!」
いつもの明るい声。その瞬間、数人がにやつく。
「……来た」
「本体だ」
「知らねえんだよな、まだ」
穂高が肩を震わせる。
律は何も言わず、いつもの席へグラスを置く。
Golden Fang Fizz。
駆が目を丸くする。
「……俺、これ初めてです」
「そうか」
「飲んでいいんですか」
「出しただろ」
一口飲む。数秒止まる。
「……あれ」
全員が息を呑む。
「……ちょっと俺、これ苦手かもです」
店内が爆発した。
穂高はカウンターを叩いている。
「本人、口に合わねえのかよ!」
駆は慌てる。
「え、なんで笑ってるんですか!?」
律は黙ってグラスを引き寄せ、代わりにいつもの軽めのフィズを置いた。
「……こっち飲め」
「え、あ、はい」
素直に飲む。
「……うまい!」
満面の笑み。
その瞬間、また笑いが起こる。
穂高が涙を拭きながら呟く。
「やっぱ大型犬じゃねえか」
律が睨む。駆は意味が分からず首を傾げる。
誰もが思っていた。
この店は今、少しだけ前より暖かい。
Chapter 21 雨の日のSir Oleander
その夜、雨が降っていた。
静かな雨だった。
街の輪郭をぼかし、足音を吸い込み、ネオンさえ少し優しく見せるような雨。
サーオレアンダーの扉も、いつもより開く回数が少ない。
こういう夜は、客足がゆるやかになる。
それでも来る者は来る。
むしろ、こういう夜ほどここを選ぶ男たちがいる。
濡れたコートを脱ぎ、低い灯りの下で酒を飲む。
グラスの向こうに律を見る。
それだけで十分な夜もある。
「……静かだな」
「雨だからな」
客の話し声が静かに落ちる。
カウンターの奥で、赤城 律はいつも通りだった。
グラスを磨き、酒を量り、短く応じる。
だが、ほんのわずかに入口を見る回数が多い。
穂高が気づき、笑う。
「来ねえかもな、今日は」
「何の話だ」
「金の子ライオン」
律は無視した。
だが、手元の動きが少しだけ雑になる。
常連の声。
「分かりやすい」
「うるせえ」
その時、扉が開いた。風と一緒に雨の匂いが入ってくる。
そして、
「……こんばんは……」
駆だった。びしょ濡れで。
髪はぺたんと額に張り付き、ジャケットは肩まで濡れている。
長い脚から滴が落ち、いつもの華やかさは半分消えている。
その代わり、妙に若い。
雨にやられた大型犬そのものだった。
数秒の沈黙。それから、店内の男たちが一斉に息を吐く。
(来た)
(ほんとに来るんだ)
(かわいそうでかわいい)
穂高が肩を震わせる。
「おいおい……」
駆は少し気まずそうに笑う。
「傘、途中で壊れて……」
律は何も言わない。カウンターの下からタオルを出す。
そのまま無言で、駆の顔面に投げた。
「ぶっ」
「拭け」
短い一言。
店内に笑いが広がる。
駆はタオルを受け止め、顔を埋める。
「……ありがとうございます」
声がくぐもる。嬉しそうだった。
「風邪ひくぞ」
律が言う。
「平気です」
「ひく」
「じゃあ、ひいたら看病してください」
間髪入れず返ってくる。穂高が吹き出す。
「強えな雨の日」
律は無言で別のタオルを出し、今度は肩に掛けた。
少し乱暴に見えて、手つきは丁寧だった。
駆が固まる。
「……え」
「うるせえ。座れ」
素直に座る。大型犬が叱られて座るみたいに。
店内がまた和む。
「温かいの飲むか」
律が言う。駆の目が丸くなる。
「……あります?」
「作ればある」
そう言って、棚からワインを取る。
蜂蜜。
レモン。
シナモン
少しだけスパイス。
湯気の立つグラスが置かれる。
「……うわ」
駆が嬉しそうに覗き込む。
「グリューワインだ」
一口。
目がとろける。
「うま。」
駆は両手でグラスを包みながら、律を見上げる。
「……来てよかった」
その言葉に、店内が静かになる。飾らない本音だった。律は少しだけ目を細める。
「雨だぞ」
「だからです」
駆が笑う。
「こういう日、会いたくなるじゃないですか」
「若いな」
誰かが呟く。だが誰も嫌な顔はしない。
むしろ、聞きたかった言葉みたいに静かに受け止める。
律は何も言わない。
代わりに、駆の濡れた前髪を指先で払った。
自然に。いつかのように、あまりに自然に。
駆の思考が止まる。
店内も止まる。
「……視界、邪魔だ」
ぶっきらぼうに言う。駆は真っ赤になった。
「……あ、はい」
語彙が消えている。穂高がカウンターに突っ伏す。
「やめろ、死人が出る」
雨音が続く。
グラスの氷が鳴る。
誰かが笑い、誰かが酒を飲む。
その中心で、駆は湯気の立つグラスを抱えていた。
頬を赤くして。律はいつも通り無愛想で、いつもより少しだけ優しい。
常連たちは思う。この店は前から楽園だった。
だが今は、ちゃんと季節がある。雨の日も、悪くない。
帰り際。
雨は少し弱くなっていた。駆が立ち上がる。
「じゃあ、帰ります」
「送る」
律が言った。一瞬、全員が固まる。
「……は?」
穂高が言う。
「……なんでお前が驚く」
律が睨む。コートを羽織る。
「閉める。今日はもう終わりだ」
店内がざわつく。
「まだ十時だぞ」
「知らねえ」
「俺らは?」
「てめえらは勝手に帰れ」
穂高が笑い崩れる。
「横暴すぎるだろ!」
扉が開く。律が先に出る。少しして、駆が慌てて追いかける。
「待ってください!」
雨の中へ、二人の背中が消える。
残された男たちは、しばらく静かだった。
誰も同じものを見送った顔をしていた。
それから誰かが言う。
「……送る、だってよ」
穂高がグラスを掲げる。
「歴史的瞬間に乾杯」
Chapter 22 一夜未満
雨は、店を出る頃にはほとんど上がっていた。
濡れた路面が街灯を映して、夜の街はいつもより静かに見える。Sir Oleanderの扉を出たあとも、駆は少し現実感がなかった。
律が送ると言った。
それだけのことなのに、胸の奥がずっと騒がしい。
傘は一本だった。
「……入れ」
短く言われ、駆は素直に肩を寄せる。近い。近すぎる。
肩が触れそうで触れない距離にいるだけで、心臓がうるさかった。
「……お前、歩幅でけえな」
「え?」
「合わせろ。こっちが濡れる」
「す、すみません」
「謝るな」
低い声。だがどこか柔らかい。
駆は嬉しくなって、こっそり口元が緩む。すぐ見つかる。
「……気持ち悪ぃ顔してんな」
「してません!」
「してる」
そのやり取りさえ幸せだった。
マンションの前に着く。
駅近の築浅マンション。高すぎず、だが若い成功者らしい綺麗な外観。
エントランスの灯りが雨粒を白く浮かせている。
「……ここです」
律が見上げる。
「ふうん」
それだけ言って、帰る気配を見せない。
駆の喉が鳴った。
「あ、あの」
「なんだ」
「……その、コーヒーでも」
言ってから、心臓が止まりそうになる。
断られるかもしれない。笑われるかもしれない。
律は数秒黙って駆を見た。
「……紅茶があれば、そっちがいい」
駆は固まった。
「え?」
「なんだ」
「……初めて知った」
「何を」
「律さん、紅茶派なんだ……」
「別に派閥の話してねえだろ」
その瞬間、駆は今日という日が記念日になったと思った。
部屋の扉を開ける。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「もう開いてんだろ」
「心の準備が!」
「うるせえな」
玄関には靴が数足、少し散らかっていた。
ブーツ、スニーカー、革靴。入りきらなかったものが脇へ寄せてある。
律が一瞥する。
「……靴、しまえ」
「すみません」
「なんで謝る」
「なんか……怒られたくて」
「気持ち悪ぃな」
部屋は広すぎない1LDKだった。
律は黙って見回す。
観葉植物、間接照明、整えられたソファ。
見せつけるでもなく、ちゃんと暮らしている部屋だった。
律は黙って見回す。
「……思ったより、ちゃんとしてる」
駆が勢いよく振り向く。
「ほんとですか!?」
「うるせえ」
嬉しさが隠しきれていない。
キッチンにはコーヒー器具とプロテインが並び、自炊の痕跡は薄い。
洗面所はやたら綺麗で、整髪用品が几帳面に並んでいた。
「そこだけ職業病です」
「そこだけ、な」
「紅茶いれます!」
駆がキッチンへ向かう。
手が震えていた。ケトルを持つ手元が危うい。
「……お前」
「はい!?」
「落ち着け」
「無理です!」
律が小さく息を吐く。笑ったようにも見えた。
待つ間、律は棚へ目をやった。
恐竜のフィギュアがいくつか並んでいる。
ティラノサウルス、トリケラトプス、あと何か羽の生えたやつ。
「……なんだこれ」
キッチンから駆の声が飛ぶ。
「ティラノです!」
「見りゃ分かる」
「好きなんです」
「……そうか」
その返事がやけに優しかった。
さらに棚の下には漫画が数冊積まれている。スポーツ漫画、バトル漫画、少し擦れた背表紙。
律は一本抜いて、ぱらりとめくる。
「それ、泣けます」
「聞いてねえ」
紅茶を持って戻る。
駆は向かいに座るつもりだった。だが気づけば、律の隣に座っていた。
座ってから固まる。
「近い」
「……すみません」
そう言いながら、離れない。
律はカップを口に運ぶ。
「……うまい」
駆の肩が跳ねる。
「よかった」
嬉しそうに笑う。
静かな夜だった。
「……今日、送ってくれて嬉しかったです」
律はカップを置く。
「そうか」
「あと、家に来てくれて……もっと嬉しいです」
少し沈黙が落ちる。
店ではない。誰の視線もない。酒もない。音楽もない。
ただ、駆の部屋で二人きり。
その沈黙に耐えきれなくなったのは、駆の方だった。
そっと、隣の手に触れる。
律の手は逃げなかった。
駆は恐る恐る、そのまま指を絡めるように握る。
「……おい」
「すみません」
「謝るならやるな」
「やめろって言ってない」
律が横目で睨む。駆は心臓が壊れそうだった。
「……今日、このまま——」
言いかけた瞬間。
ぴし、と額に痛みが走る。
「いてっ!」
おでこを押さえてうずくまる。
律が呆れた顔で言う。
「調子に乗るな」
「だって!」
駆が顔を上げる。
「好きな人が、俺の部屋に、いるんですよ!?」
そのまま口を押さえて、ぷるぷる震える。
「……無理……」
「何がだ」
「理性が……」
「知らねえよ」
駆はぶつぶつ言い始めた。
「ここで帰したら男の恥っていうか……」
「何の話だ」
「いやだって普通……」
「普通を俺に当てはめんな。心の準備が!って言ってたじゃねえか」
「じゅんび、もうできました!」
律は一拍置いた。
それから、冷静に言う。
「今日は帰る」
駆が絶望した顔になる。
「……送ります」
「おい」
「送ります!」
「ここお前ん家だろうが」
駆は膝から崩れ落ちた。
しばらくして、のろのろと立ち上がる。
駆はまだ諦めきれない顔で立っていた。
玄関で靴を履く律の背中に、視線だけが追いすがる。
扉が開く。
「まき」
「……はい」
「濡れたんだから、早く風呂入って寝ろ」
低い声だった。
だが、優しかった。
駆は数秒止まり、納得したように何度かうなずいた。
「……はい」
「返事だけはいいな」
「好きです」
「うるせえ」
扉が閉まる。
駆はその場でしゃがみ込み、額を押さえた。おでこが痛い。
「無理・・・好き」
それからソファへ倒れ込み、クッションに顔を埋める。
誰もいない部屋で、ひとり悶えていた。
Chapter 23 知らない名前
昨夜のことを、朝になってから何度も思い出していた。
鏡越しに客の髪を整えながら、駆は小さく息を吐く。
指先はいつも通り動いているのに、頭の中だけが落ち着かない。
熱の残る唇。近すぎた距離。声。触れた腕のぬくもり。
(……俺、昨日ちょっと馬鹿っぽかったな)
送ってもらったくせに、据え膳食わぬは男の恥だの、送りますだの。
何を言いたかったのか、自分でもよく分からない。
(いや、分かってる)
帰したくなかった。
少しでも長く一緒にいたかった。
ただ、それだけだ。
「巻原くん、今日なんか機嫌いい?」
隣のアシスタントが笑いながら言う。駆ははっとして顔を上げた。
「え、そうですか?」
「そう。なんか、ぼーっとしてるのに口元ゆるい」
「……気のせいです」
即答しながら、耳が熱い。
