
42.195km 人生はバラ色じゃない、でも(創作大賞2026エンタメ原作部門応募作)
あらすじ
貯金残高846円。事故による失職、離婚、非正規雇用――就職氷河期世代の小池空は、人生のどん底にいた。ランナーとの出会いが彼の運命を変える。走ることは、失った人生を取り戻すための挑戦になった。家族への想い、仲間との絆、何度も訪れる挫折。それでも歩みを止めず走り続けた先に見えたものとは。再生と挑戦を描く物語。
本編
貯金残高、846円。
オレの名は小池空、37歳。
親は団塊の世代で、いわゆる団塊ジュニアの最後の方の生まれだ。世間では就職氷河期世代とも言われている。
オレは今、コンビニのATMの前に立ち尽くしている。
「貯金残高846円」
――これでは現金を下ろすこともできない……。
なんでこうなった……。オレは幸せな人生を歩めるはずじゃなかったのか? 勉強はあまりしっかりやってこなかったけど、真面目に生きてきたはずだぞ。
なんで? なんで? なんで?
10年前、オレは幸せの絶頂だった。
2年半付き合った彼女と結婚し、新婚旅行はニューヨーク。
◆就職活動
就職氷河期世代のオレは、就職活動にすごく苦労した。受けても受けても不採用の通知ばかり。日本経済はどん底だった。ニュースをつければ、不良債権だのリストラだの、暗い話ばかりだった。特に優秀でもない凡人が、大手や安定企業に就職できる時代ではなかった。ん、待てよ。「まともそうな雰囲気で、まともじゃない会社」なら、世間体を保ちながら就職できるんじゃないか?オレがたどり着いた先は、証券会社だった。証券会社の営業職は、成績さえよければ高給がもらえるらしい。一方、成績が悪ければノルマに耐えられずどんどん退職していく。いわゆる「間口は広いがサバイバル」な世界だ。
◆証券会社
「証券会社」という響きだけで、とりあえずの世間体は保てる。そんな安易な理由で、オレは証券会社の営業職に就くこととなった。入社したときは日本経済がまさにどん底で、親からは「そんなところに入社して潰れない?」と心配された。だが、夜明け前が一番暗いとはよく言ったものだ。オレが入社してしばらくすると、日本経済は大底を打って大復活を遂げる。死にかけだった企業が次々と黒字転換し、株価はうなぎ登り。オレの営業成績は取り分け良いわけではなかったが、好況の波に支えられて、それなりにうまくいっていた。
◆不穏な影
オレは子供が好きだ。3人兄弟の長男ということもあってか、子供の面倒を見るのは慣れているし、子供からも好かれやすい。だから、20代のうちに結婚し、早く子供が欲しいと思っていた。そんな中、同い年の瑠奈(るな)と出会い、2年半の交際期間を経て結婚することとなった。小池空、27歳の時であった。新婚旅行は、ニューヨーク!毎朝、ニュースで見ていたタイムズスクエア。その目の前にあるマリオットホテルに宿泊した。
ヤンキースタジアム、メトロポリタン美術館、エンパイア・ステート・ビル、セントラルパーク……。瑠奈と一緒に、これでもかとニューヨークを満喫した。
いわゆる、バブリーな新婚旅行だ。費用はすべてオレが出した。いくら使ったのか、もう覚えていない。ニューヨークといえば、金融の街だ。ウォール街にある大手証券会社の前でも、もちろん記念撮影をした。
――そんな中。
米国の大手証券会社の業績に、うっすらと陰りが見え始めていた。だが、当時のオレはそんな不穏な気配など気にも留めず、ただ目の前の甘い新婚生活を楽しんでいた。
◆リーマン・ショック
結婚から間もなく、第一子が誕生した。可愛い女の子だった。オレたちは蒼(あおい)と名付けた。まさに、幸せの絶頂であった。しかし、オレたち家族が幸せな日々を送る一方で、世間では不穏なニュースが流れ始めていた。入社以来、ずっと右肩上がりだった株価の上値が重くなる。そんな中、新聞紙面に『サブプライム問題』という見慣れない言葉が載り始めた。
その時のオレは、まだ事の重大さを理解していなかった。
その数カ月後、
米国の大手証券会社リーマン・ブラザーズが破綻した。
世界経済は、未曾有の不況モードに突入していく。
◆ボーナスがない?
ボーナスが出ない。
耳を疑った。
株価の暴落により、証券会社の業績は急激に悪化。最大手の証券会社でさえ赤字に転落するという、異常事態に陥っていた。
ボーナスはゼロ。
出来高に応じて支給されていたインセンティブも消えた。生まれたばかりの我が子を抱える小池家。その頭上に、ねっとりとした暗雲が立ち込め始めていた。
◆ケンカとパワハラ
家計が苦しくなると、夫婦仲はぎくしゃくしやすい。我が小池家も例外ではなかった。些細なことでケンカがヒートアップしてしまう。しかもオレは、妙な男気を出して「オレが稼いでくるから、瑠奈は仕事をやめて子育てに専念してほしい」と、正社員で働いていた瑠奈を退職させていた。それゆえに、瑠奈の不満は大きかった。ケンカばかりの家庭は、精神的に相当つらい。日々、オレと瑠奈、そして蒼は、じわじわと精神をすり減らしていった。そこに、新たな地獄が襲いかかる。
――パワハラだ。
もともと当時の証券会社は、いわゆる「オラオラ系」の職場が多かった。景気の良い時でさえ、数字が悪いと容赦なく『詰め』られたものだ。『詰め』とは、ノルマ未達の社員を長時間追い込むように叱責することだ。そんな折、オレの支店に新しい支店長が赴任してきた。一緒に仕事をするのは初めてだったが、「詰めがかなり厳しく、彼の部下は精神的に耐えられず次々と辞めていく」という悪名はかねてより耳にしていた。実際に洗礼を受けてみると、その詰めは想像を遥かに超えるものだった。内容は営業の枠にとどまらず、人間性まで徹底的に否定する。今なら到底許されないようなパワハラだった。
毎朝、成績が一番悪い社員がターゲットにされた。朝から丸々1時間説教で詰められ、その日の成績が悪いと、夜もまた詰められた。みんな、自分を守るために必死だった。追い詰められた人間は、ある種恐ろしい発想に傾く時がある。自分がダメそうな時は、他のメンバーを自分より下に引きずり落とせばいいのだ。上司にひたすら媚びる者。上司と一緒になってターゲットを攻撃する者。告げ口をする者。方法は様々だった。そしてオレは、その職場で「ターゲットにされやすい要素」をすべて持ち合わせていた。
まず、人に媚びるのが大嫌いだった。そのうえ理不尽なことに対して「理不尽だ!」と言い返してしまう不器用な性格。営業成績が取り立てて良いわけでもない。当然のように、オレは支店長の格好のターゲットになった。ひどい時には夜中の1時まで解放されず、家では瑠奈が心配して電話をかけてくるほどだった。家庭も職場も、ぐちゃぐちゃだった。気がつけば、他人を思いやる余裕などどこにもなくなっていた。
そして事態は、最悪の展開へと突き進んでいく。
◆離婚と退職
あの頃は、家にいる時間こそが地獄だった。職場で精神を完全にすり減らしたオレは、瑠奈に対して思いやりの気持ちを持つことすらできなくなっていた。顔を合わせれば、決まって激しいケンカが始まった。間に挟まれた蒼は、どれほどつらい思いをしていただろう。毎晩、寝室から蒼の激しい歯ぎしりが聞こえてくるたびに、オレの胸は締め付けられるようだった。そんなある日、夫婦喧嘩が今までにない熱量までヒートアップした。耐えかねた瑠奈は、蒼を連れて実家へと帰っていった。――その状況のなかでも、バカなオレは、自分は悪くないと頑なになり続けた。迎えに行くこともしなかった。「そのうち頭を冷やして帰ってくるだろう」と、高を括っていたのだ。
だが、二人が帰ってくることはなかった。
それから、3年。
自宅のポストに、家庭裁判所から離婚調停の申立書が届いた。数カ月にわたる不毛な調停の末、オレたちは正式に離婚することとなった。その間も、職場では相変わらず支店長からの詰めに耐え続ける日々が続いていた。気がつけば、65キロあった体重は57キロまで激減し、鏡の中のオレは骨と皮だけになっていた。離婚が決まった日、オレの中で何かがプツリと切れた。
「もう、いいや……」
15年間、しがみついてきた会社を辞めることにした。東日本大震災から、4年が経った頃のことだった。世間はアベノミクスとやらに沸き立ち、日本経済は復活を遂げつつあった。だが、オレの壊れた人生が、元に戻ることは二度となかった。
オレに何ができる?
