
桜のない空間に、屋根の三角が姿を現した
見えないはずのものが見えるとき、人はそこで初めて何かを失ったと気づくのかもしれない。
この秋、私にとってそれが「屋根」だった。
先日、家へ向かって歩いていて、
ふと、我が家の2階の上にある特徴的な屋根が見えることに気がついた。
家を建て直してから、ずっと隠れて見えなかった屋根だ。
平坦な瓦の真ん中に三角の小さい屋根があって、その白い枠がリズムを作り、ほんの少しおとぎ話を思わせていたのに、その姿がほとんど見られなかったことを、少し残念に思っていた。
それが見えるようになったのが、秋の変化だった。
我が家の前には学校があって、桜の木が何本もある。
そのうち、2本の桜の木が2月に切り落とされた。
寿命だった。
居間の正面にあって、長年季節を楽しませてくれていた。
秋になって葉が落ちた空間と、2月の伐採でぽっかり開いた空間。
その二つが合わさって、屋根が姿を現したのだ。
週末を迎え、この季節なら大量の落ち葉を掃かねばならないのに、今年はほとんどないことに、今更ながら驚いた。
門扉の前は風の吹きだまりで、あちこちから葉が集まるのだと思っていたが、 実際には、目の前の桜の2本の落ち葉が、大方を占めていたらしい。
あの桜の人生が終わったのは今年の2月だった。
けれど、喪失というものは一度きりではなく、
季節ごとに、思いがけない形で波のように押し寄せてくる。
夏には、野放図に伸びた他の桜の枝の剪定をみて思い出し、
秋になれば、そこに積もるはずだった落ち葉がほとんどないことに驚き、
また春になれば、咲くはずだった花びらの不在を思うのだろう。
今年は介護もあって本当に大変だった。
だから、落ち葉が少ないのは正直とてもありがたい。
けれど、人間とは勝手なもので、
手がかからなくなると、今度は寂しさの方が静かにやってくる。
介護というのは、喪失の予感といつも隣り合わせだ。
胸のどこかで、なんとも表現できない、複雑な気持ちがうずいた。
あの桜は、本当に『手のかかる隣人』のようだった。しかも美人の。
どっさりと葉を茂らせ、また散らし、ひたすら掃き、
新しい葉をつけ、花のつぼみをつけ、
大量の花を咲かせ、花を掃く。
そして大量の萼(がく)を落としていく——
そんな桜のサイクルが、ある日ふいに途絶えてしまった。
桜がいなくなったことで見えるようになった屋根は、
私の知らなかった「家の素顔」を静かにさらしていた。
わざわざ作った意匠が出てきて、少しうれしい反面、何か物足りない。
落ち葉がなくなって楽になったのに、胸の奥がひんやりする。
これはきっと、喪失が私の中でゆっくり形を変えているのだ。
私は、モノには魂があるということをわりと信じているほうだ。
そのため、モノの前では「買い換え」などの、言葉を出さないようにしている。
そして、人でも物でも、お別れしたあと、そこに何かがが漂い続けるような気がする。
残っている何かは、
人や生き物たちが、失われた「その姿」を慕って生みだした「面影」かもしれない。
そして、人がいなくなるということもまた同じだ。
失われたものを、少しずつ、ゆっくりと思い出しながら、
その人の魂を、みんなでゆっくり鍛えていく。
喪失は、時間の中にただ漂うのではなく、
関わった人たちの記憶の中で、静かに育っていくものなのだ。
桜がいなくなって見えるようになった屋根は、
ただの屋根ではない。
そこには、私が見落としてきた季節の痕跡が積み重なっている。
喪失は悲しいけれど、
その空白を通して、ようやく見える景色もあるのだと思う。
そして、誰にでもこうした「いなくなって初めて見えるもの」があるのかもしれない。
残された空間に宿る面影を、私たちは少しずつ抱きしめながら生きていく。
昔、母の知り合いで霊感があるという人が、
建て替える前の我が家に来たとき、
「ここでピアノの音がする」と言っていたという。
姉はずっとピアノを弾いていた。
(私はほんの少しバイオリンを弾いていたが、練習がいやで、サボりまくっていたので、聞こえなかったようだ。)
そんなふうに、桜もいなくなってしまった今でも、
あの木に宿っていた思い出とともに、
生い茂った夏の濃い緑の葉、春の花の薄いピンク色、新緑の黄緑、紅葉の茶色と赤——
そういったものが、見えない空間に静かに漂っているのかもしれない。
「この後にやってくる喪失」では、思い浮かぶ色はどんなものなのだろうか。