図星だった。
そのまま次の客を案内し、クロスを掛け、いつものように鋏を手に取る。だが手を動かしながら、別のことを考えてしまう。
(そういえば)
あの人って、昼、何してるんだろう。
夜の姿は知っている。
Sir Oleanderのカウンターに立ち、無駄のない手つきで酒を作る姿。
煙草を持つ指。視線。低い声。時々だけ見せる、柔らかな表情。
サロンでの姿も知っている。
椅子に座って目を閉じる横顔。少しだけ緩んだ口元。思ったより素直に任せてくるところ。
でも、それだけだ。
休みの日、何時に起きるのか。
朝、何を食べるのか。
どんな部屋に住んでいるのか。
ひとりで過ごす時間、どんなことして過ごすのか。
何も知らない。
(俺……)
好きなくせに。
欲しいと思ってるくせに。
あの人の夜しか知らない。
鋏を動かす手が、ほんの少し止まりかける。
「駆さん?」
「あ、すみません」
慌てて笑ってごまかし、また手を動かす。
夜の律は、完成されすぎている。
隙がなくて、綺麗で、近づけば熱を持っているくせに、どこか遠い。
でも、人間は夜だけでできているわけじゃない。
あの人にも、朝が来て、昼があって、生活がある。
当たり前のことなのに、急にそれが知りたくなった。
(知ったら、もっと好きになるんだろうな)
そう思ってしまって、少しだけ怖い。
仕事を終えた帰り道、空はまだ明るかった。
夜の街になる前の、曖昧な色の時間。駆は駅へ向かう途中で、ふと足を止めた。
路地の先。古い住宅街の角。
小柄な男が、脚立に乗っていた。
清掃会社のような地味なユニフォーム。腕まくりした袖。三角巾。顔の大半を隠す大きなマスク。器用な手つきで、軒先の電球を取り替えている。
下では、腰の曲がった老婦人が何度も頭を下げていた。
「助かるよ、本当に」
男は何も言わず、脚立を降りる。
その動作が、妙に静かで、無駄がない。
見覚えがあった。
(……え)
胸の奥がざわつく。
次の瞬間、玄関から小さな子どもが飛び出してきた。
「アレキさーん! こっちも見てー!」
男がわずかに振り向く。
前髪の落ちる角度。
目だけで返事をする癖。
短く息を吐くような仕草。
世界が、ほんの少し傾いた気がした。
駆は道の真ん中で立ち尽くす。
知らない服。
知らない時間。
知らない名前。
それなのに、どうしようもなく、あの人だった。
夕暮れの風が吹く。
男は子どもの指す先へ歩いていく。振り向きもしないまま。
駆の胸だけが、やけに騒がしかった。
――夜ごと心を攫うあの人は、昼の街で別の名で呼ばれていた。
Sir Oleander終わり
続く
第二部 Alexandrite
Chapter 1 風鈴と飴玉
朝は、音から始まる。
古い蛇口をひねる金属音。
流れ出した水が、深い流しに落ちる音。
雑巾を絞る、布の軋み。
窓を開ければ、冷えた空気が細く入り込み、静かな家の隅々まで満ちていく。
その借家は古かった。
柱はわずかに歪み、引き戸は少し重い。冬は隙間風が入り、夏は陽が容赦なく差し込む。台所は狭く、浴室も古い。
だが、どこにも埃がない。
床は磨かれ、窓枠は白く、流しは光を返す。
古びているのではなく、丁寧に生かされている家だった。
その中心に、赤城 律がいる。
白いTシャツに黒いスウェット。素足。濡れた前髪を無造作に流し、無言で床を拭いていた。
雑巾が板間を滑るたび、木目が艶を帯びる。
狭い空間だった。
だが、彼の手はすべてに届く。
棚の角。窓の桟。冷蔵庫の脇。少し曲がったものは真っ直ぐになり、曇ったものは光を取り戻す。
終えると、洗面所で手を洗う。
その動きにも無駄がない。
鏡の中の自分を一瞬だけ見て、すぐに視線を外した。
朝食は簡素だった。
薄く焼いたトースト。ゆで卵。
そして、濃い紅茶。
湯気の立つカップを片手で持ち、静かに口をつける。
飲む姿まで整っている。
食べ終えた皿をすぐ洗い、布巾で拭き、元の場所へ戻す。
小さい庭と縁側で、草むしりを終え、小石をどかせて整え、
大きく呼吸する。
2杯目の紅茶があればなおよい。
そのとき、テーブルの端に置いた携帯が震えた。
画面に浮かぶ名前を見ても、表情は変わらない。
《野田 征一》
《日が沈む前に一件頼みたい。以前話した老夫婦の家だ。玄関灯が切れたらしい》
短い文面だった。
赤城 律は紅茶を一口飲み、返信する。
《分かった》
すぐ次の通知が来る。
《報酬は前回より上乗せする》
《いらねえ》
数秒後。
《受け取れ》
《少しでいい》
《少しとは?》
《常識の範囲だ》
しばらく既読がついたまま止まり、やがて返ってきた。
《君の常識は信用していない》
律は鼻で笑った。
それ以上は返さず、携帯を伏せる。
午後になり、時間が近づくと
部屋の隅の収納ケースを開ける。
中には昼の道具が整然と並んでいた。
工具。替えの電球。養生テープ。
手袋。簡易清掃用品。
折りたたみ脚立の部材。
そして、地味なグレーの作業着。
袖を通し、頭に三角巾を巻く。
最後に大きめのマスクをつけると、鏡の中の男は別人になった。
夜の気配は消える。
どこにでもいそうな、少し無口な作業員だった。
「……行くか」
玄関を開ける。
夕暮れ時、人の気配が濃くなる。
重なる足音と、どこからともなく響く物音の中を、身を隠すようにして仕事へ向かった。老夫婦の家は、住宅街の奥にあった。
人通りの少ない路地。古い門扉。
季節の花がきちんと手入れされた小さな庭。
チャイムを鳴らす前に、玄関が開く。
「まあ、お待ちしてましたよ」
腰の曲がった婦人が、嬉しそうに笑った。
「……灯り、どこだ」
「こっちこっち。いつも悪いねえ」
“いつも”。
その言葉に、律は何も返さない。
脚立を立て、玄関灯を外し、新しい球に替える。
作業は静かで、正確で、あっという間だった。
「終わった」
「まあ、もう?」
「点けてみろ」
ぱっと灯りがつく。
婦人が何度も頭を下げる。
「助かったよ。本当に」
奥から老人が顔を出す。
「アレキさん、茶くらい飲んでいきなさい」
「いらねえ」
即答だった。
だが帰ろうとした足元へ、小さな影が飛びつく。
老夫婦の孫らしい子どもだった。
「アレキさーん!」
「……なんだ」
「これ届かない!」
差し出されたのは、玄関横の風鈴だった。紐が絡まり、子どもの手ではほどけない。
律はしゃがみ込み、無言で直す。
ついでにポケットから飴玉をひとつ出し、子どもの手に乗せた。
「なくすな」
「やったー!」
「騒ぐな」
迷惑そうな声だった。
けれど子どもは気にしない。
「あっくん、また来てね!」
律の眉間に皺が寄る。
「……誰だそれは」
老夫婦が声を上げて笑う。
「ほら、アレキさん長いんだよ、この子には」
「勝手につけるな」
「でも来るでしょ、また」
子どもが飴を握ったまま笑う。
律は答えない。
代わりに、子どもの頭をぽんと一度だけ叩いた。
それから工具箱を持ち、来たときと同じように音もなく出ていく。
門が閉まるころには、もう背中も見えなかった。
ある日の午後。
巻原駆は、住宅街の路地に立っていた。
あの夕暮れ時から胸に引っかかったままの名前。
アレキ。
偶然見かけた、あの姿。
どうしても確かめたくなって、仕事帰りにここまで来てしまった。
(……何やってんだ俺)
自分でも少し呆れる。
それでも足は止まらなかった。
門先の花に水をやっていた婦人が、駆に気づく。
「あら、どうしました」
「あの……すみません。ここに、たまに来る人……」
婦人の目が、わずかに細くなる。
「来る人?」
「えっと、アレキさん、って」
一瞬の沈黙。
それから婦人は、やわらかく笑った。
「さあ。そういう人もいるかもしれないねえ」
「いや、この間……」
「若い人」
婦人はじょうろを置き、駆を見る。
「知らないほうがいいこともあるよ」
叱るような声ではなかった。
けれど、それ以上踏み込ませない静かな線があった。
駆は言葉を失う。
「でも」
婦人は少しだけ笑う。
また花に水をやり始める。
話は終わりだった。
帰り道、駆はひとりで歩く。
知らない顔。
知らない時間。
知らない名前。
サロンで会う姿も、バーで会う姿も、本物なのに、どちらでも足りない。
(なんなんだよ、あの人)
子どもに飴なんかやる人だったのかよ
知れば知るほど遠くなる。
なのに、知りたくなる。
夕方の風が吹く。
駆はポケットに手を入れ、空を見上げた。
夜になれば、あの人はまた何事もなかったようにグラスを磨くのだろう。
昼の名も、子どもに渡した飴玉も、誰にも見せないまま。
Chapter 2 知らないふりの夜
夜のSir Oleanderは、いつも通り静かだった。
扉を開ければ、低く流れる音楽。磨かれたグラス。抑えられた照明。
外の街とは切り離されたような、少しだけ温度の低い空間。
その中心で、律がグラスを拭いている。
昼に見た作業着姿など、どこにもない。
黒いシャツ。整えられた前髪。袖口からのぞく手首。
指先ひとつで空気を支配してしまうような、夜の男だった。
(……同じ人、なんだよな)
駆は入口で一瞬だけ立ち尽くし、それから何でもない顔で歩いた。
「……来たか」
低い声が落ちる。
いつも通り。
何も知らないような声。
「はい」
駆も、何も知らないように答えた。
席につく。
視線を上げる。
律はすでに別の客のグラスに酒を注いでいた。
その横顔に、昼の気配はない。
子どもに飴を渡していた手。
老婦人の脚立を支えていた腕。
“あっくん”と呼ばれて眉を寄せていた顔。
何ひとつ、ここにはなかった。
「何にする」
「……おすすめで」
「相変わらず他人任せだな」
小さく鼻で笑われる。
いつもならそれだけで胸が熱くなるのに、今日は別の意味で苦しい。
(知ってる)
その口が、昼には余計なことを言わないことも。
その手が、人を助けるためにも動くことも。
「……どうした」
「え?」
「顔」
律がちらりとこちらを見る。
「ぼーっとしてる」
「珍しいな、まきちゃんが上の空」
「そういう日もあるだろ」
律が淡々と返す。
その声が少しだけ駆を庇ったように聞こえて、余計に困る。
胸の奥が、また騒がしくなる。
やがて差し出されたのは、いつものフィズだった。
透明な泡。白桃の香り。
強くない酒。自分に合わせた一杯。
「ありがとうございます」
受け取る瞬間、指先が少し触れる。
それだけで思い出す。
飴玉を小さな手に乗せていた指。
工具を持っていた指。
朝の紅茶のカップを持っていたかもしれない指。
(だめだ)
何を見ても昼につながる。
一口飲む。
「うまいです」
「ああ」
短い返事。
そのやり取りを見ていた男が、グラスを傾けながら言う。
「いいなあ、まきくん特別の出してもらえて」
「……違いますよ」
「違わねえだろ」
笑い混じりの声に、駆は少しだけむっとする。
「子ども扱いされてるだけです」
その瞬間、カウンターの向こうで律の手が止まった。
「こんなでかい子どもがいるか」
常連たちが吹き出す。
空気が柔らぐ。
いつもの店だ。
なのに駆だけが、落ち着かない。
(俺だけ知ってる)
この男が、昼には別の名で呼ばれていることを。
頼られていることを。
誰にも言わず、音もなく人を助けていることを。
その秘密が、嬉しい。
同時に、苦しい。
もっと知りたい。
どこに住んでいるのか。
何時に起きるのか。
紅茶はいつもストレートなのか。
子どもに配る飴はどこで買っているのか。
(……やばいな)
好きの種類が、変わってきている。
「かけるくん」
不意に隣の客に呼ばれて顔を上げる。
律が小皿を置いていた。
チョコレート。
「食うか」
「……」
「嫌なら下げる」
「食べます」
すぐに手を伸ばすと、近くの常連が笑う。
「ほんと分かりやすいな」
「うるさいです」
一粒口に入れる。
甘さが広がる。
そのとき、律がぼそりと呟いた。
「飴のほうがよかったか」
駆の指先が止まった。
心臓だけが遅れて跳ねる。
「……え?」
「なんでもねえ」
すでに別のグラスへ手を伸ばしている。
昼のことなど知らない顔で。
だが駆の心臓は、うるさいほど鳴っていた。
(気づいてる)