会社を辞めたものの、これからどうするかなど、何も考えていなかった。いろいろと職探しをしてみたものの、37歳、潰しの利く資格もない。
世間の風は冷たかった。
「今までの経験を活かされては?」ハローワークや転職エージェントの職員は、誰もが異口同音にそう言ってきた。冗談じゃない。あのブラック企業での営業なんて、もうまっぴらごめんだ。支店長からのパワハラは、オレの心にどす黒い傷跡を残していた。今でも毎晩のように夢に出てきては、冷や汗をかいて目が覚める。もう二度と、ノルマに追われ、詰められる日々には戻りたくなかった。だが、養育費を払えるだけの給料がもらえて、なおかつホワイトな企業。そんな都合の良い場所に、オレのような人間が入り込める隙間などどこにもなかった。でも、金がいる。追い詰められた人間が、最後に流れ着きやすい場所がある。――相場の世界だ。
◆信用取引
『300万円を30億円にしました』
SNSには、そんな夢のような成功談が溢れていた。そんな投稿を見かけるたび、誰もが「オレにもできるかも」と夢を見る。元証券マンだったオレは、なおさら自分にもできる気がしていた。しかし、手元に金がない。会社を辞め、まともな仕事もしていない中で、毎月の養育費、国民年金、国民健康保険料、そして前年の所得に応じた住民税が容赦なくのしかかる。実家に住まわせてもらっていても、貯金は恐ろしい勢いで減っていった。そんな人間を誘惑する仕組みが、金融の世界には存在する。
――信用取引だ。
手持ちの金を証券会社に預ければ、その数倍の資金で取引ができる。資金が少ない弱小投資家でも、これならまとまった勝負ができる。
最初は、うまくいっていた。
今日は3万円の勝ち。
今日は2万円の勝ち。
コツコツと、だが確実に勝てていた。そうなると、大抵の人間は気が大きくなる。「もっと儲けたい。投資金額を大きくすれば、一気に生活が楽になる」と。人間というのは、不思議なものだ。
人は利益よりも損失のほうを強く感じる。 1万円儲かった喜びより、1万円失った苦しみのほうがずっと大きい。したがって、1万円の利益確定は嬉しくてすぐにボタンを押せるのに、1万円の損切りは痛みを拒絶してどうしても引き延ばしてしまう。「また元の株価に戻ってくるだろう」と、根拠のない希望にしがみつく。レバレッジをかけた信用取引において、そのほんの少しの甘えが、すべてを吹き飛ばす致命傷になる。そのことを、オレはまだ知らなかった。
◆ストップ安
「また元の株価に戻ってくるだろう」その淡い期待は、見事に裏切られた。引き金は、突然発表された決算の悪化ニュースだった。世間で優良企業と言われている会社の株が、年初来安値を更新している。オレは「今が底値だ、買い時だ」と錯覚してしまった。底からの反発を狙う『逆張り投資』がたまらなく魅力的に映ったのだ。だが、そこに底なしの落とし穴があった。株価は常に、未来を先取りして動く。年初来安値を叩き出しているということは、まだ世間に出ていないさらなる悪材料を、市場がすでに織り込みにいっている最中なのだ。
年初来安値の株。
元証券マンなら、その危険性は十分に分かっていた。だがオレは危険だと知りつつも、その最悪の罠にまんまとハマってしまった。信用取引で大金を投じた銘柄が、あろうことか『ストップ安』を記録した。ストップ安になると、損切りのために売りボタンを押したところで、買い手が一人もいない。圧倒的な売り注文の山に対して、需給が完全に崩壊しているため、物理的に売ることができなくなるのだ。売りがさらなる恐怖を呼び、翌日もその翌日も連続でストップ安になることさえある。幸い、数日間にわたる連続ストップ安という最悪の事態だけは免れた。
だが一撃だった。
致命的な大損を被ったオレは、証券会社に預けていた保証金のすべてを失った。
――ゲームオーバー。
モニターに表示された残高を見つめたまま、しばらく動けなかった。
残ったのは、冷酷な現実だけだった。
いよいよ、本当に働かなくてはならなくなったのだ。
◆日銭
お金がないのはもちろんつらいが、支払いの期日が迫ってくる恐怖は、それ以上につらかった。毎月、どうしても回避できない支出は容赦なくやってくる。それを支払う余力など、今のオレには微塵もなかった。仕事を選んでいる余裕なんて、あるはずがない。とにかく今すぐ、確実に現金が手に入る仕事を探さねばならない。そうしてオレは、日雇いの仕事を始めた。だが、単発の収入だけでは到底足りず、夜は大手の宅配会社で仕分けのバイトを掛け持ちした。さらに、土木の「一人親方」をしている昔馴染みの友人が、仕事と日払いを融通してくれることになった。
――こうして、地獄のトリプルワークが始まった。これまでスーツを着て営業しかしてこなかったオレにとって、この3つの仕事はすべて未知の肉体労働だった。実際に飛び込んでみたその世界は、過酷という言葉すら生ぬるいものだった。「友人だから」という甘えは、最初の一日で消し飛んだ。土木の現場はあまりにもきつかった。自営業である親方の収入は、現場をいくつこなすかで決まる完全な成果主義だ。当然、スピード重視。ゆっくり作業することなど許されない。かといって、品質に問題があれば、元請けからやり直しを命じられる。未経験だろうが友人だろうが、現場に入れば関係ない。親方の口から、容赦ない罵声が飛ぶ。
「いつまでやっとるんじゃッ!!」
工具など一度も握ったことのないオレは、何をやるにも人一倍時間がかかった。来る日も来る日も、厳しい叱責が飛ぶ現場で、オレは情けなさと悔しさで泣きながら泥にまみれた。そのうえ、この仕事は夏は恐ろしく暑く、冬は凍えるほど寒い。しかも、正社員ではなく下請けという形の雇用だったため、どれほど危険な作業であっても正社員のような手厚い補償はなかった。
『自分の身は自分で守れ』
――それが、現場の暗黙のルールだった。
日雇いの現場でも、実に様々な仕事を経験した。その中で最も深く脳裏に焼き付いているのが、廃棄処分になったペットボトルジュースの解体作業だ。
段ボールに詰められた、無数の500ミリリットルのペットボトル。まず、段ボールの上半分をナイフで切り取る。次に、中のペットボトルの蓋をひたすら全て素手で外していく。一箱あたり、六十本ほど入っていただろうか。蓋を全て外し終えたら、残っている段ボールの下半分を左右から両手でしっかり挟み込み、網付きの側溝の上にひっくり返して、中身のジュースを全て流し落とす。これを、朝から夕方まで、ただただ延々とやり続けるのだ。「このジュースの原価って、一体いくらなんだろうな……」そんな素朴な疑問が頭をよぎると同時に、中身のジュースと一緒に、自分の気力まで少しずつ流れ落ちていくような気がした。
そして夜が来れば、今度は宅配の仕分けが待っている。法人向けの大きな荷物は重量があり、持ち上げるたびに腰へ凄まじい負荷がかかった。そしてここもまた、気温の暴力をまともに受ける。冬の深夜倉庫の底冷えは、尋常なものではなかった。
昼は土木。
夜は仕分け。
空いた日は日雇い。
気がつけば、生きるためだけに働く毎日になっていた。
◆蒼
そんな地獄のトリプルワークをこなすオレにとって、月に1、2回だけ会える蒼との時間だけが、唯一の救いだった。蒼はいつも、オレに会うのを楽しみにしてくれていた。蒼が暮らす都会では、どこへ行くにもお金がかかる。それに、親子水入らずで気兼ねなく過ごせる場所は、そう多くなかった。だからオレは、実家から車を1時間半走らせて蒼を迎えに行き、自分の実家で一緒に過ごすことにしていた。母親の家では禁止されているテレビゲームができることも、蒼の楽しみの一つだった。大概の日は、蒼は一泊していった。都会では味わえない体験をさせたくて、山や川へもたくさん連れて行った。慣れないオレの実家で、夜中に一人でトイレに行くのは怖かったらしい。
