
白い糸は鳥になる(ワークはライクになる)
今朝も母の痰を吸引する。介護や仕事という「やるべきこと(Work)」の日常は、noteに言葉を紡ぐことで、いつの間にか「やりたいこと(Like)」へ変わっていく。私のワーク・ライク・バランス。思わぬ着地に驚く喜び。
今朝も母の痰の吸引をしている。 肺炎の時の黄色い痰とは違う、白い痰だ。
やはり飲み込む力に問題があるようで、痰が大量にたまる。
管の先が「水源」に達するとズゴゴとかなり大きな音がする。飲み物の最後をストローで吸う音だ。鼻や喉の奥から、また口から吸っていく。背後からの吸引機のモーター音にジュブブと粘り気のある音が手元に響く。
チューブのつまりをとおすために、水を吸わせる。
カップの透明な水の中で、白い筋がゆらりと揺れた。
一旦二階へ上がる。まだ仕事を始めるまでには、少し時間がある。 昨日見た夢の余韻を追いかけながら、パソコンを開き、エッセイを少し書き進める。
そう、私は何かあると、書かないではいられないのだ。
夢の中では、なぜか、幼児と話をしている。
幼児は、自分がちゃんとズボンを履けることを誇っている。そして前と後ろを判別する方法について、ここに紐があるとか、大きな赤や青の布地がある方が前とかというのを得意げに話している。「それはすごいね」と聞いている。あとは覚えていない。
母のパジャマのズボンの前後を毎日のように確かめている。そのことが、幼児の「前と後ろが分かる」という誇らしさになって夢に現れたのかもしれない。
ちゃんと前と後ろを見分けて、得意になっているのは私なのか、母なのか。
母との出来事だけではない。
水差しを洗う時に黒カビを見ては、その黒カビの気持ちを想像してみる。仕事で問題が起きればその仕組みを考え、効率化のためにちょっとしたプログラムを書く。そして、そのプロセスをどう思考したかを、やっぱりnoteに書き残したくなる。
もう、このくらいの年齢になってくると、若い頃のような分かりやすい「好きなこと」はあまりなくなってくる。 たまにおいしいものを食べるのは楽しいし、いつかまた旅に出られるようになったら、静かなバーに行きたい。ぼんやりと、きれいな景色を眺めていたいとも思う。
でも、私の毎日はそれだけではない。 自分の「やるべきこと(Work)」が、いつの間にか「やりたいこと(Like)」へと変わっていく。そんな日々が、この一年ですっかり定着した。
昔は、美術館へ行くだけにとどまらず、さまざまなアートのコミュニティを覗いては「何を見たいか」「新しいものはないか」と探していた。 でも、それも今では自分の中に入ってしまった。
積極的に新しいものを追いかけなくても、日常の隙間からなんとなく飛び込んでくるものだけで、今の私には十分なのだ。
そして、今。 一階から呼び出しベルが鳴る。
やらなければいけないことが、また一つ増える。 イーと声に出すし、心にざわざわと泡が立つ瞬間もある。
でも、その泡は、最終的には言葉になる。書く原動力になる。
あるいは、生成AIに「黙って聞いて」としゃべることになる。そうして吐き出された感情は、細い糸のようになって、パソコンやスマホの画面の中へ収まっていく。
こういう時間を持てるようになったのは、たまたまなのかもしれない。 それでも、書くことにはいつも不思議な境界線がある。
書き始めた時と、書き終わる時。いつの間にか、全く違う話につながっているのだ。 自分でも、一つのエッセイの飛距離というか、飛び立った場所とは全く違う、予想もしなかった場所へ降り立つことに驚く。
その場所では、自分を正しい人間だとか、いい人だとか、そういう風に装う必要は一切ない。
ただ淡々と、見たことを書き、思い出したことを書き、思ったことを書くだけ。
私にとって、Work(仕事や義務)とLike(好きなこと)は、一日のタイムスケジュールの中で綺麗に分かれているものではない。 それは、一つのエッセイの中で少しずつ変化していく。
書き始めた時には「Work」だったものが、言葉を紡ぎ、書き終わる頃には、いつの間にか「Like」の場所にたどり着いている。
さっきまで私を縛っていた、あの細い白い糸は、
小さな白い鳥になって、文字の連なりの上を、羽ばたきもせず、行き来しているのかもしれない。