あの人、俺が見たことに気づいてる。
知らないふりをしているのは、自分だけじゃなかった。
夜の店は静かなまま、何事もなく続いていく。
けれど二人のあいだにだけ、昼の秘密がひとつ増えていた。
Chapter 3 踏み込めない距離
夜のSir Oleanderは、今日も静かだった。
低い照明。
磨かれたグラス。
言葉を削ぎ落としたような空気。
その中心で、律がいつも通りグラスを拭いている。
何も変わらない顔。
何も隠していないような顔。
(いや、隠してるだろ)
駆は入口で小さく息を吐いた。
昼の名。
昼の姿。
老夫婦の家。
子どもに渡した飴玉。
あんなものを見てしまったあとで、何も知らない顔をされると困る。
「……来たか」
「はい」
短いやり取り。
それだけで胸がうるさい。
席へ向かおうとして、駆は少し迷った。
いつものカウンター。
そこへ座れば、また何も聞けない気がした。
視線を巡らせた先、店の端の小さなテーブル席に、ひとりで酒を飲んでいる男がいた。
滝沢 穂高。
目が合うと、相手はにやりと笑った。
「お。珍しいな」
「……隣、いいですか」
「なんだよ急に。恋愛相談か?」
「違います」
即答しながら、駆はその席へ滑り込んだ。
カウンターからは少し離れている。
声を落とせば、届かない距離だった。
「で?」
穂高がグラスを揺らす。
「何悩んでんだ、まきちゃん」
駆は少しだけ唇を噛んだ。
「……あの人って」
視線だけでカウンターを示す。
「昼、何してるんですか」
穂高の眉が、わずかに上がる。
「へえ」
「何者なんでしょう」
「さあな」
「俺、あの人のこと……」
そこで言葉が止まる。
好きだとか、欲しいだとか、そういうのはもう自覚している。
でも今胸を締めつけているのは、それだけじゃない。
「……何も知らないんです」
小さく吐き出した声は、自分でも驚くほど弱かった。
穂高は少し黙ってから、笑った。
「重症だな」
「笑いごとじゃないです」
「いや、笑うだろ」
グラスを置き、少し身を乗り出す。
「俺もよく知らねえけど(ウソ)」
「・・・」
駆にも分かるくらい、わざとらしい。
「まだ言わないってことは、知るべきじゃねえって思ってんじゃないのか」
駆の肩が落ちる。
「……やっぱり」
「さあな」
「どっちなんですか」
「知らねえって言ってるだろ」
意地悪く笑う。
駆は本気で頭を抱えた。
「俺、どうしたら……」
その姿に、穂高は肩を揺らす。
(かわいそうに)
だが同時に懐かしいと感じる。
昔はよく見た、あいつに溺れてもがく男たち。
そしてなぜか少し羨ましくもある。
「簡単だろ」
「……何がですか」
「直接聞いてみれば。」
駆が顔を上げる。
「え」
「律のことだから、聞かれなかったから言わなかっただけ、とか普通に言うぞ」
あまりにもありそうで、駆は黙った。
「……そうなんですかね」
視線が宙へ落ちる。
一点を見つめたまま動かない。
長い睫毛が影を落とし、どこか憂いを帯びた横顔になる。
穂高は吹き出しそうになった。
(なんで悩んでるだけで絵になるんだよ、こいつ)
そのとき、背筋に視線を感じる。
カウンターのほうを見ると、律がこちらを見ていた。
表情は薄い。
だが目だけが言っている。
――まきいじめんな。
穂高は心の中で即座に返す。
(いや、お前のせいでこうなってんだよ)
しかも本人は気づいていない顔をしている。
相変わらず、そういうところだけ鈍い。
駆はまだ考え込んでいた。
指先でグラスの水滴をなぞり、何度か息を吐く。
それから、ふいに顔を上げる。
決めた顔だった。
立ち上がる。
「……ありがとうございます」
「礼はいらねえよ」
「たぶん、いります」
そう言って、駆はカウンターへ向かった。
穂高は面白そうに肘をつく。
律は何事もなかったようにグラスを拭いている。
駆はその前に立った。
「……なんだ」
「律さん」
ほんの少し、声が震える。
「バーじゃなくて」
一度、息を吸う。
「ちょっと場所、変えて……お話あります」
店の空気が、静かに揺れた。
Chapter 4 閉店後の街
店の空気が、静かに揺れたまま止まっていた。
「バーじゃなくて、ちょっと場所変えて……お話あります」
駆の声は、最後だけ少し掠れていた。
Sir Oleanderに集う男たちは、酒より面白いものを見つけた顔になる。
誰も口を挟まない。
だが、耳は全員こちらを向いている。
カウンターの向こうで、律はグラスを拭く手を止めなかった。
「……今か」
「いえ、閉店後で」
「急ぎか」
「……俺の気持ちは急いでます」
数秒の沈黙。
奥の席で誰かが吹きかけ、慌てて咳払いに変えた。
律の眉がわずかに寄る。
「そうか」
それだけ言って、また手を動かし始める。
了承なのか、保留なのか。
駆には分からない。
だが穂高だけが、グラス越しに親指を立てていた。
(うるさい)
睨み返しても、相手は笑うだけだった。
閉店時間は、いつもより早かったのに、いつもより長く感じた。
客たちは帰り際にそれぞれ好き勝手な言葉を残していく。
「頑張れよ、駆くん」
「ぼうや、健闘を祈る」
「泣かされんなよ」
「うるさいです!」
最後まで笑い声が残った。
扉が閉まり、店内に本当の静けさが戻る。
グラスを片づける音。
椅子を整える音。
水を流す音。
駆は入口近くで、所在なく立っていた。
手伝うべきか。
待つべきか。
帰れと言われるのではないか。
胸の中だけが忙しい。
「突っ立ってると邪魔だ」
低い声が飛ぶ。
「……すみません」
「そこ、拭け」
渡された布巾を反射で受け取る。
「え」
「話あるんだろ。終わらせるぞ」
それだけで胸が熱くなる。
「はい」
駆は慌ててテーブルを拭き始めた。
店を出たころには、街は深夜の色になっていた。
昼の喧騒を失った道路。
遠くを走るタクシーの灯り。
ビルの隙間を抜ける風。
二人で並んで歩く。
律は黒いコートを羽織り、片手をポケットに入れている。
歩幅は一定で、速すぎず遅すぎず、駆が無理なくついていける速度だった。
それに気づいて、また胸がうるさくなる。
しばらく、どちらも話さなかった。
靴音だけが並ぶ。
「……で」
先に口を開いたのは律だった。
「話ってなんだ」
駆は息を呑む。
準備していたはずなのに、言葉が散らばる。
「その……」
夜風が頬を冷やす。
駆は前を向いたまま、絞り出すように言った。
「俺、律さんのこと……何も知らないなって」
隣の気配が少しだけ静かになる。
「バーのあんたしか知らない。サロンで会うあんたも、ほんの少しで」
続けながら、自分でも情けなくなる。
「好きだとか、会いたいとか、そういうことばっか考えてて……」
言葉が途切れる。
「でもこの前、昼のあんた見て」
アレキ。
老婦人。
飴玉。
知らない時間。
「ああ」
律の返事は短かった。
否定しない。
「……なんで、言ってくれなかったんですか」
聞いた瞬間、自分の声が少し責めるように響いた気がして、駆は後悔した。
だが律は怒らなかった。
「聞かれなかったからだ」
駆は立ち止まりそうになる。
穂高の言った通りだった。
「……ほんとにそういう人だ」
「なんだそれは」
「いや……」
思わず笑ってしまう。
困って、悩んで、頭抱えていた時間が馬鹿みたいだ。
律は数歩先で足を止めた。
小さな公園の前だった。
街灯がベンチを半分だけ照らしている。
「座るか」
「え」
「話すんだろ」
先にベンチへ腰を下ろす。
駆も隣に座った。
距離は拳ひとつぶん。
近い。
でも触れていない。
「……昼の仕事は」
律が前を見たまま言う。
「征一から回ってくる。世話になった連中の困りごとだ」
「電球とか」
「ああ」
「風鈴とか」
「……見てたのか」
「すみません」
謝りながら、笑ってしまう。
律は呆れたように息をついた。
「別に隠してたわけじゃねえ。ただ、店に持ち込む話でもない」
その横顔は、夜の店で見るより少し柔らかかった。
駆はそっと尋ねる。
「違う名前で呼ばれてました?」
そこで初めて、律の視線が揺れた。
街灯が瞳に小さく映る。
「……昔の名残だ」
「昔?」
「お前にはまだ早い」
「またそれ」
「事実だ」
駆は唇を尖らせる。
「じゃあ、いつならいいんですか」
「そうだな」
律は少し考えるふりをした。
「お前が嫉妬ばっかしてないでもう少しマシな顔できるようになったら話す」
「……嫉妬してません」
「してる顔だった」
「してません」
「でかく書いてある」
駆は悔しくて黙る。
その横で、律が珍しく声を出して笑った。
短く、低く。
けれど確かに、楽しそうに。笑ってくれた。
それだけで、胸がいっぱいになる。
Chapter 5 伏せた札
公園のベンチには、夜気がゆっくり降りていた。
街灯の光が足元を淡く照らし、遠くで車の走る音だけがかすかに聞こえる。
隣に座る律は、膝に肘を置き、前を向いたままだった。
店の中より近い。
けれど、触れられない距離だった。
駆は、その横顔を盗み見る。
夜の律。
けれど、もうそれだけではない。
昼の名。
子どもに渡した飴玉。
老夫婦の玄関灯。
地味な作業着。
朝のある生活。
知ったことは少しなのに、知らないことばかり増えていく。
「……毎日、仕事あるわけじゃねえ」
不意に、律が口を開いた。
駆はすぐに顔を向ける。
「征一の依頼は急だ。今日行け、今行け、ってのもある」
「そんな急に」
「ああ」
「大変じゃないですか」
「別に」
淡々とした声だった。
「呼ばれたら呼ばれたところに行く。不定期で、不安定な稼業だ」
少しだけ間を置く。
「何してるって、一口じゃ説明できねえ」
風が吹く。
律の前髪が揺れた。
「……自分から言う話でもねえしな」
駆は胸の奥がじんとした。
この人なりに、話してくれている。
全部ではない。
でも、何もくれないわけでもない。
伏せたままのカードたちを、少しずつめくるみたいに。
「征一さんが」
駆は慎重に言葉を選ぶ。
「上司というか、雇い主、みたいな関係ですか」
律が珍しく黙った。
考えている顔だった。
かなり真面目に。
「……そうなるな」
それだけか、と一瞬思う。
だがその短い返事の奥に、言葉にしきれない何かがある気がした。
恩義。
信頼。
長い時間。
たぶん、それだけではないもの。
駆はそこを追及しかけて、やめた。
今、聞くべきは別のことだ。
「……あの」
「なんだ」
「どうやったら」
少し身を乗り出す。
「律さんの顧客になれますか」
「は?」
律の眉が寄る。
「俺も電球替えてもらったり」
「おい」
「困った時来てもらったり」
「待て」
「世話焼いてもらえたりしますか」
「……お前な」
駆は真剣だった。
「・・・だめですか」
少しだけ声が小さくなる。
「何か、特別な条件とかあるんですか」
しゅん、と肩が落ちた。
その横顔があまりにも分かりやすくて、律は思わず息を吐く。
こいつは、秘密そのものが欲しいわけじゃない。
ただ、自分の知らない場所にいる律へ、手を伸ばしたいだけだ。
全部明かすことが、いいことだとは思えなかった。
過去も、名前も、征一とのことも。
だが何もやらないのは、こいつをいじめている気がした。
ぽん、と頭に手を置く。
硬いが繊細な指が、二度ほど軽く撫でた。
駆が目を見開く。
「律さん」
「顧客にはできねえ」
「……やっぱり」
露骨に落ち込む。
その顔に、少し胸が痛む。
言えない。
それは征一が決める枠だとか。
そもそもお前をそこに入れたくねえとか。
そんなことは。
律は一度だけ視線を伏せた。
それから口を開く。
「まき」
「……はい」
「うちに、来るか」
夜の音が、そこで止まった気がした。
駆が瞬きを忘れる。
「え」
「嫌ならいい」
「行きたいです!」
早い。
律が鼻で笑う。
「……そうか」
「え、ほんとに?」
「二度言わせるな」
「行きます!」
「落ち着け」
勢いよく返されて、律は少しだけ口元を緩めた。
公園の街灯の下。
誰にも見せない顔だった。
駆はまだ信じられないまま、隣の男を見る。
顧客にはなれなかった。
けれど、それよりずっと深い場所へ招かれた気がした。
伏せられた札は、まだ多い。