「パパ、いっしょにきて」そう言われるたび、オレは愛おしい我が子を抱っこして、暗い廊下の先にあるトイレまで連れて行った。本当に、目に入れても痛くないほど可愛い娘だった。会える時の喜びが大きければ大きいほど、別れの時間の寂しさは、その何倍も大きくオレにのしかかった。
ある日の夕方。
妻の実家についても蒼は車から降りようとしなかった。「蒼、どうしたの?」覗き込むと、蒼は小さな頭を下に向けて、消え入りそうな声で言った。
「……パパと、いっしょに寝たい」
胸をぐしゃりと握り潰されたような衝撃だった。涙が溢れそうになるのを必死にこらえながら、オレは優しく蒼を諭した。
「大丈夫。きっとまた、一緒に暮らせる日が来るよ」
そんな当てなんて、今のオレには全く無いのに。嘘をつく自分が、本当に、本当に辛かった。自分の親には、何不自由なく不満ひとつない環境で育ててもらった。それなのに、オレは自分の娘に、こんなにも寂しく、つらい思いばかりをさせている。オレはなんて無力な父親なんだろう。心の底から、自分が情けなくて仕方がなかった。
――だが。
この時のオレはまだ知らなかった。
オレたち親子を、さらに引き裂く出来事が待っていることを。
◆ある夏の日
蒼は、夏休みを迎えていた。瑠奈の許可をもらい、今回は蒼と実家で3泊4日の時間を共にできることが決まった。オレは嬉しさのあまり、まるで誕生日やクリスマスを待つ子どものように、その日が来るのを心待ちにしていた。そしてついに、当日がやってきた。深夜の仕分け作業を終えたオレは、一睡もせぬまま、蒼の住む都会へと車を走らせた。
肉体はボロボロに疲れてはいたが、1分1秒でも早く蒼の顔が見たい。ただその一心で、アクセルを踏み続けた。集合場所で、蒼は満面の笑みを浮かべてオレを待ってくれていた。都会を離れ、オレの実家へと向かう車内。蒼が一生懸命に話してくれる学校生活のこと、友達のこと。その愛らしい声に耳を傾ける時間が、オレにとっては何よりの至福だった。
――そんな、温かい道中でのことだった。
夜勤明けの激しい疲労の波が、不意にオレを襲った。
視界が、ぐらりと揺れる。「……ウトウトしてきたな」
――いや、大丈夫だ。
実家までは、あと半分。あと1時間もかからない。
早く実家に着いて、一緒にゲームをして、川へ行って、夜は何を食べようか。
オレの頭の中は、そんなことでいっぱいだった。
◆事故
左から迫る車。 ハンドルを握る運転手の顔。
――あの表情だけは、今でも夢に出てくる。
ふっと一瞬、意識が飛んだ。気がついた時には、オレの車は赤信号の交差点に突っ込んでいた。
次の瞬間だった。
左から交差点に進入してきた車は、あろうことか、蒼の座る助手席側へと容赦なく追突した。激しい衝撃と、金属がひしゃげる凄まじい音。
蒼――。
正直、その前後の記憶はあまり残っていない。
蒼にケガはなかった。
だが、その小さな体は恐怖で硬くこわばっていた。幸いにも、相手方の運転手にも大きなケガはなかった。それだけが、唯一の救いだった。警察の事情聴取などを終え、蒼が搬送された病院へと必死に駆けつけると、そこには見下すような目でオレを睨みつける瑠奈が立っていた。当然だ。愛する我が子を、自分の過失で死の危険にさらした男が目の前にいるのだ。責められてしかるべきだった。楽しみにしていた3泊4日の夏休みは、その瞬間にすべて中止となった。
今までの人生で、何よりも楽しみにしていた日だった。
それが終わった。
途方に暮れ、魂が抜けたような状態で実家に帰り着いた。
玄関には父親が立っていた。
鬼のような形相だった。
◆勘当
失業し、実家に転がり込んでからというもの、父親はずっと黙っていた。
「――今すぐ、この家から出ていけ!」
その言葉は、ただの脅しでも、一時的な感情の高ぶりでもなかった。愛する孫を危険にさらしたオレを、父親は許せなかったのだろう。
父親の怒声を前に、反論できる理由など、オレには何一つとして残されていなかった。
トリプルワークはすべて失った。
この町で生きていくためには、車が必須だった。
事故によって車を失ったオレは、通勤すらできないのだから。
住む場所もない。
移動する足もない。
もちろん、まとまったお金もない。
――貯金残高、846円。
コンビニのATMの前に立ち尽くした。
――これでは現金を下ろすこともできない。
◆新天地
ガタゴトと揺れる電車の窓から、どこまでも立ち並ぶ住宅街を眺めていた。世の中には、数え切れないほどの家がある。それなのに、オレには帰る家も、家族が待つ家も、どこにもない。どうしようもない無力感と、情けなさ。そして、胸が押しつぶされそうなほどの不安だけが、心の中を支配していた。
蒼や瑠奈のこれから。
そして自分の将来への不安。
さらに、これから向かう見知らぬ土地への恐れもあった。
実家を追い出されたオレは、文字通り藁をも掴む思いで必死に求人を探した。そこで見つけたのが、期間従業員――いわゆる『期間工』の募集だった。
期間従業員の存在は、昔から知ってはいた。だが、全く経験したことのない工場勤務であることに加え、寮に住み込みで働くため、勤務地によっては蒼とさらに距離が離れ、会えなくなってしまうリスクがある。だからこそ、今までは敬遠していたのだ。だが、期間工の寮費は基本的には会社負担だ。実質無料で、すぐに「住む場所」を確保できる。今のオレに、選り好みしている余裕など1ミリもなかった。運良く、募集のあった大手電機メーカーの求人に合格し、オレは今、新たな勤務地へと向かう列車の中にいる。
その会社は、給料が高く、ニュースでもよく名前を見る大企業だった。
しかし、品質へのこだわりが尋常ではなく、仕事の負荷が極めて高いことでも有名な会社だった。
「業務のきつさに耐えられず、契約満了を待たずに辞めていく人が大勢いる」
そんなネットの書き込みを、オレは何度も目にしていた。
初めての工場勤務。
初めての寮生活。
不安の種は尽きない。
それでも、オレがこの会社に決めた最大の理由があった。
『正社員登用試験』
ここで必死に、真面目に働き続ければ、いつか大企業の社員になれるかもしれない。
もし、この会社の正社員になれたなら。
蒼に胸を張れる父親になれるかもしれない――。
押し寄せる巨大な不安と、胸の奥に灯った小さな期待。それらをボロボロの身体に抱え込みながら、オレは新たな地へと向かっていった。
◆就職氷河期世代
食堂のテレビでは、就職氷河期世代支援のニュースが流れていた。
だが、不思議と希望は湧かなかった。
若い頃は「即戦力しかいらない」と門前払いされ、
歳を取れば「もう歳だから」と切り捨てられる。
オレはいったい、いつなら必要とされたのだろう。
文句を言ったところで過去は変わらない。
どんなに理不尽でも、この時代の中で生きていくしかない。
そう自分に言い聞かせながら、オレは黙々とライン作業を続けた。
◆工場勤務
初めての工場勤務は、想像以上に厳しかった。特に昼夜の交代勤務は、生活のリズムが毎週真逆になるため、常に深刻な睡眠不足に悩まされた。細かいルールが無数にあり、それを覚えるだけでも一苦労で、品質管理へのこだわりはオレの想像を遥かに超えていた。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
