
通販先生、夜へ
「奥様、こちらのボタンには貝ボタンをお選びになると大変よろしいかと」
確かそのような会話が聞こえてきた。
さすが、いつもエルメスの食器が出てくるだけあって、自宅までオーダーの伺いが来るのだ、と別世界の事情に感心しながら方程式を教えていた。
今日は頭が重いのでお茶の時間を早く切り上げて失礼しようと思っていたところへ、珍しくご主人が帰宅してきた。「先生」と呼ばれる職業のご主人で、かなりワンマンな方だと聞いている。
急に子ども部屋の扉を開けて
「先生、よかったらこの後、お食事でも!大丈夫ですよね。お時間あるでしょう」
と、先生から先生と呼ばれるほどの者ではなく、断れる雰囲気でもなく、ご一緒することになった。
その日に限って通販のセーターにスカート。センスのかけらもない楽あれば苦なしファッションで、ため息しか出ない。
連れられた場所は名高い中華料理店。
ノー勉でここ1番の試験を受けるような気持ちで足を踏み入れると、白で統一された店内に深紅のビロードの絨毯がしかれている。光沢も均一でよく手入れされていることがわかる。
通された個室にはサービス担当が1人ついた。張りのある生地の白いシャツに滑らかな光沢の黒のスカート。一流オーケストラの一員を思わせる。
顔がはっきり映るほどのカトラリーが並べてあるテーブルを囲むのは、仕立ての良いスーツにポケットチーフをあしらった先生、スタンドカラーのブラウスにタフタのスカート、大きなカメオのブローチが肌と親和する奥様。そして通販先生だ。
料理が運ばれるまで何を話したかは覚えていないが、最初の一枚に目を奪われた。薄く鋭い皿の縁から急勾配のカーブを描き、底の窪みにつながる。
安部公房の砂の女はここに住んでいたような形状だ。
氷の乱反射を思わせる透き通る乳白色で、テーブルに置かれるとカチリと音が響いた。
窪みの中には、黄色いもの…
そうだ、黄色いものがある。
エスニックな香りもする。
こういう店で、料理にカレー粉を使うのは掟破りだという変な信条が私にはある。
しかし、香りからしてどうもカレー粉だ。
ひとくち食べてみたが、答えは変わらない。
鶏とブロッコリーのカレー炒め以外の何物でもない料理があんな磁器の皿に盛られていたはずがないように思うが、その疑いは最後の料理まで晴れなかった。
小学生の頃から割烹でどじょう鍋なども食べていた舌の素性がこんなところで明かされるとは。
「先生、もう一件いきましょう!」
繁華街の夜。平日なんて初めて来たかもしれない。黄色い看板に赤い文字、自然界ではなかなかお目にかかれないネオンの彩りの中に通販先生は吸い込まれていく。
クラブの中ではギラギラとした帯留めの女性が目の前に座っていた。先生が席を外し、テーブルの上にあるバカラの水差しを女だけが囲む。少しだけ止まった空気が
「奥様のネイル素敵!」
という桜色のワンピースを着た女性の一言で動き出す。ネイルの展示会の間、チョンチョンに切った爪を隠すために手を丸めて膝に置き、インコのようにじっと時が過ぎるのを待った。
いよいよお開き…にはならず、最後の地はゲイバーであった。
「先生歌ってください!」
ミラーボールの下、私はマイクを握っていた。
ショータイムが終わり、先生ご夫妻がデュエットしているとママが私のそばにやってきた
「あんた!厚かましいわねえ。でも大した度胸よ。持ってなさそうなのもいい。
あんた、大物になるわよ。」
バーを出ると、街はすっかり夜の住人ばかりになっていた。カレーの記憶にようやくスパイスが効いた気がした。