それでも今夜、確かに一枚だけ、こちらへ差し出された。
Chapter 6 借家
落ち着かない。
なんてことだ。家に招かれた。
(ただ家に行くだけだろ)
自分に言い聞かせても、胸は少しも静かにならない。
相手は律だ。
店でもなく、外でもなく、あの人の家。
それだけで意味が違った。
律は小さく鼻を鳴らし、歩き出した。
「行くぞ」
住宅街へ入る道は静かだった。
普段、この道を帰っているんだ。
知らないことを知れたことがうれしい。
知っていることが増えていく。今日これからもっと増える。
それだけじゃない。
角を曲がるたび、さりげなく車道側へ立つこと。
信号で止まるたび、無意識みたいに周囲を見ていること。
(なんなんだよ、この人)
好きになる要素が、歩いているだけで増えていく。
細い路地に入ったところで、自転車が勢いよく飛び出してきた。
「うわっ」
駆が避け損ねかけた瞬間、ぐい、と腕を引かれる。
強い力だった。
気づけば、律の胸元にぶつかるような距離まで引き寄せられている。
自転車は何事もなく通り過ぎていった。
「……すみません」
離れようとして、気づく。
手首を掴まれたままだ。熱が一気に上がる。
律も気づいたらしく、少しだけ間を置いてから手を離した。
だが次の瞬間、今度は手首ではなく、手そのものを取られる。
指が絡むわけではない。
子どもを連れていくみたいに、しっかり握られる。
「またぼーっとされると面倒だ」
顔は前を向いたままだった。耳だけ、少し赤い。
駆はもう何も言えなくなった。
夜の闇に紛れてそのまま数分、手を引かれて歩く。
心臓だけがうるさかった。
着いた家は、古い借家だった。
二階建てでもなく、こぢんまりとした平屋。
年季の入った引き戸。小さな庭。きれいに揃えられた鉢植え。
だが古びた印象はない。
表札は見えるようにはかけられていないが、
門まわりに雑草はなく、外灯も磨かれている。
窓ガラスまできれいだった。
「……ここ」
「なんだ」
「すごい落ち着く家ですね」
鍵を開けていた律の手が一瞬止まる。
「まだ入ってねえだろ」
「見ただけで分かります」
「適当言うな」
けれど声は少し柔らかかった。
中へ入る。
玄関は狭い。
だが靴は揃い、棚には無駄な物が一つもない。空気まで整っている気がした。
「……すげえ」
思わず漏れた声に、律が振り向く。
「何がだ」
「なんか……完璧です」
「意味が分からねえ」
「生活が」
律は呆れたように息をついた。
「上がれ」
居間は六畳ほど。
古い畳に、低いテーブル。壁際に本棚。観葉植物が一つ。
小さなテレビ。丁寧に畳まれたブランケット。
どこにも余計なものがない。
なのに冷たくない。
人がちゃんと生きている部屋だった。
駆は立ったまま見回してしまう。
「座れ」
「はい」
正座みたいになってしまい、律が眉を寄せた。
「かしこまるな」
「無理です」
「なんでだ」
「好きな人の家、初めてなんで」
沈黙。
言ってから、自分でも固まる。
(何言ってんだ俺)
恐る恐る顔を上げると、律は台所へ向かうところだった。
「……紅茶でいいか」
背中越しの声だけが少し低い。
「はい!」
助かったような、逃げられたような返事をする。
湯を沸かす音。
戸棚を開ける音。
カップを置く音。
その全部が、やけに胸に響く。
(この人、ここで毎日暮らしてるんだ)
朝起きて、掃除して、紅茶を飲んで。
誰にも見せない顔で。
ますます知りたくなる。
ますます好きになる。
戻ってきた律が、湯気の立つカップを置いた。
「熱い。気をつけろ」
「……ありがとうございます」
受け取るとき、指先が触れる。
さっき繋がれた手を思い出してしまう。
駆は紅茶を一口飲んだ。
香りがやさしく広がる。
「……おいしい」
「そうか」
「なんか」
部屋を見回す。
「ここ、安心します」
律は自分のカップに口をつけながら言った。
「古いだけだ」
「違います」
駆ははっきり言った。
「律さんがちゃんと暮らしてる場所だからです」
その言葉に、律の動きが止まる。
しばらくして、視線を逸らした。
耳が赤い。
駆は笑う。
この家に来てよかったと思った。
まだ知らないことは山ほどある。
でも今、誰にも見せていない場所にいる。
その事実だけで、胸がいっぱいだった。
Chapter7 熱の余波
家を訪れてから、何かが劇的に変わったわけではなかった。
たしかに、あの夜は特別だった。
借家の静けさ。湯気の立つ紅茶。生活の匂い。
誰にも見せていない場所へ招かれたこと。
けれど、それで全部が近づいたわけではない。
むしろ逆だった。
秘密をひとつ知ったことで、
まだ知らない秘密が、どれほど膨大か思い知った。
昼の仕事。
過去の名前。
征一との関係。
なぜあんなふうに人に尽くすのか。
どうして、あんな家で一人で暮らしているのか。
知らないことが多すぎて、駆は時々、律に触れることに少し怯んだ。
好きだからこそ、雑に踏み込みたくなかった。
その夜、Sir Oleanderの扉は閉まっていた。
営業時間のはずなのに、灯りがない。
駆は何度も看板を見返した。
休業の札も出ていない。
胸がざわついて、すぐにメッセージを送る。
《大丈夫ですか?》
少しして返信が来た。
《風邪だ。休む》
たったそれだけ。
《熱ありますか?》
《ある》
《行きます》
《来るな》
駆はすでに走り出していた。
借家の玄関は鍵が開いていた。
ノックをすると、少しして重たい足音がする。
引き戸が開いた。
律がいた。
髪は乱れ、顔色は悪く、額には汗。
目つきだけはいつも通り鋭いのに、身体が明らかについてきていない。
「……来るなって言っただろ」
声まで掠れている。
「その状態で言われても無理です」
「帰れ」
「嫌です」
靴を脱ぎながら押し入ると、律は止める気力もなく壁に手をついた。
「熱、何度ですか」
「知らん」
「測ってください」
「面倒だ」
「今のあんたのほうが面倒です」
駆は体温計を探し出し、半ば強引に脇へ差し込んだ。
結果を見て、顔が引きつる。
「高っ……」
「騒ぐな」
「寝てください!」
寝かせても、律はすぐ起きようとした。
「床、拭いてねえ」
「いいです!」
「洗い物がある」
「いいです!」
「換気も――」
「大人しく寝ててください!」
駆の声が家じゅうに響いた。
律は布団の中で、少しだけ目を丸くした。
それから、諦めたように天井を見る。
「……うるせえ」
「元気になってから言ってください」
駆は台所へ立つ。
スポーツドリンク。
濡れタオル。
氷枕。
薬。
ここへ来たことがあって、本当に良かったと思った。
知らなければ、何もできなかった。
そのとき、律の携帯が鳴った。
画面には、征一の名。
律が起き上がろうとする。
「出る」
「寝ててください!」
「仕事だ」
「無理です!」
駆が先に携帯を取った。
通話ボタンを押す。
「もしもし!」
一拍の沈黙。
それから、落ち着いた低い声。
『……巻原くんか』
「律さん、高熱です! 今日は絶対無理です!」
『そうか』
「俺が代わりに行きます!」
布団の中で律が眉を寄せる。
電話の向こうで、征一が少し笑った気配がした。
『ほう』
駆は勢いのまま続ける。
「場所言ってください!」
『では、今から言うところへ来てくれ』
来てくれと言われた場所は征一のオフィスだった。
征一のオフィスは、夜でも人が働いていた。
通された部屋は広く、整っている。
だが、どこか人の気配が薄い。
「すみません、遅れました」
「いや」
征一は椅子に腰掛けたまま微笑む。
「本日の仕事は、この部屋の掃除だ」
部屋は掃除しないといけないほど汚れてはいないように見えた。
それでも代理として、しぶしぶ掃除を始めようとする駆。
「あんたいつも律さんにこんなことさせてんのかよ……」
「いや?」
さらりと返される。
「この部屋のクルーには、律の代理を頼んで今はそちらへ向かった」
駆はぽかんとする。
「じゃあ、俺は……」
「君にここへ来てもらいたかった」
やられた、と思った。
「私が彼に頼むのは、私にはできないことだ」
征一は指を組んだ。
「君は、彼のことを知りたいんだろう」
駆は黙った。
少し迷ってから、正直に言う。
「……少しでもいいです」
征一の目が柔らかくなる。
「律から、何と聞いた。」
「征一さんが、律さんの雇用主のようなものだと聞きました」
征一は少し上を向いて思考を巡らせた後、
「……そういうことになるな。」
律とまったく同じように、少し考えてから言う。
そのニュアンスに、駆ははっとした。
「もしかして」
青ざめる。
「律さんの家も、征一さんの……?」
征一は声を立てて笑った。
「あの家は違う」
あの家は。
そこに引っかかるが、とりあえず胸を撫で下ろす。
「君は律の家に上がっているんだろう」
「……はい」
「私は上がらせてもらったことはないよ」
駆は目を見開く。
「確かに私は仕事を頼んでいる。だが、一方的に雇っているわけではない」
窓の外へ視線を向ける。
「私ができないことを、彼にお願いしてやってもらっているんだ」
少し間を置いて、続けた。
「私が彼の客と言っても、おかしくない」
Sir Oleanderのこともそうだ、と征一は言った。
「あの店も、頼んでやってもらっている」
駆は黙って聞いていた。
しばらく話を聞き、駆は胸のつかえがすべてではないが
少し取れたような気がしていた。
「今日は帰ります」
駆が立ち上がると、征一は言った。
「心配か」
「……はい」
オフィスを出ると、夜気が少しだけ冷たかった。
悔しい、と思うかと思った。
でも違った。
律に優しい人がいる。
律を必要として、敬意を持っている人がいる。
それが、嬉しかった。
駆は足を止めずに歩く。けれど頭の中では、さっきの言葉が何度も反芻されていた。
――私が彼の客と言っても、おかしくない。
雇っているわけでも、囲っているわけでもない。
必要として、頼って、敬意を払っている。
それは駆が勝手に構えていた形とは、まるで違った。
律は、誰かのものではなかった。
けれど、ひとりでもなかった。
胸の奥が、静かに熱くなる。
早く会いたいと思った。
さっきまでより、ずっと。
少し寝て目覚めると駆が額に手を当てていた。
「ただいまです」
目覚めて誰かがいたのはいつぶりだったか。
その夜、駆は泊まった。
「寝てれば治る。帰れ」
「嫌です」
「なんでだ」
「俺、律さんのお世話できて嬉しいんです」
律が黙る。
熱のせいか、少しだけ弱って見えた。
駆は布団の横に座ったまま、小さく話し続ける。
「本当は」
静かな部屋。
時計の針の音。
冷蔵庫の低い駆動音。
「律さんと泊まること、ものすごく想像してました」
返事はない。
「頭の中では、もうそういうことしてて……ごめんなさい」
熱い頬をかく。
「律さんが元気になったら……ちゃんと……」
そこまで言って、気づく。
律はもう寝息を立てていた。
駆はしばらく見つめて、吹き出しそうになる。
「……寝てるし」
自分もそのまま畳に横になった。
今日は情報量が多すぎた。
少しだけ、また律を知れた。
征一が律に優しいことも知れた。
悔しいより、嬉しかった。
まだ教えていないことも多いだろう。
でも、そろそろ心の準備ができてきた。
眠りに落ちる直前、布団の中から手が伸びてきた。
探るように、駆の指先を掴む。
熱い手だった。
目を開けると、律は眠ったまま離さない。
駆は息を止める。
それから、そっと握り返した。
Chapter8 朝の手
朝は、光より先に気配で来た。
薄いカーテンの向こうが白み、借家の静けさが少しずつほどけていく。
遠くでごみ収集車の音。鳥の声。隣家の戸が開く気配。
駆は浅い眠りの中で、何かに引かれている感覚を覚えた。
温かい。
少し熱い。
指先に重みがある。
ゆっくり目を開ける。
畳の上。昨夜そのまま横になった位置。
すぐ隣の布団。
そして、自分の右手。
布団の中から伸びた手に、まだ握られていた。
「……っ」
一気に目が覚める。
律の手だった。
昨夜、眠ったまま探るように伸びてきて、そのまま掴まれた手。
夢じゃなかったらしい。
駆は固まったまま、その手を見る。