なぜなら、この会社の姿勢が本物だったからだ。徹底された細かいルールはすべて、従業員の安全を守り、高い品質と生産性を維持するためのものだった。厳しい。だが納得できた。
今まで自分がブラック企業で受けてきた、あの理不尽で感情的なだけの『詰め』とは、全く次元が違っていたのだ。そのうえ、時代や技術の変化に対応するため、常に現状を疑い、変革していこうという文化と仕組みが整っている。
この会社が強い理由が、オレにもよく分かった。
――もし。
若い頃にブラック企業ではなく、
こんな会社に入れていたら。
オレの人生は違っていたのだろうか。
瑠奈や蒼と、今も笑って暮らせていたのだろうか。
考えても仕方のないタラレバを想像しては、一人で感傷に浸った。充実した顔で働いているプロパーの正社員たちを、ただ指をくわえて羨むことしかできない。
彼らを見ていると、自分だけが別の世界の人間のように思えた。
◆社員登用試験
期間従業員の契約は半年ごとに更新され、最長でも2年半しか働けない。
正社員登用試験を受けられるのは、1年以上勤務した者だけだ。
チャンスは、実質2回しかなかった。
合否は、勤務態度や仕事ぶりだけで決まるわけではない。人員計画や景気など、様々な要因に左右される。
そして迎えた1回目の試験。
オレの元に届いたのは、
『不合格』
の通知だった。
自分が人より優秀だなんて、最初から思っていない。だけど、オレは無遅刻無欠勤を貫き、真面目に仕事に取り組んできたはずだった。「瑠奈と蒼と、また一緒に暮らせるかもしれない」胸の奥で、必死に守り続けていた最後の淡い期待が、音を立てて崩れ落ちた。
あと1年半。
オレはまた、この場所を追い出されるのだろう か。
どこまで歩いても消えない不安。
それに抗う気力さえ、もう残っていなかった。
◆差別と逃れられない格差
ある冬の、底冷えがする日の朝。オレは駅に向かって歩いていた。寮から駅までは片道6キロ。バスは出ている。だが、そのバス代の200円を節約するために、オレは凍える手足を動かして歩いていた。先の見えない恐怖と、蒼の存在。それだけが、オレを極限の節約へと駆り立てていた。今日は、蒼に会える日だ。どれほど遠い道のりであっても、蒼の笑顔を思い浮かべれば、その距離すら愛おしく思えた。電車に揺られて三十分。蒼の住む街が近づいてくる車内で、今日は蒼と何をしようかとぼんやり考えていた。
その時だった。
ふいに、耳に飛び込んできた会話があった。
「なぁ、あの期間工やばくね? マジで仕事遅いし、見ててイラつくわぁ」「あー、わかるわ。何で採用したんだろうな」――その言葉を聞いた瞬間、どうしようもない悲しみが込み上げてきた。
ネットでは、『社会の底辺』『誰でもできる仕事』といった、遠慮のない言葉が無数に並んでいる。見下される側の立場になることが、これほどまでに生きる気力を削ぎ、悲しいものだとは、自分がこの立場になるまで思いもしなかった。もちろん、期間を区切って気楽に働きたい人もいるだろう。だが、安定した仕事に就きたくてもそれが叶わず、仕方なくこの立場にいるのは、オレだけではないはずだ。
帰り道も、当然、駅からは歩きだった。
街灯の少ない凍える坂道。
遠くに見える家々の灯り。
夕食の支度をしているのだろうか。
テレビを見ながら笑っているのだろうか。
オレには、もう帰る家がなかった。
一体いつまでこんな日々が続くのだろう。
心の中で消えかけていた最後の希望の灯火が、いよいよ吹き消されようとしていた。
◆出会い
ペアを組んで作業していた期間従業員が、ある日突然、会社に来なくなった。以前から休みがちではあったが、契約満了の時期を迎えていないにもかかわらず、突然の職場放棄だった。現場では、こうした突然の離職は決して珍しくなかった。業界用語で『飛ぶ』と言われている現象だ。ひどいケースになると、文字通り行方不明の失踪状態となり、会社側が警察に捜索願を出すことさえあるらしい。結局、その期間従業員はそのまま本当に『飛んだ』。現場に生じた欠員。その補充のため、オレは一人の若い正社員と、急遽二週間限定で一緒にペアを組んで仕事をすることになった。
――この突発的な穴埋めが、凍りついていたオレの時計の針を、再び動かす運命の出会いになるとは、まだ知る由もなかった。
◆小木君
彼の名前は小木(おぎ)。これまで全く関わりがなく、なんとなく職場で顔を知っている程度の存在だった。ただ一つ、彼が熱心なランナーだということだけは、風の噂で聞いていた。
年齢の離れた若者と、二人きりで二週間仕事をすることになった。
何を話せばいいか分からなかったオレにとって、「そういえば、ランニングやってるんだって?」という切り出しは、沈黙を埋めるための、何気ない一言だった。ほんの社交辞令のつもりだった。
だが、その問いかけに対して小木君は、オレの目を真っ直ぐ見て、思いもよらないことを口にした。
「ランニングに興味ありませんか? 良かったら一緒に走りませんか?」
予想もしないほど、まっすぐな誘いだった。
当時のオレは四十一歳。
運動習慣なし。
愛煙歴二十年。
そんなおっさんが「はい」と答える確率は、普通なら限りなくゼロに近い。
だが、どうせ二週間は一緒に仕事をする。
共通の話題があれば、仕事もやりやすくなるかもしれない。
その程度の軽い気持ちだった。
だからオレは、
「じゃあ、少しだけなら」
と、まさかの返事をした。
◆五和池でのランニング
夏の、うだるように暑い仕事終わりの夕方。普段のオレなら、エアコンの効いた涼しい部屋に速攻で閉じこもり、仕事終わりの至福の一服を楽しんでいるはずの時間だった。なのに今、セミがギャンギャンと狂ったように鳴く林に囲まれた『五和池』の畔に、二人の男が並んで立っていた。どこのメーカーかも分からない安物のスマートウォッチを身に着けた、ボロボロのおっさん。
片や、アシックスの最新シューズを履いた爽やかな青年。
並んでいること自体があり得ない凸凹な絵面だった。
「じゃあ、ゆっくり2キロくらい走ってみますか」小木君の声かけを合図に、およそ似つかわしくない二人は、ゆっくりと走り出した。――ピー。しばらくして、小木君のスマートウォッチが電子音を響かせた。1キロごとに距離とラップタイムを知らせてくれる機能らしい。「1キロ、5分20秒です」小木君が横から教えてくれたが、そのペースが速いのか遅いのか、オレには全く分からなかった。ただ、肋骨の裏で暴れ続ける心臓だけが、この日がとんでもない非日常であることを教えていた。
なんとか、2キロを走り終えた。「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……ッ!」滝のような汗を流し、言葉を交わす余裕すらなく膝に手をつくオレに対し、小木君は息一つ乱していない。「2キロ走れましたね! すごいですよ!」向日葵のようなさわやかな笑顔で、彼はオレを褒めてくれた。その真っ直ぐな褒め言葉と、人生のどん底に落ちて以来、本当に久しぶりに味わう「やり切った」という達成感。胸の奥が、ほんの少しだけ熱くなった。……とはいえ。この時のオレは、ぶっちゃけ「一刻も早く帰ってタバコを吸いたい」という気持ちの方が、完全に勝っていた。
そんな満身創痍のオレに対し、小木君はさらに大胆な追い打ちをかけてきた。「小池さん。最後の1キロ、全力で走ってどれくらいで走れるか、測ってみませんか?」
――え?嘘だろ、これで終わりじゃないの!?