指は長く、骨ばっている。
熱は昨夜より下がっている気がした。
でもまだ少し温かい。
(どうしよう)
離すべきか。
このままでいるべきか。
答えが出ないまま、じっとしていると、布団の中の気配が動いた。
律が目を開けていた。
「お、起きてたんですか!?」
「今な」
「じゃあこれ」
握られた手を持ち上げる。
「これ何ですか」
律は気怠そうに眉を寄せた。
「熱で寒かった。近くにあったから」
「俺、湯たんぽですか」
「文句あんのか」
「あるわけがないです」
駆は真っ赤になりながら口を閉じた。
律は小さく鼻を鳴らし、ようやく手を離す。
その瞬間、少しだけ寂しいと思ってしまった自分に驚く。
「熱、測ってください」
「面倒だ」
「またそれ言う」
結局、半ば強引に体温計を渡す。
昨夜よりかなり下がっていた。
「朝飯、作ります」
駆が立ち上がると、律も起きようとした。
「俺がやる」
「だめです!」
「なんでだ」
「病人です!」
押し戻すと、律は不満そうな顔で布団へ戻った。
「……じゃあ台所荒らすなよ」
「善処します」
「不安しかねえ」
台所は整いすぎていた。
どこに何があるか分かりやすい。
パン。卵。紅茶の缶。
最低限の食材がきちんと並んでいる。
(生活、強い……)
駆は感心しながらトーストを焼き、卵を割る。
一個目、失敗。
二個目、なんとか成功。
その頃には後ろから視線を感じていた。
振り返ると、律が柱にもたれて見ている。
「ひどい手つきだな」
「うるさいです」
口では言い返しながら、少し嬉しい。
こういう朝を、この人は一人で何度も過ごしてきたのだろう。
今そこに、自分がいる。
それだけで胸がいっぱいになる。
朝食は、まあまあだった。
トーストは少し焦げ、卵は形がいびつ。
だが律は黙って食べた。
「……どうですか」
「食える」
「評価低いな」
「十分だろ」
紅茶を淹れると、律は少しだけ目を細めた。
「茶葉、そこじゃねえ」
「え?」
「右の缶だ」
「なんで二種類あるんですか」
「朝と夜」
「こだわり強……」
食後、食器を洗おうとした駆の背中に声が落ちる。
「まき」
「はい?」
振り向くと、律が座ったままこちらを見ていた。
昨夜よりずっと顔色がいい。
律はしばらく黙っていた。
それから、視線を逸らしたまま言った。
「……助かった」
一瞬、意味が分からなかった。
「え」
「昨日」
短く、それだけ。
けれど律がこういう言葉を言う重みを、駆はもう少し知っている。
「……どういたしまして」
胸が熱くなる。
「俺、そろそろ行きます」
食器を置いて近づくと、律は逃げなかった。
駆はそっと手を差し出す。
「なんだ」
「確認です」
「何の」
「もう寒くないか」
律は呆れた顔をした。
だが少しして、その手を取った。
今度は昨夜のように無意識ではなく、はっきりと。
「……平熱だ」
「そうですね」
「離せ」
「いやです」
「調子乗るな」
引っ張られて、駆は笑った。
この人はまだ秘密が多い。
知らない過去も、話していないことも山ほどある。
それでもいいと思えた。
朝の光の中で握られた手は、昨夜よりずっと確かだった。
Chapter 9 こぼれた札
――いつもの店、いつもじゃない夜。
磨かれたグラス。
言葉を飲み込むような静けさ。
何も変わっていない。
変わったのは、駆だけだった。
扉を開けた瞬間、いつものように数人の視線が向く。
常連たちの軽い笑み。
奥の席から上がるグラス。
「お、駆くん」
「こんばんは」
「今日は顔がいいな」
「意味わかんないです」
笑いながら返し、駆はカウンターへ向かった。
その向こうに、律がいる。
黒いシャツ。整えられた髪。
いつもの無表情。
何事もなかったようにグラスを拭いている。
(この人、昨日まで高熱で寝てたんだよな)
しかも眠ったまま手を掴んできた。
朝には、自分の意思で手を取った。
なのに今は、何もなかった顔をしている。
「……来たか」
低い声。
「はい」
「遅い」
「仕事です」
「言い訳が雑だな」
「そっちこそ元気そうですね」
「誰のおかげだ」
一瞬、息が止まる。
常連たちには何でもないやり取りに見えるだろう。
でも駆には分かる。
この男、今わざとそう言った。
「……俺ですかね」
「…」
フッと口元だけが、ほんの少し緩んだ気がした。
「何にする」
「い、いつもの」
「ハハ」
ちょっと笑ってくれた。かわいい。
差し出されたのは、いつものフィズだった。
一口飲む。
うまい。
安心する味だった。
「駆ちゃん、今日は機嫌いいねえ」
奥の席の男が笑う。
「よく見てますね」
「そりゃ見るさ」
別の男が続ける。
「なんかあったな」
「ないです」
「ある顔だ」
「ないです」
「隠せてねえぞ、ぼうや」
店内に笑いが広がる。
駆はむっとしてグラスを持ち直す。
そのとき、カウンターの下から小皿が置かれた。
少しラッピングされたチョコレート。小さいが高価だとわかる。
駆は目を見開く。
「……なんで」
「うるせえな」
「これ、俺に?」
「礼だ」
律は何も言わず、別のグラスへ手を伸ばす。
だが耳だけ、少し赤かった。
(ずるい)
こんなの、好きになるに決まっている。
何食わぬ顔で、
二人だけ分かる「礼」を、みんなの前で平然と差し出してくる。
夜は静かに流れた。
誰も知らない朝の手。
誰も知らない借家の紅茶。
誰も知らない「助かった」の一言。
「・・・うれしいです」
包みを受け取って、気持ちを全部を胸に抱えて、駆はにかんでグラスに口をつけた。
甘さを持て余したまま、夜は閉じていった。
閉店後。
客たちが帰り、駆も外へ出ると、少し先に穂高がいた。
「お、帰り同じか」
「……そうみたいですね」
「送ってやろうか、ぼうや」
「その呼び方やめてください」
笑いながら、二人で夜道を歩く。
しばらくは、看病の話をした。
「熱、結構高かったですよ」
「だろうな。あいつ、限界まで黙るから」
「掃除しようとしてました」
「やるなあ」
「叱っときました」
「見たかった、それ」
穂高が肩を揺らす。
しばらくして、駆はふと口を開いた。
「……律さんの家、行ったことありますか」
穂高の歩幅が少しだけ緩む。
「引っ越し手伝ったくらいかな」
「……そうなんですか」
「だから家は知ってる」
それだけだった。
駆は少し黙ってから、続ける。
「俺、ずっと引っかかってることがあって」
「うん」
「だいぶ、今の律さんのことは分かってきたんです。征一さんにも少し話、聞かせてもらいました」
穂高は何も言わず聞いている。
「でも、もう一個……どうしても聞けないことがあって」
「うん」
駆は息を吸った。
「律さん、昼は違う名前で呼ばれてるみたいなんです」
その瞬間、穂高の顔から笑みが消えた。
「昼の仕事の時……」
夜道の空気が少し冷える。
「アレキさん、って呼ばれてた」
「駆」
少し遮るような声だった。
駆は足を止める。
穂高は前を向いたまま、しばらく黙った。
それから、昔を見るような目になった。
「……昔の通り名みたいなもんだ」
低い声。
「アレキサンドライト」
その名前が、夜に落ちて、こぼれる。
「そう呼ばれてた」
駆の中で、何かが無音になった。
アレキサンドライト。
頭の中で、その言葉だけが何度も回る。
宝石の名。
硬質で、美しく、強い響き。
あまりにも、あの人に似合っていた。
穂高は続ける。
「お前を信頼してる」
「……え」
「律が家に上げてるからだ」
胸が熱くなる。
「だが、律が言わないことを俺がペラペラ喋るわけにはいかない」
真っ直ぐな声だった。
「お前も薄々分かってるだろうけど、律も、俺も、征一も……昔はいろいろあった」
少し笑う。
「俺が言えるのは、ここまでだ」
駆は静かに頷いた。
「……はい。ありがとうございます」
不思議と、それで十分だった。
今の自分は、律の過去に見合う男ではないかもしれない。
けれど、
過去に何があっても、受け止められる男になりたい。
アレキサンドライト。
その名前を、律が今も捨てていないことにも意味がある気がした。
嫌っていないのだろう。
簡単には語れなくても。
なら、いつか話してくれる日を待とう。
その日までに、自分も並んで立てる男になろう。
仕事も。
生き方も。
もっと。
夜風が吹く。
駆は顔を上げた。
「……頑張ろ」
「急にどうした」
「独り言です」
穂高が笑う。
その笑い声を聞きながら、その名前は、胸の奥で静かに光っていた。
Chapter 10 宝石箱
帰り道の記憶が、ところどころ途切れていた。
穂高と別れて、駅へ向かって、電車に乗って、最寄りで降りて。
ちゃんと帰ってきたはずなのに、頭の中にはひとつの言葉しか残っていない。
アレキサンドライト。
鍵を開けて、自分の1LDKへ入る。
見慣れた部屋だった。
小さな玄関。
二人掛けのソファ。
仕事道具の置かれた棚。
洗いかけのマグカップ。
恐竜のフィギュア。
いつもの自分の生活。
なのに今夜だけ、どこか違って見える。
部屋の真ん中に立ったまま、駆はしばらく動けなかった。
アレキサンドライト。
頭の中で、何度も転がる。
あの人の低い声でも、穂高の声でもなく、もう自分の声になっていた。
(……だめだ)
言っちゃだめだと思う。
まだ、自分の中だけに置いておきたい。
靴も脱ぎきらないまま、スマートフォンを取り出す。
検索欄に指を置き、一度止まる。
少し緊張している自分が馬鹿みたいだった。
それでも打ち込む。
アレキサンドライト
検索結果が開く。
宝石。希少石。変色効果。昼と夜で色を変える石。
天然のものは非常に珍しい。高価。価値が高い。
駆は息を止めた。
「……は?」
もう一度、画面を見る。
昼と夜で色を変える。
昼と夜。
「……律さんじゃん」
思わず声が出た。
朝、少し眠そうな目で「平熱だ」と言った顔が浮かぶ。
昼は、地味な作業着で人助けをしている。
夜は、Sir Oleanderで男たちを黙らせるほど美しく冷たい。
別人みたいなのに、どちらも本物だ。
昼と夜で、色を変える石。
「なにそれ……」
胸がどくどく鳴る。
さらに読む。
光源によって、緑から赤紫へ。
見る場所で印象が変わる。
神秘的。
気品。
高貴。
再生。
内に強さを秘める石。
「……やばい」
ソファに崩れ落ちる。
どこまで似合うんだ。
誰がつけたのか知らない。
昔の通り名だということしか分からない。
でも、その名を与えた誰かは、あの人をちゃんと見ていたのだと思った。
強くて。
美しくて。
簡単には手に入らなくて。
見る角度で違う顔を持っていて。
なのに芯は変わらない。
(……すごい名前)
胸がいっぱいになる。
同時に、少し苦しくもなる。
そんな名を持つ時代があった。
自分の知らない律がいた。
穂高も、征一も知っている時間がある。
まだ届かない場所が、たくさんある。
けれど、前ほど焦りはなかった。
今の自分は、今のあの人に会えている。
家に招かれた。
熱の夜に手を握られた。
朝に、助かったと言われた。
それだけでもう、十分に特別だ。
スマートフォンの画面をそっと伏せる。
アレキサンドライト。
その名を、今は口にしたくなかった。
大事すぎて、外へ出したくない。
心の奥に、小さな宝石箱があるとしたら。
そこへ丁寧にしまって、鍵をかけておきたい。
いつか。
もっと自分が強くなって。
あの人の過去も、痛みも、誇りも、受け止められる男になって。
そのとき初めて、この箱を開けよう。
そして言いたい。
あなたの名前は、美しい。
その生き方も、姿も、名の通り希少で、尊くて、素晴らしい人だと。
でも、今じゃない。
今はまだ、胸の奥で光っていればいい。
駆はベッドへ倒れ込み、腕で目元を隠した。
暗闇の裏で、その名前だけが静かに瞬いていた。
Chapter 11 口にしない名前
次にSir Oleanderの扉を開けるまで、駆は少し時間がかかった。
行きたくなかったわけじゃない。
むしろ逆だった。
会いたかった。
顔が見たかった。
声が聞きたかった。
けれど、あの夜から自分の中に増えたものが多すぎた。
借家の朝。
熱の夜の手。
征一の言葉。
穂高の沈黙。
そして、胸の奥の宝石箱。
何も知らない顔で行けるのか、自信がなかった。
それでも結局、来てしまう。
扉を開ければ、低い音楽と灯り。
磨かれたグラス。
静かな男たちの気配。
いつもの店だった。
そしてカウンターの中央に、律がいる。
黒いシャツ。整えられた髪。
細い指でグラスを拭き、何事もない顔で立っている。
(……ずるい)
こっちは一人で勝手に感動して、勝手に悩んで、勝手に泣きそうになっていたのに。
あの人は今日も、いつも通り綺麗だ。
「……来たか」
低い声が落ちる。
「はい」
「久しぶりだな」
「三日です」
「長えよ」
それだけで、胸があたたかくなる。
駆は平静を装って席についた。
「何にする」
「おすすめで」
「いつもの、じゃねえのか」
「あ、いつもの」
「遅え」
短いやり取り。
いつものテンポ。
だが今日は、その全部が違って聞こえる。
この手は、熱の夜に自分を探した手だ。
この声は、朝に「助かった」と言った声だ。
この人は、昼と夜で色を変える人だ。
知らない顔なんて、できるわけがない。
差し出されたのは、透明なフィズだった。
「ありがとうございます」
受け取るとき、指先が触れる。
一瞬だけ。
それだけで心臓が跳ねる。
「駆くん」
奥の席の常連が笑う。
「今日、静かだな」
「そうですか」
「静かっていうか」
別の男がグラスを揺らした。
「なんか神妙」
「葬式帰りみたいだ」
「失礼だな!」
笑いが起きる。
駆はむっとしながらフィズを飲んだ。
「何かあった?」
「ないです」
「恋か」
「いつもしてます」
一瞬、店内が静まり、それからどっと笑いが起きた。
「言うようになったなあ!」
「駆ちゃん育ったねえ」
「ぼうや、攻めるじゃないか」
「うるさいです!」
耳まで熱くなる。
カウンターの向こうで、律が小さく咳払いをした。
「騒ぐな」
だがその口元は、少しだけ緩んでいた。
咳払いのあと、視線を逸らした。
(……だめだ)
好きすぎる。
今までだって好きだった。
でも今は違う。
ただ綺麗な人。
ただ優しい人。
ただ欲しい人。
それだけじゃない。
過去があり、名前があり、誰にも見せない暮らしがある。
それでも今、何事もなかったようにここへ立っている。
その全部が、尊いと思ってしまう。
駆はグラスを置いた。
「……律さん」
「なんだ」
呼ばれた本人は、視線も上げない。
駆は一瞬だけ迷う。
胸の奥の宝石箱に、手が伸びかける。
だめだ。
まだ開けない。
「……体調、大丈夫ですか」
律はそこで初めてこちらを見た。
少しだけ、柔らかい目だった。
「誰のおかげだ」
またそれを言う。
駆は笑ってしまう。
「俺ですかね」
「知らん」
奥の席から誰かが言う。
「なんだその会話。俺たち知らない話してる?」
「してません」
「してる顔だ」
「してねえ」
律が先に切り捨てる。
その即答が嬉しくて、駆はまた笑う。
二人だけが知っている夜がある。
二人だけが知っている朝がある。
そして、自分だけがまだ口にしない名前がある。
それでよかった。
今は、何も知らない顔でこの店に座る。
そのふりをしながら、誰より深くあの人を見つめている。
律が新しいグラスを手に取る。
氷が、澄んだ音を立てた。
その音まで愛しいと思ってしまい、駆はもう駄目だと思った。
Chapter 12 伝言
その日は、少し早い店じまいだった。
常連たちは名残惜しそうにしながらも、珍しく深追いせず帰っていった。
体調でも悪いのか、用事でもあるのか――誰も詮索はしない。
Sir Oleanderには、そういう節度があった。
駆も帰った。
……帰った、はずだった。
駅へ向かう途中で、胸元の違和感に気づく。
「あ」
上着だ。
椅子の背にかけたまま出てきてしまったらしい。
引き返すしかない。
少し走って戻ると、店の灯りはまだ落ちていなかった。
(よかった)
扉へ手をかけかけて、止まる。
中に、もう一人いた。
背の高い男だった。
灰色のスーツ。年齢は五十前後か、それ以上か。
姿勢が妙に整っていて、ただ者ではない空気がある。
カウンターの向こうに律。
二人きりで向かい合っていた。
駆は咄嗟に扉の陰へ身を引く。
入るべきではない気がした。
店内は静かだった。
「……お久しぶりです」
男の深く、艶のあるバリトンが滑らかに張り詰めた空気を震わせた。
「ああ」
律の声は低い。
「何年になります」
「数えてねえ」
「あなたらしい」
男は少しだけ笑った。
その笑みには、長い時間を見てきた者の疲れがあった。
「本日は、伝言を預かって参りました」
律の手が、グラスを拭く動きを止める。
「ミスターは、先月亡くなられました」
外気が一段冷えた気がした。
駆は息を呑む。
律は何も言わない。
「余命を宣告されてから、亡くなられた後もあなたに被害が出ないよう、かなりの根回しをなさいました」
彼の重厚な低音が夜の静寂に溶け込むようにあたりを支配する。
「昔の件を知る者、口を開きそうな者、記録、借り、遺恨……できる限り整理されました」
沈黙。
「一目会いたいとおっしゃれば、車椅子でもここまでお連れするつもりでした」
男はまっすぐ律を見る。
「ですが、望まれませんでした」
律の睫毛が、わずかに伏せられる。
「私が死んだ後、アレキサンドライトに伝言を、と」
その名が、店の空気を変えた。
駆の胸の奥の宝石箱が、内側から鳴る。
男はゆっくり続けた。
「——あの二年を、私は生涯忘れない」
律の肩が、ほんの少し強張る。
「君を憎んだこともある。だが、愛したことまで嘘にはできなかった」
そのバリトンを響かせて言葉を紡ぐ。
その低音は地面を伝うわずかな振動となって、律に届く。
「君に与えたものより、君から受け取ったものの方が多かったと、今なら分かる」
駆は指先に力が入る。
見てはいけないものを見ている気がした。
「だから、もう自由に生きろ」
男は一度、目を閉じる。
「誰にも買われず、誰にも使われず、君自身の望みで誰かを選び、選ばれろ」
律は動かない。
「……そして、どうか幸せに。」
長い沈黙が落ちた。
店の冷蔵庫の低い音だけが、遠くで鳴っている。
やがて律が口を開く。
「……余計な男だ」
それだけだった。
男は少し笑った。
「最後まで、そういう方でした」
スーツの男は深く一礼する。
「これで私の役目も終わりです」
「そうか」
「失礼します」
男は踵を返し、静かに店を出ていった。
駆は慌てて物陰へ下がる。
足音が遠ざかり、やがて完全に消える。
店内は、余韻を残したまままた静寂になった。
入るべきか。
帰るべきか。
迷っているうちに、ふと中の気配が変わった。
律はカウンターに片手をつき、うつむいていた。
声はない。
泣き声も、嗚咽もない。
ただ、肩だけが小さく震えていた。
駆は動けなかった。
あの人が泣くところなど、想像したこともなかった。
綺麗で、強くて、誰にも揺るがない人だと思っていた。
違った。
失った人がいて。
返せなかった想いがあって。
今も胸の奥に残る夜がある。
肩に夜気だけが残っていた。上着のことなど、もうどうでもよかった
胸が痛かった。
嫉妬ではない。
怖れでもない。
ただ、この人の幸せを、自分も願いたいと思った。
店の灯りが、静かに揺れていた。
Chapter 13 嵐の名残
今より少し若いころ、律には名前がいくつもあった。
本名で呼ぶ者は少なかった。
必要もなかった。
場所ごとに名を変え、役目ごとに顔を変え、
朝と夜で別人のように生きていた。
その中でも、長く残った名がある。
アレキサンドライト。
誰が最初にそう呼んだのか、もう曖昧だった。
だが広まった理由なら分かる。
昼と夜で色を変える石。
光によって姿を変え、どちらも偽物ではない石。
若い律に、よく似ていた。
当時の律は、ある組織の手駒だった。
企業同士の利権争い。
買収。脅し。失脚。
表では清潔な顔をした人間たちが、裏では泥を投げ合っている。
その泥の中へ、律は投げ込まれた。
体術。観察眼。
気配を消す技術。
そして、男たちが放っておかない美貌。
武器は多いほどいい、と教えられた。
視線の置き方。
触れさせる距離。
焦らし方。
欲しいものを相手に言わせる沈黙。
身体もまた、道具だった。
律はそれを嫌悪しながら、誰より上手く使った。
標的は複数いた。
横領を隠す役員。
人を使い潰す経営者。
政治家と寝ている仲介屋。
そういう男たちを落とし、情報を抜き、崩すことに躊躇はなかった。
腐った連中が沈むだけだと、自分に言い聞かせられた。
だが一人だけ、違う男がいた。
ミスター。
本名ではなく、誰もそう呼んだ。
年齢はずっと上。
要人で、金も権力もあり、頭も切れた。
高層マンションを与えられ、
愛人のように囲われていた。
だがそれは表向きで、実際には任務であり、ミスターは標的だった。
逢瀬の夜に鍵の場所を知る。
書類の癖を知る。
端末の暗証を盗む。
寝息の深さを測る。
同じ頃、別の案件も同時に抱えていた。
笑って抱かれながら、別の男を落とす算段をしていた夜もある。
若い律は、自分がどこまで汚れても平気な顔をしていた。
それでも、ミスターとの二年だけは少し違った。
彼は律を飾り物としてだけ扱わなかった。
会食に同席させ、意見を聞いた。
護衛として後ろに立たせた。
危険な場では、背を預けた。
律の体術の腕も知っていた。
「お前は綺麗なだけじゃないな」
笑ってそう言った。
嵐みたいな男だった。
強引で、傲慢で、金で何でも動かせると思っているような。
夜の彼は、昼よりずっと容赦がなかった。
律は激しく求められ、丁寧に甘やかされ、身体の隅々まで愛され方を覚えさせられた。
服従させられることに屈辱だけでなく快楽と安堵を覚える夜さえあった。
それが任務であることを、朝ごとに思い出さねばならなかった。
男もまた安堵を求めていた。
「全部片づいたら、海を見に行くか」
そんな未来の約束まで口にした。
律は一度も、うなずかなかった。
うなずけなかった。
核となる情報を奪う夜、手は震えなかった。
それが仕事だったからだ。
USBを組織へ渡せば、長い任務は終わる。
自分も自由になれる。
そう思っていた。
だが終わったあと、何も軽くならなかった。
ミスターの企業は傾いた。
連鎖的に人が消えた。
職を失った者も、自ら命を絶った者もいたと聞いた。
それも、自分の手で落とした現実だった。
発覚した夜、追手が来た。
狭い路地。
血。雨。
刃物の光。
「連れて来い。殺すな」
ミスターの命令だと、男は言った。
もう一度私のものにする。
そう伝えろ、と。
憎悪で満ちた声が頭の中でこだまする。
律は何人か倒したが、多勢だった。
膝をつきかけたとき、別の車が止まった。
扉が開き、長身の男が降りる。
征一だった。
「乗れ」
短い一言。
車へ押し込まれ、その腕に抱かれる。
雨の中、追手の怒号が遠ざかる。
窓越しに見えたミスター本人の姿はなかった。
ただ、声だけが背後で響いた。
覚えていろ。死んでもお前を許さない。
その後、組織も離れた。
何もかも嫌になった。
自分の身体も。
覚え込まされた技術も。
人を狂わせる顔も。
うまく笑えない口元も。
自ら命を絶とうと考えさえもした。
どのくらい長い間そうして思い悩んだのか。
一つ季節を超えたある時、征一が仕事を持ってきた。
「人を助ける側で使え」
馬鹿みたいな言葉だった。
だが、少しだけ救われた。
バーに立つ今の律は、昔より静かだ。
視線の使い方も、沈黙の間も、男を惹きつける所作も、身体が覚えている。
だが、もう武器にはしたくなかった。
誰かを落とすためではなく、
ただ一杯の酒を渡すために使いたかった。
そして、あのまっすぐな年下にだけは。
技術ではなく、
嘘でもなく、
初めて自分のままで触れたいと思っていた。
Sir Oleanderの閉店後。
一人残ったカウンターで、律はグラスを磨く。
手は正確に動く。
だが胸の奥には、嵐が去ったあとの海のような静かなさざなみがまだ残っていた。
そして今、その海の向こうから、金色のライオンみたいな男がこちらへ歩いてくる。
眩しくて、少し困るほどに.