動揺を隠せなかったが、せっかくオレのために時間を作ってくれた小木君の好意を無下にするのは悪い。オレは渋々その提案を受け入れ、破裂しそうな心臓を宥めながら、もう一度走る覚悟を決めた。「ハァ……ッ! ハァ……ッ! ハァ……ッ!!」大粒の汗を飛び散らせ、喉は焼けるように熱く、肺は破れそうだった。
「4分20秒です! すごいですよ!」
何がすごいのか、オレにはさっぱり分からなかった。相変わらず涼しげな顔の青年が、タイムを見て大興奮で褒めちぎってくれる。だけど、限界を迎えたオレの脳内は――、『頼むから早く帰らせてくれ! 冷えた部屋でタバコを吸わせろ!』悲痛な叫びをあげる肉体と一緒に、ただそれだけを必死に願い続けていた。
◆小さな達成感
それからというもの、仕事が終わった後のランニングは、自然とオレと小木君の日課と化していった。小木君はもともと、ほぼ毎日走るのを習慣にしていたらしい。「今日、これから走りますけど、小池さんも来ます?」仕事が終わると、彼はいつもそうやって無邪気に声をかけてくれた。そう言われると、なぜか『No』とは言えなかった。オレは仕事終わりの体に鞭打って、彼のジョギングに付き合うようになった。初めて一緒に走ったあの日、突如として与えられた激しい刺激には心底驚かされたものだ。けれど、こうして自分のペースでゆっくりとジョギングを重ねてみると、走るたび胸の奥に、小さな達成感が静かに残るようになっていった。
気がつけば、走ること自体がさほど苦痛ではなくなっていた。いや、それ以上に。オレは小木君という青年の、その真っ直ぐで爽やかな笑顔と、一見どこか抜けているようでいて、実は真剣に大胆なことを成し遂げてしまう圧倒的な行動力、そして度胸に、どうしようもなく惹かれていたのだと思う。彼と並んで走る道すがら、交わす言葉のすべてが楽しかった。長い間、孤軍奮闘していたオレにとって、それは本当に久しぶりに、自分の「本音」を話せる人間との出会いだった。そんな充実した日々が続く中で、小木君と一緒に仕事をするはずの二週間は、いつの間にか過ぎ去っていった。
ペアを組む期間が終わり、お互いに違う工程へと離れてしまってからも、オレたちの関係が途切れることはなかった。――その後もオレたちは、時間を見つけては五和池に集まった。夕暮れの風を浴びて一緒にジョギングをしながら、オレたちは、本当に色々なことを語り合った。
◆ランニング大会
そんなオレたちが、会社の一大行事である『ランニング大会』の話題に行き着くのは、ごく自然な流れだった。その大会の存在自体は、オレもある程度は耳にしていた。社員の健康促進のために毎年秋に開かれる行事だった。
オレが少し意外に感じたのは、小木君のことだった。
なんと彼は毎年その大会で上位十位以内に入る実力者だった。
オレは目の前の爽やかな青年を見つめ直し、これほどのランナーだったのかと静かに驚いた。小木君は、それを誇るでもなく、少し照れくさそうに話していた。
聞けば、大会の参加者は千人規模。レース後は一人ずつ順位がはっきりと発表される。その中で『上位百位以内』に入れば、それだけで社内では一目置かれる存在になれるらしい。
職場で特に存在感のある方ではないオレにとって、それは現実的な目標に思えた。
もしこの大会で結果を出せば、まだ人生は変わるかもしれない。
そう思った瞬間、冷え切っていた胸の奥で、何かが静かに戻ってくるのを感じた。
――なんとか100位以内には入りたい。
オレはこの大会への出場を決めた。
◆ランニング理論
小木君が教えてくれた具体的な数字は、想像以上に過酷なものだった。大会の3キロという短い距離で上位百位以内に食い込むには、最低でも『1キロ4分』のペースを維持して走り切る必要があるらしい。実際の昨年のリザルトを確認してみると、百位のタイムは12分9秒
――つまり、1キロあたり4分3秒のペースだ。
ちなみにトップ層に目を向けると、8分45秒ほどでゴールに飛び込んでくるという。1キロ2分55秒ペース。風のようなスピードだ。小木君もまた、この次元のトップランナーの一人だった。
――それに引き換え、オレはどうだ。
初めて小木君と走ったあの夕方、たった千メートルのタイムトライアルを4分20秒で走っただけで、相当苦しかったのだ。あれを上回るスピードを維持したまま、3キロも走り続けるなんて、逆立ちしたってできる気がしない……。
あからさまに表情を曇らせたオレの心中を察したのだろう。小木君はいつもの眩しい笑顔を浮かべ、思いがけない言葉を口にした。「大丈夫ですよ、小池さん。僕だって、最初から速く走れたわけじゃありませんから」
――え?
小木君でも最初から走れたわけじゃないのか?意外すぎる事実にオレが目を丸くしていると、小木君は丁寧に、その「ランニングの仕組み」について噛み砕いて教えてくれた。
ランニングとは、根性で走るものではない。目指すターゲットのペースやタイムに、自分の肉体を段階的に『適応』させていく、極めて科学的な競技なのだという。
彼の語る主なトレーニングメニューは、主に三つだった。
ジョギング:すべての土台となる、基礎的な持久力を養う。
スピード練習:身体を速いスピードそのものに適応させる。
乳酸閾値(いきち)トレーニング:スピードを出すことで血液中に分泌される疲労物質(乳酸)を、効率よく処理する能力を高める。
これらをバランスよく鍛え上げ、組み合わせることで、初めて「速いスピードのまま長時間走り続けるスピード持久力」が身につくのだと、彼は言った。
ただひたすら根性だけで苦しさに耐えるスポーツだと思い込んでいたオレにとって、彼の口から語られるランニング理論は、魅力的で、そして圧倒的に合理的だった。さっきまでは到底達成不可能に見えていた『百位以内』という途方もない目標が、この理論の通りにトレーニングしていけば、オレのようなおっさんでも、本当に届くかもしれない――。
閉ざされていた未来の扉が、カチリと微かな音を立てて開くのを、オレは確かに感じていた。
◆トレーニング
言うは易し、行うは難しだが、小木君の語った理論と現実の間には、想像以上の距離があった。
それもそのはずだ。今の自分では届かない高い目標に、無理やり肉体を『適応』させるのだ。楽なはずがなかった。楽なトレーニングで済んでいるのだとしたら、それは目標達成には繋がっていない証拠なのだ。
土台となる持久力をつけるためのジョギングを除けば、あとのメニューは、実際にやった者にしか分からないしんどさだった。
特に、スピードを身につけるための『インターバルトレーニング』は、走るたびに心臓が口から飛び出るんじゃないかと思うほどしんどかった。肺が酸素を求めて悲鳴をあげ、時折、耳鳴りがする。
小木君の説明によると、インターバルや閾値(いきち)走のような高強度のメニューを『ポイント練習』と呼ぶらしい。そして、このポイント練習は、1週間に2回までに留めておくのが鉄則だという。すべてはケガの予防と、肉体のリカバリーのためだ。身体が強くなる『適応』のメカニズムには、激しいトレーニング刺激と同じくらい、回復のための時間が絶対に必要なのだと、彼は言った。
刺激を与えるだけでは、身体はただ壊れていってしまうのだ。オレたちは、火曜日と金曜日をそのポイント練習の日に決めた。秋の本番まで、もう残された時間はない。毎週、火曜と金曜の朝が来るたびに、オレは憂鬱な気分に包まれた。今日もポイント練習か――。
それでもオレは、トレーニングを続けた、1人では続けられなかったと思うが、いつも小木君が応援してくれた、そのお陰で毎週2回の過酷なポイント練習に耐えることができた。
◆3000mタイムトライアル
大会1週間前、小木君が3000mのタイムトライアルを提案してきた。トレーニングを積んで走力が確実に上がっている実感はあったが、自分が3000mをどれくらいのタイムで走れるかは未知数だった。本番走るペースを決めるためにも、自分の走力を正確に理解しておいたほうが良いと思い、挑戦することにした。小木君がペーサーとなり、1km4分で走ってくれるとのことだ。つまり、小木君と一緒にゴールできれば、最低限の1km4分ペースの目標を達成できるというわけだ。
小木君はそれ以外に、このタイムトライアルに仕掛けを用意していた。
いつも五和池でランニングしている、小木君の友達4人が現れたのだ。顔を見て分かったが、実際に話したことはなかった。
というのも、この五和池は、オレたちの勤める工場の近くにあり、工場のトップ層のランナーたちが仕事後にいつもトレーニングしている場所なのだ。正直、ランニング初心者なオレは場違いな気がして、小木君と一緒でないと居心地の良くない場所であった。だから彼らの顔は知っているが、話をしたことはなかったのである。小木君の説明では、彼らはオレが簡単に諦めないように、オレの後ろを走ってくれるらしい。つまり、ペーサーの小木君とその友達4人に挟まれて走るということだ。
――大丈夫かな?
と心配になったが、小木君がこのようなセッティングをしてくれるということは、できる可能性があるってことだ!と自分を奮い立たせ、タイムトライアルに挑戦することになった。
◆大の字
「よーい、スタート!」ついに3000メートルタイムトライアルが始まった。いつものポイント練習よりピリッとした雰囲気に緊張したせいか、呼吸が浅くなっている気がする。
スタートから600メートルで既に余裕があまりなくなり、苦しくなってきていた。前を走る小木君は、とても優雅に1キロ4分ペースを刻んでいる。「この背中から離れたらだめだ!」少しでも距離が離れたように感じると、すごく不安になった。不安になると、より大きく聞こえてくるのが、後ろからついてくる4人の足音だ。この足音が、オレに休むことを許してくれない。慣れない1キロ4分ペースに加え、不安と焦りがオレをさらに苦しめている気がした。
――ピー。
小木君のスマートウォッチが、1キロ経過を教えてくれた。「3分58秒!」小木君が通過タイムを教えてくれる。
だが、オレは既にかなり苦しい。まだ2キロもあるのか……。残り2キロが、途方もなく長い道のりに思えた。呼吸は既に、かなり荒くなっている。もう何も考えられない。考える余裕なんてない。そんな中で、オレは小木君と4人の足音に挟まれて必死に走った。
――ピー。
2キロの通過タイムは、3分59秒。
残り1000メートル。
それが絶望的に長く感じた。今のオレの頭の中は、
「ゴールしたら、大の字で地べたによこになって思い切り息を吸いたい」
それだけだった。その幸せなイメージを、頭の中でひたすら思い描いた。
ゴールしたらすぐに大の字で寝る。ゴールしたらすぐに大の字で寝る。……。
そのリピートの中で、小木君から「あと500メートルですよ!」と声がかかる。
「いや、もう無理……」
その言葉が口からこぼれ落ちそうになった、その時だった。今まで無言でついてきた後ろの4人の足音が、一斉に声をあげた。
「あと少しですよ、がんばりましょう!」「ファイト!」
その応援の声が、こぼれ落ちそうになったオレの弱音をぐっと飲み込ませてくれた。あと少し頑張ろう!と必死に脚を動かした。だけど、小木君の背中が少しずつ遠くなっていく。そして後ろの4人も、オレを応援しながら次々とオレを追い抜かしていった。
あぁ、1キロ4分ペースを維持するのは無理だったか……。
だけど、最後まで諦めずに全力を振り絞ろう!オレは必死で、先行する5人を追いかけた。5人との距離はどんどん開いていったけれど、オレは諦めずに、全力で彼らの背中を追いかけた。そして――5人が笑顔で待つゴールへと、オレは飛び込んだ。
◆タイムよりも大切なもの
ゴールしたオレは、自分への公約通り、地べたに大の字になって寝転んだ。そして、肺に入り切らないくらいの酸素を、思い切り身体に注入した。「お疲れ様でした!」笑顔で小木君やその友達が労ってくれる。だがオレは、激しく息を吸うのが精一杯で、まだ言葉を返すことができず、彼らの労いの言葉にただ笑顔を返すのがやっとだった。ようやく呼吸が整ってきたので、「タイムは……?」と、恐る恐る小木君に聞いた。すると、彼は弾んだ声で答えた。「おめでとうございます! 11分52秒ですよ! 1キロ4分を切ってます!」
えっ!?確かに、最後は小木君たちから大きく離されたはずなのに……。
身体を起こして詳しく聞いてみると、小木君たちはラスト300メートルで猛烈なラストスパートをかけたらしい。目標ペースよりかは格段に速くなるが、最後の一番苦しい場面でギヤを上げる感覚が何より大切なのだという。ランニングの世界では、これを「切り替える」と呼ぶらしい。オレは無事にその切り替えに成功し、なんとラストの1000メートルは3分55秒で走り切ることができていたようだった。そして――それよりも嬉しいことがあった。その日を境に、オレは五和池のランナーたちと、気さくに仲良く話ができるようになったのだ。オレはタイムトライアルを全面的にサポートしてくれたみんなに心から感謝しているし、みんなはオレのこれまでの泥臭い努力を、一人の「ランナー」として認めてくれたようだった。ここでの経験と、ここで得た仲間たちが。オレのこれからの人生にとって、どれほどかけがえのない財産になっていくのか。当時のオレは、まだ知る由もなかった。
◆その後
会社のランニング大会。3キロの最終結果は、11分30秒。順位は88位。オレは、見事に目標を達成することができた。レース後には係長からも直々に労いの言葉がもらえた。それからというもの、職場では「ランナーの小池さん」として、オレの名前は一躍有名になっていった。これもすべて、小木君のおかげだ。「大会、終わりましたけど……ランニングはどうしますか?」ある日、小木君が恐る恐る聞いてきた。オレは即座に返した。「もちろん、続けるよ!」
気がつけば、オレは心の底からランニングが好きになっていた。トレーニングを終えた後の圧倒的な充実感。目標達成に向けてのメニュー策定や、勉強、達成、失敗、そして結果の反省、成長、挫折、大会の興奮、かけがえのないランニング仲間。そのすべての要素が、日々オレに新しい刺激や喜びをくれていた。そして――オレは、長年続けていたタバコを完全にやめた。もともとは、ランニング大会に向けて真剣にオレのトレーニングに付き合ってくれた小木君に対して、失礼だという思いから始めた禁煙だった。
「大会が終わるまで」
と自分の中で決めていた約束だったが、今のオレは違った。タバコなんかよりも、五和池の風の中で吸い込む酸素のほうが、遥かに美味しいと思えるようになっていた。
◆人生はバラ色じゃない、でも、、、
満を持して受験した社員登用試験は不合格となってしまった。無遅刻無欠勤、覚えは良くないが仕事も真面目にやった。自分にできることはやり切ったうえでの結果だ。社会情勢か運が悪かったのだろう。
その後の人生もつらいことやうまくいかないことが続いた。
「再婚することにした」
瑠奈が発した言葉は青天の霹靂であった。少し心配はしていたが、現実のものとなってしまった。蒼は母親のことを思って再婚に賛成したらしい。苦渋の決断だっただろう……。
「これまで通り養育費は払わせてくれ」
これがオレにできる唯一のことだった。少しでも蒼に、他人に養育される負い目を感じさせたくない思いからだった。
そして、ついに最後の契約満了の日が来た。小木君たちと別れ、別の会社に派遣として従事することとなった。
前の会社とは違い、作業手順は人によって違った。危険な作業も当たり前のように行われていた。前の会社なら考えられない光景だった。
どんなに辛いことがあった日も、どんなに悲しいことがあった日も、オレは決してトレーニングをやめなかった。ひとつひとつのトレーニングを乗り越えることが、困難を乗り越える強さにつながっている気がしたがらだ。小木君たちランニング仲間とは、アプリを通じてトレーニング内容を共有した。仲間のトレーニング履歴を見ると「自分も頑張ろう」という気持ちになれた。それはトレーニングだけでなく、生きるということに対してもだ。そして、小木君達といろいろな大会に挑戦した。
1500mトラック5分切り、
5000mトラック19分切り、
10kmマラソン40分切り、
ハーフマラソン84分切り
オレの走力は短期間でみるみる上がっていった、月間走行距離は300kmを超えていた。
そんな中、オレは1つの決意を固める。
◆挑戦
フルマラソンでサブスリーを狙う。
誰に宣言するでもなく自分の中で静かに決めた。1年後の東頭マラソンで3時間を切る!