Chapter 14 踏み込む覚悟
過去のことを知ってから、駆は少し変わった。
Sir Oleanderへ通う足取りは変わらない。
笑う回数も、言い返す調子も変わらない。
常連たちにからかわれて赤くなるのも相変わらずだった。
けれど、内側だけが違っていた。
あの閉店後の夜。
伝言。
アレキサンドライトという名。
そして、声もなく震えていた肩。
あれからずっと、胸の奥に何かが残っている。
余韻のように。
痛みのように。
熱のように。
その夜も、店はいつも通り賑わっていた。
「駆くん、最近男前になったな」
「急に何ですか」
「顔つきが変わった」
「気のせいです」
「恋か?」
「ずっとしてます」
笑いが起こる。
カウンターの向こうで、律がグラスを拭く手を止めもせず言った。
「騒ぐな」
「照れてる?」
「黙れ」
常連たちはさらに笑う。
駆も笑った。
こういう夜が好きだった。
この店の空気が好きだった。
そして、その中心に立つ人が好きだった。
以前より、ずっと。
閉店後。
最後の客を見送り、店の灯りが少し落ちる。
「帰れ」
律が言う。
「嫌です」
「なんでだ」
「話があります」
「面倒そうだな」
「はい」
少し間があって、律はため息をついた。
「五分だ」
「十分ください」
「図々しい」
「好きな人にはそうなります」
「……うるせえ」
けれど追い出されはしなかった。
二人で店を出る。
夜風が頬を撫でる。
人気の少ない通りを並んで歩く。
しばらく無言だった。
駆は何度か言葉を選び直し、やっと口を開く。
「俺、今まで遠慮してました」
律の足がわずかに緩む。
「……何の話だ」
「あなたのことです」
まっすぐ前を向いたまま、続ける。
「律さんのこと、何も知らなかったから」
夜の横顔は静かだった。
「知りたいくせに、聞いていいのか分からなくて。勝手に踏み込んだら嫌われる気がして」
「嫌ってねえだろ」
「そういうところです」
思わず言い返すと、律が鼻を鳴らす。
駆は息を整えた。
「あの夜」
脳裏に、閉店後のカウンターが浮かぶ。
静かな店。
去っていく男。
そして、肩だけが小さく震えていた背中。
「あなたを、少し知ることができました」
律の表情が、わずかに固くなる。
「……何の話だ」
「この前、閉店後に」
駆は足を止めた。
「上着、忘れて取りに戻ったんです」
沈黙。
「盗み聞きみたいになってしまって……ごめんなさい」
律も立ち止まる。
街灯が二人の影を長く伸ばしていた。
「……聞いたのか」
「はい」
低く息を吐く音がした。
怒るかと思った。
冷たくされるかと思った。
けれど律は、何も言わなかった。
駆は一歩だけ近づく。
「律さんに」
喉が乾く。
「もっと踏み込んでいいですか」
その言葉が夜に落ちる。
しばらくして、律がこちらを見た。
瞳の色は読めない。
「……お前に何がわかる」
低く、鋭い声だった。
駆の胸が痛む。
それでも目を逸らさなかった。
「全部は分かりません」
「だろうな」
「でも」
拳を握る。
「あの夜から、いっぱい考えました」
震えそうになる声を押し戻す。
「人を傷つけたことがあったのかもしれない。取り返しのつかないこともあったのかもしれない」
律の眉が寄る。
「強盗とか、殺人とか……」
「まてまて」
珍しく焦った声が出る。
「そこまでのことはしてねえ」
駆は一瞬きょとんとする。
「……そうなんですか」
「そうなんですか、じゃねえ」
頭を抱えるように額へ手を当てる。
「……まあ、間接的にはそういうことになるかもしれねえか…」
その言い方が、余計に重い。
けれど駆はもう止まらなかった。
「それでも好きなんです」
夜気が止まる。
「今のあなたが好きなんです」
一歩、また近づく。
「過去が、今のあなたを作ってる」
声が震える。
目の奥が熱い。
「なら、その過去ごと好きでいたい」
涙が盛り上がり、視界が滲む。
「もし本当に何か背負ってても、一人にしたくない」
喉の奥が痛い。
「もし、全部知っても苦しくなるような過去でも」
律が息を呑む。
「もし、逮捕されるとか…になっても、待ちます」
「待つな」
「待ちます」
「聞け」
「心に決めた人なんです」
言い切ると、とうとう涙があふれ出てしまった。
情けなくて、でも止められない。
泣きながら言う台詞じゃないと思った。
それでも本心だった。
「だから、もっと踏み込ませてください」
長い沈黙が落ちた。
車の走る音が遠くを流れていく。
律はしばらく何も言わず、やがてゆっくり手を伸ばした。
駆の頬に触れる。
涙を親指で拭い、そのまま耳の後ろへ指を滑らせる。
優しい手だった。
「……重てえ告白だな」
駆は泣き笑いになる。
律は少しだけ口元を緩めた。
見上げる瞳は夜の明かりを受けて揺れている。
「……もう少し考えさせろ」
拒絶ではなかった。
その事実だけで、十分だった。
「はい」
「泣くな」
親指が、頬に残った涙の跡をもう一度なぞる。
「それと——捕まることはない」
思わず駆が瞬きをする。
律は呆れたように目を細めた。
「お前の想像は大げさすぎる」
低い声には、わずかな苦笑が混じっていた。
「……安心しました」
震える声でそう言うと、律は小さく息をつく。
「まったく、忙しい男だ」
夜の街灯の下で、二人の影だけが静かに寄り添っていた。
Chapter 15 花降る帰り道
数日、何もなかった。
Sir Oleanderへ行けば、律はいつも通りそこにいた。
グラスを磨き、客をあしらい、短い言葉で駆を揺らす。
駆が魂の叫びのような告白をしたあの夜が夢だったみたいに、何事もない顔をしていた。
駆も、何事もない顔をした。
けれど内側は、全然いつも通りではなかった。
言いすぎたかもしれない。
重かったかもしれない。
引かれたかもしれない。
それでも、後悔だけはなかった。
あれが本心だったからだ。
その日は休前日で、店は少し遅くまで賑わっていた。
常連たちも機嫌がよく、グラスの音と笑い声がやわらかく混じる。
「駆くん、今日はそわそわしてるな」
「してません」
「してるよ」
「恋人待ってる顔だ」
「いません」
「いるだろ、目の前に」
店内がどっと笑う。
「うるせえ」
律が低く切り捨てる。
駆は耳まで熱くなりながらフィズを飲んだ。
(……ほんとに心臓に悪い)
閉店が近づくにつれ、落ち着かなかった。
今日は、何かある気がした。
根拠はない。
でも、ある気がした。
最後の客が帰り、灯りが少し落ちる。
駆が席を立つと、背中に声が落ちた。
「送る」
振り向く。
律はもうエプロンを外していた。
「……え」
「嫌ならやめる」
「嫌じゃないです!」
即答してしまい、自分で赤くなる。
律は鼻を鳴らしただけだった。
夜道を並んで歩く。
いつもなら駆が話し、律が半分流し、たまに刺す。
そんな調子なのに、今日は二人とも妙に静かだった。
駆は何度も口を開きかけて閉じる。
明日休み。
遅くても大丈夫。
それは本当だ。
でも本当に聞きたいのは、そこじゃない。
「……あの」
「なんだ」
「明日、休みなんで」
「知ってる」
「俺は、遅くても平気です」
「そうか」
会話が下手すぎる。
駆は思わず立ち止まりそうになる。
律は横目でこちらを見た。
駆は腹を括った。
「ところで……考え、どうなりましたか」
夜風が通る。
数歩、沈黙が続いた。
やがて律が足を止める。
街灯の下、少し俯き、無意識みたいに頭を掻く。
珍しく、落ち着かない仕草だった。
「俺にそんな価値があるか、考えた」
低い声。
駆の胸が跳ねる。
「……だが、お前は何を言っても聞かねえし…」
少しだけ呆れたように言って、それから視線を逸らす。
「それに——お前が来るようになってから、俺は少し幸せだ」
息が止まる。
律は眉間に皺を寄せたまま、言葉を探すように黙った。
「だから……」
俯く。
「あー…、…上手く言えねえが」
小さく息を吐く。
そして、こちらを見ないまま言った。
「お前を、失いたくないと思ってる」
世界が静かになった。
駆は数秒固まり、それからたまらず律へ抱きついた。
「おい」
「律さん、ほんとに?!」
勢いよく離れて顔を覗き込む。
律は面倒そうな顔をしながら、控えめに頷いた。
その仕草が嬉しすぎて、胸がいっぱいになる。
幸せだ。
とんでもなく幸せだ。
このまま駅で別れるなんて無理だった。
駆はその幸福感を必死に押し留め、喉を鳴らした。
「……あの」
「なんだ」
「今日は、帰したくないです」
律の視線がこちらへ向く。
逃げるな、俺。
「うち、来ませんか」
言えた。
けれど緊張で止まらない。
「紅茶、あります。いい茶葉買いました」
律の口元がわずかに動く。
断られたくなくて、駆はどんどん早口になる。
「玄関の靴も片づけましたし、部屋も掃除して……」
「…」
律は口を閉じて聞いている。
駆は口実が途絶えたのか少し黙った後、
「…電球、切れてて……」
そこで、律がふふ、と吹いた。
初めて聞くような柔らかい笑いだった。
駆までつられて笑ってしまう。
「ちょ、笑わないでくださいよ!」
「無理だ」
また少し笑う。
それだけで、答えは十分だった。
「行くぞ」
「・・・え?」
「電球だろ」
駆は思わず一歩前へ出た。
「はい!」
二人は並んで歩き出す。
さっきまでと同じ夜道なのに、景色がまるで違って見えた。
街灯の光はやわらかく、春でもないのに花でも舞いそうだった。
駆は隣を歩く人を盗み見る。
律は前を向いたまま、ほんの少しだけ機嫌がよさそうだった。
その横顔を見ただけで、また幸せになってしまう。
今夜、自分の部屋へこの人が来る。
その事実だけで、胸が何度でも満たされた。
Chapter 16 帰さない夜
駆の部屋は以前と変わっていなかった。
整えているつもりでも、律の家を知ってしまった今では甘い。ソファの端に脱ぎっぱなしのカーディガン、テーブルの雑誌、少し斜めになったクッション。
「……すみません、散らかってて」
「前よりマシだ」
「前回ひどかったみたいな言い方やめてください」
靴を脱いだ律が室内を見回す。
その姿が自分の部屋にあることが、まだ信じられない。
「紅茶、飲みますか」
「飲む」
駆は慌ててキッチンへ立った。
手元が危ない。茶葉を落とし、カップを鳴らし、水をこぼしそうになる。
「落ち着け」
背後から低い声が飛んでくる。
「無理です」
「そうか」
少し笑った気配がして、胸がうるさくなる。
紅茶を飲みながら、二人はしばらく他愛ない話をした。