東頭マラソンは非公認ではあるが、県内で行われる唯一のフルマラソンの大会だ。フルマラソンの参加にはまあまあお金がかかる、参加料に合わせて交通費、県外であれば宿泊費もかかる。東頭マラソンのスタート地点は今住んでいる寮から徒歩30分とお金のないオレにはうってつけの大会だ、ややローカルな大会で参加料も比較的リーズナブルである。
ただコースの特徴としてラスト5km地点に心臓破りの激坂がある、一般論としてフルマラソンは30kmの壁というものがあり30km以降が本当の地獄らしい、その一番きつい所で一番過酷なポイントが待ち受ける、間違いなくここが一番の難所だ。
小木君にも東頭マラソンでサブスリーを目指す決意を伝えると、いつものように「トレーニングサポートしますよ!」とうれしい言葉をくれた。YouTubeやネットや書籍でサブスリーに向けたトレーニングを勉強した。休日の早朝に水とバナナだけを食べ30km走、1周500メートルの公園を何十周しただろうか、散歩をしているおじいさんが1周する間に何回おじいさんを抜かしたか忘れてしまうくらいだ、週2回のポイント練習もメニューをあれこれ試しながら継続した。1年間暑い日も寒い日も風の日もトレーニングを続けた、月間走行距離は400kmを超えた。フルマラソン特有の30km走や40km走は、小木君をはじめ、あの五和池メンバーもトレーニングをサポートしてくれた。
そして大会1カ月前のクリスマス40km走を設定ペースで完走した。ギリギリかもしれないが行ける!オレも小木君たちもサブスリーの達成を確信し本番当日を迎えた。
◆42.195km
「小池さん!」聞き慣れた元気な声と爽やかな笑顔、小木君だ、応援に駆けつけてくれたのだ、五和池メンバーもいっしょだ。寒い1月の早朝、スタート地点である東頭市役所はランナーで溢れかえっていた。
「コンディションはどうですか?」ちょうどウォーミングアップを終えたオレに小木君が聞いた
「おはよう!疲労がちゃんと抜けて足が軽いよ、今日はいけそうな気しかしないよ」
仲間との雑談がオレの緊張をほどよくほぐしてくれた。「僕らは先回りして15km地点と30km地点で小池さんを応援しますね!最後はゴールで待ってますよ!」
なんと彼らは東頭市内を効率よく走り先回りして応援してくれるというのだ、効率よくと言っても相当の距離をそれなりに速いペースで走らなければ間に合わないだろう、さすがエリートランナー達、発想が違う。この人達とトレーニングしてたんだそりゃ強くなるわな、改めて環境が与える影響の大きさを実感した。
オレは月間400km走っていたがそれが凄いとは思わなかった、なぜなら五和池のエリートランナー達は毎月それ以上走っていたからだ。これが環境の力だ、この環境だったからこそランニングを初めてたかだか3年半の中年男性がサブスリーに挑戦できるのだ。
スタート時間が近づいてきた、辺りはお祭り騒ぎだ、テンションの上がるBGMを流してくれるDJ、ゲストランナーの芸能人、市長の挨拶そして急に周りが静まり返った。
10.9.8.7.6.5.4.3.2.1
パーン!
スタートの号砲が鳴った7000人のランナーが続々とスタートのゲートをくぐっていく。
「焦るな、ペースを守るんだ」
サブスリーのためには1kmを4分15秒ペースで走らなければならない、スタート時は体力に余裕がある、焦って速いペースで入ってしまうと後半失速する要因になる。
ピー
1km経過を告げるランニングウォッチの音が周りで一斉に鳴り始める。
4分12秒「悪くない入りだ」だがまだ油断してはいけない、まだ周りに人が多くペースが安定しにくいし、走りやすい場所を確保するために焦りやすくなる。気を抜くとすぐに速いペースになってしまう。
スピードを気にしながら走るうちにあっという間に5kmが過ぎた、スタート地点と比べてほどよく人が減り始めたそろそろ安定軌道に乗るな。
自然体で走っても概ねレースペースの4分15秒近くで走れるようになった。精神的にも余裕ができて周りを見る事もできた。
エイドポイントだ、地域の特産品などお菓子も並べてある、とても美味しそうに見えるのだが、タイムを狙うランナーはお菓子は手に取らない。
今日は暑いから給水はしっかり取ろう紙コップに入ったスポーツドリンクを走りながら取りうまく飲む。
はたから見ると何気なく飲んでいるように見えるがこれがなかなか難しい、事前に練習していたので難なく飲めたが、走りながら飲むので一瞬は呼吸ができなくなるで飲むのも体力を削る、苦しいのだ。
それでも水分を補給しておかないと脱水症状やミネラル流出からの足吊りにつながる恐れがある、今日は暑くなる予報だったので全てのエイドポイントで給水することを決めていた。
あっという間に10km地点を通過した、タイムは順調だレースペースよりも若干速いが許容範囲だ。
農作物が有名な東頭市の畑が視界に広がる、天候は文句のつけようのない晴天だ、風もない。すがすがしい景色の中を色鮮やかなユニフォームを着たランナーが駆け抜ける。東頭市民の応援も熱烈だ、住宅のないエリアでも沿道の応援は絶えない「ファイト」「最後まであきらめないで!」「東頭市に来てくれてありがとう」それぞれの思いのこもったプラカードを持って応援してくれるとても心温まる大会である、普段1人でトレーニングをすることの多いオレにとってこの応援はとても心地よく力をくれるものであった。
「ナイスペースですよ!」小木君だ!15km地点予告通り小木君たちは先回りして応援してくれた!今日は小木君たちの応援もある、きっと行ける!そう確信できるほど今日は足が軽かった21.1km地点、全く疲労を感じずレースペースより2分早く中間地点を通過した。走るのが楽しくてしかたなかった。
◆不安
この辺りになると明確にランナーが減ってきて集団が形成されてくる、今、自分がついている集団がサブスリーの集団だこの集団から大きく離れなければ達成はほぼ確実だろう。
一向は小高い坂を登った、坂を登った先に見えたのは真っ青な雲一つない空に負けないくらい青く穏やかな海だ。
なんて綺麗な景色なんだろう、、、
心が奪われそうになるくらいの絶景だった、サブスリーの集団は海沿いの絶景コースを軽快に通過していった。25km地点この辺りから異変が起こる。
今までのサブスリー集団が徐々に小さくなっていた、ペースについてこられなくなったランナーが静かに少しづつ集団から離れているのだ、と思った矢先、少し集団のペースが早いなと感じ始める
オレが遅いのか、集団が速いのか?ピー26km通過をランニングウォッチが告げるラップタイム4分8秒微妙に集団のスピードが上がっている、、、