店のこと。サロンのこと。征一の無茶ぶりのこと。
話しているのに、どこか静かだった。
互いに、今夜の先を意識している。
時計の針が進む音だけが妙に大きい。
「……シャワー、使いますか」
駆が勇気を出して言うと、律はカップを置いた。
「先に入れ」
「え、俺?」
「落ち着いてこい」
図星だった。
「……はい」
シャワーを浴びても、落ち着かなかった。
むしろ熱くなった。
鏡に映る自分の顔はひどい。
期待と緊張と、どうしようもない喜びが全部出ている。
着替えて部屋へ戻ると、律がソファに座っていた。
脚を組み、静かにこちらを見る。
「次、どうぞ」
「……ああ」
すれ違うとき、肩が触れた。
それだけで息が止まりそうになる。
浴室に向かう律に、駆はパジャマを差し出した。
「これ……よかったら」
「でかいな」
「俺のなんで」
受け取って、無造作に浴室へ消えていく。
ドアが閉まったあと、駆はその場にしゃがみ込んだ。
やばい。
やばい。
本当にいる。
シャワーの物音がやんで、
ゆるいパジャマ姿の律が出てきた瞬間、駆は言葉を失った。
袖は少し長く、肩も余る。
見慣れない柔らかい格好なのに、どうしようもなく似合っていた。
「……何固まってる」
「いや……その……」
「気持ち悪いぞ」
「すみません」
ベッドへ行くにはまだ早い気がして、二人でソファに座った。
少しだけ距離をあけて。
テレビもつけない。
音楽もない。
沈黙だけがある。
駆は何度も手を握って開いた。
言わなければと思う。今夜、ちゃんと。
立ち上がった律が窓の鍵を確認する。
その背中を見た瞬間、身体が先に動いた。
後ろから、強く抱きしめる。
「……まき」
「すみません、でも……もう無理です」
腕の中の体温が確かにある。
細く見える背中。けれど芯は強い。
「やっとだ、やっとこうできる」
肩へ顔を埋める。
息が震える。
「俺のこと、受け入れてくれますか」
返事はすぐには来なかった。
「……律さんみたいに、俺、経験ないし」
抱く腕に力が入る。
「うまくできるか分かんないです。余裕もないし、格好悪いと思う」
本音ばかりがこぼれていく。
「でも、好きなんです」
喉が熱い。
「どうしようもないんです。この気持ちに、逆らいようがない」
胸の奥で、若い獣みたいな衝動が暴れている。
もう頭じゃない。
心臓も、呼吸も、血も。
俺を形作っている全部が、腕の中の人を離すなと暴れている。
「……今、俺の中の全部が、あんたを欲しがってる」
静かな部屋に、自分の息だけが荒い。
やがて、律の手が駆の腕に触れた。
ほどくのかと思って、息を呑む。
違った。
その手は、抱きしめる腕をなぞるように撫でてから、そっと重なった。
次の瞬間、律はその手を取り、自分の胸へ導く。
どくん、と強い鼓動が掌に伝わる。
駆が息を呑む。
「……お前の心臓もうるせえが」
低い声が、静かな部屋に落ちる。
「俺のも、このくらいは暴れてる」
振り向かないまま、続ける。
「お前の望みを叶えてやりたいと思ったことは、何度もある」
菓子を買ってやりたくなった時も
店に来たいと、あのサロンで言った時も
昼の仕事を知りたがった時も
顧客になりたいと拗ねた時も
……俺のことを、欲しがる時も。
律は短く息を吐く。
駆の喉が震える。
「今日、叶えてやれる」
そこで初めて、律がゆっくりと振り向く。
濃い灰色の虹彩に縁どられた黒い瞳が、まっすぐ駆を射抜いた。
「俺の願いも、叶う」
駆の呼吸が止まる。
「まき」
名を呼ぶ声が、やさしく、深い。
「お前の覚悟に見合うように——俺は、何ができる」
律の精一杯の告白。
「俺にできることなら、なんでもしたいと思ってる」
その瞬間。
駆の中で、何かが決壊した。
Chapter 17 夜明けに花束を
唇が触れた瞬間、駆の肩が震えた。
あれほど欲しがって、何度も言葉にして、何度も手を伸ばしてきたくせに。
いざ受け入れられると、まるで初めて恋を知った少年みたいに、素直に揺れる。
その震えが、律にはたまらなく可愛く見えた。
「……なんだ、その顔」
掠れた声で言いながら、肩を抱き寄せる。
熱い体が腕の中へ収まる。
駆は息を乱し、至近距離で律を見つめた。
「……無理です」
「何がだ」
「好きすぎて」
馬鹿みたいに真っ直ぐな返事だった。
律が呆れたように目を細めた、その一瞬だった。
体勢が反転する。
視界が揺れて、次の瞬間には背中が沈み込んだ。
少し驚いて目を見開き、
夜そのものを閉じ込めたような瞳が揺れた。
ソファのクッションが軋む。
覆いかぶさる影。
駆だった。
さっきまで腕の中で震えていた男が、今は獣みたいな目でこちらを見下ろしている。
金の髪の隙間から覗く瞳が、熱を帯びて鋭い。
「……お前」
「言ったでしょ」
低い声だった。
甘える時の声ではない。
サロンで笑う時の声でもない。
男の声だった。
「俺、もう子どもじゃないです」
律の呼吸が浅くなる。
駆の手が、逃がさないように手首を押さえる。
強い。若い力だ。
「可愛いって顔して見てるけど」
少しだけ口角を上げる。
「今日は、あなたを抱く男です」
胸が跳ねた。
その言葉に。
その眼差しに。
ずっと真っ直ぐ欲しがってきた男が、ついに牙を見せた。
甘さの奥に隠していた、本能そのものの牙を。
「……生意気だな」
「好きな人の前では、ずっといい子にしてました」
顔が近づく。
「でももう、無理です」
キスはさっきまでと違った。
深く、強く、容赦がない。
欲しかったものをようやく手に入れた男の、飢えた熱だった。
律は息を呑み、それから諦めたように腕を回す。
この若い獣は、もう止まらない。
なら——受け止めるしかない。
「……早くしろ」
低く告げると、駆の瞳が揺れた。
嬉しそうに。
誇らしそうに。
そして、どうしようもなく男らしく。
そのまま二人は、夜の奥へ傾れ込んでいった。
朝、目が覚めても、しばらく動けなかった。
隣に、律がいる。
それだけで、胸がいっぱいになる。
薄いカーテン越しの朝日。
静かな寝息。
シーツの中に残る体温。
やっとずっと待ち望んだ色々なあなたを見た。
全てを手に入れたとは思っていない。
でも、今俺の腕の中で眠っている。
眠るあなたはまるで猫のよう。
本当に俺にすべて預けてくれているかのように見える。
不思議な気持ちになる。
本当は、触れる前は怖さもあった。
オレアンダーの花弁のように可憐で壊してしまいそうだとか。
毒に侵され殺されてもいい、とか。
でも実際は、想像をはるかに超えていた。
ただただ大輪の花の花束のように、
やわらかで、
でも強くて、
俺の中の男を全部丸ごと受け止めて満たしてくれた。
過去の自分が報われたような気持ちだった。
やっと、ここまで、手が届いたんだ。
ふわふわした思考の中へ
昨夜のことが、断片みたいに戻ってくる。
途中で何度も、俺の名前を呼んだこと。
それから——
『……律さん、凄い……』
思わず漏れた自分の声まで思い出して、顔を覆いたくなる。
あれは本音だった。
体力も、余裕も、何もかも俺の方があると思っていた。
若さで押し切れると思っていた。
なのに。
途中から、俺の方が必死だった。
息も上がって、夢中で、翻弄されて。
この人は細い体のどこにあんな熱を隠しているんだろうと、本気で思った。
経験とか、余裕とか、そういう言葉じゃ足りない。
ただ、律さんには敵わなかった。
まだ、今は。
「……好きだ……」
小さく呟く。
昨日より、もっと好きになっている。
困るくらいに。
そのとき、隣から低い声がした。
「朝からがさがさと・・・」
飛び上がりそうになる。
見ると、律は目を閉じたまま口元だけ少し動かしていた。
「起きてたんですか!?」
「途中からな」
ようやく目を開けた黒曜の瞳が、眠たげにこちらを見る。
「……お前の声、悪くなかったぞ」
一秒、止まる。
二秒後、駆は枕に顔をS埋めた。
無理だ。
今日もたぶん、何も手につかない。
Chapter 18 アレキサンドライト
昼の律を知ったのは、偶然だった。
古い住宅街。
作業着。
三角巾。
大きなマスク。
脚立に乗って、黙々と玄関灯を替える男。
子どもに飴玉を渡し、
老夫婦に礼を言われても、
面倒そうな顔でさっさと帰っていく人。
知らない名前で呼ばれていた。
知らない時間を生きていた。
それなのに、どうしようもなく、あの人だった。
夜の律を知ったのは、もっと前だ。
Sir Oleanderのカウンター。
黒いシャツ。
整えられた前髪。
ブルーアッシュの瞳。
磨かれたグラス越しに、
男たちの熱も欲も、ひとつの視線で静めてしまう人。
指先ひとつで空気を変える人。
近づけば熱いのに、
どこか遠くて、
簡単には触れさせてくれない人。
駆は、最初その人に恋をした。
朝の律を知ったのは、もっとあとだった。
寝起きで機嫌が悪く、
髪は少し乱れていて、
「朝からうるせえ」が第一声の人。
紅茶の茶葉には妙にうるさく、
掃除には一切手を抜かず、
トーストの焼き加減には厳しい。
なのに、
熱を出した夜には無意識で手を探し、
眠ったまま指先を掴んで離さなかった人。
助かった、と小さく言って、
照れたように目を逸らした人。
昼と夜。
冷たさと優しさ。
鋭さと不器用さ。
強さと寂しさ。
過去と今。
どれも違う色だった。
けれど、どれひとつ偽物ではなかった。
全部、本物だ。
全部、律だ。
その夜、Sir Oleanderは静かだった。
駆はいつもの席に座り、
いつものフィズを受け取る。
「……どうした」
低い声。
「何でもないです」
「嘘つけ」
「ほんとです」
笑うと、律は呆れたように鼻を鳴らした。
その横顔を見ながら、駆は思う。
この人には、
自分の知らない時間がまだたくさんある。
知らない痛みも、
知らない誇りも、
知らない名前も、まだきっとある。
それでも、いい。
全部知ってから好きになるんじゃない。
好きになった人を、
これから少しずつ知っていくのだ。
閉店後。
最後の客が帰り、
灯りが少し落ちる。
「帰るぞ」
律が言う。
短く、当然みたいに。
「はい」
駆は立ち上がった。
並んで店を出る。
夜風が吹く。
街灯の下、隣を歩く横顔は綺麗で、
少し眠そうで、
どこかやさしかった。
胸の奥で、
ずっと大事にしまっていた名前が光る。
アレキサンドライト。
けれど、駆は口にしない。
今のこの人には、今の名前がある。
手を伸ばせば届く距離にいる、
赤城 律という名前が。
昼も夜も、
色を変えても変わらない、
愛しい人の名前が。
終