大きな大会であれば大会公認のペーサーが何人もおりペースメイクしてくれるのだが、この大会に公認のペーサーはいない。
この集団についていきすぎると速いペースでバテる恐れがある。
そう考え集団を離脱することを決めた、そして単独走がはじまった。単独走になるとペースメイク、向かい風を自分で対処しなければならない、できれば単独にはなりたくなかった。
ピー
28kmラップタイム4分13秒
概ねレースペースだホッとした瞬間ずしりと体が重くなったのを感じた、あれだけ楽に走れていたのに、、、
当然だが疲労は蓄積されていた、急な身体の変化に動揺する、、、まだ14kmあるぞ、大丈夫か?そして追い打ちをかけるような事態が起こる。
ピー
29kmラップタイム4分16秒
、、、、え?目を疑った、再度確認した、間違いない、今日初めてレースペースの4分15秒をオーバーした、、動揺が大きくなる、、、まだ13kmもあるんだぞ、、、はぁはぁ、、、今まで静かだった呼吸が荒れだす、、、、羽根のように軽く感じた足が硬くなるのを感じる。エイドポイントの給水を飲むのが苦しすぎて、ついに給水をスルーしてしまった。あと5kmほどであの激坂が待ち受けるというのに、、、
◆激坂
30km地点ラップタイム4分18秒、、、動揺は確信に変わる。
まずい、崩れはじめている、、、雲一つない晴天なはずなのに、なぜか黒い雲に覆われた中を走っている感覚が続いた、、、
「小池さん、じゅうぶんいけますよ!」小木君たちだ!「2分半貯金あります、4分25秒でもサブスリーですよ!」
動揺したオレの表情を察したのか冷静なアドバイスだった。そうだ!半分の地点で2分レースペースより早く通過しており、その後も集団はレースペースよりも早く進んでいた、今3秒オーバーしたからと言ってもまだ2分30秒くらい貯金がある。
正直に言って貯金から残りのラップタイムを計算する余裕など体力的にも精神的にもなかった。小木君のこの具体的なメッセージはオレの目にもう一度光を取り戻してくれた
「ありがとう小木君」
苦しくて感謝の言葉が言えないかわりにガッツポーズで小木君に返した。
「ゴールで待ってます!」
ゴールで待ってくれている小木君達と喜びを分かち合うんだ、あの日の五和池のように!
オレを覆っていた黒い雲は消え去りまた雲一つない晴天の下をオレは走り続けた31km...33km...34km。
「どんっ!」
和太鼓の大きな音が聞こえる、視線を上げると見上げるような坂がオレを待っていた、、、
坂を登るランナーを鼓舞するために応援団が和太鼓で激励してくれる。ペースは落ちて当たり前、ペースは落ちてもリズムを崩すな、、、
自分に言い聞かせ先に激坂に突入した、その角度にオレの心拍数は急上昇した、きっと最大心拍数付近まで上がっているだろう、、、ランニングウォッチをみれば心拍数を確認できるが、その数値をみてしまったら気を失いそうで恐ろしくて見ることはできなかった、、、ハァハァ、、、、まさに激坂、、歩いているほうが速いんじゃないかと思うほどオレのペースは激落ちした、この坂どこまで続くんだ見上げても道を囲む林のせいでいまいち坂の終わりがわからない、ハァハァ、重くなった足はついに棒のように固くなった、肺が破れるんじゃないかと思うくらい呼吸が荒くなった、歩いているランナーを何人か抜かした、このペースでも走っている方がまだ速いのか、、、、意識が飛びそうで和太鼓の音も遠くなる、、、、あぁ苦しい、、、そう思った時、家を追い出されたこと、事故のこと、蒼が「パパと一緒に寝たい」と言いながら見せた暗い表情や瑠奈の再婚のこと、いろいろなことが頭をよぎった、、、そうだ、負けちゃいけない、歩みを止めるな!
棒のように硬くなった足は一歩踏みしめるごとに痛んだ。
それでもオレは人生の困難を乗り越えるように激坂を登りきった。
そして、そこからは本当の地獄だった。
足が痛くてフォームは完全に崩れた、呼吸は苦しすぎて顎が上がった、誰が見ても無様なランニングフォームだった、それでも走り続けた
ピー
41kmラップタイム5分
残り1.195km
現在のトータルタイム2時間54分45秒、、、、
◆結末
ギリギリだ、、、
意識が途切れそうな中でサブスリーをまだ意識できた。
切り替えろ!
ラストスパートだ!
無様なフォームのまま本当に最後の最後の力を振り絞った。
5分15秒でゴールできれば、サブスリー達成だ!
体が万全な状態ならジョギングペースだ、なんならキツイポイント練習の後でもこれくらいのペースでなら走れるという程度のスピードだった。
だがフルマラソンの最終局面というのはこんなにもキツイのか、全く余裕がない、もうオレにできることは歩みを止めないことと、とにかく残されたわずかなエネルギーを振り絞る事だけだった、、、
ゴールのアーチが目前に見える。
DJがゴールしたランナーをたたえるマイク音が聞こえる。
両サイドからは東頭市民の声援が聞こえる。
多くの人に支えられて
ついにゴールのアーチをくぐった、、、
それと同時に地べたに崩れ落ちた、
小木君や五和池メンバーが人混みをかき分けて駆けつけてくれた、
オレの両脇を支え落ち着けるところまで運んでくれた、
ゴールと同時に計測を止めたランニングウォッチを見た。
「3.00.05」
涙がこぼれ落ちた、
何の涙なんだろう、、、
人生で初めて原因のわからない涙を流した
サブスリーには届かなかった。
だけどオレは最後まで諦めなかった、やり切ったんだ、、、、
◆ある晴れた日に
「暑いっすね、、、」
今日は小木君、五和池メンバーと陸上競技場に来ている。地元の陸上記録会で1500mに出場するからだ、いつも通りウォーミングアップで20分ほどのジョグをする。
「小木君は今日の目標どれくらいなの?」
「今日こそは4分きりたいですね」
「相変わらずすごいなぁ、4分切りって1kmのレースペースどれくらいなの?」
「2分39秒でギリです」
「やばっ!」
みんなでジョギングしてると話も弾む、
「終わったらスイーツ食べにいきましょうよ!」
メンバーで一番食欲旺盛な伊藤さんだ
「伊藤さんは相変わらず甘いものに目がないね」
「それを言うなら田澤の方がすごいですよ」
「そーなの!?」
「新しくできたあのケーキ屋さん美味いですよ」
「田澤さんもう行ったんだ!?はやっ」
「そ~いえば小池さんって今期どんな感じで行くんですか?」
「実はね、今年はサブエガ狙ってる」
「さすがですね!小池さんならできますよ」
「だよね!おれもそう思ってる!」
みんなが笑った。
雲ひとつない青空の下、オレたちはスタートラインへ向かって歩き出した。
おわり